深海三万メートル。
太陽の光は一切届かない。
地上の常識で考えれば、そこは完全な暗闇のはずだった。
だが、実際には違う。
黒い海の底は、ぼんやりと青く光っていた。
ブルーライトプランクトン。
深海に漂う微細なプランクトンが、周囲の水に反応して淡い青色の光を放っている。
暗闇ではある。
だが、何も見えないわけではない。
黒い海。
青い光。
ゆっくり揺れる泥。
遠くを流れる旨潮の筋。
そのすべてが、夢の中のようにぼんやり見えていた。
加えて、俺はエアを食べている。
視力も上がっている。
ペアで体も変わった。
アトムで感覚も冴えている。
アナザで世界の味も広がった。
だから、十分に見えている。
この三千気圧の海底でも、俺は自分の足元を見失わずに進むことができた。
俺の周囲には、二枚の番重が浮いている。
いつものステンレス製ではない。
スティショバイトでできた番重だ。
正確には、俺がスティショバイトを食べ、その硬さと圧力の記憶を番重に混ぜ込んだもの。
黒く透き通った、ガラスのような番重。
だが、ただのガラスではない。
深海の圧力に耐えた黒い結晶の硬さを持っている。
ステンレス製の番重だと、この三千気圧の世界ではすぐにぺしゃんこになった。
形を保とうとした瞬間、ぐしゃりと潰れる。
あの感覚はかなり嫌だった。
だが、スティショバイトの番重なら違う。
歪みはする。
少し軋む。
だが、形状を保ってくれている。
さすがに空気を入れたまま持ち込んだら圧壊したが……。
それは俺が悪い。
中に空間を残せば、当然潰れる。
だから今は、内部を密閉しすぎず、水圧を受け流す形にしている。
とっさの防御にも使える。
何より、初めてのステンレス製以外の番重だ。
形状を保つ練習を兼ねている。
俺は歩きながら、二枚の番重を自分の周囲に回した。
盾。
足場。
掘削具。
場合によっては打撃。
使い道は多い。
ただし、急な動きはまだ危ない。
三千気圧の世界に慣れてきたとはいえ、調子に乗ればまた壊れる。
俺は慎重に進んだ。
その時、視界の奥に巨大な影が浮かんだ。
「でか……」
思わず声が漏れた。
巨大なクラゲだった。
青く光る深海の中に、ゆっくりと浮遊している。
傘の部分だけで、普通のビルくらいありそうだ。
長い触手が海底近くまで垂れ、光を受けて薄く輝いている。
こちらには気づいていないのか。
それとも気づいていても興味がないのか。
ただ静かに漂っている。
薄暗い深海に、巨大な生物。
改めて思うが、底知れぬ恐怖を感じる。
クラゲだからまだましだ。
動きもゆっくりしている。
攻撃的な感じもしない。
だが、これが巨大な魚だったら結構怖い。
暗闇の奥から、ビルみたいな魚がこちらを見ていたら、たぶん普通に漏らす。
いや、グルメスモックがあるから大丈夫か。
何が大丈夫なのかは分からない。
俺はそんなことを思いながらも、順調に進んでいった。
黒い泥の上を歩く。
青い光が足元で揺れる。
深海の水は重い。
だが、今の俺にはもう潰す力ではなく、包む力に近い。
それでも油断はしない。
一歩ずつ進む。
「あらためて思うが……ここまでずっと息を止められるなんてな」
俺は自分の体に感心した。
俺の体そのものが変わっている。
苦しさを感じない。
酸素を無駄に使っていない。
食没で消費を抑え、グルメ細胞が必要な分だけを巡らせている。
本当にすごい。
最初にエアを食べた時から、体は確実に変わっていた。
あの時はただ呼吸が楽になったと思った。
だが、今は違う。
深海三万メートルを歩いている。
太陽の光も届かない場所で、三千気圧に押されながら、それでも前に進んでいる。
この世界の食材は、本当に人を変える。
そして、周囲の色が変わった。
「……ん?」
青い光の中に、別の色が混じり始めた。
紫。
銀。
黒。
そして、時折走る白い稲妻のような光。
肌に、びりびりとした感覚が走る。
電気風呂に入った時のような、細かい刺激。
グルメスモック越しなのに分かる。
これはただの水流ではない。
磁場だ。
特殊な磁場。
機械やキャンピングモンスターを狂わせるという、あの場所の気配。
「深海オスミウム隕石……」
俺は呟いた。
間違いない。
あれだ。
少し進むと、海底の泥が大きく割れていた。
裂け目。
その中央に、黒く鈍い塊が埋まっている。
岩ではない。
金属でもない。
隕石。
超高密度な小惑星の核心部。
