蹄音、高く外伝 北方航路のセイレーン   作:上條つかさ

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撤収

 それから翌日まで、私はほとんど休む暇もなく働いていた。

 いや、私だけではない。柏原という町全体が、昼夜兼行の大騒ぎであった。なにせ、食堂が二十四時間営業になったほどである。保存の効かない食糧の処分を兼ねているのかもしれないが、今朝などはあの丼を二つ抱えて食べている男を見かけてとても驚いた。

 さて、私が最も時間を取られたのが、修理のために運び込んだ資材の点検だ。

 私に先んじて柏原へやってきた輸送機が持ってきた無線機一台分の部品も、結局は私が棚卸をすることになった。

 最初に細萱が見立てた時点では無線機内部の故障を想定していたので、こればかりは仕方がない。

 実際に交換したのは中間増幅モジュールだけで、細かな消耗品を除けばほとんどが手付かずとなった。さらに私が持ち込んだ真空管も、一球を消耗品として交換した以外は、全てが未使用のまま残った。

 これらの資材は、全て柏原へ引き渡すことになる。そのためには、面倒でも数量と型式を改めて確認しなければならない。

 そんなわけで、私は無線室の片隅を借りて、堤と共に棚卸の作業を進めていた。

 木箱を開け、中身を点検し、品目と数量を記し、原本を貼り付け、複写を記録簿にしまう。さらに内容物を半紙に書き、糊を塗って封印する。

 それをひたすら繰り返すだけで、時間はあっという間に過ぎていく。

 択捉からの、昼の定時連絡を知らせるトーンが流れる。

 流し聞きでも、祥栄丸の航海が順調であることがわかった。すでに捨子古丹島に差し掛かっているそうだ。これが到着すれば、すぐに荷下ろしと撤収だ。

 私は伸びをして、祥栄丸の行程表を手に取った。

 柏原での荷下ろしは一両日で完了の見込み。出航後は千島列島の西側を南下し、択捉島は沙那港に寄港。下船者を降ろした後、根室へ帰港する予定だ。

 私は、服部たち択捉飛行場の職員に申し訳なく思っていた。あれほど帰りに寄ってくれと送り出されたのに、足であるチト6977号が壊れてしまったからだ。

 たとえ祥栄丸が択捉に寄港したとしても、飛行機の燃料補給という大義名分がなければ、私には上陸する理由がない。

 白瀬にあの改造された中間増幅モジュールの話をしてやりたかったが、春の点検で何かしらの理由をつけて行くくらいしか手は無さそうだ。

 さらに、根室では柳川を飛ばしてやるために行使した諸々の後処理や、チト6977の事故報告が待っている。

 こういう時に書類仕事だけを代わりにやってくれる部下が居たら、どれほど助かるだろうか。

 ……いや、決して楽をしたいわけではない。何事も効率を求めることは重要である、という話だ。

 だいたい私は係長なのに、下が一人もいないというのはどういうことだ。それこそ、書類整理とタイプライターを任せられる事務員が一人いてくれるだけでも違うというのに。

 航空本局も、人手不足という訳ではないはずなのだが。内地へ戻ったら、誰か一人くらい寄越してもらえないか聞いてみよう。

 反対に、私が現場へ行くのは、それはもう一向に構わない。

 私は、無線機が直せる無線士というだけではない。一応は二級操縦士、つまり空の男の端くれだ。操縦士で無線士で技術者という肩書きを一人で背負っている人間など、日本中を探したってそう多くはないだろう。少しくらい、現場の専門家として扱ってくれても罰は当たらないと思う。

