千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

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三千気圧の世界

 数日後。

 俺は、二千気圧を一切感じなくなっていた。

 

 正確に言えば、圧力はある。

 深海二万メートル相当の重さは、確かに全身にかかっている。

 

 だが、それを苦痛として感じない。

 押し潰される感覚もない。

 骨が軋む音もしない。

 

 グルメスモックが嫌な音を立てることもない。

 水圧が体に触れた瞬間、細胞の間をすり抜けるように流れていく。

 

 受け止めるのではなく、受け流す。

 跳ね返すのではなく、通す。

 それが、ようやく分かってきた。

 

 最初は座禅を組むだけで精一杯だった。

 次に、ゆっくり歩けるようになった。

 その次は、方向転換。

 

 腕を振る。

 足を踏み込む。

 番重を出す。

 小さく跳ねる。

 

 そして今は、自由に動ける。

 

 一気圧の場所と変わらない動きができる。

 もちろん、油断はしない。

 だが、二千気圧はもう俺の敵ではなかった。

 

「……よし」

 

 俺は二千気圧の泡の中で、軽く拳を握った。

 グルメスモックが自然に体に馴染んでいる。

 水圧に合わせて形を変え、細胞の動きと一体になっている。

 

 以前とは違う。

 

 あの時、二千気圧に設定した瞬間、グルメスモックは錆びたネジのような音を立てて圧壊した。

 俺は何もできずに潰されかけ、両腕を骨折した。

 

 あれは、力で耐えようとしていたからだ。

 硬くすればいい。

 分厚くすればいい。

 頑丈にすればいい。

 

 そう思っていた。

 

 でも、それだけでは駄目だった。

 グルメ細胞をホースで例えるなら、あの頃の俺のホースは中がデコボコだった。

 水を少し流すなら問題ない。

 だが、一気に流そうとすると、内側で引っかかり、詰まり、あふれてしまう。

 食欲エネルギーも同じだった。

 

 水圧を受けた瞬間、細胞のどこかで流れが乱れ、グルメスモックに余計な負荷がかかった。

 だから、壊れた。

 でも今は違う。

 細胞の内側が整っている。

 

 水圧が来ても、食欲エネルギーが詰まらない。

 押された力を、そのまま別の場所へ流せる。

 

 受けた圧力を、体の中で巡らせることができる。

 完全に、細胞がしっかりと受け流せるようになっている。

 

「ここまで来れば、もはやどれだけ大きな気圧でも関係ない。全部受け流せるだろう」

 

 俺はそう呟いた。

 すぐに首を振る。

 

「……いや、それは言い過ぎか」

 

 調子に乗るな。

 この前、それで死にかけた。

 

 同じ失敗はしない。

 でも、行けるという確信はある。

 

 今の俺は、あの頃とは違う。

 フワ爺にも言われた。

 

「たった数日で見違えたな」

 

 店に戻った時、フワ爺は俺を見てそう言った。

 のんびりした声だったが、少しだけ驚きが混じっていた。

 俺は笑って答えた。

 

「フワ爺の作ってくれた飯のおかげだ!」

 

 実際、その通りだ。

 深海の魚たちは、今までに食ったことがない旨さのものばかりだった。

 

 フグ鯨。

 

 アナザの出し汁。

 

 海鮮米。

 

 百気圧の泡で取った魚。

 二千気圧の泡で拾った鉱物に近い食材。

 黒い海に生きる生物たち。

 

 どれも、地上では味わえないものだった。

 深海の食材は、味が静かだ。

 

 だが、深い。

 

 長い時間をかけて圧力に耐え、暗闇の中で生きてきた味がする。

 その食事を重ねるたびに、俺の細胞は変わっていった。

 水圧を敵ではなく、環境として受け入れるようになった。

 圧力の中で生きる食材を食べたからこそ、圧力の中で動ける体になってきたのだと思う。

 

 アカシアが初めて海底に行った時の言葉を思い出す。

 

 私は今まで死んでいたのかもしれない。

 

 その意味も、なんだか分かる気がする。

 うまいものを食うたびに、世界が開く。

 知らなかった味を知るたびに、自分が今までどれほど小さな世界で生きていたのか分かる。

 

 アナザを食べた後、世界の味が増えた。

 深海の食材を食べた後、水圧の味が分かった。

 食べることは、生きることだ。

 そして、この世界では、食べることがそのまま強くなることでもある。

 

「さて」

 

