午前七時三十分。
岸壁に横付けされた祥栄丸は、近くで見ると想像以上に大きかった。全長はざっと百メートルくらいだろうか。黒い船腹の中央には、大きな日の丸が描かれている。白く塗られた船橋は見上げるほど高く、三階建ての建物にも届きそうな高さだった。甲板では荷役員たちが絶えず行き交い、前後のデリックが休みなく唸りを上げて、船倉へ次々と荷を送り込んでいた。
高速な飛行機ならかかっても二日の距離を、この船は三日以上かけて進む。北方航路を支えているのは、こうした船なのだ。
再利用のために持ち帰るくず鉄やくず銅は、次々と船倉へ吸い込まれていく。しかし、全長十メートルのチト6977号だけはそうはいかなかった。よって船倉を閉めた後、最後に甲板に乗せることになっている。
「オーライ、オーライ」
トラクターに牽かれて、すっかり梱包されたチト6977号がやってきた。手際良くワイヤーを掛けられて、最後に荷揺れ止めの長いロープが甲板から渡された。
一人の作業員が走ってきて、きびきびとした敬礼を見せた。
「準備ができました」
「はい。よろしくお願いします」
私の答礼を確かめて、彼はすぐに振り返った。振り上げた赤い旗が、パタパタと風に鳴る。
「上げまーす。宜候ー」
合図に合わせて、モートルの唸る音が岸壁に響く。じわじわとワイヤーが張って、梱包された機体がゆっくりと吊り上げられた。
幌から飛び出した垂直尾翼に、菊岡の標章である鯱の絵が朝日に照らされていた。海が荒れなければ海水をかぶることはないだろうが、剥き出しのままというのは気になった。どうせ翼は全て作り直すのだから、いっそ垂直尾翼も切って貰えばよかったのだ。そうすれば、菊岡には綺麗なままの標章を土産にしてやれたのに。
今更言っても仕方がない。私は船の荷役に、できる限りあの鯱を傷つけずに運んでもらうよう、頼もうと決めた。
積み込みを見届けた私は、飛行場へ戻る自動車に相乗りして、無線室へと向かった。他の部署は班長がいれば作業と並行して引き継ぎができる。しかし管制部は無線機を止めるわけにはいかないので、笹木以下全員の集合が予定されていた。
管理棟まで上がってくると、玄関に掲げられた時計は八時を指していた。振り返ると、長いタラップを登っていく人影が見える。罐にはすでに火が入っているようで、煙突からは黒い煙がたなびいていた。
そういえば、菊岡はあれでも傷病者なので、一番に乗船するはずだ。忙しさにかまけて訪ねるのを忘れていたが、顔を見せるのは出航してからでも構わないだろう。中垣がついていれば、麦酒を飲んでいても乗り遅れることはない。そう信じたい。少なくとも私は。
八時七分、無線室。
「お待たせしました」
私が部屋に着いた時には、全員と小林が待っていた。
「おや、黒崎さん」と小林は驚いた顔を見せた。
「てっきり、もう乗船されたかと思っていました」
「あれ。全員と聞いていましたが」
私は首を傾げた。全員集合するようにと伝えてきたのは管理部な上に、無線士である私が無線室にいるのは、何もおかしいことではない。
「まあまあ、良いじゃないですか」と笹木。
「そうですよ」と山内が続く。「黒崎さんが居なければ無線機は壊れたままで、引き継ぎもできなかったのですから」
そこで私は気づいた。すっかり忘れていたが、私はこの管制部の正規の人員ではない。作業着からして、私だけ灰色の本省のものだ。何を思って内輪の解散式にのこのことやってきてしまったのか。ああ恥ずかしい。
「皆がそう言うなら、まあ良いでしょう」
私の赤っ恥をよそに、小林は破顔して深く頷いた。
「さあ、こちらへどうぞ」
促されて、私は赤くなった頬を隠すように笹木の隣に収まった。
「さて、管制部の諸君。今期も半年間ご苦労様でした。無事に撤収を迎えられることを、私も嬉しく思います」
小林は笑みを浮かべ、私たち一人一人の顔をしっかりと見た。
「この後は予定通り引き継ぎを行い、択捉へ撤収電を打ってください。その後は各自乗船するように。以後の引率は、笹木くんに一任します」
「はっ」
そこへノックの音がして、ドアが開いた。
