コメントでご指摘を頂いて、自分でも違和感があったので平田洋介→平田洋(ひらた ひろ)に変更しました。
男子を女子にTSさせるにあたって名前を変更するかどうか迷ってました。
名前が男子のままだとちょっと違和感がありますよね。
しかし、女子の名前を考える上で自分のネーミングセンスの無さという壁にぶち当たりました。あえて申し上げます。助けてください。
そこで、男の子に親近感を持たれやすくするために女の子に男の子っぽい名前をつけるという慣習があることにしました。
男子の時から名前の変わってない生徒は、基本的にこの慣習に基づいています。
ガラリと教室のドアを開けた瞬間、俺は自分の腕時計の針が狂ってしまったのではないかと二度見した。
時間は午前八時十五分。いつもなら、教室には意識の高い堀北や平田、あるいは数人の真面目な女子生徒しかいない時間帯だ。
だが、今日の1年Dクラスは、まるで嵐の前の静けさと、その中心にある大気圧の狂いを感じさせるような、妙な熱気に包まれていた。
教卓の周りに人だかりができていた。
その中心にいるのは、遅刻常習犯――池寛治と山内春樹。そして、普段は教室の隅で気配を消し怪しげなアニメ雑誌を読み耽っている「博士」こと外村秀雄。
三人とも男っぽい名前だが、一部の女子は男の子に親近感を持たれますようにという祈願から男っぽい名前が親からつけられているらしい。
しかし、彼女たちの表情に喜ぶような気配は微塵もなかった。
それどころか、三人はまるで公開処刑を待つ罪人のように、教卓の前で小さく身を縮こまらせ、額から滝のような冷汗を流している。
「ちょっと、あんたたち! 本当に自分が何をやらかそうとしたか分かってんの!?」
仁王立ちで三人を激しく叱りつけていたのは、クラスのギャル層のトップに君臨する軽井沢恵だった。
彼女の隣には、いつもは温厚で笑顔を絶やさない平田洋が、冷徹な笑みを浮かべて腕を組んでいる。さらに佐藤麻耶や篠原さつきといった女子生徒たちが、完全に包囲網を敷いて三人を見下ろしていた。
「す、すまんってば、軽井沢! 悪気はなかったんだしー!」
池が涙目で両手を合わせ、必死に許しを請うている。
「そうだよぉ! あたしたちはただ、ちょっとしたお遊びのつもりで……!」
「ただのデータ収集でござるよ!」
山内も怯えきった声を出し、外村はとガタガタと震えていた。
(……一体何が起きているんだ?)
俺は極力目立たないように、壁際を伝って最後列の自分の席へと向かった。
カバンを机に置き、椅子に座る。
隣の席では、堀北がすでに完璧な姿勢で読書を始めていたが、その読んでいる本のページは一向にめくられていなかった。彼女もまた、教卓の前の異様な騒ぎに意識を割いているようだった。あまり人に興味のない堀北にしては珍しいことだった。
教卓の前の女子たちの怒号は、ますますヒートアップしていく。
聞き耳を立ててみると、本日行われる「水泳の授業」に関係しているらしかった。
「あんたたち、信じられないわ! 綾小路くんと高円寺くんの二人のうち、どっちがより『いい筋肉』をしてるかで、ポイントを賭けた賭博を開こうとしてただなんて……!!」
軽井沢の怒号が響き渡る。
だが、俺はなぜ軽井沢が怒っているかわからなかった。
「それだけじゃないよ! 外村なんて、今日水泳を見学するって嘘ついて、カメラで二人の肉体を撮影しようとしてたんだからね! 」
佐藤が外村の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄る。」
「ち、違うでござる! 拙者はただ、男子の美しい筋肉という芸術作品を、データとして保存しようとしただけで……!」
「それを盗撮って言うのよ、この変態オタク!!」
篠原の強烈な言葉が刺さる。
俺は女子が怒っていた理由を察した。
外村達が盗撮しようとしていたので怒っているというわけだ。世間的には男の盗撮というのは重犯罪らしい。ホワイトルームではカメラで監視される日々を過ごしてきたので、盗撮されようと心情的に問題はないが、女子たちは俺が傷つくと思って止めようとしてくれていたのだろう。
もし学校にバレたら来月のポイントに影響するかもしれないし、事前に止めれたのはよかったのかもな。
「いい? あんたたちが裏でそんなバカな賭け事したり、カメラでコソコソ撮ろうとしてるのが、もし二人にバレたらどうすんのよ!?」
軽井沢が頭を抱えながら、悲痛な声を上げる。
「高円寺くんはプライドが高いから、『不愉快だね』って言って授業ボイコットするかもしれないし、何より、あの綾小路くんが……っ!」
「そうだよぉ……!」
