ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第67話 決裂

希望が見えた時、人は一瞬だけ痛みを忘れる。

 

それがどれほど細く、脆く、頼りない光であっても。

 

暗闇の中に灯った以上、人はそこへ向かって歩き出す。

 

堀北鈴音も。

 

二階堂麗華も。

 

堀北学も。

 

二階堂彩も。

 

坂柳有栖も。

 

宮川尊徳も。

 

二階堂源蔵も。

 

そして。

 

綾小路清隆と朝霧海斗も。

 

全員が、まだ信じようとしていた。

 

二人とも助かる未来を。

 

欧州の共同研究施設に残されていたという、N-HEART初期型の生体制御コア。

 

未完成品。

 

不安定。

 

臨床使用には遠い。

 

それでも、ゼロではなかった。

 

その一点だけが、関係者全員を動かしていた。

 

二階堂グループ医療研究棟。

 

最上階の会議室には、連日、深夜まで明かりが灯っていた。

 

壁一面のモニターには、海外研究機関との通信映像が映し出されている。

 

英語。

 

フランス語。

 

ドイツ語。

 

医療用語。

 

法律用語。

 

技術用語。

 

膨大な情報が飛び交う中で、坂柳有栖は静かに資料を整理していた。

 

疲労は濃い。

 

だが、彼女は止まらなかった。

 

「初期型コアの保管状態は?」

 

坂柳が画面越しに尋ねる。

 

相手の研究者が答える。

 

『低温保管は維持されています。

ただし、最終メンテナンス記録が三年前で止まっています』

 

「三年前?」

 

坂柳の目が細くなる。

 

「なぜです?」

 

『当時、プロジェクトが凍結されました。

その後、管理責任が複数部署へ移り、記録が分散しています』

 

「つまり、正確な保管状態は現物を確認しなければ分からない」

 

『その通りです』

 

坂柳は小さく息を吐いた。

 

嫌な情報だった。

 

だが、まだ致命的ではない。

 

「輸送承認は?」

 

別の画面で学が確認する。

 

『研究施設側の承認は下りました。

ただし、医療機器扱いではなく研究素材扱いでの輸送になります』

 

「緊急臨床使用に切り替える手続きはこちらで進める」

 

『日本側の承認は?』

 

「特例申請を出している」

 

学の声は淡々としていた。

 

だが、その目には疲労が見える。

 

法的手続き。

 

各機関への説明。

 

責任の所在。

 

未承認医療機器の使用。

 

全てが壁だった。

 

通常なら数ヶ月、あるいは年単位で議論される話を、

数週間以内に通さなければならない。

 

無茶だった。

 

だが、無茶をしなければ鈴音と麗華は助からない。

 

源蔵は別の端末で交渉を続けていた。

 

「費用は問題ではない」

 

低い声。

 

相手の返答を聞く。

 

「責任はこちらで取る。輸送ルートも確保する。必要なら政府間の調整も行う」

 

さらに沈黙。

 

「時間がない。返答は今すぐだ」

 

源蔵の声には、二階堂家当主を育てた男としての圧があった。

 

金。

 

権力。

 

人脈。

 

全てを使う。

 

それでも命を買える保証はない。

 

その現実が、会議室全体に重くのしかかっていた。

 

尊徳は部屋の隅で通信ログを確認していた。

 

欧州施設に関する不可解な記録。

 

責任者の交代。

 

保管台帳の欠落。

 

一部データへの不審なアクセス。

 

「黒幕はいないはずだったんだがな」

 

尊徳が呟く。

 

坂柳が視線だけを向けた。

 

「黒幕ではないでしょう」

 

「なら何だ」

 

「過去の亡霊です」

 

坂柳は淡々と言った。

 

「ブラックルーム関連技術に触れた者たちは、既に散っています。

利益を得ようとする者、責任を逃れようとする者、証拠を消したい者。

山内春樹本人がいなくても、彼が壊した世界の残骸はまだ残っている」

 

「厄介だな」

 

「ええ」

 

坂柳は資料を閉じる。

 

「ですが、今は突破するしかありません」

 