宇宙から地球へ落ち、海底の泥を突き抜け、地殻の裂け目に沈み込んだもの。
もっと巨大なものを想像していた。
山のような塊。
あるいは、建物ほどの隕石。
だが、目の前にあるそれの全長は三メートルほどだった。
大きさだけなら、巨大というほどではない。
俺よりはもちろん大きいが、持って運べそうに見える。
少なくとも、見た目だけなら。
だが、存在感は半端ない。
周囲の水が歪んでいる。
青い光が、その周りだけ沈む。
泥が重さに耐えきれず、ずっと下へ引き込まれているように見える。
近づくほど、体が重くなる。
圧力とは別の重さ。
重力に似た、濃い重さ。
「この大きさなら、持って運べそうだな」
俺はそう思った。
まずは試してみる。
大きな番重を三重にして出す。
スティショバイトを混ぜた黒い番重。
一枚では不安なので、三枚重ねる。
それを隕石の下に差し込み、乗せようとした。
「……いや」
動かない。
「まじか」
びくともしない。
俺は力を込めた。
番重を広げ、下からすくい上げるようにする。
だが、駄目だ。
重すぎる。
見た目は三メートル程度。
だが、密度が違う。
普通の岩ではない。
超重金属の塊だ。
たぶん、三百トンくらいある。
いや、形によってはもっとあるかもしれない。
俺の番重では、支える以前に持ち上げるイメージができない。
「重すぎる……!」
しかも、そもそも埋まっている。
半分以上が海底の泥と岩盤に食い込んでいる。
これを持ち上げるには、まず周囲を掘り出さないと駄目だ。
俺は番重を駆使して、周囲の砂と泥を掘り始めた。
スティショバイト番重をスコップのように使う。
水圧で泥は重い。
だが、少しずつなら動かせる。
ザク。
ザク。
ザク。
黒い泥をすくい、横へ流す。
裂け目の縁を削る。
隕石の周囲に埋まっている岩を砕く。
しばらく掘ると、深海オスミウム隕石の全貌が見えてきた。
黒銀色の塊。
表面は滑らかではない。
宇宙から落ちた時の傷なのか、深海圧で変形した跡なのか、無数の筋が走っている。
ところどころに、青い光を吸い込むような黒い面がある。
見れば見るほど、食材というより、星の骨だ。
「うぐぐ……!」
もう一度、番重を下に差し込む。
持ち上げようとする。
「重い! まじでどうにかなる感じではない!」
全力でやっても、わずかに揺れるだけ。
持ち上がらない。
番重も軋む。
これ以上無理をすれば、番重の方が壊れる。
いや、俺の体も危ない。
さすがに三百トン級を深海三万メートルで運ぶのは無理がある。
なら、破壊して持っていくしかない。
欠片でいい。
全部はいらない。
ほんの一部を食べられれば、番重の素材としての知見は得られるはずだ。
俺はキッチンハサミを出した。
腕に食欲エネルギーを集中する。
スティショバイトを食べたことで、少し切れ味も変わっている。
黒い刃。
深海の圧力に耐える刃。
それを隕石の表面に当てた。
切る。
……切れない。
「硬っ……!」
刃が滑った。
傷すらほとんどついていない。
もう一度。
角度を変える。
力を込める。
駄目だ。
深海オスミウム隕石は、びくともしない。
番重で叩いてみる。
鈍い音が、海底に沈む。
欠けない。
割れない。
砕けない。
「ここまでの強度を破壊する技は、俺にはない……」
俺は息を吐いた。
トリコのように、ネイルガンみたいな技があればいけたかもしれない。
指先に食欲エネルギーを集中し、内部へ一気に打ち込む。
表面ではなく、内側から破壊する。
そういう技があれば、この隕石にもひびを入れられたかもしれない。
だが、今の俺にあるのは、番重とキッチンハサミとグルメスモック。
防御。
打撃。
切断。
どれも、今の深海オスミウム隕石には届かない。
無理にやれば、俺の方が壊れる。
ここまで来たのに。
目の前にあるのに。
触れられる距離にあるのに。
持って帰れない。
壊せない。
食べられない。
「……どうする」
俺は隕石の前に座り込んだ。
三千気圧の海底。
青く光るブルーライトプランクトン。
周囲をびりびりと走る特殊な磁場。
目の前には、星の核心のような超重金属の塊。
無理に動けば危ない。
だが、諦めたくもない。
俺はしばらく、その場で考えることにした。
この隕石をどう食うか。
どう番重に反映するか。
どうすれば、今の俺の技で届くのか。
黒い海の底で、俺は深海オスミウム隕石を前に、静かに思考を巡らせた。