佐藤が涙ぐみながら、胸を押さえた。
「綾小路くんは、男の人にしては大人しくて、常識知らずなところがあって、すっごく可愛くて、いつも私たちに対等で優しく接してくれる、奇跡みたいなイケメン男子なんだよ!? そんな綾小路くんが、自分たちの筋肉で賭博されてるなんて知ったら、傷ついてプールに来なくなっちゃうじゃん!!」
「もし二人が欠席して、今日の水泳の授業が女子だけになったら……ショックで泣いちゃうからね! 本気で泣くからね!?」
涙くんだ声でまったく聞き取れなかったが、俺たちのために止めようとしてくれているのだろう。
まさか泣くほどまでに、俺と高円寺のことを思って止めようとしてくれるなんてな。
佐藤はとても心優しいやつなのかもしれない。
女子たちは綾小路と高円寺が心情的に傷つかないように守ろうとしてはいるものの、ここまで怒っているのは二人がプールの授業に来ないのを絶対に避けるためだった。
だが、綾小路はそれに気づかず純粋な優しい心からの行動だと思っていた。
「そういうわけで、そのカメラと賭けのメモはここで没収させてもらうね」
平田が深みのある笑みで外村のカバンからカメラを撮ると、二人から賭けの内容が書かれたメモを取った。
「う、嘘だろ……これでがっつり儲けてやろうと思ったのに…」
池と山内がガックリと床に膝を突く。
「拙者の……拙者の男子筋肉コレクションの野望がぁぁ……!」
外村も床に突っ伏して絶望の声を上げていた。
髪をかき上げ、鏡に向かってウインクをしながら、当事者である高円寺は口にした。
「ふふん! 湧いているねぇ。君たちの言うことには一理ある。私のこの神聖なる肉体は、君たちのような凡俗が賭けの対象にしていいものではないからね」
「あ、高円寺くん! 聞こえちゃってた? ごめんね、うちのクラスのバカたちが勝手なことして!」
軽井沢たちが慌てて高円寺の機嫌を取るように話しかけると、高円寺は「ハハハ! 気にする必要はないさ。私は常に美しい、それだけのことだからね!」と、あっさりと流した。
俺は少し体を傾け、隣の席でようやく本を閉じた黒髪の少女に声をかけた。
「なぁ、堀北」
「な、何かしら、清隆くん」
声をかけた瞬間、堀北はびくっと体を震わせ、本の角で自分の口元を隠すようにしながら、上目遣いで俺を見た。その白い頬が、朝の光に照らされてほんのりとピンク色に染まっている。相変わらず、俺と目が合うだけでこの過剰な反応だ。いつもよりどこか緊張している気がするが、恐らく気のせいだろう。
俺は教壇の方で未だに池たちを説教している軽井沢たちを見つめながら、深く感心したように頷いた。
「クラスの女子たちは、本当に優しいんだな」
「……え?」
堀北が、完全に素頓狂な声を上げた。
「……? 池たちが俺たちの筋肉で勝手に賭け事をしたり、博士がカメラで撮影しようとしたりするのを、『傷つかないように』って、自分たちの事のように怒って必死に止めてくれてる。Dクラスの女子は思いやりに溢れてるな」
俺の言葉を聞いた堀北は、ほっとしたような表情になると、心配するような目で俺を凝視した。
「……清隆くん」
「ん?」
「あなた、本当に……そういうところ、本当に世間知らずで、純粋なのね」
「世間知らずなのは認めるが、何か間違っているか?」
俺が小首をかしげて尋ねると、堀北の顔が赤くなった。
「いいえ、間違ってなんていないわ。あなたの言う通りよ」
堀北は少しはにかむように微笑むと、誤魔化すように小さく咳払いをした。
「彼女たちは……ええ、そうね。清隆くんの『プライバシー』を守るために、必死になってくれているのよ。だから、あなたは何も気にせず、今日の水泳の授業には堂々と出席すればいいわ」
彼女は真実を伝えないことに罪悪感を覚えながらも、誤魔化した。
彼女も他の女子と同じように綾小路が水泳の授業を休むのはどうしても避けたかった。
彼女も綾小路と水泳をしたかったし、なにより水着を見たかったのだ。
そのため、女子たちの目的を綾小路が勘違いしていることを訂正しなかった。
「ああ、そうだな。体を動かすのは嫌いじゃないし、プールに入るのは久しぶりだからな。少し楽しみでもある」
綾小路がそう言うと、彼の声を盗み聞きしていた周囲の女子たちの間に、サーッと光が差し込んだかのような歓喜の波動が広がった。
「やった……! 綾小路くん、出席してくれるって……!」
「神様ありがとう……! 今日生きててよかった……!」
「欠席にならなくて本当によかった!」
女子たちはまるで世界が救われたかのようなお祭り騒ぎに突入していた。
なんだか女子たちが騒いでいたが、男がプールの授業に出席することはそんなに騒ぐことなのか?