その頃。

 

大学病院。

 

堀北鈴音は補助循環装置の導入説明を受けていた。

 

病状の進行を少しでも遅らせるため。

 

人工心臓の準備が整うまでの時間を稼ぐため。

 

それは治療ではなく、猶予を買う処置だった。

 

「生活制限が増えます」

 

医師が説明する。

 

「無理な運動は避けてください。感染リスクも管理します。

場合によっては入院継続が必要です」

 

鈴音は静かに聞いていた。

 

「大学へ戻ることは?」

 

医師は言葉を選んだ。

 

「現時点では勧められません」

 

「そう」

 

鈴音は短く答えた。

 

予想していた。

 

だが、実際に言われると胸に沈む。

 

学が隣にいる。

 

綾小路も後ろで聞いている。

 

医師が去った後、病室には静寂が残った。

 

鈴音は窓の外を見る。

 

「講義、どれくらい遅れるかしら」

 

学が言う。

 

「今は考えなくていい」

 

「考えるわ」

 

「鈴音」

 

「考えていないと怖いのよ」

 

その言葉に、学は何も言えなくなった。

 

鈴音は続ける。

 

「大学に戻ること。課題を出すこと。試験を受けること。

普通の予定を考えていないと、自分が病人だということだけになってしまう」

 

綾小路は黙っていた。

 

鈴音は彼を見る。

 

「欧州のコアは?」

 

「輸送準備中だ」

 

「使えそうなの?」

 

「現物確認が必要だ」

 

「便利な言葉ばかりね」

 

「そうだな」

 

鈴音は苦笑した。

 

「でも、少しだけ安心したわ」

 

「何に」

 

「あなたたちが諦めていないことに」

 

その言葉は静かだった。

 

綾小路は鈴音を見る。

 

「諦める理由がない」

 

「そう」

 

鈴音は目を伏せる。

 

「なら、私ももう少しだけ諦めないでおくわ」

 

同じ頃。

 

二階堂家系列病院。

 

麗華もまた、補助循環装置について説明を受けていた。

 

彼女は資料を読みながら医師の話を聞いている。

 

彩は隣で不安そうに座っていた。

 

海斗は壁際。

 

ツキは扉近く。

 

源蔵は欧州との交渉で不在だった。

 

「この処置でどれくらい時間を稼げるの」

 

麗華が尋ねる。

 

「個人差があります」

 

医師が答える。

 

「数週間から、状態が安定すればそれ以上も。ただし、根本治療ではありません」

 

「分かっているわ」

 

麗華は資料を閉じた。

 

「欧州のコアが届くまで持たせるための処置ね」

 

「はい」

 

彩が震える声で言う。

 

「届けば、お姉様も堀北さんも助かるんですよね?」

 

医師はすぐに答えられない。

 

その沈黙に、彩の表情が曇る。

 

麗華は妹の手を握った。

 

「彩」

 

「はい」

 

「大丈夫とは誰も言えないわ。でも、可能性はある」

 

「……はい」

 

海斗が低く言った。

 

「可能性じゃ足りねぇ」

 

麗華は彼を見る。

 

「海斗」

 

「足りねぇんだよ」

 

海斗は壁から離れる。

 

「届いたら助かる。そう言えよ」

 

医師は困惑する。

 

「朝霧様、現時点では」

 

「分かってる」

 

海斗は遮った。

 

「でもそればっか聞かされてるこっちの身にもなれよ。

可能性があります。個人差があります。断定できません。全部それだ」

 

ツキが静かに言う。

 

「海斗」

 

「悪い」

 

海斗はすぐに声を落とした。

 

「医者に当たっても仕方ねぇのは分かってる」

 

麗華は彼を見つめた。

 

海斗の中で焦りが増している。

 

最初の頃にあった軽口は、日に日に減っている。

 

本を読む時間も減った。

 

ツキとの漫才も、どこか途中で途切れる。

 

海斗は笑わなくなりつつあった。

 

それが麗華には怖かった。

 

自分の死よりも。

 

自分を助けようとして、海斗が別の何かへ変わっていくことが怖かった。

 

