千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

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第7章 大地と神の一皿
花陰のカウンター


 俺たちはエリア4、アースビオトープに来ていた。

 妖精の花園。

 

 そう呼ばれる場所だ。

 

 名前だけ聞くと、少し大げさに思える。

 だが、実際に目の前の光景を見れば、その呼び名にも納得するしかなかった。

 

 見渡す限りの花。

 赤、青、黄、白、紫。

 それらがただ咲いているのではない。

 

 花びらが光を受けて透け、風に揺れるたびに、空気そのものが色づいて見える。

 

 蜜の香り。

 土の匂い。

 

 木々の間を通る柔らかい風。

 遠くには小川が流れ、その上を蝶のような食材が舞っている。

 

「うわ……」

 

 思わず声が漏れた。

 

「これはすごいな」

 

「綺麗ですね」

 

 ブラウスも素直に感嘆していた。

 はむまるは小型化したまま、俺の肩の上で鼻をひくひくさせている。

 こいつも花の匂いが気になるらしい。

 

 妖精の花園は、デートスポットとして毎年一位を獲得しているらしい。

 正直、俺にはあまり縁のないランキングだ。

 

 だが、この光景を見ればそれもうなずける。

 

 どこを見ても絵になる。

 写真を撮れば絶対に綺麗だ。

 

 カップルが歩いているのも見える。

 家族連れもいる。

 

 観光客用の店も並んでいた。

 その中でも、特に人が集まっている屋台がある。

 

「アース風味のソフトクリーム……」

 

 看板にそう書いてあった。

 

 アース風味。

 地球のフルコースの一つ、アース。

 

 その味を再現したソフトクリームらしい。

 

「人気みたいですね」

 

「食いたい」

 

「食べますか?」

 

「食う」

 

 即答した。

 危険地帯に向かう前に、糖分補給は大事だ。

 

 俺たちはアース風味ソフトクリームを買った。

 見た目は淡い黄緑色。

 

 ほんの少し土の香りがする。

 だが嫌な匂いではない。

 

 大地の香り。

 若葉の香り。

 花の蜜のような甘さ。

 

 一口食べる。

 

「うまっ」

 

 やさしい。

 でも深い。

 

 甘いのに、舌の奥に大地の味が残る。

 何となく、根っこを食べているような感覚もある。

 いや、ソフトクリームなんだけど。

 

「アース本体とは違うんでしょうけど、これはこれでおいしいですね」

 

 ブラウスも頷いている。

 

「これが本体だったら楽なのにな」

 

「それはないです」

 

「分かってる」

 

 俺たちが向かうのは、観光客で賑わう花園ではない。

 現在入場禁止になっている危険地帯。

 

 老いの洞穴。

 そして、その先のグルメの園。

 

 そこへ行かねばならない。

 

 老いの洞穴。

 通常の二十万倍のスピードで歳を取る不思議な場所。

 

 一秒で二日。

 一時間で二十年以上。

 

 普通の人間なら、ほんの数時間で死に至る。

 しかも、中は数千キロ先まで続いているうえ、迷宮のように入り組んでいるらしい。

 

 まともに攻略しようとすれば、まず無理だ。

 原作では、ニュースを食べて裏の世界を使う必要があった。

 

 ワープロード。

 ワープキッチン。

 

 時間の流れをずらし、空間の裏を通る技術。

 ニュースを食べた今の俺たちは、その概念だけは何となく分かる。

 

 だが、使えるかと言えば、まだ無理だ。

 

 ニュースを食べた瞬間、空気の奥に薄い膜のようなものは見えた。

 裏側がある。

 そう感じた。

 でも、それだけだ。

 

 扉を見つけたからといって、開け方が分かるわけではない。

 まして、その中に入って迷宮を抜けるなど、今の俺にはできない。

 

 ブラウスも同じだった。

 ニュースの肉を切り出した時、彼も空気の層を感じていたらしい。

 

 だが、触れられない。

 扱えない。

 

「僕たちはまだ、ワープキッチンもワープロードも使えません……」

 

 老いの洞穴へ向かう道中、ブラウスが言った。

 

「概念はなんとなく分かるのですが……」

 

「俺も同じだ。裏側があるのは分かる。でも、どうやって入ればいいのかは分からない」

 

「無理に試すのは危険ですね」

 

「だな。老いの洞穴の中で失敗したら、取り返しがつかない」

 

 老いの洞穴を正面突破する気はない。

 俺たちはそこを通る気はなかった。

 原作では、実は文明の人々だけが知る抜け道があり、そこを通ることで簡単に突破できると記されていた。

 行き方までは書かれていない。

 

