本作は「蹄音、高く」と同一世界で展開される外伝作品です。

ウマ娘に詳しくなくてもお読みいただけますが、作中に登場する制度・歴史・社会背景については「蹄音、高く」本編および設定資料をご参照いただくと、より深くお楽しみいただけます。

(本編未読の方は、『外交問題はウマ娘のレースで決着をつけるため、人類が戦争をやめた世界』とだけ覚えていただければ十分です。)



昭和十八年、初秋。

日本最北の飛行場から届いた一通の修理依頼が、一人の無線技師を北へと導いた。

吹雪、濃霧、そして一千キロの海原。
人の営みを繋ぐ空の道で、彼が出会う「セイレーン」とは。

北の空を支える人々を描く、浪漫と矜持の物語。


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最後の北行便

「柏原、ですか」

 その名を聞いた途端、私は絶対に面倒なことに巻き込まれると悟った。

「うむ」

 机に座る男が、重々しく首肯した。

 男の名は細萱孝四郎。この根室飛行場を預かる、運輸省の役人だ。

 そしてまこと残念なことに、私は運輸省の無線技師であった。大臣印の入った辞令がある限り、私は日本中のどこへでも駆け付けねばならない。

「無線機が故障してお手上げだそうだ。すぐに飛んでほしい」

「確かに、資格は持っていますが……」

「無線は君の十八番だろう。真空管を積んだ汽車だが、今夜には到着する予定だ」

 細萱は、鉛筆で真っ黒になった九九式一型地上無線機の修理手引書を机に放った。それを見た私は、諦めとともに口を開いた。

「それで、いつの便です?」

「部品を乗せた今季最後の北行連絡機は、昨日出航した」

 私は一瞬、言葉の意味がつかめなかった。

 定期便が無い? ということは、船か──別の飛行機だ。身構えた私は、越冬隊と共に輸送船に乗るという可能性にしがみついた。

「──よって、特別航空便を仕立てる」

 そして希望は見事に打ち砕かれ、私は黙って天井を見上げた。

「なお燃料節約のため、君には道中の無線士も担当してもらう」

「はあ」

 逃げ出す隙のない、完璧な根回しだ。私は昔、船上から見たシャチの狩りを思い出していた。

「それで、パイロットは」

「菊岡をつける。北回りを七年やっている男だ」

「菊岡……」

 私は唇を舐め、菊岡という男のことを思い出そうとした。パイロットはあだ名で呼ばれることも多いので、名前を知らないことも珍しくない。

「パイロット連中は、彼のことをシャチと呼んでいるらしいな」

 シャチ! 

