花陰のカウンターへ戻ると、トキサダは静かにグラスを磨いていた。
まるで、俺たちが無事に帰ってくることを最初から分かっていたような顔だ。
「よく戻った」
「ただいま!」
俺は思わず笑った。
「トキサダさんのおかげだよ!」
「我は道を示しただけだ。踏まずに進んだのは、お主らであろう」
「いや、それでも助かったよ」
アースが詰まったグルメケースをカウンターの上に置く。
ケース越しでも分かる。
濃い。
重い。
うまそう。
花の香りと大地の香りが混ざり、カウンターの中の空気が一気に変わった。
トキサダも、わずかに目を細める。
「見事だ」
短い言葉だった。
だが、それだけで少し誇らしくなる。
ブラウスはグルメケースを丁寧に持ち上げ、トキサダへ向き直った。
「トキサダさん、厨房を借りてもいいですか?」
「よいぞ。材料も好きなものを使うといい」
「ありがとうございます」
そう言って、ブラウスはカウンターの奥にある厨房へ向かった。
バーのような場所だと思っていたが、奥にはしっかりした調理場があった。
棚には花の蜜や香草、瓶詰めの果実、乾燥した根、見たことのない粉。
そして、普通にパンやバターもある。
何でもあるな、この店。
俺はカウンターに座り、調理の様子を遠目に覗いた。
「食パンを取り出したな」
厚切りの食パンだ。
ブラウスはそれを軽く整えると、油へ入れた。
揚げるのか。
じゅわっと音がする。
パンの表面がきつね色になっていく。
もうこの時点でうまそうだ。
次にブラウスは、小鍋で透明な飴のようなものを溶かした。
花の蜜だろうか。
それともトキサダの棚にあった何かか。
揚げたパンを取り出し、表面へ薄く塗っていく。
溶かした飴のようなものでコーティングされたパンが、きらきらと光る。
表面はカリカリ。
中はまだふわふわそうだ。
その上に餡子。
たっぷり。
黒く艶のある餡子を、容赦なく塗っていく。
そして、ついにアースだ。
大玉スイカほどの大きさがあったアースを、ブラウスが丁寧に切り分ける。
断面は、ソフトクリームのように滑らかだった。
だが、包丁を入れるたびにずしりとした重さが伝わってくる。
見た目は軽い。
でも中身は重い。
莫大なカロリーが、ぎゅっと詰まっている。
ブラウスは、そのアースを豪快にパンへ挟んだ。
さらに、フェアリーバターを差し込んでいる。
淡い金色のバター。
花の香りをまとった、妖精の花園名物らしい高級バターだ。
それを分厚く。
遠慮なく。
アースと餡子の間へ挟む。
「なんだこのカロリー爆弾は!!」
俺は叫んだ。
「うまそうすぎる!」
ブラウスが厨房から少しだけ顔を出した。
「アースはそのまま食べてもおいしいです!」
「だろうな!」
「そのままのアースと、アースあんバターサンドを作りました」
「天才か?」
「食材が良いんです」
「料理人も良いだろ!」
ブラウスは少し照れたように笑い、皿を持って戻ってきた。
カウンターの上に並べられる。
一つ目は、そのままのアース。
白く淡い緑色。
ソフトクリームのように渦を巻いている。
だが、皿に乗った時の重さが違う。
皿が少し沈んだように見える。
二つ目は、アースあんバターサンド。
揚げトーストの表面は飴で輝き、間には餡子、アース、フェアリーバター。
断面からは、アースの滑らかな層が見えている。
もう見ただけで幸せだ。
トキサダはそれを見て、静かに頷いた。
「素晴らしい」
そして棚から黒い豆のようなものを取り出す。
「飲み物は、苦みのあるものが良いな」
そう言うと、トキサダは手早く飲み物を作り始めた。
今度は時を整える一杯ではないらしい。
香ばしい匂い。
コーヒーに近い。
だが、花の根のような苦みもある。
透明感のある黒い飲み物が、グラスへ注がれた。
「いただきます」
俺たちは手を合わせた。
まずは、そのままのアース。
ブラウスが小さく切り分けてくれた。
小さく、と言っても一口には大きい。
俺はそれを口に運ぶ。
噛む。
いや、噛む前に溶けた。
「……!」
甘い。
だが、ただの甘さではない。
大地の甘さ。
花の甘さ。
穀物の甘さ。
根菜の甘さ。
果実の甘さ。
全部が一つになっている。