 しかし良かったこともある。

 この柏原を経験した今、私には日本のほとんどの土地が近場だと思えるからだ。それこそ陸続きの本土であれば、近所に回覧板を回しに行くような気持ちで発てる気さえする。

 しかし、そういう仕事の時に限って、書類は倍々に増えていくものだ。祭りが好きな人間は多いが、その後片付けを好き好んでやる人間はそう居ない。

 そんな愚痴を零しながらも、記録をつける手は止まらない。私は木箱を閉じ、高電圧用抵抗器と記した紙を貼り付けた。

 そこへ、堤が別の木箱を運んできた。蓋を開けると、中身は蓄電器だった。

「これで最後です」

「やっと終わりますね」と私は帳簿と鉛筆を構えた。

 堤は、箱に書かれている定数どおりの数が入っていることを確かめて、再び封をした。

「定数よし。封をします」

「これはPCBですから、劇物注意と書いてください」

「わかりました」

 堤は箱を封印する半紙に「低圧進相蓄電器ニツキ交流ニテ用フルコト。PCB劇物注意」と筆書きした。

 私はとても感心した。実に丁寧な仕事だ。このような細かな気配りこそ、事故を無くす第一歩なのである。

 それから糊を塗って、蓋が開かないようにしっかりと貼り付けた。

「終わりました」

「はい。お疲れ様でした」

 私は記録簿を畳んで堤へと渡した。

 部品の移管先は設備部だ。この手の話は私より堤の方が早いということで、記録簿も彼へ預けることになっていた。

「小休止にしましょう。お茶を淹れますね」

「ありがとう存じます」

 堤は無線機に齧り付いている笹木と山内にも茶を淹れてやった。

 私はすっかり、一仕事を終えた満足感に浸っていた。

「根室からは、みなさんそれぞれ里帰りですか」

「はい。私は帯広なので、汽車ですけども」

「他の方はどちらなのですか?」

「ええと。笹木主任が札幌、山内さんが敦賀、江口くんが新田原、井上くんが酒田です」

 私は感心するしかなかった。それは今日まで、管制部の誰からも訛りを聞き取れなかったからだ。もちろん理由はあって、強い訛りは無線学校で徹底して矯正される。やはり柏原のような土地では、その方面にも強い者でなければいけないらしい。