 その言葉に、背筋が粟立った。パイロットがシャチとは。これでは私の方が、流氷の上で呑気に寝ていたあのアザラシではないか。

 まな板の上の鯉よりはマシかもしれないが、絶望の度合いでいえば五十歩百歩だ。

 私は、藁にも縋る思いで口を開いた。

「他に飛べる方は、どなたか」

「もう皆、冬の休暇だ」

 私の最後の希望を容赦なく踏み潰した細萱は煙草を咥え、マッチを擦った。

「そんな中で、菊岡くんは二つ返事で引き受けてくれた。いやあ、本当に助かった」

 紫煙を吐いた細萱は愉快そうに笑った。この男にとって、私の感情など真空管よりずっと優先順位が低いらしい。

「期限はおよそ二週間。海事保安庁の飛行艇が出る前日までに柏原を発て。間に合わない時は」

「間に合わない、時は?」

 私は黙って居住まいを正した。四半世紀と三年生きてきて、最も聞きたくない言葉が耳に飛び込んでくると覚悟した。

「越冬隊と共に、四月まで滞在してもらう。飛行機を置いてくる訳にもいかんからな」

 私は黙って細萱を見返した。四月。つまり流氷が去るまで、あの島に閉じ込められるということだ。

「無論そのような事態に備えて、越冬隊を運ぶ輸送船には、君の分の物資が積載される」

 細萱は三つ折りにされた一枚の紙を滑らせた。

「目録だ。もちろん、何事もなければ君は根室に帰り着き、越冬隊は少し豪華な飯にありつけるだろう」

 私はその紙に目を走らせた。米、味噌、冷凍野菜。酒に毛布、マッチ、煙草。

 煙草? 私は顔を上げた。

「私、煙草はやらないのですが」

「行けばわかる」細萱は静かに首を振った。

「そういうものがないと、あそこは広すぎる」

 そこまで言って、細萱は黙った。揺蕩う煙が、窓から差し込む光に揺れている。

 町が生きているのは、流氷が去る四月から、九月までのほんの短い間だけ。冬の間そこに居残るのは、わずかな技術要員だけだという。

 私は技師として、いろいろな処へ行った。郊外の送信所、山中の山小屋、瀬戸内の島々。

 そしてついに、この度私は、柏原の土を踏むこととなったらしい。いや、この場合は雪か。

「ああ、そうだ」

 細萱は思い出したように短くなった煙草を灰皿に置き、机の上の雑多な書類から一枚の茶封筒を抜き出した。

「これが辞令書だ。頼んだぞ」

 私はその薄い封筒に手を伸ばしながら「全力を尽くします」と中身のない答えをした。

 ともかくも、遠隔地における無線電信の故障は重大事だ。そう自分を納得させながら、私は細萱の部屋を後にした。

 廊下に出ると、床に光が落ちていた。窓の外では、わずかな青空が遊んでいる。この時期の根室にしては珍しく晴れた空が、私にはなんとも厭わしかった。

 

 *

 

 さて、汽車が着くまではまだ時間がある。

 事務所を出た私は、早速シャチこと菊岡操縦士と打ち合わせをするべく、最も人が集まる場所──食堂へと足を向けた。

「ごめんください」

 簡素な引き戸を開けると、チリチリと鈴が鳴った。食堂はがらんとして、テーブルに客は一人もいない。

 そこへ、厨房から馴染みのおかみが顔を出した。

「あら黒崎さん。えっやだ、もうお昼?」

 いつもなら昼のサイレンきっかりに現れるはずの私の顔を見て、慌てて壁の時計に目を向けた。

「いやぁ違います。まだ十時過ぎですよ」

 時計を一秒だけ見上げてから、おかみはやっと頬を赤らめた。

「やだもう、早とちりしちゃった。それでお急ぎなの? 丼ものなら、すぐ出ますけど」

「実は人を探していまして。菊岡さんってパイロット、いませんか?」

「菊岡、菊岡……」おかみはくるくると目を回して、「ああ、菊さんのことかい。あの格納庫に居るよ」

 おかみは窓の向こう、滑走路に沿って立ち並ぶ無骨な建物を指差した。

「菊さん探してるなら丁度よかった。頼まれてた弁当の稲荷を包むから、持っていっちゃもらえんかね」

 しめた。私は心の中で膝を打った。

 弁当を口実にすれば、さすがに追い返されるようなことはない。……はずだ。

「いいですよ。それから」

 返事をした私は、急いでポケットをまさぐって、何枚かの小銭を出した。

「これで、同じものをもう一つお願いします」

「あいよ。特大稲荷四つね」

 おかみは金を受け取ると、さっと厨房へと消えた。

 弁当を待つ間、私はラジオに耳を傾けつつ、ある種の勝ちを確信していた。細萱の話が正しければ、菊岡操縦士は今回の辞令を先に受け取っている。その中で私の話を聞いているだろうし、飯を持ってきた人間を邪険にするとも思えない。

 同情はしなくとも、話くらいは聞いてくれるはずだ。たぶん。だといいな。

 

 *

 

 弁当を抱えて食堂を出た私は、格納庫の立ち並ぶ小道を歩いていた。ほとんどの扉は厳重に封がされて、冬季封印の赤い札が揺れている。その中で一つ、大きく開け放たれた格納庫を見つけた。

 中を覗こうと頭を出した、その時。

「ばかやろーっ!」

 国後まで聞こえそうな大音声に、私は咄嗟に頭を引っ込めた。そしてつい一瞬前まで私の頭であったところを、潰れたオイル缶が唸りをあげて飛んでいった。

「小松、俺を殺す気か!」

 恐る恐るもう一度顔を出すと、外装が外された複葉機が目に入った。どうやら、エンジンの整備をしている最中のようだ。怒鳴り散らかしている飛行服の男が、おそらく菊岡だろう。