 俺は二千気圧の泡の出口に立った。

 その先は、黒い海。

 ブラックトライアングルの本当の深海。

 

 水深三万メートル。

 三千気圧の世界。

 

 泡の中とは違う。

 管理された空間ではない。

 

 外だ。

 

 生身で出る。

 もちろん、グルメスモックは纏っている。

 だが、スリープシェルシェルターもない。

 

 壁もない。

 

 緊急停止装置もない。

 何かあれば、俺自身でどうにかするしかない。

 

 以前なら絶対に無理だった。

 だが、今は違う。

 行けるという確信がある。

 俺はゆっくり腕を伸ばした。

 

 泡の膜に触れる。

 ぐに、と押し返される。

 そのまま、腕だけを外に出した。

 

「……」

 

 三千気圧。

 瞬間、腕に重さが乗る。

 だが、潰れない。

 痛みもない。

 圧力が腕に触れ、すぐに体の内側へ流れていく。

 

 肩。

 胸。

 背中。

 足。

 

 全身へ散る。

 いける。

 

「大丈夫そうだ」

 

 俺は息を整えた。

 焦らない。

 腕を戻し、もう一度確認する。

 

 問題ない。

 

 次に、片足。

 泡の外へ踏み出す。

 黒い海が、足を包む。

 

 重い。

 

 だが、怖くない。

 そして俺は、全身を三千気圧の世界へ入れた。

 

「……っ」

 

 最初は、心地よい圧迫感があった。

 温泉に肩まで浸かった時のような、全身を包まれる感覚。

 

 ただし、重さは桁違いだ。

 だが、それも徐々に収束していく。

 

 水圧が、俺の体に慣れていく。

 いや、俺の体が水圧に慣れていく。

 

 グルメスモックが形を変える。

 細胞が圧力の通り道を作る。

 しばらくすると、何事もないようになった。

 

「……三千気圧」

 

 俺は黒い海の中で呟いた。

 声はグルメスモックの内側で小さく響く。

 

 やった。

 

 俺は生身で、深海三万メートルの世界に立っている。

 だが、喜ぶのはまだ早い。

 

 今は立てただけだ。

 まずは歩くだけ。

 

 急な動きをすると駄目になるかもしれない。

 ここで走ったり、跳んだり、番重を連発したりするのは危険だ。

 

 同じ失敗はしない。

 

 俺は一歩踏み出した。

 黒い海底の泥が、足元でゆっくり沈む。

 

 周囲は暗い。

 

 だが、アナザを食べたからか、ただの暗闇ではない。

 味の筋が見える。

 

 旨潮の流れ。

 泥の重み。

 遠くの鉱物の冷たい気配。

 

 その中に、ひときわ重い匂いがあった。

 沈んだ星の欠片のような、濃い重さ。

 

 深海オスミウム隕石。

 

 大体の方向は、フワ爺に聞いて分かっている。

 この付近にある、水深三万メートルの裂け目。

 

 特殊な磁場が発生し、機械もキャンピングモンスターも異常状態にする場所。

 だから、生身で行くしかない。

 

「まずは慣れよう」

 

 俺はゆっくりとその場で座る。

 

 焦らず、確かめながら。

 黒い海の底を、深海オスミウム隕石のある方を見る。

 俺は三千気圧の世界を堪能する。

 

・・・

・・

 

 アマジンが三千気圧の黒い海へ消えていった後。

 フワ爺は店の厨房で、静かに仕込みをしていた。

 

 包丁が、まな板を叩く。

 鍋の中で、出し汁が小さく揺れる。

 

「素晴らしい成長速度じゃ」

 

 誰に聞かせるでもなく、フワ爺はぽつりと呟いた。

 

「少年時代はグルメ細胞も成長しやすい時期とはいえ、あそこまで自分を追い込める少年はなかなかおらん」

 

 フワ爺は、切り分けた深海魚の身を皿へ並べる。

 その手つきは穏やかで、まるで長い年月そのものを調理しているようだった。

 

「それに……」

 

 包丁の音が止まる。

 

「彼からは妙な食材の声がする」

 

 フワ爺は、暖簾の向こうに広がる黒い海を見た。

 

「この世界の食材だけではない。もっと古い、別の食卓の声じゃ」

 

 深海の泡の中で、鍋がことりと鳴った。

 フワ爺は少しだけ目を細める。

 

「……あの子も、世界の“ごちそうさま”を聞いた口か」

 

 その言葉は、湯気に混じって消えた。

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