夢を見た。
それは、今の世界ではない。
俺がアマジンになる前の世界。
もう名前も、会社の細かい場所も、かなり曖昧になってしまった世界の記憶だった。
二〇XX年。
当時、少し変わったブームが起きていた。
遠い昔に連載されていた古い漫画を読み返すブームだ。
大昔の漫画。
紙で作られた単行本。
昔のアニメ。
当時の読者の感想。
そういうものが、なぜか若い世代の間で再び話題になっていた。
色々な漫画があった。
王道バトル漫画。
料理漫画。
冒険漫画。
ギャグ漫画。
その中で、とある界隈で妙な噂が流れていた。
予言が書かれている。
トリコという漫画に。
最初は、半分冗談のような話だった。
昔の漫画に、今の時代を思わせる描写がある。
宇宙から来るもの。
未知の食材。
世界の終わり。
地球そのものの変化。
そんな断片を拾って、誰かが面白がって言い始めたのだと思う。
俺も、それで興味を持った。
予言なんて本当にあるわけがない。
そう思いながら、読み始めた。
だが、読み始めたら普通に面白かった。
予言のことなんて、すぐに忘れた。
何度も読んだ。
何百周も読み返した。
トリコたちが食材を求めて旅をする姿が好きだった。
いただきますと、ごちそうさまを本気で言うあの世界が好きだった。
俺の知っている現実とはあまりにも違う。
でも、どこか憧れる世界だった。
あの日も、たしか昼休みだったと思う。
会社の休憩スペースに、古い漫画を置こうという話があった。
福利厚生というほど大げさなものではない。
社員が休憩中に読める本をいくつか置こう、という程度の話だった。
俺はそこに、トリコの実物本を入れた。
古い漫画ブームに乗った、ちょっとした遊び心だった。
カフェテラスに置かれた本棚。
そこに並ぶトリコの単行本。
昼休み、俺はコーヒーを片手に、その一冊を読んでいた。
予言。
そんな噂のことは、もうほとんど忘れていた。
ただ面白い漫画として読んでいた。
その途中だった。
空が、暗くなった。
いや、暗くなったというより、何かに覆われた。
黒くて、赤く光る巨大なもの。
隕石。
そう思った。
だが、本当に隕石だったのかは分からない。
あまりにも大きかった。
あまりにも近かった。
空そのものが落ちてくるようだった。
誰かが叫んだ。
ガラスが割れた。
ビルが軋んだ。
地面が波打った。
俺は本を持ったまま、何もできなかった。
トリコのページが風でめくれた。
白い光が、世界を塗り潰した。
そこで、俺の前の世界は終わった。
その後。
俺はずっと長い間、ぼんやりしていた気がする。
眠っていたのか。
漂っていたのか。
死んでいたのか。
そのどれでもないのか。
分からない。
だけど、どこかの食卓に座って、何かを聞いていた気もする。
誰かの声だったのか。
世界が鳴らした音だったのか。
それすら、今は思い出せない。
途方もない年月だった気がする。
でも、その時間の記憶は曖昧だ。
ただ、何もない場所で、薄く残った自分だけが浮かんでいたような感覚がある。
もしグリドと出会わなければ。
もし、あの借威幻獣で恐怖の奥底を引きずり出されなければ。
俺はきっと、あの日のことをしっかり思い出せなかった。
世界が終わる瞬間。
俺が見た、あの空。
トリコという漫画を読んでいた昼休み。
予言だと噂されていた物語。
その物語の世界に、俺は今いる。
夢の中で、俺はページをめくる。
だが、そこに描かれているはずのトリコたちは見えない。
代わりに、黒い海があった。
金色の魚が泳いでいた。
グリドが笑っていた。
――世界の“ごちそうさま”。
俺はそこで目を覚ました。
・・・
・・
・
・
・
その頃。
アマジンの実家では、母がグルメデバシーに届いた写真を見ていた。
「あ、アマジンから写真が来てるわ」
母の声に、父が顔を上げる。
「写真?」
「ええ。アナザを食べ終わって、そのまま次のフルコースを取りに行くんだって」
「もう次か。相変わらず忙しいね」
父は苦笑しながら、母の隣に座った。
画面には、三人と一匹が映っていた。
アマジン。
白髪の少年。
そして、手のひらに乗るほど小さくなったはむまる。
写真の中のアマジンは、以前より少し大人びて見えた。
顔つきが変わった。
体つきも、どこか締まっている。
父はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「……また少し変わったね」
「そうね」
母は、画面の端にいる小さなはむまるを見つめた。
「はむまる……小さくなれるのね……」
あの庭を占領していた巨大ハムスターが、写真ではぬいぐるみのように小さくなっている。
黒い丸目で、アマジンの肩に乗っている。
「かわいいじゃないか」
「かわいいけど……あの子、元は庭いっぱいだったのよ?」
「まあ、便利な体質なんだろうね」
「便利で済ませていいのかしら……」
母は少し遠い目をした。
それから、白髪の少年に視線を移す。
「この子はブラウスって子らしいわ。一緒にフルコースを回るって」
「すごいな。そんなところで同年代の友達か」
父は少し嬉しそうに言った。
アマジンが美食屋を目指すと言い出してから、家を空けることが増えた。
危険な場所にも行く。
親として心配しない日はない。
だが、こうして同年代の仲間ができていると知ると、少しだけ安心できた。
一人ではない。
誰かと一緒に食べて、歩いて、笑っている。
それだけで、父も母も少し救われる。
「なんか……ブラウス君の父親が、いつか皆で食事でもどうかって言ってるらしいわ」
「そうだね」
父は頷いた。
「アマジンと仲良くしてくれてる子の親だ。ぜひご挨拶しないとね」
「ええ。ちゃんとお礼も言わないと。アマジンが迷惑をかけてないといいけど」
「それは……まあ、かけているだろうね」
「否定してよ」
「でも、きっと向こうの子もアマジンに助けられているんじゃないかな」
父は写真をもう一度見た。
アマジンとブラウスは、並んで笑っていた。
はむまるはアマジンの肩で丸くなっている。
写真だけ見れば、普通の旅の記念写真のようだった。
深海三万メートル。
アナザ。
星の芯。
グリーントロル。
そんなものとは無縁の、ただの子供たちの写真に見える。
母は少し笑った。
「その辺のレストランかしら。何を着て行けばいいのかしらね」
「そんなにかしこまらなくてもいいんじゃないかな。子供同士の縁なんだし、軽い食事だろう」
「そうね。気楽に行けばいいわよね」
この時、両親はそう思っていた。
その辺のレストランで、軽く食事をするのだろうと。
息子の友達の親と、普通に挨拶をして、普通に料理を食べるのだろうと。
だが。
ブラウスの父親は、怪奇食天狗フーズコーポレーションの社長である。
最上位ライセンス美食屋であり、天狗族の大男であり、アマジンを見ただけでフルコースの数を見抜いた怪物でもある。
たぶん、そんな話で終わらないだろう。
もちろん、両親はまだ知らない。
母は写真を保存し、父は少しだけ安心したように笑った。
「元気そうでよかった」
「本当にね」
二人は画面の中のアマジンを見つめた。
次の一皿へ向かう息子の顔を、少しだけ誇らしそうに。