入ってきたのは、まさに二枚目と呼ぶに相応しい、目鼻立ちの整った男だった。スーツでも着せて銀座に放っておけば、ご婦人方が放っておかないような、そういう系統の男だ。
彼は私たちに向けて、肘を張った敬礼を見せた。
「申告します。川上登志男一級地上無線士、ただいま到着いたしました」
私たちも答礼を返す。飛行学校上がりの無線士なら、脇を締める敬礼をするところだ。彼の所作からして、無線学校上がりだろう。
「川上くん、久しぶりですね」
「小林さん。お元気そうで何よりです」
二人は歩み寄り、和かに握手を交わした。どうやら長い付き合いらしい。
「紹介しよう。川上くんは、高等中学の後輩にあたる男だ。無線の腕も私が保証しよう。皆、引き継ぎをよろしく頼む」
「改めまして川上です。皆様、どうぞお見知り置きを」
再びの敬礼に、私たちは踵をそろえて答礼を返した。ふと顔を向けた時、川上と目が合った。
「失礼ですが、本省の黒崎技官……イージスさん、ですか?」
「はい。そうですよ」
私があっさりと答えると、川上は目を輝かせた。
「空でお噂を伺いました。お会いできて光栄です」
そう言って、川上は右手を差し出した。私は胸を張るか謙遜するかを迷い、結局は「こちらこそ。ようこそ柏原へ」と意味のわからないことを言ってしまった。だから、私は員数外だと言ったではないか。
「でしたら、撤収は黒崎さんに打ってもらいましょうか」と笹木が提案した。
「それはいい!」と、川上が声を上げた。「ぜひ、聞かせてください!」
笹木さんも、また余計なことをする。もう松輪と東雲原は撤収しているのだから、電信を打てば、拾うのは択捉と根室だけではないか。私は、気づかれない程度に顔を顰めた。
しかしまあ、随分と懐っこい男だ。とはいえ、暑苦しくはないので好感が持てる。どこかの飲んだくれパイロットとは正反対だ。
ところで、択捉への電信を私が打つこと自体には何も問題はないはずだ。私は一応目配せをして、打って良いかを訪ねた。
そして小林は何か言うでもなくただ頷いた。宜しいと判断した私は、無線機の前に腰を下ろした。
記録紙を出して、送信する符号を組み立てる。続いて電鍵の電源を入れ、ダイヤルを北方航路の一般周波数に合わせた。部屋中の視線を集めながら電信を打つというのは、私でも少し緊張する。少し置いて他局の通信がないことを確認してから、私は電鍵に手を乗せた。
『CQ SEIREN CQ SEIREN DE AEGIS. SYOUEI MARU ETD 1200. KWA AGA ALL CLR. NDB CLSD 1100. KWA OP CNG PIXIE. RTN NEM HQ OP MIMIR YAMAUCHI EGUCHI AND INOUE. K』
『DE SEIREN ARD R FER PIXIE
WLC WLC WLC K』
『TU SEIREN CUL SK』
打ち終えると、まさかの拍手が起こって、私は慌てて振り返った。仕舞いの大役を奪ってしまったかとも思ったが、皆の喜びようを見て安心した。
「素晴らしい速度と丁寧さです。さすがです」
そう言って、川上は再び握手を求めてきた。一応手を取ってやったが、なんというか、大きな犬のような男だ。
「して、そのピクシーというのは、もしや……」
「はい。川上さんのことです。不便だと思ってつけてみました。まだ択捉が受信しただけですから、気に入らなければ好きに変えてもらって」
「とんでもない!」と、川上は食い気味に否定した。
「柏原を救ったイージスにコールサインをいただけるとは! 喜んで頂戴いたします!」
「そ、そうですか」私はすっかり気圧されていたが、笑顔だけは絶やさないように努力した。
「根室で、あなたからの電信を楽しみにしていますよ」
「はっ! 川上一級地上無線士、柏原管制を引き継ぎ、越冬任務に入ります!」
月並みな激励だというのに、川上は感動に打ち震えていた。こういうのを感受性が高いというのだろうか。さぞかし生きづらかろう。
「あのお」と、山内がそっと手を挙げた。
「そろそろ、お話を始めてもよろしいでしょうか」
「あっ、はい」
