ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
希望が見えた時、人は一瞬だけ痛みを忘れる。
それがどれほど細く、脆く、頼りない光であっても。
暗闇の中に灯った以上、人はそこへ向かって歩き出す。
堀北鈴音も。
二階堂麗華も。
堀北学も。
二階堂彩も。
坂柳有栖も。
宮川尊徳も。
二階堂源蔵も。
そして。
綾小路清隆と朝霧海斗も。
全員が、まだ信じようとしていた。
二人とも助かる未来を。
欧州の共同研究施設に残されていたという、N-HEART初期型の生体制御コア。
未完成品。
不安定。
臨床使用には遠い。
それでも、ゼロではなかった。
その一点だけが、関係者全員を動かしていた。
二階堂グループ医療研究棟。
最上階の会議室には、連日、深夜まで明かりが灯っていた。
壁一面のモニターには、海外研究機関との通信映像が映し出されている。
英語。
フランス語。
ドイツ語。
医療用語。
法律用語。
技術用語。
膨大な情報が飛び交う中で、坂柳有栖は静かに資料を整理していた。
疲労は濃い。
だが、彼女は止まらなかった。
「初期型コアの保管状態は?」
坂柳が画面越しに尋ねる。
相手の研究者が答える。
『低温保管は維持されています。
ただし、最終メンテナンス記録が三年前で止まっています』
「三年前?」
坂柳の目が細くなる。
「なぜです?」
『当時、プロジェクトが凍結されました。
その後、管理責任が複数部署へ移り、記録が分散しています』
「つまり、正確な保管状態は現物を確認しなければ分からない」
『その通りです』
坂柳は小さく息を吐いた。
嫌な情報だった。
だが、まだ致命的ではない。
「輸送承認は?」
別の画面で学が確認する。
『研究施設側の承認は下りました。
ただし、医療機器扱いではなく研究素材扱いでの輸送になります』
「緊急臨床使用に切り替える手続きはこちらで進める」
『日本側の承認は?』
「特例申請を出している」
学の声は淡々としていた。
だが、その目には疲労が見える。
法的手続き。
各機関への説明。
責任の所在。
未承認医療機器の使用。
全てが壁だった。
通常なら数ヶ月、あるいは年単位で議論される話を、
数週間以内に通さなければならない。
無茶だった。
だが、無茶をしなければ鈴音と麗華は助からない。
源蔵は別の端末で交渉を続けていた。
「費用は問題ではない」
低い声。
相手の返答を聞く。
「責任はこちらで取る。輸送ルートも確保する。必要なら政府間の調整も行う」
さらに沈黙。
「時間がない。返答は今すぐだ」
源蔵の声には、二階堂家当主を育てた男としての圧があった。
金。
権力。
人脈。
全てを使う。
それでも命を買える保証はない。
その現実が、会議室全体に重くのしかかっていた。
尊徳は部屋の隅で通信ログを確認していた。
欧州施設に関する不可解な記録。
責任者の交代。
保管台帳の欠落。
一部データへの不審なアクセス。
「黒幕はいないはずだったんだがな」
尊徳が呟く。
坂柳が視線だけを向けた。
「黒幕ではないでしょう」
「なら何だ」
「過去の亡霊です」
坂柳は淡々と言った。
「ブラックルーム関連技術に触れた者たちは、既に散っています。
利益を得ようとする者、責任を逃れようとする者、証拠を消したい者。
山内春樹本人がいなくても、彼が壊した世界の残骸はまだ残っている」
「厄介だな」
「ええ」
坂柳は資料を閉じる。
「ですが、今は突破するしかありません」
その頃。
大学病院。
堀北鈴音は補助循環装置の導入説明を受けていた。
病状の進行を少しでも遅らせるため。
人工心臓の準備が整うまでの時間を稼ぐため。
それは治療ではなく、猶予を買う処置だった。
「生活制限が増えます」
医師が説明する。
「無理な運動は避けてください。感染リスクも管理します。
