『RGR C5887 QAL TNE QAO 0130 K』
「QSY TNE SK」
最後の機体との通信を終えて、私は鉛筆を放り投げて息をついた。
在空機は全部で五機だった。単なる連絡機の他にも、郵便機、測量機、漁場を点検するための観測機まで。
冬を控えた北方の空は、私が思っていたよりもずっと豊かだった。
今は、その全てが五十キロ南西にある天寧飛行場へ向かっている。在空機は互いに通信を取り合っていたため、一機を捕まえるたびに次の機体番号が判明したというのも大きい。服部部長は、かなり楽に仕事が出来ただろう。事後を丸投げするのは気後れするが、それも彼の仕事の領分だ。
田辺さんは私をよく支えて、択捉と天寧に電話を繋ぎ続けてくれた。すっかり力を使い切った彼は、汗でぐっしょりと濡れた襟を開いて、椅子にもたれていた。
私は受話器を取り、熊出交換手に択捉管制を呼び出してもらった。
『服部です』
服部はもう、面倒な肩書を言わなかった。私も「黒崎です」とだけ名乗って本題を続ける。
「在空の五機は、全て天寧飛行場へ誘導されました。先方の受け入れも問題ありません」
私はまるで、試験明けの学生のような気分だった。無線士の特徴はそれこそ様々で、教本に無い言い回しや略語まで駆使して捌いたのだ。今くらいは許してほしいと思いつつ、報告を続ける。
「機体番号はチト7072、チト4461、モリ3380、チト6231、チト5887。また田辺さん通じて、択捉に向かわず最寄り飛行場に降りるよう発信する旨を要請しています」
『そうですか。いや、これはお見事』
服部は安堵と感嘆が混じった声で私を労った。
「ところで、遭難機は見つかりましたか」
『おかげさまで、こちらから出した捜索機が発見しております。収容を確認次第、航空非常事態は解除の見込みです』
「それはよかった」
択捉側も事態の解決が見えていたことがわかって、私はようやく胸のつかえが取れた気がした。
「それで、ここはいつまで開けておきましょうか?」
『あとはこちらで出来ますから、もう良いでしょう。撤収して、田辺とこちらにいらしてください』
「承知しました」
『では』
服部が電話を切ったことを確かめて、私は「熊出さん」と呼びかけた。
『はい。どちらにお繋ぎしましょう』
「遭難した機体は、無事に見つかったそうです。我々も撤収します。ご協力ありがとうございました」
『それはようございました。黒崎さんも、ご苦労様でございました』
「あなたの協力がなければ、ここまで迅速に事は運びませんでしたよ」
『ありがとう存じます』
私の精一杯の労いの隙間で、熊出がふうと息をつく音が聞こえた。
『それで、あの……』
「はい?」
『もう一人のお若い方、だいぶお疲れだと思います。それで……よく、労って差し上げてくださいませ』
私は田辺に気づかれないよう、そっと口角を上げた。
「田辺さんのことですね。あなたの名前できっと伝えますよ。熊出ツネさん」
『そ、それでは失礼いたしま』
熊出の最後の言葉が聞こえる前に、電話は切れた。
仕事を終えただけのつもりだったが、どうやら余計な世話まで焼いてしまったらしい。未だ、遭難者収容の報は届いていない。それでも私には、もう大丈夫だという確信があった。そして彼を起こすべく、受話器を電話へと戻した。
*
私と田辺は書き散らかした交信記録をまとめ、機械の電源を落とし、ひとときの鉄火場となった予備送信所を後にした。
曇り空の下、枯れ草の間を縫う道を歩く。
自転車を押しながら俯いていた田辺が、ふと口を開いた。
「あの、申し訳ありませんでした」
「ん、何がですか?」
私は彼のために、あえて聞き直した。
「一人で取り乱してしまって。結局、何もできませんでした」
項垂れるその姿を見て、私はそこに昔の自分を重ね合わせた。
パイロットを諦め、無線屋として歩むことを決めた日。
ずらりと並ぶ練習機に、自分の機が無いという事実。
初めて乗った後席。
電鍵の感触。
人間の成長とやらには、必ずしも挫折が必要だとは、私は思わない。けれど一度挫折したのなら、それをなんとしてでも次への糧とするしかない。
その点で、彼は自分の仕事への理解を深めるという形で、この挫折を受け入れた。
