千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

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踏んではならない園

 花陰のカウンターの奥にあった扉。

 その先へ足を踏み入れた瞬間、視界が歪んだ。

 

「う……」

 

 思わず声が漏れる。

 目の前に道はある。

 あるはずなのに、まっすぐ見えない。

 

 花と根で編まれた細い通路が、右に曲がったと思えば左に戻り、下へ降りたと思えば上へ続いている。

 いや、実際に曲がっているわけではない。

 

 俺の見え方がずれている。

 ニュースを食べた時に見えた、あの薄い膜。

 時調べの一杯で少しだけ輪郭を持った、裏の道。

 

 今、俺たちはそこを歩いている。

 見えるようにはなった。

 だが、ちょっと酔いそうになる。

 

「ブラウス、大丈夫か?」

 

「……何とか」

 

 ブラウスも顔色が少し悪い。

 普段なら足取りはしっかりしているのに、今は慎重に壁へ手を伸ばしかけて、すぐ引っ込めている。

 触っていいのかも分からないのだ。

 

「視界が、遅れて戻ってくる感じがします」

 

「分かる」

 

 前を見ているのに、一拍遅れて後ろの景色が舌の奥に戻ってくる。

 右へ進んだはずなのに、味覚だけが左を覚えている。

 足で歩いているのに、舌で道を辿っているような奇妙な感覚だった。

 はむまるは小さくなったまま、俺の肩にしがみついている。

 

「きゅ……」

 

「我慢しろ。俺もちょっと気持ち悪い」

 

 だが、その時間は長くなかった。

 ほんの数分だった。

 

 ふっと、視界が明けた。

 歪んでいた通路が消える。

 

 足元の感覚が戻る。

 次の瞬間、俺たちは別の場所に立っていた。

 

「……ここが」

 

 言葉が途中で止まった。

 

 花。

 花。

 花。

 

 妖精の花園もすごかった。

 デートスポット一位も納得の美しさだった。

 だが、ここは違う。

 

 数倍濃い。

 数倍深い。

 花の色も、香りも、空気そのものも、妖精の花園とはまるで密度が違う。

 

 ここが、グルメの園。

 アースがある場所。

 

 その入口なのだろう。

 だが、美しいと思うより先に、鼻が痛かった。

 

「っ……!」

 

 濃すぎる。

 花の香りが濃すぎる。

 

 甘い。

 華やか。

 深い。

 

 だが、あまりにも濃い。

 

 まるで香水の原液を、そのまま吸い込んでいるようだ。

 鼻の奥が痺れる。

 頭が痛くなる。

 

 グルメスモックのマスクを出そうか一瞬迷った。

 だが、ここで香りを遮断していいのか分からない。

 この園は、匂いすら食材の一部に思える。

 

「すげえよ、これ……」

 

 思わず、ふらっと前に出た。

 足元は花と草で覆われている。

 

 どこまでが道で、どこからが花なのか分からない。

 いや、そもそも道なんてあるのか。

 

 その時だった。

 

「アマジン!! だめです!」

 

 ブラウスの鋭い声が飛んだ。

 

「え?」

 

 俺は足元を見る。

 

 踏んでいた。

 花の茎を。

 

 細く、透明感のある薄緑の茎。

 俺の足の下で、それがわずかに折れていた。

 

 次の瞬間。

 

 そこから、一気に花が腐り枯れていった。

 

「なっ……!」

 

 足元の茎が黒くなる。

 黒くなった部分から、周囲の草へ広がる。

 

 草から花へ。

 花から花へ。

 

 まるで墨を垂らした水のように、腐敗が広がっていく。

 美しかった花びらが萎れ、茶色くなり、どろりと崩れる。

 甘すぎるほどの花の香りが、一瞬で反転した。

 

「ぐ……!」

 

 強烈な腐臭が漂った。

 ラフレシアの数十倍。

 

 いや、そんなものではない。

 

