空間の歪みに足を踏み入れた瞬間、視界がぐにゃりと曲がった。
森が伸びる。
木々が歪む。
足元の感覚が、一瞬だけ消える。
上下が分からなくなる。
まるで、口の中で薄い膜を破ったような感覚。
気持ち悪い。
だが、吐き気がするほどではない。
そして次の瞬間、俺たちは別の場所に立っていた。
「……嘘だろ」
思わず声が出た。
そこは森の中だった。
だが、さっきまでの森とは違う。
この場所だけ、森が吹き抜けのようになくなっている。
周囲には巨大な木々が壁のように立っているのに、中央だけぽっかりと空いていた。
空が見える。
エリア五の濃い空。
木の枝に遮られない空が、円形に切り取られている。
まるで、巨大な生き物の頭に開いた穴のようだった。
「ほら、入ってよかったでしょう!」
ブラウスが少し得意げに言った。
「いや、これは……」
俺は周囲を見回した。
嫌な気配はない。
死臭も薄い。
むしろ、妙に静かで、どこか神聖ですらある。
そして、その中央には――。
「……肉?」
ギチギチに詰まった肉。
それが、天まで伸びていた。
遠くからはそんな様子は一切見えなかったのに。
柱のように。
木の幹のように。
地面から生え、そのまま空へ向かって伸びている。
表面は筋繊維が密集したように波打ち、ところどころに脂のような白い線が走っていた。
肉の木。
いや、木ではない。
多分、地面の下にもこの肉が続いている。
地上に見えているのは、ほんの一部なのかもしれない。
周囲の土からも、肉の匂いがする。
だが、普通の肉の匂いではない。
味が薄い。
あるのに、ない。
そこに存在しているのに、舌の上から逃げるような気配。
「まさかこんなショートカットができるなんて……!」
俺は思わず笑った。
「ナイスだ、ブラウス!!」
「ふふ。山神俎板のおかげです」
ブラウスは少し胸を張った。
確かに、あの歪みに入ろうと言ったのはブラウスだ。
俺一人なら、絶対に避けていた。
危ないから。
怪しいから。
でも、ブラウスは嫌な気配がしないと判断した。
そして、その判断は当たった。
俺たちはたぶん、食域の森をかなりショートカットした。
目的地。
ニュースのすぐ近くまで。
「早速調理します!!」
ブラウスが響金包丁ハルシアを手に、肉の柱へ向かって歩き出した。
俺も後ろについて行く。
ニュース。
地球のフルコースの一つ。
肉。
その知識はあった。
猛獣の肉だと思っていた。
原作の記憶でも、ニュースは肉だったはずだ。
だが、まさか肉自体が木のように生えているなんてな。
いや、これも千年後だからなのか。
それとも、元々こういうものだったのか。
よく分からない。
ただ、目の前にあるものがニュースであることは分かる。
アナザを食べた後だからだろうか。
味のない肉の気配が、そこにある。
しかし、ブラウスは肉のかなり手前で足を止めた。
まだ距離がある。
百メートル以上は離れている。
なのに、そこからじっとニュースを眺めている。
「ブラウス?」
「……これ」
ブラウスは小さく息を吐いた。
「そばに寄るだけで、数日かかるかもしれません」
「まじかよ……」
俺はニュースを見た。
距離は百メートル以上。
普通に歩けばすぐだ。
だが、ブラウスは進まない。
いや、進めないのではない。
進んでいる。
ほんの少しずつ。
数センチずつ。
何かをかき分けるように。
何かを避けるように。
見えない糸の隙間を探すように。
ブラウスは、ニュースへ近づいていた。
山神俎板が発動している。
俺にも、薄く感じる。
この場所全体が、巨大な俎板の上にある。
だが、ニュースの周囲だけは違う。
ただの肉ではない。
いくつもの気配が重なっている。
食材の声。
肉の記憶。
眠っている何か。
それらが層になって、ニュースの周囲を包んでいる。
無理に近づけば、たぶん弾かれる。
あるいは、消える。
老いる。
どこかへ飛ばされる。
そんな話が、頭をよぎった。
「怖くないですよ」
ブラウスが、ニュースに向かって声をかけた。
その声は優しい。
アナザに話しかけていた時と似ている。
だが、相手は魚ではない。
肉の柱だ。
それでもブラウスは、ちゃんと食材として話しかけている。
「僕はブラウスです。あなたを食べに来ました。でも、乱暴にはしません」
数センチ進む。
また止まる。
包丁を握る手に力は入っていない。
構えているのに、斬ろうとしていない。
話しかけている。
ニュースが返事をするのを待っている。
「アマジン」
「ん?」
「多分この子、何度か泣くと思います」
「泣く?」
ブラウスはニュースから目を離さずに言った。
「その時は、周囲を警戒してください」
「え? わ、分かった」
俺は星芯番重を周囲に浮かべた。
前方に一枚。
左右に二枚。
頭上にも一枚。
ブラウスを守れる位置に、少し厚めのグルメスモックも維持する。
はむまるは俺の胸元に押し込むように抱える。
「きゅ……」
「静かにな」
その直後だった。
ニュースが震えた。
肉の柱の表面が、ぶるりと波打つ。
そして。
「きゅあああああああああああ!!」
まるで超音波のような声が、ニュースから叫ぶように聞こえた。
耳が痛い。
頭の奥を掻き回される。
音ではない。
味のない叫び。
舌の上に何も乗らないのに、体の奥だけが震える。
ニュースが泣いた。
そう思った。
その瞬間、森が騒ぎ出した。
静かだった森の奥から、いくつもの気配が動く。
木々が揺れる。
枝が折れる。
地面が震える。
猛獣の唸り声。
足音。
咆哮。
さっきまで息を潜めていた森が、一斉に目を覚ましたようだった。
「まじかよ……!」
俺は星芯番重を構え直した。
森の奥から猛獣が走ってくる。
一体ではない。
何体もいる。
ニュースに向かっている。
泣き声に引き寄せられたのか。
守ろうとしているのか。
食おうとしているのか。
分からない。
だが、ニュースへ殺到しているのは間違いない。
ブラウスは振り返らなかった。
ニュースを見ている。
ゆっくり、数センチずつ近づいている。
ここで止まったら、たぶん駄目だ。
ニュースとの会話が切れる。
そう感じた。
「ブラウス!」
俺は叫んだ。
「こいつらは俺に任せて、調理に集中しろ!」
「お願いします!」
ブラウスは短く答えた。
その声は震えていない。
俺を信じている。
なら、やるしかない。
俺は前に出た。
星芯番重を三枚、森側へ展開する。
黒銀色の重い皿が、ニュースへ向かう道を塞ぐように浮かぶ。
さらに両腕に食欲を集める。
星芯鋏。
黒銀色の刃が形を取る。
迫ってくる猛獣たちの気配が、どんどん近づいてくる。
食域の森。
ニュース。
泣く肉。
集まる猛獣。
ここから先は、俺の仕事だ。
「来い」
俺は息を吐いた。
「ブラウスの調理の邪魔はさせねえ」