蹄音、高く外伝 北方航路のセイレーン   作:上條つかさ

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北方航路

 目を開けると、知らない天井があった。

 手を伸ばして腕時計を探す。時刻は午前四時少し前。窓の外は、障子の輪郭がわかる程度の明るさだ。

 私は布団から這い出すと、魔法瓶から湯を注いだ。

 ここは、飛行場から一本道を下り切ったところにある宿だ。私は風呂さえあれば搭乗員用の宿舎でも良いと言ったのだが、服部がそれを許さなかった。神輿よろしく自動車に乗せられて担ぎ込まれ、結局しっかりと休んでしまった。

 しかし、昨日会ったあの白瀬という電信員は素晴らしい。容姿の話ではない。心意気の話だ。

 能力もさることながら、電信によって人々の心を繋ぐという立ち位置は、中央ではまず見られない考え方だ。

 昨日の一件の後から、見えるものが大きく変わった気がする。

 辺境では、肩書きなど意味を持たない。手が動く者が動き、出来る者が支える。それだけで物事が回っている。

 だからこの島における肩書きとは、何かが起きた時に最低限の指揮系統を構築するためのものでしかない。必要があればそれは無視されるし、される側も織り込み済みだ。

 昨日のことも、もしも東京でやったならば、訓告で済んだら軽いほうだろう。規定外の人員を勝手に指揮系統へ組み込み、通信に参加させたのだから。

 だが昨日は、それ以外に方法が無かった。規則と人命と、どちらが大切かと問われれば、誰もが人命と答える。それを行動に移しただけなのだから、とやかく言われる筋合いはない。

 後は、服部さんが上手くやってくれることを祈るだけだ。

 しかしそう考えると、私もあまり、中央には向いていないのかもしれない。

 肩書きは便利だが、時には重しとして行動を縛る。私は無線機が弄れればそれで良いのだし、時折飛行機に乗って、気晴らしができればそれでいい。

 若手だなんだと奉られるのも結構だが、そうして行き着く先が、机に向かって書類にハンコを押すだけというのは、なんとも味気ない。それなら、こうして畳に座って白湯を啜っているほうが、何倍も有意義だ。

 私は浴衣の帯を締め直すと、朝食をいただくべく、襖を開けた。

 

 この時期に択捉までやってくる好事家はいないようで、女将は私のためだけに部屋と食事を用意してくれた。

 ちなみに菊岡は、私が迎えに行った時、すでに整備員たちと一緒に格納庫の隅で酔い潰れていたので、後のことは知らない。

 さて、朝食は山盛りの白飯、塩の効いた分厚い鮭、漬物、茹で玉子、そして大根がこれでもかと詰まった濃い味噌汁だった。内地と変わりない食事に、私はすっかり鱈腹であった。

「黒崎さん。お風呂も沸いていますよ」

 食器を下げながら、女将が言う。朝から風呂とは豪勢だが、私は昨日も風呂に入れてもらった。

 土地の習慣かと思った私は「このあたりは、皆朝風呂なんですか?」と訊いた。

「これから北へ行かれるのでしょう? 熱くしてありますから、しっかり浸かってくださいな」

 女将は卓を拭きながら言った。

 なるほど、ゲン担ぎか。と私は納得した。柏原まで行けば風呂くらいあるだろう。しかし冬季閉鎖港である東雲原や松輪では、そうもいくまい。

 まさに「目の前の握り飯は食っておけ」だ。

 私は女将の好意に甘えるべく、風呂へと向かった。

 

 女将に見送られて、飛行場へと登る道を歩いていく。

 やっと登り切ったと顔を上げた私の視線の先に、管制所が見えた。

 そしてエプロンには、昨日は半ば分解されていたはずのチト6977号が鎮座していた。

「黒崎さん、おはようございます」

 翼の陰から現れた菊岡が、爽やかに手を振っていた。しかも、きっちりと飛行服を着込んでいる。

 私は呆気に取られて「お、おはようございます」と歯切れ悪く返した。

 機体まで歩いていくと、菊岡は機体来歴簿を私に見せた。作業の日付は今日。内容はオイルの全交換、六番点火プラグの交換、方向舵の調整。飛行士の端くれである私にもわかる、教本通りの点検履歴だった。

