ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
朝は、何事もなかったかのように訪れた。
病院の窓から差し込む光は穏やかで、
廊下を歩く看護師たちの足音もいつも通りだった。
誰かが運ばれてくる音。
誰かが退院する準備をする声。
見舞いに来た家族の笑い声。
病院という場所は、常に生と死が同じ廊下に並んでいる。
昨日まで当たり前だった命が、今日には保証されなくなる。
その反対に、絶望の中から戻ってくる者もいる。
堀北鈴音はベッドの上で、窓の外を見ていた。
体調は昨日より少し良い。
少なくとも、自分で身体を起こせる。
呼吸も落ち着いている。
だが、それが回復を意味しないことは分かっていた。
心臓の奥で何かが静かに崩れている。
その事実だけは変わらない。
「調子はどうだ」
病室に入ってきたのは綾小路だった。
手には売店の袋。
中には水と、鈴音が以前よく飲んでいた温かいお茶。
「悪くはないわ」
「良くもないか」
「そうね」
綾小路は椅子に座った。
余計な言葉はない。
励ましもない。
大丈夫だとも言わない。
それが今は、逆にありがたかった。
根拠のない慰めを聞かされる方が苦しい。
鈴音は彼を見る。
「兄さんは?」
「医師と話している」
「また?」
「ああ」
「無理をしていないかしら」
「しているだろうな」
「止めないの?」
「止めて止まる相手じゃない」
「それはそうね」
鈴音は小さく笑った。
その笑みは薄い。
けれど確かに笑った。
綾小路は袋からお茶を取り出し、机に置く。
「飲めるなら飲め」
「命令?」
「提案だ」
「あなたの提案は命令に聞こえるのよ」
「そうか」
いつもの会話。
いつもの距離。
けれどその間に、見えない期限が挟まっている。
鈴音はカップを手に取った。
温かい。
指先に伝わる温度が、妙に生々しかった。
「綾小路くん」
「何だ」
「あなた、何か隠しているわね」
綾小路は表情を変えなかった。
「何を根拠に」
「勘よ」
「堀北らしくないな」
「そうね」
鈴音はお茶を見つめる。
「でも、今の私は勘に頼るしかないもの」
綾小路は黙った。
鈴音は続ける。
「兄さんも、あなたも、坂柳さんも、医師も、
みんな何かを探している。けれど、私には全部は話していない」
「確定していない情報が多い」
「便利な言葉ね」
「事実だ」
「そう」
鈴音は窓の外を見る。
「なら、確定したら教えて」
「分かった」
「嘘は嫌いよ」
「ああ」
「隠されるのも嫌い」
「分かっている」
「本当に?」
「本当だ」
鈴音は綾小路を見る。
その目は弱っていても、鈍ってはいなかった。
堀北鈴音は病人になっても、堀北鈴音のままだった。
「私は守られるだけの人形じゃないわ」
「知っている」
「ならいい」
その時、綾小路のスマートフォンが震えた。
画面には坂柳有栖の名前。
綾小路は一瞬だけ視線を落とす。
鈴音はそれを見逃さなかった。
「出なさい」
「ああ」
綾小路は病室を出た。
扉が閉まる。
鈴音はその背中を見送った。
心臓が一度、小さく痛んだ。
身体の痛みではない。
予感だった。
知らされていない何かがある。
そしてそれは、おそらく自分にとって都合の良い話ではない。
廊下。
綾小路は通話に出た。
「何だ」
『人工心臓の件です』
坂柳の声はいつもより低かった。
『適合検査の初期結果が出ました』
「結果は」
『堀北鈴音さん、二階堂麗華さん、双方に使用可能性があります』
綾小路は目を閉じた。
「一基だけか」
『現時点では』
「増産は」
『無理です』
即答だった。
『少なくとも、二人の残された時間内には』
「理由は」
『試作機の中核部品が一つしか存在しません。
製造には特殊素材と調整済みの生体制御ユニットが必要です。代替品はありません』
「海外から調達は」
『既に二階堂側が動いています。ですが、同型機は存在しません』
「既存機での延命は」
『短期間なら可能性はあります。しかし根本的解決にはならない』
綾小路は廊下の窓から外を見る。
人々が歩いている。
誰もこの会話の重さを知らない。
「海斗には」
『まだです』
「いずれ伝える必要がある」
