テーブルの上のスピーカーから、女の声が流れている。
ミリテクの地下ブリーフィングルーム。コンクリートの天井が低い。空調の重低音が壁面を伝い、床がかすかに振動していた。リサイクルされた空気に金属と埃の匂いが混じる。ホロディスプレイの青白い光だけが、テーブルの両側に詰めた顔を浮かび上がらせている。
管理官クロウとモーガンが長辺の正面に立ち、短辺にアルファの六人。シャイタンだけが椅子を使わず、壁に背をつけている。
再生の前に、モーガンが短く告げていた。
「バックドア経由の極秘通信だ。発信元は、アラサカのサブネット内部――オルト・カニンガムからだ」
囚われの身のまま、ミリテクへ接触を図っていた。
ローグの煙草を持つ手が止まった。スパイダーが膝の上のデッキを閉じる音が、やけに大きく聞こえた。
録音の中のオルトは端的だった。アラサカのデータ移行が最終段階に入っていること。ソウルキラー3.0のコアを含む全資産の国外退避が完了すれば、外部から手を出せる経路はなくなること。自身の構造体ごと移送される前に、物理的な介入がなければ猶予はもうない。
声が途切れた。スピーカーにホワイトノイズだけが残る。
ヴォイドは内容を処理しながら、視界の端でジョニーの両手を追っていた。
マロリアンに伸びない。テーブルも叩かない。左手の指先だけが、何もないテーブルの表面を押さえている。人差し指と中指が位置を変えた。薬指が加わり、また離れる。同じ動作を、声が続いている間ずっと繰り返していた。
一言も、発さない。
十年だ。この男がオルトの声を最後に聞いてから、十年。銀の腕に新しい傷が増え、仲間の何人かは灰になった。だがあの左手の癖は、当時のまま残っている。
クロウが端末を操作し、スクリーンにタイムスタンプを映した。発信は三日前。
「よって我々は、精鋭部隊を用いたアラサカ・タワー襲撃、並びにオルト・カニンガム救出作戦を正式に立案いたしました」
クロウの声は、契約条件を読み上げる時と変わらない温度だった。
ホロディスプレイを切り替えた。四つの符丁が縦に並ぶ。
「作戦は四チーム構成で進行します」
アルファ。ベータ。オメガ。デルタ。
「アルファには、タワー屋上からの侵入と警備かく乱を担当していただきます。小型爆弾の設置による陽動、および、オルト・カニンガムの救出。ベータは地下経路からのデータ抽出。オメガはモーガン・ブラックハンド直率のバックアップ」
「デルタは」
ローグが先を継いだ。
管理官の指が端末の上で止まった。
「デルタの任務内容は秘匿扱いです。質問には応じかねます」
「秘匿」
ローグは煙草の煙を細く吐いた。
「アタシたちが命を張る作戦で、隣のチームが何をしてるか教えてもらえないってのは、随分と片手落ちじゃないかい」
「残念ながら、上層部の判断です。私の裁量では」
「聞こえてるよ。同じ台詞をもう一回聞く趣味はない」
ローグは煙草を口に戻した。追及を打ち切ったというよりは、この場で押しても出てこないと値踏みした後の動きに見えた。
スパイダーがデッキを片手で掲げた。
「一点。今回、私は現地に入る」
ローグの目がスパイダーに向く。
「オルトの抽出は遠隔じゃ無理なの。サブネット内部まで物理的にジャックインして、構造体をリアルタイムで切り離さないと、転送中にデータが崩壊する。それができるランナーは――レイシィが死んだ今、私しかいない」
技術的根拠の後に、一拍の間があった。
「それに。レイシィと、オルトに。借りがある」
ローグの唇が動きかけ、止まった。スパイダーの目はそれを待っていなかった。
「彼女の判断は妥当だ。ソウルキラーに関する知見は俺にもない」
ヴォイドが短く入れた。
「それに俺も現地に入る。スパイダーの安全は俺が請け負う」
ローグは二人を見比べ、小さく顎を引いた。
席の端で、ウェイランドが身を起こした。
「ローグ、俺も――」
「ダメだよ」
遮るのではなく、待っていたように。
「あんたの肩と腕、まだ動くのがやっとだろう。屋上からの降下と連戦には耐えられない」
ウェイランドの口が開きかけ、閉じた。引き金にかかる二本の指――生身のまま残したその指が、テーブルの木目を一度擦り、止まった。
「いい案がある」
ジョニーが割り込んだ。足を組み替えながら、壁の一点を見ている。
「タワーの周辺で反企業デモをでっち上げる。地上の警備をかき乱して、降下を楽にする役だ。群衆を動かして、場を仕切る」
一拍。
「お前の得意分野だろ」
ウェイランドがジョニーを見た。ジョニーはウェイランドを見返さなかった。
沈黙が落ちた。