服部さんあたりが、私から学べと云うかもしれない。けれど、私に学ぶくらいなら、教本でも読み直したほうが身になるだろう。
今の彼に必要なのは──。
「田辺さん。あなたは必ず、良い無線士になれますよ」
私はそれだけ答えて、再び歩き始めた。
「ところで、どうして俺の名前を……」
「ああ。服部さんが教えてくれました」
そこまで言って、私はまだ彼には名乗っていないことに気づいて振り返った。
「自己紹介がまだでしたね。私は黒崎義雄。運輸省航空本局・基幹通信保守課の一級航空無線士です」
「ほ、本省の方ですか……」
田辺は、ぽかんと口を開いたまま固まってしまった。どうやら、私はこのような辺境の島にはいない種類の役人らしい。数秒後、気を取り直した田辺は慌てて居住まいを正した。
「択捉飛行場、二級管制官の田辺篤郎と申します」
ぎこちない敬礼に、私は軽い答礼を返した。
「ところで、田辺さんはおいくつですか?」
「もうすぐ22になります」
「そうですか」
簡潔な答えとともに再び歩き出した私の後を、田辺がとぼとぼとついてくる。
「なら二年目ですかね。よく頑張ったと思いますよ」
私は助勢したつもりでいたが、どうやら田辺は違う捉え方をしたようだ。
「正直、今日のことはだいぶ堪えました。部長にも、養成学校からやり直してこいと言われるかもしれません」
「……ふっ、はははっ」
どん底までへこんだ声に、私は思わず笑い声を上げてしまった。
「そんなことは有り得ませんよ。保証します」
「……と、おっしゃいますと?」田辺が不安げに問いかける。
「報告書では、あなたはずっと、一人であの管制所にいたことになるからです」
「どういう、ことですか?」
その返事で、私はやっと彼から感じる幼さの原因に気づいた。彼に不足しているものは技術ではなく、社会経験そのものらしい。この先に起こるカラクリを誰も居ないうちに教えてやろうと、私は一度咳払いをした。
「いいですか。偶然居合わせた私に手伝わせたことは、報告書には絶対に書けません。だから員数外である私は、始めからここに居なかったことになる。服部さんもきっと、その様に書くでしょう」
「て、ことはつまり……ちょ、ちょっと待ってください!」
勘づいた田辺は、慌てて私に詰め寄った。
「そんな事をされたら、俺は一人で、この状況を片付けたことにされてしまいます」
私はにこやかに首肯した。
「田辺さんは今日、たった一人でこの難局を乗り切ったのです。とてもいい仕事をされました」
「そんな……」
呆然とする田辺を横目に、私は大切なことを思い出した。
「おっと。田辺さんを見ていた方が、あの場に一人だけいましたね」
「誰ですか? それは」
「交換手の、熊出ツネさんです。あなたの仕事ぶりを、それは褒めていらっしゃいました」
私は、彼女の言葉をほんの少し誇張した。労ってやってくれとしか言われていないのだから、これくらいの味付けは良いだろう。
「私も直接お礼を申し上げたいところですが、あいにくと先を急ぎます。明日にでも代わりに訪ねてあげてください。ただし、手ぶらでは駄目ですよ」
「そ、それってどういう……」
「そのくらいは察してください。これも勉強です」
顔を上げると、管制所の青い屋根が見えた。彼を服部さんに返したら、私はもう彼に口出しはできなくなる。今はただ、彼が今日の出来事から、一つでも糧を見つけてくれたことを願うばかりだ。
しかし彼の名前は、すぐにこの空に響くだろう。そんな確信が、私の心を暖めていた。
*
択捉飛行場・整備格納庫。
「菊岡さん、いますか?」
私は恐る恐る格納庫を覗き込んだ。どうやらオイル缶は飛んでこないことを確認して、足を踏み入れる。
庫内には、すっかりエンジンのカバーを外されたチト6977号だけが鎮座していて、整備員の姿はどこにもなかった。
首を傾げながら外に出ると、どすどすという足音が耳に入った。
「おお! 黒崎さん!」
視線の先で、菊岡が手を挙げていた。その手に握られた大きな黒い瓶を認めて、私は呆れた声を漏らした。
「やあやあ。何やらお手柄だそうじゃないですか。ええ?」
菊岡は上機嫌に私の肩に腕を回した。どうやら、酒が入ると陽気になる性質らしい。
「私じゃありませんよ」
絡みつく腕を押し除けて、私は手の中の瓶を指した。
「それと、その瓶はまさか麦酒じゃないでしょうね」