『ええ』
坂柳は少し間を置いた。
『ただし、その瞬間から状況は変わります』
「分かっている」
『本当に?』
「坂柳」
『はい』
「二人とも助ける方法を探せ」
『探しています』
「一基しかないなら、二基目を作る」
『現実的ではありません』
「現実的かどうかは聞いていない」
坂柳は沈黙した。
電話の向こうで、紙を置く音がした。
『あなたは無茶を言っています』
「分かっている」
『それでも?』
「それでもだ」
坂柳は小さく息を吐いた。
『分かりました。無茶を前提に動きます』
「頼む」
通話が切れた。
綾小路はしばらく動かなかった。
一基。
二人。
数字としては単純すぎる。
だが、その単純さが最も残酷だった。
どちらかを選べ。
そう言われているのと同じだった。
だがまだ選ばない。
選ぶ段階ではない。
選んではならない。
綾小路は病室の扉を見た。
その向こうに鈴音がいる。
彼女は嘘を嫌う。
隠されることも嫌う。
だが、この情報を今伝えることが正しいのか。
答えは出なかった。
同じ頃。
二階堂家系列病院。
麗華は検査を終え、病室に戻っていた。
彩が枕の位置を直している。
ツキは室内の温度を確認している。
海斗は窓際に立ち、外を見ていた。
いつもなら何か文句を言う。
退屈だ。
病院食が不味い。
医者の話が長い。
そういうくだらない言葉で空気を壊す。
だが今は違った。
海斗はほとんど喋らない。
それが麗華には気に入らなかった。
「海斗」
「何だ」
「つまらないわ」
海斗が振り返る。
「病院がか?」
「あなたが」
彩が少し驚いた顔をした。
ツキは無表情のまま、わずかに視線を動かす。
海斗は眉をひそめた。
「病人相手に漫才しろってのか」
「いつも勝手にしているでしょう」
「今はそういう気分じゃねぇ」
「そう」
麗華は目を細める。
「なら命令よ。いつも通りにしなさい」
「無茶言うな」
「無茶を言うのが当主の仕事よ」
「最悪な当主だな」
「今さら?」
海斗は言葉に詰まった。
麗華は少しだけ笑った。
「そう。それでいいのよ」
海斗は顔をしかめる。
「お前な」
「何?」
「こっちは心配してんだよ」
「知っているわ」
「なら少しは大人しく心配されてろ」
「嫌よ」
「即答か」
「ええ」
麗華は上体を少し起こした。
彩が慌てる。
「お姉様、無理をしないでください」
「大丈夫よ」
「大丈夫ではありません」
「彩まで強くなったわね」
「お姉様のせいです」
麗華は苦笑した。
その時、病室の扉がノックされた。
入ってきたのは源蔵だった。
その表情を見た瞬間、空気が変わった。
麗華も海斗も察した。
何か情報が来た。
源蔵は医師を伴っていた。
さらに、尊徳もいる。
源蔵は椅子に座るよう促した。
「麗華」
「何か分かったのね」
「ああ」
源蔵は資料を机に置いた。
「治療法の候補が一つある」
彩の顔に希望が浮かぶ。
「本当ですか?」
「まだ確定ではない」
医師が慎重に続ける。
「次世代型人工心臓です。二階堂グループが開発に関与していた試作機で、
現在の症状に対して理論上、最も有効な可能性があります」
麗華は資料を見る。
「完全置換型に近いのね」
「はい」
海斗が前に出る。
「それを使えば助かるのか」
「成功すれば、命を繋ぐ可能性はあります」
「なら使え」
即答だった。
だが、誰もすぐに頷かなかった。
海斗はその沈黙を見て、顔を歪める。
「何だよ」
源蔵が低く言った。
「問題がある」
「何だ」
「試作機は一基しかない」
海斗は一瞬、理解できなかった。
「一基?」
「ああ」
「作ればいいだろ」
「時間がない」
「金ならあるだろ」
「金で解決できる段階ではない」
「ふざけんな」
海斗の声が低くなる。
「二階堂家だろ。世界中に手回せ。
部品だろうが素材だろうが研究者だろうが、全部集めろ」
源蔵は静かに答えた。
「既にやっている」
「なら」
「それでも一基だ」
病室が静まる。
麗華は資料から目を離さない。
「適合者は私だけ?」
源蔵は答えなかった。
その沈黙に、麗華は顔を上げた。
「違うのね」
源蔵は重く頷く。
「堀北鈴音も、適合可能性がある」
その名前が出た瞬間。
