蹄音、高く外伝・北方航路のセイレーン   作:上條つかさ

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択捉島

 第二話「択捉島」

 

「ところで、最後に択捉に降りたのはいつですか?」

「五年前の、巡回の時です」

 菊岡の問いに、私は簡潔に答えた。

「なら、この島での無電の扱いはご承知ですね」

「はい。ご心配なく」

 私は航空地図を取り出し、周囲を見て現在位置を確かめた。右手には色丹島、左手に見える大きな山が爺爺岳だろう。

 私は航空地図を捲り、択捉島の頁を開いた。

 択捉島は沖縄本島の二倍の面積がありながら、利用できる土地はわずかしかない。島の各所に聳え立つ千メートルを越える山々は電波を遮り、無線通信の難所として知られていた。

 中標津、国後、根室。どこから飛んでも、滑走路が見えるまでは無線電話が通らない。そんな地理的特殊性から、択捉の管制官とのやり取りは短波を用いたモールス信号、つまり無線電信を使用することが常識だった。

「では、択捉管制に出航の連絡を入れてください。遅くとも0700には到着できます」

「宜候。到着予定0700」

 私の復唱を聴いた菊岡は、取ってつけたように、「セイレーンに宜しく」と付け加えた。

 空の男に似つかわしくない発言に、私は首を傾げた。

 セイレーンといえば、歌で船乗りを導くといわれる地中海の妖怪だ。昨今の彼女らは、択捉の港まで出張ってくるのだろうか。

 おっといけない。とにかく電信を飛ばし、我々が向かっていることを知らせなければ。

 私は記録簿を取り出して、これから打つ文章を書き記した。電鍵の通電スイッチを上げて、手を乗せる。

「DE C6977 KIKUOKA. CLG ETF1 QTO NEM 0455. QRE 0700. QRQ? K」

 私は教本通りに、毎分二十五語程度の速さで打電した。最後に、より速く送信可能な旨を付け加える。

 返電を待ってホワイトノイズに耳を澄ませていると、猛烈な勢いの音が飛び込んできた。

『QRQ QRQ QRQ』

 それは、より速く送信せよという符号の連続だった。しかし問題は内容ではない。速いのだ。いや、何にしてもこれは速すぎる。

「そらきた、セイレーンのお出ましだ」

 そんな菊岡の茶化しに答える暇もなく、私は慌てて鉛筆を取り出した。

『DE ETF1 QRK5 QSA5. QRE 0700 0700 0700. K』

 相手は、私が聞き取れるギリギリの速度で送信している。つまり毎分三十語超えだ。記録を終えた私は急いで電鍵に手を伸ばし、返電を打った。

「R ETF1 QRK5 QSA5. QTJ 100 QUH? K」

 打ち慣れた符号でも、速く打とうとするとすればするほど腕が攣りそうになる。やっと終わったと思う間も無く返電が鳴り、鉛筆を持つ指が滑った。記録簿と紐で結んでいなかったら、取り落としてしまうところだ。私はひいひい言いながら、鉛筆を走らせていた。

『QUH 998. QAM CLD WND NW4 TEMP3. QRA? K』

 記録簿に記した符号を見て、私は首を傾げた。目的地の無線士が送信者の名前を聞くことは珍しい。ただ、答えない理由もないので、私は素直に資格を添えて送信した。

「C6977 1st AR/GND OP KUROSAKI. K」

 送信が終わった瞬間、待っていたかのように返電が鳴った。

『DE ETF1 R. UW UW UW OP SIREN SK』

 この電信員は重要な単語を三回繰り返す癖があるようだ。電信はどうしても聞き逃しが起こるから、経験からやるようになったのだろう。突然のことに疲労を感じた私は、記録簿を閉じて大きく息をついた。見計らったように、菊岡の笑い声が響く。

