多重力の谷。
その名の通り、重力がめちゃくちゃだ。
下に引かれると思ったら、突然横に体が流される。
地面に立っているつもりなのに、次の瞬間には壁へ向かって落ちそうになる。
小石が空中に浮かんでいたかと思えば、急に地面へ叩きつけられる。
木の根は上へ伸び、滝は横へ流れ、鳥のような猛獣が空ではなく斜め下に飛んでいく。
意味が分からない。
だが、進めないほどではない。
俺は星芯番重を周囲に二枚、頭上に一枚維持したまま進んでいた。
黒銀色の番重。
深海オスミウム隕石を食べたことで生まれた、星の芯の番重。
研究所でたらふく飯を食べてきた。
しっかり食没もできている。
だから今のところ、全く問題なく維持できている。
もちろん、重い。
普通の番重とは比べものにならない。
だが、食欲エネルギーの流れに乗せれば、維持できる。
深海で何度も使ったおかげで、浮かばせる感覚も掴めてきた。
「てか番重。なんで浮いてるんですか?」
隣を歩くブラウスが、不思議そうに聞いてきた。
ブラウスはグルメスモックを着ている。
白い給食着のような衣が、重力の乱れから体を守っている。
はむまるは小型化して、俺の肩の上で頬を膨らませていた。
「水中で浮かばしたおかげか、よりイメージできるようになってな」
「なるほど……水中での経験ですか」
「あとこれ、スモックと同じで俺からエネルギー供給してる」
俺は横に浮かぶ番重を軽く叩いた。
ごん、と鈍い音がする。
「増やしすぎるとさすがにきついな」
「すごいですね……!」
「便利ではあるけど、腹減るぞ」
「では、あとで作ります」
「頼む」
急に重力が変わっても、星芯番重が俺たちの受け皿になる。
体が横へ落ちそうになれば、横に浮かべた番重が壁になる。
上へ落ちそうになれば、頭上の番重が天井になる。
足元が急に抜けるような軽さになれば、番重を踏み台にする。
星芯番重は重い。
だが、その重さが逆に頼もしい。
どこに重力が向いても、俺たちを受け止める皿になる。
比較的安全に進めている。
もちろん、比較的だ。
気を抜いたらたぶん死ぬ。
「アマジン!」
ブラウスが足を止めた。
「前方に猛獣です」
俺も視線を向ける。
谷の少し開けた場所。
そこに、一羽の鳥がいた。
いや、鳥と言っていいのか分からない。
翼はある。
脚もある。
くちばしもある。
だが、胴体が異様だった。
まるでジャイロのように、丸い胴体が常に急速回転している。
回転する胴体に合わせて、周囲の重力が歪んでいるように見える。
羽ばたいていないのに、宙に浮いている。
足元の小石がその周囲をぐるぐる回っていた。
「ジャイロバード……」
ブラウスが呟く。
俺も名前は知っていた。
多重力の谷に棲む鳥型猛獣。
胴体が常に回転しており、その回転によって重力の流れを変えながら飛ぶ。
たしか、食材としても高級だったはずだ。
回転し続けた肉は繊維が独特に締まり、焼くと外は香ばしく、中は渦状に旨味が回る。
だが、食べるには条件がある。
「あいつ……たしか食べるには攻撃手順があったよな……」
うろ覚えだ。
単純に叩き落とすと、回転が暴走して肉が台無しになる。
斬る場所を間違えると、旨味が遠心力で飛ぶ。
毒化というより、味が壊れるタイプの食材だった気がする。
つまり、かなり面倒くさい。
「ふふ。アマジン」
ブラウスが一歩前に出た。
「サポートしてあげます」
「え?」
ブラウスは響金包丁ハルシアに手を添え、静かに目を閉じた。
白い髪が、谷の乱れた風に揺れる。
その瞬間、空気が変わった。
「
小さく、ブラウスが呟いた。
足元に何かが広がった気がした。
いや、実際に何かが出たわけではない。
まな板が具現化したわけでもない。
だが、谷そのものが変わった。
俺の感覚がおかしくなったのかと思った。
違う。
ブラウスが、この周囲を自分の調理場として認識している。
地形。
空気。
香り。
水分。
重力。
食材の気配。
それら全部が、一枚の巨大な俎板の上に並べられていくような感覚。
山そのものを俎板にする。
食材がどこにいて、どう動き、どこに旨味が流れ、どこを切ってはいけないのか。
