俺たちは順調なペースで進んでいた。
多重力の谷は、相変わらず意味が分からない。
重力が下に向いたと思えば、次の瞬間には横へ流れる。
足元の石がふわりと浮いたかと思えば、急に地面へ叩きつけられる。
滝は横へ流れ、木は斜めに生え、虫のような小型猛獣が上へ落ちていく。
普通に歩こうとすれば、何度も体を持っていかれる。
だが、慣れてくると面白い。
星芯番重を足場にし、重力の向きに合わせて体を預ける。
落ちる方向を間違えなければ、谷を歩くどころか、駆け上がることすらできる。
「アマジンさん、右です。次の重力は右斜め上に流れます」
「了解!」
ブラウスの声に合わせて、俺は星芯番重を右斜め上へ出す。
次の瞬間、体がふわりと浮き、斜め上へ落ちた。
落ちる。
だが、それは墜落ではない。
重力を使った跳躍だ。
番重を踏み、さらに上へ。
多重力を敵にすれば危険だが、味方にすればかなり移動が楽になる。
ブラウスも以前よりずっと成長していた。
俺が守らないと。
そんな感じではなくなっている。
もちろん、グルメスモックで守ってはいる。
だが、ブラウスはただ守られるだけではない。
山神俎板で重力の流れを読み、食材の気配を探り、進むべき場所を判断してくれる。
俺が力で道を作る。
ブラウスが料理人の目で道を読む。
それが噛み合っている。
アナザビオトープに入る前とは、明らかに違っていた。
何日か進むうちに、俺たちは多重力の流れにもだいぶ慣れた。
途中で岩肌トカゲという岩そっくりのトカゲを捕獲した。
山神俎板がなければ、ただの岩だと思って踏んでいたかもしれない。
カカオ枯木も見つけた。
枯れ木のような見た目だが、中には濃厚なカカオの樹液が詰まっている食材だ。
重力のせいで枝が上にも横にも伸びていて、近づくと硬い枝を槍のように飛ばしてきた。
星芯番重で受け止め、ブラウスの指示通りに切って採取した。
そして、数日かけて、俺たちは多重力の谷を抜けた。
「……抜けた、のか?」
俺は後ろを振り返った。
そこには、ぐにゃぐにゃと重力が乱れた谷が広がっている。
石は浮き、滝は横に流れ、木々は変な方向へ伸びていた。
だが、俺たちの足元には普通の重さがあった。
ちゃんと下へ重力がある。
当たり前のことなのに、ちょっと感動する。
「抜けたみたいですね」
ブラウスもほっと息を吐いた。
今いる場所は岩場だった。
ごつごつした岩が広がり、風は乾いている。
だが、目の先には森が見えた。
ただの森ではない。
遠くから見ているだけなのに、どこか異様だった。
木々の密度が高い。
緑が濃い。
森全体が、眠っている巨大な生き物の毛並みのようにも見える。
「食域の森……」
俺は呟いた。
ニュースがある森。
フワ爺が言っていた場所。
もしかすると、かつての鹿王スカイディアが山となり、森となった場所。
いよいよ、そこまで来た。
だが、まずは飯だ。
「とりあえず、今日は飯にしよう」
「賛成です」
ブラウスはすぐに頷いた。
多重力の谷を抜けたばかりで、体も食欲も消耗している。
研究所で食べた飯はもうかなり消費した。
星芯番重を出し続け、グルメスモックでブラウスを守り、谷を進み続けたのだ。
腹が減らないわけがない。
俺たちは岩場の少し平らな場所を選び、食材を取り出した。
ジャイロバード。
岩肌トカゲ。
カカオ枯木。
どれも多重力の谷で捕獲した食材だ。
「では、調理します」
ブラウスは響金包丁ハルシアを取り出した。
そのまま目を閉じ、静かに息を吸う。
「山神俎板」
空気が変わった。
戦闘中に見た時と同じだ。
だが、今度はもっと穏やかだった。
ブラウスの足元に、目に見えない俎板が広がる。
いや、岩場そのものが調理場へ変わったように感じる。
周囲の地形。
空気。
香り。
水分。
残った重力の揺れ。
食材の気配。
それら全部が、ブラウスの中で整理されていく。
俺の目には、何も出現していない。
でも、錯覚する。
ブラウスの周囲に厨房が広がっている。
岩場に立っているはずなのに、そこだけ清潔な調理台があるような気がする。
火の位置。
包丁を入れる角度。
蒸すべき時間。
燻すための香り。
カカオ枯木をどのタイミングで使うべきか。
そういうものが、ブラウスの手元に集まっていく。
すごい技を覚えたものだ。