口の中に、巨大な畑が広がる。
それを、ソフトクリームみたいな滑らかさで食べている。
意味が分からない。
そして、一口食べるだけで、とんでもないカロリー量だと分かる。
体の奥が一気に満たされる。
一口食べるだけで、何日も食べなくても大丈夫な気がする。
それほどのエネルギー量。
そして、莫大な栄養素。
胃に入った瞬間、グルメ細胞が歓声を上げる。
食え。
吸収しろ。
蓄えろ。
使え。
細胞が一斉に動き出す。
「すご……」
俺は思わず呟いた。
「これは、すごい」
アースは、エアやペアのように一気に体を変える派手さとは少し違う。
アトムのように頭が冴える感じとも違う。
アナザのように味の世界を広げる感覚とも違う。
ニュースのように裏の世界を見せるものとも違う。
これは、土台だ。
体の根っこに栄養が流れ込む。
大地そのものを食べているような感覚。
俺という身体の下に、巨大な畑ができるような味だった。
「素晴らしい」
トキサダも一口食べ、静かに言った。
ブラウスも目を閉じて味わっている。
「これは……調理しすぎてはいけない食材ですね」
「分かる気がする」
「そのままで、すでに完成しています」
だが、次に待っているのはアースあんバターサンドだ。
俺はそちらへ手を伸ばした。
ずしり。
サンドイッチなのに重い。
意味が分からない。
俺は大きく口を開け、かぶりついた。
ばりっ。
表面の飴が割れた。
揚げたトーストはカリカリ。
だが、中はふわふわ。
その中から、餡子の優しい甘さが出てくる。
続いてアース。
滑らかで濃く、圧倒的なカロリー。
そこへフェアリーバター。
甘み。
塩味。
花の香り。
バターの濃厚さ。
それが、アースの大地の甘さを支えている。
「はあああ……幸せ」
声が漏れた。
これはまずい。
幸せすぎる。
トーストは飴でカリカリ。
中はふわふわ。
バターの甘みと塩味がちょうどいい。
餡子がアースの濃さを受け止めている。
アースがすべてを包んでいる。
口の中が、花園で、畑で、甘味処で、食卓だ。
正直、毎日食べたら一瞬で太りそうだ。
食没のおかげでそういったことにはならないが。
いや、食没がなかったら本当に危なかった。
これを普通の人間が毎日食べたらどうなるんだろう。
幸せ太りどころじゃない。
幸福で球体になる。
「アマジンさん、顔が緩みきっています」
「仕方ないだろ。これは緩む」
「同意します」
ブラウスも小さく笑いながら、アースあんバターサンドを食べていた。
トキサダも、静かに味わっている。
はむまるには、ほんの少しだけ小皿に分けた。
「きゅ……!」
目が輝いた。
頬袋に詰めようとしたので、ブラウスがすぐ止めた。
「これは今味わってください」
「きゅう……」
「また説教されてる」
「アマジンさんも同じですよ」
「はい」
苦みのある飲み物を飲む。
合う。
アースの莫大な甘みと栄養を、苦みがすっと整えてくれる。
重くなりすぎない。
また一口食べたくなる。
危険な飲み物だ。
食事が少し落ち着いた頃、俺は自分の体の奥に違和感を覚えた。
いや、違和感というより、広がり。
ニュースを食べた時に見えた裏の世界。
時調べの一杯で少し輪郭を持った道。
それが、アースを食べたことで、さらに安定している。
地面ができた。
そんな感覚だった。
ニュースだけでは、裏の道は薄い膜だった。
入口は見えるが、足場がない。
アースを食べた今、その膜の下に大地ができたように感じる。
「……ワープロード」
俺は小さく呟いた。
トキサダがこちらを見る。
「感じたか」
「はい。ニュースの時より、道が安定している気がします」
「アースは大地であり、土台だ。裏の道を歩むにも、立つ場所が要る」
「じゃあ、ワープロードもすぐできるようになる?」
「すぐ、という言葉の意味次第だ」
トキサダは静かに飲み物を口へ運んだ。
「だが、以前より遥かに近づいたであろう」
「やった……!」
これで老いの洞穴を完全攻略できるかは分からない。
それでも、前より明らかに近い。
ニュースで道を見て、アースで足場を得た。
俺の中に、そんな感覚があった。
ブラウスも自分の手を見ている。