そう思うのも束の間、川上は急に真面目さを取り戻し、手帳と鉛筆を出した。
なんと切り替えの早い男だ。やっぱり、さぞかし生きづらかろう。
「では、お願いします」
「まず、一般定時連絡ですが……」
私は疲労を感じて、隅の椅子へと退散した。
てきぱきと無線機に向かうところを見ると、ともかく仕事はできるようだ。
あとは電信でも余計なことを言わないでくれたら──きっと、無理だろうな。
十一時二十分。
私たちはめいめいに荷物を担ぎ、岸壁を船に向けて歩いていた。
荷物は全て船倉に納められたようで、港はすっかり殺風景になっていた。もう、ライフルを提げた見張りの職員もいない。
というよりも、この島に足をつけているのは、私たち五人と小林他管理部の数名、そして越冬隊だけだ。
私はようやく、修理が間に合わなければ越冬隊と共に四月を待てという、あの命令の恐ろしさに気づいた。
次にこの岸壁に船が来るのは、本当に半年後なのだ。流氷も、すぐに押し寄せてくる。そこで見る景色と孤立感は、人間の何を試そうとしているのだろうか。
私にはまだ、それと向き合う覚悟ができていない。いや、ずっとできないかも知らない。
だから細萱は、煙草を持っていけと言ったのか。一箱残っていることだし、あとで一本くらい吹かしてみるとしよう。
船と繋がるタラップの下では、ライフルを提げた二人の士官が待っていた。もう民間人はいないというのに、まるで平時の乗船手続きだ。
そこへ笹木が一歩前に出て、さっと敬礼した。
「柏原飛行場管制部、笹木甚八以下五名。乗船願います」
「では、身分証を改めさせていただきます」
手続きとは言っても、何も難しいことはない。身分証を見せて名乗り、乗船名簿と照らし合わせるだけだ。
「お次の方どうぞ」
「黒崎義雄。本省航空本局技術部です」
合わせて私は「運輸省職員証」と箔押しされた黒い手帳を開いて見せた。
一瞬、彼らの目に緊張が走る。
それも当然で、地方と本省では職員証の色からして違う。事前に通達があったとは思うが、地方しか知らない職員にはそれなりに緊張する出来事らしい。
「ご苦労様でした。どうぞお進みください」
士官はやたらと力んだ敬礼をした。私はそんなに、取って食うような面に見えるのだろうか。
私は答礼をして、鞄を手にタラップに足をかけた。
長いスロープを上がっていく。
ふと振り返ると、飛行場から見るのとは、また違う景色が広がっていた。
昼になって雲が増えてきた分、立ち並ぶ建物の屋根の色がとても映えている。
なるべく早くデッキへ出よう──そう決めて、足早にタラップを上がった。
乗り込み口では、再度の確認が行われていた。私は再び名乗り、やっと部屋の鍵を受け取った。
そして船内は、人でごった返していた。本来の定員の三倍を超える職員が乗り込んでいるのだから、混雑しているのは仕方ない。まだ出航もしていないのに、食堂にも長い列が出来ている。これは皆、毎日の丼飯には相当飽きていたと見える。根室に着くまでに食糧庫はだいぶ軽くなってしまうだろうが、料理人はさぞかし腕が鳴ることだろう。
笹木らとは言葉を交わす暇もなく散り散りになってしまった。ともかく私は階段を上り、割り当てられた部屋の前に立った。
果たしてそれは、一等の個室であった。船には二百人近く乗り込んでいるというのに、わずか十部屋しかない個室を貰ってしまうとは。係長如きが一等というのは気も引けるが、本省の私が三等に雑魚寝というのも示しがつかない。ここは細萱からのご褒美ということにして、船旅を楽しむことにしよう。
室内に入ると、そこは小さなホテルの一室にも似た設えだった。机と寝台、小さな丸窓、ドアの中手洗いだろう。国内線で使われるにしては、かなり良い設備を持っている船のようだ。
鞄を椅子に置いたところでノックの音がして、私はさっとドアを開けた。
そこには、白い制服を着た、いかにも勤勉そうな男が立っていた。男は踵を揃えて、脇を締めた見事な敬礼を見せた。
「祥栄丸の次席無線士を務めます、神田と申します。電報をお持ちしました」
「これは、ありがとう存じます」
