ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
その時、海辺の向こうから一人の男が歩いてきた。
高円寺六助だった。
白いシャツに、傷一つない余裕の表情。
昨夜の惨状を見ても、まるで上質な舞台を観終えた観客のように笑っていた。
綾小路が彼を見る。
「高円寺」
海斗も目を細める。
「ようやく出てきたか、黒幕気取り」
高円寺は優雅に髪を払う。
「黒幕というほど陰にいたつもりはないよ。
私はただ、この楽園に退屈しない試練を置いただけだ」
堀北の表情が険しくなる。
「試練で済む話ではないわ。多くの人が危険に晒された」
麗華も前へ出る。
「高円寺さん。二階堂グループとの共同開発に、
あのような仕掛けを混ぜた責任は重大よ」
高円寺は笑う。
「もちろん、責任は取るさ。損害の補填、施設の再建、
各方面への処理。高円寺コンツェルンは惜しまない」
海斗が冷たく言う。
「金で済むと思ってんのか」
「金で済むとは思っていない。だが、金で済ませる部分もある」
「腹立つくらい現実的だな」
高円寺は綾小路を見る。
「だが、君たちは証明した。失った日常を取り戻した者たちが、
今度は日常を守れるのか。私はそれを見たかった」
綾小路は静かに答える。
「人を巻き込む理由にはならない」
「そうだねぇ」
高円寺はあっさり認めた。
「だから、私は責められる側だ。だが、それでも退屈はしなかった」
堀北が一歩前に出る。
「あなたの退屈しのぎのために、誰かが傷ついていいはずがない」
高円寺は堀北を見た。
「君は強くなったね、堀北ガール」
「話を逸らさないで」
「逸らしてはいない。君の怒りもまた、この事件の成果だ」
「成果と言わないで」
堀北の声は静かだった。
だが、強かった。
「私たちは試されるために生きているわけじゃない。帰るために戦ったの。
守るために動いたの。あなたの退屈を満たすためじゃない」
高円寺は少しだけ目を細めた。
「なるほど」
綾小路も言う。
「お前の実験は終わりだ」
「そうだね。今回の演目は閉幕だ」
海斗が言う。
「次やったら、今度は最初から殴りに行くぞ」
高円寺は笑った。
「それも面白そうだ」
「面白がるな」
麗華が冷たく言う。
「復興費用と責任処理、逃げられると思わないで」
「もちろんだ、二階堂麗華。共同開発者として、私も働こう」
彩が小さく呟く。
「働くんですね……」
尊徳が苦笑する。
「そこは働いてもらわないと困る」
高円寺は最後に全員を見る。
「では、私は一足先に事後処理へ向かうよ。
君たちは休むといい。見事な勝利だった」
綾小路は答えない。
堀北も睨んだままだった。
麗華も端末を抱えたまま、冷ややかな目で高円寺を見ている。
高円寺六助。
今回の事件において、彼は巨大傭兵集団の指揮官ではない。
ジャンボーのように森の怪物として襲いかかってきたわけでもない。
コマンダーのように重火器を抱えて真正面から撃ち合ったわけでもない。
それでも。
この島に最後の試練を残し、
船底爆薬という悪趣味な仕掛けを用意していたのは間違いなく彼だった。
高円寺は悪びれない。
優雅に髪を払う。
「では、失礼するよ」
その背中が夕陽を浴びて遠ざかろうとした時だった。
「待てよ」
海斗の声が、浜辺に落ちた。
高円寺の足が止まる。
「何かな?」
海斗は腕を組んだまま、少し挑発的に笑った。
「ずいぶん好き勝手やってくれたな」
「そうかね?」
「ホテルは壊れる。港は燃える。
船は島に突っ込む。挙げ句の果てには高みの見物だ」
「私は見物だけをしていたわけではないよ。
君たちが退屈しないよう、舞台を整えた」
海斗の目が細くなる。
「その言い方が一番ムカつくんだよ」
「おや」
高円寺は微笑む。
「君は随分と短気だね、朝霧海斗」
「そうか?」
「戦場では実に冷静だった。だが終わった後の方が感情的だ」
「当たり前だろ」
海斗は一歩前に出る。
「守るものがある奴はな、終わった後に腹が立つんだよ」
その言葉に麗華が少しだけ目を伏せた。
高円寺は海斗を見た。
「なるほど。君は面白い」
「褒めんな」
「褒めているとも限らない」
「やっぱりムカつくな」
軽井沢が顔を引きつらせる。
「ちょ、ちょっと。これ絶対まずい流れじゃない?」
森下も青ざめる。
「完全にまずい流れです」
ツキが楽しそうに言う。