「あとは、燃料を入れたら始動できます。今は無風なので、ちょっと風を待ちましょう」

 昨日の酩酊ぶりが嘘のようで、私は思わず腕の時計を見た。

 時刻はまもなく七時。管制所の玄関前に掛かっている時計とも合っている。

「残念ですが、私は二日酔いなんてしませんよ」

 私の困惑を察してか、菊岡はなぜか胸を張ってみせた。

「なんせこの腹は、麦酒しか受け付けませんからね」

 そういう問題ではないだろうと思ったが、これ以上の追求はやめておいた。きちんと飛ばしてくれるのなら、私が言うことは何もない。

 力無く垂れ下がった吹き流しを横目に、私は管制所へと足を向けた。

 

「おはようございます。黒崎さん」

 玄関では田辺が待っていた。作業着をかっちりと着て、昨日よりもずっと逞しく見える。

「やあ田辺さん。おはようございます」

 田辺は背筋を伸ばして踵を揃えた。

「昨日は本当に、ありがとうございました」

「おや? なんのことでしょう」

 直角の礼を横目に、私はとぼけた。服部さんとの『打ち合わせ』はもう済んでいる。あとは、彼の頑張りだけが未来を決める。

「ああ、そうだ」

 私はポケットから、昨日田辺が必死に削っていた鉛筆を出した。小指よりも短くなってしまって、もう仕事には使えない。言葉よりもこういうものの方が彼には効くだろう。そう思って、昨日のうちに拝借しておいたのだ。

「これ、忘れ物ですよ」

 田辺は受け取った鉛筆をじっと眺めて、何かに気づいたように頷いた。

「……はい!」

 元気よく応えた田辺は鉛筆を丁寧に胸ポケットに収め、カンと踵を鳴らして敬礼した。

「田辺篤郎二級管制官! 0730より、管制任務に着きます!」

「はい。頑張ってください」

 田辺はにかっと笑って、階段の方へと駆け出した。

「あれも、やっとやる気になりましたかな」

 声に振り返ると、そこには服部が立っていた。

「服部さん」

「どうも」

 服部も作業着を着込んでいた。そういえば、この飛行場には気取ったスーツの男が一人もいなかった。皆揃いのツナギを着ているから、役職の差はあれど生きる世界の違いを感じない。そういう風土を作っているのも、この男の力なのだろう。

「黒崎さんは、いよいよ発たれますか」

「風が立ったら出航します。いろいろと、お世話になりました」

「なんの。帰りも、ぜひ寄ってください」

 服部は柔らかな笑顔を浮かべていた。

 出会ってからわずか一日だというのに、私は服部という人間をかなり気に入っていた。田辺に接する姿は、直接の部下というものを持たない私には眩しく見えた。現実味のない虚像も多分に含まれているかもしれないが、これも敬意には違いない。

 だから私は「もちろんです」と請け負った。

 そしてポケットに忍ばせたものを思い出し「服部さん。煙草はやりますか?」と訊いた。

「ええ。少しは」

「なら、これをどうぞ」

 私は、桜が描かれた二つの小箱を出した。

「おや、チェリーですか」

「根室を出る時に掴まされまして。私はやらないので、差し上げます」

「これは、ごちそうさまです」

 箱を受け取った服部は、蓋を少しだけ開けて、葉の香りをぐっと吸い込んだ。

「冬の便では煙草は後回しにされがちでして。助かります」

 そこへ不意に日が差して、玄関に風が舞った。にわかに外が騒がしくなると、すぐに菊岡の姿が見えた。

「黒崎さん。装備の用意を」

 私は手を挙げて答え、服部に向き直った。

「では」

 私の敬礼に、服部が答礼を返す。

「ご無事な到着を」

 私は頷いて、飛行機へと駆け出した。

 

 チト6977号は、給油の真っ最中だった。大きなタンクを備えた自動車が横付けされて、手回しポンプがぐんぐんと鳴っている。

「黒崎さん。それじゃダメです」

 菊岡が私を見るなりそう言ったので、私は何を指摘されているのかがさっぱりわからなかった。

「ここから先は、一種乙装備でなければ出航できません。整備員に言って、足りないものを貰ってください」

 そこで私は自分の装備を見下ろした。私はこの時、「二種甲」という寒冷地陸上機向けの飛行服を着ていた。東北北部から北海道では一般的な飛行服だ。一種はさらに重装備で、裏に毛を仕込んだブーツに毛のついた外套を着込み、飛行帽も分厚い毛皮のものを着用する。たしかに、今よりも寒いところに行くのだから、一種を着るのは理解できる。