「見事に、北も南もありませんね」

「そうですね。お国自慢ができなけりゃ飯はやらぬぞ柏原。山言え川言え祭り言え──なんて口上があるくらいですから」

「ぶっ、はははは!」

 それを聞いて、私は久しぶりに腹から笑い声をあげた。こんな囃し文句を思いつく男たちの自慢話は、それはヒレだらけのホラまみれだろう。

「いやはや、面白いですね」

 腹を抱えて笑う私を見て、堤も笑顔をこぼした。今日のこの会話も、故郷での土産話の一つにでもなるのなら、嬉しい限りだ。

「ところで、黒崎さんのご実家は?」

「私は栃木です。南の方なので、山には縁がありませんがね」

「それはそれは」堤は大袈裟に驚いて、「こんな地の果てまで、ようこそお越しくださいました」

 おどけた敬礼に小さな笑いが起こった、その時。

『XXX XXX CLG AEGIS』

 耳に飛び込んだトーンに、私は片眉を上げた。気のせいか、私が呼ばれたような気がする。

 私はスピーカーの方を向いた。どこのどいつが何の用だ。私は明日か明後日には根室に向けて発つのだ。これ以上のトラブルはごめんだぞ。

『CLG AEGIS DE SEIREN SVC SVC SVC ETF/S04 XTMR INTER ZNR AGN ETF RPR PLZ K』

 一連のトーンが鳴り終わって、私は大きく瞬きをしてから堤を見た。しかし彼には、速すぎて聞き取れなかったようだ。

 そっと腰を上げて、笹木が向かう机へと歩み寄る。その背中越しに記録紙を覗いた。

『発セイレーン宛イージス。事務連絡。無線機ノ受信不良。帰路択捉島ニテ下船シ修理ニ参ラレタシ』

 うん、間違いなく私宛だ。

「……笹木さん。これ、聞こえなかったことにできませんか」

「まさか」

 笹木は勢いよく振り返り、信じられないものを見るような顔をした。

「そんなことはできませんし、ウチでこの感度なら、絶対に松輪も聞こえてます」

「……ですよね」

 私が返電を打たないことに痺れを切らしたのか、さらに追い討ちが届いた。

『CLG AEGIS NEM HQ APRV CPL. AEGIS LDG ETF AA?』

「だ、そうですが」

「ふーっ……」

 私は天を仰いだ。制度と書類を味方につけて生きてきたつもりだった。だというのに、今度はその制度を味方につけた白瀬に追い詰められている。しかも「着陸」という語を選んでいるあたりが憎い。そう言われたら、降りるしかないではないか。

「はあ。わかりました」

 私は渋々と背筋を伸ばした。もちろん、電鍵には絶対に手を触れないつもりで。

「返電、AEGIS ALD R. ETD UFN ZNN」

 笹木が怪訝そうに顔を上げた。

「本気ですか? ZNN(通信終了)なんて打ったら、蹴飛ばされますよ」

「そこはほら、DE MIMIR(こちらミーミル)でお願いします」

「仕方ありません。私も、命は惜しいので」

 笹木は苦笑すると、迷いなく電鍵に手を置いた。

「DE AEGIS R CUL K」

「あっ!」

 私がその文面に気づいた時には、電波は、遥か択捉へと発射されていた。

 すぐに届いた返電は、『TU MIMIR SK』の一文のみ。

「……さすがに、ばれましたか」

 笹木はぷくぷくと頬を動かし、唇を尖らせた。

 そしてくるりと私の方を向くと、深々と頭を下げた。

「ともかく、ご愁傷様です」

「なんですか。それ」

 私は、すっかりその意味がわからなかった。

「なんですかも何も、どう聞いても逢引きのお誘いじゃないですか。北方航路の全員が聞きましたよ、今の」

「はあ?」

 思わず間の抜けた声が漏れた。私の反応に、三人は揃って怪訝そうな顔をする。

「黒崎さん、本気で言ってます?」

「少なくとも」と、堤が静かに口を開いた。

「あんな調子で打っているのは、私は初めて聞きました」

「いやいや。皆だってコールサインを貰ってるじゃないですか」

「笹木主任のコールサインは、単に文学部卒から思いついたものですよ」と山内が苦笑する。

「黒崎さんの場合はイージスですからねえ。彼女らしい感性ですよ」

 笹木は腕を組み、何度もうんうんと頷いている。どうやら三人の中では、とっくに話が繋がっているらしい。私だけが、置いてきぼりだった。

「それと、ご愁傷様が繋がらないのですが」

 笹木は大きく息を吐いた。それは明らかに、ボンクラに向ける時のため息だった。

「堤君、黒崎技官にご説明して差し上げなさい」

 そう言われて、堤は小さく肩を竦めた。

「つまり、黒崎さんは択捉に腰を据えるかもしれないってことです」

「その通り」と笹木。

「有史以来、ヒトはウマ娘には勝てないというのは常識ですからね」

 山内も困ったように笑って頷く。

「黒崎さん。あんな美人を袖にしたら、石炭と一緒に罐に放り込みますよ」

 堤は冗談めかして笑った。しかし、その目だけは少しも笑っていなかった。

 