「高円寺六助と海斗。相性は最悪」
「楽しそうに言わないでください」
一之瀬が心配そうに言う。
「もう戦いは終わったんだよね?」
ひよりも小さく頷く。
「これ以上、誰も怪我をしない方が……」
麗華は海斗へ視線を向けた。
「海斗」
「分かってる」
言葉とは裏腹に、海斗はまったく引く気配がない。
高円寺は海斗の姿勢を眺め、口元に笑みを浮かべた。
「君は私と戦いたいのかね?」
「興味はある」
「正直だ」
「お前、結局どれくらい強いんだ?」
その問いで、空気がまた一段重くなった。
高円寺六助の強さ。
それは高育時代から誰もが感じていた。
だが、誰も本当の底を知らない。
身体能力。
反応速度。
精神的な余裕。
常識外れの自由さ。
彼は本気を出しているのか、遊んでいるのか、
そもそも勝負の土俵に立っているのかすら分からない男だった。
高円寺は微笑んだ。
「知りたいのかね?」
「知りたいな」
「ならば君が試すかね?」
海斗が肩を回す。
「それでもいい」
その瞬間、堀北が鋭く言った。
「やめなさい」
海斗が振り返る。
堀北は明らかに怒っていた。
「今、そんなことをしている場合ではないわ。
負傷者もいる。避難民もいる。事後処理も終わっていない」
麗華も続ける。
「海斗、挑発に乗らないで。あなたまで怪我をしたら本当に怒るわよ」
「分かってる」
「分かっていない顔よ」
彩も不安そうに尊徳を見る。
尊徳は苦笑しながらも、海斗と高円寺から目を離さない。
「これは……止めた方がいい」
「尊徳さん、止められますか?」
尊徳は即答しなかった。
そして少し困ったように言う。
「正直、あの二人が本気になったら難しいです」
森下が訊く。
「宮川尊徳でもですか?」
「ああ。無理に割って入ると、こちらが巻き込まれる」
ツキが頷く。
「藍なら三秒で吹き飛びます」
「バイバイキ~ン」
その場で唯一、坂柳有栖だけが笑っていた。
不敵に。
楽しげに。
まるでずっと待っていた舞台がようやく幕を開けるかのように。
堀北が坂柳を見る。
「坂柳さん、まさか面白がっているの?」
「ええ」
坂柳は隠さなかった。
「非常に興味深いです」
「何を言っているの」
「高円寺六助の本気。そして綾小路くんの本気。
高育では結局、誰も最後まで見ることができなかった勝負です」
坂柳は綾小路を見る。
「見たいと思いませんか?」
綾小路は黙っていた。
海斗は高円寺から視線を外さない。
その海斗の肩に、綾小路が手を置いた。
「海斗」
「何だ」
「ここはオレにやらせてくれ」
海斗はゆっくり振り返る。
「お前が?」
「ああ」
短い返事。
だが、それだけで海斗は理解した。
これは今この場で生まれた喧嘩ではない。
高育時代から続いていた、未解決の問い。
綾小路清隆と高円寺六助。
本当にぶつかれば、どちらが上なのか。
海斗は少し笑った。
「なら譲る」
麗華が驚く。
「海斗?」
「これはオレの戦いじゃねぇ」
海斗は一歩下がる。
「綾小路のだ」
高円寺は満足そうに笑った。
「ようやくかね」
綾小路は前へ出る。
堀北が腕を掴もうとする。
「綾小路くん」
「心配するな」
「心配するに決まっているでしょう」
「すぐ終わる」
「そういう問題ではないわ」
綾小路は堀北を見る。
「これは必要な区切りだ」
堀北は息を呑む。
綾小路の声には迷いがなかった。
敵を倒すためではない。
誰かを守るためでもない。
ただ、過去から残っていた一つの問いに終止符を打つため。
堀北はしばらく彼を見つめ、やがて手を離した。
「……無茶はしないで」
「ああ」
坂柳が微笑む。
「これで役者は揃いましたね」
高円寺はゆっくりとネクタイへ手をかける。
結び目を緩める。
その仕草すら優雅だった。
次にジャケットを脱ぎ、近くの瓦礫の上へ投げる。
腕時計を外す。
袖を軽くまくる。
それだけで、空気が変わった。
先ほどまでの気まぐれな自由人ではない。
完璧な肉体を持つ、一人の怪物。
高円寺六助がそこにいた。
「ルールはどうするかね?」
綾小路は答える。
「先に一撃を入れた方の勝ち」
「一撃とは?」
「拳でも蹴りでもいい。明確に届けば勝ち」
「急所は?」
「狙わない」
「なるほど。紳士的だ」
海斗が横から言う。
「お前が紳士的って言葉を使うと不安になるな」
高円寺は笑う。
「安心したまえ。これは殺し合いではない」
