食域の森。
広大な森だ。
見渡す限り、木、木、木。
一本一本が異様に太く、枝は空を覆い隠すほど伸びている。
森というより、緑の壁だ。
この先にニュースがある。
そう聞いている。
だが、ここからどれだけかかるのか、想像もできない。
期限の三か月まで、あと二か月ちょっと。
エア、ペア、アトム、アナザ。
そして今、ニュース。
順調に来ているようにも思える。
だが、ニュースの後にもアース、ゴッド、センターが控えている。
正直、厳しそうだ。
特にセンター。
あれは最後の難関と言われている。
何が起こるのかも分からない。
焦っても仕方ない。
だが、のんびりもしていられない。
「行きましょう」
隣でブラウスが言った。
白いグルメスモックを着たまま、響金包丁ハルシアを腰に差している。
以前より、声が落ち着いている。
怖がっていないわけではない。
だが、目は前を向いていた。
「ああ」
俺たちは食域の森に踏み込んだ。
森へ入れば、猛獣の鳴き声がそこら中から聞こえると思っていた。
デビル大蛇。
アシュラサウルス。
原作でも、とんでもない猛獣たちがいた場所だ。
しかも千年が経っている。
グルメインフレーションで、原種よりさらに強い猛獣がいてもおかしくない。
いや、たぶんいる。
だから、かなり警戒していた。
星芯番重を二枚、周囲に浮かべる。
小型化したはむまるは俺の肩で鼻をひくひく動かしている。
ブラウスも山神俎板をいつでも使えるように、周囲の気配に意識を向けていた。
だが。
「……静かだな」
「はい」
森は、妙に静かだった。
鳥の声も少ない。
虫の羽音もほとんどしない。
葉が揺れる音だけが、やけに大きく聞こえる。
猛獣の気配はある。
だが、それが遠い。
近くにいるはずなのに、息を潜めているような感じがする。
嫌な静けさだ。
俺は鼻を鳴らした。
その瞬間、顔をしかめる。
「ブラウス、これ……」
「なんとなく、そんな気はしていました」
ブラウスも表情を険しくしている。
死臭だ。
腐った肉の匂い。
血の匂い。
内臓が破れ、地面に染み込んだ匂い。
森の甘い植物臭に混ざって、嫌な匂いが鼻を突いていた。
少し進むと、それはすぐに見つかった。
猛獣の死体。
巨大な四足獣だった。
角が三本あり、背中に苔のような毛が生えている。
おそらくかなり強い猛獣だ。
だが、腹が裂かれ、肉が食い荒らされていた。
骨が露出し、内臓が散らばっている。
周囲の木には、血が飛び散っていた。
はむまるが小さく震える。
「……きゅ」
「大丈夫だ」
俺は肩の上のはむまるを軽く撫でた。
嫌な予感がする。
グリーントロルかもしれない。
全フルコースビオトープに一回ずつ現れたという話。
ここにもすでに来ているはずだ。
なら、食域の森で何かが暴れていてもおかしくない。
だが。
「違う……気がする」
「アマジンさんもそう思いますか」
ブラウスが死体を見つめた。
「グリーントロルは、エアの時、もっと綺麗に食べました」
「だよな」
俺も頷く。
グリーントロルが全員同じかは分からない。
食い散らかしている。
殺して、裂いて、食べ残している。
飢えた猛獣の食べ方。
あるいは、食べることそのものよりも、壊すことを優先したような跡。
「ほかの何かか……?」
「まだ分かりません」
ブラウスは周囲を見た。
「でも、近くに長居はしない方がいいと思います」
「だな」
俺たちは死体に手を合わせた。
食べるために殺したわけではない。
俺たちが食べるわけでもない。
だが、この世界で命を見たら、やはりそうしたくなる。
そして、先へ進む。
嫌な匂いは、森の中に薄く続いていた。
猛獣の死体は一つではなかった。
食い荒らされた跡。
爪で抉られた木。
折れた牙。
引きずられた血の跡。
森の静けさの理由が、少しずつ分かってきた。
この辺りの猛獣たちは、何かを恐れている。
あるいは、もう食われた。
まだ分からない。
だが、進むしかない。
ニュースはこの先だ。
俺たちは慎重に森を進んだ。
星芯番重を前に出し、周囲を守る。
ブラウスは時折立ち止まり、匂いと気配を読む。
山神俎板を広げているのだろう。
森の地形、植物、湿度、死臭、食材の気配。