 しかしチト6977号は陸上機だ。色素散布筒や瓦斯式浮き輪などを持っていく意味があるのだろうか。

「菊岡さん、なぜ乙装備なんですか?」

 装帯を締めていた菊岡は、やれやれといった様子で航空地図を出した。

「松輪までの五百キロは、ずっと海の上を飛びます。つまり、何かが起こればドボンです」

 それは、すでに得撫島や新知島といった頁に差し替えられていた。択捉の地図では見られなかった、赤いインクで描かれたバツ印や、無電のアンテナを示す書き込みが不穏な気配を放っている。海を示す青がほとんどを占めているそれを前にして、私は自分の先入観を恥じた。

「だから、死にたくなければ装備を持ってください」

 その声は、今まで聞いた菊岡の声の中で、一番心のこもったものだった。

「仰るとおりです。すぐに着替えましょう」

 私はすぐに手近な作業員に声をかけて、追加の防寒装備と救難装備を持って来てくれるように頼んだ。その隙に、厠に駆け込んで用を足す。

 戻ろうとした時、炭の匂いとともに七輪の上で湯気を立てるヤカンを見つけた。私は火の番をしていた作業員に頼んで、水筒一杯に湯を貰った。

 戻ってくると、防寒具一式はすっかり用意されていた。

 えっちらおっちらと分厚い外套を着込んでいると、エンジンの爆音が響いた。操縦席には、整備員の作業着が見える。

 私は巻き上がる土煙をかき分けて、整備員と話している菊岡を見つけた。

 私が寄っていくと、菊岡は緊張に顔を強張らせた。

「黒崎さん、用意はできましたか」

「ええ。万全です」

 実感が湧かなかったが、私も神妙な顔を作って答えた。

「暖機が済んだら、行きますよ」

 そこへ、影が差した。

「あなたが、黒崎さんですか」

 声に振り返ると、丸太のように太い腕を持つ大柄な整備員が立っていた。

「整備長の河瀬です。どうぞ、無事の到着を」

 彼はそう言って、私に二つの包みを渡した。白い布で包まれた四角い箱と、黄色い布でできた袋だ。

 私は受け取ったものの、中身がわからずに首を傾げた。

「河瀬さん。黒崎さんは、北方航路は初めてでして」

 菊岡の助け舟に、河瀬は「そうでしたか」と頷いて、包みを指した。

「まず、白い方は弁当です。温かいので、上がったらすぐにどうぞ。黄色は、飴玉とキャラメル、他にも菓子が入っています。道中で召し上がってください」

 これが航空弁当か、と私は感心した。噂には聞いていたが、私の仕事では縁がなかった。

 いよいよこれを貰うような過酷な飛行に挑むのかと思うと、包みを持つ手に力がこもった。

「それと、これも」

 河瀬は平べったい形の瓶を差し出した。割れないように布が巻いてあって、首の部分は麻紐で括られている。

「とうきびで作った蒸留酒です。冷えた時に飲んでください」

「いいんですか? 酒は補給が大変でしょうに」

「昨日助けてもらった連中の分です。持って行ってください」

 力強い瞳に見つめられて、私は黙って手を伸ばした。

 河瀬の満足そうな笑みに送られて、私はチト6977号へと歩き出した。

 

 *

 

 バリバリというエンジンの音が、耳を支配している。

 ついに出航準備を済ませた私たちは、滑走路の端で最終点検を行っていた。真空管の熱が逃げてくる通風口の前には、もらった弁当が引っ掛けてある。これで少しは、冷めるのが遅くなるだろう。

 吹き流しは向かい風を示している。絶好の風向きだ。

 私は電鍵に手をかけてから、何もこんな至近距離で面倒な電信を打つ必要はないと思った。そこで回光信号機を取り出して、照準を管制室に合わせる。

「QEK? K」

 すぐに光が見えた。田辺くんはもう、あそこにいるのだろうか。

『QEK UW SK』と光が綴る。

 私は記録簿を椅子の隙間に押し込んだ。菊岡とは二度目の出航のやり取りのはずなのに、私は少し喉が詰まるようだった。少し緊張しているのだろうか。

「出航許可が出ました。後席よし」

「前席よし。出します」

 じりっと機体が動き出す。

 ぐんぐんと加速していく視界の隅に、エプロンで手を振る整備員たちが見えた。

 滑走路の八割を過ぎて、ぐっと機首が上がった。視界の奥で、排気筒から噴き出す炎が瞬いている。

 緩やかな左旋回。

 左手の奥には別飛の船着場が見える。機首は北東を向いて、海岸線に沿ってさらに高度を上げていく。

 右手の地上に、「エトロフ・シベトロ」と書かれた大きな円盤を見つけた。それは放射状に白黒に塗られていて、その中の一つだけが紅色をしている。これは地上標識と呼ばれるもので、紅色の部分が航路の方向を示している。ここには航路の先にある飛行場名を書くことが通例で、この標識にも得撫島の東雲原飛行場を示す「SNH-AP」の文字が見えた。