私は受領簿に署名し、封筒を受け取った。扉が閉まると、私はすぐに封筒を開けた。
『略令。運ネム18-2058號。択捉ニテ下船シ、速ニ無線機ヲ復旧セヨ。根室ヘハ月末迄二戻ラレタシ。ホソガヤ』
私は鼻を鳴らした。略令とはいえ、わざわざ命令書まで寄越すとは。
この件について、白瀬がどこまで手を回したのかは知りようもない。もちろん、本当に無線機が故障した可能性だってある。が、制度というものは、もう少しこう……綺麗に運用するべきではなかろうか。
腹に響くような低い汽笛が響いて、船内放送がかかった。
『お知らせいたします。本船は、まもなく出航いたします』
時計は、まだ十一時五十分を指している。十分も前に出航を知らせるのか。煙突から見たところ、祥栄丸は石炭だけでなくヂーゼル機関も積んでいるはずなのだが、出航だけでもなんとも時間のかかるものだ。
私は、さっそくデッキへと出てみた。一等のものは煙突を囲む形で独立していて、他には誰もいなかった。
手すりにもたれて下を見下ろすと、小林たちが乗り込んでくるところだった。敬礼と握手、そしてタラップを上っていく影を見送る二つの影。
そして、いよいよタラップが引き上げられた。
腹の底から揺さぶられるような、長い長い汽笛が鳴る。
岸壁に残るのは、たった二人の隊員だけ。私は彼らの無事を祈って、大きく手を振ってみた。
すると、二人とも振り返してきた。
名前も知らないのに、私はとにかく、彼らが無事に冬を乗り切ってくれたら良いと思った。
択捉に着いたら、手を振ったのは私だと電信を送ってやろうと思った。
そしてついに、船は動き出した。
これで最後だと、私は大きく目を見開いて景色を目に焼き付けた。
勢いがついたのか、流れる景色がぐっと速くなる。すぐに飛行場の建物が大きくなって、兜山航空観測所の赤い櫓が見えた。
そして観測所の真横に差し掛かる時、二つの緑色の煙弾が上がった。
意味は「貴船の進路に支障なし。安全なる航海を祈る」──なんという粋な計らいだ。残る彼らのほうが、よほど大変だというのに。
応えるように汽笛が鳴る。祥栄丸はさらに速力を上げて、あっという間に外海へ出た。
船首が巡り、進路は南南西。
柏原は、兜山の向こうに沈んで見えなくなった。
ああ。私は本当に、あの場にいたのだろうか。
急いで堤を探して、スパナで小突いてもらおうか。
誰もいないデッキで、私はそんなことを本気で考えていた。
──そして、日付が変わる頃。
私は、すっかり船酔いになっていた。飛行機と違って、船の動揺はとてもゆっくりだ。どうもそれに負けたらしい。
私は、這々の態でデッキに出た。
しかし吹きっ晒しであまりにも寒かったので、一つ降りて屋根のある二等のデッキに出た。
木製のベンチに掛けて、やっと息をつく。頬が冷えると、やっと落ち着いてきた。
そしてデッキは、夜とは思えないほど明るかった。
船というものは、自分の姿を他の船に見つけてもらうことが最も大事なのだという。だからマスト灯も煙突標識灯も、左右の標識灯も、夜通し点けられたままになる。
天井のスピーカーが、もぞもぞと何か喋っている。耳を澄ますと、どうやら甲板作業員のために、ブリッジのやりとりが流されているようだ。
『十時方向に春牟古丹島』
『方位フタフタハチ。前進半速』
『前進半速宜候。おもーかーじ』
テレグラフの音が響いて、私は顔を上げた。
私は、その島を知っている。
この海で、失われたものを知っている。
私は急いで部屋へとって返し、煙草と酒瓶を持って戻ってきた。
左舷のデッキに出ると、真っ暗な海の中から、山の影がぼんやりと浮かび上がっていた。
私は、手すりの前に立った。
そして酒瓶の蓋を開き、覚悟を決めて一気に呷る。酒の匂いが鼻を突き抜けて、目がチカチカした。
「うっぷ……ぷはぁ」
これは酒というより、ほとんど
とはいえ、これくらい強い酒ならば、薄まっても飲めるだろう。
私は腕を伸ばして、瓶をひっくり返した。どぽんと音を立てて、酒が海へと注がれて行く。
そこへ、ドアが開く音が──
「ああっ! もったいない!」
突然の声に振り返ると、腕を吊った男──菊岡が青ざめた顔で立っていた。