「キャブレターの設定、ちゃんとやれって言ったよなぁ!」

「これは、倉庫から持ってきた新品です。壊れているわけがありませんよ」

 小松と呼ばれた整備員が、まだピカピカの部品を掲げてみせる。

「お前、俺の記録簿をちゃんと読んだのか? 発動機に合わせた調整をしなけりゃ、回るわけないだろうが! それともお前は、俺のホトケが見たいのか!」

 詰め寄られて、小松と呼ばれた整備員はぶんぶんと首を振った。

「ならさっさと工場へ持っていけ! 時間が無えんだ!」

 どすどすという足音がこちらに向かってくる。声をかける機会を逃した私は咄嗟に隠れようとして、その必要などないことに気がついた。

 影が私の視界を遮る。

「おや失敬」

 菊岡は私を通りがかりの職員だと思ったのか、先ほどの怒号が嘘のように会釈した。

「あの、菊岡操縦士ですか」

「そうですが。あなたは?」

「これは、失礼いたしました」

 さっきの剣幕と同じ人物とは思えない切替ぶりに困惑しつつ、私は居住まいを正して敬礼した。

「私、無線技師の黒崎と申します」

「やあ、あなたが」

 まさか私が訪ねて来るとは思っていなかったのか、菊岡は慌てて飛行帽を脱いで答礼を返した。

 浅黒い肌に、四角く彫の深い顔。歳の頃は三十過ぎだろうか。太い眉に縁取られた瞳に、空の男特有の鋭い光が宿っている。

「操縦士の菊岡巌と申します。細萱所長から、話は聞いていますよ」

 なんだ、ちゃんと話せる人じゃないか。私はやっと肩の力を抜いた。

「そうだ、これ」

 私は抱えていた稲荷弁当を揺らしてみせた。

「弁当です。少し早いですが、打ち合わせも兼ねて一緒にどうですか」

「おお、助かります」

 菊岡はようやく破顔した。私は目論見が当たった安心感から、半べそで工場へ走っているであろう小松整備員を抱きしめてあげたくなった。

「さあ中へどうぞ。あいにく、白湯しかありませんが」

「お気遣いありがとうございます。では失礼」

 私は機体の横を通り抜け、奥の詰所へと入った。

 室内には椅子が数脚と手作りらしいソファ、それに二段ベッドが一つ。隅には小さなダルマストーブが置かれているが、まだ火は入っていない。代わりに、横へ高く積まれた石炭が、この格納庫が冬の間も止まらない場所であることを物語っていた。

「さあ、そこの椅子に」

「失礼します」

 私が弁当を出す間に菊岡は二つの湯呑みを出し、魔法瓶から白湯を注いだ。

「午後にでも行こうと思っていたのに、わざわざありがとうございます」

 菊岡は軽く頭を下げ、片方の弁当に手を伸ばした。

「いえいえ。私の方こそ、忙しいところに押しかけてしまって」

「なに、気にせんでください」

 菊岡は竹の皮を剥き、拳ほどもある稲荷寿司をがぶりと頬張った。

「私は、エンジンを自分の目で見ないと気が済まない性質でして。その分、黒崎さんは後席の業務に集中してください」

「承知しました」

 私も稲荷を一つ掴んでかぶりついた。緊張のせいか、あまり味がわからない。そうしてまごまごしているうちに、菊岡は二つ目を手に取っていた。

「ええと。確認ですが、搭載の無線機は九七式ですよね?」

 私の質問に、菊岡は乾いた笑いを返した。

「はは。我々に零式は来ませんよ。なんせ、落ちたら春まで拾いにいけませんからな」

 それから豪快に湯呑みを呷り、ふうと息をついた。

「冗談はともかく、柏原は雪に備える頃合いです。行きはとにかく急ぎましょう」

 私は軽く唇を舐めてから、意を決して切り出した。

「恥ずかしながら、私は択捉までしか飛んだことがありません。こうしてお伺いしたのも、航路の確認を、と思った次第でして」

「そうですか。いやあ、それは助かります」

 意外なことに、菊岡は朗らかな笑みを浮かべた。石炭の礫が飛んでくる程度は覚悟していたのだが、肩透かしだ。

「択捉まではご存じということであれば、難しいことはありません。これを」

 菊岡は使い古した航空地図を開いた。覗き込むと、そこかしこに書き込みがされている。地点毎の機体の方位、風の向き、突風の方角、漁船団の位置。しかも日付が添えられているうえに、どうやら毎年、概ね同じ場所で遭遇しているようだ。