それらを一枚の俎板の上に並べるように理解している。
その時だった。
「アマジン」
ブラウスが急に俺を止めた。
「こっちです。来てください」
「おい、どうした!」
ブラウスは俺の返事を待たずに歩き出した。
速い。
危険を感じているというより、何かに強く引かれているようだった。
いつもの慎重なブラウスとは少し違う。
「ブラウス!」
「こっちです!」
森の中を進む。
大木の根を越え、苔むした岩の横を抜ける。
死臭は少し遠ざかっていく。
代わりに、妙な気配が強くなった。
空気が薄い。
いや、違う。
空気の位置がずれているような感じ。
空間そのものが、少しだけ噛み合っていない。
そして――。
「これは……」
俺は足を止めた。
そこに、歪みがあった。
木々の間。
何もないはずの空間が、ゆらゆらと揺れている。
水面越しに景色を見ているように歪んでいる。
向こう側には、同じ森が見える。
だが、少し違う。
緑の色が濃い。
光の角度が違う。
奥から、かすかな匂いがする。
肉でも、植物でも、血でもない。
もっと古い匂い。
どこか、食卓の匂いにも似ていた。
「ワープロード……か?」
俺は呟いた。
裏の世界。
ワープキッチン。
ワープロード。
かつて、宇宙を制する技術とも思われた移動技術。
ニュースを食べることで開眼する極意。
もちろん、今の俺が使えるわけではない。
だが、目の前の歪みはそれに似ている気がした。
いや、正確には分からない。
ただの空間異常かもしれない。
この森では、急に老いたり、どこかへ飛ばされたりするという話を聞いていた。
立てた門が朽ちる。
作業員が消える。
監督が老人になる。
それらは、こういう歪みに触れた結果なのかもしれない。
「まずいな」
俺は一歩下がった。
「迂回するか。こんなの、どう考えても危ないだろ」
だが、ブラウスは歪みを見つめたままだった。
「アマジン、入りましょう」
「え!? いや、流石に……!」
俺は思わず声を上げた。
ブラウスは慎重だ。
無茶なことは嫌う。
特に危険な食材調達では、俺よりずっと冷静に止める側だ。
そのブラウスが、空間の歪みに入ろうと言っている。
意味が分からない。
「大丈夫です」
「大丈夫って、何を根拠に」
「アマジンも分かるでしょう?」
ブラウスがこちらを見る。
「嫌な感じはしません」
「……」
俺は歪みを見た。
確かに。
嫌な感じはしない。
怖い。
危険そうではある。
だが、死体を食い荒らしていた何かの匂いとは違う。
グリーントロルのような圧もない。
殺意もない。
むしろ、招いているような感じがする。
食材に近い。
誰かが、食卓の椅子を一つ引いたような気配。
そんな変な感覚だった。
「山神俎板で見ても、これは拒絶ではありません」
ブラウスは言った。
「罠かもしれないです。でも、少なくとも今の森の中をまっすぐ進むより、こちらの方がニュースに近い気がします」
「ニュースに?」
「はい。味が薄いんです」
「味が薄い?」
「そこだけ、周囲の味が抜けています。アナザを食べた後だから分かるのかもしれません。何もない場所ではなく、味のないものが通った跡です」
味のないもの。
ニュース。
そう言われると、急に歪みの見え方が変わった。
ただの空間異常ではない。
ニュースへ近づくための何か。
あるいは、ニュースが通った跡。
そう考えると、無視するわけにもいかない。
だが、危険なのは間違いない。
「……慎重なブラウスがそう言うほどだ」
俺は息を吐いた。
「信じてみる価値はあるか」
ブラウスが小さく頷く。
「はい」
「分かった。入ろう」
俺は星芯番重を一枚、前に出した。
もう一枚を背後へ。
頭上にも一枚。
ブラウスとのグルメスモックの繋がりを強める。
はむまるを肩から胸元へ移し、しっかり押さえる。
「何かあったらすぐ戻るぞ」
「はい」
「戻れなかったら?」
「その時は、その時です」
「ブラウスが言うと怖いな、それ」
「アマジンさんの真似です」
「俺そんなこと言う?」
「言います」
言うかもしれない。
俺は苦笑しながら、歪みの前に立った。
空間が揺れている。
向こう側の森が、こちらを見ているようだった。
俺たちは並んで、空間の歪みに足を踏み入れた。