ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
夜の病室は、静かすぎた。
二階堂グループ系列病院、最上階特別病棟。
窓の外には東京の夜景が広がっている。
無数のビルの窓。
無数の車の光。
無数の日常。
そのすべてが、二階堂麗華にはひどく遠く見えた。
数週間前まで、自分はあちら側にいた。
会議をしていた。
契約書にサインしていた。
海斗に呆れていた。
ツキと彩に心配されていた。
忙しさに苛立ちながらも、確かに前へ進んでいた。
だが今は違う。
心電図の電子音。
補助循環装置の駆動音。
薬剤ポンプの微かな作動音。
生きている証のような音に囲まれながら、
自分の命が少しずつ削られていることを理解させられている。
麗華は天井を見つめた。
眠れなかった。
目を閉じれば、ニュースで見た崩壊した教会が浮かぶ。
砕けたステンドグラス。
舞い上がる鳩。
銃声。
雨。
そして、互いに銃を向け合う綾小路清隆と朝霧海斗。
あの姿が、何度も脳裏に蘇る。
コンコン。
扉がノックされた。
「入りなさい」
扉が開いた。
入ってきたのは海斗だった。
黒いロングコート。
昨日の教会で破れたものではない。
新しいコートだった。
だが、麗華には分かった。
変わったのは服ではない。
海斗自身だった。
以前の彼なら、病室に入るなり何か言ったはずだ。
「病院食まずそうだな」とか。
「当主様、顔色悪いぞ」とか。
「ツキに捕獲される前に逃げてきた」とか。
そういう軽口を叩いたはずだった。
だが今の海斗は、何も言わない。
椅子に座る。
ただそれだけ。
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは麗華だった。
「そのコート」
「何だ」
「似合わないわ」
海斗は少しだけ笑った。
「似合ってるって言われるよりマシだな」
「前のあなたなら、もっと気の利いた返しをしたわ」
「悪いな。今は品切れだ」
「そう」
麗華は目を伏せる。
「ねえ、海斗」
「何だ」
「やめなさい」
即答だった。
「無理だ」
あまりにも速い答え。
迷いのない声。
麗華はゆっくり息を吐いた。
「私が命令しているのよ」
「聞けねぇ命令もある」
「あなたは私のボディガードであり、恋人でしょう」
「だからここにいる」
「違うわ」
麗華の声が少し強くなる。
「恋人なら、恋人の命令を聞きなさい」
海斗は窓の外へ目を向けた。
「麗華」
「何」
「お前が死んだら、その命令も聞けねぇ」
病室が静まる。
麗華は唇を噛んだ。
「私はまだ死ぬと決まっていない」
「決まる前に終わらせる」
「何を?」
「全部だ」
海斗の声は低かった。
「人工心臓を確保する。綾小路が止めるなら突破する。誰が邪魔しても退かない」
「そのために綾小路くんを撃つの?」
「必要なら」
「鈴音が死んでも?」
海斗は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
麗華は目を閉じる。
胸の奥が痛む。
病気の痛みではない。
もっと深いところに刺さる痛みだった。
「あなたは変わったわ」
「人は変わる」
「違う」
麗華は首を横に振る。
「あなたは変わったんじゃない」
海斗を見る。
逃がさないように。
「壊れ始めている」
海斗の目がわずかに揺れた。
一瞬だった。
だが麗華は見逃さなかった。
「私は当主よ。人を見るのが仕事だった。嘘も、強がりも、恐怖も、ある程度は分かる」
「便利な仕事だな」
「ええ」
麗華は静かに続けた。
「今のあなたは、私を守りたいんじゃない」
海斗の表情が止まった。
「何だと」
「自分が後悔したくないだけ」
空気が凍る。
海斗の拳が握られる。
麗華は止まらない。
「私が死ぬのを見るのが怖いだけ」
「麗華」
「私のためじゃない」
「やめろ」
「あなた自身のためよ」
海斗が立ち上がった。
椅子が後ろへ倒れ、病室に鈍い音が響いた。
「やめろ」
声が低い。
怒りを押し殺した声。