 菊岡は鉛筆を出すと、地図の上をトントンと突いた。

「択捉からは、ほとんど真っ直ぐです。特に、今回は満タンで出航しますから、東雲原(しののめはら)に降りず、一気に松輪まで飛びます」

「東雲原に、降りないのですか?」

 私は、地図の距離目盛りを確かめた。

 東雲原は、陸上機の燃料補給拠点として、とても有名な飛行場だ。得撫(ウルップ)島の北端にあり、択捉からは二七〇キロ、次の経由地である松輪からは二九〇キロと、ほぼ中間点にある。

 そして私の知っている他のパイロットは、飛び石では時間がかかるとわかっていても、東雲原に降りないことはないと言っていた。

 不安の色を隠せない私の問いに、菊岡は渋い顔で答えた。

「あそこも、もう撤収の準備に入っているはずです。彼らの手を煩わせるわけにもいきませんし、南行の機体のためにも燃料を残してやらんといけません」

 私は目を見開いた。そこまで考えているとは思わなかった。

 だが同時に、この男は他人の都合を優先するあまり、自分の危険を軽く見積もる癖があるのではないかとも思えた。

「それに、飛びっぱなしのほうが燃費も良くなります。無理に降ろさんで、松輪で補給しましょう」

「しかし、択捉から松輪までは五百キロ以上あります。一息に行けますか?」

「荷物の目録は、すでに読ませていただきました。黒崎さんの鞄を積んでも、十分に飛ばしてみせますよ」

 

 *

 

 それから細かな確認を終えて、私は格納庫を出た。

 昼のサイレンが鳴っているが、人影はまばらだ。そして、ほとんどが食堂に吸い込まれていく。

 私はその流れに乗って、食堂の並びにある商店へと向かった。

 店先では、ちょうど店主が軒下を掃いているところだった。

「ごめんください」

「おやあ黒崎さん。昼に来るのは珍しいね」

 店主は竹箒を立てかけると、汗をかいたタコのような頭に手拭いをかけた。

「実は、急用で柏原に行くことになりまして」

「柏原って、これからかい? そりゃあ大変だ」

 店主は、目を丸くして店内を見渡した。

「ちょ、ちょっと待ってな」

 店主は雑貨の山に飛び込むと、両手一杯に商品を抱えて戻ってきた。

「石鹸と、歯ブラシと、風邪薬。これは葛根の粉。あと手拭い。籠がいるな。この自転車持ってけや」

 店主はそう言って、停めてあった自転車の前籠へ次々と商品を放り込んでいく。あまりの勢いに、私はすっかり戸惑っていた。

 店主は不意に振り返って、「それと黒崎さん、あんた煙草は何をやるんだっけか」

「いや、私は煙草はやらないんで……」

「ああ! そうだった」

 店主はおでこをぺちんと叩くと、木の箱に手を突っ込んだ。

「ほんならチェリーでいいべ。ひのふのみ、ほい十箱。しっかりやってきな!」

 背中をぽんと叩かれて、私は一層困惑した。まだ代金を払っていないし、私はこの店でツケをしたことなど、一度もないのだ。

「えっ。あの、お代は」

「そんなもん、帰ってきてからで良いに決まってるべ」店主はかっかと笑った。

「だから、ちゃんと帰ってきて払っとくれよ」

 手を振る店主に見送られ、私は礼を言って自転車を押し出した。籠には、頼んでもいない荷物が山のように積まれていた。

 

 *

 

 翌朝、午前三時三十分。

 私が鞄を手に格納庫に着いた時、庫内はもう明るくなっていた。少し開けられた大扉の隙間から、淡いオレンジ色の光が伸びている。菊岡たちは、すでに作業を始めているようだ。