 腐った肉。

 腐った花。

 腐った蜜。

 腐った時間。

 

 それらを全部まとめて煮詰めたような匂いだった。

 

 鼻だけではない。

 舌が腐る。

 胃がひっくり返る。

 

「アマジンさん、下がって!」

 

「す、すまん!」

 

 俺は慌てて足を上げた。

 だが、遅い。

 腐敗はもう周囲に広がっていた。

 

 そして。

 ぶうううううううん。

 

 嫌な音がした。

 羽音。

 

 どこからともなく、虫の羽音が集まってくる。

 

 最初は一つ。

 次に三つ。

 

 十。

 二十。

 

 やがて、周囲の花の影から巨大な影が現れた。

 

 蠅。

 

 巨大な蠅のような猛獣。

 体は人間より大きい。

 複眼が緑色に光り、脚には鋭い棘が生えている。

 

 口元はストローのように伸び、腐った花の蜜を吸うためなのか、ぬらぬらと濡れていた。

 それが、俺たちを囲む。

 

「匂いにつられてきたのか……!」

 

 俺は星芯番重を出そうとした。

 遠い個体には番重落とし。

 近づいてくるやつは叩き落とす。

 

 蠅型なら、羽の付け根を潰せば止められる。

 そう思った瞬間、ブラウスが叫んだ。

 

「アマジン! だめです!」

 

「え!?」

 

「あいつらをここで倒してしまったら、余計に園が汚れてしまう!」

 

 そうか。

 

 血。

 体液。

 潰れた虫の肉。

 

 それらがこの園に落ちたらどうなる。

 さっき茎を一本踏んだだけで、これだ。

 

 ここで蠅型猛獣を倒せば、腐敗はさらに広がるかもしれない。

 アースの園を汚してしまう。

 

「くそ……!」

 

 倒せない。

 倒すのが正解ではない。

 

 この園では、戦闘そのものが危険だ。

 グルメスモックで身を守りながら逃げるか。

 

 いや、蠅の数が多い。

 しかも足元を踏めない。

 

 動けばまた花や茎を傷つける。

 詰んでいる。

 初手で俺がミスったせいだ。

 

「一度戻るしかない!」

 

 ブラウスが叫ぶ。

 

「戻れるのか!?」

 

「さっきの道の感覚を辿れば……たぶん!」

 

「たぶん多いな今日!」

 

「アマジンさんのせいです!」

 

「ごめん!」

 

 俺はブラウスの手を掴んだ。

 はむまるを胸元へ押さえ込む。

 ブラウスが山神俎板を展開する。

 

 ただし、戦うためではない。

 さっき通った裏の道。

 花陰のカウンターへ戻るための、味の遅れ。

 

 一拍目。

 

 今の腐臭。

 

 二拍目。

 

 花の香り。

 

 三拍目。

 

 時調べの一杯の余韻。

 

「こっちです!」

 

 ブラウスが指し示した空間へ、俺たちは飛び込んだ。

 視界がまた歪む。

 蠅型猛獣たちが一斉に迫る。

 

 複眼が揺れる。

 口が伸びる。

 

 羽音が耳を裂く。

 だが、その姿が薄くなる。

 匂いが遠ざかる。

 

 視界が歪み、反転し、舌の奥に戻っていく。

 次の瞬間。

 俺たちは、花陰のカウンターの中に転がり込んでいた。

 

 どさっ。

 

「痛っ!」

 

「アマジンさん、重いです!」

 

「ごめん!」

 

 俺は慌てて起き上がる。

 カウンターの奥では、トキサダがグラスを磨いていた。

 まるで、俺たちがすぐ戻ってくると分かっていたような顔だ。

 

「早い帰還だな」

 

 静かな声だった。

 

 怒っているわけではない。

 呆れているようでもない。

 ただ、予想通りと言わんばかりだった。

 

「俺が……花の茎を踏んでしまって……」

 

 俺は正直に言った。

 