 さらに翌日、十月十四日。

 朝の放送で、祥栄丸は午後一番に入港することが知らされた。まずは荷下ろしから始まるので、港湾部は忙しいだろう。

 荷積みを待つ私には、今日はすることが無い。そして結局、無線室に入り浸っていた。

 無線室では、帳簿の最後の整理をしている最中だった。私も山内と机に向かいあって、夏の間に増えた記録簿の整理を手伝うことにした。

 仕事も勢いがついてきた、午前九時半ごろ。

『CQ NOR ATC DE THOR』

 聞きなれたトーンが、耳に飛び込んできた。松輪だ。

『TAIYO MAL ETD 1200. MTA AGA ALL CLR. ATC/NDB CLSD. CU AGN NEM』

「松輪飛行場閉鎖マルキューサンマル。記録よし」

 型通りに復唱する笹木を見て、私は腰を上げた。

「岩原さんからですね」

「はい。ぜひ、黒崎さんから返電してあげてください」

「ありがとう存じます」

 笹木が椅子を開けてくれたので、私は素直に席についた。

『DE AEGIS R. TU THOR SK』

 打ち終えて、記録紙に内容を記す。鉛筆を走らせながら、私は松輪での出来事を振り返っていた。

 次にあの島を訪ねる誰かも、榎島に蒸し饅頭のようにされるのだろうか。そして、岩原の自己紹介に驚くのだろうか。

 そんな想像に頬を緩ませながら、私は再び笹木に椅子を返した。

 その後の無線室は、まさに平穏であった。定時報、気象報、そしてたまに個人電報。私たち無線士が、最も気楽に過ごせるトーンが流れていく。

 そこへ──。

『CQ CUPKA』

 聞きなれない呼び出しが響いて、私は顔を上げた。察してくれたのか、笹木がボリュームを上げた。

『CQ CUPKA SHM1/SHMA/SHME ALL COM CLSD. TU WHITE-STAR AND ZVEZDA. CUNY ZNN ZNN』

 鉛筆を置いた笹木が、すぐに電鍵を打ち始める。

「占守飛行場の閉局電を受領。択捉へ中継します」

 電鍵の軽快な音が響く。

 私は首を傾げた。そして帳簿を畳んでいた山内に「占守島って、まだ人がいたんですか?」と訊いた。

 占守島に飛行場があることは知っていた。けれど柏原に来てから一度も電信を聞いていなかったので、とっくに撤収したものだと思っていた。

「あっちは英語の無電を使うので、管理も独立しているんですよ」

「そうなんですか?」

「それが、結構ややこしくてですね」

 山内は、わざわざ島の地図を出して教えてくれた。

 柏原のある幌筵島と占守島は、幌筵海峡という名の海峡によって隔てられている。隔てられていると言っても、最狭部はわずか一浬しかない。そこを利用して、柏原港と渡し船で結ばれているのだそうだ。

 海峡の占守側は片岡湾という入り込んだ地形になっていて、荷揚げのための小さな港がある。そこから一キロも歩けば占守飛行場があって、その間だけが、人がまとまって暮らす地域らしい。

 そして、私たち柏原の職員が町へ出る時に、拳銃やライフルを携行しなければならない理由も、実は占守飛行場にあった。

 占守飛行場は、アメリカやロシアの飛行機のために建設されたものだ。だから当然、搭乗員も外国人になる。

 彼らが柏原に渡る時は、渡し船に乗る前に武器を預ける決まりになっている。一方、日本人だけは武器を携行できる。つまり柏原の町では、武装しているのは日本人だけという状態が保たれるわけだ。

 さらに、外国の搭乗員用の宿舎は占守島にしかないので、全員が夕方の渡し船で戻っていく。

 輸送船の外国人船員も同様で、日が暮れると全員が船へ戻り、夜は武装した港湾職員だけが岸壁の警備に当たる。

 こうして、夜の柏原には日本人しか残らない。実に合理的な治安維持の方法である。

「メリケンなんて、わざわざアンカレッジから来るんですよ。片道なんと、三千六百キロです」

「それはまた、とんでもない距離ですね」

 三千六百キロといえば、稚内から指宿までを直線で結んで二倍したくらいだろうか。数時間ごとに補給もしなければならないのだから、行程だけでも大冒険に思える。

「あちらさんの飛行機は一回の給油で一千キロ飛べますが、それでも飛行場の関係で五日から一週間の行程になります」

 説明しながら、山内は適当な紙に簡単に北太平洋の地図を書いてくれた。

 なるほど。アリューシャン列島にも、北方航路のような飛行場が整備されているのか。しかも三倍の数があるとくれば、維持する方も大変だろう。

「飛行機で一週間というと長く感じますが、客船だと横浜からシアトルまで二週間はかかります。比べたら、ずっと速いんですよ」

「ほぉ」

 なんともメリケンらしい、力業な解決法だと感心した。もう少し早く気づいていれば、向こうの無線機も見ることができたのだろうか。交信記録簿の写しだけでも見せてもらえたら嬉しいのだが。