「海斗」

 

「何だ」

 

「少し休みなさい」

 

「またそれか」

 

「命令よ」

 

「当主様の命令でも聞けねぇ時はある」

 

「あなたは私のボディガードでしょう」

 

「だからここにいる」

 

「ボディガードならプリンシパルの命令を聞きなさい」

 

「護衛として拒否する」

 

麗華はため息を吐いた。

 

「本当に面倒な人」

 

「お互い様だ」

 

そのやり取りに、彩が少しだけ笑った。

 

本当に少しだけ。

 

麗華もそれに気付いて、微かに表情を緩めた。

 

だが海斗は笑わなかった。

 

それが、余計に重かった。

 

数日後。

 

欧州から連絡が入った。

 

初期型コアの輸送許可が下りた。

 

研究施設から空港へ。

 

専用輸送機で日本へ。

 

到着後、二階堂グループ医療研究棟へ搬入。

 

そこから最短六週間で改修と適合調整。

 

無謀な計画だった。

 

だが、全員がその計画に賭けた。

 

輸送当日。

 

二階堂グループ医療研究棟の指令室には、関係者が集まっていた。

 

大型モニターに、欧州施設からの映像が映る。

 

銀色の輸送ケース。

 

温度管理装置。

 

厳重な封印。

 

その中に、二人の命を救うかもしれない初期型コアが収められている。

 

海斗はモニターを睨むように見ていた。

 

綾小路は隣に立っている。

 

二人の間に会話は少ない。

 

だが、まだ同じ方向を見ていた。

 

坂柳が進行を確認する。

 

「温度管理」

 

『正常』

 

「振動制御」

 

『正常』

 

「封印番号」

 

『一致』

 

「輸送車両は?」

 

尊徳が聞く。

 

『予定通り施設を出発しました』

 

源蔵が低く言う。

 

「日本側の受け入れ準備は完了している」

 

学も端末を確認する。

 

「緊急使用手続きの仮承認も取れた。

正式書類は後追いになるが、搬入後すぐに改修へ入れる」

 

一瞬だけ、空気が明るくなった。

 

希望が現実に近づいている。

 

誰もがそう思った。

 

海斗が小さく呟く。

 

「来いよ」

 

それは祈りに近かった。

 

綾小路もモニターを見つめている。

 

鈴音の病室。

 

麗華の病室。

 

二人の心臓が壊れていく時間。

 

その全てが、この銀色のケースに繋がっている。

 

輸送車両は順調に空港へ向かっていた。

 

護衛車両が前後につく。

 

道路は事前に調整済み。

 

空港には専用機が待機。

 

全てが予定通りだった。

 

予定通りすぎた。

 

だからこそ、異変は唐突だった。

 

『通信にノイズ』

 

オペレーターが言った。

 

坂柳が反応する。

 

「ノイズ?」

 

『輸送車両の位置情報が一瞬途切れました』

 

尊徳が身を乗り出す。

 

「映像は」

 

『復旧します』

 

モニターが乱れる。

 

数秒。

 

砂嵐。

 

そして復旧。

 

輸送車両は走っている。

 

問題ないように見える。

 

だが坂柳の表情は硬かった。

 

「封印データを確認してください」

 

『確認中……』

 

短い沈黙。

 

『封印に異常なし』

 

尊徳が言う。

 

「ただの通信障害か?」

 

坂柳は答えない。

 

綾小路が低く言う。

 

「違うかもしれない」

 

海斗が彼を見る。

 

「何だと」

 

綾小路はモニターを見たまま言った。

 

「位置情報が途切れた時間は?」

 

『約十二秒』

 

「その間に車両が停止した記録は」

 

『ありません』

 

「映像は連続していたか」

 

『一部補完されています』

 

「補完?」

 

坂柳の目が鋭くなる。

 

「誰が補完しました?」

 

オペレーターが慌てる。

 

『自動補正システムです』

 

「生データを出してください」

 

モニターにログが表示される。

 

坂柳が解析を始める。

 

数秒後、彼女の顔から血の気が引いた。

 

「映像が差し替えられています」

 

