深海オスミウム隕石の前で、俺はしばらく考えていた。
持ち上がらない。
切れない。
砕けない。
番重で掘り出すことはできた。
だが、その先が無理だった。
全長三メートルほど。
見た目だけなら持っていけそうなサイズなのに、たぶん三百トン以上ある。
いや、もっとあるかもしれない。
深海三万メートル。
三千気圧。
特殊な磁場。
青く光るブルーライトプランクトン。
その中心に、黒銀色の塊が沈んでいる。
まるで星の骨だ。
宇宙から落ち、地球に突き刺さり、深海の底で何億年も押され続けた星の芯。
これを食えば、番重は変わる。
キッチンハサミも変わる。
そう確信している。
だが、どう食うか。
「……そうだ」
俺は、ふと思った。
「とりあえず、この場でかじってみるか?」
自分で言っておいて、馬鹿みたいだと思った。
キッチンハサミでも切れない。
番重で叩いても砕けない。
そんなものを歯で食う。
普通に考えれば無理だ。
だが、この世界では普通に考える方が間違っていることも多い。
アナザを食べてから、俺は味のないものの味が分かるようになった。
石にも味がある。
水にも味がある。
圧力にも味がある。
なら、この隕石にも味があるはずだ。
今ここで食べて記憶する。
味と構造を細胞に刻む。
同じ材質のキッチンハサミや番重を作れれば、多少なりとも隕石を砕いてフワ爺のところへ持って帰れるかもしれない。
全部はいらない。
掌に収まる欠片でいい。
まずは食う。
そして、技にする。
「よし」
俺はさっそく行動した。
深海オスミウム隕石に顔を近づける。
グルメスモックのマスクを少し開く。
三千気圧の水が顔に触れそうになるが、細胞が自然に受け流してくれる。
舌の上に、黒い金属の味が乗る前から、すでに重い。
俺は隕石の表面に歯を立てた。
がっ。
「硬い……!」
当然だった。
歯が通らない。
顎に衝撃が走る。
頭の奥まで響く。
普通なら歯が折れている。
いや、折れていないのが不思議なくらいだ。
俺は一度離れた。
力で噛むな。
砕こうとするな。
これは岩じゃない。
食材だ。
壊すんじゃない。
食うんだ。
俺はもう一度、隕石に口をつけた。
今度は噛み砕こうとしない。
食没で無駄な力を消す。
グルメスモックで三千気圧を受け流す時と同じ。
硬さを敵にしない。
重さを拒まない。
隕石の中にある、味の流れを探す。
黒い。
重い。
冷たい。
宇宙の味。
落下の味。
衝突の味。
地球へ突き刺さった味。
海底の泥を突き抜け、深い裂け目に沈み、三千気圧に押され続けた味。
ただ硬いだけではない。
硬さにも層がある。
重さにも筋がある。
金属の中に、星だった頃の記憶が眠っている。
俺はそこへ食欲を差し込んだ。
噛む。
噛む!