海斗の表情が変わった。
彩は息を呑む。
ツキは目を伏せた。
尊徳は静かに拳を握った。
麗華は目を閉じた。
「そう」
その一言だけだった。
海斗は源蔵を見る。
「綾小路は」
「おそらく既に知っている」
「……そうか」
海斗は笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「そういうことかよ」
ツキが一歩近づく。
「海斗」
「何も言ってねぇ」
「そのブサイク顔が言っている」
「うるせぇよ」
その声は荒かった。
ツキは口を閉じる。
麗華が言った。
「海斗」
「何だ」
「勝手に決めないで」
海斗は麗華を見る。
「何を」
「私のために誰かを犠牲にするような顔をしないで」
海斗の目が細くなる。
「お前は助かる」
「海斗」
「それ以外の話は後だ」
「私は」
「それ以外の話は後だ」
海斗は繰り返した。
麗華は言葉を止めた。
その声が、あまりにも硬かったからだ。
源蔵は二人を見ていた。
父として。
当主を育てた者として。
そして、大人として。
この瞬間が何かの始まりであることを理解していた。
人工心臓が一基だけ。
その情報は、関係者全員の心に見えない刃を突き立てた。
まだ誰も戦っていない。
まだ誰も奪うとは言っていない。
だが。
一つの命しか救えない。
その事実だけが、すべての会話の下に沈み込んだ。
夕方。
坂柳有栖のもとへ、堀北学が訪れた。
研究施設の一室。
机の上には資料が積み上がっている。
医療報告。
薬剤データ。
人工心臓の設計図。
ブラックルームの残存資料。
学はそれを見て、静かに言った。
「随分と集めたな」
「集めるだけなら簡単です」
坂柳は答えた。
「問題は、解決策が見つからないことです」
学は椅子に座る。
「人工心臓の件は聞いた」
「そうですか」
「一基だけというのも」
「ええ」
しばらく沈黙が流れた。
学が口を開く。
「二人とも助ける方法は」
「探しています」
「可能性は」
坂柳は少しだけ目を伏せた。
「非常に低い」
「ゼロではないのか」
「ゼロと言いたくはありません」
「なら十分だ」
坂柳は学を見る。
「あなたも無茶を言うのですね」
「妹が死ぬかもしれない時に、現実的な話だけをしていられるほど大人ではない」
「意外です」
「俺自身もそう思う」
学は資料を手に取る。
そこには人工心臓の構造図がある。
「この中核部品が問題か」
「はい。生体制御コアです。
患者の神経信号と循環制御を同期させるための部品ですが、
試作機用に一つだけ調整されています」
「複製は」
「設計上は可能ですが、製造と調整に時間がかかりすぎます」
「時間を短縮する方法は」
「それを探しています」
学は資料を見つめる。
法律を学ぶ者として、医療技術は専門外だ。
だが、それでも何もしない選択肢はなかった。
「俺にできることは」
「国内外の承認手続き、法的リスク、臨床使用の例外申請。
あなたの分野に近いものならあります」
「分かった」
「それと」
坂柳は少し間を置いた。
「綾小路くんを見ていてください」
学の目が動く。
「どういう意味だ」
「彼は既に知っています。一基だけということを」
「鈴音には」
「まだ話していないはずです」
学は目を閉じた。
「いずれ知る」
「ええ」
「その時、あいつはどう動く」
坂柳は答えた。
「堀北鈴音さんを助けるために動きます」
「当然だ」
「問題は、朝霧海斗さんも同じだということです」
学は黙った。
その意味は分かる。
綾小路清隆と朝霧海斗。
二人は共に戦った。
互いの能力を認めている。
背中を預けたこともある。
だが、今回だけは背中合わせにはなれない。
守る相手が違う。
そして救える命は一つ。
「止める方法は」
学が聞いた。
坂柳は首を横に振った。
「二人とも助ける以外にありません」
それが、唯一の答えだった。
夜。
大学病院。
鈴音の病室には森下藍が来ていた。
彼女は大量の差し入れを持ってきた。
果物。
飲み物。
雑誌。
なぜか推理小説。
さらに小さな花。
「多すぎるわ」
鈴音が呆れたように言う。
「少ないよりいいです!」
森下は胸を張った。
「病人には栄養と娯楽と花です!」