「その瞬間、周囲の花が腐ってしまった……」

 

 トキサダは磨いていたグラスを置いた。

 

「花はもちろん、茎、草、すべてを穢してはならぬ」

 

「穢す……」

 

「グルメの園は、美しさで守られている場所ではない。清浄さで保たれている場所だ。一本踏めば、そこから崩れる」

 

「いやでも……無理じゃないか……?」

 

 俺は思わず言った。

 

「花畑を歩くようなもんだ。絶対に何かしら踏む……」

 

 実際、そうだった。

 足元は花と草でびっしり埋まっている。

 

 道がない。

 

 踏むなと言われても、普通に歩けば絶対に踏む。

 ジャンプしても着地で踏む。

 飛べれば別だが、俺は空を飛べない。

 

 星芯番重を足場にする手はある。

 だが、番重の圧で空気や茎を押し潰す可能性がある。

 

 そもそも、星芯番重は重い。

 園の上に出すこと自体危険かもしれない。

 

「そのまま行くのは難しそうですね……」

 

 ブラウスが真剣な顔で言った。

 

「何か考えないと」

 

 ブラウスもかなり悔しそうだった。

 ニュースの時は、食材との会話で道を開いた。

 だがアースの園は、会話する以前に近づけない。

 

 触れれば汚れる。

 踏めば腐る。

 戦えば壊れる。

 今までとはまた違う難しさだ。

 

 俺たちはカウンターの椅子に座った。

 作戦会議だ。

 トキサダは何も言わず、再びシェイカーを手に取った。

 

 透明な花の露。

 薄い青色の蜜。

 細長い葉。

 

 今度は白い粉のようなものをほんの少し。

 

 酒ではない。

 だが、見ているだけでうまそうだ。

 シェイカーが静かに鳴る。

 

 からん。

 からん。

 

 まるで、さっきの焦りを整えるような音だった。

 

「飲め」

 

 トキサダは二つのグラスを置いた。

 

「焦りは舌を曇らせる。舌が曇れば、道も見失う」

 

「ありがとうございます」

 

 ブラウスが礼を言う。

 俺もグラスを手に取った。

 

 今度の一杯は、淡い青色だった。

 香りは柔らかい。

 花の香りではあるが、さっきのグルメの園のような暴力的な濃さではない。

 

 むしろ、鼻の奥を洗ってくれるような澄んだ香りだ。

 

 一口飲む。

 うまい。

 

 さっきまで舌に残っていた腐臭が、すっと消えていく。

 頭痛も少し和らぐ。

 

「うま……」

 

「これは?」

 

 ブラウスが尋ねる。

 

「香戻しの一杯」

 

 トキサダが答えた。

 

「腐臭に乱された舌と鼻を戻す。次に考えるための一杯である」

 

「ありがたい……」

 

 本当にありがたい。

 あの腐臭が残ったままだと、考えるどころではなかった。

 俺はグラスを置き、深く息を吐いた。

 

「問題は、踏まずに進む方法だな」

 

「はい」

 

 ブラウスが頷く。

 

「花も、茎も、草も傷つけない。しかも、蠅型猛獣を倒さずに避ける必要があります」

 

「グルメスモックで浮けないかな」

 

「浮く?」

 

「いや、無理か。服だし」

 

「星芯番重を足場にするのは危険ですね。重すぎます」

 

「ステンレス製でも、置いたら踏むのと同じだよな」

 

「はい。面で潰してしまう可能性があります」

 

 駄目だ。

 

 普通に考えると、手段がない。

 俺たちはもう一度、黙り込んだ。

 

 トキサダは答えを言わない。

 

 ただ、カウンターの奥で静かにグラスを磨いている。

 きっと、ここからは俺たちが考えなければならないのだ。

 

 アースに会いたいなら。

 グルメの園を汚さず進む方法を。

 

 俺たちは、花陰のカウンターで、もう一度作戦を練り始めた。

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