「僕の山神俎板も……少し変わった気がします」
「裏の皿が見えるか」
トキサダが聞いた。
「まだ、見えるというほどではありません。ただ、表の俎板の下に、もう一枚重ねられる気配があります」
「よい。急ぐな。料理人が急ぎすぎれば、食材は逃げる」
「はい」
ブラウスは真剣に頷いた。
食事が落ち着いた後、俺はふと思い出した。
「そういえば、トキサダさん」
「何だ」
「フワ爺と知り合いなんだよな」
「知り合いというには、長く会っておらぬ」
「でも、便りは来た」
「来たな」
トキサダは少しだけ目を細めた。
「深海に籠ったまま、滅多に動かぬ男だが」
「フワ爺って、終末の食客って呼ばれてるらしいんだ」
俺がそう言うと、トキサダの手が止まった。
グラスの中の黒い飲み物が、小さく揺れる。
「その呼び名を、どこで聞いた」
「ガウンさんとメリスタさんからです。意味までは、よく分からないって」
「そうか」
トキサダは少し黙った。
それから、静かに言った。
「終末の食客など、大層な名だ」
「トキサダさんも、そうなのか?」
俺は思い切って聞いた。
トキサダは否定しなかった。
ただ、肯定もしなかった。
「呼び名など、後から誰かがつけたものにすぎぬ」
「じゃあ……」
「だが、終わりを見た者は、そう多くはない」
俺の胸が、少しだけ冷えた。
終わり。
その言葉を聞くと、どうしても前世の空を思い出す。
黒く赤く光る巨大なもの。
白くなった世界。
ビルが崩れ、地面が波打ち、熱と土砂が迫る光景。
「終わりを見て、それでも腹を空かせた者」
トキサダは言った。
「それを誰かが、終末の食客と呼んだのであろう」
「フワ爺と、トキサダさんも……?」
「我とフワ」
トキサダはそこで一度言葉を切った。
「そして、アールシ」
「アールシ……?」
聞き覚えがあった。
俺は少し考え、すぐに思い出す。
「アールシって……『アナザの歴史』の著者の?」
「そうだ」
トキサダは頷いた。
「僕もアールシさんの『調理器具の歴史』なら見た事あります!」
「あやつは、食材を食うより、食材が歩んだ時を記すことを選んだ」
「食材が歩んだ時……」
「フワはアナザと暮らした。我は道を守った。アールシは記した」
トキサダの声は静かだった。
「世界が終われば食卓も消える。だが、誰かが“うまい”と記したなら、その味は少しだけ未来へ残る。あやつはそう考えた」
俺は、深海定食で読んだ本を思い出した。
『アナザの歴史』。
そこには、フワ爺がアナザの歴史を変えたことが記されていた。
アナザがフワ爺に調理されるため、食べやすく変化していったこと。
それを、誰かが見て、知って、記録していた。
その著者が、アールシ。
そして、終末の食客の一人。
急に、その本の重みが変わった気がした。
「アールシさんは、どこにいるんですか?」
ブラウスが尋ねた。
「会う時はいずれ来る」
トキサダは答えた。
「今、名を追う必要はない。記録者は、追われる者ではなく、必要な時に頁を開く者だ」
「頁を開く者……」
「お主らがゴッドを食う頃、嫌でも縁は結ばれよう」
ゴッド。
次の次に向かう、地球のフルコース。
最後の一皿。
その名前が出ると、自然と背筋が伸びた。
アースを食べたばかりなのに、もう次の巨大な食材が見えている。
グリーントロルの侵攻。
ワープロード。
終末の食客。
アールシ。
どんどん話が大きくなっている。
でも、今は。
「とりあえず、もう一口食べていい?」
俺はアースあんバターサンドを見た。
トキサダが一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「よかろう」
「アマジンさん、本当に緊張感が長続きしませんね」
「腹が減ってると考えられないからな」
「さっき食べたばかりです」
「アースは別腹」
「別腹で済むカロリーではありません」
俺は笑いながら、もう一度アースあんバターサンドにかぶりついた。
甘い。
重い。
幸せ。
体の奥に大地が広がる。
その下に、裏の道が少しだけ見えた。
ワープロード。
まだ完全ではない。
けれど、確かに近づいている。
俺たちは花陰のカウンターで、アースの味をゆっくりと堪能した。