「偏っているわね」
「堀北鈴音は文句が多いですね!」
「あなたに言われたくないわ」
いつもの調子。
森下は明るく振る舞っていた。
だが、鈴音には分かった。
無理をしている。
いつもの森下なら、もっと自然に騒がしい。
今の彼女は、騒がしくすることで沈黙を埋めようとしていた。
「森下さん」
「はい!」
「無理をしなくていいわ」
森下の顔が止まる。
「……何のことですか」
「あなた、泣きそうな顔をしているもの」
森下は黙った。
そして、唇を噛んだ。
「ずるいです」
「何が」
「病人なのに、そういうところだけ鋭いの」
鈴音は苦笑した。
森下は椅子に座る。
先ほどまでの勢いが消えた。
「人工心臓の話、聞きました」
鈴音の表情が変わる。
「人工心臓?」
森下はしまった、という顔をした。
「え」
「森下さん」
鈴音の声が低くなる。
「何の話?」
森下は目を泳がせた。
完全に失言だった。
だが、ここまで言って誤魔化せる相手ではない。
「……坂柳さんたちが、可能性のある治療法を探していて」
「人工心臓があるのね」
「はい」
「それを使えば助かる可能性がある」
「はい」
鈴音はじっと森下を見る。
「問題は?」
森下は言葉に詰まった。
鈴音は静かに言った。
「教えて」
「でも」
「教えなさい」
森下は震える手を握った。
そして、小さく言った。
「一基しかないそうです」
鈴音の呼吸が止まった。
一基。
その言葉の意味を理解するのに、時間はかからなかった。
「適合者は」
森下は泣きそうな顔で答えた。
「堀北鈴音と、二階堂麗華さんです」
病室が静まり返った。
鈴音は窓の外を見た。
夜の街。
自分の顔がガラスに映っている。
驚くほど冷静な顔だった。
「そう」
それだけ言った。
森下は慌てる。
「でも、まだ二人とも助かる方法を探してます!
坂柳有栖も、堀北学さんも、綾小路清隆も、みんな動いてます!」
「分かっているわ」
「だから」
「森下さん」
鈴音は静かに彼女を見る。
「あなたは悪くないわ」
森下の目から涙がこぼれた。
「ごめんなさい」
「謝らないで」
「だって、私……」
「知るのが少し早くなっただけよ」
鈴音はそう言った。
だが胸の奥では、何かが冷たく沈んでいた。
自分が助かれば麗華が死ぬ。
麗華が助かれば自分が死ぬ。
まだ確定ではない。
まだ他の方法があるかもしれない。
だが、最悪の選択肢は既に目の前に置かれている。
鈴音は目を閉じた。
「綾小路くんは知っていたのね」
森下は答えられなかった。
それもまた答えだった。
同じ頃。
二階堂家系列病院。
麗華もまた、一人で人工心臓の資料を読んでいた。
海斗たちはいない。
医師との打ち合わせで席を外している。
麗華はページをめくる。
一基のみ。
適合候補二名。
堀北鈴音。
二階堂麗華。
資料は冷たい。
感情を持たない。
ただ事実だけが並んでいる。
麗華は机に資料を置いた。
「悪趣味ね」
誰に向けた言葉でもない。
山内にか。
運命にか。
自分自身にか。
分からなかった。
扉が開く。
入ってきたのは彩だった。
「お姉様」
「彩」
彩は何か言いたそうにしていた。
麗華はすぐ察した。
「人工心臓の話?」
彩は頷いた。
「お姉様は……どうするつもりですか」
「どうする、とは?」
「堀北さんも適合するって」
「そうね」
「一基しかないって」
「ええ」
彩は震える声で言う。
「でも、お姉様が使うんですよね?」
麗華は妹を見る。
彩は泣きそうな顔だった。
当然だ。
姉を助けたい。
その思いは間違っていない。
だが、麗華はすぐには答えられなかった。
「彩」
「嫌です」
彩は首を横に振る。
「綺麗事は聞きたくありません」
麗華は黙る。
「堀北さんが悪いわけじゃないのは分かっています。堀北さんも助かってほしいです。でも」
彩の声が震える。
「お姉様に死んでほしくない」
麗華は目を伏せた。
その言葉は重かった。
純粋で。
残酷だった。
「私も死にたくはないわ」
麗華は静かに言った。
彩が顔を上げる。
「でも、だからといって鈴音に死ねとも言えない」
「でも」
「分かっているわ」
麗華は彩の手を取る。
「あなたが私を助けたいと思ってくれることは嬉しい」
