毒の雨は、スコールのように降り注いでいた。
ぽつぽつ、などという可愛いものではない。
ざあああああ、と空から紫色の液体が叩きつけられる。
雨粒は大きく、粘り気を帯びており、地面に落ちるたびに毒草の葉を震わせた。
足元の泥は紫黒く濁り、ところどころ泡立っている。
普通の靴なら、数分で溶けてもおかしくない。
いや、そもそも普通の人間なら、この空気を吸った時点で倒れているだろう。
グルメスモックがなければ、俺もとっくに危なかった。
白い給食着のような食欲の膜が、毒雨を受け止める。
雨粒が触れるたび、じゅ、と小さな音を立て、表面が紫に染まる。
毒は内部まで浸透してこない。
だが、受け止めた分だけスモックは摩耗していく。
さっき纏い直したばかりだというのに、袖や肩の部分はもう薄くなり始めていた。
「思ったより、削られるのが早いな……」
俺は歩きながら舌打ちした。
雨を防ぐ。
毒を防ぐ。
呼吸を守る。
足元の泥から体を守る。
グルメスモックは本当に優秀だ。
だが、万能ではない。
食欲のエネルギーでできている以上、使えば使うほどカロリーを消費する。
そして、強い毒を受ければ受けるほど、表面の構造が崩れていく。
毒雨草原に入る前にできるだけ食べておいて正解だった。
もし空腹状態でここに入っていたら、今頃かなり危なかったかもしれない。
俺は自分のスモックの状態を確認する。
肩。
袖。
胸元。
マスク部分。
全体的に薄い。
まだ持つ。
だが、このまま進めば不安が残る。
かといって、完全に解除してから着替え直すのは危険だ。
一瞬でも無防備になれば、この毒雨を直接浴びる。
毒の空気も吸う。
なら、どうするか。
この環境で編み出した方法がある。
グルメスモックを着たまま、着直す方法だ。
腹の奥へ意識を落とす。
今纏っている古いスモックのさらに内側。
肌に近い場所に、新しい食欲の膜を作る。
イメージは重ね着。
古い服の下から、新品のスモックを押し出す。
「……グルメスモック、リロード」
小さく呟き、食欲のエネルギーを一気に巡らせる。
内側から、新しい白いスモックが膨らんだ。
同時に、外側の古いスモックがぱきぱきとひび割れる。
毒を吸い、紫に染まった表面が、薄い殻のように砕けていく。
俺は両腕を払った。
古いスモックが破れ、弾き出されるように雨の中へ散った。
直後、新品の白いスモックが全身を覆う。
マスクも作り直す。
呼吸が少し楽になった。
「よし……いける」
消耗はある。
だが、無防備になるよりずっと安全だ。
毒雨草原では、これを定期的に行う必要があるだろう。
着替えが命に関わる場所。
前世の俺が聞いたら意味が分からなかったに違いない。
そんなことを考えながら進んでいると、あたりが少しずつ暗くなってきた。
毒雨の雲に覆われているせいで、もともと明るくはない。
だが、確実に日が落ち始めている。
紫の草原は、夕闇の中でさらに不気味さを増していた。
黒い霧は遠く、まだ近づいている気配はない。
視界は悪くなる一方だ。
「今日はどこかで休もう」
無理に進むべきではない。
この草原には、毒の底なし沼もある。
資料で見た時は、ただの危険地形の一つとして流していたが、実際にこの環境に入ってみると恐ろしさが分かる。
足元が見えない状態で踏み抜けば終わりだ。
グルメスモックで毒を防げても、沼に沈めばどうしようもない。
幸い、ここまで大型のモンスターには出会っていない。
それは本当に助かっていた。