いや、アナザを食べただけじゃない。
アナザと向き合い、食材との会話を覚えた。
その心構えが変わったことで、技のイメージが溢れ出したのだろう。
父親のガウンさんが山の香りを読むなら、ブラウスは山を俎板にして食材を理解する。
戦闘でも、調理でも。
ブラウスらしい技だ。
ブラウスはまずジャイロバードの胴体に包丁を入れた。
回転していた肉の繊維が、渦を描いている。
それを崩さないように下処理し、谷で採取した香草を詰める。
次に岩肌トカゲ。
表面は岩のように硬いが、内側の肉は柔らかいらしい。
ブラウスは硬い皮を無理に剥がさず、薄く切れ目を入れ、カカオ枯木の煙を使ってじっくり燻していく。
カカオ枯木は、ただの枯れ木ではなかった。
火にくべると、甘く濃厚な香りが立ち上る。
チョコレートのようで、少し焦げたナッツのようでもある。
その煙が岩肌トカゲの肉に染み込んでいく。
はむまるが肩の上でそわそわし始めた。
「まだだぞ」
「きゅ……」
「分かる。俺も今すぐ食いたい」
ブラウスは楽しそうに調理を続ける。
以前のブラウスなら、完璧にやろうとして少し緊張していたかもしれない。
だが今は違う。
食材と話しながら、手を動かしている。
どこか楽しそうだ。
そして、しばらくして。
「完成です」
ブラウスが皿を並べた。
ジャイロバードは蒸し料理になっていた。
渦状の肉が、ふっくらと白く蒸し上がっている。
切り口には、肉汁がぐるりと巻くように光っていた。
上には、カカオ枯木の樹液を少しだけ煮詰めたソースがかかっている。
岩肌トカゲは燻製のようになっていた。
岩のような皮を器にして、その中に燻された肉が並んでいる。
表面は香ばしく、内側はしっとりしていそうだ。
カカオ枯木の香りが、肉の匂いと混ざっている。
「どれもうまそうだ」
「多重力の谷らしい組み合わせにしてみました」
「多重力の谷らしい味ってなんだ?」
「食べれば分かります」
「なるほど。食えば分かるなら食うしかないな」
俺たちは手を合わせた。
「いただきます」
まず、ジャイロバードの蒸し肉を食べる。
うまい。
肉の繊維が渦を巻いているせいか、噛むたびに旨味の方向が変わる。
最初は淡白。
次に脂。
そのあと、香草の香り。
最後に、カカオ枯木のほろ苦い甘さが追いかけてくる。
口の中で味が回転する。
「これ、すごいな……!」
「ジャイロバードの回転の癖を残してみました」
「味がぐるぐるする」
「表現は雑ですが、たぶん合っています」
次に岩肌トカゲの燻製。
外側は香ばしく、内側は驚くほど柔らかい。
噛むと、燻された肉の旨味と、カカオ枯木の甘苦い香りが広がる。
岩みたいな見た目からは想像できないほど上品な味だ。
肉の中に、わずかに鉱物っぽい風味がある。
アナザを食べてから、そういう味も分かるようになった。
たぶん以前の俺なら、ただの肉の味として食べていたかもしれない。
今は違う。
岩肌トカゲが、多重力の谷の岩場でどう生きていたのか。
カカオ枯木が、めちゃくちゃな重力の中でどう枝を伸ばしていたのか。
その味が、少しだけ分かる。
「うまいな」
「はい」
ブラウスも嬉しそうに食べている。
はむまるも小皿の肉を頬袋いっぱいに詰めていた。
食事を終える頃には、体に力が戻っていた。
星芯番重を維持し続けた疲労も、かなり回復した。
食材の力は本当にすごい。
そして、それを引き出すブラウスの料理もすごい。
食べ終わった後、俺たちはそのまま岩場で休むことにした。
目の前には食域の森。
ニュースが眠る森。
何かの生き物の頭上のようだと言われる場所。
今日すぐに入るには、少し気が重い。
多重力の谷を抜けたばかりだ。
無理はしない方がいい。
「今日はここで休もう」
「そうですね。森に入るなら、明日の方がいいと思います」
ブラウスも頷く。
俺は星芯番重を少し離れた場所に配置し、簡単な壁と屋根代わりにした。
はむまるは満腹になったのか、すでに丸くなっている。
夜の準備をしながら、俺は森を見た。
静かだ。
だが、静かすぎる。
あの森の奥に、ニュースが眠っている。
五つ目の一皿。
味のない食材。
そして、もしかしたら八王の残滓。
俺は腹を満たした体で、静かに息を吐いた。
明日、食域の森へ入る。
その前に、今日はしっかり休もう。