「どうですか。セイレーンの歌声は」

「いやあ、驚きました」

 私はすっかり熱くなった右腕を軽く振った。

「こんなに速く打てる電信員がいるんですね」

「三年前からですね。おかげで雪も風もよくわかる。何度も無事に帰れていますよ」

「どんな人なんですか、そのセイレーンって。あだ名ですよね?」

「それは、私が言ったら面白くないでしょう。択捉に着いてからの、お楽しみということで」

「そういうものですか」

 顔を上げた時、帰投方位指示器の針がわずかにずれていることに気がついた。機械の故障を想定してすぐに地図と照らし合わせ、頭を巡らして左に見える国後島との相対位置を計算する。

「菊岡さん、方位がずれてます。左へ二度、修正してください」

「左へ二度。宜候」

 私は計器盤と持ち込んだコンパスとを見比べて方位を確認し、「進路よろし」と答えた。

 後方鏡の中に、菊岡の防寒面越しの瞳がきらりと光る。

「黒崎さんは電信も航法も上手いですね。さすがです」

「いやあ。私には、これしかできませんから」

「基本操縦士課程は出ているのだから、もう少し自慢してもいいと思うけれどねえ」

 謙遜に聞こえたのか、菊岡は少し不満そうに見えた。

「私は乙判定を受けてから、教官に勧められて電信に進んだクチでして。横須賀の空は飛べても、こういうところは飛べませんよ」

「そういうもんですか」

「そういうものです」

 私は眼下に視線を落とした。耳に響くのは単調なエンジンの音。黒と白が混ざった海の上には、人間の気配はひとかけらもない。

「それに私からすれば、よくこんなところを平気で飛べるな、と思います」

「平気だったことなんて、一度もありませんよ」

 菊岡はあっさりと答えた。

「いつだって怖いです。舵を切る時、燃料計から目を離す時、灯台の灯りが見えない時」

 防寒面越しの視線が、前方を向く。

「けど、怖がっているうちは、ちゃんと帰れます」

 やけに穏やかな声に、私はただ「どういうことですか?」と訊いた。

「自分ならやれると勘違いした奴から帰ってこなくなる──。ここは、そういう海です」

 私は返す言葉を無くした。菊岡はおそらく、そういう連中を何人も見てきたのだろう。厳しい自然を生き抜くとは、そういうことなのだ。

「その点、黒崎さんを見ていると安心できますよ」

 軽快な口ぶりに、私は顔を上げた。

「島を見て位置が分かるまで地図を叩き込むほどに、この海と空を恐れている。本当に、いいことです」

 どうやら私は試されていたらしいが、不思議と悪い気はしなかった。この先、半径百キロに誰もいないような空を飛ぶのだ。菊岡から一定の信頼を得られたことに、私はまず満足することにした。

 

 *

 

 午前六時を回って、歯舞諸島は四時方向に小さくなっていた。反対に、正面に見える択捉島の影はどんどんと大きくなってくる。そしてついに、ずっと左手に見えていた国後島の影が後ろに流れた。

「さて、国後水道を超えました。択捉管制に着陸許可を」

「着陸許可、宜候」

 菊岡の指示に簡潔に答えた私は、再び記録簿を取り出した。鉛筆を手に送るべき文言を書き記す。そして電鍵に火を入れ、送信出力のダイヤルを回した。

「CLG ETF1 CLG ETF1 DE C6977 QAL. K」

 打ち終わると、すぐに返電が鳴った。わずかに間があったのは、私に鉛筆を構える隙を作ってくれたと思ったのは自惚れだろうか。

『DE ETF1 WLC WLC

 WLC. QAM CLD WD1 WND SS2 RWY13. SK』

「滑走路は南からの風、風力フタ。北東から着陸せよと言っています」

「宜候。西単冠山を西からまわり込んで、北に出ましょう」

 チト6977号は今のところ、菊岡の操縦に従順だった。軽快なエンジンの音に、私の耳はすっかり慣れきっていた。

 周囲には機影もない。私は地図と景色を見比べながら、周囲を眺めていた。

 

 *

 

 山を越えて北側の海岸線沿いに飛んでいくと、遠くに人家の群れが現れた。あれが沙那村だ。

「間も無くですね。着陸灯、点灯宜候」

 菊岡の点呼を聞いた私は身を乗り出し、機体の下部を覗き込んだ。その太い主脚につけられた着陸灯が、煌々と灯っている。

「着陸灯、点灯宜候」

 顔を上げると、右手に見える平地を貫く滑走路を捉えた。虫の触覚のようなアンテナを生やした、青い屋根の大きな建物が管制所だろう。幅広の誘導路を辿ると、格納庫らしき建物もいくつか見える。

