ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
夜明け前だった。
旧港湾地区の空は、薄い灰色に染まり始めていた。
燃え落ちた倉庫から黒煙が立ち上り、焼けた鉄骨が赤く燻っている。
その前に、綾小路清隆と朝霧海斗は立ち尽くしていた。
互いに満身創痍だった。
服は裂け、身体中に打撲があり、銃弾が掠めた跡も残っている。
だが今は、そんな痛みなど遠かった。
二人のスマートフォンから、それぞれ別の声が届いていた。
『鈴音が危篤だ』
堀北学の声。
『麗華様が危篤だ』
ツキの声。
その二つの言葉が、夜明け前の空気を凍らせた。
海斗が先に動いた。
「……嘘だろ」
声が震えていた。
綾小路は何も言わない。
言えなかった。
勝敗。
人工心臓。
決着。
そんな言葉が、一瞬で意味を失っていく。
海斗はスマートフォンを握り締めた。
「麗華……」
その名を呟いた瞬間、張り詰めていたものが崩れた。
「クソが……!」
海斗は近くの鉄骨を蹴った。
鈍い音が響く。
だが怒りのぶつけ先など、どこにもない。
山内はもういない。
ブラックルームもない。
ホワイトルームもない。
倒すべき敵はどこにもいない。
あるのは、ただ進行する病と、間に合わなかった現実だけだった。
綾小路が短く言った。
「行くぞ」
海斗は顔を上げる。
二人の視線がぶつかる。
もう敵意はなかった。
互いを止める理由も、奪う理由も、撃つ理由も、その瞬間だけは消えていた。
あるのは焦燥だけ。
「病院だ」
「ああ」
二人は走り出した。
もう戦っている場合ではなかった。
勝敗などどうでもよかった。
ただ、間に合ってほしかった。
それだけだった。
大学病院。
集中治療室前。
堀北学は壁にもたれていた。
普段の彼なら、どんな状況でも姿勢を崩さない。
だが今は違った。
握り締めた拳。
血の気のない顔。
妹を救えない兄の顔だった。
森下藍は廊下の椅子に座り、両手で顔を覆っていた。
何度も怒鳴った。
何度も止めた。
綾小路清隆にも。
朝霧海斗にも。
だが、誰も止まらなかった。
そして今。
止められなかった結果だけが目の前にある。
「嫌です……」
森下は震える声で呟いた。
「こんなの、嫌です……」
誰も答えられない。
廊下の奥から、小さな足音が響いた。
坂柳有栖だった。
顔色は悪い。
数日間、まともに眠っていないことは明らかだった。
手にはタブレット端末。
もう片方の手には、古い紙資料の束。
その表情は、いつもの余裕を失っていた。
学が顔を上げる。
「坂柳」
坂柳は答えない。
彼女は息を整えるように、一度だけ目を閉じた。
そして言った。
「堀北鈴音さんは」
学は喉を鳴らす。
「危篤だ」
坂柳は奥の集中治療室を見る。
機械音。
慌ただしく動く医療スタッフ。
そして、扉の向こうで命を削られている鈴音。
坂柳は唇を噛んだ。
「間に合いますか」
「人工心臓は間に合わない」
学の声は沈んでいた。
「今から移植しても身体が耐えられない可能性が高いそうだ」
森下が顔を上げる。
「坂柳有栖……何とかならないんですか……」
その声は責めているわけではない。
縋っていた。
坂柳は答えなかった。
答えられなかった。
その時。
彼女の端末が震えた。
短い通知音。
坂柳は画面を見る。
そして、目を見開いた。
「……まさか」
その声は、誰にも聞き取れないほど小さかった。
だが次の瞬間。
坂柳有栖の表情が変わった。
絶望だけで固まっていた顔に、別の色が浮かぶ。
驚愕。
困惑。
そして。
かすかな希望。
「堀北学さん」
「何だ」
「綾小路くんは、こちらへ向かっていますか」
「向かっているはずだ」
「到着次第、私に連絡してください」
「どうした」
坂柳は答えず、端末を操作した。
次々とファイルを開く。
古い暗号化データ。
雪山ホワイトルーム跡地の調査記録。
白ノ峰崩落後に回収された物資リスト。