「この時期には、アメリカの飛行機はいないんですか?」

 山内はゆっくりと首を振った。

「残念ですが、奴さんは九月には帰ります。冬のアリューシャンは、ひどく荒れますから」

「ということは、占守を開けておくのはロシアのためなんですね」

「はい。航空安全協定があって、カムチャツカのザポロジエ飛行場からの最終便が出るまでは開けておくことになっているんです。占守の周波数はロシアに合わせてありますから、こちらで受信することは基本的にありません」

 私はとても納得した。人口が希薄なこの地域では、無線機という耳が「ある」ことが最も重要なのだ。

 ロシアの無線機がどれほどの代物かは知らない。しかし日本側で問題なく受信できる以上、少なくとも通信規格は十分に整えられているのだろう。

「では、この後で彼らも合流するのですか?」

「いいえ。そのまま渡し船の撤収を手伝ってから乗船します。帰り道なら、話も聞けますよ」

「なら、その時にしましょう」

 私は手帳を出して、占守の無線士、とメモを残した。

 

 その後すぐ、私はチト6977号から降ろしたライフルを背負い、山内と共に兜山航空観測所へと向かった。

 名目は、予備無線機を封印する作業の立ち会いだ。もっとも、私にしてみれば物見遊山みたいなものである。

 だいたいにおいて予備無線機というものは、型の古いものをとりあえず使えるようにしてあるだけだ。そして大抵、無線学校で一年生が夢に出るまで整備の練習をさせられる機種が採用される。つまり、私のような第一線の技師が出向く必要など、微塵もない。

 それでも私は外に出る最後の機会だと思って、山内に同行することにした。

 先日はライフルを担ぐのが嫌で、外出そのものを諦めてしまった。だから今回ばかりは、せっせと負い紐に腕を通した。

 さて、私の背で揺れる九〇式航空小銃は、一般的な三十年式小銃を飛行機に載せるために短くしたもので、いちおうは軽量化されたものだ。とはいえ一貫はあるので、歩いているうちに、私はすっかり汗をかいていた。

 前を行く山内は、ライフルに加えて交換部品の入った背嚢まで背負っているというのに、その足はずんずんと進んでいる。なんともたくましいものだ。

 二キロほど歩いて、私たちは兜山の山頂にたどり着いた。

 観測所というと大層に聞こえるが、その実態は櫓の上に組まれたただの小屋である。ただし基礎はコンクリートで、赤く塗られた鉄の柱は、ワイヤーを張って補強されている。これで冬の風に耐えるのだろう。

 その柱の一つには木製の梯子が造り付けられていて、私たちはえっちらおっちらとそれを登った。

 小屋……もとい観測所の中は、三人が座ればいっぱいになってしまうほどの広さしかなかった。

 机の上には電信用の無線機と磁石式の電話、それと大型の双眼鏡が置かれていた。床には信号銃や非常用のあれこれを納めた木箱。そして吊り棚には、各種帳簿や地図などが整然と並んでいる。そして照明は、裸電球が一個だけだった。

