「ニンゲン……コロス」
森の奥から、低い声が響いた。
空気が一気に冷える。
緊張が走る。
緑の肌。
長い腕。
裂けるような口。
ぎらついた目。
グリーントロル。
間違いない。
俺が初めて見た時、どうしようもなく恐ろしかった外宇宙の怪物。
強さB。
捕獲レベル表記で見れば、今の人類でも最上位に近い強敵。
明確な殺意がある。
エアの時のように、逃がしてはくれないだろう。
それどころか、今までにない獰猛さを感じる。
グリドとは違う。
エアの時に見た斥候とも違う。
これはただ殺すために来ている。
「山神俎板!」
ブラウスがすぐに技を展開した。
周囲の森、空気、香り、水分、食材の気配。
それらが巨大な俎板の上に並ぶ。
グリーントロルの体にも、いくつかの線が見えた。
だが、猛獣相手ほど鮮明ではない。
食材というより、外宇宙の異物。
しかも、殺意で食欲が歪んでいる。
それでも、ないよりずっといい。
「ありがとう、ブラウス。下がってろ」
「アマジン……!」
「ニュースは食った。俺は前より強い」
俺は星芯番重を浮かべた。
あの頃とは違う。
エアビオトープで、足が震えて動けなかった頃とは違う。
グリドに修行をつけてもらった。
アトムを食った。
アナザを食った。
深海オスミウム隕石を食った。
ニュースも食った。
どこまで通用するかは分からない。
だが、全力で叩くしかない。
速攻だ。
「星芯番重!!」
グリーントロルの足元に、一つ。
そして頭上に、三つ。
黒銀色の番重を展開する。
足元の番重は、受け皿。
地面に埋まって威力が分散しないように。
上から落とす番重の衝撃を、下で受け止める。
つまり、挟む。
地面ではなく、星の芯で。
「落ちろ!!」
全力で叩き落とした。
バン!!!
強い衝撃と音が森に鳴り響いた。
地面が沈む。
空気が震える。
木々の葉が一斉に散った。
「グガ……!!」
グリーントロルの体が沈んだ。
足元の番重と頭上の番重に挟まれ、膝が曲がる。
効いてる。
効いている。
だが、それだけだ。
潰せてはいない。
止められてもいない。
グリーントロルの腕が動く。
番重を押し返そうとしている。
攻撃の手を止めるな。
俺はそのまま星芯鋏を展開した。
狙うのは胴体ではない。
首でもない。
右足だけ。
動きを奪う。
「星芯鋏――圧断!」
黒銀色の二枚の刃が、グリーントロルの右膝を挟む。
閉じる。
全力で。
バキ!
鈍い音が鳴った。
切断まではいかない。
だが、破壊することはできた。
右膝が砕け、グリーントロルの体勢が崩れる。
膝が落ちる。
俺は星芯番重を一枚、手に持つように構えた。
重い。
だが、今の俺なら振れる。
「うおおおおお!!」
思いっきり叩きつける。
番重がグリーントロルの横腹を殴った。
グリーントロルの体が吹き飛ぶ。
その飛ぶ先に、さらに番重を設置する。
黒銀色の壁。
そこへ背中からぶつかった瞬間、もう一枚を上から叩き込む。
「グギャ……!」
グリーントロルの口から苦しそうな音が漏れた。
まだ動く。
まだ死なない。
だが、明らかに動きは鈍っている。
ブラウスの山神俎板が、次に叩くべき場所を薄く示していた。
左肩。
首の後ろ。
背骨の下。
俺は番重を連続で叩き込む。
星芯番重落とし。
星芯番重叩き。
星芯鋏。
全部を使う。
手加減はしない。
できない。
グリーントロルは、ゆっくりと前方に倒れこもうとしていた。
念押しだ。
ここで生き残られたら終わる。
俺は最後の星芯番重を、両手で構えるようにして持ち上げた。
「これで――!」
全力で叩く。
後頭部。
グリーントロルの頭が、地面に叩きつけられた。
地面が割れる。
頭部が沈む。
体が大きく痙攣した。
そして、そのまま動かなくなった。
グリーントロルは絶命した。
「はぁ……はぁ……」
息が荒い。
胸が痛い。
腕が震える。
「アマジン!!」
ブラウスの声が聞こえた。
だが、すぐには返事ができなかった。
もう動けない。
俺はその場で膝をついた。
百パー。
いや、百五十パーくらいの全力だった。
視界がぼやける。
ふらふらする。
気持ち悪い。
腹の中のニュースの力も、星芯番重の重さも、全部使い切ったような感覚がある。
それでも。
「やった……」
俺は、グリーントロルを倒した。
あの時、見るだけで恐怖した相手を。
グリドに鍛えられ、地球のフルコースを食べて、ようやく。
倒した。
だが。
これで終わりじゃなかった。
「死んでるな……」
森の奥から、別の声がした。
「下位戦士とはいえ、倒されるとは思っていなかったぞ」
ぞくりとした。
声だけで、体が冷える。
エアの時の奴。
グリド。
俺はそれ以上の圧を、そいつから感じていた。
ゆっくりと、木々の間から一体のグリーントロルが現れる。