そして、そこに残されていた一つの名前。
朝霧雅樹。
坂柳の指が止まった。
「……やはり」
森下が立ち上がる。
「何か分かったんですか」
坂柳は、まだ確信を口にできなかった。
だが、目だけは前を向いていた。
「まだです」
そして、強く言った。
「ですが、可能性があります」
同じ頃。
二階堂グループ系列病院。
集中治療室前。
彩は泣いていた。
椅子に座り、顔を覆い、子供のように泣いていた。
源蔵は黙って立っている。
尊徳は腕を組み、ただ扉を見ていた。
ツキは壁際にいる。
誰も言葉を出さない。
医師が出てきた。
その顔を見ただけで、全員が察した。
良くない。
「会えますか」
源蔵が聞いた。
医師は沈黙した後、頷いた。
「短時間なら」
その時、廊下の奥から足音が響いた。
海斗だった。
ロングコートは裂け、顔には傷、息は荒い。
彩が立ち上がる。
「海斗さん……!」
海斗は返事をしない。
医師を見る。
「麗華は」
医師は答えられない。
それだけで十分だった。
海斗は低く言った。
「会わせろ」
その直後だった。
ツキのスマートフォンが鳴った。
坂柳有栖からだった。
ツキはすぐに応答する。
「坂柳様」
『朝霧さんは到着していますか』
「今、到着しました」
海斗が反応する。
「坂柳か」
ツキは頷き、端末を海斗へ渡した。
海斗は乱暴に受け取る。
「何だ」
電話の向こうの坂柳は、珍しく早口だった。
『麗華さんはまだ生きていますか』
海斗の表情が一瞬で険しくなる。
「何言ってんだ」
『答えてください』
「生きてる」
『なら、間に合う可能性があります』
海斗の呼吸が止まった。
廊下の空気が変わった。
彩が泣き止む。
源蔵が顔を上げる。
尊徳の目が細くなる。
ツキが海斗を見る。
海斗は端末を握り締めた。
「……何だと」
坂柳は言った。
『ワクチンを見つけました』
その言葉は、病院の白い廊下に、雷のように落ちた。
大学病院。
綾小路清隆が集中治療室前に到着した時、廊下の空気は最悪だった。
学。
森下。
坂柳。
医師。
誰もが追い詰められた顔をしている。
綾小路は息を整えながら、学を見る。
「堀北は」
学は答えようとした。
だがその前に、坂柳が一歩前へ出る。
「綾小路くん」
「何だ」
「見つかりました」
綾小路の目がわずかに動く。
「何が」
坂柳は端末を見せる。
そこには、雪山ホワイトルーム跡地の調査記録が映っていた。
「朝霧雅樹さんが残した治療データです」
その名前を聞いた瞬間、綾小路の表情がわずかに変わった。
雅樹。
海斗の父。
白ノ峰で共に戦った男。
過去に多くを間違え、それでも最後には海斗たちのために動いた男。
坂柳は続けた。
「私は、なぜ今まで気付かなかったのかと自分を責めています」
「説明しろ」
「白銀禁止区域事件の時、私は一度死にかけました」
坂柳は静かに言った。
「私は生まれつき心臓に問題を抱えていました。
長年、杖を必要としていた理由の一つでもあります」
森下が息を呑む。
学も黙って聞いている。
「ですが、あの事件の後、私の心機能は不自然なほど改善しました。
私はそれを、治療とリハビリ、そしてホワイトルーム関連の
医療技術によるものだと考えていました」
坂柳は画面に資料を表示する。
「しかし、違ったのかもしれません」
そこにあったのは、コードネーム。
WHITE-HEART。
心筋細胞保護・再構築用試作ワクチン。
研究責任者欄には、複数の名前。
その中の一つ。
朝霧雅樹。
「雅樹さんは、ブラックルームから私を救出した際に、
既にこの薬剤を使っていた可能性があります」
綾小路が問う。
「堀北と麗華に使えるのか」
「同じではありません」
坂柳は即答した。
「私の先天性心疾患と、堀北鈴音さんたちの心筋壊死は別物です。
ですが、雅樹さんの研究は心筋細胞そのものに干渉するものだった。
山内の遺産が心筋細胞を壊すなら、その逆側から付け入る隙がある」