指令室の空気が凍った。

 

海斗が声を荒げる。

 

「どういうことだ!」

 

坂柳は端末を操作する。

 

「十二秒間、輸送車両の内部映像が偽装されています」

 

尊徳が通信に怒鳴る。

 

「現地護衛に確認しろ!」

 

『了解!』

 

画面が切り替わる。

 

輸送車両内部。

 

銀色のケース。

 

一見、何も変わっていない。

 

だが、坂柳はすぐに言った。

 

「ケースを開けさせてください」

 

『輸送中に開封は』

 

「今すぐです」

 

源蔵も言う。

 

「開けろ」

 

現地の研究員が慌てながら封印を確認する。

 

封印番号は一致。

 

外装に破損なし。

 

だが、ケースを開けた瞬間。

 

全員が息を呑んだ。

 

中に収められていた初期型コアは、黒く焼け焦げていた。

 

内部から。

 

まるで自壊したように。

 

温度管理装置は正常表示。

 

外装は無傷。

 

封印も正常。

 

しかし、コアだけが破壊されていた。

 

海斗が一歩前に出る。

 

「嘘だろ」

 

誰も答えない。

 

坂柳が端末を操作する。

 

「内部温度ログを」

 

『正常です』

 

「電磁反応」

 

『輸送前に異常なし。現在は……内部回路が完全に焼損しています』

 

「原因は」

 

『不明です』

 

不明。

 

またその言葉だった。

 

麗華の病気も。

 

鈴音の病気も。

 

そして最後の希望の破壊も。

 

全て不明という言葉で覆われていく。

 

綾小路は静かに画面を見ていた。

 

海斗は震える拳を握っていた。

 

「誰がやった」

 

海斗の声は低かった。

 

尊徳が言う。

 

「落ち着け」

 

「誰がやったって聞いてるんだ!」

 

指令室に怒号が響く。

 

坂柳が冷静に答える。

 

「現時点では分かりません。

ただし、コア内部に自壊プログラムが仕込まれていた可能性があります」

 

「自壊プログラム?」

 

「一定条件下で回路を焼損させる保護機構、あるいは証拠隠滅機構です」

 

学が言う。

 

「ブラックルーム由来の技術か」

 

「可能性は高いです」

 

坂柳は唇を噛んだ。

 

「山内春樹が直接仕込んだものか、

ブラックルーム側の保全機構かは分かりません。ですが結果は同じです」

 

源蔵が静かに言った。

 

「使えないのか」

 

坂柳は焼損したコアの映像を見つめる。

 

長い沈黙。

 

そして。

 

「無理です」

 

その一言で。

 

最後の希望は死んだ。

 

指令室には誰も声を出せなかった。

 

海斗はモニターを見ている。

 

綾小路も同じものを見ている。

 

焼け焦げた初期型コア。

 

二人とも助ける唯一の可能性。

 

それが、目の前で失われた。

 

海斗は笑った。

 

小さく。

 

乾いた笑い。

 

「はぁん」

 

誰も笑わない。

 

「そうかよ」

 

海斗は目を伏せる。

 

「結局、一基か」

 

綾小路は何も言わない。

 

海斗はゆっくり綾小路を見る。

 

「なあ」

 

綾小路も彼を見る。

 

「残った人工心臓は一基だけだな」

 

「ああ」

 

「適合者は麗華と堀北」

 

「ああ」

 

「二基目はもうない」

 

「現時点では」

 

「その言い方、やめろ」

 

海斗の声が鋭くなる。

 

「現時点では、可能性は、検討中です、全部聞き飽きた」

 

綾小路は黙った。

 

海斗は続ける。

 

「現実を見ろよ」

 

「見ている」

 

「なら分かるだろ」

 

「まだ他の方法を」

 

「ねぇよ!」

 

海斗の声が響いた。

 

「もうねぇんだよ!」

 

誰も止められなかった。

 

海斗は綾小路を睨む。

 

「お前も分かってんだろ。坂柳も、学も、源蔵も、尊徳も、

全員分かってる。一基しかねぇ。二人は助からねぇ」

 