「おはようございます」

 寝ぼけた声を張り上げると、ツナギ姿の菊岡がやってきた。

「おはようございます。早いですね」

「エンジンのお話を聞いて、私も見ておこうと思いまして」

 それを聞いた菊岡は、にっこりと笑顔を浮かべた。

「それはそれは。さあどうぞ」

 促されて足を踏み入れた途端、私は目を細めた。煌々と灯る白熱電球が、庫内をすっかり明るくしている。

 中央に鎮座するのは九五式陸上連絡機「駃風(かいふう)」。四角い胴体と十五米もある大きな翼が特徴の、北海道ではよく見かける機体だ。

 私の乗る後席の後ろにあるハッチは開けられて、荷物が詰め込まれている最中だった。

 私は、久しぶりの搭乗に昂りを抑えられずにいた。昨日はあれほど気乗りしなかったというのに、いざ機体を前にすれば、あの頃の血が騒ぐような気がする。

 垂直尾翼には、シャチの横顔が描かれていた。これが彼の標章なのだろう。色味が明るいので昨夜描いたのだろうか、なかなかの出来だ。

「駃風も、近くで見ると大きいでしょう」

「ええ。なんだか、飛行学校の格納庫を思い出します」

パイン缶(九二式練習機)よりずっと飛べますよ。これは」

「頼もしい限りです」

「ではこちらへ」

 促されて隅の机に向かうと、そこには諸々の記録簿が積まれていた。全て、この機体のもののようだ。

「機体番号はチト(北海道管区所属)6977号。発動機は出力を増強した富士ハ-28を積んでいます。今回は、こいつで行きます」

「今回?」

 私は内地では見ないほど分厚くなった機体来歴簿を開いた。

 ──この機体が製造されたのは昭和十二年。主に根室ー札幌便に供され、昨年末に予備機へ配置変更。

 最後の任務は今年五月の末。鍋島という飛行士の操縦で、音威子府までの臨時便に使用されたと書かれている。直近のエンジン交換は七月で、試験飛行をしたのは新見という操縦士らしい。

 随所には、夥しい修理の記録も書き込まれている。主翼の交換、機胴の外装修繕、胴体後部の継手破損修理……もはや読み進める気にもなれない。

 そこで私は気がついた。

 もしかしてこの機体には、製造当初の部品など、何一つ残っていないのではないだろうか。

 よく見れば、表紙も手垢やオイルで真っ黒だ。現役時代は相当働かされた機体なのだろう。臨時便に出されるということは整備に問題はないのだろうが、少々不安になる。

「では、普段の乗機はどちらに?」

 菊岡のお手ウマがあればすぐに乗り換えようと言うつもりで、私は訊いた。

「残念ながら塩にやられて、この冬一杯は整備工場です」

 私の期待を吹き飛ばしながらも、菊岡は心底悔しがっているように見えた。彼のような性質の人間にしてみれば、こんな大役は愛機で飛びたいのだろう。

「とはいえ同じ機種ですから、心配はいりませんよ」

「それを聞いて安心しました」

 いよいよ万策尽きた私は、すっぱりと諦めることにした。帰ってくるまで、この男と仲良くする以外に選択肢など無いのだ。

「よおし小松! そろそろオイル温めろ!」

 菊岡が声を上げると、格納庫のどこかから「へえい!」と返事が聞こえた。

「では、私は燃料を入れてきますので」

 そう言い残して、菊岡は機体へと駆けていった。

 入れ替わりにやってきた整備員に鞄を預け、私は椅子にかけた。

 にわかに騒がしくなった整備員たちを横目に、私は交信記録簿を手に取った。最後のページを開くと、もう書くところがない。私は糊を探して、後ろに新しいページを付け足した。そしてペンを手に、私がこの機体に乗り込んだ記録を記していく。記入日、昭和十八年九月二七日。記録者、黒崎義雄。認識番号、201-7301。

 ゴロゴロとドラム缶が転がる音が響き、工具がガチャガチャと鳴り響く。湯に浸けられたオイル缶たちが軋む音までもが混ざり合う中で、私は記録簿にペンを走らせている。

 訓練生時代の記憶が蘇ってきて、私はまだ空を諦めきれていないのかと、一人で唇を噛んだ。

 

 *

 