正直、今来られると厳しい。
戦えないわけではない。
ガララワニも仕留めた。
学園ではもっと強い相手とも模擬戦をした。
だが、それは環境が整っていたからだ。
今は違う。
毒雨。
毒の空気。
足元の不安定な泥。
グルメスモックの消耗。
体内カロリーの管理。
環境に対応するだけで精いっぱいだった。
ここで大型モンスターと戦えば、勝っても消耗が大きすぎる。
最悪、戦闘後に倒れる。
美食屋を目指すなら、戦えるかどうかだけで判断してはいけない。
生きて食材に辿り着くこと。
そのためには、引き際も休む判断も必要だ。
俺は周囲に目を凝らしながら、雨を避けられそうな場所を探した。
しばらく歩く。
草原の中に、一本だけ巨大な大木が立っているのが見えた。
枝葉はほとんど枯れている。
だが、幹は太く、根が地面から大きく盛り上がっていた。
毒雨に長年さらされながら、なお立ち続ける木。
その根元に、淡い光が見えた。
「……誰かがいるのか?」
俺は足を止めた。
ただの発光植物かもしれない。
あるいは、毒を放つ虫の巣かもしれない。
近づくべきか迷った。
だが、光は不規則に揺れている。
焚き火のようでもあり、ランタンのようでもあった。
人の気配がする。
俺は恐る恐る近づいた。
グルメスモックの密度を少し上げ、携帯用調理ナイフに手を添える。
大木の根の隙間。
雨が直接当たりにくい場所。
そこに、一人の少年が身を潜めていた。
多分、俺と同じ年くらいだ。
真っ白な髪。
だが、過酷な環境のせいで髪はぼさぼさに乱れ、ところどころ毒雨の影響か灰色にくすんでいる。
服もひどく汚れていた。
高そうな生地に見えるが、泥と毒で台無しになっている。
膝を抱え、体を小さく丸めている姿は、危険区に挑む者というより、迷子に近かった。
そして、俺よりさらに身軽なのが気になった。
ポシェットを持っていない。
水も食料も、鑑定キットらしきものも見当たらない。
持ち物は、淡い光が漏れ出す長方形のケースだけ。
少年は俺に気づくと、びくりと肩を震わせた。
怯えている。
俺は両手を軽く上げて、敵意がないことを示した。
「なぁ、俺もここで休憩していいか?」
突然現れた俺に、少年は大きく目を見開いた。
口を開きかける。
だが、言葉は出てこない。
俺は少し距離を取り、大木の根元に腰を下ろした。
毒雨は相変わらず降っている。
大木の根が屋根のようになっているおかげで、直撃は少ない。
これならグルメスモックの消耗も少し抑えられそうだ。
「助かったよ。暗くなってきたから、休める場所を探してたんだ」
少年は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
警戒しているのか、怯えているのか。
たぶん、両方だ。
俺はマスク部分を少しだけ薄くし、声が聞こえやすいようにした。
「君、名前は? 俺はアマジン」
しばらく沈黙があった。
毒雨の音だけが響く。
やがて、少年は小さな声で答えた。
「僕は……ブラウスです」
「ブラウスか」
俺は頷いた。
「こんな所で誰かに会えると思わなかったよ。俺はエアを取りに来た。ブラウスもか?」
ブラウスは目を伏せた。
長い前髪が白い顔にかかる。
「そうです」
「やっぱり。じゃあ美食屋候補?」
「……違います」
ブラウスの声が、さらに小さくなった。
「無理やり連れてこられたんです」
「無理やり……?」
俺は思わず聞き返した。
危険区に無理やり?
この毒雨草原に?
