千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

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金色の魚と料理人

 一往復するたびに、自分の成長を感じる。

 

 深海三万メートル。

 三千気圧の黒い海。

 

 最初は、歩くだけでも慎重になっていた。

 だが、何度も往復しているうちに、少しずつ動きが変わっていった。

 

 足が沈まなくなる。

 圧力を怖がらなくなる。

 

 グルメスモックが、三千気圧を特別なものとして扱わなくなる。

 そして、星芯番重と星芯鋏も変わっていく。

 道中、俺は小さな深海オスミウム隕石の欠片を口の中で転がしながら進んでいた。

 

 もちろん、飲み込む量はほんの少しだ。

 

 舌で味を探る。

 歯で表面を削る。

 食没で無駄を消し、グルメ細胞に味と構造を刻む。

 

 黒銀色の重さ。

 宇宙の冷たさ。

 深海の圧力。

 星の芯の密度。

 

 理解が増すほど、星芯番重はより重く、より頑丈になっていった。

 星芯鋏も、ただ硬いだけではなくなった。

 挟んだものを逃がさず、重さごと圧し切る感覚が強くなる。

 

 切るというより、星の芯で挟み潰して断つ。

 そんな技に変わっていく。

 すでに十往復はしている。

 

 それでも、あの深海オスミウム隕石をすべて採掘するには程遠い。

 全長三メートル程度とはいえ、重さは尋常ではない。

 

 欠片を少しずつ削るだけでもかなりの手間だ。

 ここに来てから、かれこれ半月ほど経っている。

 

 三か月でフルコースを回れと言われたことを考えると、そろそろ戻る方がいい気もする。

 まだニュース、アース、ゴッド、センターが残っている。

 

 アナザで時間を使いすぎるわけにもいかない。

 俺は星芯番重に新しく削った欠片を入れ、フワ爺の店へ戻った。

 

「ただいま」

 

 暖簾をくぐる。

 すると、ブラウスがテーブルに腰を掛けて待っていた。

 はむまるがその隣で、小さく丸くなっている。

 

「アマジン!」

 

 ブラウスが顔を上げた。

 

「おかえりなさい」

 

 ブラウスは少し笑った。

 その表情が、前より明るく見えた。

 

 何というか、力が抜けている。

 でも弱くなったわけではない。

 むしろ、芯が通ったような感じだ。

 

「調理はうまくいったのか?」

 

「ええ。食べてほしくて待ってましたよ」

 

「まじか!」

 

「はい。少し待っていてください」

 

 ブラウスは立ち上がり、厨房へ入っていった。

 暖簾の奥から、楽しそうな声が聞こえてくる。

 

 ブラウスの声。

 そして、返事のような水音。

 

 アナザがいるのだろう。

 以前のブラウスなら、食材の声を聞く時、どこか緊張していた。

 

 相手を怒らせないように。

 機嫌を損ねないように。

 間違えないように。

 

 でも今は違う。

 

 周りを気にせず、対話そのものを楽しめるようになっている。

 食材と向き合うことを怖がっていない。

 なんだか、いつもより明るくなっている気がした。

 フワ爺も嬉しそうに、その様子を見ている。

 

「変わったな、ブラウス」

 

「うむ。ええ顔になった」

 

 フワ爺が頷いた。

 しばらくして、ブラウスが皿を持って戻ってきた。

 

「お待たせしました!」

 

 皿の上にあったのは、アナザのソテーだった。

 金色の身が、軽く焼かれている。

 

 表面は香ばしく、内側はまだしっとりしているのが見ただけで分かる。

 その上に、淡い黄色のソースがかかっていた。

 

 濃厚な香り。

 

 だが、アナザの透明感を邪魔していない。

 

「フワ爺もよければ!」

 

「おや、ではいただこうかね」

 

 フワ爺も席についた。

 俺、ブラウス、フワ爺。

 そして、はむまる用の小皿。

 

 アナザも厨房の水の塊の中で、ふよふよと泳いでいる。

 なんだか不思議な食卓だった。

 

「いただきます」

 

 俺は手を合わせた。

 アナザのソテーを一口食べる。

 

「……っ」

 

 おいしい。

 

 アナザは、こういった味にも変化するのか。

 フワ爺の定食で食べたアナザは、海そのものの旨味を感じさせるような味だった。

 刺身は透き通り、フライは軽く、どこまでも澄んでいた。

 

 だが、ブラウスのソテーは違う。

 濃厚だ。

 