「……足手まといになるよりはマシだ」
低い声だった。誰もそれを否定しなかった。肯定もしなかった。ローグの視線だけが一瞬、ウェイランドの横顔に留まり、また正面に戻った。
クロウが端末を閉じにかかる。ブリーフィングが形式上の終わりに近づいていた。
「一つ、確認したい」
ヴォイドが口を開いた。全員の視線が集まる。
「デルタの任務は、タワー地下の核だな」
管理官の指が、端末の縁で止まった。
「……その質問には」
「答えなくていい。港湾で、俺たちはあれを直接見ている。円筒形、放射能標識付き。アラサカが持ち込んだブツだ」
ヴォイドはスクリーンの四つ目の符丁を指した。
「あれがタワーの地下にあると分かっていて、ミリテクが手を出さないはずがない。奪うか、動かすか、あるいは」
一拍置いた。
「使うか」
空調の音だけが残った。
クロウは端末に視線を落としたまま、口を開かなかった。否定の一言すら出てこない。その沈黙が、ヴォイドの提示した三つ目の選択肢を、他のどんな回答よりも正確に埋めていた。
低く、短い口笛が鳴った。
ジョニーだった。椅子の背に身体を預け直し、口の端を上げている。上機嫌の顔だった。
「上等じゃねえか」
それ以上は何も言わない。
ローグが灰皿へ灰を落とする。落とす必要のない長さだった。
ブリーフィングルームの空気が、一段沈む。
ヴォイドはスクリーンに残った四つの符丁を見ていた。
アルファ。屋上からの侵入。陽動。救出。
すべて筋が通っている。通りすぎている。
あの
問いを一つ潰すたびに、残った空白の形がはっきりしていく。だが形が見えたところで、この部屋の誰も、それを埋める言葉を持っていない。
クロウが端末を閉じた。乾いた音がした。
*
「ヴォイド」
エレベーターホールへ向かう途中だった。後ろから来た声には足音が伴っていない。
先を行く三人の背中が、角を曲がって消える。
ヴォイドは振り返った。
「話がある」
顔面プレートには表情がない。読み取れるのは、装甲の継ぎ目に走る修理痕の数だけだった。
「聞こう」
シャイタンはすぐには続けなかった。廊下の照明が、一定の間隔で低い唸りを上げている。
「俺は十四年、アラサカだけを狙ってきた」
数字が先に出た。
「施設を壊した。輸送を潰した。名前のある人間も何人か殺した。全部、あの会社に向けた仕事だ」
「聞いている」
「その十四年で、一度もなかった」
一拍。
「明日みたいな日が来るとは、思ったことがない」
廊下の空気が動かない。
「一人でやる分には、限界の位置が分かっている。届く場所と、届かない場所。タワーは届かない側にあった。ずっとだ」
シャイタンの視線が動いた。ヴォイドの目のあたりで止まる。
「それが変わった。この編成のせいだ。そして」
言葉を選んでいるようには見えなかった。必要な語数まで削っている――そういう間に思えた。
「その中心にいるのは、お前だ」
ヴォイドは何も返さなかった。
「俺はネットのことは分からん。分かる必要もない。だが、あの日、何が起きたかは見た」
義体の指が、一度だけ、腰の装甲を叩いた。
「明日、俺の仕事を成立させるのはお前だ」
平坦だった。頼み事の抑揚でも、称賛の抑揚でもない。整備手順を読み上げるのと同じ調子で、それだけが置かれた。
「――以上だ」
シャイタンは踵を返した。今度も足音はしなかった。
ヴォイドはその背中が角に消えるまで見ていた。
十四年。数えられる長さだった。だがこの男は、その十四年で一度も、明日のような日を勘定に入れていなかったという。
その言葉の据わりの悪さが、どこから来るのか。廊下の照明の唸りだけが、答えの代わりに続いていた。
*
『出る前に、寄るところがある。付き合え』
装備の最終確認をしていた手が止まった。
出撃まで六時間。
セーフハウスのテーブルには、ばらしたままのデッキと、まだ弾を込めていない弾倉が並んでいる。ヴォイドは弾倉を先に片付けた。
指定された場所は、ダウンタウンの外れにあった。
車を降りた瞬間、匂いで分かる。焦げた合成肉と、こぼれて乾いた酒と、機材の絶縁体が焼ける匂い。表の壁は塗り重ねられたステッカーで元の色が見えない。剥がれかけた一枚に、見覚えのあるロゴがあった。
搬入口が開いていた。
アンプが二台、台車で運び込まれていく。ケーブルの束を肩に担いだ男が怒鳴り、別の男が怒鳴り返す。ドラムのハードケースが縁石にぶつかって、鈍い音を立てた。
ヴォイドは足を止めた。
これは、今日決まった話ではない。
出撃の六時間前に、機材が搬入されている。手配されたのが今朝でないことは、動いている人間の数を見れば分かった。