綾小路も言う。
「決着をつけるだけだ」
夕陽が沈みかけていた。
傷ついた南国のリゾート。
砕けた石畳。
燃え尽きた港。
遠くに浅瀬へ乗り上げた巨大クルーズ船。
そのすべてを背景に、二人が向かい合う。
誰も声を出さない。
風だけが吹く。
海斗は腕を組み、少し低い声で言った。
「見とけ」
森下が聞く。
「何をですか?」
「化け物同士の喧嘩だ」
ツキが小さく言う。
「表現は雑ですが、概ね正しい」
そして。
高円寺が動いた。
一瞬だった。
足音がない。
構えもない。
呼吸の変化もない。
ただ、次の瞬間には綾小路の間合いへ入っていた。
拳が伸びる。
速い。
重い。
綾小路は紙一重で顔を傾けた。
拳が頬の横を通過する。
風圧で髪が揺れた。
「速い……!」
軽井沢が呟く。
だが綾小路も止まらない。
避けた勢いのまま、肘を返す。
高円寺の脇腹へ。
当たればそこで終わり。
だが高円寺は笑う。
体を僅かに反らす。
肘が服の布一枚分を掠めて外れる。
そのまま高円寺の膝が跳ね上がった。
綾小路は腕で受け流す。
衝撃。
二人の足元の砂が弾けた。
周囲の者たちが思わず身を引く。
一撃も入っていない。
だが、それだけで分かる。
これは人間の速度ではない。
高円寺がさらに踏み込む。
右拳。
左拳。
回し蹴り。
体当たりに近い肩の押し込み。
綾小路は受けない。
受ければ押し切られる。
流す。
躱す。
逸らす。
だが完全には避けきれない。
高円寺の動きには余裕がある。
一撃一撃が遊びではないのに、遊び心が残っている。
「素晴らしい」
高円寺が笑う。
「君はやはり退屈しない」
綾小路は答えない。
森下は喉を鳴らした。
「高円寺六助って、そんなに強いんですか?」
海斗は高円寺を見たまま答える。
「強い」
即答だった。
「ジャンボーは森の中なら化け物だった。
コマンダーは重火器込みなら要塞みたいな男だった。
八神や天沢も、龍園も宝泉も、相当だった」
海斗は少しだけ目を細める。
「だが高円寺は違う」
「違う?」
「何を考えてるのか読めねぇ。
どこまで本気かも分からねぇ。それでいて、あの身体能力だ」
七瀬も真剣に見ていた。
「私でも、動き出しが読みにくいです」
坂柳が微笑む。
「読ませないのですよ。高円寺くんは常に自分の規則だけで動いていますから」
海斗が続ける。
「綾小路やオレに匹敵する。
格闘だけなら、これまで相まみえてきた敵の中でも間違いなくトップレベルだ」
森下が息を呑む。
「朝霧海斗でも勝てないんですか?」
「勝てるかもしれねぇ」
海斗は笑う。
「でも、勝てる保証はねぇ」
その言葉が、全員へ重く落ちた。
綾小路の反撃。
低い踏み込みから、腹部へ拳。
高円寺が半歩下がる。
綾小路は追う。
さらに一歩。
拳。
蹴り。
掌底。
高円寺は避ける。
避けながら笑っている。
坂柳の目が細くなる。
「高円寺くんが押していますね」
堀北の表情が硬くなる。
「綾小路くんが劣勢?」
「ええ。ほんの僅かですが」
海斗も認める。
「ああ。高円寺の方が先に動いてる」
一之瀬が不安そうに言う。
「大丈夫なの?」
海斗は視線を外さない。
「大丈夫かどうかは分からねぇ」
「そんな……」
「でも、綾小路もまだ底を出してねぇ」
戦いは第一段階を終え、さらに速度を上げる。
高円寺が一気に距離を潰す。
まるで地面を滑るような踏み込み。
綾小路が横へ逃げる。
高円寺の拳が背後の装飾柱へ叩き込まれた。
石造りの柱に亀裂が走る。
破片が飛び散る。
森下が悲鳴に近い声を上げた。
「柱が割れましたよ!?」
ツキが冷静に言う。
「普通は拳で割るものではありません」
綾小路はその破片の中を抜け、高円寺の背後へ回る。
足払い。
高円寺の足首へ。
だが高円寺は跳んだ。
低く、最小限に。
避けながら、空中で体を捻る。
踵が綾小路の肩口を狙う。
綾小路は身を沈める。
風圧が頭上を抜ける。
蹴りは外れた。
だが高円寺の足が地面に着いた瞬間、次の拳が来る。
連動が速すぎる。
綾小路は後退。
一歩。
二歩。
三歩。
初めて明確に押された。
堀北が息を詰める。
「綾小路くん……」
高円寺は楽しそうに言う。
「どうしたのかねぇ?」
綾小路は息を整える。
「まだだ」
「そうでなくては困る」
第二段階。
綾小路の動きが変わった。
防御主体から、迎撃へ。
高円寺が踏み込む瞬間、その足の置き場を潰す。