 北に少し離れたところには、紅白に塗り分けられた巨大なアンテナが屹立している。それが高出力の送信設備であると気づくのに、時間はかからなかった。

 そのうちに、機体は緩やかなカーブを描いて高度を下げていく。機体が水平になった時、千四百米の滑走路が正面に伸びていた。

 飛行機には、向かい風での着陸が理想的だ。完璧な誘導にチト6977号は軽く機首を上げ、ゆっくりと降下していく。

「高度、百英尺」

 菊岡が高度を読み上げはじめた。いよいよ着陸だ。

「七十英尺、五十英尺、衝撃備え」

 私が身構えるのとほぼ同時に、タイヤが滑走路を捉えた。

 ブレーキがかかって、機体の尻が地面に落ちる。そのまま数百米を滑走して、止まることなく誘導路に入ってゆく。

 チト6977号は土煙を立てながらゆっくりと進んで、管制所前の広いエプロンの真ん中で停止した。

「着きました。お疲れさまです」

 私はお世辞抜きに「お見事な着陸でした」と答えた。

「正確な誘導のおかげですよ」と菊岡は笑った。

「航空灯、滅。エンジン停止」

 その声と同時に、エンジンの爆音が消えた。

「エンジン停止宜候。電装系回路遮断。主電源を切断します」

 出発と全く逆の手順で、私も次々と機械を止めてゆく。

 最後に赤い梃子を引いた。冷却ファンがゆっくりと停止して、辺りは遠く波の音だけが聞こえる世界になった。

 時計を見ると、時刻は六時四十分。見込み時間ドンピシャだ。南北どちらから進入したとしても同じ時間に到着するよう調整していたというのなら、菊岡の腕は間違いなく本物だ。

 さて、私たちが無事にエンジンを止めたことで、管制所内に控えていた整備員たちが一斉に駆け出してきた。彼らは皆、一様に濃い青色のツナギを着ている。積雪がある地域の飛行場では、視認性のためにこのような目立つ色のツナギを着用するのだ。作業服とはいえ、見慣れたものがあるというのは、なんと安心することだろう。

 菊岡が降りるのを待ってから、ゆっくりと腰を上げた。すっかり凝った足を引きずって、私は択捉の地に二度目の足跡を記した。

 

 *

 

 やっと地に足をつけた私は、尻に敷いていた落下傘の装帯を外した。腰を伸ばし、腕を振り回し、膝を曲げて血を巡らせる。

 一方で菊岡は煙草を咥え、馴染みらしい整備員達と話をしていた。

「菊さん久しぶりやね」

「春以来ですか。今日も点検を頼みます」

「あいあい。しかし今度は松輪だって? アンタも稼ぐねえ」

 そんな間延びした田舎らしい会話を横目に、私はポケットに入れておいたチョコレートを頬張った。

 整備員に押し出されて、チト6977号が格納庫へと引き上げていく。

 それを見送って、私は管制所を見上げた。

 五年前はもっと簡素な建物だったのに、随分と立派なものに建て替えられたものだ。

 木造三階建ての管制所は、傍目には学校のようにも見える。管制室のために、最上階の中央が弓形に張り出しているのが特徴的だ。

 屋根の上には小さな櫓が組まれていて、両側に信号旗のための桁が張り出している。一つだけ掲げられた赤い三角旗が、飛行場に異常がないことを知らせていた。

 その後ろに立つアンテナを備えた鉄塔のてっぺんでは、風速計がくるくると回っている。

 

 さて、なぜ私がこんなにもゆったりしているかというと、単純な燃料補給では後席には仕事が無いからだ。異常があれば話は別が、小松整備員のご利益か、機械たちはすこぶる快調だった。