不思議に思いつつも次の授業の準備をすると、授業が始まるまで堀北と談笑をすることにした。
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男子更衣室の中は、静まり返っていた。
それもそのはず、この1年Dクラスにおいて、男子更衣室を使用する人間は俺と高円寺六助の二人しかいなかった。
高円寺と二人きり。
ちょっと気まずい。
高円寺と少し距離を離して着替え始めると、高円寺は鏡の前に立った。
「ふむ……。この学校の指定水着は、私の洗練された肉体の美しさを完全に表現するには、少々生地の質が足りないようだね」
高円寺は鏡の前に立ち、無駄にキレのあるポーズを取りながら、自分の大胸筋や腹筋の仕上がりをチェックしていた。彼が着用しているのは、学校から支給された長袖のラッシュガードだ。
それにしても、高円寺の筋肉はすごいな。ラッシュガードの上からでも分かるが圧倒的な筋肉の質と量だ。
「まぁいいさ。この布切れ一枚ごときで私の美しいボディは損なわれないからね。ハハハっ」
高円寺はフッと前髪をかき上げると、俺の方を一度も見ることなく、優雅な足取りで更衣室を出て行った。
「……さて、俺も行くか」
俺は自分の体にぴったりとフィットしたラッシュガードのジッパーを上まで閉め、カギをポケットに入れて更衣室のドアを開けた。
プールサイドに出ると、そこにはすでにクラスの女子生徒たちが勢揃いしていた。
ただ一人、制服姿のまま見学している軽井沢恵を除いて、全員が出席している。軽井沢は何やら体調不良で事前に見学を届け出ていたようだが、ベンチからこちらをチラチラと好奇心的に気にしている様子を見るに、単にプールに入りたくない理由があるのかもしれない。俺と目が合うと、彼女は少し気まずそうにしながらも、周囲の目を盗んで小さく手を振ってきた。俺も小さく頷きを返す。
「あぁ……! 男子生徒が、二人とも……出席してくれている……!」
プールサイドに立っていた体育教師――水泳部の顧問も兼ねているという女性教師が、俺と高円寺が並んで現れた瞬間、まるで神の降臨を目撃したかのように両手を合わせて感動に震えていた。
授業に出席しただけで拝まれるとかどうなってるんだ。
俺は呆れながら女子と男子で分かれている列の男子の方へ移動した。
「よし、みんな集まったな! 今日の授業は、新入生の基礎泳力を測定するために、50メートル自由形のタイム計測を行う!」
教師が嬉しそうにホイッスルを鳴らし、教卓代わりにしているベンチの上にタブレット端末を置いた。
「そして、これは学校側からのちょっとしたボーナスだ。今日の測定で、クラス内で一番速いタイムを記録した生徒には、男女別でそれぞれ『5000ポイント』のプライベートポイントを支給する!」
『5000ポイント』という単語が響いた瞬間、女子たちの目の色が変わった。
初月に10万ポイントをもらって浮かれているとはいえ、タダで5000円相当のポイントがもらえるとなれば、話は別だ。
「5000ポイントか。スペシャル定食が三回か四回くらい食べれるな」
食堂で一番高いメニューが気になって頼んだスペシャル定食だが、高いだけにとても美味かった。