それを理解するための技。
「なんだこれ……!」
俺まで、まるでまな板の上にいると錯覚する。
俺たちが立つ谷。
前方のジャイロバード。
空中の石。
重力の流れ。
全部が、調理台の上に置かれた食材のように見えた。
そして、ジャイロバード。
その回転する胴体に、線が見える。
攻撃を打つべき場所。
叩いていい場所。
叩いてはいけない場所。
斬るべき場所。
まだ斬ってはいけない場所。
旨味が逃げない順番。
「なんだこれ。弱点が見えるぞ……!」
「弱点ではありません」
ブラウスが目を開けた。
その目は、いつもよりずっと静かだった。
「調理の順番です」
「かっこいいな、それ!」
「集中してください。まずは左翼の付け根。回転を少し落とします」
「了解!」
俺は小さな星芯番重を出した。
掌ほどの黒銀色の番重。
それをジャイロバードの左翼付け根へ打ち込む。
水中と違う。
深海では水の抵抗が重さを殺していた。
だが、ここは空気中だ。
星芯番重が数倍速い速度で落ちる。
どん、と左翼付け根に当たる。
ジャイロバードの回転が一瞬ぶれる。
「次、右脚の外側。叩いてください。斬らないで」
「おう!」
番重を落とす。
ジャイロバードが姿勢を崩す。
胴体の回転が、ほんの少し遅くなる。
だが、まだ止まらない。
谷の重力が乱れ、俺たちの体が斜め上に引っ張られる。
すぐに星芯番重を足場にする。
ブラウスもグルメスモックで耐えていた。
「次は胴体中央。軽くです。強く打つと肉が割れます」
「軽くって難しいな!」
「できます!」
「信頼が重い!」
俺は星芯番重を薄く、小さくして落とした。
強く叩くのではなく、回転の芯をずらすように打つ。
ジャイロバードの胴体がぐらりと揺れた。
今まで見えなかった中心線が、はっきり見える。
叩くべきか。
斬るべきか。
それまで、しっかりと理解できる。
すごい。
ブラウスの山神俎板があると、戦闘が戦闘ではなくなる。
調理になる。
「最後です」
ブラウスが言った。
「回転が落ちた今なら、首の下の筋を切れます。そこなら味が逃げません」
「分かった」
俺は両腕に食欲を集めた。
黒銀色の刃。
星の芯の重さを宿した二枚の刃。
「星芯鋏――圧断」
ジャイロバードが最後に大きく回転した。
周囲の重力が暴れる。
小石が空へ落ちる。
木の枝が横へ折れる。
俺の体も持っていかれそうになる。
だが、星芯番重が受け皿になる。
足場を作る。
体勢を固定する。
そして、星芯鋏がジャイロバードの首下の筋を挟んだ。
挟む。
逃がさない。
押し切る。
ぱきん、ではない。
す、と刃が通った。
ジャイロバードの回転が止まる。
暴れていた重力が静かになる。
鳥の体が、ゆっくりと地面へ落ちた。
スムーズに倒すことができた。
しかも、肉の状態はたぶん悪くない。
無駄に潰していない。
旨味も逃げていない。
これは、かなりうまそうだ。
「ブラウス!」
俺は思わず振り返った。
「すげえよ今の!」
ブラウスは少し照れたように笑った。
「僕もアナザで成長しましたよ」
「いや、本当にすごい」
「サポートくらいはできます」
「くらいじゃないって。頼りにしてるよ」
俺がそう言うと、ブラウスは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに頷いた。
「はい」
その顔は、アナザビオトープへ来る前とはやはり違っていた。
自信がある。
でも、慢心ではない。
食材と向き合う覚悟がある。
「ニュースも、これでしっかりと理解していきます!」
「おう!」
かなり順調だ。
星芯番重で多重力の谷を進む。
山神俎板で食材と地形を理解する。
俺とブラウスの連携は、アナザビオトープに入る前とは比べものにならないくらい良くなっている。
俺たちはジャイロバードをグルメケースへ収めた。
あとでブラウスに調理してもらおう。
絶対うまい。
はむまるも肩の上で「きゅ!」と鳴いていた。
食べる気満々だ。
「じゃ、行くか」
「はい」
俺たちはこのまま、多重力の谷をどんどん進んでいった。