高円寺の拳が来る前に、肩の動きへ合わせて角度を変える。
ただ避けるのではない。
攻撃を誘導している。
高円寺の拳が空を切る。
綾小路の指先が高円寺の袖へ触れかける。
高円寺は笑みを深め、さらに速度を上げた。
「見えているね」
「少しはな」
「少しでそれか」
今度は綾小路が押し返す。
拳の連打ではない。
最短の一撃を何度も置く。
高円寺が避ける場所。
次に足を置く位置。
呼吸の間。
すべてを先回りして潰していく。
高円寺が初めて後退した。
一歩。
周囲が息を呑む。
海斗が笑う。
「始まったな」
森下が慌てる。
「今までも始まってましたよね?」
「ここからだ」
綾小路は高円寺の間合いへ入る。
高円寺は余裕を失っていない。
だが、初めて真面目に受けた。
拳と拳が交差する。
腕と腕がぶつかる。
足元の砂が跳ねる。
二人の動きがさらに速くなる。
もはや見物人の多くには、何が起きているのか分からない。
ただ音だけが聞こえる。
時折、拳が空を裂く音。
足が地面を削る音。
衝撃で瓦礫が跳ねる音。
七瀬が低く呟く。
「どちらかが一瞬でも判断を誤れば終わります」
坂柳は楽しげに言う。
「ええ。そして二人とも、その一瞬を絶対に逃しません」
高円寺の蹴りが綾小路の脇腹を狙う。
綾小路は回避。
その瞬間、高円寺の手が伸びる。
本命は蹴りではない。
回避方向を読んだ掌底。
綾小路の胸へ届く。
寸前。
綾小路は身体を沈め、地面へ手をつく。
そのまま回転。
足が高円寺の軸足を狙う。
高円寺は跳ぶ。
だが今度は高く跳びすぎた。
綾小路が起き上がる。
拳が伸びる。
高円寺の腹部へ。
しかし高円寺は空中で体を捻り、綾小路の拳を肩で逸らした。
着地。
即反撃。
高円寺の指先が綾小路の肩口へ伸びる。
触れれば勝ち。
綾小路は身を引く。
布が揺れた。
触れていない。
ほんの数ミリ。
軽井沢が叫ぶ。
「今の当たってないの!?」
海斗が答える。
「当たってねぇ」
「見えたの!?」
「ギリギリな」
ツキが淡々と言う。
「軽井沢様なら三回負けています」
「比較対象にしないで!」
第三段階。
空気が変わる。
高円寺の笑みが薄くなる。
余裕はある。
だが遊びではない。
綾小路も完全に表情を消した。
二人の呼吸だけが聞こえる。
夕陽が水平線へ沈みかけている。
海風が砂を流す。
誰も動かない。
一秒。
二秒。
三秒。
先に動いたのは高円寺だった。
今までで最も速い。
真正面。
小細工なし。
綾小路も逃げない。
真正面から迎える。
「まずい」
海斗が呟いた。
森下が聞く。
「何がですか?」
「高円寺が取りに来た」
高円寺の右拳。
綾小路の左手が払う。
だが払った瞬間、高円寺の左が来る。
綾小路は避ける。
その避けた先へ膝。
綾小路は腕で受け流す。
衝撃で足元が滑る。
高円寺の右足が地面を蹴る。
次の拳。
速い。
重い。
完璧な連携。
綾小路は下がらない。
むしろ前へ出る。
拳を受け流しながら、高円寺の内側へ入る。
だが高円寺はそれも読んでいた。
肘。
綾小路の顔面へ。
堀北が息を呑む。
「綾小路くん!」
綾小路は首を僅かに傾ける。
肘が髪を掠める。
だがそこで終わらない。
高円寺の掌が、綾小路の胸元へ伸びた。
今度こそ届く。
誰もがそう思った。
海斗でさえ、目を見開く。
だが。
綾小路の足が一瞬、沈んだ。
踏み込むためではない。
沈むためでもない。
重心を消した。
高円寺の掌が、綾小路の胸の前を通過する。
届かない。
ほんの一瞬。
高円寺の体勢が前へ流れる。
綾小路はその隙間へ入った。
拳ではない。
掌底でもない。
ただ、指先を揃えた手が、高円寺の胸元へ静かに伸びる。
トン。
音は小さかった。
あまりにも小さかった。
あれほどの激闘の決着とは思えないほど静かな接触。
だが、ルール上は明確だった。
一撃。
綾小路の手が、高円寺の胸に届いていた。
静寂。
海風の音だけ。
高円寺は自分の胸を見た。
そして笑った。
心底楽しそうに。
「参った」
誰もすぐには反応できなかった。
あの高円寺六助が。
敗北を認めた。
海斗が息を吐く。
「……勝ったか」
坂柳が微笑む。
「ええ。ついに」
堀北は胸元を押さえ、ようやく息を吐いた。
一之瀬も安堵し、ひよりは静かに微笑む。
軽井沢は膝に手をつく。
「心臓に悪すぎ……」
森下は叫ぶ。