だが麗華は引かなかった。
「やめないわ」
「やめろ!」
怒鳴り声が病室を震わせた。
麗華ですら、そこまでの声を聞いたことはなかった。
海斗は肩で息をしている。
その表情には怒りだけではない。
恐怖。
焦り。
悔しさ。
全部が混ざっていた。
「当たり前だろ……」
海斗の声が震えた。
「怖いんだよ」
麗華は黙った。
海斗は俯く。
「お前が死ぬのが怖い」
その言葉は、先ほどの怒鳴り声とは別人のように弱かった。
「麗華が死ぬ。彩が泣く。ツキが黙ったまま壊れていく。
源蔵が全部背負う。二階堂家が歪む」
そこで海斗は笑った。
自分を嘲るように。
「で、オレはたぶん一番壊れる」
麗華は何も言えなかった。
海斗は続ける。
「だから止まれねぇ」
「海斗」
「綺麗事じゃねぇ。正義でもねぇ。麗華のためって言いながら、
結局オレが耐えられないだけかもしれねぇ」
「……」
「でも、それでも」
海斗は顔を上げた。
その目は濡れていなかった。
だが、泣くよりも痛々しかった。
「お前に死んでほしくねぇんだよ」
麗華の胸が詰まる。
その言葉が嬉しくないわけではなかった。
むしろ、痛いほど嬉しかった。
だからこそ苦しかった。
「私はね」
麗華はゆっくり言った。
「あなたに生きてほしいの」
「生きてるだろ」
「違うわ」
麗華は首を横に振る。
「ただ息をしているだけでは駄目。銃を撃ち続けて、
誰かを傷つけて、私のためだと言いながら自分を削って、
最後に何も残らないような生き方をしてほしくない」
海斗は何も言わない。
「私が助かっても、あなたがあなたでなくなったら意味がない」
「意味はある」
「ないわ」
「ある」
「ない!」
麗華が叫んだ。
声が震えた。
「あなたが壊れてまで私が生き残ることに、私は耐えられない!」
静寂。
心電図の音だけが響く。
海斗はゆっくり椅子を起こした。
座らない。
ただ起こしただけだった。
「悪い」
「謝るくらいなら」
「それでもやる」
麗華の表情が固まる。
「海斗」
「お前が許さなくてもやる」
「……最低ね」
「ああ」
「本当に最低」
「知ってる」
海斗は背を向けた。
麗華は思わず手を伸ばしかけた。
だが、点滴の管がそれを阻む。
身体が思うように動かない。
こんな時でさえ、自分の身体は自分の邪魔をする。
「海斗!」
海斗は立ち止まる。
「戻ってきなさい」
「……」
「これは命令よ」
海斗は振り返らなかった。
「聞けねぇ」
その一言を残し、病室を出て行った。
扉が閉まる。
麗華は一人になった。
心電図の音だけが残る。
彼女は唇を噛み、やがて静かに涙を流した。
誰にも見せない涙だった。
廊下。
海斗は壁にもたれた。
呼吸が荒い。
手が震えている。
怒りではない。
恐怖だった。
そこへ、ツキが現れた。
いつからいたのか。
どこまで聞いていたのか。
海斗には分からなかった。
「海斗」
「聞いてたのか」
「少し」
「趣味悪いな」
「海斗が大声を出すからだ」
「そうかよ」
ツキは彼の前に立つ。
「戻ってこい」
海斗は笑った。
「いきなりそれか」
「戻ってこい」
「無理だ」
「戻ってこい」
「何回言うんだ」
「何回でも言う」
ツキの声は震えていなかった。
だが、目は必死だった。
「今ならまだ戻れる」
「戻れねぇ」
「戻れる」
「戻れねぇよ」
「戻れる!」
ツキが珍しく声を荒げた。
海斗は黙った。
ツキは続ける。
「昔の海斗なら、こんな顔をしなかった」
「昔じゃねぇ」
「昔の海斗は、人を助けるために戦った」
「今もそうだ」
「違う」
即答だった。
「今の海斗は、麗華様を失う恐怖と戦っている」
海斗は視線を逸らした。
「恐怖に勝つために、綾小路清隆を敵にしている」
「違う」
「違わない」
ツキは一歩近づく。
「私はずっと見てきた。禁止区域でも、雪山でも、二階堂家でも。
海斗は怖い時ほど笑う。軽口を叩く。ふざける」
「……」
「でも今は笑わない」
海斗は何も言わない。
「だから分かる。今の海斗は、本当に怖いんだ」
静寂。