場合によっては入院継続が必要です」
鈴音は静かに聞いていた。
「大学へ戻ることは?」
医師は言葉を選んだ。
「現時点では勧められません」
「そう」
鈴音は短く答えた。
予想していた。
だが、実際に言われると胸に沈む。
学が隣にいる。
綾小路も後ろで聞いている。
医師が去った後、病室には静寂が残った。
鈴音は窓の外を見る。
「講義、どれくらい遅れるかしら」
学が言う。
「今は考えなくていい」
「考えるわ」
「鈴音」
「考えていないと怖いのよ」
その言葉に、学は何も言えなくなった。
鈴音は続ける。
「大学に戻ること。課題を出すこと。試験を受けること。
普通の予定を考えていないと、自分が病人だということだけになってしまう」
綾小路は黙っていた。
鈴音は彼を見る。
「欧州のコアは?」
「輸送準備中だ」
「使えそうなの?」
「現物確認が必要だ」
「便利な言葉ばかりね」
「そうだな」
鈴音は苦笑した。
「でも、少しだけ安心したわ」
「何に」
「あなたたちが諦めていないことに」
その言葉は静かだった。
綾小路は鈴音を見る。
「諦める理由がない」
「そう」
鈴音は目を伏せる。
「なら、私ももう少しだけ諦めないでおくわ」
同じ頃。
二階堂家系列病院。
麗華もまた、補助循環装置について説明を受けていた。
彼女は資料を読みながら医師の話を聞いている。
彩は隣で不安そうに座っていた。
海斗は壁際。
ツキは扉近く。
源蔵は欧州との交渉で不在だった。
「この処置でどれくらい時間を稼げるの」
麗華が尋ねる。
「個人差があります」
医師が答える。
「数週間から、状態が安定すればそれ以上も。ただし、根本治療ではありません」
「分かっているわ」
麗華は資料を閉じた。
「欧州のコアが届くまで持たせるための処置ね」
「はい」
彩が震える声で言う。
「届けば、お姉様も堀北さんも助かるんですよね?」
医師はすぐに答えられない。
その沈黙に、彩の表情が曇る。
麗華は妹の手を握った。
「彩」
「はい」
「大丈夫とは誰も言えないわ。でも、可能性はある」
「……はい」
海斗が低く言った。
「可能性じゃ足りねぇ」
麗華は彼を見る。
「海斗」
「足りねぇんだよ」
海斗は壁から離れる。
「届いたら助かる。そう言えよ」
医師は困惑する。
「朝霧様、現時点では」
「分かってる」
海斗は遮った。
「でもそればっか聞かされてるこっちの身にもなれよ。
可能性があります。個人差があります。断定できません。全部それだ」
ツキが静かに言う。
「海斗」
「悪い」
海斗はすぐに声を落とした。
「医者に当たっても仕方ねぇのは分かってる」
麗華は彼を見つめた。
海斗の中で焦りが増している。
最初の頃にあった軽口は、日に日に減っている。
本を読む時間も減った。
ツキとの漫才も、どこか途中で途切れる。
海斗は笑わなくなりつつあった。
それが麗華には怖かった。
自分の死よりも。
自分を助けようとして、海斗が別の何かへ変わっていくことが怖かった。
「海斗」
「何だ」
「少し休みなさい」
「またそれか」
「命令よ」
「当主様の命令でも聞けねぇ時はある」
「あなたは私のボディガードでしょう」
「だからここにいる」
「ボディガードならプリンシパルの命令を聞きなさい」
「護衛として拒否する」
麗華はため息を吐いた。
「本当に面倒な人」
「お互い様だ」
そのやり取りに、彩が少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
麗華もそれに気付いて、微かに表情を緩めた。
だが海斗は笑わなかった。
それが、余計に重かった。
数日後。
欧州から連絡が入った。
初期型コアの輸送許可が下りた。
研究施設から空港へ。
専用輸送機で日本へ。
到着後、二階堂グループ医療研究棟へ搬入。
そこから最短六週間で改修と適合調整。
無謀な計画だった。