 私が見てきた中でも一番見窄ら──簡素な作りの観測所だ。しかし松輪から飛行機が来る時にしか使われないのだから、この程度の設備で十分なのだろう。

 無線機を点検し始めた山内を横目に、私は双眼鏡で港を眺めてみた。

 祥栄丸は係留を済ませ、すでに荷下ろしを始めていた。前後のマストからクレーンが伸び、木のパレットに乗せられたドラム缶が吊られている様子がよく見える。

 越冬隊の人員はすでに下船したのだろうか。船の周りには、作業員の影しか見えなかった。

「いい眺めでしょう」

 真空管を外しながら、山内がぽつりとつぶやいた。

「標高は百五十メートルしかありませんが、ここからは町も一望できるんですよ」

 私は双眼鏡を町の方に向けた。色とりどりの屋根が並んでいる。しかしもう、町からは石炭を焚く煙も、吹き出す蒸気も見えない。私が無線機を直している間に、すっかり空っぽになってしまったようだ。

「やっぱり、人のいるうちに見ておくべきでしたかね」

「次はぜひ、八月にいらしてください」と、山内が慰めるように言った。

「夏は、柏原が一番賑やかな時期ですから」

 それが叶わない誘いだということは、お互いにわかっていた。次の春にも山内が柏原へ送られる保証は無いし、私がもう一度ここへやってくる可能性こそ、ほぼゼロに等しい。

 特に私は、もともと期限付きで根室へ赴任している。春になれば本省へ戻るか、別の任地へ移ることが最初から決まっていた。

 私は、それを口にはしなかった。無線士とは、数百浬を一秒で繋ぐ技術者だ。無線機さえあれば、またいつでも繋がる。そう思わなければ、この仕事など続けられない。

 私は気を紛らわせるように、滑走路へ双眼鏡を向けた。

 岩を組んで作られたKWAの飛行場標識。重厚な佇まいの管理棟と宿舎、そして格納庫。少し目を上げれば、奥には屹立する千島硫黄岳の威容。

 わずか十日の滞在だというのに、やっと帰れるというのに、目の前の景色は、今のうちにしっかり見ておけと言わんばかりに美しかった。

 ああ、写真機を持ってくればよかったな──不意に感傷的になってしまった私は、双眼鏡を強く目に押し当てた。

 

 無線室に戻ってからも、私はあの景色が忘れられずに上の空だった。

 そこへ放送が流れる。

 荷下ろしは夜間のうちに終了の予定。荷積みは翌朝七時から。出航予定は正午とのことだ。

 本当に、明日には船に乗るのか。あっという間のことすぎて、未だ実感が湧かない。

 そうだ、チト6977号の積み込みには、私も立ち会った方が良いのだろうか。打ち合わせをしていないが、顔を出すことにしよう。

 挨拶回りは船の中でもできるだろうからやめておこう。皆、今夜が一番忙しいだろうから。

 そんなことを考えているうちに、勤務時間の終了を告げるブザーが鳴った。

 私は笹木と連れ立って、山内に後を任せて無線室を出た。

「黒崎さん。これ、よかったら」

 そう言って、笹木はポケットから数枚の写真を取り出した。

 私は一目見ただけで、それが何を写したものかわかった。空から見た、柏原の町や飛行場だ。繁忙期のものなのか、輸送船や漁船で湾が埋めつくされている。

「夏に来た輸送機に頼んで撮ってもらったんです。焼き増しですから、どうぞ」

 私が受け取ると、笹木は少し寂しげに笑った。

「実は私も、春から函館に異動が内定していまして」

「では、柏原には」

「はい。これで最後になります」

「そうですか」

 ここでは、こうやって人の縁が結ばれては解けていくのか。笹木のような優れた無線士なら、どこでも大事にされるだろう。それこそ函館なら、内地に帰る途中で寄ってもいい。ここでの出来事は、良い話の種になるだろう。

「そうすると、後任は」

「来年は山内くんを推薦してあります。次で三回目ですから、やってくれるでしょう」

「私も保証します。彼は良い無線士ですよ」

 その言葉に、笹木の顔がぱっと明るくなった。後進の独り立ちというのは、いつもこそばゆく、そして清々しいものだ。

「黒崎さんにそう言ってもらえると、私も鼻が高いです」

 朗らかな笑みを浮かべる笹木を見て、私も本気で部下が欲しいな、と思った。

 