「在庫は」
「雪山ホワイトルーム跡地に残されています」
学が目を見開く。
「跡地だと?」
「ええ」
坂柳は頷く。
「白ノ峰崩落後、完全封鎖された地下区画。
その奥に、雅樹さんが個別に隠した冷凍保管庫があります」
森下が震える声で言う。
「それを取りに行けば……助かるんですか」
坂柳は少しだけ黙った。
「保証はできません」
その言葉に、場の空気がまた沈みかける。
だが坂柳は続けた。
「ですが、今この瞬間に存在する唯一の可能性です」
綾小路はすぐに言った。
「回収に必要な時間は」
「通常なら無理です」
「通常なら?」
坂柳は端末を操作する。
「二階堂家のヘリ、源蔵さんの権限、尊徳さんの現場判断、
そして海斗さんの雪山施設の記憶。
それらを全て使えば、数時間以内に回収できる可能性があります」
学が立ち上がる。
「俺も動く」
「必要です」
坂柳は頷く。
「大学病院側の受け入れ準備、投与許可、
緊急倫理審査の突破。堀北学さん、あなたの力が要ります」
学の目が変わった。
絶望していた兄の目ではない。
妹を救うために動く人間の目だった。
「分かった」
坂柳は綾小路を見る。
「綾小路くん」
「何だ」
「あなたも動けますか」
綾小路は即答した。
「ああ」
疲労も傷も関係なかった。
戦うためではない。
救うために動く。
そのためなら、まだ動ける。
すると綾小路は坂柳の端末を見た。
「白ノ峰地下区画か」
「ええ」
「だが、その地図は古い」
坂柳の手が止まる。
「……どういうことですか」
綾小路は画面を指差した。
「ホワイトルームは侵入対策として、非常時には内部構造が変化する」
学が眉をひそめる。
「構造が変化する?」
「ああ」
綾小路は静かに続けた。
「白ノ峰崩落の時も、重要施設へ向かう通路は全て封鎖された」
坂柳が目を見開く。
「まさか」
「雅樹さんなら当然それを想定している」
綾小路は端末を操作する。
地下施設の見取り図が次々と切り替わる。
「補助電源室の先に隠し区画があるはずだ」
「なぜ分かるのですか」
「オレもホワイトルーム生だからだ」
静かな声だった。
だが、その場の全員が息を呑んだ。
綾小路は続ける。
「ホワイトルームは重要物資を、一番見つけにくく、
一番守りやすい場所へ隠す癖がある」
画面の一角を指差す。
「ここだ。崩落後も残りやすい耐震コア区画。
もし朝霧雅樹が残したなら、ここしかない」
坂柳は驚いたように小さく笑った。
「さすがですね」
学も頷く。
「助かる」
綾小路は短く答える。
「まだ終わっていない、今度は壊すためじゃない。助けるために行動する」
坂柳は最後に言った。
「時間との勝負です」
その声は震えていなかった。
「今度こそ、勝ちます」
二階堂病院側でも、同時に状況が動き始めていた。
源蔵はすでに電話を取っていた。
「白ノ峰方面への飛行許可を取れ。理由は問うな。全て私の責任で処理する」
尊徳も動いた。
「現地の封鎖管理者へ繋げ。俺の名前を出せ。拒否するなら強制解除の権限を使う」
彩は涙を拭い、医療チームへ連絡を入れている。
震える手で、それでも端末を操作する。
ツキは海斗の横に立った。
「海斗」
「ああ」
「行くのか」
「行く」
即答だった。
「でも麗華様が」
海斗は病室の扉を見る。
今すぐ駆け込みたい。
麗華の手を握りたい。
傍にいたい。
だが、それだけでは救えない。
「ツキ」
「何だ」
「麗華を頼む」
ツキは一瞬だけ目を見開いた。
そして、深く頷いた。
「任せて」
海斗はそれを聞くと、振り返らずに走り出した。
ロングコートの裾が裂けたまま揺れる。
だがもう、それは悪魔の姿ではなかった。
誰かを壊すための黒ではない。
誰かを救うために走る、最後の黒だった。
白ノ峰。
数年前、ホワイトルームの悪夢が終わった雪山。
そこは今、封鎖区域になっていた。
崩落した施設跡。
凍りついた地面。
風に削られた鉄骨。