冗談では済まない。
だが、ブラウスはそれ以上話そうとしなかった。
唇を噛み、ケースを抱える手に力を込めている。
落ち込んでいる。
いや、疲れ切っていると言った方がいいかもしれない。
そこで、ぐう、と音がした。
ブラウスの腹の音だった。
本人は恥ずかしそうに顔を伏せる。
俺はポシェットを見る。
「荷物、それだけか?」
ブラウスは小さく頷いた。
「腹、減ってるだろ。大量ではないけど、食材を持ってるぜ」
その瞬間、ブラウスの目が輝いた。
さっきまで沈んでいた瞳に、はっきりと光が戻る。
やはり、お腹が空いていては気が滅入る。
何かを聞く前に、まずは腹ごしらえだ。
トリコの世界で学んだ一番大切なこと。
食べれば、少しは前を向ける。
俺はポシェットから、保存していた食材を取り出した。
ガララワニの肉。
アイスマッシュルーム。
胡椒ぜんまい。
どれも大量ではない。
だが、二人で食べる分には十分だ。
「すごい……」
ブラウスが思わず呟いた。
その声には、純粋な驚きがあった。
「すまん、俺は料理ができないから、焼いて胡椒ぜんまいをかけるだけだ」
そう言うと、ブラウスは少しだけ顔を上げた。
そして、遠慮がちに言った。
「なら……せめてものお礼です。僕に調理させてください」
「調理……?」
俺は目を瞬かせた。
ブラウスは、抱えていた長方形のケースを膝の上に置いた。
淡い光は、そのケースから漏れていたらしい。
彼は慎重に留め具を外す。
かちり、と小さな音。
ケースが開いた。
中には、三つの輝く瓶が収められていた。
瓶の中には、星屑のような粉末がきらめいている。
そして、その横に。
金色に輝く包丁があった。
俺は息を呑んだ。
毒雨の暗がりの中でも、その包丁ははっきりと輝いていた。
刃は金色。
だが、ただの黄金ではない。
表面に細かな模様が流れ、まるで生きている金属のように微かに脈打っている。
柄の部分には、美しい螺旋状の紋様。
刃先は薄く、しかし見ているだけで分かるほど鋭い。
ブラウスが手に取ると、包丁は淡く光った。
まるで、持ち主に応えるように。
「ちょ……この包丁は!!」
俺は思わず声を上げた。
間違いない。
図書館の資料で見たことがある。
伝説の調理器具の一つ。
二代目メルクの晩年の作品。
響金包丁(きょうきんぼうちょう)ハルシア。
小松の包丁を作り上げた、伝説の研ぎ師にして鍛冶師。
二代目メルク。
宇宙開拓期に入ってからも、彼女はグルメマテリアルを使った金の包丁をはじめ、この世に素晴らしい包丁を数多く生み出してきた。
その作品は、今でも料理人にとって憧れの頂点だ。
だが、晩年のメルクは一つの疑問を抱いたという。
グルメ細胞。
旨いリンゴはより旨くなる。
おいしい牛肉はよりおいしくなる。
その組織の長所を、驚異的に伸ばすことができる細胞。
人体に結合させた場合、圧倒的な生命力を持った超人と化し、旨い食材を食えば食うほどレベルアップするようになる。
では、グルメマテリアルを使った調理道具に、グルメ細胞を適合できればどうなるのか。
その実験から生まれたのが、共鳴調理器具だった。
グルメマテリアルで作られた調理器具たちは、グルメ細胞の適合によって、まるで生き物のように流動し始めた。
相性が合えば、調理する者に共鳴するかのように光る。
包丁はより鋭くなり、刃こぼれしなくなる。
鍋は熱の巡りを最適化し、食材の旨味を逃さない。
フライパンは焼き目の香りを極限まで引き出す。
調理器具それぞれが、自らの特性を伸ばしていった。
だが、未だに量産技術はない。
特に、響金の調理器具は存在しないともいわれるほどの希少品だった。
俺が見た資料でも、実物の所在はほとんど不明。
美食屋や料理人の間では、伝説に近い扱いを受けていた。
その一つが、今、目の前にある。
「ブラウス、お前……」
何者なんだ。
そう聞こうとして、俺は言葉を飲み込んだ。
ブラウスは、すでに食材を見ていた。
怯えた表情は消えている。
白い髪は乱れ、服も泥だらけ。
だが、包丁を握った瞬間、彼の雰囲気は変わった。
弱々しい少年ではない。
料理人だ。
「調理、始めます」
ブラウスは静かに言った。