 焼かれたことで、アナザの身に隠れていた甘みと脂が表に出ている。

 そこにソースが絡む。

 

 重くなりすぎない。

 でも、しっかり満足感がある。

 

「うま……」

 

 俺は思わず呟いた。

 フワ爺は一口食べて、目を細めた。

 

「ほう。海バターとウニンニクを混ぜたのか」

 

「さすがフワ爺! その通りです」

 

 ブラウスが嬉しそうに笑う。

 

 海バター。

 ウニンニク。

 

 名前だけでうまそうだ。

 だが、俺には食材を当てるなんて技術はできなさそうだ。

 

 アナザを食べて味の輪郭は広がった。

 深海の食材もいろいろ食べた。

 それでも、料理人の舌はまた別物だ。

 

 俺に分かるのは、うまいということだけ。

 でも、それで十分だ。

 うまいものはうまい。

 

「ブラウス、めちゃくちゃうまい」

 

「ありがとうございます」

 

 ブラウスは少し照れたように笑った。

 その顔を見て、俺も嬉しくなる。

 ブラウスは、アナザに選ばれた。

 

 いや、選ばれるというより、会話できるようになったのだろう。

 食材の機嫌をうかがうだけではなく、自分から話しかけ、相手を知り、一緒に料理を作る。

 

 そんな料理人になった。

 食事を堪能した後、俺は思い出したように言った。

 

「ブラウス、裏手に露天風呂あるんだぜ? 入ろう!」

 

「お、いいですね!」

 

 ブラウスが目を輝かせる。

 

「フワ爺も一緒に入ろうぜ!」

 

「わ、わしもか!?」

 

 フワ爺が珍しく驚いた顔をした。

 

「だって俺たち……もうすぐ行かなきゃだし」

 

 俺がそう言うと、フワ爺は少しだけ黙った。

 それから、ふっと笑った。

 

「ふ。そうじゃな。みんなで入ろうかのう」

 

 そうして、俺たちは三人で露天風呂に入った。

 深海三万メートルの泡の中。

 黒い海を見ながら入る温泉。

 

 相変わらず意味が分からない。

 だが、最高だ。

 

 はむまるも湯の端でぷかぷか浮いている。

 ブラウスは湯に肩まで浸かり、深く息を吐いた。

 

「気持ちいいですね……」

 

「だろ?」

 

「これは少し帰りたくなくなりますね」

 

「分かる」

 

 フワ爺は湯の中でのんびり笑っていた。

 

「久々の来客。わしも楽しかったぞい」

 

「フワ爺に会えて、俺たちはさらに成長できた! 本当にありがとう!」

 

 俺は湯の中で頭を下げた。

 

「僕も」

 

 ブラウスも続ける。

 

「きっとフワ爺に会えなかったら、アナザ……いや、食材との向き合い方が変わりませんでした」

 

「ふぉっふぉ。そうかい」

 

 フワ爺は嬉しそうに笑った。

 ただ、その笑顔は少しだけ寂しそうでもあった。

 

 何百年もここでアナザと暮らしてきた料理人。

 三か月に一組来るか来ないかの定食屋。

 

 俺たちが去れば、また静かな日々に戻るのだろう。

 でも、きっとフワ爺はそれを寂しがりすぎない。

 

 アナザがいる。

 食材がいる。

 料理がある。

 

 そういう人なのだ。

 

 湯気がゆっくり上がる。

 その中で、ブラウスが俺を見た。

 

「アマジン、改めてお願いがあります」

 

「ん?」

 

「残りのフルコース。僕と共に行ってくれませんか?」

 

「おお! もともとそのつもりだったぞ!」

 

「いや、違うんです!」

 

 ブラウスは少し慌てたように言った。

 

「嫌々とか……仕方なくとか……そういうのではなく。心からフルコースを回りたいと思っています」

 

「ブラウス……!」

 

 俺は少し驚いた。

 ブラウスは食材調達が嫌いだった。

 

 父親に放り込まれて、仕方なく来ていた。

 俺についてくるのも、危なっかしいからという理由が強かった。

 もちろん、それでも嬉しかった。

 

 だが今のブラウスは違う。

 

 自分の意思で、フルコースを回りたいと言っている。

 

 料理人として。

 食材と会うために。

 食材と話すために。

 その変化が、すごく嬉しかった。

 

「素晴らしいのう」

 

 フワ爺が言った。

 

「本当に面構えが変わったぞ。二人ともな」

 

「フワ爺ー!」

 