 風呂を済ませて食堂へ向かうと、柏原最後の夕食はなんとカレーであった。香辛料の香りを嗅ぐと急に腹が減った気がするのは、人体の不思議だといつも思う。もちろん皿はいつもの丼で、当然のように山盛りである。

「さあどんどん食え! 俺のカレーが食えない奴は、冷凍庫に仕舞っちまうぞ!」

 調理場からは、謎の檄が飛んでいる。むしろ冬の柏原では、冷凍庫の方が暖かいのではなかろうか。

 ともあれ、私もカレーには目がない。しかし、肉と野菜がまるで落石のように転がるカレーというのは初めてだ。

 そこで気がついた。

 これは、今日着いたばかりの越冬隊を歓迎するための食事でもあるのだ。

 これから半年の間、彼らは無線機とラジオだけを頼りに、この柏原を維持する。その負担を少しでもやわらげてやろうとしているのだ。そう思うと、私は一層このカレーが美味しいものに思えた。

 私はついに、この十日間で初めておかわりをもらうことを考えた。しかしさすがに丼二杯を食べ切れる気はしないので、後ろ髪を引かれる思いで匙を置いた。

 部屋に戻った私は浴衣に着替え、すぐにラジオの摘みを回した。ちょうど、夕方のニュースをやっているところだ。

 アナウンサーの淡々とした喋り口を背景に、私はのそのそと荷物の整理を始めた。

 ここまで着ていた飛行服や縛帯、航空頭巾や航空眼鏡と言った装備は、チト6977号と一緒に梱包されている。根室に着いたら整備を受けて、また誰かが着るのだろう。

 そして私の荷物は、再び鞄ひとつになった。それも、根室を出た時よりだいぶ薄くなっている。

 根室で持たされた諸々が、結局は役に立った証拠だ。煙草も、もう一箱しか残っていない。

 戻ったら、店の親父に感謝を告げて支払いをしなければ。

 底にあった手拭いを開くと、択捉で貰ったきりになっていた酒の瓶が出てきた。そういえば、すっかり飲むのを忘れていた。

 そこで、私は択捉で降りなければならないことを思い出した。択捉飛行場はまだ運用されているはずで、これをくれた河瀬もまだ島にいる可能性が高い。味の感想を聞かれたらどうしよう。

 私はあまり酒を飲むほうではない。だから、ほんの味見だけを──と、そっと瓶の蓋を回す。それだけで強いアルコールの匂いが吹き出してきたので、私はすぐにきつく締めなおした。

 これは船に乗ってから、いや、聞かれたら適当に旨かったと答えておいて、内地で薄めて飲むことにしよう。

 不意に、ラジオの音が小さくなった。パツンと音がして、マイクが繋がれたようだ。

『管理部からの特別放送です。明朝の予定をお知らせ致します。明日は午前七時より、貨物の積み込みを行います。各省各部担当者は六時半までに港湾部へ集合してください。繰り返します。各省各部担当者は、六時半までに港湾部へ集合してください。続いて、乗船順序をお知らせします。八時より、厚生省関係者および傷病者。九時より、警察庁関係者および設備部。十時より、港湾部および整備部。十一時より、管制部および管理部となります。なお、祥栄丸の出航は正午を予定しておりますので、各員忘れ物等のないよう十分準備の上、乗船してください。以上、管理部からの放送を終わります』

 再びパツンと音がして、ラジオの音が戻ってくる。

 私は残りの荷物を鞄へ押し込み、あとは浴衣を仕舞うだけにした鞄を机の脇へ置いた。

 そして寝台に身を投げ出して、ラジオの音を聞きながら、まっすぐに眠りに落ちた。




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