俺は三千気圧の黒い海を抜け、泡の中へ戻った。
腕には、星芯番重で包んだ深海オスミウム隕石の欠片。
掌に収まるくらいの大きさだ。
だが、重い。
とにかく重い。
普通の石なら片手で軽く持てるサイズなのに、これは違う。
番重で包んでいなければ、腕が沈む。
まるで、小さな星を抱えているみたいだ。
店の前まで戻り、俺は勢いよく暖簾をくぐった。
「フワ爺! ちょっとだけだけど取れたよ!」
厨房からフワ爺が顔を出した。
「本当か!」
いつもののんびりした顔が、珍しくはっきり驚いている。
「すごいのう」
「これだけだけど……もっと取ってくるよ」
俺は星芯番重を開いた。
中から、黒銀色の欠片が姿を見せる。
青い光を吸い込んだような色。
表面は鈍く光り、ただそこにあるだけで机が沈みそうな重さを放っている。
フワ爺はそれをじっと見た。
そして、そっと手を伸ばす。
「おお……」
欠片を持ち上げようとして、少しだけ眉を上げた。
「小さいのに、よう重い」
「めちゃくちゃ重かった。元の塊は三メートルくらいなのに、全然動かなかったよ。たぶん三百トンくらいある」
「じゃろうな。これは星の芯のようなもんじゃ」
フワ爺は欠片をまな板の上に置いた。
ごとん、と重い音がした。
まな板が一瞬沈んだ気がする。
「いやはや……この鉱石はよい調理器具になるぞ」
「そうなのか?」
「うむ。グルメマテリアル合金を作る時にこれを混ぜたら、より素晴らしいものになるじゃろうな」
「グルメマテリアル合金……」
料理人用の包丁や鍋、特殊調理器具に使われる高級素材だ。
美食屋用の武器にも使われる。
俺は名前くらいしか知らない。
だが、フワ爺が言うなら、本当にすごい素材なのだろう。
「硬さだけではない。重さ、密度、圧力への耐性、宇宙由来の食欲の馴染み。これほどの素材はそうそうない」
フワ爺は感心したように言った。
「実は以前に、何度かこの鉱石を採取しにIGOの調査隊が来ていたようじゃ」
「IGOが?」
「うむ。じゃが、キャンピングモンスターも無理。潜水艦などでも無理。特殊な磁場で計器は狂い、機体は動かなくなる。深海三千気圧に耐えられる装備も、近づけば不具合を起こす」
「やっぱりあの場所、やばかったんだな」
「やばいどころではない。誰も採掘できなかったという話じゃ」
誰も採掘できなかった。
俺は自分の手元を見た。
星芯番重。
星芯鋏。
隕石をかじり、その味と構造を細胞に刻んで、ようやく削れた欠片。
俺にとっては必死の結果だった。
だが、IGOですらできなかったことなのか。
「こりゃ偉業じゃ……」
フワ爺は俺を見て、楽しそうに笑った。
「本当に二人とも、どうなっとるんじゃ」
「二人とも?」
俺は首を傾げた。
「ブラウス帰ってきてるの?」
「うむ。見なさい」
フワ爺が厨房の奥を指差した。
俺はそちらを覗いた。
そこに、ブラウスがいた。
厨房の一角で、食材と向き合っている。
手には包丁。
だが、まだ切っていない。
まな板の上の食材をじっと見つめ、時折、指でそっと触れている。
その横には――。
アナザがいた。
金色に輝く魚。
ふよふよと、空中に浮く水の塊の中を泳いでいる。
逃げていない。
ブラウスのすぐ横にいる。
ブラウスが包丁を動かしても、逃げない。
むしろ、覗き込むようにブラウスの手元を見ている。
「……」
俺は思わず声をかけそうになった。
だが、やめた。
ブラウスはとんでもなく集中している。
アナザも、ブラウスも、今は何か大事な会話をしているように見えた。
言葉ではない。
包丁。
視線。
距離。
水の揺れ。
食材と料理人の会話。
ここで俺が「おーい、ブラウス!」なんて声をかけたら台無しだ。
そっとしておいた方がいいな。
俺は静かに厨房から離れた。
「すごいな。ブラウス」
「うむ。あの子も見違えたのう」
フワ爺は嬉しそうだった。
俺が三千気圧で隕石と向き合っていた間、ブラウスはアナザと向き合っていた。
俺は鉱物を食い、技を変えた。
ブラウスは食材と話し、距離を変えた。
別々の場所で、別々の成長をしていたのだ。
「とりあえず、この鉱石は買い取ろう」
フワ爺が言った。
「え?」
「拳サイズで四千万円ってところかの」
「え? これだけで……?」
俺は思わず欠片を見た。
確かに重い。
確かにすごい。
でも、掌に収まるサイズだ。
それで四千万円。
俺の感覚がおかしいのか、この世界がおかしいのか。
たぶん両方だ。
俺は頭の中で計算する。
拳サイズで四千万円。
元の塊は三メートルくらい。
密度が尋常ではなく、たぶん三百トン級。
もしあそこにあるやつを全部採掘したら……。
……数兆円くらいか?
いや、もっといくかもしれない。
とんでもない金額だ。
なら、いっぱい取ってこよう。
フワ爺にあげるんだ。
それに、ブラウスも活用できそうだ。
響金包丁ハルシアに混ぜるわけにはいかないだろうが、調理器具や補助器具ならきっと役に立つ。
グルメマテリアル合金に混ぜれば、すごい道具になるとフワ爺も言っていた。
「フワ爺!」
「なんじゃ?」
「いいよ、お金は」
「む?」
フワ爺が目を瞬かせる。
「何日も置いてもらってるし、飯も作ってくれてる。温泉にも入らせてもらってるし、アナザのことも教えてもらった。本当に受け取れない。感謝してるんだ」
「いやいや、そういうわけには……」
「いいって」
俺は笑った。
フワ爺の飯で俺は強くなった。
ブラウスも変わった。
アナザも食べた。
深海のことも知った。
なら、これはお礼でいい。
それに――。
「とりあえず往復して、いっぱい取ってきてやるよ!」
「おぬし、また行く気か」
「もちろん。今なら星芯鋏で削れるからな」
俺は星芯番重を再び展開した。
黒銀色の番重。
さっきより少し安定している。
欠片を食べたことで、体により馴染んできたのかもしれない。
「……」
フワ爺は少しだけ黙った。
それから、ふっと笑う。
「本当に変わった子じゃな」
「よく言われる」
「じゃが、無理はするでないぞ」
「分かってる。同じ失敗はしない」
俺は暖簾をくぐり、店の外へ向かった。
泡の向こうには、黒い海が広がっている。
三千気圧の世界。
さっきは緊張した。
だが、今は少し違う。
怖くないわけではない。
でも、行ける。
俺は星芯番重を背負うように浮かべ、欠片を入れるための小さな箱も作った。
「じゃ、行ってくる!」
そう言って、俺はまた三千気圧の世界へ飛び込んだ。
黒い海が俺を包む。
重い水圧が全身を押す。
だが、もう潰されない。
俺はそのまま、深海オスミウム隕石のある裂け目へ向かって歩き出した。
店の中で、フワ爺はその背中を見送っていた。
「ふふ……変わった子じゃな」
そう呟きながら、フワ爺はまな板の上の黒銀色の欠片を撫でた。
「これほどのものを、金より礼で渡そうとするとはのう」
厨房の奥では、ブラウスがまだアナザと向き合っている。
泡の外では、アマジンが星の芯を取りに行く。
フワ爺は楽しそうに笑い、仕込みの手を再び動かした。