ジョニーは搬入口の脇で煙草をくわえて立っていた。ヴォイドに気づくと、顎で中を示す。
「来い」
「何の用だ」
「見りゃ分かる」
それだけ言って、先に入っていった。
理由は聞けなかった。聞ける形の背中ではなかった。
ヴォイドは剥がれかけたステッカーをもう一度見てから、その後を追った。
一発目の音で、床が跳ねた。
キャパシティは二百も入らない。天井は低く、配管が剥き出しで、そこにぶら下がった照明の半分は色が死んでいる。壁は歴代のバンドのステッカーで埋まり、その上にまた新しいのが貼られている。空気は汗と煙草とアルコールが煮詰まって、吸うより飲むという方が近かった。
客はストリートの顔ばかりだ。傭兵、ランナー、フィクサーの下働き。招かれた人間だけが入っている。表に看板は出ていない。
ヴォイドは後方の壁際に立っていた。
ステージのジョニーには、軽口がなかった。
MCらしいMCを挟まない。曲間に客を煽らない。次の曲のイントロが始まるまでの数秒、彼はマイクスタンドを掴んだまま、床の一点を見ている。それから顔を上げて、歌い出す。
その繰り返しだった。
汗が銀の腕を伝って落ちる。歌詞の言葉が何を叫んでいるのかは、この距離では半分も聞き取れない。だが声の出し方が違うことだけは分かった。喉を潰しにかかっている。先の予定がある人間の使い方ではない。
三曲目の途中で、ケリー・ユーロダインがジョニーの隣に寄った。
言葉のやり取りはない。ケリーがフレーズを一つ投げる。ジョニーが返す。ケリーがそれを崩して返す。ジョニーが崩し返す。どちらかが仕掛けているのか、それとも両方が同時に仕掛けているのか、境目が見えなかった。
十年一緒にやってきた人間同士の呼吸だ。合わせているのではなく、外し方まで共有している。
客席が沸いた。
ヴォイドは視線を客席に流した。
ローグは中ほどの柱際にいた。煙草を指に挟んだまま、一度も口に運んでいない。灰が長くなり、根元まで灰になって、それでも彼女は落とさなかった。目はステージから動かない。
シャイタンは反対側の壁にいた。腕を組み、顔面プレートを軽く上向けて、目を閉じている。全身を義体に置き換えた男が、聴覚だけを残して立っている姿だった。
十四年アラサカだけを狙ってきたと、この男は言った。だがジョニー・シルヴァーハンドが「ただのロッカーボーイ」だった頃を知っている人間が、この部屋に何人いるのかは分からない。
ヴォイドはそれ以上考えるのをやめた。
ステージに視線を戻す。
汗が顎の先から落ちて、照明の中で一瞬だけ光った。
ジョニーは目を閉じて歌っていた。客席を見ない。ケリーも見ない。閉じた瞼の裏で何を見ているのかは、外からは分からない。
だが、とヴォイドは思う。
この男は昨日、十年ぶりにあの声を聞いた。囚われの身のまま、猶予はないと告げる声を。あの場では一言も発さなかった。テーブルの上で、左手だけが動いていた。
言葉にしなかったものは、消えていない。行き場を変えただけだ。
叫びにするには十年は長すぎて、黙り込むには今夜は近すぎる。だからこの男は、その間にある唯一の回路にすべてを流し込んでいる——そう見えた。確かめる術はない。本人に聞いたところで、まともな答えが返る類いの話でもない。
ただ、喉の使い方だけが証言していた。今夜で使い切るつもりの潰し方だった。
サビに入る。左手がネックを押さえる。人差し指と中指が位置を変え、薬指が加わる。
ブリーフィングルームのテーブルの上で、あの左手が繰り返していた形が、そこにあった。
昨日は音のなかったコードが、いま鳴っている。
オルトの声を聞いた男の、これが答えなのだろう。届く当てのない場所へ向けて音を出すことしか、この男にはできない。そして届く当てがないことは、たぶん本人が一番よく分かっている。
音が大きすぎて、それ以上考える余地がなかった。
ヴォイドは壁に背を預けたまま、最後まで動かなかった。
*
「壁と同化してるランナー発見」
肩が触れる距離に、スパイダーが滑り込んでいた。手にはグラスが二つ。片方を押しつけてくる。
「陰気な顔で立ってると、悪目立ちするよ。ここじゃ楽しんでない奴が一番浮く」
「観察していただけだ」
「はいはい。あんたのそれ、いつも観察って言うよね」
グラスを合わせる素振りだけして、スパイダーは自分の分に口をつけた。ステージでは曲が変わり、テンポが落ちている。怒鳴らなくても声が届く程度には。
「ね、終わったらさ」
前を向いたままだった。
「ネットのデート、付き合ってもらうから。今度は断らせない。逃走ルートの演算とか始めても無駄だからね、全部潰してある」