「なんだ、菊岡さん」
菊岡はわなわなと震えながら、その視線は酒瓶をしっかりと見据えていた。
「なんですか。酒を海に捨てるなんて。言ってくれればいくらでも私の腹に──」
「これは、献杯です」
私は瓶を突き出し、きっぱりと言い切った。
「献杯? ……ああ」
その意図に気がついたのか、菊岡は急におとなしくなった。ばつの悪そうに視線を伏せる。
「でも、ちょうどよかった」
私はポケットを弄り、煙草と燐寸を出した。
「ちょっと、付き合ってください」
私はぎこちなく蓋を開いて、一本を咥えた。
カリッと燐寸を擦って、火をつける。その様子を見て、菊岡は目を丸くした。
「黒崎さん。あなた、やらないんじゃ」
私は煙を肺に入れないように気をつけながら、ゆっくりと煙を吐いた。
「今だけです。献煙、とでも言いましょうか」
言葉と共に吐き出した煙は、すぐに流れて消えてしまった。
「弔いの機会も、もう無いと思ったので」
私は、まだ長いままの煙草を、島影に向けて放った。
赤い火は夜の中に小さな弧を描き、やがて波に呑まれて消えた。
その様子を、菊岡はじっと見守っていた。
「さて、残りは差し上げます」
私は煙草を、燐寸ごと菊岡の手に乗せた。静かにそれ受け取ると「なら、私も一献」と、一本を出して火をつけた。一口めをじっくり味わう間を取ってやってから、私は口を開いた。
「明日、択捉で降ります」
「択捉? またどうして」
「今度は、無線機がヘソを曲げたそうです」
「それはまた、頼りにされてますね」
それが根室局の事なのか、彼女のことなのかは、もちろん聞かなかった。どうせバレている。
「それとチト6977のことですが、書類一式は荷役に渡してあります。ご迷惑様ですが、後をよろしくお願いします」
「そういうことなら、任してください」
どこまで察しているのかは知りようもないが、菊岡はにかっと笑った。
「小松の尻を引っ叩いて、すぐに直してやりますよ」
小松とは、根室で菊岡にどやされていた若い整備員のことだろう。私が菊岡を連れ回している間に、鬼の居ぬ間の洗濯を済ませていたら良いのだが。
「お手柔らかにしてやってくださいね」
それから二、三言葉を交わして、私たちはそれぞれの部屋──菊岡は宴会場かもしれない──へ戻った。
翌日夜。択捉島・沙那港。
私は笹木たちに見送られてタラップを降り、迎えの漁船へと乗り込んだ。
まもなく二十三時を迎える港は、驚くほど静かだった。岸壁の櫓に据えられた大きな探照灯だけが白い光を海へ投げかけ、その周りだけが夜を切り取ったように浮かび上がっている。
私のほかに乗り移ったのも、この沙那村へ帰る数名だけだった。
ぽんぽんという発動機の音に揺られながら、漁船はゆっくりと港へ向かっていく。
振り返ると、祥栄丸は短く汽笛を鳴らし、すでに西へ向けて動き始めていた。その大きな船影も、やがて夜の海へ溶けていく。
近づくにつれ、探照灯の届かない闇の中から、細い黒い線が何本も天へ伸びているのが見えてきた。
それは、係留された漁船のマストだった。
風に揺れた索具が時折きらりと光を返し、そのたびに海面へ細い光の筋が落ちる。船体はほとんど闇に沈んでいるのに、そこに船が何十隻も並んでいることだけは、不思議とはっきり伝わってきた。
さらに岸壁へ寄ると、街灯の淡い輪の中に人影がいくつか浮かび上がった。
船では、こんな時間でも迎えに来る人がいるらしい。
遅くとも日没前には着陸する飛行機では、決して味わえない光景だった。
やがて漁船は桟橋へ横付けされ、舫綱が渡された。
大きな荷物を抱えた男たちが次々と下船し、足早に桟橋を渡っていく。待ちわびていたのだろう、家族と肩を抱き合う影が、街灯の下にいくつも重なった。
私は急ぐ理由もなかったので、一番最後まで船に残った。宿には到着予定を知らせてある。少しくらい夜風を浴びていても、きっと待っていてくれるだろう。
私が桟橋へ降り立つと、漁船はすぐに舫を解き、再び暗い海へ滑り出していった。
残ったのは、桟橋の電灯が照らす淡い光の帳と、静かな波の音だけ。
鞄を持ち直し、顔を上げる。