高いから何度も食べれないが頑張った後などにぜひ食べたい逸品だ。
普通に頼むと高いのでもったいなく感じてしまうが、授業で貰ったポイントで頼むならもったいなさは感じない。
目立ちたくないが、一位を取るのもありかもしれない。
それに女子と違って男子は二人だ。女子に比べたら勝ちやすいだろう。
一位を取るかと思ったところで、高円寺がもう一人の男子であることを思い出した。
あの身体能力も高そうな高円寺に勝つのってどう考えてもおかしいよな。
一位を取るという考えはすぐに消滅した。
俺が思考を巡らせていると、不意に周囲から強い熱気が近づいてくるのを感じた。
「おい、綾小路!」
声をかけてきたのは、赤髪のヤンキー少女の須藤だった。彼女は学校指定のスクール水着の上に、鍛え上げられた小麦色の肌を覗かせながら、拳を強く握りしめていた。
「アタシ、絶対に一番でゴールして、あの5000ポイントを毟り取ってやるからな! だから……その、アタシの泳ぎ、しっかり見てろよ!」
須藤はガバッと顔を赤くしながら、ぶっきらぼうに言い放った。
「須藤さんだけにいい格好はさせないわ」
今度は、その後ろから黒髪を綺麗にポニーテールにまとめた堀北鈴音が、静かな闘志を瞳に宿して歩み出てきた。
「清隆くん。私はあなたに、無様な醜態を見せるつもりはないわ。私がこのクラスで最も優れた女性であることを、私の泳ぎで証明してみせる。だから、他の有象無象ではなく、私だけを見つめていて頂戴」
「ちょっと待ってよ堀北さん! 綾小路くんにアピールするのは私だって負けないんだから!」
今度は櫛田桔梗が、持ち前の愛嬌を大爆発させながらピョンピョンと跳ねてやってきた。
「綾小路くん、もしわたしが1位になったら、そのポイントで今度一緒にケヤキモールのアイスクリーム屋さんに行こ? だから、応援してくれたら嬉しいなー!」
「綾小路くん! 私も頑張るからね!」
「私、綾小路くんのために世界新記録出す勢いで泳ぐから!」
軽井沢グループの佐藤や篠原、松下までもが、俺の周りに押し寄せてきて、口々に照れながらアピールを始めた。
プールサイドの気温が一気に数度上がったのではないかと思うほどの熱量だ。ホワイトルームでは「実験相手」とした扱いしか受けなかったので、こうして大勢の女子から「見ててね!」と純粋な期待を向けられるのは新鮮で、少しばかりの気恥ずかしさがある。
俺は少し身を引きながら、控えめなトーンで答えた。
「……ああ。怪我をしないように頑張れ」
――っっッ!!!
俺の、ただの応援の一言だが、それを聞いた女子たちの間で、目に見えて劇的な化学反応が起きた。
「が、頑張れって言われた……!」と佐藤が胸を押さえてその場にしゃがみ込みそうになり、須藤は「お、おう! 任せとけ!」と鼻血が出そうな勢いで鼻の下を擦り、堀北は顔を真っ赤にして直立不動になり、櫛田は「よーし、モチベーションマックスだよー!」と目をキラキラと輝かせている。
悪くないな。
少し恥ずかしいが、ホワイトルームでは得られなかった何かを得られている気がする。
「位置について――用意!」
ピィィィッ!!!