だが、全員がその計画に賭けた。
輸送当日。
二階堂グループ医療研究棟の指令室には、関係者が集まっていた。
大型モニターに、欧州施設からの映像が映る。
銀色の輸送ケース。
温度管理装置。
厳重な封印。
その中に、二人の命を救うかもしれない初期型コアが収められている。
海斗はモニターを睨むように見ていた。
綾小路は隣に立っている。
二人の間に会話は少ない。
だが、まだ同じ方向を見ていた。
坂柳が進行を確認する。
「温度管理」
『正常』
「振動制御」
『正常』
「封印番号」
『一致』
「輸送車両は?」
尊徳が聞く。
『予定通り施設を出発しました』
源蔵が低く言う。
「日本側の受け入れ準備は完了している」
学も端末を確認する。
「緊急使用手続きの仮承認も取れた。
正式書類は後追いになるが、搬入後すぐに改修へ入れる」
一瞬だけ、空気が明るくなった。
希望が現実に近づいている。
誰もがそう思った。
海斗が小さく呟く。
「来いよ」
それは祈りに近かった。
綾小路もモニターを見つめている。
鈴音の病室。
麗華の病室。
二人の心臓が壊れていく時間。
その全てが、この銀色のケースに繋がっている。
輸送車両は順調に空港へ向かっていた。
護衛車両が前後につく。
道路は事前に調整済み。
空港には専用機が待機。
全てが予定通りだった。
予定通りすぎた。
だからこそ、異変は唐突だった。
『通信にノイズ』
オペレーターが言った。
坂柳が反応する。
「ノイズ?」
『輸送車両の位置情報が一瞬途切れました』
尊徳が身を乗り出す。
「映像は」
『復旧します』
モニターが乱れる。
数秒。
砂嵐。
そして復旧。
輸送車両は走っている。
問題ないように見える。
だが坂柳の表情は硬かった。
「封印データを確認してください」
『確認中……』
短い沈黙。
『封印に異常なし』
尊徳が言う。
「ただの通信障害か?」
坂柳は答えない。
綾小路が低く言う。
「違うかもしれない」
海斗が彼を見る。
「何だと」
綾小路はモニターを見たまま言った。
「位置情報が途切れた時間は?」
『約十二秒』
「その間に車両が停止した記録は」
『ありません』
「映像は連続していたか」
『一部補完されています』
「補完?」
坂柳の目が鋭くなる。
「誰が補完しました?」
オペレーターが慌てる。
『自動補正システムです』
「生データを出してください」
モニターにログが表示される。
坂柳が解析を始める。
数秒後、彼女の顔から血の気が引いた。
「映像が差し替えられています」
指令室の空気が凍った。
海斗が声を荒げる。
「どういうことだ!」
坂柳は端末を操作する。
「十二秒間、輸送車両の内部映像が偽装されています」
尊徳が通信に怒鳴る。
「現地護衛に確認しろ!」
『了解!』
画面が切り替わる。
輸送車両内部。
銀色のケース。
一見、何も変わっていない。
だが、坂柳はすぐに言った。
「ケースを開けさせてください」
『輸送中に開封は』
「今すぐです」
源蔵も言う。
「開けろ」
現地の研究員が慌てながら封印を確認する。
封印番号は一致。
外装に破損なし。
だが、ケースを開けた瞬間。
全員が息を呑んだ。
中に収められていた初期型コアは、黒く焼け焦げていた。
内部から。
まるで自壊したように。
温度管理装置は正常表示。
外装は無傷。
封印も正常。
しかし、コアだけが破壊されていた。
海斗が一歩前に出る。
「嘘だろ」
誰も答えない。
坂柳が端末を操作する。
「内部温度ログを」
『正常です』
「電磁反応」
『輸送前に異常なし。現在は……内部回路が完全に焼損しています』
「原因は」
『不明です』
不明。
またその言葉だった。
麗華の病気も。
鈴音の病気も。
そして最後の希望の破壊も。
全て不明という言葉で覆われていく。
綾小路は静かに画面を見ていた。
海斗は震える拳を握っていた。