「今、何が起こったんですか?」
ツキが答える。
「綾小路が勝った」
高円寺はジャケットを拾い上げる。
動作に悔しさはない。
むしろ満たされていた。
「見事だ、綾小路清隆」
綾小路は息を整えながら言う。
「僅差だった」
「そうだね。あと一瞬、私が早ければ結果は逆だった」
「だろうな」
高円寺は笑う。
「だからこそ美しい」
海斗が呆れる。
「負けてもその調子かよ」
「敗北を受け入れられない男は美しくないからねぇ」
「変なところで潔いな」
高円寺はネクタイを締め直す。
「君たちは退屈しない」
綾小路を見る。
「特に君はね」
「それはどうも」
「今回の島も、船も、戦いも、そしてこの一撃も」
高円寺は夕陽を見た。
「実に価値ある時間だった」
堀北が冷たく言う。
「巻き込まれた側としては、笑って済ませられないわ」
「分かっているよ、堀北ガール」
「本当に?」
「分かってはいる。反省するかは別だがねぇ」
「最低ね」
高円寺は笑う。
「よく言われる」
麗華も一歩前に出る。
「事後処理は逃がさないわよ」
「もちろん。高円寺コンツェルンは必要な責任を果たす」
「ならいいわ」
高円寺は全員を見た。
「では、今度こそ失礼しよう」
海斗が言う。
「次に妙なことしたら、今度はオレが相手するぞ」
「その時は楽しみにしておこう」
ジャンボーが森へ帰り。
コマンダーが投降し。
そして高円寺は、敗北を笑って受け入れた。
敵だった者たちは、それぞれの形で舞台を降りていく。
高円寺は最後に綾小路へ言った。
「また会おう」
綾小路は短く答える。
「機会があればな」
「あるさ」
高円寺は優雅に背を向ける。
夕陽の中へ歩いていく。
誰も追わない。
高育時代から続いていた一つの問いは、ここでようやく終わった。
綾小路清隆と高円寺六助。
本気の一瞬。
真の決着。
その勝者は綾小路だった。
だが敗者である高円寺の背中にも、不思議と影はなかった。
彼は満足していた。
自分を退屈させなかった男と出会えたことを。
そして。
綾小路は小さく息を吐いた。
堀北が隣へ来る。
「大丈夫?」
「ああ」
「本当に無茶ばかりするわね」
「今回は必要だった」
「あなたはいつもそう言う」
綾小路は少しだけ口元を緩めた。
「そうかもしれない」
堀北は呆れながらも、少しだけ安心したように笑った。
高円寺は気にした様子もなく、優雅に去っていった。
彼が完全な悪人かと言えば、違う。
だが、危険な自由人であることは間違いない。
そして、その問題はこれから正式に処理される。
今は、少なくとも事件は終わった。
数時間後。
島の海辺に、主要メンバーが集まっていた。
救助と処理は続いている。
だが、一度だけ全員で海を見る時間ができた。
綾小路と堀北。
海斗と麗華。
七瀬。
一之瀬。
ひより。
軽井沢。
坂柳。
森下。
ツキ。
彩。
尊徳。
壊れた楽園の中で、海だけは変わらず美しかった。
波が寄せては返す。
常夏の風が吹く。
遠くではクルーズ船が停止し、港の煙が薄くなり始めている。
海斗がふっと笑った。
「常夏の海も悪くねぇな」
綾小路は隣で静かに海を見る。
「そうだな」
海斗は肩をすくめる。
「次はもう事件なしで来てぇな」
綾小路は少しだけ間を置き、答えた。
「それは無理だろうな」
海斗が苦笑する。
「違いねぇ」
麗華が呆れながら笑う。
「そこは否定しなさいよ」
堀北も小さく微笑む。
「でも、あなたたちらしいわね」
森下が頭を抱える。
「また事件が起きる前提なんですか?」
ツキがさらりと言う。
「朝霧海斗と綾小路清隆が揃う限り、確率は高い」
海斗が顔をしかめる。
「オレたちのせいかよ」
ツキは微笑むように言う。
「半分くらいは」
森下が叫ぶ。
「残り半分は?」
ツキは高円寺が去っていった方向を見る。
「退屈しのぎの人々です」
「うーん、納得してしまいました」
軽井沢が笑う。
「もうやめてよ、ほんと。次は普通に旅行しようよ」
一之瀬も頷く。
「うん。普通に海で遊んで、普通にご飯を食べて、普通に帰りたいね」
ひよりが文庫本を抱えて微笑む。
「そして、ゆっくり本を読みたいです」
海斗が頷く。
「それが一番だな」
坂柳は海を見ながら言う。
「退屈な日常ほど、贅沢なものはありませんから」
七瀬も静かに頷く。
「守れてよかったです」
彩が麗華の隣で言う。
「お姉様、またこの島を直せますか?」