教師のホイッスルが響き、女子たちの第一組がスタートした。
須藤や堀北たちの泳ぎは凄まじかった。バシャバシャと激しく水飛沫を上げ、まるで荒波を進む魚のようにプールを突き進んでいく。須藤の圧倒的なパワーによる推進力と、堀北の無駄のない洗練されたフォームが、デッドヒートを繰り広げている。
勝ったのは須藤だった。
一位の須藤はどや顔をこちらに向けると、堀北は悔しそうにそっぽを向いた。
軽く手を振ると、嬉しそうに須藤が笑った。
その後第二、第三、第四、第五、第六、と女子の組が泳いでいく中で、圧倒的な速さでプールを駆け抜けた女子がいた。
(……速いな)
俺の目が捉えたのは、小野寺かや乃だった。
無駄のないストローク、完璧なキック、そして何より水との一体感が群を抜いていた。
タイムの早かった五人の女子が集められて決勝が行われると、小野寺かや乃が独走でゴール。
二位が須藤、三位が堀北、四位が平田、五位が松下だった。
「ぷはっ! ……やったあ!」
プールから上がってきた小野寺は、濡れた短い髪をパタパタと払いながら、真っ直ぐに俺のところへと歩いてきた。
彼女の顔は、運動によるほてりだけではない、明らかな赤みを帯びていた。水滴が滴る鎖骨のあたりが、日の光を浴びてキラキラと光っている。
「ね、ねえ……綾小路くん。今の私の泳ぎ……見てて、くれた?」
小野寺は恥ずかしそうに上目遣いで、しかしどこか誇らしげに俺の顔を覗き込んできた。
小野寺とは特に関わりがなく授業でも話したことがなかったので、まさか話しかけてくるとは思わず、少しドキッとした。
表情にそれを出さずに平然を装って答える。
「ああ、見てたぞ。すごく速かったな。無駄のないフォームで、水面を滑るように泳いでいた。1位、おめでとう」
俺が素直な感心を口にすると、小野寺は一瞬だけ目を見開き、それから言葉にならない短い悲鳴を上げて両手で顔を覆った。
「あ、ありがと……っ! 綾小路くんにそんな風に言ってもらえるなんて。アタシ……水泳やっててよかったよ」
彼女は茹で上がったトマトのような顔のまま、逃げるように他の女子たちの集団へと戻っていった。周囲の女子たちから「小野寺さんずるいー!」「私も褒められたかったー!」という羨望とギリギリのところで一位を逃した女子達からの嫉妬の嵐が巻き起こっている。
平田と櫛田がそんな女子達を必死に纏めていた。
「よし! 女子の測定は終了! 次は男子、高円寺と綾小路、位置につけ!」
教師の声がかかり、俺たちの番がやってきた。
ガタッ、とプールサイドにいた三十人以上の女子生徒たちが、座りながらも一斉にこちらに視線を移した。
50メートル泳いだばかりで疲れているはずなのだが、疲れた様子は見えなかった。
「やばい……高円寺くんの筋肉も凄いけど、綾小路くんのあの、細身に見えて無駄のない締まった体型、ヤバすぎない……?」
「ラッシュガード越しでも分かるあのプロポーション……神が作りたもうた奇跡の造形だよ……!」
女子たちの間で、ゴクリと生唾を飲み込むような音が聞こえてくる。
ホワイトルームでは成績のために体を見られることもよくあったが、こういった視線に晒されるのは初めてだ。
居心地の悪さは相変わらずだが、今更逃げるわけにもいかない。
「ふふん。悪いけれど、天然ボーイ。あの5000ポイントは、この私が優雅に頂くことにするよ」
天然ボーイって俺のことだよな。
コースの手前に立った高円寺が、手鏡の代わりにプールのみずみずしい水面を覗き込みながら、俺に不敵な笑みを向けた。
「……ああ。5000ポイントは欲しいが、高円寺には勝てそうにないからな。実力主義を謳う高校なんだ。気にせずいただいてくれ」
俺が淡々と答えると、高円寺は「そういってくれると助かるね」と、どこか楽しそうな笑みを深くした。
ポイントは欲しいが、高円寺を負かして一位を取るのは不自然だ。
少し惜しいが、今回は高円寺に譲ることにする。
「位置について――」
俺はスタート台の前に立ち、プールを見つめた。
頭の中で、急速に計算が始まる。
(さて……どの程度のタイムで泳ぐべきか)
俺の目標はあくまで「平凡」だ。目立ちすぎず、かといって不自然に遅すぎないタイム。
しかし、ここで一つ重大な問題が発生していた。
俺は日本の一般的な「普通の男子高校生」が、50メートルをどれくらいのタイムで泳ぐのかという具体的な平均値を、いまひとつ持ち合わせていなかったのだ。
先ほどの女子の小野寺のタイムは参考になったが、男子の基準が分からない。あまりに遅すぎるのも目立つし、速すぎると目立ってしまう。
(よく分からない時は、隣の奴を基準にするのが無難か)
俺は隣のコースに立つ高円寺をチラリと見た。
高円寺は間違いなく自分の全力を出して、圧倒的なタイムを叩き出すだろう。ならば、俺は「高円寺より少しだけ遅いくらいのタイム」を狙ってゴールすればいい。そうすれば、高円寺の影に隠れた、そこそこ運動ができる普通の男子という、都合の良いポジションに収まることができるはずだ。
「用意――」
ピィィィッ!!!