廊下の白い照明が、二人の影を床に落としている。
海斗はやがて小さく笑った。
「そうだよ」
ツキの目が揺れる。
「怖い」
海斗は認めた。
「麗華が死ぬのが怖い。何もできねぇまま終わるのが怖い。
守るって決めた相手を失うのが怖い」
「だったら」
「だから止まれねぇ」
ツキは言葉を失う。
海斗は静かに言った。
「ツキ」
「何だ」
「オレを止めたいなら、本気で止めろ」
「……」
「口で止まる段階はもう過ぎた」
ツキの顔が強張る。
「海斗」
「お前なら分かるだろ」
海斗は歩き出す。
ツキの横を通り過ぎる。
「次からは、敵になるかもしれねぇ」
ツキは振り返る。
「私は海斗の敵にはならない」
海斗は足を止めない。
「なら、敵より厄介だな」
そのまま廊下の奥へ消えた。
ツキはそこに立ち尽くした。
その背中を見送りながら、初めてはっきりと思った。
ロングコートの悪魔。
誰かがそう呼ぶのは、きっと時間の問題だと。
同じ夜。
別の場所。
大学敷地内の射撃訓練施設。
防音の室内に、乾いた銃声が響いていた。
綾小路清隆は一人で立っていた。
右手にはコルト・ガバメント。
正面には複数の標的。
一発。
二発。
三発。
全弾、中心を射抜く。
綾小路は弾倉を交換する。
動作に無駄はない。
速く、静かで、正確。
感情がないように見える。
だが、それは違う。
感情がないのではない。
感情を動作から完全に切り離しているだけだった。
次の標的。
発砲。
命中。
次。
発砲。
命中。
そのたびに、海斗の姿が脳裏に浮かぶ。
教会。
二丁拳銃。
ロングコート。
鳩。
ステンドグラス。
あの男は強い。
本当に強い。
身体能力だけではない。
判断力。
射撃。
度胸。
そして、迷いを抱えながらも前に出る異常な精神力。
綾小路にとって、朝霧海斗は今までの敵とは違った。
倒すべき悪ではない。
排除すべき障害でもない。
理解できる相手だった。
理解できるからこそ厄介だった。
自分と同じように、守るもののために退かない。
だから止まらない。
だから、止めなければならない。
背後で扉が開いた。
「綾小路」
堀北学だった。
綾小路は銃を下ろさない。
「珍しいな」
「お前がここにいると聞いてな」
「誰から」
「坂柳だ」
「そうか」
学は標的を見る。
中心だけを正確に撃ち抜かれた紙の群れ。
「相変わらずだな」
「何がだ」
「お前だ」
学は隣に立つ。
「撃っている時ほど、何も考えていないように見える」
「考えている」
「知っている」
学は静かに言った。
「だから怖い」
綾小路は銃を下ろした。
「何を言いに来た」
「止めに来た」
「無理だ」
「知っている」
「ならなぜ来た」
学は少しだけ笑った。
「兄だからだろうな」
その言葉に、綾小路は沈黙した。
学は続ける。
「鈴音はお前に止まってほしいと思っている」
「ああ」
「俺も、お前にこれ以上壊れてほしくはない」
「そうか」
「だが」
学は標的を見る。
「同時に、俺は妹を助けたい」
綾小路は学を見る。
「当然だ」
「そうだな」
学の声は苦かった。
「当然なんだ。だからこそ、俺はお前を本気で止められない」
静寂。
学は拳を握る。
「俺はずっと合理的であろうとしてきた。感情よりも結果を見てきた。
堀北家の人間として、兄として、先を見て判断するべきだと思っていた」
「……」
「だが今は違う」
学の声がわずかに揺れた。
「鈴音に生きてほしい。それだけだ」
綾小路は何も言わない。
学は苦笑した。
「情けないな」
「情けなくはない」
「お前に慰められるとはな」
「事実だ」
学は息を吐く。
「お前も同じか」
「ああ」
「鈴音に生きてほしい」
「ああ」
「そのためなら海斗と戦う」
「ああ」
「殺すことになっても?」
綾小路はすぐには答えなかった。
学はその沈黙を見逃さない。
「お前でも迷うか」
「殺したくはない」
「だが止める」
「ああ」
「それが結果的に殺すことになっても?」
綾小路は標的を見る。
紙の中心。
黒い穴。
まるで未来の一点だけが示されているようだった。