 そして当然のことながら、燃料を入れるだけなら数十分とかからない。

 しかし、菊岡はエンジンの点検を依頼していた。私の見立てでは、彼の目が満足するまで二時間は待機だろう。その暇をどう潰そうかと悩んだ挙句、私は上空から見つけた大型のアンテナを見に行ってみることにした。

 

 枯れ草の中を縫う小道を歩くこと十分。私は電波塔の根元に辿り着いた。

 そしてそれは、三十米を超える高さを以て私を圧倒した。これは、横浜の航空観測所に据えられたアンテナを凌ぐ高さだ。

 周囲を何本ものワイヤーに支えられて、風程度はびくともしないだろう。根本には、無骨なコンクリートのアンカーが見える。電線を目で辿ると、電源や送信機は、周囲にある煉瓦造りの建物に収められているようだ。

 そのうちの一つに近づいてみると、入口の横には「択捉島ラジオ中継所」という札が掛けられていた。なるほどラジオの設備か。

 私は早々に興味をなくし、隣の建物に回った。

 こちらの札には「択捉管制部予備送信所」と書かれている。扉には頑丈な南京錠が二つ。予備施設というだけあって、普段は無人のようだ。

 好奇心から窓を覗き込んで無線機の型式を探ろうとした途端、安穏とした草原に甲高いサイレンの音が響き渡った。

 こんな田舎の島でサイレンとは、と私は困惑した。あるいは、この施設に不用意に近づいたからだろうか。

 管制所へ戻るべきだろうか。それとも、待っていれば誰かが来るだろうか。

 おろおろしていると、管制所の方から、砂利を蹴飛ばすような音が聞こえてきた。

 音のする方に顔を向けると、自転車に乗った若い男が土煙をあげてやってくるのが見えた。

「退いてください! 退いて!」

 男の鬼気迫る顔に飛び退くと、彼は自転車を派手に乗り捨てた。がしゃんという音が響く間も無く扉に取り付いて、必死に錠前を開けようとしている。

「一体何事ですか?」

 問いかけた私に、彼は鍵穴を探りながら「QUG(遭難機発生)です!」と壁に向かって吠えた。

「QUG? 搭乗員は?」

 彼はやっと一つ目の鍵を外すと、その辺に放り投げた。

「第一報は0708です! 詳細不明!」

 半ば錯乱している彼を横目に、私は腕時計に目を落とした。時刻は七時十五分。電信でやりとりしているとしても、初動がかなり速い。これは例のセイレーンの采配か。

 男はやっと二つ目の鍵を開けて、扉を蹴破る勢いで中へ入っていった。

 この男は一人でやってきた。それなら、何をするにしても人手がいるだろう。

 そう考えた私が室内に踏み込んだ時、男が壁に据えられた大きなブレーカーを上げた。

 吊るされた裸電球がぱっと灯ると、男はようやく私を見た。歳は二十歳そこそこだろうか。かなり若い。艶のある光を湛えた瞳が、私の飛行服に縫い着けられた日の丸を見つけた。

「失礼ですが、搭乗員ですか? 電信は使えますか?」

「一応、航空無線士ですが」

「どうか、手伝ってください!」

 私が言い終わるより先に、男は風切り音を立てる勢いで頭を下げた。

 もちろん、言われるまでもなく私は彼を手伝うつもりでいた。空では助け合わなくては生きていられない。それは、横須賀でも択捉でも同じだ。

「もちろん。まずは無線機に火を入れましょう」

 私は机の上に並べられた機材を指した。

「状況の確認は、それからでも間に合います」

「わかりました!」

 彼は返事と同時に無線機に飛びついた。教本の手順では先に遮断器を確認するのだが、彼の心境を慮った私は、代わりに配電盤の前に立った。

 遮断器、表示灯よし。主電源、投入。

 同時に、ガチガチと継電器の音が響く。

 何十本もの真空管が次々と灯り、ストーブを焚いていないのに、部屋の中がじんわりと暖かくなっていく。

 私は机にあった書類挟と交信記録紙を拝借した。それから筆立てをひっくり返して、まだ芯が見えている鉛筆を取った。

「こちらは準備ができました。現状を報告してください」

「はい」

 彼は震える手で手帳を開くと、メモを読み上げ始めた。

「現在、択捉第一は全て救難に割り振られています。第一報の時点で、在空各機には択捉海峡上空で待機するよう連絡しました。私の任務は、ここに択捉第二を開局し、在空機を択捉、もしくは天寧へ誘導することであります」