「とんでもない」菊岡は金色の星のラベルがついた瓶を高々と掲げ、「これはパイロット用のガソリンです。わはは」と呷った。
寒い高空や北方を飛ぶ便では、小瓶の焼酎やウイスキーを携行することも珍しくない。飲酒そのものを責める気にはなれなかった。
というより、すっかり出来上がっている菊岡には、これ以上何を言っても無駄だろう。
「ところで、整備員はどこですか?」
菊岡は空になった瓶を隅へ放ると、どこからか取り出した新しい瓶の王冠を、スパナでぽんと外した。
「なんでも、水没した機から発動機を回収するって、皆で港に行っちゃいました」
ということは、整備員の方にも機体発見の報が入ったのだろう。海水に浸かったエンジンでも、すぐに塩抜きをすれば部品は使える。注文しても届くまで数週間もかかるような土地では、ピストンどころかボルト一つでも貴重だろう。
「こう言うところではね、仕方ありませんよ」と、菊岡は煙草を吹かした。
「僻地で一番強いのは整備員と、相場が決まっていますから」
「ということは、今日はもう飛べませんか」
「そういうことです」
私の落胆をよそに、菊岡はぐひぐびと麦酒を飲み干した。まだ昼前だというのに、この人はよくもまあ勢いよく飲むものだ。
「まあ、今夜は英気を養うとしましょうや」
ふらふらと格納庫に入っていく菊岡の背中に「報告に行ってきますから、あまり飲みすぎないでくださいよ」と呼びかけた。
おうと聞こえた気がしたが、私はその返事をちっとも信頼していなかった。
その後すぐ。択捉飛行場・管制所。
「入ります」
扉を開けて視界に飛び込んできたのは、等間隔に並ぶ横長の窓だった。どこの管制所でも同じように窓は弓状の曲線を描き、滑走路全体を見渡せるようになっている。
いくつかの窓には雪国らしい旋回窓が取り付けられ、二人の管制管が双眼鏡を提げて空を睨んでいた。電話や方位盤、風向計が並ぶその様子は、飛行場の管制所というよりは船橋に近い構造をしている。
「おお。ようやく来ましたな」
私の姿を認めて、中央の椅子に掛けていた色黒の中年が立ち上がった。
私は彼の前まで歩み出て踵を揃え、さっと頭を下げた。
「先ほどは電話で失礼をいたしました。航空本局の黒崎と申します」
「改めまして服部です。この度は、大変お世話になりました」
顔を上げた私は、服部の笑顔の裏にわずかな困惑の色を見た。
その理由は、おそらく私の処遇についてだろう。私は事の決着を田辺に話したとおりに着地させるべく、口を開いた。
「いやなに、私はお手伝いをしただけですよ。全ては、彼のおかげです」
私は軽く袖を引いて、後ろに隠れている田辺を引き出した。
「田辺!」
予想通りに破顔した服部は、若い無線士の背中をばしばしと叩いた。
「いやあよくやった、よくやったぞ!」
当の田辺は、目を白黒とさせていた。やはりまだ、自分が何をしたのかがわかっていないらしい。私はその様子を、微笑ましく見守った。
「天寧からも全機無事と電話があった。ほら、なにをしょぼくれてるんだ。もっと喜べ、大手柄だぞ」
あまりにも露骨な服部に苦笑した私は、「服部部長、それで搭乗員は」と口を挟んだ。
「ああ、これは失礼」
服部は田辺を解放すると、机から書類挟を取った。
「七分前に、二名とも収容したと連絡を受けております。どちらも命に別状はない、と」
「そうですか」私は安堵の笑みを浮かべ、「よかったですね、田辺さん」と彼の肩に手を乗せた。
「お疲れでしょう。下の応接室に、お茶と甘いものを用意させましょう」
服部の勧めもあって、私は応接室へと通された。おそらく電信機室に近い部屋のはずだが、中はとても静かだった。
柔らかなソファがひと組と、足の短いテーブル。応対を任された職員は、大きな湯呑みになみなみとお茶を注ぎ、羊羹が乗った小皿と共に置いていった。
すっかり喉を乾かしていた私がお茶を啜っていると、不意にドアが開いた。
「いやいや、お待たせしました」
小脇に書類を抱えた服部が入ってきた。私が腰を浮かせたので、服部は「ああ、どうぞそのままで」と言って向かいのソファに掛けた。
「さてこの度は、ご迷惑をおかけいたしました」
先ほどとは打って変わって、居住まいを正した服部は丁寧に頭を下げた。一応は本省の人間である私への、立場づくりということだろう。