「その時は」
言葉が止まる。
学は待った。
綾小路は静かに続けた。
「背負うしかない」
学は目を閉じた。
「そうか」
それ以上、何も言えなかった。
翌朝。
二階堂グループ本社。
警備本部。
巨大なモニターに、都市全域の監視映像が映し出されていた。
人工心臓の保管施設。
搬送予定ルート。
ダミー車両。
医療チーム。
緊急手術室。
全てが一つの作戦として組み上げられている。
もはや病人を救うための医療計画ではない。
戦争の作戦図だった。
巨大なテーブルを囲むように十数人の男たちが座っていた。
二階堂家直属警備部門。
元陸上自衛隊空挺レンジャー。
元警察特殊急襲部隊。
元軍事顧問。
一般企業には存在しない人間ばかりだった。
会議室の扉が開く。
海斗が入ってきた。
黒いロングコート。
無言。
それだけで部屋の空気が変わる。
警備部門の責任者たちが一斉に立ち上がった。
海斗は中央の席へ座らない。
立ったままモニターを見る。
「状況」
短い一言。
責任者が即座に答える。
「N-HEART 01は第三区画の低温保管室に移送済みです。
警備は三重。外周、施設内、保管室前」
「ダミーは」
「二台用意済みです。外部には明日搬送と見せます」
「綾小路対策は」
部屋の空気がさらに硬くなる。
別の男が答える。
「想定侵入経路を六つに絞りました。正面突破、地下搬入口、
医療スタッフ偽装、監視システム介入、屋上侵入、内部協力者利用」
海斗はモニターを見る。
「全部足りねぇ」
責任者たちが黙る。
海斗は続ける。
「綾小路は想定内から来ない。想定外を作ってくる」
「では」
「経路じゃなく目的を見る」
海斗は画面を指す。
「人工心臓そのものを奪う必要があるとは限らねぇ。手術室を押さえる。
医師を押さえる。電源を落とす。輸送タイミングを変えさせる。
こっちを動かして隙を作る。あいつなら全部やる」
警備員たちは沈黙した。
海斗の言葉は荒い。
だが正確だった。
彼は綾小路を知っている。
だからこそ、最も危険な対策責任者だった。
「全ルートにダミーの隙を作れ」
「隙、ですか?」
「ああ。綾小路が見つけたくなる隙だ」
海斗は低く言った。
「本命に誘導する」
「罠を張るということですか」
「違う」
海斗の目が鋭くなる。
「罠だと思わせて、本当に奪いに来させる」
責任者たちは理解できず黙った。
海斗は苛立たない。
ただ言う。
「あいつは罠を避けるだけの男じゃねぇ。罠を利用する。だから罠ごと設計する」
その言葉に、部屋の誰かが小さく呟いた。
「……悪魔みたいだな」
海斗の耳に届いた。
だが、何も言わなかった。
会議が終わった後。
廊下で、若い警備員が別の者に小声で言った。
「あれが朝霧海斗か」
「二階堂家の切り札」
「前はもっと軽い人だったらしいぞ」
「今は違う」
「ロングコートの悪魔だな」
その呼び名は、廊下の空気に静かに溶けた。
ロングコートの悪魔。
海斗は少し離れた場所で聞いていた。
否定しない。
笑いもしない。
ただ歩いた。
黒いコートの裾が揺れる。
その姿は、確かにもう以前の海斗ではなかった。
同じ頃。
綾小路は大学の図書館にいた。
射撃場ではない。
病院でもない。
静かな机の前。
目の前には資料。
二階堂グループの施設配置。
病院搬送記録。
医療スタッフの勤務表。
過去の警備会社の契約情報。
彼は銃だけで戦うつもりはなかった。
海斗が武力で守るなら、綾小路は思考で崩す。
一つずつ情報を読む。
無駄な情報を捨てる。
必要な情報を残す。
人工心臓を奪うには、単純な正面突破は愚策。
海斗はそれを読んでいる。
なら、読ませる必要がある。
あえて読ませる。
綾小路はペンを置いた。
頭の中で、二階堂グループの警備配置が組み上がっていく。
その中心に海斗がいる。
黒いロングコート。
二丁拳銃。
軽口を捨てた男。
綾小路は静かに目を閉じた。
「海斗」
声には出さない。
思考の中でだけ呼ぶ。
お前ならどう守る。
どう誘う。
どう撃つ。
どこで待つ。