 一息に言い切ったその姿に、私は少し安心した。少なくとも、何をすべきかはわかっているようだ。名前を聞く余裕はなさそうなので、まずは仕事にかかるとしよう。

「なるほど。わかりました」と、私は彼を落ち着かせるためにわざと大仰に頷いて見せた。

「ではまず、ここに電話はありますか?」

「はい。それです」

 彼の指さす先には、確かに一台の電話機があった。しかも、型の古い磁石式だ。

 こと緊急時においては、回線が空いている田舎であればあるほど、交換手を経由する磁石式電話の方が有利だ。いちいちかけ直さなくても、次々と回線を切り替えてもらえる。

 私は電話機を手元に引き寄せ、受話器をあげてハンドルを回した。

「私は管制と連絡を取ります。あなたはCQを打ち、在空機の機体番号を全て確認してください」

「わかりました」

 彼が返事をするのとほぼ同時に、若い女性の交換手が出た。

『お繋ぎ先をどうぞ』

「こちらは択捉予備送信所です。択捉管制に繋いでください」

『お待ちください』

 プツンという音がして、一度電話が切れた。電信機の前では、彼が記録紙に書いた本文を打ち始めていた。

「CQ CQ D-E ETF-2 Q-T-H……」

 セイレーンの電信を聞いた後だからだろうか。彼の打鍵は、ひどく鈍重に聞こえた。もちろん、下手という訳ではない。私が言える義理かは知らないが、電信員としては十分な腕であると保証しても良いくらいだ。

 だが今は遭難対応中だ。一分一秒が惜しい。それでも、私ならとっくに打ち終えているはずの短文と格闘する彼の背中を、私はじっと見守った。

『はい択捉管制』

 中年の男の声が私の耳を打った。管制の責任者だろうか。

「こちらは択捉予備送信所です。択捉第二開局宜候。現在は在空機の情報を収集中です」

『田辺じゃないな。誰だ?』

 男の声が鋭くなった。こんな時に悪戯をするような輩は滅多にいないはずだが、電話口の相手はなかなかに慎重なようだ。

 面倒なことにならない様、私はきっちりと資格を添えて答えることにした。

「先ほどチト6977号で降りました、一級航空無線士の黒崎と申します。偶然居合わせましたので、お手伝いをしております」

『黒崎さん、ですか。少しお待ちを……おい、着陸記録簿をもってこい』

 誰かに指示を出す声の後、電話の向こうから紙を捲る音がする。きっと私のことを調べているのだろう。

『確認しました。ご協力に感謝いたします』

 男は電話越しにも分かるほどに安堵した様子だった。

『私は択捉飛行場、管制部長の服部と申します。第四報によると、遭難機はチト5045。搭乗員の安否は依然として不明。航空非常事態の発令は0713です。規定に従い出航便は停止、到着のみ受け入れ中です。救助については、漁船四隻が0740までの出航を予定しています』

「了解しました」

 私は受話器を耳に挟み、その完璧に整理された情報を書き留めた。このまま服部と連携できれば、かなりやりやすくなるだろう。

「では当初の指示通り、択捉第二は在空機の誘導に専念します。ところで、菊岡操縦士は、どちらにいらっしゃいますか?」

『確認します。お待ちください』

 再び紙を捲る音が聞こえた。

『ええと、チト6977は整備格納庫に駐機しています。菊岡操縦士もそこにいるはずですが、呼びましょうか?』

「いいえ。でも、もし私を探していたら、ここにいると伝えてください」

『承知しました。続報があれば、すぐにお伝えします。では』

 電話が切れると、私は再びハンドルを回した。

『お繋ぎ先をどうぞ』

 出たのは、さっきと同じ交換手だった。

「こちらは択捉予備送信所、黒崎義雄一級航空無線士です。先ほど午前七時十三分に、択捉管制より航空非常事態が発令されました。航空協力法第六条二項に基づき、交換手の協力を要請いたします」