白い雪。
かつて綾小路たちが死線を潜り抜けた場所。
ヘリが夜明けの空を切り裂いて到着する。
乗っていたのは、海斗、尊徳、二階堂家の特殊チーム。
別ルートで、綾小路と坂柳の解析データが送られている。
現地の封鎖員が駆け寄る。
「この区域は立ち入り禁止です!」
尊徳が一枚の書類を突きつけた。
「非常権限だ。通せ」
「しかし――」
海斗が前へ出た。
その目を見た封鎖員は、言葉を失った。
怒りではない。
殺気でもない。
ただ、時間がない人間の目だった。
「どけ」
短い一言。
それだけで道が開いた。
崩落した施設内部は、数か月経っても地獄の名残を残していた。
割れた白い壁。
潰れた通路。
凍りついた配管。
崩れた研究室。
かつてホワイトルームがそこにあった証拠。
海斗は進む。
迷わない。
この場所は、嫌になるほど覚えている。
どこで戦ったか。
どこで爆発が起きたか。
どこで雅樹と向き合ったか。
どこで自分が父を理解しかけたか。
その全てが雪の冷たさと共に蘇る。
尊徳が言う。
「場所は分かるのか」
「分かる」
海斗は即答した。
「親父なら、隠す場所は一つだ」
「なぜ分かる」
「嫌なほど似てるからだよ」
崩落した研究区画の奥。
本来なら封鎖されている補助電源室。
海斗は壁の一部を叩く。
空洞音。
「ここだ」
作業員が工具を入れる。
凍りついた金属板が外される。
奥には、小さな隠し扉。
生体認証は死んでいる。
だが、非常解除コードが残っていた。
海斗は一瞬だけ迷う。
そして、コードを入力した。
雅樹の誕生日でもない。
海斗の誕生日でもない。
麗華の誕生日でもない。
それは、ホワイトルーム事件で雅樹が最後に海斗へ言った言葉に関係する数字だった。
扉が開く。
白い冷気が流れ出す。
中には、冷凍保管ケースがあった。
小さな銀色のケース。
表面には文字。
WHITE-HEART。
そして、手書きのメモが貼られていた。
海斗はそれを見る。
荒い字。
雅樹の字だった。
そこには短く書かれていた。
『いつか必要になる。使え、海斗』
海斗の指が震えた。
「親父……」
声が掠れた。
尊徳は何も言わない。
海斗はケースを抱えた。
冷たかった。
だがその冷たさの奥に、確かに未来があった。
「戻るぞ」
海斗は言った。
「麗華と堀北を助ける」
ヘリが雪山を離陸した。
白ノ峰の雪原が下へ遠ざかる。
かつて彼らを殺そうとした雪山。
かつて全てを終わらせた場所。
その跡地から、今度は命を繋ぐものが運び出されていく。
坂柳は大学病院の緊急解析室で待っていた。
WHITE-HEARTのデータが届く。
成分解析。
投与リスク。
適合予測。
拒絶反応。
心筋細胞再構築の可能性。
全てが数値化されていく。
医師たちは困惑していた。
未承認どころではない。
正体不明に近い試作ワクチン。
常識的には使えない。
だが、常識的な治療法は全て尽きていた。
坂柳は言った。
「責任は私が取ります」
学が即座に言う。
「俺も取る」
源蔵の声が回線越しに響く。
『二階堂家も全責任を負う』
尊徳も言った。
『俺の名前も使え』
森下が泣きながら叫ぶ。
「責任とか後でいいです!早くしてください!」
その言葉で、場の空気がわずかに動いた。
医師が頷く。
「投与準備に入ります」
WHITE-HEARTは二本あった。
冷凍保管ケースの中に、二本。
雅樹は最初から知っていたのか。
いつか二人を救うために残したのか。
それとも、偶然二本残っていただけなのか。
分からない。
だが今は、それでよかった。
一本は大学病院へ。
一本は二階堂病院へ。
二つの命へ向けて、最後の希望が運ばれていく。
鈴音の病室。
医師が投与の準備をする。
学は妹の手を握っていた。
綾小路は少し離れた場所に立っている。
鈴音の意識は薄い。
だが、わずかに目を開けた。
「兄さん……」
「ここにいる」
「綾小路くんは……」
「いる」