「誰がやった」
海斗の声は低かった。
尊徳が言う。
「落ち着け」
「誰がやったって聞いてるんだ!」
指令室に怒号が響く。
坂柳が冷静に答える。
「現時点では分かりません。
ただし、コア内部に自壊プログラムが仕込まれていた可能性があります」
「自壊プログラム?」
「一定条件下で回路を焼損させる保護機構、あるいは証拠隠滅機構です」
学が言う。
「ブラックルーム由来の技術か」
「可能性は高いです」
坂柳は唇を噛んだ。
「山内春樹が直接仕込んだものか、
ブラックルーム側の保全機構かは分かりません。ですが結果は同じです」
源蔵が静かに言った。
「使えないのか」
坂柳は焼損したコアの映像を見つめる。
長い沈黙。
そして。
「無理です」
その一言で。
最後の希望は死んだ。
指令室には誰も声を出せなかった。
海斗はモニターを見ている。
綾小路も同じものを見ている。
焼け焦げた初期型コア。
二人とも助ける唯一の可能性。
それが、目の前で失われた。
海斗は笑った。
小さく。
乾いた笑い。
「はぁん」
誰も笑わない。
「そうかよ」
海斗は目を伏せる。
「結局、一基か」
綾小路は何も言わない。
海斗はゆっくり綾小路を見る。
「なあ」
綾小路も彼を見る。
「残った人工心臓は一基だけだな」
「ああ」
「適合者は麗華と堀北」
「ああ」
「二基目はもうない」
「現時点では」
「その言い方、やめろ」
海斗の声が鋭くなる。
「現時点では、可能性は、検討中です、全部聞き飽きた」
綾小路は黙った。
海斗は続ける。
「現実を見ろよ」
「見ている」
「なら分かるだろ」
「まだ他の方法を」
「ねぇよ!」
海斗の声が響いた。
「もうねぇんだよ!」
誰も止められなかった。
海斗は綾小路を睨む。
「お前も分かってんだろ。坂柳も、学も、源蔵も、尊徳も、
全員分かってる。一基しかねぇ。二人は助からねぇ」
「海斗」
尊徳が声をかける。
海斗は振り返らない。
「綾小路」
「何だ」
「お前は堀北を助けるんだろ」
綾小路は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
海斗は笑った。
「だよな」
「お前は麗華を助ける」
綾小路が言った。
海斗は即答した。
「ああ」
指令室の空気が完全に変わった。
まだ銃はない。
怒鳴り合いも終わった。
だが、境界線が引かれた。
はっきりと。
坂柳はその瞬間を見ていた。
止めなければならない。
だが、言葉が出なかった。
何を言えばいい。
二人とも助からないかもしれない。
それでも戦うな。
そんな言葉に、何の力があるのか。
源蔵が低く言う。
「今は冷静になれ」
海斗が振り返る。
「冷静ですよ、源蔵さん」
その敬語めいた言い方が逆に怖かった。
「冷静に考えた結果、麗華を助けるしかない」
学が言う。
「鈴音も命がかかっている」
「知ってますよ」
海斗は学を見る。
「だから綺麗事じゃ済まねぇんでしょうが」
学の表情が硬くなる。
尊徳が前に出る。
「海斗、ここで結論を出すな」
「じゃあいつ出すんだ」
「まだ時間はある」
「ねぇよ」
海斗は低く言った。
「二人の心臓は今も壊れてる。時間があるなんて嘘だ」
綾小路は静かに言う。
「それでも、今決めるべきではない」
海斗は綾小路を見る。
「お前がそれを言うのか」
「ああ」
「堀北を助けるつもりのくせに?」
「そうだ」
海斗の表情が歪む。
「ならオレも同じだ」
そこで会話は終わった。
海斗は指令室を出ていく。
ツキが追おうとする。
だが海斗は振り返らずに言った。
「来るな」
ツキの足が止まる。
その背中は、もう普段の海斗ではなかった。
夜。
二階堂家系列病院。
麗華は報告を聞いた。
欧州コアは破壊。
使用不能。
二基目の可能性は消滅。
残された人工心臓は一基のみ。
麗華は静かに聞いていた。
彩は泣いていた。