「海斗」

 

尊徳が声をかける。

 

海斗は振り返らない。

 

「綾小路」

 

「何だ」

 

「お前は堀北を助けるんだろ」

 

綾小路は答えなかった。

 

その沈黙が答えだった。

 

海斗は笑った。

 

「だよな」

 

「お前は麗華を助ける」

 

綾小路が言った。

 

海斗は即答した。

 

「ああ」

 

指令室の空気が完全に変わった。

 

まだ銃はない。

 

怒鳴り合いも終わった。

 

だが、境界線が引かれた。

 

はっきりと。

 

坂柳はその瞬間を見ていた。

 

止めなければならない。

 

だが、言葉が出なかった。

 

何を言えばいい。

 

二人とも助からないかもしれない。

 

それでも戦うな。

 

そんな言葉に、何の力があるのか。

 

源蔵が低く言う。

 

「今は冷静になれ」

 

海斗が振り返る。

 

「冷静ですよ、源蔵さん」

 

その敬語めいた言い方が逆に怖かった。

 

「冷静に考えた結果、麗華を助けるしかない」

 

学が言う。

 

「鈴音も命がかかっている」

 

「知ってますよ」

 

海斗は学を見る。

 

「だから綺麗事じゃ済まねぇんでしょうが」

 

学の表情が硬くなる。

 

尊徳が前に出る。

 

「海斗、ここで結論を出すな」

 

「じゃあいつ出すんだ」

 

「まだ時間はある」

 

「ねぇよ」

 

海斗は低く言った。

 

「二人の心臓は今も壊れてる。時間があるなんて嘘だ」

 

綾小路は静かに言う。

 

「それでも、今決めるべきではない」

 

海斗は綾小路を見る。

 

「お前がそれを言うのか」

 

「ああ」

 

「堀北を助けるつもりのくせに?」

 

「そうだ」

 

海斗の表情が歪む。

 

「ならオレも同じだ」

 

そこで会話は終わった。

 

海斗は指令室を出ていく。

 

ツキが追おうとする。

 

だが海斗は振り返らずに言った。

 

「来るな」

 

ツキの足が止まる。

 

その背中は、もう普段の海斗ではなかった。

 

夜。

 

二階堂家系列病院。

 

麗華は報告を聞いた。

 

欧州コアは破壊。

 

使用不能。

 

二基目の可能性は消滅。

 

残された人工心臓は一基のみ。

 

麗華は静かに聞いていた。

 

彩は泣いていた。

 

ツキは部屋の隅で黙っている。

 

海斗はいない。

 

それが麗華には一番気になった。

 

「海斗は」

 

ツキが答える。

 

「屋上にいます」

 

「そう」

 

麗華は目を伏せた。

 

「呼んで」

 

ツキは少し迷った。

 

「今は」

 

「呼んで」

 

命令だった。

 

ツキは頷き、病室を出た。

 

数分後、海斗が入ってきた。

 

表情は静かだった。

 

静かすぎた。

 

麗華はそれを見て、胸が痛んだ。

 

「海斗」

 

「何だ」

 

「コアのことは聞いたわ」

 

「そうか」

 

「あなた、何を考えているの」

 

「麗華を助ける」

 

即答だった。

 

麗華は目を閉じた。

 

「鈴音は?」

 

「……」

 

「答えなさい」

 

「分からねぇ」

 

「嘘ね」

 

海斗は唇を噛む。

 

麗華は続ける。

 

「あなたはもう決めかけている」

 

「決めてねぇ」

 

「決めている顔よ」

 

「じゃあどうしろって言うんだよ」

 

海斗の声が震えた。

 

「お前を見殺しにしろって言うのか?」

 

麗華は黙る。

 

「堀北が悪くないのは分かってる。

綾小路が悪くないのも分かってる。でも、お前だって悪くねぇだろ」

 

「海斗」

 

「なのに何でお前が死ななきゃならねぇんだよ」

 

麗華は何も言えなかった。

 

海斗は拳を握る。

 

「オレはお前を守るためにここにいる」

 

「ええ」

 

「だったら守る」

 