綾小路が近づく。
鈴音はぼんやりと彼を見る。
「また……何か、無茶したのね」
「少しな」
「少しじゃ……なさそう」
「そうかもしれない」
鈴音は微かに笑った。
「本当に……分かりにくい人」
綾小路は何も言わない。
投与が始まる。
透明な薬液が、ゆっくりと鈴音の身体へ入っていく。
それは魔法ではない。
奇跡でもない。
雅樹が遺した研究。
坂柳が見つけた可能性。
学が繋いだ手続き。
二階堂家が動かした力。
そして、綾小路と海斗が過去に戦い抜いた死線の先に残されたものだった。
麗華の病室。
同じく投与が始まる。
海斗は戻ってきていた。
雪の匂いをまとったまま。
手袋も外さず、ベッドの横に立っている。
麗華の意識はほとんどない。
だが、海斗が戻ったことは分かったのか、わずかに指が動いた。
海斗はその手を握る。
「麗華」
返事はない。
「親父が残してた」
海斗の声が震える。
「たぶん、あいつなりに、最後まで面倒見ようとしてたんだ」
ツキが隣で静かに聞いている。
彩は泣きながら祈っていた。
源蔵は目を閉じている。
尊徳は壁際で腕を組み、何も言わない。
海斗は麗華の手を握り締めた。
「だから戻ってこい」
声が低くなる。
「命令だ」
ツキが小さく言う。
「麗華様に命令するのか」
「今だけだ」
海斗は涙を堪えながら笑った。
「戻ってこい、麗華」
長い時間が過ぎた。
一時間。
二時間。
三時間。
病状はすぐには好転しなかった。
医師たちは何度も数値を確認する。
心電図。
血圧。
酸素飽和度。
心筋ダメージマーカー。
一つ一つの数字に、全員が息を詰める。
坂柳は座らなかった。
ただモニターを見つめていた。
森下は祈るように両手を合わせていた。
学は妹の手を握り続けていた。
綾小路は無言で立っていた。
海斗は麗華の手を離さなかった。
そして。
最初に変化が出たのは、大学病院だった。
医師がモニターを見る。
「心拍が安定してきています」
学が顔を上げる。
「本当か」
「血圧も上昇傾向。酸素化も改善しています」
森下が口元を押さえる。
坂柳は小さく息を吐いた。
「効いている……」
綾小路は鈴音を見る。
青白かった顔色が、ほんのわずかに戻っている。
まだ危険な状態には違いない。
だが死へ向かっていた線が、わずかに別の方向へ曲がり始めた。
同時刻。
二階堂病院でも医師が声を上げた。
「心拍、安定傾向!」
彩が泣きながら顔を上げる。
「お姉様……?」
ツキの目が揺れる。
源蔵が深く息を吐く。
尊徳が初めて小さく笑った。
海斗は麗華の手を握ったまま、動けなかった。
麗華の指が、ほんの少しだけ握り返した。
本当にわずかだった。
だが、確かに。
海斗はその感触を感じた。
「麗華……」
涙が落ちた。
今度は隠さなかった。
数日後。
堀北鈴音は目を覚ました。
最初に見たのは、白い天井。
次に、隣で眠っている学。
椅子に座ったまま、妹の手を握っていた。
鈴音はしばらくそれを見ていた。
そして、小さく呟く。
「兄さん……?」
学が目を覚ます。
一瞬、状況を理解できない。
そして鈴音の目が開いていることに気付いた。
「鈴音」
声が震えた。
「泣いてるの?」
「泣いていない」
「嘘ね」
鈴音は弱々しく笑う。
学はもう隠さなかった。
妹の手を握り、ただ俯いた。
「よかった……」
それだけだった。
その言葉だけで十分だった。
少し遅れて、綾小路が病室へ入ってきた。
鈴音は彼を見る。
「来たのね」
「ああ」
「遅いわ」
「そうか」
「ええ」
そのやり取りに、学が小さく笑った。
綾小路もわずかに表情を緩める。
鈴音は静かに言った。
「助かったのね、私は」
「ああ」
「麗華さんは」
「助かった」
鈴音は目を閉じた。
そして深く息を吐く。
「よかった」
その一言に、全てが詰まっていた。
別の病院。
二階堂麗華も目を覚ました。
最初に見たのは、海斗だった。
椅子に座り、腕を組み、眠っている。