麗華は島を見た。
傷ついたホテル。
壊れた港。
燃えた施設。
それでも、彼女は迷わず答える。
「直すわ。前よりもっといい場所にする」
尊徳が穏やかに言う。
「彩様も手伝われるんですよね」
彩は力強く頷く。
「はい。今度は私も、お姉様の後ろにいるだけではなく、隣で頑張ります」
麗華は嬉しそうに笑った。
「頼りにしているわ、彩」
堀北は綾小路の隣で、そっと言う。
「私たちも、これからね」
「ああ」
「恋人になったからといって、あなたの無茶が許されるわけではないわ」
「そうなのか」
「当然よ。むしろ厳しくなるわ」
「そうか」
「嫌?」
綾小路は堀北を見る。
「嫌ではない」
堀北は少しだけ頬を染める。
「ならいいわ」
軽井沢が遠くから叫ぶ。
「いちゃつくならもうちょっと分かりやすくして!」
堀北が赤くなる。
「い、いちゃついてはいないわ!」
坂柳が涼しく言う。
「いえ、今のはかなり高度ないちゃつきです」
ひよりが頷く。
「文学的でした」
一之瀬が困ったように笑う。
「みんな、分析しすぎだよ」
森下が勢いよく言う。
「綾小路清隆と堀北鈴音、正式交際一日目にして周囲を破壊しています」
ツキがすかさず言う。
「周囲を破壊しているのはあなたの実況音量」
「そんなに大きいですか?」
「はい。海鳥が逃げた」
「や~ん、待って待って~」
海斗が腹を抱えて笑う。
「本当に最後まで騒がしいな」
麗華が微笑む。
「でも、この騒がしさが戻ってきた証拠よ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
静かすぎる終わりではない。
泣いて終わる物語でもない。
傷ついた島で、笑いながら終わる。
それが、今回の事件には似合っていた。
綾小路は海を見た。
かつては、守るという感覚が遠かった。
誰かと帰るという願いも、今ほど明確ではなかった。
だが今は違う。
隣に堀北がいる。
背後に仲間たちがいる。
隣の少し離れた場所には海斗がいて、麗華がいて、ツキと森下が騒いでいる。
一之瀬が笑い、ひよりが本を抱え、軽井沢が文句を言い、
坂柳が面白そうに眺め、七瀬が静かに立ち、彩と尊徳が未来を見ている。
それぞれが、それぞれの形でここにいる。
失った日常を取り戻した者たちが、今度はその日常を守り抜いた。
堀北が静かに言う。
「帰りましょう」
綾小路は頷く。
「ああ」
海斗が笑う。
「休暇の追加が欲しいぜ」
麗華が頷く。
「ええ」
軽井沢が手を上げる。
「帰ったら絶対休む!」
一之瀬が笑う。
「みんなでちゃんと休もう」
ひよりが言う。
「それから読書会ですね」
森下が言う。
「私は迷子防止担当をします」
ツキがすぐに言う。
「まず自分に紐をつけよう」
「くぅ~ん」
尊徳が笑う。
「まあ、必要なら俺が地図を持ちますよ」
彩が笑う。
「私も手伝います」
坂柳が微笑む。
「賑やかな帰還ですね」
七瀬が静かに言う。
「はい。悪くありません」
海斗はふと思い出したように綾小路を見る。
「そういや綾小路。モデルガン、いつ見せてくれるんだ?」
綾小路は少し考える。
「次の休日で調整しておく」
海斗が笑う。
「楽しみだな」
その会話を聞いた堀北が首を傾げた。
「モデルガン?」
海斗は肩をすくめる。
「男の子だけのロマンだ」
その隣で麗華がくすりと笑った。
「なにそれ」
綾小路も少しだけ口元を緩める。
「海斗とはサバイバルゲームもしてみたい」
海斗の目が少し輝いた。
「面白そうじゃねぇか。今度こそ決着だ」
綾小路も頷く。
「望むところだ」
二人は自然と笑った。
今度は命を懸ける必要はない。
ただ趣味で遊ぶ休日だ。
海斗は水平線を見る。
綾小路も同じ方向を見る。
朝日が海を照らす。
波が光る。
風が吹く。
南国の楽園で始まった事件は、
島も船も人も巻き込み、炎と銃声と爆発の果てに終わった。
綾小路と堀北が歩き出す。
海斗と麗華が続く。
仲間たちも笑いながら後に続く。
今度こそ。
全員で帰る。
TRUE END
■あとがき
第五部作に及ぶ、マスターピースシリーズ完結です。
ダイハードの続編から朝霧海斗を登場させましたが、
よう実のキャラクターではないので、ヒットはしないだろうなと覚悟して書いておりました。
しかし、自分の中では書ききったという満足感に満ちております。海斗LOVE!!