「なら」
「でも、私はまだ答えを出せない」
彩は涙を流した。
「そんなの嫌です」
「そうね」
「嫌です……」
麗華は妹を抱き寄せた。
彩は子供のように泣いた。
麗華はその背中を撫でる。
自分も泣けたら楽なのかもしれない。
そう思った。
だが涙は出なかった。
その代わり、胸の奥が静かに痛んだ。
病気の痛みなのか。
心の痛みなのか。
もう分からなかった。
深夜。
綾小路は鈴音の病室を訪れた。
消灯時間は過ぎている。
だが、鈴音は起きていた。
窓際に座り、外を見ている。
「知ったのか」
綾小路が言った。
鈴音は振り返らない。
「森下さんが教えてくれたわ」
「そうか」
「責めないで」
「責めるつもりはない」
「ならいいわ」
綾小路は部屋に入る。
扉を閉める。
しばらく沈黙が流れた。
鈴音が口を開く。
「一基しかないのね」
「ああ」
「麗華さんも適合する」
「ああ」
「あなたは知っていた」
「ああ」
鈴音はようやく振り返った。
「なぜ言わなかったの」
「確定していなかった」
「今は?」
「ほぼ確定だ」
「そう」
鈴音は怒っているようには見えなかった。
むしろ静かすぎた。
「綾小路くん」
「何だ」
「あなたはどうするつもり?」
綾小路は答えた。
「二人とも助かる方法を探す」
「それが無理なら?」
「無理だと決まっていない」
「決まったら?」
綾小路は黙った。
鈴音はその沈黙を見つめる。
「答えられないのね」
「今答える必要はない」
「逃げたわね」
「そうかもしれない」
鈴音は少しだけ笑った。
悲しい笑みだった。
「あなたが逃げるなんて珍しいわ」
「オレもそう思う」
「……私は」
鈴音は言いかけて、止まった。
自分はどうするべきなのか。
人工心臓を譲る。
そんな綺麗な言葉は言えない。
死にたくない。
本心だ。
だが麗華に死んでほしいとも思えない。
それも本心だった。
「難しいわね」
鈴音は呟いた。
「生きたいと思うことが、誰かを殺すことに繋がるなんて」
綾小路の表情がわずかに硬くなる。
「まだそう決まったわけじゃない」
「ええ」
鈴音は頷く。
「でも、もしそうなった時、私は自分がどんな人間なのか知ることになる」
「堀北」
「怖いわ」
その言葉は小さかった。
「病気よりも、死ぬことよりも、
自分が生きたいと思った時に誰かの死を受け入れてしまうかもしれないことが怖い」
綾小路は何も言えなかった。
鈴音は窓の外を見る。
「私はそんなに立派な人間じゃない」
「知っている」
「そこは否定しなさい」
「嘘は嫌いだろう」
鈴音は少しだけ笑った。
「そうね」
綾小路は静かに言う。
「立派である必要はない」
鈴音が彼を見る。
「生きたいと思うのは当然だ」
「……そう」
「それを責める権利は誰にもない」
鈴音は目を伏せた。
「あなたは?」
「オレにもない」
「そう」
短い沈黙。
鈴音は小さく言った。
「ありがとう」
綾小路は答えなかった。
ただ、その場にいた。
それだけで十分だった。
同じ頃。
二階堂家系列病院の屋上。
海斗は一人で立っていた。
夜風がロングコートではない普段着の裾を揺らす。
まだコートは着ていない。
まだ銃も持っていない。
まだ戦いは始まっていない。
だが、海斗の中では何かが軋み始めていた。
階段の扉が開く。
現れたのは宮川尊徳だった。
「ここにいたか」
「何か用かよ」
「相変わらず口が悪いな」
尊徳は隣に立つ。
二人で夜景を見る。
しばらく無言だった。
先に口を開いたのは尊徳だった。
「人工心臓の件は聞いたな」
「ああ」
「どうするつもりだ」
「麗華を助ける」
即答だった。
尊徳は海斗を見る。
「堀北鈴音はどうなる」
「知らねぇ」
その言葉は冷たかった。
だが、言った海斗自身の顔も苦しそうだった。
尊徳は静かに言う。
「本気でそう思っているのか」
「思ってねぇよ」
海斗は吐き捨てる。
「堀北が悪いわけじゃねぇ。綾小路が悪いわけでもねぇ。そんなことは分かってる」
「なら」
「でも麗華を見殺しにはできねぇ」
尊徳は黙った。
海斗は夜景を睨む。
「麗華は二階堂家の当主だ。彩もいる。ツキもいる。
源蔵もいる。あいつが死ねば、壊れるものが多すぎる」