顔には疲労。
目の下には隈。
服は雪と煤で汚れている。
麗華はしばらく彼を見つめた。
そして、掠れた声で言った。
「海斗」
海斗が飛び起きた。
「麗華!」
あまりにも勢いよく起きたため、椅子が後ろへ倒れた。
ツキが呆れたように言う。
「うるさい」
彩は泣きながら麗華へ駆け寄った。
「お姉様!」
源蔵も目を閉じ、深く息を吐いた。
麗華は混乱しながら周囲を見る。
「私……」
海斗はベッドの横へ膝をついた。
「助かった」
「そう」
麗華は目を閉じる。
少しだけ涙が滲んだ。
「あなた、また無茶したのね」
「まあな」
「怒るわよ」
「後でな」
「今怒る元気はないわ」
「助かる」
ツキが冷たく言う。
「私は後で怒ります」
海斗は顔をしかめた。
「お前もかよ」
「当然です」
麗華は微かに笑った。
その笑顔を見た瞬間。
海斗はようやく、本当に終わったのだと理解した。
数週間後。
あの教会。
かつて鳩が舞い、ステンドグラスが砕け、綾小路と海斗が互いに銃を向け合った場所。
今は修復が進み、割れた窓から差し込む光も穏やかだった。
祭壇前。
床には二丁の銃が置かれている。
海斗のベレッタ。
綾小路のガバメント。
どちらも弾は入っていない。
二人は並んでそれを見ていた。
海斗が言う。
「オレたち、何やってたんだろうな」
綾小路は少し考える。
「分からない」
「分からないって便利だな」
「便利ではない」
「でも、そうとしか言えねぇよな」
「ああ」
海斗は天井を見上げる。
鳩が数羽、静かに羽を休めている。
「戦う必要、なかったんだよな」
「結果的にはな」
「ムカつくな」
「何にだ」
「運命に」
綾小路は答えない。
海斗は続けた。
「でもよ」
「何だ」
「全部が無駄だったわけじゃない」
綾小路は海斗を見る。
海斗は祭壇を見つめたまま言う。
「白銀禁止区域で戦ったことも、雪山で生き残ったことも、
親父と向き合ったことも、全部なかったら、あのワクチンは見つからなかった」
「ああ」
「今回の戦いは無駄だった」
「そうだな」
「でも、今までの戦いは無駄じゃなかった」
綾小路は静かに頷いた。
「そうだな」
海斗は少しだけ笑う。
「お前が素直だと気持ち悪いな」
「そうか」
「そうだ」
沈黙。
今度は重くない。
ただ静かだった。
教会の外では、風が吹いている。
割れ残ったステンドグラスの光が、床のベレッタとガバメントを照らしている。
海斗が言った。
「なあ、綾小路」
「何だ」
「麗華と結婚したかった」
綾小路は少しだけ目を向ける。
海斗は照れも隠さず、ただ正直に言った。
「こんなに人を好きになることは、もう一生ないと思う」
「そうか」
「できれば、この教会でお前らに祝福されたかった」
綾小路はしばらく何も言わなかった。
そして、静かに言う。
「そうだな」
海斗が見る。
綾小路は祭壇を見たまま続けた。
「オレも同じことを思う」
海斗は少しだけ笑った。
「らしくねぇな」
「そうかもしれない」
「堀北に言えよ」
「そのうちな」
「絶対言わねぇやつだな」
「否定はしない」
二人は少しだけ笑った。
勝者の笑みではない。
敗者の笑みでもない。
生き残った者の笑みだった。
海斗は床のベレッタを拾い上げた。
少し眺める。
そして、弾倉を抜いたまま、祭壇の横に置いた。
「しばらく、こいつはいらねぇ」
綾小路もガバメントを見る。
同じように置く。
「同感だ」
銃を置いた。
今度は、敗北のためではない。
終わらせるためだった。
1年後。
同じ教会。
白い花が飾られていた。
修復されたステンドグラスから、柔らかな光が差し込んでいる。
鳩が外の屋根で羽を休めている。
今日は銃声はない。
爆炎もない。
警報もない。
あるのは、鐘の音と、人々の笑い声だけだった。
祭壇前。
朝霧海斗は黒ではなく、白い礼服を着ていた。
落ち着かない様子で襟元を直している。
ツキが横から言う。
「似合っていません」