ツキは部屋の隅で黙っている。
海斗はいない。
それが麗華には一番気になった。
「海斗は」
ツキが答える。
「屋上にいます」
「そう」
麗華は目を伏せた。
「呼んで」
ツキは少し迷った。
「今は」
「呼んで」
命令だった。
ツキは頷き、病室を出た。
数分後、海斗が入ってきた。
表情は静かだった。
静かすぎた。
麗華はそれを見て、胸が痛んだ。
「海斗」
「何だ」
「コアのことは聞いたわ」
「そうか」
「あなた、何を考えているの」
「麗華を助ける」
即答だった。
麗華は目を閉じた。
「鈴音は?」
「……」
「答えなさい」
「分からねぇ」
「嘘ね」
海斗は唇を噛む。
麗華は続ける。
「あなたはもう決めかけている」
「決めてねぇ」
「決めている顔よ」
「じゃあどうしろって言うんだよ」
海斗の声が震えた。
「お前を見殺しにしろって言うのか?」
麗華は黙る。
「堀北が悪くないのは分かってる。
綾小路が悪くないのも分かってる。でも、お前だって悪くねぇだろ」
「海斗」
「なのに何でお前が死ななきゃならねぇんだよ」
麗華は何も言えなかった。
海斗は拳を握る。
「オレはお前を守るためにここにいる」
「ええ」
「だったら守る」
「誰かを犠牲にしても?」
海斗の目が揺れた。
麗華はその目を見て言った。
「私は、あなたにそうなってほしくない」
「じゃあ死ねってのかよ」
「違うわ」
「同じだろ!」
海斗は叫んだ。
「綺麗なままでいてほしい。誰も傷つけないでほしい。
人として間違えないでほしい。そんなの全部、麗華が生きてる前提の話だろ!」
麗華の顔が歪む。
海斗は続ける。
「お前が死んだら、そんなもん何の意味もねぇ」
静寂。
彩が泣きながら口を押さえている。
ツキは目を伏せていた。
麗華は震える声で言った。
「私は、あなたに人殺しになってほしくない」
海斗は笑った。
悲しい笑いだった。
「今さらだろ」
麗華は言葉を失う。
海斗は背を向ける。
「少し外に出る」
「海斗!」
「悪い。今は聞けねぇ」
そのまま病室を出ていった。
麗華は追えない。
身体が動かない。
ただ、扉が閉まる音だけが響いた。
同じ夜。
大学病院。
鈴音もまた、最後の希望が潰れたことを聞いた。
伝えたのは学だった。
綾小路も同席している。
鈴音は静かに頷いた。
「そう」
それだけだった。
学が言う。
「まだ完全に全てが終わったわけではない」
「兄さん」
鈴音は静かに遮る。
「無理に希望を言わなくていいわ」
学は言葉を失う。
鈴音は綾小路を見る。
「あなたは?」
「まだ探す」
「そう言うと思った」
「事実だ」
「でも、人工心臓は一基だけ」
「ああ」
「私と麗華さんのどちらか一人」
「そうとは限らない」
「綾小路」
鈴音の声が少しだけ強くなる。
「現実を誤魔化さないで」
綾小路は黙った。
鈴音は続ける。
「私は生きたいわ」
「分かっている」
「でも、麗華さんにも生きてほしい」
「ああ」
「この二つが両立しないかもしれない」
「ああ」
「なら、あなたはどうするの」
綾小路はしばらく答えなかった。
学が二人を見る。
鈴音は逃がさない目をしていた。
やがて、綾小路は言った。
「オレは堀北を助ける」
その瞬間。
鈴音の目が揺れた。
分かっていた答えだった。
それでも、実際に聞くと胸が痛んだ。
「そう」
鈴音は小さく呟いた。
「あなたはそう言うのね」
「ああ」
「それが、海斗さんと戦うことになっても?」
綾小路は鈴音を見る。
「そうならない方法を探す」
「答えになっていないわ」
「それでもだ」
鈴音は目を伏せた。
「私はあなたにそこまでしてほしいなんて言っていない」
「言われたからやるわけじゃない」
「勝手ね」
「そうだな」
「本当に勝手」
鈴音の声が震える。
「私を助けるために、あなたが誰かと戦って、
誰かを傷つけて、あなた自身も傷つく。それを私はどう受け止めればいいの?」