「こちらこそ、差し出がましいことをいたしました。今日のことは、どうぞよしなに」
私の返事に、服部は緊張を解いた様子だ。
「いやはや、田辺には、もっと勉強が必要だと思っていたところでしてな。今回のことは、良い経験になったことでしょう」
「そうでしょうね」
帰宅を許されてフラフラと帰っていく彼の後ろ姿を思い出して、私は思わず笑みを浮かべた。
「しかしどうも、彼は世渡りには慣れていないようですが」
服部は湯呑みに手を伸ばし、唇を湿らせた。
「あれでも養成学校じゃ上から五番目だったんですわ。色々と目をかけてやってはいましたが、これで芽が出ますかな」
話を聞きながら、私は羊羹をひとつ摘んで口に含んだ。
「芽と仰るなら、しっかりと出ていましたよ」
滑らかな餡を口の中で転がしながら、私はあの鬼気迫る顔と、手際よく遮断器を上げていく姿を思い出していた
。確かにあの時、彼は取り乱していたかもしれない。しかし、何をしなければいけないかを見失ってはいなかった。
そこから先は経験が補う領域の話であって、地盤にある能力云々の話ではない。
「それこそ、もう蕾と言っても差し支えありません。ご教育の賜物です」
「本省の方にそう言っていただけると、私も鼻が高いですわ」
事が片付いたと判断した私は、いよいよ例の件について尋ねることにした。
「ところで、こちらにはセイレーンという電信員が居ると聞きましたが」
「ああ。彼女の声を聞きましたか」
「素晴らしい腕に感心しました。私より速いですよ、あれは」
「そうでしょう。うちの秘蔵っ子です」
「それで、ぜひ話をしてみたいのですが、よろしいですか」
服部少し考えるようなそぶりをした。そして私の目を覗き込み、破顔した。
「いいでしょう。第二電信室へどうぞ。廊下を出て、左に二つ目の部屋です」
「ありがとうございます」
「お話が終わりましたら、管制所までお越しください。宿などの諸々をご案内いたします」
「わかりました。では」
私は応接室のドアを閉めると、飛行服の襟を閉め、軽く埃を払った。
*
コン、コン。
二度のノックの後、私は中からの返事を待った。
「どうぞ」
ノブに手をかけた私は、一瞬戸惑った。明らかに女の声だ。
東京や大阪には、女性の電信員はそれなりにいる。しかし、こんな北の島にいるとは。いったいどんな女性だろうか。
私は覚悟を決めて、ドアを開いた。
室内は、真空管の熱でほんのりと暖かかった。
目線を下げていた私はまず、壁際にある箪笥よりも大きな電源装置に目がいった。しかも二台あるということは、かなりの電力を必要とする設備があるということだ。普段は、何人もの無線士が詰める部屋なのだろうか。
そして床には、太い電線が蛇のように横たわっている。辿った先には、窓際に設られた一台の机。そして二脚の簡素な椅子。
片方には、しなやかに揃えられた脚があった。
恐る恐る顔を上げる。作業着の上からでもわかる、女性らしいすらりとした体躯。そして栗色の尻尾と長い髪。張りのある唇。黒檀のような瞳。頭の上には二つの耳──彼女は、ウマ娘だ。
「黒崎さん、ですね」
彼女はすっと立ち上がると、完璧な角度でお辞儀をした。左耳につけられた、白い花を模した耳飾りが揺れる。
「お初にお目にかかります。無線士の、白瀬春乃と申します」
まるで雪解け水のような声が響く。一拍遅れて挨拶だと理解した私は、慌てて姿勢を正した。
「運輸省航空本局の、黒崎義雄と申します」
名乗りを返してから、私は内心で自分を叱責した。わざわざ本省だと名乗ってしまったら、萎縮されてしまうではないか。
「まあ、本省の方でしたか」
予想に反して、白瀬は私の肩書きに怯むことなく、空いている椅子をそっと手で示した。
「どうぞ、そちらへ」
「失礼します」
「早速訪ねていただいて、ありがとう存じます」
白瀬は穏やかな笑みを浮かべていた。当然、私はウマ娘と会うのは初めてではない。本省にも、パイロットにもウマ娘はいる。
だから私が彼女から目を離せなくなったのは、択捉という最北の定住地で出会ったからだ。とにかく、そう納得することにした。
「あの、どうして私が黒崎だとわかったのですか?」
「電信で聞こえたお顔にそっくりでしたもの。一目でわかりましたわ」
「聞こえた顔、ですか」