全てを考える。
その作業は、奇妙なほど静かだった。
孤独だった。
誰にも相談できない。
相談すれば、誰かを巻き込む。
鈴音にも言えない。
学にも全ては言えない。
坂柳にすら、最後の一手までは渡せない。
これは綾小路清隆の戦いだった。
孤高の天才としての戦い。
誰かのために戦っているはずなのに、最も深い場所では一人だった。
夕方。
坂柳有栖は二人の動きを、それぞれ別の報告で知った。
海斗が二階堂側の警備設計を掌握したこと。
綾小路が施設情報と搬送計画を調べ始めたこと。
彼女は椅子に座り、しばらく目を閉じた。
「最悪ですね」
呟く。
盤面はもう動き始めている。
黒の駒は海斗。
白の駒は綾小路。
だが、これはゲームではない。
負けた方の背後には、命がある。
鈴音。
麗華。
そして、二人自身。
坂柳は資料へ目を戻した。
まだ治療法を探す。
最後まで探す。
しかし同時に、彼女は理解していた。
残された時間は六日。
二人の天才は、もう互いを倒す準備に入っている。
夜。
二階堂グループ本社屋上。
海斗は一人で立っていた。
黒いロングコートが風に翻る。
眼下には東京。
遠くには、昨日爆発したガソリンスタンド跡地の方角が見える。
煙はもうほとんどない。
だが、海斗の中ではまだ炎が燃えていた。
背後で扉が開く。
ツキだった。
「またここか」
「ああ」
「風邪を引く」
「今さらそれか」
「今さらでも言う」
ツキは隣へ立つ。
しばらく二人で夜景を見る。
「ロングコートの悪魔」
ツキが言った。
海斗が少しだけ眉を上げる。
「聞いたのか」
「聞いた」
「似合ってるか?」
「似合わない」
即答だった。
海斗は少し笑った。
「だろうな」
「海斗は悪魔ではない」
「そうか?」
「違う」
ツキは真っ直ぐ言った。
「海斗は馬鹿だ」
「ひでぇな」
「頑固で、怖がりで、すぐ無茶をして、嘘を吐くのが下手で、
本が好きで、木の上で読書する変な人間だ」
海斗は黙った。
「悪魔ではない」
その言葉は、海斗の胸に少しだけ届いた。
だが、足を止めるには遅すぎた。
「ツキ」
「何だ」
「もしオレが悪魔になるなら」
海斗は夜景を見たまま言う。
「麗華が生きてからだ」
ツキは目を伏せる。
「それは、麗華様が一番悲しむ」
「知ってる」
「知っていてやるのか」
「ああ」
ツキは唇を噛んだ。
「私は止める」
「分かってる」
「本気で止める」
「ああ」
「海斗を傷つけても止める」
海斗は少しだけ振り返った。
「それは困るな」
「困っても止める」
「そうか」
二人はしばらく黙った。
やがて、海斗が言った。
「ありがとな」
ツキは顔を上げる。
「何が」
「止めようとしてくれて」
その言葉に、ツキは何も返せなかった。
海斗は再び街を見下ろす。
「あと六日」
風が吹く。
黒いロングコートが大きく翻る。
「綾小路は来る」
ツキは何も言わない。
「オレは待つ」
夜の空気が冷たくなる。
「次は」
海斗の声は低かった。
「本当に撃つ」
同じ頃。
大学病院の屋上。
綾小路清隆もまた、一人で夜景を見ていた。
黒いコートではない。
銃も見えない。
ただ静かに立っている。
だが、その静けさの奥にある覚悟は、海斗と同じだった。
堀北鈴音を助ける。
そのために、朝霧海斗を止める。
たとえ、海斗が自分を撃つとしても。
たとえ、自分が海斗を撃つとしても。
綾小路は空を見上げた。
星は見えない。
東京の光が強すぎる。
それでも、夜空は確かにそこにあった。
「あと六日」
小さく呟く。
その声は誰にも届かない。
ロングコートの悪魔。
孤高の天才。
二人は別々の場所で、同じ夜景を見ていた。
同じ街を見ていた。
同じ人工心臓を見ていた。
そして。
同じように、もう引き返せない場所まで来ていた。
友情は終わった。
会話も終わった。
残ったのは準備だけ。
誰も望まなかった戦争は、静かに次の段階へ進んでいた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。