最後までお付き合い、ありがとうございました!
次回作は王道もの「連帯責任特別試験」を投稿します。
【挿絵表示】
途中までですが、第一話「連帯責任」の試し読みをどうぞ。
◯
高度育成高等学校において、特別試験という言葉は、
もはや生徒たちにとって単なる学力試験や、
運動能力を競う行事を意味するものではなくなっていた。
無人島での生活を強いられ、船上で互いの正体を探り、
クラスメイトの価値を数字へ置き換え、
時には誰か一人の退学を巡って集団全体が、
疑心暗鬼に陥る経験を重ねてきた二年生たちは、
校内端末へ「特別試験実施」の通知が届いた程度では、
以前のように大騒ぎすることもなくなっていた。
しかし、その日の朝に届いた通知には、普段とは明らかに異なる点があった。
試験内容についての事前説明が一切なく、必要な持ち物も指定されておらず、
集合場所として記されていたのは二年生全員を収容できる第一体育館であり、
さらに通知の最後には、「欠席および遅刻は理由を問わず認めない」という、
強い文言まで添えられていたからだった。
午前八時四十分、堀北鈴音は教室へ入ってきた生徒たちを見渡しながら、
自分の端末に表示された通知を何度目か分からないほど読み返していたが、
文章そのものは極端なまでに簡潔であり、
そこから試験の性質を予測する材料はほとんど得られなかった。
「随分と情報を絞ってきたわね。
少なくとも、事前準備をさせる気がないことだけは分かるけれど、
わざわざ四クラス全員を同じ体育館へ集める以上、
クラス単独で完結する試験ではなさそうね」
堀北がそう口にすると、
少し離れた席で端末を眺めていた平田洋介も静かに頷き、
通知の内容から考えればクラス対抗か、
あるいは四クラス合同で何らかの選択を迫られる可能性が高いと答えた。
普段であれば、試験開始前から必要以上に悲観することを嫌う生徒も多かったが、
今回は教室全体に妙な落ち着かなさが漂っていた。
池寛治は須藤健と小声で「また無人島とかじゃないよな」と話し、
篠原さつきは通知の文面が嫌な感じだと顔をしかめ、
佐藤麻耶や軽井沢恵もいつもより声量を落としながら、
他クラスにも同じ通知が届いているらしいという話をしていた。
オレは自分の席からその様子を眺めながら、
学校側が情報を伏せている理由について考えていた。
特別試験では、試験開始前の準備そのものが競争の一部になることも珍しくない。
それにもかかわらず今回は準備期間が存在せず、
二年生全員を一か所へ集め、さらに欠席まで認めないという条件を付けている以上、
生徒が試験前に取る行動ではなく、その場で下す判断こそが評価対象になる可能性が高かった。
そして、もう一つ気になる点があった。
通知には、「特別試験開始時刻は午前九時」と書かれているにもかかわらず、
終了予定時刻が記載されていなかった。
午前八時五十五分になると、
二年生の四クラスはそれぞれの担任に引率されながら第一体育館へ移動し始めた。
体育館の入口には普段使用されている得点板とは別に巨大な液晶モニターが四台設置され、
その正面には横長の大型スクリーンまで用意されていたため、
生徒たちの間には入場した瞬間からざわめきが広がっていった。
四台のモニターには、それぞれクラス名だけが表示されていた。
堀北クラス。
龍園クラス。
坂柳クラス。
一之瀬クラス。
その下には各クラス全員分と思われる空欄が並んでいたものの、
まだ名前や数字は表示されておらず、
何のために用意されたものなのかを判断することはできなかった。
体育館へ入ってきた龍園翔は、
正面のモニターを一瞥すると口元をわずかに歪め、
その隣を歩いていた石崎大地へ何かを言いながら、
自分たちに割り当てられた場所へ向かった。
伊吹澪はいつものように不機嫌そうな表情で後ろを歩き、
椎名ひよりは周囲の生徒たちの様子を慎重に観察しながら、