金色の包丁が、淡く鳴った気がした。
彼はガララワニの肉を手に取る。
刃が走る。
速い。
だが、乱暴ではない。
肉の繊維を見極め、必要な厚さに、必要な角度で切っていく。
包丁はまるで彼の手の延長だった。
一心同体。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
アイスマッシュルームは薄く削られ、傘の部分と軸の部分で切り方を変えられた。
胡椒ぜんまいは、香りを逃がさないよう、茎を軽く潰してから細かく刻む。
俺がやれば、ただ焼いて振りかけるだけだった食材たちが、ブラウスの手の中で料理へと変わっていく。
加熱には、俺の携帯用調理ナイフのプレートを使った。
だが、ブラウスはその小さな熱源すら巧みに扱う。
ガララワニの脂を少しだけ溶かし、その脂でアイスマッシュルームの表面を焼く。
肉は強火で表面を固め、内側に旨味を閉じ込める。
胡椒ぜんまいは最後に入れ、香りだけを立たせる。
毒雨の中、大木の根元。
まともな調理場ですらない。
食材も限られている。
道具も最小限。
それなのに、香りが変わっていく。
ただの焼き肉の匂いではない。
肉の力強さ。
キノコの冷たい旨味。
胡椒ぜんまいの刺激。
それらが重なり、まとまり、一つの料理になっていく。
俺の口の中に、勝手によだれが溜まった。
「最後に……」
ブラウスはケースの中から、輝く瓶を一つ取り出した。
瓶の中で、金と銀の粉末が星空のように揺れている。
「メルクの星屑です」
「メルクの星屑……!」
それも知っている。
伝説の研ぎ師メルクが生み出した、刃を研ぐ際に出る特殊な粉。
トリコで見た食べてみたい調味料1位のやつ!
食材の表面をわずかに整え、香りと旨味を開かせる。
もちろん、普通はこんな危険区の夜食に使うものではない。
ブラウスはほんのひとつまみ、料理の上に振りかけた。
粉が舞う。
毒雨の暗がりの中で、星のように輝いた。
その瞬間、料理から立ち上る香りが一段階変わった。
俺は息を呑む。
「完成です」
ブラウスが差し出した皿代わりの葉の上には、ガララワニの肉とアイスマッシュルームが美しく盛られていた。
胡椒ぜんまいが細く散らされ、表面には星屑のような輝きが残っている。
簡易調理。
野営飯。
そう呼ぶには、あまりにも完成度が高かった。
「いや、この限られた食材でこんなに……!」
よだれが止まらない。
毒雨の音も、空腹も、疲労も、一瞬忘れた。
俺は手を合わせる。
ブラウスも、小さく手を合わせた。
「いただきます」
二人の声が重なる。
俺は無心で食らいついた。
瞬間、ガララワニの旨味が爆発した。
前に自分で焼いて食べた時も、とんでもなくうまかった。
だが、これは違う。
肉の野性味は残っている。
けれど、荒々しさが整えられている。
噛むたびに肉汁が広がり、そこへアイスマッシュルームの冷たい旨味が重なる。
熱い肉と冷たいキノコ。
相反する感覚が、口の中で喧嘩せずに溶け合う。
胡椒ぜんまいの香りが後から追いかけ、舌を刺激する。
最後に、メルクの星屑が食材の輪郭をきらりと光らせるように、余韻を残した。
「うっま……!」
言葉がそれしか出なかった。
ブラウスも小さく口に運ぶ。
そして、目を丸くした。
自分で作った料理なのに、驚いているようだった。
よほど腹が減っていたのだろう。
次の一口からは、遠慮が消えた。
俺たちはしばらく、何も話さず食べ続けた。
事情を聞くのは後でいい。
なぜ無理やり連れてこられたのか。
なぜそんな伝説級の包丁を持っているのか。
なぜ荷物がそのケース一つしかないのか。
聞きたいことは山ほどある。
でも、今は違う。
まずは食べる。
腹を満たす。
毒雨の中で、二人で同じ料理を食べる。
それだけで、さっきまで冷たかった空気が少しだけ温かくなった気がした。
大木の外では、紫の雨が降り続いている。
草原の先には、黒い霧。
その向こうには、のろま雨の丘。
そして、エア。
まだ道は遠い。
だが今だけは、俺たちは危険区の真ん中で食事を楽しんだ。
それは、俺がこの世界に来てから初めて出会った、本物の料理人の味だった。