街灯の明かりの縁に、一人の人影がじっとこちらを見つめていた。
緩やかな秋の風に、耳と尻尾が静かに揺れていた。
「白瀬さん」
それが誰なのかわかった時、私は無意識に走り出していた。輪郭がはっきりするにつれて、光を背負ったその姿が、ひどく眩しく見えた。
白瀬の元へ辿り着いた時には、すっかり息が上がっていた。
「わざわざ、迎えに来てくれたんですか」
白瀬はただ、小さく頷いた。
「それは、なんというか……ありがとう、ございます」
「無事にお帰りになられて、ようございました」
柔らかな電球の光が、その横顔を照らす。大きな二つの瞳が、私をじっと見つめていた。
それがなんだか気恥ずかしくて、ふっと目を逸らす。
「しかし、随分と遅くなってしまいました。行きましょう」
私は鞄を持ち直し、一歩を踏み出してみせた。そっと並びかける白瀬の、白い花を模した耳飾りが揺れる。
私はなぜかほっとして、砂利道を歩き出した。
「それで、イージスさん」
突然コールサインで呼ばれて、私は飛び上がるほどに驚いた。トーンでは何度も聞いたはずのその名が、白瀬の雪解け水のような声に乗って私の耳を突き抜けて行ったのだ。
私は高鳴る胸を抑えて、「なんでしょう」とだけ答えた。
「あのピクシーという名前は、どうして思いつきましたの?」
それは、まるで悪戯をするような問いかけだった。
あれは勢いだったとも言えるし、この二週間で得た出会いや学びをまとめたものだとも言える。
それでも、理由とするならば、一つしかない。
「まあ、理由はいくつかありますが──」
私は街灯の下で歩みを止め、少しだけ考える間を置いた。
「セイレーンが歌う海には、舞い飛ぶ妖精が居たら良いかな、と思いまして」
*
──数年後。
三月某日、鹿児島県・指宿。
「春乃」
私は、縁側で洗濯物を眺める割烹着の背中に呼びかけた。
「あら。お帰りなさい」
「今日は、少し早く上がれたよ」
私はその栗毛を抱き寄せて、さらりと梳った。揺れる耳で、スノードロップをあしらったチャームが光る。
「正篤は、いい子にしてたか?」
私は春乃の背で眠る赤子の頬をつんと突いた。
「ほら。お父さんが帰ってきましたよ」
春乃が優しく揺らしても、正篤はすやすやと寝息を立てていた。
私はその寝顔に微笑みかけ、作業着の袖を抜いて縁側に腰掛けた。
背帯を解いた春乃が、隣に腰を下ろした。そっともたれかかられて、柔らかな耳が頬をくすぐっていく。
昨日より少しだけ暖かい風が、満開の躑躅を揺らしていた。
完
黒崎義雄(AEGIS/イージス)
1943年:北方航路における電信機障害に対処した功績により年度功労賞を受賞。
1944年:転属願により九州支局へ異動。総務課付きとなる。
1945年:課長補佐に昇進。同局課長待遇無任所職員として九州各地の飛行場監督業務に従事。
1946年:同局飛行場監督課へ異動。課長に昇進。
白瀬春乃(SEIREN/セイレーン)
1944年:寿退職。
菊岡巌(ORCA/鯱)
1946年:北方航路を引退し、千歳練習飛行場の教官に転向。鯱の意匠は教官機に引き継がれた。
服部正治
1946年:札幌航空局総務課課長に就任。
田辺篤郎
1945年:一級地上管制官を取得。翌年に電話交換手の熊出ツネと結婚し、一男三女をもうける。
榎島重成
1946年:北方航路を引退。根室市街へ戻り、隠居生活に入る。
岩原公二郎(THOR/トール)
1945年:青森と根室・柏原を結ぶ不定期貨物船「北進丸」に乗組。コールサインも無線士の物として同船へ引き継がれた。
笹木甚八(MIMIR/ミーミル)
1944年:札幌航空局函館飛行場管制部主任に就任。
1946年:同局保安部運航課・課長補佐に抜擢。空路の近代化に尽力。
山内浩
1944年:柏原飛行場管制部主任に就任。
1945年:中標津飛行場管制部主任に就任。
堤正温
1945年:旭川飛行場設備部主任に就任。
1946年:旭川航空局広域設備管理課付きに異動。
川上登志男(PIXIE/ピクシー)
1944年:択捉飛行場主任無線士に就任。セイレーンの後を継ぎ、「北方航路のピクシー」としてその通信を支えた。