龍園たちから少し離れた位置へ腰を下ろした。
坂柳有栖は杖をつきながらゆっくりと入場すると、
大型スクリーンと四台のモニターを順番に眺め、
その後ろでは橋本正義が露骨に嫌そうな顔をしながら周囲を見渡していた。
森下藍は緊張しているのか、
それとも普段と変わらないだけなのか判別しづらい無表情を保ちながら、
表示されているクラス名をじっと見上げていた。
一之瀬帆波のクラスでは、神崎隆二が周囲を警戒するように腕を組み、
網倉麻子と白波千尋が小声で何かを話していた。
一之瀬自身はいつも通り柔らかな表情を見せていたものの、
体育館に設置された設備を確認するたびに、
その笑顔が少しずつ薄くなっていることは容易に分かった。
九時ちょうどになると体育館のすべての扉が閉じられ、
壇上には茶柱佐枝、坂上数馬、真嶋智也、星之宮知恵の四人が並んだ。
普段なら星之宮が場の空気を和らげるような一言を挟みそうな場面だったが、
今回は彼女まで黙っていた。
その事実だけで、生徒たちのざわめきは自然に弱まっていった。
真嶋が一歩前へ出ると、手にしていた端末を操作し、
背後の大型スクリーンへ白い文字を表示させた。
そこに映し出された試験名を見た瞬間、体育館内の空気がわずかに変わった。
『連帯責任特別試験』
名前だけを見れば、それほど異常なものには思えなかった。
これまでにもクラス全員の成績が連動する試験や、
一部の生徒の失敗が全体へ影響する試験は存在しているため、
「連帯責任」という言葉そのものに驚く理由はない。
しかし真嶋は、生徒たちが静かになったことを確認してから、重い声で説明を始めた。
「今回の特別試験は、二年生四クラスのみを対象として実施する。
試験開始から終了まで、原則として四クラスは同一の試験規則の下で行動することになるが、
クラス順位を直接競う形式ではないことを最初に伝えておく」
クラス順位を競わないという説明を受け、何人かの生徒が顔を見合わせた。
龍園は椅子へ深く腰を下ろしたまま、壇上へ向けて不敵な笑みを浮かべた。
「だったら何を競わせるつもりだ。
わざわざ俺らを全員集めたんだ、仲良しこよしでもやらせる気じゃねえんだろ?」
龍園の挑発的な問いに対し、真嶋は特に反応を示さなかった。
「その説明を行う前に、本試験における最も重要な前提を伝える。
今回の試験では、開始時点で各クラスから一名ずつ、合計四名の生徒を学校側が選出する」
大型スクリーンに新しい文字が表示された。
『初期指定生徒――四名』
体育館に小さなざわめきが起こる。
須藤が眉をひそめながら堀北へ顔を向け、軽井沢も隣の佐藤との会話を止めた。
真嶋はそのまま続けた。
「選出基準は学力、身体能力、これまでの特別試験への貢献度、生活態度、
校内評価、その他学校側が保有する複数の情報を総合したものであり、
生徒側が指定対象者を変更することはできない」
ここまで聞いた段階で、堀北が小さく息を吐いた。
「随分と曖昧な選出基準ね。学校側の裁量が大きすぎるわ」
坂柳も同じことを考えていたらしく、微笑を浮かべながら壇上を見つめた。
「重要なのは選出基準ではないのでしょうね。
問題は、その四名に何をさせるのかという点です」
真嶋は坂柳の言葉を否定せず、端末を操作した。
四台のモニターが同時に切り替わった。
それまで空欄だった一覧の最上部に、一人ずつ名前が表示される。
堀北クラス。
『池寛治』
龍園クラス。
『伊吹澪』
坂柳クラス。
『橋本正義』
一之瀬クラス。
『白波千尋』
体育館が一気に騒がしくなった。
池は数秒間、自分の名前が表示されていることを理解できなかったように画面を見上げていたが、
やがて周囲の視線が自分へ集まっていることに気づき、勢いよく立ち上がった。
◯
最後まで書かれた完全版の第一話は明日の午前2時20分に投稿します。
よろしくお願いします。