 だが、抜け道があることは知っている。

 なら、まずはそれを探してみようと思った。

 

 これが原作知識の使いどころだ。

 ただし、千年後の今でも残っているかは分からない。

 

 地形も変わっているかもしれない。

 文明の人々が今もいるのかも分からない。

 

 それでも、老いの洞穴を真正面から進むよりは、ずっと可能性がある。

 やがて、俺たちは老いの洞穴の手前まで来た。

 

 観光地の華やかさはもうない。

 花は減り、空気が重くなる。

 土の匂いも、少し古い。

 

 洞穴の入口は、黒い口のように開いていた。

 その周囲には、IGOの封鎖柵と警告表示。

 

 老化危険区域。

 一般入場禁止。

 

 許可なき進入は生命に関わる。

 そんな文言が並んでいる。

 

「……ここか」

 

 俺は洞穴の入口を見た。

 入った瞬間、時間の流れが変わる。

 

 そう思うと、背筋が冷える。

 

 強い猛獣とは違う怖さだ。

 殴って倒せる相手ではない。

 時間そのものが敵になる。

 

「抜け道を探しましょう」

 

 ブラウスが山神俎板を展開した。

 周囲の地形、植物、空気の流れ、土の層。

 それらを俎板の上に並べるように読む。

 俺もグルメデバシーで周囲を調べる。

 はむまるにも匂いを探らせる。

 

 だが。

 

「……それらしい場所、見つからないな」

 

「僕の山神俎板でも分かりません」

 

 ブラウスの顔が曇る。

 

「洞穴の入口周辺には、確かに変な空気の流れがあります。ですが、抜け道と断言できるものは……」

 

「ないか」

 

「はい」

 

 困った。

 

 原作に抜け道があると書かれていた。

 だが、場所までは書かれていない。

 こういう時、漫画の知識だけだと本当に困る。

 

 地図が欲しい。

 せめてヒントが欲しい。

 

 いや、原作を何百周も読んだ俺でも、分からないものは分からない。

 

「どうするかな……」

 

 俺は封鎖柵の外で腕を組んだ。

 

 正面突破は危険すぎる。

 ワープロードはまだ使えない。

 抜け道は見つからない。

 途方に暮れるしかない。

 しばらくそうしていると、近くの茂みが揺れた。

 

 がさり。

 

 俺とブラウスは同時にそちらを見る。

 星芯番重を出す準備をした。

 ブラウスもハルシアに手をかける。

 

 だが、出てきたのは猛獣ではなかった。

 

 小柄な老人だった。

 白髪。

 細い体。

 

 背筋は、不思議なほどまっすぐ伸びている。

 服装は奇妙だった。

 黒いベストに白いシャツ。

 

 だが観光地の店員とも、研究員とも違う。

 

 古い時代のバーテンダーのようであり、どこか武士の礼服のようにも見える。

 手には、古びた銀色のシェイカー。

 いや、なぜ茂みからシェイカーを持った老人が出てくるんだ。

 

「え?」

 

 俺は思わず声を上げた。

 

「フワ爺!?」

 

 だが、すぐに違うと思った。

 

 姿や雰囲気は似ている。

 けれど、同じではない。

 フワ爺よりも、空気が硬い。

 あの深海の泡の中でアナザと暮らしていた老人とは、別の匂いがする。

 

 ただ、似ている。

 

 食材に長く寄り添った者の匂い。

 世界の終わりを一度見て、それでも食卓に残った者のような静けさ。

 老人は俺をじっと見た。

 

「フワを知るか」

 

「え、あ、はい」

 

「ならば話は早い」

 

 老人はシェイカーを軽く振った。

 中に何も入っていないはずなのに、からん、と小さな音がした。

 

「ついて参れ。老いの洞穴をまともに抜ける気なら、命がいくつあっても足りぬ」

 

「あなたは……?」

 

 ブラウスが尋ねる。

 老人は少しだけ目を細めた。

 

「名乗るほどの者ではない。だが、この辺りでは時守トキサダと呼ばれておる」

 

「時守……」

 

「今はただ、花陰のカウンターを預かる者だ」

 

 そう言うと、トキサダと名乗った老人は背を向けた。

 茂みの奥へ歩き出す。

 俺とブラウスは顔を見合わせた。

 

「……どうします?」

 

「どうするも何も、知ってそうだよな」

 

「罠の可能性もあります」

 

「分かってる。でも、グリーントロルの匂いはしない」

 