『承知いたしました』

 交換手は、躊躇いなく応じてくれた。

『こちらは逓信省択捉電話局、交換手の熊出ツネでございます。非常回線へ接続しますので、そのままお待ちください』

 一度回線が切れるとすぐにブツリという音がして、再び熊出が出た。

『お繋ぎしました。本回線は宣言解除まで保持されます。受話器を置かず、必要に応じてお呼び出しください』

「ありがとう。そのまま待機願います」

 受話器を机に置いた私は、電信機に齧り付いている田辺に声をかけた。

「どうですか?」

「混信がひどくて、まだ一機も」

 額に汗を浮かべた田辺は、すっかり憔悴しきっていた。

 無理もない。平時では、同時に二機でも多いような飛行場だ。在空機が何機いるかもわからない状況では、個別の通信などままならない。

 私は、彼が書いた交信記録簿を覗き込んだ。送信、受信、訂正、送信。奮闘の後が見てとれるが、何が書かれているのかを読み取れない部分も多々ある。

 これでは、二次被害を招いてしまう。私の直感が、そう告げていた。

 私はすぐに新しい紙を繰り出し、天候、風向き、風力、着陸の可否、と書いた。

「田辺さん。電話の向こうで交換手が待機しています。天寧飛行場に繋いでもらったら、ここに書いてあることを聞いてください。電話は切らないように」

「わ、わかりました」

 田辺はフラフラと席を立ち、電話をとった。

 入れ替わりに、私は椅子に腰を据えた。もちろん、すぐに解決できる保証は無い。それでも私は新しい記録紙を出し、鉛筆を構えた。

「CQ CQ DE ETF2 QUN? K」

 すぐに返電が入る。しかし複数機が同時に送信しているのか、信号が混信してしまっている。

 位置を言っている機もいれば、燃料の心配をしている機もいる。乱雑な数字が飛び交う中で、私は、どうすれば特定の一機と交信できるかを考えた。

 ──そして、閃いた。

 重要なのは機体番号だ。それさえわかれば、特定の機体を呼び出せる。しかし管制室は手一杯だろうし、書類を取りに行っている時間はない。

 私は乱打されるトーンにじっと耳を澄ませた。方位でもなく、時間でもない数字を探す。

 そしてついに、7072という数字を聞き取った。

 すぐに呼び出しを試みる。北方という土地柄からみて道外の機は少ないだろうと踏んで、所属記号には千歳を示すCを付けた。

「DE ETF2 C7072 QTH?」

 混信に紛れないよう、私はゆっくりと電鍵を打った。特定の一機を呼び出しているとわかれば、一方的に送っている各局もおとなしくなってくれるはずだ。

 そして、返電が鳴った。

『DE C7072 QBF ETF STRT QTO 0200. K』

 スピーカーから聞こえる明瞭なトーンに、私はこの場での勝ちを確信した。すぐに返電を打つ。

「R C7072. STB ETF STRT. LAST QSO? K」

『R ETF2. LAST QSO C4461. SK』

「CLG C4461 QRK? K」

『DE C4461 ETF2 RST599 K』

 返電を受け取った私は、テーブルに左拳を打ちつけた。これで在空機のうち、二機の機体番号が明らかになった。あとは芋づる式に交信記録を辿ればいい。

「あの……」

 掠れた声に振り返ると、田辺が先ほどの紙を差し出していた。受け取って内容を確かめる。

 天候曇り、南東の風、風力ヒト、受入差支えなし。

「ありがとう。これで在空機を誘導できます」

 私は彼の努力を正当に評価した。その労いに、田辺はぎゅっと目を瞑って息をついた。

 管制官は、一つ間違えば人が死ぬ重責だ。彼にはまだ、それを背負うだけの経験がなかったのだろう。

 

 再び鉛筆を構えた時、その芯がすっかり潰れていることに気がついた。

 私は机に散らばった鉛筆から比較的長いものを見繕って、田辺に差し出した。

「すみませんが、鉛筆を削ってもらえますか」




次回、セイレーン
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