「初手それかよ」
「緊張しているようなので、いつも通りにしました」
「ありがた迷惑だ」
彩は既に泣いていた。
「まだ始まっていないぞ」
海斗が言う。
彩は涙を拭う。
「分かっています……でも……」
源蔵は腕を組み、少し離れた場所で立っている。
厳しい顔をしている。
だが目元は柔らかかった。
尊徳は笑っていた。
「まさか本当にこの教会でやるとはな」
海斗は肩をすくめる。
「色々あった場所だからな」
「銃撃戦の場所を結婚式場にする男はそういない」
「うるせぇ」
客席には、綾小路清隆がいた。
隣には堀北鈴音。
少し離れて堀北学。
森下藍。
坂柳有栖。
ツキ。
彩。
皆がいる。
生きている。
森下はハンカチを握り締めている。
「朝霧海斗が結婚……観察対象として非常に感慨深いです」
堀北が呆れる。
「普通に祝福しなさい」
「祝福しています」
坂柳が微笑む。
「あなたらしい祝福ですね」
森下は頷いた。
「ありがとうございます」
綾小路は祭壇を見る。
海斗がこちらを見た。
目が合う。
海斗は口だけで言う。
覚えてるか。
綾小路は小さく頷く。
覚えている。
あの夜。
この教会で。
海斗は言った。
できれば、この教会でお前らに祝福されたかった。
その未来が、今ここにある。
扉が開く。
二階堂麗華が現れた。
白いドレス。
長いベール。
彩が本格的に泣き出す。
ツキも一瞬だけ目を伏せた。
源蔵は顔を逸らした。
尊徳が小さく笑う。
海斗は言葉を失っていた。
麗華はゆっくり歩いてくる。
かつて病室で死にかけた少女。
二階堂家当主として全てを背負おうとした女性。
その彼女が、今、自分の足で祭壇へ向かっている。
海斗の前に立つ。
「ひどい顔。せっかくのイケメンが台無しだわ」
麗華が小さく言う。
海斗は笑う。
「鏡見てねぇ」
「見なくていいわ」
「昔もそんなこと言ってたな」
「ええ」
二人は微笑み合う。
誓いの言葉。
指輪。
拍手。
鐘の音。
全てが静かに進んでいく。
銃声で満たされた教会が、今は祝福の音で満たされていた。
誓いの言葉。
指輪の交換。
拍手。
鐘の音。
そして、式が終わった瞬間だった。
麗華が不意に振り返る。
手には純白のブーケ。
参列者たちがざわついた。
海斗が嫌な予感を覚える。
「おい、まさか――」
麗華は満面の笑みを浮かべた。
「そーれ!」
ブーケが宙を舞う。
白い花束が青空へ向かって高く放り投げられる。
参列者たちの視線が一斉に追いかけた。
彩も。
森下も。
坂柳も。
ツキも。
誰が受け取るのかと見上げる。
そして、落下してきたブーケは。
見事に一人の女性の腕の中へ収まった。
堀北鈴音だった。
「……え?」
教会が静まり返る。
堀北は自分の腕の中のブーケを見る。
数秒。
理解が追い付かない。
だが、自分が受け取ったという事実だけは理解した。
その瞬間。
堀北の頬がほんのり赤く染まる。
そして、ゆっくりと視線を向ける。
綾小路清隆の方へ。
綾小路もそれに気付いた。
二人の視線が重なる。
何も言わない。
だが、綾小路はほんの少しだけ表情を緩めた。
その反応を見た瞬間。
海斗が盛大に吹き出した。
「おいおい」
肩を震わせながら言う。
「次は綾小路たちの番か?」
堀北が真っ赤になる。
「なっ……!」
麗華も笑った。
「いいじゃない」
海斗の隣で腕を組む。
「二人もとってもお似合いよ」
堀北は何か言い返そうとする。
だが言葉が出ない。
その代わりに、ますます顔が赤くなる。
そこへ堀北学が割って入った。
「い、妹はまだやらんぞ!」
教会中が静まる。
数秒後。
森下が呆れたように呟いた。
「うわ、大人気ない」
ツキも即座にニヤリと笑い続く。
「シスコン」
学が振り返る。
「違う!」
「シスコン」
「違うと言っている!」
「シスコン」
「だから違う!」
海斗が腹を抱えて笑い始めた。
麗華も肩を震わせている。
彩も思わず笑ってしまう。