 俺は嬉しくなって、湯の中で少し身を乗り出した。

 ばしゃ、と湯が跳ねる。

 

「こら、風呂で暴れるでない!」

 

「すみません!」

 

 ブラウスが笑った。

 フワ爺も笑った。

 

 はむまるも「きゅ!」と鳴いた。

 

 そんなこんなで翌日。

 出発の準備を終えた俺たちは、フワ爺の店の前に立っていた。

 スリープシェルシェルターも準備済みだ。

 

 持ち帰る深海オスミウム隕石の欠片も、フワ爺に渡す分と、俺たちが持つ分に分けた。

 ブラウスは、アナザと最後に何か話していた。

 アナザは逃げなかった。

 金色の体を揺らし、ブラウスの前でゆっくり泳いでいた。

 

「フワ爺。本当にありがとう」

 

「ああ。何か躓いたら、また来るとええ」

 

「躓かなくてもまた来るよ! 定食食いに!」

 

「そうじゃな」

 

 フワ爺は笑った。

 

「次は自分で払うから! ブラウスにおごってもらうのではなくて……」

 

「え? 僕は全然いいですけど」

 

「いや、俺の気持ち的にだな……」

 

 アナザ定食一億二千万円。

 

 いつか自分で払えるようになりたい。

 いや、なれるのか。

 

 分からない。

 

 でも、そういう気持ちは大事だ。

 たぶん。

 

 フワ爺はそんな俺たちを見て、少し真面目な顔になった。

 

「二人とも、次はニュース。そしてアースじゃな」

 

「ああ」

 

「ニュースは大変じゃぞ」

 

「一筋縄ではいかないとは思ってる」

 

「それはもちろんじゃが。ある場所が大変なんじゃ」

 

「場所?」

 

「エリア五の食域の森」

 

 食域の森。

 

 俺はその名前を聞いて、少し身構えた。

 ニュースが眠る場所。

 原作でも、かなり異様な場所だったはずだ。

 

「とんでもない猛獣はもちろんいるのじゃが……ニュースが眠る森は、その頂上」

 

 フワ爺は泡の外に広がる黒い海を見た。

 

「それはまるで、何かの生き物の頭上のような場所じゃ」

 

「何かの生き物の頭上……」

 

 嫌な予感がした。

 

「そこへ辿り着く前に、ある者は突然老いて死んだり、完全に消息を絶ったりするそうじゃ」

 

「それって……鹿王スカイディア?」

 

 俺は思わず呟いた。

 ブラウスも目を見開く。

 

「もしかして八王……ですか?」

 

「ふふ。わしもそうだと思っておるよ」

 

「フワ爺……!」

 

 スカイディア。

 八王の一角。

 

 裏の世界に関わる、森の鹿王。

 ニュースのある場所に関係している可能性。

 やっぱり、次もただでは済まなさそうだ。

 

「ただ、そうだとしても……その個体はすでに生きておらん」

 

「え?」

 

「山となり、森となっておる」

 

「そうなのか……」

 

 八王が、山となり、森となる。

 スケールが大きすぎる。

 だが、この世界ならあり得るのかもしれない。

 

「今はまた新たな鹿王が、どこかで生まれておるじゃろう」

 

 フワ爺は静かに言った。

 八王の話は、現代ではほとんど耳にしない。

 人前には滅多に現れないのだろう。

 あるいは、人類の管理から離れた場所で、今もそれぞれの王として存在しているのかもしれない。

 

「とにかく、気をつけて行くんじゃ!」

 

「はい!」

 

 ブラウスがしっかり頷いた。

 

「ありがとう、フワ爺」

 

 俺も頷く。

 はむまるが肩の上で「きゅ!」と鳴いた。

 

 俺たちはスリープシェルシェルターへ乗り込んだ。

 貝殻が閉じる。

 泡の膜へ向かう。

 

 最後に、窓越しにフワ爺が見えた。

 小さな定食屋。

 深海の浜辺。

 金色のアナザ。

 

 フワ爺が手を振っている。

 

 俺も手を振り返した。

 泡の膜を抜ける。

 黒い海が周囲を包む。

 スリープシェルシェルターは、ゆっくりとアナザビオトープを離れていく。

 

 俺は静かに手を合わせた。

 

「ありがとう。アナザビオトープ」

 

 金色の魚と料理人。

 深海の定食屋。

 星の芯。

 ここで得たものは、きっとこれから先も俺たちを支えてくれる。

 俺たちは次の一皿、ニュースへ向かうため、黒い海の中を進んでいった。

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