「それは僕も感じません」

 

 ブラウスは少し考え、それから頷いた。

 

「行きましょう。少なくとも、今の僕たちだけでは抜け道は見つけられません」

 

「だな」

 

 俺は星芯番重をすぐ出せるようにしながら、老人の後を追った。

 はむまるが肩の上で小さく鳴く。

 

「きゅ……」

 

「大丈夫。たぶん」

 

「たぶんですか」

 

「たぶんだ」

 

 トキサダは振り返らない。

 

 ただ、迷いなく茂みの奥へ進んでいく。

 花園の明るさから、少しずつ外れていく。

 

 老いの洞穴の入口からも離れていく。

 だが、不思議と不安は薄かった。

 

 空気が古い。

 でも、腐ってはいない。

 どこか懐かしい。

 誰かが長い間、そこを通り続けてきたような道だった。

 

 やがて、茂みの奥に小さな建物が現れた。

 建物、というよりは、花と木の根に包まれた隠れ家だ。

 外から見れば、大きな花の塊にしか見えない。

 

 だが、近づくと扉がある。

 木製の小さな扉。

 

 その上には、古い看板がかかっていた。

 文字はかすれている。

 だが、読める。

 

『花陰のカウンター』

 

「……店?」

 

 俺が呟くと、トキサダは扉を開けた。

 中には、カウンターがあった。

 

 薄暗い。

 

 だが、花の蜜のような甘い香りがする。

 棚にはグラスが並び、透明な瓶がいくつも置かれていた。

 

 バーだ。

 どう見てもバーだ。

 

 ただ、酒の匂いはしない。

 代わりに、花の露、土の香り、古い木、そして時間が淀んだような不思議な匂いがした。

 

「座れ」

 

 トキサダはカウンターの奥へ入り、グラスを三つ置いた。

 

「えっと、ここはバーですか?」

 

 俺が聞くと、トキサダは静かに首を振った。

 

「似て非なるもの」

 

「似て非なるもの……」

 

「ここは酒場ではない。時を越える者が、舌を整える場所である」

 

 よかった。

 

 いや、何がよかったのか分からないが。

 俺はまだ未成年だ。

 この世界の法律がどうなっているかはともかく、ここで酒を出されたらさすがに困る。

 

 トキサダは俺の顔を見て、少しだけ笑った。

 

「未熟な身に酒など出さぬ」

 

「あ、はい。助かります」

 

「出したところで、今のお主では酒に勝てぬ。時に酔う前に、酒に酔うであろう」

 

「それは普通に情けない」

 

 ブラウスが少しだけ笑った。

 トキサダは棚から透明な瓶を取り出す。

 中には、花の露のような液体が入っていた。

 

 さらに、細い葉を一枚。

 小さな白い実を一つ。

 最後に、グラスの底へ薄い金色の蜜を垂らす。

 

 シェイカーに入れ、静かに振る。

 

 からん。

 からん。

 

 氷は入っていない。

 だが、音が鳴る。

 まるで、遠くの時間がグラスの中でぶつかっているような音だった。

 

「これは?」

 

 ブラウスが尋ねる。

 

「時調べの一杯」

 

 トキサダは答えた。

 

「酒ではない。老いの洞穴を越える者が、時に酔わぬよう舌を整える飲み物である」

 

「時に酔う……」

 

「老いの洞穴は、ただ歳を取る場所ではない。時の流れが荒れておる。まともに歩けば、肉体だけでなく、味の記憶も狂う」

 

 トキサダはグラスに透明な液体を注いだ。

 ほんのり金色に揺れる。

 

「ニュースを食った者は、道が見える」

 

 俺は反応した。

 

「俺たちがニュースを食ったこと、知ってるんですか?」

 

「フワより聞いた」

 

「フワ爺から?」

 

「深海の変人め。久方ぶりに便りを寄越したかと思えば、面白い若造が来る、とだけ書いておった」

 

「それだけですか」

 

「それだけで十分だ」

 

 トキサダは俺とブラウスの前にグラスを置いた。

 はむまるの前には、小さな木の皿に一滴だけ垂らす。

 

「きゅ?」

 

「お主は匂いだけでよい」

 

「きゅ……」

 

 はむまるが少し不満そうに鳴いた。

 俺はグラスを見つめた。

 

 透明。

 金色。

 花の香り。

 

 そして、奥の方にニュースに似た余韻がある。

 

「飲め」

 

 トキサダが言った。

 

「ただし、飲んですぐに味を追うな」

 

「え?」

 

「三拍待て」

 

 トキサダは指を一本立てた。

 