がり、と小さな感触があった。
「……っ」
ほんのわずか。
粉と呼ぶにも小さい黒銀色の粒が、舌の上に乗った。
重い。
舌に乗った瞬間、口の中が沈むような感覚がある。
味は濃くない。
むしろ、味としてはほとんどない。
だが、存在感が異常だ。
星の芯を舐めているような味。
これが、深海オスミウム隕石。
俺は飲み込んだ。
細胞が震える。
胃の中に落ちた瞬間、体の中心に重さが生まれた。
だが、沈むだけではない。
その重さが、細胞の奥へ広がっていく。
番重のイメージ。
キッチンハサミのイメージ。
ステンレス。
スティショバイト。
そこへ、新しい重さが加わる。
黒銀色の星の芯。
俺はさらにかじった。
少しずつ。
削るように。
舐め取るように。
食欲で、隕石の表面をほどく。
硬い。
何度やっても硬い。
顎が疲れる。
首が重い。
だが、少しずつ食える。
いろいろ食べ方を工夫して食べ続けた。
正面から噛む。
角に歯を立てる。
舌で味を探す。
食没で余計な力を消す。
グルメ細胞で、味と構造を読む。
そして、何度も飲み込む。
味。
構造。
重さ。
硬さ。
圧力に耐えた記憶。
宇宙から落ちた記憶。
それらを、細胞に刻む。
俺の中で、何かが組み上がっていく。
これはただのオスミウムではない。
ただの隕石でもない。
宇宙から落ち、深海で熟成した星の芯。
なら、名前は――。
「星芯(せいしん)番重」
俺は右手を上げた。
食欲エネルギーを練る。
いつもの番重ではない。
ステンレスではない。
スティショバイトでもない。
黒銀色の重さ。
星の芯の密度。
深海の圧力に耐えた形。
俺の頭上に、黒銀色の番重が現れた。
今までの番重より小さい。
だが、存在感が違う。
水中に出した瞬間、周囲の泥が沈む。
番重そのものが、海底に重さを押しつけている。
「星芯番重《せいしんばんじゅう》――重ね落とし」
三枚。
いや、四枚。
黒銀色の番重を重ねる。
それを深海オスミウム隕石の上へ落とした。
どん。
音は水に飲まれた。
だが、衝撃は伝わった。
海底の泥が大きく揺れる。
隕石の周囲に、細かな亀裂が走った。
「……重い」
ステンレス製より何倍も重い。
いや、何十倍かもしれない。
ただし、水中だからそこまで強く当てることができない。
三千気圧の水が抵抗になる。
落下速度も殺される。
重さはある。
だが、深海では自由落下の威力が思ったより出ない。
なら。
落とすより、挟む。
水中でも、二枚の刃なら力を逃がしにくい。
キッチンハサミの出番だ。
俺は両腕に食欲エネルギーを集めた。
いつもの白い刃ではない。
黒銀色の刃。
厚く、重く、鋭い。
切るというより、挟んだものを重さで押し潰しながら断つ刃。
「星芯鋏《せいしんばさみ》――圧断」
二枚の刃が、深海オスミウム隕石の端を挟む。
水中でも関係ない。
ハサミは、二枚の刃でしっかりと対象を捉える。
逃がさない。
滑らせない。
ただ、挟む。
俺は全身の食欲を腕へ流した。
水圧を受け流す時と同じ。
力を一点に詰まらせるな。
細胞の流れを整えろ。
星の芯の重さを、刃へ乗せる。
圧す。
断つ。
ぎぎぎ、と嫌な音がした。
だが、今度はグルメスモックではない。
隕石の方だ。
黒銀色の表面に、細い亀裂が走る。
「いけ……!」
俺はさらに力を込めた。
星芯鋏が、隕石の端を噛み込む。
噛んで、挟んで、押し切る。
そして――。
ぱきん。
小さな音が、深海に響いた気がした。
掌に収まるほどの欠片が、隕石から削れ落ちた。
「よし!」
俺は思わず声を上げた。
成功だ。
深海オスミウム隕石を削ることに成功した。
欠片は大きくない。
掌に収まるサイズだ。
だが、十分だ。
今の俺には、これで十分すぎる。
これを持ち帰れば、フワ爺に見せられる。
もっと味を知ることもできる。
番重や鋏の練習もできる。
必要であれば、また取りに来ればいい。
全部を持ち帰る必要はない。
今はこれでいい。
俺は欠片を慎重に番重で包んだ。
普通に持つには重すぎる。
掌サイズなのに、ずっしりと腕が沈む。
だが、持てないほどではない。
俺は星芯番重を小さな箱のようにして、欠片を中に収めた。
「よし。帰ろう」
この場所に長居するのは危険だ。
特殊な磁場の影響もある。
三千気圧には慣れたとはいえ、無理をすれば危ない。
それに、早くフワ爺のところへ戻って、この味を整理したい。
俺は深海オスミウム隕石をもう一度見た。
巨大な黒銀色の塊。
星の芯。
今はまだ、ほんの欠片を削っただけだ。
だが、確かに食った。
確かに技にした。
星芯番重。
星芯鋏。
新しい技の重さが、体の奥に沈んでいる。
「また来るかもしれない」
俺はそう呟き、その場を後にした。
黒い海の底。
青く光るプランクトン。
三千気圧の圧力。
そのすべてを受け流しながら、俺はフワ爺の店へ戻るため、ゆっくり歩き出した。