綾小路は答えられなかった。
鈴音は目を閉じる。
「でも」
小さな声。
「それでも私は、死にたくない」
その言葉が、病室に落ちた。
綾小路は静かに頷いた。
「分かっている」
鈴音の目から涙が一筋落ちた。
彼女はすぐに拭った。
「見なかったことにして」
「ああ」
学は顔を背けた。
妹の涙を見るのが、これほど苦しいとは思わなかった。
その深夜。
病院の屋上。
綾小路清隆は一人で立っていた。
風が冷たい。
街の灯りが遠くに広がっている。
スマートフォンが鳴る。
発信者は朝霧海斗。
綾小路は出た。
「何だ」
『屋上に来い』
それだけだった。
通話は切れた。
数十分後。
二階堂家系列病院の屋上。
綾小路は海斗と向き合っていた。
夜風。
街の灯り。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
二人の間に、かつての軽さはなかった。
海斗はロングコートを着ていなかった。
銃も持っていない。
だが、その姿はすでに戦う男のものだった。
「来たか」
「ああ」
「悪いな、呼び出して」
「構わない」
沈黙。
海斗はフェンス越しに街を見る。
「終わったな」
「まだだ」
「いや、終わった」
海斗は振り返る。
「二人とも助けるって話は、もう終わりだ」
綾小路は黙っていた。
海斗は続ける。
「欧州のコアは死んだ。二基目はない。時間もない。残ったのは一基だけだ」
「ああ」
「麗華は生きたいって言った」
綾小路の目がわずかに動く。
「堀北もだ」
海斗は苦笑した。
「だろうな」
風が吹く。
二人の間を抜けていく。
海斗は静かに言った。
「オレは麗華を助ける」
綾小路は答える。
「オレは堀北を助ける」
その言葉は、短かった。
だが、これまでのどんな銃声よりも重かった。
海斗は頷いた。
「そうか」
「ああ」
「こうなるとはな」
「避けたかった」
「オレもだよ」
海斗は笑った。
今度の笑みは、ほんの少しだけ昔の海斗だった。
だが、すぐに消えた。
「綾小路」
「何だ」
「お前のことは嫌いじゃなかった」
「オレもだ」
「背中預けるには、悪くない男だった」
「お前もな」
「だから最悪だ」
「ああ」
沈黙。
二人は互いを見つめる。
そこに憎しみはなかった。
誤解もなかった。
騙し合いもない。
ただ、守るものが違う。
それだけだった。
海斗が一歩下がる。
「次に会う時は、話し合いじゃ済まねぇかもしれない」
「そうか」
「止めるなら今だぞ」
「お前が止まるのか」
「止まらねぇ」
「なら同じだ」
海斗は目を伏せた。
「だよな」
綾小路も言った。
「海斗」
「何だ」
「まだ他の方法を探す」
「勝手にしろ」
「お前も探せ」
「ああ」
海斗は頷いた。
「でも、見つからなかった時は」
そこで言葉を止める。
綾小路が引き取った。
「奪い合うしかない」
海斗は静かに笑った。
「言いやがったな」
「事実だ」
「お前らしい」
海斗は右手を少し上げた。
握手をしようとしたわけではない。
途中で止めた。
そして、その手を下ろす。
「握手はやめとく」
「そうだな」
「最後の握手が、あんな同盟の確認じゃ締まらねぇ」
「同感だ」
二人は背を向けた。
同時にではない。
海斗が先に。
綾小路が後に。
屋上から去る海斗が、最後に言った。
「悪いな」
綾小路は振り返らない。
「オレもだ」
扉が閉まる。
金属音が、夜に響いた。
その瞬間。
綾小路清隆と朝霧海斗は。
背中を預け合った戦友ではなくなった。
まだ敵と呼ぶには早い。
だが、もう味方ではなかった。
二人の間にあった友情は、銃弾でも爆発でもなく。
たった一つの命を巡って。
静かに裂けた。
そして。
その亀裂はもう、元には戻らなかった。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。