「誰かを犠牲にしても?」

 

海斗の目が揺れた。

 

麗華はその目を見て言った。

 

「私は、あなたにそうなってほしくない」

 

「じゃあ死ねってのかよ」

 

「違うわ」

 

「同じだろ!」

 

海斗は叫んだ。

 

「綺麗なままでいてほしい。誰も傷つけないでほしい。

人として間違えないでほしい。そんなの全部、麗華が生きてる前提の話だろ!」

 

麗華の顔が歪む。

 

海斗は続ける。

 

「お前が死んだら、そんなもん何の意味もねぇ」

 

静寂。

 

彩が泣きながら口を押さえている。

 

ツキは目を伏せていた。

 

麗華は震える声で言った。

 

「私は、あなたに人殺しになってほしくない」

 

海斗は笑った。

 

悲しい笑いだった。

 

「今さらだろ」

 

麗華は言葉を失う。

 

海斗は背を向ける。

 

「少し外に出る」

 

「海斗!」

 

「悪い。今は聞けねぇ」

 

そのまま病室を出ていった。

 

麗華は追えない。

 

身体が動かない。

 

ただ、扉が閉まる音だけが響いた。

 

同じ夜。

 

大学病院。

 

鈴音もまた、最後の希望が潰れたことを聞いた。

 

伝えたのは学だった。

 

綾小路も同席している。

 

鈴音は静かに頷いた。

 

「そう」

 

それだけだった。

 

学が言う。

 

「まだ完全に全てが終わったわけではない」

 

「兄さん」

 

鈴音は静かに遮る。

 

「無理に希望を言わなくていいわ」

 

学は言葉を失う。

 

鈴音は綾小路を見る。

 

「あなたは?」

 

「まだ探す」

 

「そう言うと思った」

 

「事実だ」

 

「でも、人工心臓は一基だけ」

 

「ああ」

 

「私と麗華さんのどちらか一人」

 

「そうとは限らない」

 

「綾小路」

 

鈴音の声が少しだけ強くなる。

 

「現実を誤魔化さないで」

 

綾小路は黙った。

 

鈴音は続ける。

 

「私は生きたいわ」

 

「分かっている」

 

「でも、麗華さんにも生きてほしい」

 

「ああ」

 

「この二つが両立しないかもしれない」

 

「ああ」

 

「なら、あなたはどうするの」

 

綾小路はしばらく答えなかった。

 

学が二人を見る。

 

鈴音は逃がさない目をしていた。

 

やがて、綾小路は言った。

 

「オレは堀北を助ける」

 

その瞬間。

 

鈴音の目が揺れた。

 

分かっていた答えだった。

 

それでも、実際に聞くと胸が痛んだ。

 

「そう」

 

鈴音は小さく呟いた。

 

「あなたはそう言うのね」

 

「ああ」

 

「それが、海斗さんと戦うことになっても?」

 

綾小路は鈴音を見る。

 

「そうならない方法を探す」

 

「答えになっていないわ」

 

「それでもだ」

 

鈴音は目を伏せた。

 

「私はあなたにそこまでしてほしいなんて言っていない」

 

「言われたからやるわけじゃない」

 

「勝手ね」

 

「そうだな」

 

「本当に勝手」

 

鈴音の声が震える。

 

「私を助けるために、あなたが誰かと戦って、

誰かを傷つけて、あなた自身も傷つく。それを私はどう受け止めればいいの?」

 

綾小路は答えられなかった。

 

鈴音は目を閉じる。

 

「でも」

 

小さな声。

 

「それでも私は、死にたくない」

 

その言葉が、病室に落ちた。

 

綾小路は静かに頷いた。

 

「分かっている」

 

鈴音の目から涙が一筋落ちた。

 

彼女はすぐに拭った。

 

「見なかったことにして」

 

「ああ」

 

学は顔を背けた。

 

妹の涙を見るのが、これほど苦しいとは思わなかった。

 

その深夜。

 

病院の屋上。

 

綾小路清隆は一人で立っていた。

 

風が冷たい。

 

街の灯りが遠くに広がっている。

 

