「さすがに疲れたな……」
俺は木の根元に腰を下ろし、肩を回した。
ニュースの泣き声を初めて聞いてから、数日が経っていた。
あれからニュースは、二十回以上泣いた。
そのたびに森が騒ぎ出し、猛獣が押し寄せてきた。
俺はそれを、ひたすら倒した。
星芯番重で叩き落とし。
星芯鋏で断ち。
近づくものは弾き飛ばし。
遠くから来るものは番重落としで潰す。
最初は余裕があった。
だが、二十回以上となるとさすがにきつい。
グルメスモックでブラウスを守り続け、星芯番重を維持し、星芯鋏も何度も使った。
さすがに腹は減る。
体の奥が食材を求めていた。
周囲には、倒した猛獣がステンレス製の番重に乗って並んでいる。
トロルコングのような猿型猛獣。
二足歩行のドラゴン。
鳥獣類。
四本腕の鹿。
岩のような甲殻を持つ虫。
名前も知らない猛獣ばかりだ。
とはいえ、そのままいけそうなやつ、焼くだけで食えるようなやつは食べた。
さすがに補給が必要だった。
ブラウスはニュースから目を離せない。
調理に集中している。
だから、簡単なものは俺が焼いた。
焼くだけ。
味付けは最低限。
だが、食域の森の猛獣はそれでもうまかった。
アナザを食べた後だからか、肉の奥にある情報のような味まで感じる。
こいつは森で何を食っていたのか。
どこを走っていたのか。
何を恐れていたのか。
そういうものが、うっすらと舌に残る。
少しだけ、ニュースに近づいている気がした。
ブラウスは、やっとニュースの目の前にいた。
数日前、百メートル以上離れた場所から始まった。
数センチずつ。
ニュースに声をかけながら。
泣かれても、動揺せず。
猛獣が集まっても、振り返らず。
俺を信じて、進み続けた。
今、ブラウスはニュースのすぐ前に立っている。
だが、まだ触れていない。
じっと見るだけ。
響金包丁ハルシアを手にしているのに、包丁は動かさない。
ただ、見ている。
ニュースの肉。
ギチギチに詰まった肉の柱。
その表面を。
隙間を。
筋を。
呼吸のような微かな動きを。
俺には、ただの肉の塊にしか見えない。
だが、ブラウスには違うのだろう。
山神俎板。
この場所全体を俎板として認識し、食材を理解する技。
ブラウスは今、ニュースそのものと会話している。
俺は信じて待つしかない。
猛獣を食いながら。
「……うま」
焼いた鳥獣類の肉を噛み、俺はぼそっと呟いた。
うまい。
でも、今一番食べたいのはあれだ。
ニュース。
目の前にある、味のない肉。
あんなに旨そうなのに、味がないという意味が分からない。
いや、今なら少し分かる。
あれはたぶん、普通に食べても味がしない。
ただの肉として切れば、何も分からない。
ちゃんと調理して、ちゃんと向き合わないと、食材としてこちらを向いてくれない。
その時は、急に来た。
ブラウスが動いた。
今までの静けさが嘘のようだった。
響金包丁ハルシアが、音もなく閃く。
一刀目。
肉の表面に刃が入る。
だが、切り裂いたというより、間を外したように見えた。
ギチギチに詰まった肉と肉の間。
繊維と繊維。
筋と筋。
その隙間だけを、正確に通している。
二刀目。
三刀目。
ブラウスの動きが速くなる。
ニュースはただの肉の塊ではない。
肉が詰まっている。
だが、詰まっている肉には配列がある。
無理に切れば壊れる。
押し広げれば泣く。
力任せに削れば、味が逃げる。
だから、外す。
肉と肉の間を。
詰まったものを崩さず、必要な一塊だけを取り出す。
「……すげえ」
俺は思わず呟いた。
ブラウスの集中力はすさまじい。
ニュースが小さく震える。
泣きそうになる。