鋭いホイッスル音がプールに響き渡った。
瞬間、俺と高円寺の体が、同時に空中へと躍り出た。
水面に飛び込むその刹那、俺の網膜がゴーグル越しに高円寺の飛び込みのフォームを捉えた。
(……ほう)
思わず、心の中で小さく感嘆の声が漏れた。
指先からエントリーする角度、空空中での姿勢の維持、そして水面を捉える滑らかさ。どれをとっても一級品だった。
水中に突入した瞬間、高円寺は驚異的なドルフィンキックで一気に加速していった。
速い。小野寺よりも速い。体つきからしても異常と思えるスピードだった。
(ちょっと速い気もするが、俺はこれに『少しだけ遅れて』ついていく)
筋肉量は男の方が多いので、よくよく考えれば女子の小野寺よりも高円寺のタイムが速いのは当然なのかもしれない。
そう考えると高円寺も男子の平均からしたら少し速いくらいなのかもな。
俺は水中で目を見開き、高円寺の巻き上げる白い泡の軌跡を冷静に見つめながら、自分の肉体の出力を緻密にコントロールし始めた。
ホワイトルームで叩き込まれた、水の抵抗を極限まで減らすストリームラインを形成し、筋肉の収縮速度を高円寺のスピードに合わせて微調整する。
ザブッ、ザブッ、と水をかくたびに、高円寺の背中が目の前に迫る。彼がトップギアで突き進むなら、俺はその半歩後ろのポジションを正確にキープし続けた。
プールサイドからは女子たちの黄色い悲鳴のような大歓声が呼吸で顔を出す度に地響きのように聞こえてくるが、今は詳しく聞く気にはなれない。
ただひたすらに、隣の高円寺のスピードに合わせて、自分のタイムを「そこそこ速い」領域へと着地させることだけを考えていた。
後半の25メートル。
高円寺の加速はさらに増していく。筋肉のバネを極限まで使った、野生動物のような力強い泳ぎだ。俺もそれに遅れまいと、ラッシュガードに包まれた両腕を正確に回し、水を捉え続けた。
残り5メートル、3メートル、1メートル――。
高円寺が壁にタッチした、まさに2秒後。
俺の右指先がプールの壁をカツンと捉えた。
「ぷはっ……!」
水面から顔を出し、大きく息を吸い込む。
濡れた前髪をかき上げながらプールサイドを見上げると、そこには、先ほどの女子のレースの後とは全く異なる、不気味なほどの「完全な静寂」が広がっていた。
女子生徒全員が、開いた口が塞がらないという様子で硬直している。
見学していた軽井沢恵にいたっては、持っていたペットボトルを地面に落としたことすら気づかない様子で、目を丸くしてこちらを凝視していた。
そして、ストップウォッチを握っていた水泳部顧問の女性教師は、画面を見つめたまま、ガタガタと手元を震わせていた。
「な、何よこれ……。何なのよ、このタイムは……っ!?」
教師の引きつった声が、静まり返ったプールに響く。
「高円寺くんのタイム……日本高校記録を余裕で塗り替えてるじゃない……! そして、綾小路くん……! あなたも日本高校記録を超えているわ。わ、私が測り間違えちゃったのかしら?」
(……あ)
その言葉を聞いた瞬間、俺は心の中で、静かに自分の頭を抱えた。
やってしまった。
大誤算だ。俺は「一般の平均」が分からないから、高円寺のタイムを基準にして「彼より少し遅いくらい」を狙ったのだ。だが、その基準にした高円寺自身が人間離れした速さだったため、高円寺より少し遅い俺のタイムも「世界の壁を破壊するレベルの化け物タイム」になってしまったわけだ。
ペースメーカーの選択を完全に誤った。平凡を目指す男の行動としては、致命的な大失態である。
速いとは思ったが、そんなに速かったのか。
この世界の男は基本的に堕落的な生活を好み、スポーツを嗜んだり体を鍛えたりするのはごくわずか。
女子と違ってあまりスポーツが盛んではないので、潜在的な男性の持つ能力からしたら記録は大きくかけ離れて下回っていた。
綾小路や高円寺が全力を出せば今すぐにでも記録を書き換えることはできたが、綾小路はその事実を知らなかった
「あなたたち二人! 今すぐ水泳部に入りなさい! いえ、入りなさいじゃなくて、入ってください! 二人だったら全国や世界大会にも進めるはずだし、きっと二人にも