私は思わず自分の顔を撫でた。トーンの響きだけで顔の造作など伝わる訳がないのだが、どういうことだろうか。
「とても真面目で、それでいて柔らかさもある音でした。それに、混信から機体番号を拾い上げた手際は、実に見事でしたわ」
なるほど。彼女は電鍵を叩く時のほんのわずかのズレや癖から、送信者の為人を見抜くことができるらしい。予備送信所での、私の慌てふためいた打鍵も聞かれていたと悟って、なぜだか急に恥ずかしくなった。
「あれを、聞いていらしたのですか」
田辺くん、色々とけしかけてすまなかった。私はそう、心の中で謝った。
「しかし、私の電信を聞いていたのなら、捜索機の管制はどなたが?」
「ああ、それなら」
白瀬の腕がすっと上がり、その柳髪がはらりと落ちる。
「電信機が四台ありますから、全て聞いておりました」
部屋の隅を手で示されて、私は愕然とした。そこには棚が据え付けられ、一台千五百円もする九九式一号五型電信機が四台、整然と積み上げられている。つまり、私が電源装置だと思った壁際の機材は、この僻地向けに調整された、四系統分の増幅装置だったということだ。机に伸びる電線は、それぞれの周波数を調整する四つの操作盤と、四つの電鍵に繋がっている。隅には気圧計や風速計、風向計と思しき計器類のメーターまで見える。本土なら二人、いや三人でも足りない設備だ。
「まさか、これを全部、一人で……?」
「はい」と、白瀬はこともなげに答えた。私はさっぱり意味が分からず、「一体どうやって?」と訊くだけで精一杯だった。
「音の高さをずらしてあるのです。これで、聞き違えることはありませんわ」
白瀬は制御盤に組み込まれたスピーカーを、その白く細い指でついと撫でた。
そういう問題ではないだろう、と私は目がまわる思いだった。もちろん電信員の仕事をしていれば、複数の電信機の面倒を見る機会は確かにある。しかし大抵の場合は印字電信機に繋いでおいて、後から内容を読み取るものだ。そもそも、高速かつ大量の文章をやり取りしたいなら、それこそテレタイプを使えば良い。
「印刷電信機などは、使われないのですか?」
「それでは、遅いのです」と、白瀬はゆっくりと首を振った。
「遅い、とは?」
私の疑問に、彼女は机の上の制御盤に手を伸ばした。
「たとえばこれは、漁船が使う周波数を受信するように設定してあります。漁業の島に事故はつきものですから、それをいち早く知り、知らせる。そのためには、この耳が必要なのです」
その凄まじさに、私は思わず飛行学校時代の訓練を思い出した。二系統の受信を同時に聞き取る訓練ですら難物だった。それを四系統。しかも実務で運用しているという。
理解はできても、私には再現できる気がしなかった。
「それで、セイレーンと」
「ええ。はじめに誰が呼んだのかは、知りませんけれど」
そう言って、白瀬はくすくすと笑った。彼女を最初にセイレーンと呼んだ者の美的感覚は相当なものだ。もちろん、打鍵の音を歌声と評した見立てのことだ。
「ところで、黒崎さんはどうして択捉に?」
当然の問いに、私は本来の仕事を忘れていたことを思い出した。昨日からこっち、刺激が多すぎる。
「実は、柏原の無線機が壊れたとの知らせを受けまして」
答えながら、私はなんとも朗らかだった。目の前にいるのは熟練の電信員だ。いちいち噛み砕かなくても話が通じるというのは、なんとも気が楽なものだ。
「それで、こんな時期ですが、急遽修理に向かうことになったのです」
「まあ。柏原まで」
「ずいぶん、遠くまで来てしまいました」
そこで私は、この地域の通信事情に詳しい彼女ならば、柏原の状況も把握しているのではないかと思った。この規模の飛行場なら予備の部品も充分に蓄えているはずだ。もし私の見立てが間違っていたならば、必要なものを積み込まなければならない。
「白瀬さん。柏原について、何か気になったことはありませんか?」
白瀬は首を傾げると、一冊の帳簿を出した。交信記録のようだ。
「記録では、四日前から柏原の信号がかなり弱くなっています。何度かは聞き取れずに、松輪に中継をしてもらいました。輪郭が崩れていましたから、おそらくは増幅系かと」
そこまで聞いて、私はすぐに手帳と鉛筆を取り出した。やはり彼女の耳は確かだ。今のうちに故障箇所に目処が立てば、ずっと仕事がやりやすい。