 朝食を済ませて飛行服に着替えた私は、チト6977号の後席に身体を押し込んだ。前席では、すでに菊岡が飛行前の点検を行なっている。

 パイロットと違って、後席は機種転換訓練をほとんど必要としない。九七式航空無線機は全国で広く使われていて、細かな違いはあれど基本的に同じものだからだ。機体によって異なるのは、回光通信機や信号弾のラックといった補助装備の類だけ。それらの位置さえ覚えてしまえば、大抵の機体には乗ることができる。

 私は制御盤を見渡して、全てのダイヤルを絞った。それから、いくつも取り付けられたメーターが、全てゼロであることを確かめる。

 予備回路と書かれた大きなスイッチを上げると、一際大きなメーターがゆっくりと首を持ち上げた。

 蓄電池電圧、よし。

 指差しで確認をした私は、続けて座席左下の赤い梃子を押し込んだ。ブーンと鈍い音がして、主電源のランプが灯る。

 無電出力ダイヤル、最低よし。

 電信出力ダイヤル、最低よし。

 主電源、接続。

 無線機、電源投入。

 スイッチを上げると、ガチガチとリレーが鳴る。制御盤の向こうにある真空管が、ぼんやりと赤く光り始めた。

 電圧計、異常なし。

 続いて補助系。

 機内電話、電源投入。

 回光信号機、電源投入。

 帰投方位指示器、電源投入。

 前席電源系統、回路切替よし。

 温度が閾値を超えて、冷却ファンが回り始めた音がする。

 冷却系の動作を確認した私は、ヘッドホンを内蔵した防寒頭巾を被り、マイクが一体になった防寒面を手に取った。

「機内電話、電源投入しました。試験宜候。本日は晴天なり、本日は晴天なり、本日は晴天なり」

「前席より試験宜候。本日は晴天なり」

 菊岡が答えると、私は音量のボリュームを少しだけ絞った。

 そして無電の周波数を試験波に合わせ、出力ダイヤルを上げた。

「こちらチト6977。ただいま無電の試験中。ただいま無電の試験中。根室管制応答願います」

『根室管制よりチト6977。受信良好。第一通常波に切り替えて待機してください』

「チト6977より根室管制。第一通常波に切り替える」

 私は出力ダイヤルを絞り、周波数を根室管制に合わせた。

 続いて電信。出力を上げてから電鍵の通電スイッチを上げて、ハンドルを握る。

VVV C6977 VVV C6977(チト6977は試験電波を発信中)

 試験信号を発信すると、すぐに管制の無線士が返事を寄越した。

『VVV NEM』

 私は交信記録簿を出し、「0430無線試験に異常なし」と記録した。

 最後に、足元の備品を確認する。信号弾、定数よし。非常信号銃、封印よし。ライフル、封印よし。

 そこまで確かめて、私は厳重に封をされたライフルを見つめた。こんなものがあったところで、この先には獲物も害獣もいないだろう。

 軽く頭を振って、マイクに呼びかける。

「後席、出航準備完了」

 見計らったように菊岡が声を上げた。

「小松! 発動機始動準備!」

「へえい!」

 その声に合わせて、数人の作業員が機体に取り付いた。エンジンにクランクが差し込まれ、慣性始動機が回り始めた。

 最初は低い音から、徐々に高い音へ。う〜んと唸る音が目一杯に高くなったところで、整備員がさっと離れた。

「コンターク!」

 その掛け声と共に、エンジンがバリバリと回り出す。生ガスの臭いと共に、ぶわっと風が巻き上がる。

 その頃私は、入力電圧のメーターを注視していた。発動発電機に異常があれば、蓄電池が壊れてしまうからだ。

 滑走路の照明に火が入って、飛行場が目覚めようとしている。私は無電の出力を上げながら、程よい緊張を感じていた。

 

 *

 