だが、ブラウスは声をかける。
「大丈夫です」
包丁を入れる。
「痛くしません」
また外す。
「ここだけ、分けてもらいます」
さらに刃が走る。
そして。
ぼとり。
大きなひと固まりが落ちた。
肉の塊。
ニュースの一部。
地面に落ちた瞬間、周囲の空気が薄くなった気がした。
違う。
味が抜けた。
いや、味のないものが、そこへ落ちた。
その瞬間、ニュース本体の肉が動いた。
切り取られた場所を埋めるように、周囲の肉が整列し直す。
ギチギチと詰まり直す。
表面の筋が変わる。
さっきまであった線が消える。
新しい線が生まれる。
包丁を入れる場所が変わった。
「まじか……」
一度切ったら終わりではない。
一塊を落とすたびに、ニュースは配列を変える。
そのたびに、調理の正解も変わる。
ブラウスはそれを見逃さない。
再び動く。
今度はさっきと違う角度。
深さも違う。
速度も違う。
ハルシアの刃が、肉の間を泳ぐように入っていく。
二つ目の塊が落ちる。
また肉が整列し直す。
三つ目。
四つ目。
ブラウスは、コツを掴んだのか、次々と固まりを落としていった。
だが、雑にはならない。
一刀ごとにニュースを見ている。
一刀ごとに声を聞いている。
一刀ごとに、食材に確認している。
合計で五つ。
五つの肉塊が、ニュース本体から切り出された。
ブラウスはその時点で、包丁を止めた。
それ以上は切らない。
きっと今は、ここまでなのだ。
「アマジン!」
ブラウスがこちらを振り返った。
「そちらに戻ります。番重でニュースを乗せられますか?」
「任せろ!」
俺は立ち上がり、すぐにステンレス製の番重を五枚出した。
星芯番重ではない。
保存用なら、消費が少ないステンレス製で十分だ。
ブラウスが慎重にニュースの塊を運ぶ。
いや、運ぶというより、食材に触れないように浮かせるような動きだ。
俺も番重を近づける。
一つ目のニュースが、番重に乗った。
「う……」
腕に重さが来た。
「見た目以上の重さだな……!」
本当にギチギチに詰まっている。
ただの肉塊ではない。
密度が異常だ。
番重が少し沈む。
ステンレス製だから壊れるほどではないが、かなり重い。
そして何より。
「うまそう……」
俺は思わず唾を飲んだ。
食いたい。
めちゃくちゃ食いたい。
今すぐ噛みつきたい。
ニュースの肉塊は、見た目だけなら生肉だ。
だが、その表面には情報のようなものが詰まっている。
味がないはずなのに、食欲を掴んで離さない。
まるで、何かを知るために食えと言われているようだ。
「食いたい!」
「まだです!」
ブラウスが即座に止めた。
「最後の仕上げがいります」
「うう。我慢だな……!」
「はい。今食べたら、ただの味の薄い肉で終わってしまうと思います」
「それは困る」
「ふふ。すぐに済ませますよ」
ブラウスはニュースの木から離れ、俺のいる場所まで戻ってきた。
五つのニュースの塊が、ステンレス製の番重に並んでいる。
どれも大きい。
どれも重い。
どれも旨そうだ。
ニュース本体は、もう泣いていなかった。
切り取られた場所も、すでに肉で埋まっている。
まるで何事もなかったかのように、肉の柱は空へ伸びていた。
だが、俺たちの前には確かに五つのニュースがある。
ブラウスはその前に立ち、山神俎板を改めて広げた。
今度は、ニュース本体ではなく、切り出した肉塊に向けて。
調理はまだ終わっていない。
むしろ、ここからが最後の仕上げだ。
俺は腹を鳴らしながら、それを見守ることにした。
「早く……」
「急かさないでください」
「はい……」
ブラウスは楽しそうに笑い、響金包丁ハルシアを構え直した。