スマートフォンが鳴る。

 

発信者は朝霧海斗。

 

綾小路は出た。

 

「何だ」

 

『屋上に来い』

 

それだけだった。

 

通話は切れた。

 

数十分後。

 

二階堂家系列病院の屋上。

 

綾小路は海斗と向き合っていた。

 

夜風。

 

街の灯り。

 

遠くで救急車のサイレンが聞こえる。

 

二人の間に、かつての軽さはなかった。

 

海斗はロングコートを着ていなかった。

 

銃も持っていない。

 

だが、その姿はすでに戦う男のものだった。

 

「来たか」

 

「ああ」

 

「悪いな、呼び出して」

 

「構わない」

 

沈黙。

 

海斗はフェンス越しに街を見る。

 

「終わったな」

 

「まだだ」

 

「いや、終わった」

 

海斗は振り返る。

 

「二人とも助けるって話は、もう終わりだ」

 

綾小路は黙っていた。

 

海斗は続ける。

 

「欧州のコアは死んだ。二基目はない。時間もない。残ったのは一基だけだ」

 

「ああ」

 

「麗華は生きたいって言った」

 

綾小路の目がわずかに動く。

 

「堀北もだ」

 

海斗は苦笑した。

 

「だろうな」

 

風が吹く。

 

二人の間を抜けていく。

 

海斗は静かに言った。

 

「オレは麗華を助ける」

 

綾小路は答える。

 

「オレは堀北を助ける」

 

その言葉は、短かった。

 

だが、これまでのどんな銃声よりも重かった。

 

海斗は頷いた。

 

「そうか」

 

「ああ」

 

「こうなるとはな」

 

「避けたかった」

 

「オレもだよ」

 

海斗は笑った。

 

今度の笑みは、ほんの少しだけ昔の海斗だった。

 

だが、すぐに消えた。

 

「綾小路」

 

「何だ」

 

「お前のことは嫌いじゃなかった」

 

「オレもだ」

 

「背中預けるには、悪くない男だった」

 

「お前もな」

 

「だから最悪だ」

 

「ああ」

 

沈黙。

 

二人は互いを見つめる。

 

そこに憎しみはなかった。

 

誤解もなかった。

 

騙し合いもない。

 

ただ、守るものが違う。

 

それだけだった。

 

海斗が一歩下がる。

 

「次に会う時は、話し合いじゃ済まねぇかもしれない」

 

「そうか」

 

「止めるなら今だぞ」

 

「お前が止まるのか」

 

「止まらねぇ」

 

「なら同じだ」

 

海斗は目を伏せた。

 

「だよな」

 

綾小路も言った。

 

「海斗」

 

「何だ」

 

「まだ他の方法を探す」

 

「勝手にしろ」

 

「お前も探せ」

 

「ああ」

 

海斗は頷いた。

 

「でも、見つからなかった時は」

 

そこで言葉を止める。

 

綾小路が引き取った。

 

「奪い合うしかない」

 

海斗は静かに笑った。

 

「言いやがったな」

 

「事実だ」

 

「お前らしい」

 

海斗は右手を少し上げた。

 

握手をしようとしたわけではない。

 

途中で止めた。

 

そして、その手を下ろす。

 

「握手はやめとく」

 

「そうだな」

 

「最後の握手が、あんな同盟の確認じゃ締まらねぇ」

 

「同感だ」

 

二人は背を向けた。

 

同時にではない。

 

海斗が先に。

 

綾小路が後に。

 

屋上から去る海斗が、最後に言った。

 

「悪いな」

 

綾小路は振り返らない。

 

「オレもだ」

 

扉が閉まる。

 

金属音が、夜に響いた。

 

その瞬間。

 

綾小路清隆と朝霧海斗は。

 

背中を預け合った戦友ではなくなった。

 

まだ敵と呼ぶには早い。

 

だが、もう味方ではなかった。

 

二人の間にあった友情は、銃弾でも爆発でもなく。

 

たった一つの命を巡って。

 

静かに裂けた。

 

そして。

 

その亀裂はもう、元には戻らなかった。




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