 午前四時五五分。

 カチリ——指先に軽い抵抗を感じながら、私はスイッチを押し込んだ。無線機の送信灯がわずかに灯り、ヘッドホン越しに微かなホワイトノイズが耳に滲んだ。

「チト6977より根室管制。搭乗員準備完了。操縦士、菊岡巌。無線士、黒崎義雄。ただいま十二番格納庫にて暖機中。行程表合わせ願います」

 スイッチを離すと、すぐにザリッというノイズが耳を打った。

『根室管制よりチト6977。行程表合わせ、どうぞ』

 管制官の声は淡々としていた。それはどこまでも型通りで、儀礼的で、そして何度も危機を未然に防いできた。

「チト6977より根室管制。目的地は松輪飛行場。途中、択捉飛行場にて補給の予定」

『根室管制よりチト6977。行程表合わせよろし。滑走路への移動を許可します』

 私は記録簿を出して「根室出航0455」と書き込んだ。

「菊岡さん。滑走路まで許可が出ました」

「宜候。では、行きますか」

 菊岡の合図で輪止めが外される。ゆっくりとスロットルが開いて、機体は格納庫から滑り出た。

 翼がミシミシと音を立ててしなっている。補助翼がワイヤーに引っ張られて、羽布特有のバサバサという音を立てた。タイヤが路面をとらえる振動が、じりじりと尻に響いてくる。

 それでも、菊岡の操縦はとても丁寧だ。ゆっくりと誘導路を滑走して、滑走路の南端に辿り着いた。

 私は滑走路を確認するために腰を上げた。まだ薄暗い滑走路には、ところどころにオレンジ色の照明が焚かれている。それでも、この明るさなら離陸に支障はなさそうだ。

 私はすぐに席について、送信スイッチを押した。

「チト6977より根室管制。出航許可願います」

『根室管制よりチト6977。出航を許可します。ご安航を』

 私は帰投方位指示器のダイヤルを回し、択捉の電波標識をとらえるように設定した。受信機の針が跳ねて、空の一点を指す。

「後席よし」

「前席よし。行きます」

 低く唸るエンジンの音に合わせて、機体が進み出す。悲鳴を上げてしまったら格好がつかないので、私は咄嗟に機内電話のマイクを切った。

 身体が座席に押し付けられる感覚がして、鼓動が聞こえるほどの緊張に身を強張らせる。

 排気炎が路面を照らしている。等間隔に引かれた白線が、気持ちよく後ろに流れていく。あの頃の感覚が蘇って、呼吸が荒くなる。

 機体はぐんぐんと速度を上げて、ついに九十節を超えた。

 ダンパーが沈み込み、機体の軋みが一層大きく聞こえる。胃の中がひっくり返りそうだ。

 それでもまだ、菊岡は操縦桿を引かない。満タンの燃料が重いのか、それとも荷物か、いや、私が重いのか。なんでもいいから、早く飛んでくれ! 

 私の願いが通じたのか、チト6977号は地面を蹴り上げた。

 ざあっという音が流れて、振動が消えた。

 浮遊感に一息入れる間も無く、私は手順通りに振り返って尾翼を確認した。水平・垂直尾翼ともに異常なし。航空灯、点灯よし。管制所からも異常を知らせる信号はない。

「こ、後部よし」

 私はなんとか繕って平静を装った。反対に、菊岡は流石の技量を発揮して、一定の角度で上昇を続けている。高度はもう、千二百英尺(400メートル)といったところだろうか。

「宜候。着陸灯、滅」

 機体は高度を上げながら海岸線を超えた。右手には、ノッカマップ崎の航空灯台が見える。正面に見える大きな影が国後島だ。私は防寒面の隙間に指を入れて、どんよりとした空の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「どうですか黒崎さん、久しぶりの空は!」

 菊岡の楽しげな声が耳を打つ。どうやら私が、朝食の握り飯と再会しかけていたことには気づいていないらしい。

 私は空元気でも「いいですね! 晴れていたら、もっとよかったんですが!」と答えた。

「北方航路でそれは諦めてください! では、択捉に向けますよ!」

 言うが早いか、機体が一気に右へ倒れた。張線が風にビリビリと音を立てて、耳の奥が悲鳴を上げる。

「進路マルヨンゴ、択捉航空標識、受信宜候!」

 菊岡の張り切った声に、私はなんとか「受信宜候」と捻り出した。

 こうして私は、柏原へ向けて飛び立った。直線距離にして、およそ千二百キロの旅程だ。

 あと一月もしないうちに、この航路は閉ざされる。それまでに、もう一度この景色を見られるだろうか。

 私は無意識に、防寒面の奥で息を吐いた。




次回、択捉島

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