「デートの定義に演算対策は含まれない」
「含まれるの。あんた相手の場合は」
グラスの縁を指で叩きながら、続ける。
「それと、あんたのセーフハウスリスト。更新まだでしょ。帰ったら私が選んであげる。あんたの選定基準、生存率しか見てないから趣味が最悪なの。屋上があるとこにしなよ、屋上。夜景の一つも見えないと人間は駄目になるの」
「初耳の理論だ」
「今作った」
任務が終わったら。帰ったら。
彼女は「後」の話だけを並べていた。作戦の中身には一語も触れずに。積み上げられていく予定の軽さが、逆に何かの重さの裏返しであることくらいは、ヴォイドにも分かった。分かったが、口には出さなかった。
「あのさ」
スパイダーがこちらを向いた。
何か続くのかと思った。
続かなかった。代わりに、距離が消えた。
口の端に、掠めるように触れて、離れた。
「……続きは、全員で帰ってから」
一秒にも満たなかった。触れた一点だけが、周囲の空気より温度が高い。
ログは凪を告げている。心拍、正常域。皮膚温、誤差の範囲。システムはどこにも異常を検出していない。
なのに、言葉が出なかった。
これまで、彼女の接近はすべて処理済みの案件だった。反応を試す悪戯。ランナーとしての執着。アトランティスの壁際で、答えを待たずに肩を寄せてきたあの夜のあれも――柔らかい体温と、わざと寄せた吐息交じりの声も――日課のからかいの延長。そういう分類で、全部の引き出しに収まっていた。
収まっていたはずだった。
離れ際の目の色が、どの引き出しにも入らない。
――これは、からかいではなかったのか。
だとしたら、いつからだ。あの夜からか。もっと前か。遡ろうとした演算が、遡る先を特定できずに空転する。半世紀先のクロームを積んだ頭が、確度も出せずに固まっている。
スパイダーはその顔を見ていた。
それから、今夜いちばん満足そうに笑った。何も言わずに。
グラスを掲げて一口飲み、ステージへ向き直る。
ヴォイドは仮面を塗り直そうとした。表情筋に指示を出す、いつもの手順で。
出せなかった。
塗り直せないまま、ステージの音が、二人の沈黙を埋めていった。
*
機材は、ステージに置いたままだった。
アンプも、スタンドも、ばらされていない。ジョニーは楽屋にも寄らず、汗も拭かないまま出口へ向かっていた。
「ジョニー」
ケリーが追って出てきた。
二人は搬入口の脇で向き合った。ヴォイドは数歩離れた暗がりで足を止める。立ち去るには近すぎ、加わるには遠すぎる位置だった。
やり取りは短かった。
ケリーが何かを言い、ジョニーが短く返す。ケリーが笑おうとして、笑いきれなかった。ジョニーが拳を軽く、相手の胸に当てる。それだけだった。
抱擁はない。次の約束もない。
だが、置いたままの機材が全部を言っていた。戻って片付けるつもりのある人間は、ああいう出方をしない。それはたぶん、追って出てきた男にも分かっている。分かっていて、引き止める言葉を選ばなかった。
ジョニーが背を向けて歩き出す。ケリーは搬入口の灯りの下に残った。
ヴォイドは知っている。この別れが、残された側の中でどれだけ長く続くことになるのかを。五十年後もまだ、この男はこの夜を手放せずにいる。それを知っているのは、この場で自分だけだった。
知っていて、何もしない。今夜も。
屋上には、もうローターが回っていた。
風が真下から吹き上げてくる。ローグ、シャイタン、スパイダーは搭乗済みで、ヴォイドも機体に乗り込んだ。シートベルトの金具が指先で冷たい。
ジョニーだけが、まだ来ない。
(――知っている)
この先に何があるか。あの男がどこで倒れるか。頭の中には、とうに書き込まれている。
変えるために飛び込むのか。変えられないと分かった上で、隣に立つだけなのか。
どちらなのかは、自分でも答えが出ていない。出ないまま、ここに座っている。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
あの隔壁の夜と同じだ。天秤にかけるまでもない。あの男が倒れる場所に、間に合う場所に、いる。それだけだ。
階段室の扉が跳ね開いた。
ジョニーが駆け込んでくる。
「遅い!」
ローグが怒鳴った。
「怒ってるお前もそそるぜ」
ジョニーが機体に飛び乗り、ヘリが浮いた。
夜のスカイラインが傾いて、沈んでいく。その向こうに、他のどのビルよりも高く、アラサカ・タワーの灯が立っていた。
感想返せずすみません。
ありがたく拝見していますので、引き続きお気軽に感想をお寄せください