さっきの奴より、体格は大きい。
だが、それ以上に違うのは雰囲気だ。
目に知性がある。
殺意はある。
だが、獣じみていない。
笑っている。
余裕がある。
強さBのグリーントロル。
同じ表記のはずだ。
だが、どう考えても、さっき倒した奴とは次元が違う。
これほど、この数値があてにならないと思ったことはない。
「お前は一体……」
俺は膝をついたまま、声を絞り出した。
そいつは笑った。
「お前らは今から死ぬ。知る必要があるか?」
ブラウスは俺の横に来ていた。
だが、彼も動けない。
ニュースの調理で極限まで集中し続け、俺を山神俎板で支え続けた。
消耗している。
俺も動けない。
星芯番重を出す余力はほとんどない。
終わった。
本気でそう思ってしまった。
そいつは楽しそうに笑う。
「はっは! まぁ教えてやろう。俺は船団第二部隊隊長……グリガードだ」
船団。
第二部隊。
隊長。
その単語だけで、嫌な汗が出る。
これは斥候ではない。
ただの迷い込んだ個体でもない。
組織だった侵攻部隊。
グリガードは空を見上げるようにして言った。
「もうじきこの地球は、我らグリーントロルの物となる」
グリーントロルの物。
地球が。
俺たちの食卓が。
俺は歯を食いしばった。
だが、同時に違和感があった。
グリガード。
こいつからは、支配されている感じがしない。
エアの時のグリーントロル。
さっきの下位戦士。
あいつらは、何かに食われ、命令されているような歪みがあった。
だが、こいつは違う。
自分で立っている。
自分で笑っている。
自分の意思で殺そうとしている。
「お前、操られたりしてないよな……?」
俺が言うと、グリガードの目が細くなった。
「操られている……?」
空気が変わる。
「お前。なぜそんなことを知っている」
「……」
まずい。
言いすぎたか。
だが、グリガードはすぐに口元を歪めた。
「まぁでも確かに、俺は完全支配を受けていない」
「受けていない……?」
「主の考えに共感しているからな」
主。
その言葉に、胸の奥が冷える。
グリドが名前を口にすることすら避けた、種族を食った悪魔。
まだ、その名を知らない。
だが、そいつの影が、目の前のグリガードの背後にある気がした。
グリガードは少し考える仕草をした。
「お前、やはり生かしていたら厄介なことになりそうだ」
ゆっくりと構える。
ただそれだけで、全身が動かなくなる。
圧が違う。
下位戦士とは違う。
今の俺では、届かない。
俺たちはここで死ぬ。
動けない。
そう思った瞬間だった。
グリガードの足元の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
「な――」
グリガードの声が途切れる。
その体が、突如として空間に飲まれた。
まるで森そのものが口を開け、グリガードだけを飲み込んだようだった。
緑の体が歪む。
腕が消える。
顔が消える。
最後に、怒りに歪んだ目だけが残り、それも消えた。
同時に。
俺たちの足元も歪んだ。
「え」
次の瞬間、視界が跳んだ。
森が消える。
肉の柱が消える。
ニュースの匂いが遠ざかる。
そして俺たちは――。
ビオトープの前にいた。
「な……いったい何が……」
俺は地面に倒れたまま呟いた。
目の前には、ニュースビオトープのゲート。
受付施設。
警備員。
さっきまでいた食域の森ではない。
多重力の谷の向こうですらない。
戻されている。
ブラウスが隣で息を荒くしながら、俺の肩を掴んだ。
「アマジン!」
「ブラウス……」
「分からないです……分からないですが、助かりましたよ!!!」
ブラウスの声が震えていた。
俺も、ようやく息を吐いた。
助かった。
本当に助かった。
なぜかは分からない。
あの空間の歪み。
ニュースの周囲の異常。
鹿王の残滓。
裏の世界。
何かが俺たちを逃がした。
あるいは、グリガードを遠ざけた。
だが、今は考えられない。
体が動かない。
意識がぼやける。
すぐにビオトープの受付の人が俺たちに気づいた。
「おい! 人が倒れているぞ!」
「アマジンとブラウスだ!」
「医療班を呼べ!」
複数の職員が駆け寄ってくる。
俺たちは担架に乗せられ、ビオトープ内へ運ばれた。
遠くで誰かが通信している声が聞こえる。
IGO。
研究所。
緊急報告。
グリーントロル。
そんな単語が、ぼんやり耳に入った。
俺は最後に、空を見た。
ニュースを食べた後に見えた、薄い膜のような裏側。
あの空間の歪み。
グリガードを飲み込んだ何か。
何が俺たちを助けたのかは分からない。
だが、はっきり分かったことが一つある。
グリーントロルは、もう近い。
そして、今の俺では、隊長格には届かない。
その悔しさだけを胸に、俺の意識はゆっくり沈んでいった。