そんな中。
坂柳が小さく微笑んだ。
「ふふ」
誰にも聞こえないほど穏やかな笑みだった。
「本当にあり得るかもしれませんね」
綾小路は少しだけ眉をひそめる。
堀北はさらに赤くなる。
森下はその様子を見て大喜びだった。
「記録します!」
「やめなさい!」
堀北が叫ぶ。
教会に笑い声が広がった。
彩はそんな光景を見ながら、自分の頬へ手を当てる。
「私もいつか……素敵な殿方と……」
誰にも聞こえない声。
小さく呟く。
未来を想像するように。
幸せそうに。
周囲では相変わらず騒ぎが続いている。
海斗は笑い。
麗華も笑う。
森下ははしゃぎ。
ツキは呆れ。
学は必死に否定し。
坂柳は静かに微笑み。
綾小路と堀北は困ったような顔をしている。
誰も死ななかった。
誰も失われなかった。
だからこそ。
今、この場所には笑顔があった。
教会の鐘が鳴る。
白い鳩が飛び立つ。
そして。
祝福の拍手が、いつまでも響いていた。
式の後。
教会の外。
海斗は綾小路の隣に立った。
「なあ」
「何だ」
「実現したな」
「ああ」
「この教会で、お前らに祝福された」
「そうだな」
海斗は空を見上げる。
「親父のワクチンがなかったら、こうはならなかった」
「ああ」
「お前と殺し合ったことは、今でも馬鹿だったと思う」
「同感だ」
「でも、生きてる」
「ああ」
海斗は笑った。
「なら、まあいいか」
綾小路も少しだけ口元を緩める。
そこへ鈴音が近づいてきた。
「何を話しているの?」
「男同士の話だ」
海斗が言う。
鈴音は冷ややかに見る。
「ろくでもなさそうね」
「否定できねぇ」
麗華も来る。
「海斗」
「何だ」
「写真を撮るわよ」
「またか」
森下がすでにカメラを構えていた。
「全員集合してください」
「仕切るな」
海斗が言う。
森下は即答した。
「無理です」
ツキが隣で言う。
「諦めてください」
彩は泣きながら笑っている。
坂柳は静かに立っている。
学は少し離れた場所で妹を見ている。
源蔵と尊徳も並ぶ。
全員が集まる。
かつて死線を潜り抜けた者たち。
憎しみ。
後悔。
喪失。
怒り。
すべてを抱えながら、それでもここに立っている者たち。
森下がカメラを構える。
「撮ります」
春の光が差し込む。
白い鳩が飛び立つ。
シャッター音。
その一瞬が切り取られる。
勝者はいなかった。
敗者もいなかった。
悪もいなかった。
ただ、間違えながら、傷つきながら、それでも生き延びた者たちがいた。
綾小路清隆は、空を見上げた。
ホワイトルームにはなかった空。
ブラックルームにはなかった光。
雪山の向こうにあった未来。
海斗が隣で言う。
「なあ、綾小路」
「何だ」
「今度こそ、常夏の海か?」
綾小路は少し考えた。
「悪くないな」
海斗は目を丸くする。
そして笑った。
「お前、本当に変わったな」
「そうかもしれない」
鈴音が少し笑う。
麗華も微笑む。
ツキが呆れ、森下が記録し、坂柳が静かに空を見上げる。
教会の鐘が鳴った。
それは終わりの鐘ではなかった。
敗北の鐘でもなかった。
未来へ進むための鐘だった。
2人のマスターピース。
銃声と爆炎で始まった物語は、最後に祝福へ辿り着いた。
綾小路清隆と朝霧海斗の戦いは、確かに無駄だった。
だが。
彼らがこれまで潜り抜けてきた死線は、無駄ではなかった。
白銀禁止区域も。
雪山ホワイトルームも。
雅樹との決着も。
坂柳が歩き出した未来も。
全てが、今この場所へ繋がっていた。
そして。
鳩が飛び立つ。
白い羽根が青空へ舞う。
綾小路清隆は、最後に一度だけ教会を見た。
今度は、静寂ではない。
笑い声があった。
涙があった。
祝福があった。
もう二度と戻らない日々の残響ではなく。
これから続いていく日々の始まりが、そこにあった。
GOOD END
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