私が乗ってきたチト6977号の腹には、修理用の真空管が積んである。しかし搭載量には限りがあるから、私は故障頻度の高い球を優先して持ち込んでいた。
頭の中で九九式地上無線機の回路図を辿りながら、次の質問を考える。
「では受信の際、プツプツと叩くようなノイズはありましたか?」
「いいえ。まるで洞窟の中にいるような、ごおっという音ばかりでした」
「それはとても有益な情報です」と、私は笑みを漏らした。
「少なくとも、単純な接触不良の線は消えますね」
「私もそう思います。それに大型の地上無線機なら、接触不良にはすぐに気がつくはずです」
「送信回路そのものの不調というよりは、やはり球の可能性が高そうですか」
「経験則で申し訳ありませんが、送信変調回路に使われている真空管は、ヒーター電圧の変動に弱いようです。寒い時期によく故障して、何度も取り替えてもらいました」
私は手帳に挟んでいた目録へ視線を落とし、送信変調回路と書かれた球を探した。
すぐに見つけたが、大型管なので持ってきた数は少ない。私は可能性アリと走り書きをして、丸で囲んだ。
「それともう一つ、思い当たる箇所があります」
「どこですか?」
「中間増幅回路です。前に壊れた時はどうしても直せなくて、本土から整備に来ていただきました」
「その球は、何かわかりますか?」
「大きくて、上の方が膨らんでいました。けれど、番号までは……」
「なら、これを見てください」
私はポケットから一枚の紙を取り出し、開いて白瀬へと渡した。
その紙には、今回持ち込んだ交換球の横から見た形と、寸法が記されている。簡易な手引書代わりに持ってきたが、ここで役に立つとは思わなかった。
「その中に、思い当たる球はありますか?」
白瀬がじっと寸法図を睨む。間をおかずに、柔らかそうな毛を蓄えた耳がピンと立ち上がった。
「たぶん、これです」
白瀬が指差したのは、UY-807という球だった。発振回路にも中間増幅回路にも使われる、見慣れた球だ。これは故障も多いから、予備は多めに積んである。
なんとかなるかもしれない。私は、ほっと胸を撫で下ろした。
「お力に、なれましたか?」
「ええ。かなり絞れました。すぐに直せるかもしれません」
「よかった」
白瀬は私よりも安堵したようだった。柏原からの定時通信が途絶えれば、最初に異変へ気づくのは彼女たちだ。天気報告も、出発連絡も、家族からの私信も。
電信室に座る者は、その全ての向こう側に人がいることを知っている。それでも自らをその厳しい環境に置く辺境の電信員に、私は深い感銘を受けた。
「ご協力、ありがとうございます」
「冬の千島は、白だけの世界です。そこでは、たった一つの電信が心を救います。黒崎さんは、とても立派なお仕事をしていらっしゃると思います」
真正面からの賛辞に、私は覚悟を決めて正面から彼女へ笑顔を向けた。
「まあ、仕事ですから」
私の一世一代に近しい覚悟にも関わらず、白瀬はただ、微笑みを返しただけだった。
「他には、どちらへ行かれたことがありますの?」
「それこそ色々行きましたよ」
答えながら、私は特に印象に残った場所を思い出していた。
「アンテナが雲に届くような信州の送信所。硫黄の香りが漂う山中の温泉地。桜島を見上げる鹿児島の飛行場。それから……」
「まあ、鹿児島!」
白瀬の顔がぱっと明るくなった。くるくると回る耳に、思わず目を奪われる。
「きっと、とても春が早いところなのでしょうね」
「そうですね。三月にはもう、外套を着ない人も多いです。なにせ、年中半ズボンの子供までいるくらいですから」
「同じ国だなんて、とても思えませんわね」
「まったくです」
しばらく歓談した後、退勤の時間だというので、私は第二電信室を後にした。
日没までには、全ての飛行機が地上へ降りる。この規模の飛行場なら、着陸管制は一人でも回せる。
よって日中の最も忙しくなる時間に彼女を配置する、という判断は適切だ。しかも明日も払暁から出勤すると聞いて、私はとても感心した。
実際に話をしてみて、私はあの異常な速度で打たれる電信の理由がわかった気がした。
彼女はこの空で、この海で、誰も失いたくないのだ。そのためなら無骨な機材に埋もれても、気高く電鍵を打ち続ける。
彼女のような人が、この空の下にいる。
それだけで、この場所は少し違って見えた。