教師がプールサイドに駆け寄ってきて、必死の形相で俺たちをスカウトし始めた。
今から下手にタイムを落としても疑われるだろうしな。
高円寺はプールから優雅に這い上がると、濡れた金髪をバサリと振り払い、美しい歯を見せて笑った。
「私は何にも縛られない自由な存在。部活などという退屈な檻に、この私を閉じ込めることはできないのさ。ハハハ!」
高円寺はあっさりと教師の勧誘を跳ね除けると、プールの中で未だに呆然としている俺の方を振り返り、ニヤリと不敵に目を細めた。
「しかし、綾小路ボーイ。驚いたよ。君の泳ぎは私の完璧な泳ぎには一歩及ばなかったが、決して悪くなかった。自分以外でここまで速く泳いだ人物を見たのは初めてだよ。また勝負してみたいね」
高円寺はそう言い残すと、教師の制止も聞かず、優雅な足取りでシャワー室へと去っていった。
傲慢極まりないセリフだが、その瞳の奥には、俺の「底」を測りかねているような、奇妙な知的探求心が混ざっていた気がする。
面倒なやつに目をつけられてしまったな。
今日は厄日だ。
後でお祓いにでもいこう。
ガックシと肩を下すと、張り詰めていたプールサイドの空気が一気に爆発した。
「高円寺くんすごーい!」
「綾小路くんもめっちゃすごい!」
「二人とも凄すぎるよ! カッコよすぎる!!」
「綾小路くん…高円寺くんとあんなに競り合えるなんて……! 泳いでる姿とてもかっこよかった」
ドタドタと音を立てて、女子たちがプール際に押し寄せてきた。
堀北は顔を紅潮させながら「流石だわ、清隆くん。とても速かったわ」と興奮しているし、須藤は「チッ、アタシの泳ぎなんて霞んじまったじゃねぇか……でも、すげぇよ綾小路!」と悔しそうにしながらも目を輝かせている。櫛田や佐藤たちも、俺のラッシュガード姿を拝むようにして絶賛の言葉を浴びせてきた。
「あ、ああ……ありがとう。高円寺が速すぎたから、必死についていっただけだ。思ったよりも速く泳げて、自分でも驚いている」
俺はいつも通りの無表情の仮面を貼り付け、女子たちの熱狂を適当にいなしながら、プールから上がった。思ったよりも目立ってしまったことへの反省と、今後の言い訳をどうするかという懸念が頭をよぎる。
だが――。
タオルで濡れた髪を拭きながら、俺の胸の奥深くで、ある「未知の衝動」が静かに、しかし確実に拍動を始めていることに気がついた。
それは、ホワイトルームを抜け出してから、一度も感じたことのない、妙に熱くて心地よい「昂ぶり」だった。
(……高円寺六助、か)
俺はシャワー室へと続く通路を見つめながら、脳内で先ほどのレースの全プロセスを、リプレイしていた。
あの男、最後のタッチの瞬間まで、呼吸の乱れがそこまでなかった。つまり、あのオリンピック級のタイムを叩き出しながらも、まだ『余力』を残していたのだろう。
もちろん――俺だって、全力を出していない。
もし。
もし、俺があの白い部屋で培った技術と肉体の全てを解放して、あの高円寺という底の知れない男と1対1で本気で競い合ったらどうなるだろうか。
(俺が勝つか? それとも、あの男が上回るのか……?)
思考するにつれて胸が高まるのを感じた。
体を軽く拭いて服を着ると更衣室を出た。
結構早く着替えたつもりだったが、堀北が更衣室前のベンチで座っていた。
待ってくれていたのかもしれない。
「ねえ、清隆くん? 髪、私が拭いてあげましょうか? まだ髪がしっかり乾いてないわよ」
隣から、顔を真っ赤にした堀北がタオルを持って恐る恐る近づいてくる。
手で髪を触ると水滴がつくくらいにはまだ髪が濡れていた。
集中していて気が付かなかった。
「いや、自分でできる。ありがとな堀北」
水泳バッグからタオルを取り出して髪を拭く。
堀北が世話を焼きたそうにしているが、流石に恥ずかしいので断る。
平凡な学生生活を送るという目標だが、崩壊しかけている。だが、この男女比1対9の奇妙な学園生活には、ホワイトルームとは違う生活が広がっているのは確かだった。
タオルを片手に隙あれば迫ってくる堀北を躱しながら、教室へと歩みを進めた。