「堀北にも家族がいる」
「分かってる」
「友人もいる」
「分かってる」
「綾小路もいる」
「分かってるって言ってんだろ!」
海斗の声が夜に響いた。
尊徳は動じなかった。
海斗は息を荒くしながら、拳を握る。
「全部分かってんだよ」
その声は、怒りよりも悲鳴に近かった。
「分かってるから、どうしようもねぇんだろ」
尊徳は海斗の横顔を見た。
この男は、軽薄に見えて情が深い。
だから苦しんでいる。
本当に堀北鈴音をどうでもいいと思えるなら、こんな顔はしない。
「海斗」
「何だ」
「綾小路と話せ」
海斗は黙った。
「まだ間に合う」
「何が」
「敵になる前に」
夜風が吹く。
海斗は目を細めた。
「敵、ね」
「そうなる可能性がある」
「お前もそう思うか」
「思いたくはない」
尊徳は言った。
「だが、お前たちは似ている」
「どこがだよ」
「守ると決めたものに関しては、絶対に退かない」
海斗は笑った。
「嫌な共通点だな」
「ああ」
尊徳は続ける。
「だからこそ、今話せ。まだ銃を向け合う前に」
海斗は夜景を見つめた。
綾小路清隆。
背中を預けた男。
白銀禁止区域で。
雪山のホワイトルームで。
死線の中で。
互いに何度も生き残った。
あいつなら分かる。
そう思う自分がいる。
だが同時に、あいつだからこそ譲らないとも分かる。
「話して解決するならな」
海斗は呟いた。
「とっくに誰かが解決してる」
翌日。
綾小路と海斗は、病院と病院の中間地点にある小さな公園で会った。
連絡をしたのは尊徳だった。
学も源蔵も坂柳も、表には出ていない。
二人だけで話すべきだと判断した。
公園には人が少なかった。
平日の午前。
ベンチ。
木々。
遠くで子供を連れた母親が歩いている。
綾小路は先に来ていた。
海斗は少し遅れて現れた。
黒いシャツ。
ラフな上着。
まだロングコートではない。
ベレッタも持っていない。
ただ、目つきだけが以前と違っていた。
「待たせたか」
「少しな」
「悪いな。病院の飯が不味くて機嫌悪かった」
「お前が食べたのか」
「麗華が残したやつをな」
「そうか」
くだらない会話。
昔ならそれで少し空気が緩んだ。
だが今は緩まなかった。
二人はベンチに座らず、向かい合って立った。
海斗が先に言う。
「人工心臓の話は聞いた」
「ああ」
「一基だけ」
「ああ」
「適合者は堀北と麗華」
「ああ」
海斗は笑った。
「最悪だな」
「そうだな」
「二人とも助ける方法は」
「探している」
「見つかると思うか」
綾小路は少し黙った。
「見つける」
「答えになってねぇ」
「それ以外の答えはない」
海斗は空を見上げた。
春の青空。
あまりにも綺麗だった。
「綾小路」
「何だ」
「オレは麗華を助ける」
「分かっている」
「お前は堀北を助ける」
「ああ」
「だよな」
短い沈黙。
遠くで子供の笑い声が聞こえた。
その無邪気な声が、二人の間の空気を余計に重くした。
海斗は綾小路を見る。
「譲れって言う気はねぇ」
「オレもだ」
「だろうな」
海斗は少しだけ笑った。
今度の笑みは、昔の軽口に近かった。
だがすぐ消えた。
「でもな、まだ敵にはなりたくねぇ」
綾小路は海斗を見る。
「同感だ」
「本当か?」
「ああ」
「なら今は協力だ」
「二人とも助けるために」
「そうだ」
海斗は手を差し出した。
「まだ決裂するには早ぇ」
綾小路はその手を見た。
そして握った。
「そうだな」
握手。
二人はまだ敵ではない。
少なくとも、この瞬間だけは。
だが、二人とも分かっていた。
この握手は、約束ではない。
猶予だった。
二人とも助ける方法が見つかるまでの。
あるいは。
その方法が存在しないと判明するまでの。
ほんの短い猶予。
公園の木々が風に揺れる。
春の光が二人に降り注ぐ。
綾小路清隆と朝霧海斗。
かつて背中を預け合った二人は。
まだ同じ方向を向こうとしていた。
だがその足元には、既に見えない亀裂が走っていた。
そして。
その亀裂は時間と共に、確実に広がっていくことになる。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。