「一拍目は、今の味」

 

 二本目。

 

「二拍目は、過ぎた味」

 

 三本目。

 

「三拍目は、まだ来ぬ味」

 

 そして、静かに言った。

 

「その三つが重なる隙間に、裏の道は開く」

 

 俺はブラウスと目を合わせた。

 ブラウスも真剣な顔で頷く。

 

「いただきます」

 

 俺はグラスに口をつけた。

 

 飲む。

 冷たくはない。

 温かくもない。

 水のように喉を通った。

 味は、ほとんどない。

 

 いや、違う。

 追うな。

 

 三拍待て。

 

 一拍目。

 花の香りが来た。

 

 今の味。

 妖精の花園で嗅いだ、あの甘い香り。

 

 二拍目。

 土の味が来た。

 

 過ぎた味。

 昔、誰かが踏んだ道。

 

 花の根が吸い上げた水。

 老いの洞穴の入口に積もった時間。

 

 三拍目。

 何もない。

 

 そう思った瞬間。

 カウンターの奥が、ほんの少しだけ歪んだ。

 

 薄い膜。

 ニュースを食べた時に見えた、あの空気の裏側。

 だが、今度は少しだけ形がある。

 

 道だ。

 

 目の前にあるわけではない。

 舌の奥に戻ってくる味の中に、道がある。

 

「……見えた」

 

 俺は小さく呟いた。

 

「奥に、何かある」

 

 ブラウスもグラスを置いた。

 

「僕にも……分かります。調理場が、一枚ではありません。表の俎板の下に、もう一枚……」

 

「それが裏の皿である」

 

 トキサダが言った。

 

「ワープロードは、足で歩く道ではない。食った記憶が一拍遅れて戻ってくる、その隙間を通る道だ」

 

 俺は息を呑む。

 

「じゃあ、これで使えるように?」

 

「ならぬ」

 

 即答だった。

 

「え」

 

「今のお主らが無理に作れば、戻ってこられぬ。裏の道は、見えたからといって歩けるものではない。まして、作るなど百年早い」

 

「百年……」

 

 老いの洞穴の前で言われると妙に怖い。

 

「だが、既にある道を歩くことはできよう」

 

「既にある道……」

 

「文明の者たちが使った抜け道だ」

 

 やはり。

 

 俺は胸が高鳴るのを感じた。

 トキサダはカウンターの奥にある古い扉へ手をかけた。

 今まで壁にしか見えなかった場所に、扉がある。

 

 いや、あったのに見えていなかったのか。

 

 時調べの一杯を飲んだ後だから、分かる。

 そこだけ、味が遅れて戻ってくる。

 そこだけ、空間が一拍ずれている。

 

「ここが抜け道ですか?」

 

 ブラウスが尋ねる。

 

「入口にすぎぬ」

 

 トキサダは扉を開いた。

 

 その奥には、花と根が編み込まれたような細い通路が続いていた。

 洞穴ではない。

 だが、地上でもない。

 時間の流れが少しだけ横へずれているような、不思議な道。

 

「老いの洞穴を越え、グルメの園へ至る道である」

 

 トキサダは俺たちを見る。

 

「ただし、道を教えたからといって、アースが食わせるとは限らぬ」

 

「分かっています」

 

 ブラウスが真剣に答えた。

 

「食材と向き合うのは、僕たちです」

 

 トキサダは満足そうに頷いた。

 

「よい返事だ」

 

 俺も頷く。

 

「ありがとうございます。時守さん」

 

「トキサダでよい」

 

「じゃあ、トキサダさん」

 

「さんも要らぬ」

 

「いや、それはちょっと無理です」

 

 初対面の老人を呼び捨てにする度胸はない。

 トキサダは少しだけ口元を緩めた。

 

「好きにせよ」

 

 俺たちは立ち上がった。

 はむまるも肩の上で身構える。

 

 花陰のカウンター。

 老いの洞穴の抜け道。

 

 ワープロードの入口。

 フワ爺と同じような、しかしまったく違う老人。

 

 終末の食客。

 

 その言葉が頭に浮かぶ。

 だが、俺は今は聞かなかった。

 たぶん、この人は自分からは語らない。

 

 フワ爺と同じだ。

 

 長く生きている人ほど、大事なことは簡単には言わない。

 俺たちはトキサダに導かれ、扉の奥へ足を踏み入れた。

 背後で、花陰のカウンターの扉が静かに閉まる。

 

 次に目指すのは、グルメの園。

 

 そして、地球のフルコース。

 アースだ。

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