メリスタは、また食卓に来ていた。
暗い場所だった。
広いようで狭い。
近いようで遠い。
上も下も、右も左も曖昧な空間。
その中央に、一つの長い食卓がある。
白い皿。
黒いナイフ。
細長いフォーク。
空のグラス。
料理はない。
この食卓に並ぶのは、実体のある食材ではない。
味の記憶。
香りの記憶。
誰かと囲んだ食卓の記憶。
そういうものだけを好む、偏食の悪魔。
悪魔共食・黒き饗宴。
その契約食卓。
メリスタが席に着くと、食卓の向こう側で、何かが笑った。
「最近はよくクルナ」
黒い影が、椅子に座っていた。
悪魔。
ただし、形は曖昧だ。
皿の上に落ちた影のようでもあり、食べ残しの記憶が人の形を真似ているようでもある。
声は、音ではなく、食欲の奥へ直接染み込んでくる。
「まぁ、事情が事情なんだ」
メリスタは椅子に座ったまま答えた。
「地球に、外宇宙勢力の侵攻が迫っている」
「知ってイル」
「だろうな」
メリスタは食卓の上に、一つの情報端末を置いた。
正確には、現実の端末ではない。
記憶を食卓へ持ち込むために、メリスタの意識が形にしたものだ。
「早速だが、一人見てほしい」
「新しい契約者カ?」
「候補だ。今はそうではない」
メリスタは履歴書のようなものを見せる。
それはアマジンの情報だった。
美食屋候補。
地球のフルコース摂取履歴。
エア。
ペア。
アトム。
アナザ。
ニュース。
グリーントロル下位戦士撃破。
深海オスミウム隕石摂食疑惑。
食没、食義。
グルメスモック。
星芯番重。
星芯鋏。
各種データ。
メリスタは、ただそれを悪魔へ見せた。
その瞬間だった。
黒き饗宴の悪魔が震えた。
かちゃん。
フォークが落ちる。
食卓に、小さな音が響いた。
メリスタは眉をひそめた。
この悪魔が、物を落とす。
そんな姿を、メリスタは初めて見た。
「……どうした」
悪魔は情報を見ていた。
いや、正確には、その情報の奥を見ようとしていた。
アマジンという人物の食欲。
その記憶。
その食卓。
それを覗こうとして。
悪魔は、震えていた。
「無理ダ……」
悪魔は、静かに言った。
そして、アマジンの情報をそっとメリスタへ戻した。
いつもなら、気に入った記憶は勝手に舐める。
気に入らない情報は燃やす。
食卓に置かれたものは、自分の皿だと言わんばかりに扱う。
だが、今は違った。
そっと返した。
触れてはいけない皿を返すように。
「どういうことだ……?」
メリスタの声が低くなる。
「こんなことは初めてだな」
「しまってクレ」
悪魔は食卓から身を引くように言った。
「そいつの食卓の椅子……“それら”は、誰かのためにあけられてイル」
「椅子?」
「空席ダ」
悪魔の声が、少し乱れている。
「一つではナイ。いや、一つにも見える。複数にも見える。食卓の形が定まってイナイ」
「何を見た」
「見る前に、見らレタ」
メリスタは無言になった。
食の記憶を好む悪魔が、見る前に見られたと言った。
「私が座ル……いや、触れただけで食われてシマウ」
「お前が?」
「そうダ」
黒き饗宴の悪魔が、静かに頷いた。
「私ハ食の記憶を食う。だが、あれは……食われる記憶ではナイ。食わせる記憶でもナイ」
悪魔は、落としたフォークを拾わなかった。
「食卓が、待ってイル」
メリスタはアマジンの情報を見下ろした。
「まさか……悪魔が宿っているのか?」
「分からナイ」
悪魔は即答した。
「だが、私の目でも見えないなんて、ありえナイ」
「見えない?」
「悪魔なら見えル。食欲なら匂ウ。器なら皿の形が分かル。だが、そいつは違ウ」
悪魔の影が揺れる。
「空席だけが見えタ」
「空席……」
「誰かを待っているようにミエタ」
メリスタの脳裏に、アマジンの姿が浮かぶ。
妙な少年だった。
グリーントロルと長期間接触し、無事に戻ってきた。
友好的なグリーントロル、グリドと食卓を囲んだという。
深海三万メートルの鉱石を食べ、技に変えた。
ニュースを食べ、下位とはいえグリーントロルを倒した。
そして、フワ爺に会った。
終末の食客。
意味不明な呼び名。
古い資料に残るだけの謎。
アマジンの周囲には、説明できない縁が多すぎる。
「今日はもう帰ってクレ!」
悪魔が急に強い声を出した。
メリスタは目を細める。
「珍しいな。お前が私を追い返すとは」
「その情報をここに置くナ。食卓が歪ム」
「……分かった」
メリスタはアマジンの情報をしまった。
「また来る」
「次は普通の記憶にしてクレ。味の濃いものダ」
「努力しよう」
メリスタは椅子から立ち上がった。
食卓が遠ざかる。
白い皿が霞む。
黒い悪魔の影が、最後までアマジンの情報があった場所を見ていた。
現実へ戻る直前、メリスタは小さく呟いた。
「アマジン……」
お主は一体、何者だ。
その問いだけが、黒い食卓の余韻の中に残った。