 無線機が普及しても、このような『見ればわかる』形式の標識は、各地に設置されていた。

「蘂取地上標識通過。記録願います」

 菊岡の喚呼に、私は鉛筆を構えた。

「方位040。速力96。高度3200英尺。現在時刻記どうぞ」

 私は時計を確認して「蘂取地上標識通過。0842」と答えた。

「0842、宜候」

 私は記録簿に数字を書き込み、ふっと空を見上げた。

 驚いたのは、その清明な空の青さだ。奥に行くほど濃くなっていくような青に、私は感動を覚えた。

 そこへ電信が鳴る。

『DE ETF1 CLG C6977 QTO?』

 見物もそこそこに、私は記録簿へと符号を綴っていく。

 読み取って気がついた。私たちはすぐに海へ出てしまったから、管制所からは見えなくなってしまったのだ。無事を知らせなければ、と私は電鍵に手を伸ばした。

「DE C6977 QTO QTE 040 QTJ 096 K」

『DE ETF1 UW UW UW FER AEGIS OP SEIREN K』

 特定の言葉を三回繰り返す、特徴的な返電。私はすぐに、この向こうにいるのが白瀬だと分かった。

 けれど「イージスへ」の意味だけがわからない。私は素直に「AEGIS? K」と打った。

『C6977 UR 1st AR/GDN OP AEGIS. QRX? K』

 私は首を傾げた。地上の電信士が"あなたはXXXです"という文を送るのは、教本にはない表現だ。それにイージスといえば、神話に出てくる女神の盾だ。それと私に何の関係があるのだろうか。

 とにかく問われた通りに、次の定時交信の時刻を知らせた。

「QRX 1030 K」

『RGR C6977 QRX 1030

 1030 1030 CUL SK』

 飛び跳ねるようなトーンが舞って、電信は切れた。

「セイレーンは、ずいぶんとご機嫌のようですね」

 菊岡は出航前よりも落ち着きを取り戻したようだった。もちゃもちゃと聞こえるので、もう弁当を食べているのだろう。

「もう慣れました。次回の定時連絡は1030です」

「1030、宜候」

 私は腰に提げていた双眼鏡を取り出した。右前方には、大きな島陰が見えている。覗き込むと、濃い緑色に覆われた山が見えた。

「よく見ておいた方がいいですよ」と菊岡。

「まともに木が生えているのは、このあたりまでですから」

「あれが得撫島ですよね?」と、私は念の為確認した。

「そうです」

 私は森に覆われた島をじっと観察した。松の隙間から、白い煙がたなびいている。

「あの通り、今はまだ人がいます」

 私の視線を察してか、菊岡が島を指す。

「けれど、もうすぐ無人になります。北端にあるのが東雲原飛行場で、松輪までに陸上機が降りられるのは、ここと新知島の着陸場だけです」

 着陸場という言葉を記憶の中から引きずり出して、私は背筋が寒くなった。

 再度の出航を想定しない、非常用の滑走路──いや、不時着用の更地と言った方が早いだろう。七千円もする高価なエンジンと、金で買えない搭乗員を回収できればいいと割り切った施設だ。

「これで私が乙装備を、と言った理由がわかってもらえたと思います」

「はい。浅学でした」

 幸いにも、我らがエンジンは快調だ。世話にならないに越したことはないと思いながら、空腹を感じた私は弁当を開いた。

 中身はパラフィン紙に包まれた太巻きであった。紙を剥いても、湯気が立つほどではない。それでも、海苔の香りが立っているところを見ると、まだ温かいようだ。

 分厚い革手袋をしていても掴みやすいようにという配慮だろうか、ものすごく太い。かぶり付くと、具はかなりしょっぱい干瓢と玉子焼きだった。しかも玉子焼きが甘い。砂糖がふんだんに使われているなんて、なんて豪華な太巻きだろうか。

 私がもりもりと太巻きを頬張っていると、菊岡の声が響いた。

「十時下方に船舶。逆行」

 私は口いっぱいの太巻きをなんとか飲み込んで、海を見下ろした。

 すぐに、煙突から立ち昇る煙を捉えた。それなりに大きい船なのだろうが、ここからではまるで笹舟のように見えた。

「あれは、缶詰工場の季節労働者を乗せた船です」

「季節労働者?」

「漁で獲った鮭や鱒を、缶詰にする工場があって、青森や八戸から労働者を集めます。夏にやってきて、冬が近づくと南へ帰って行く。風物詩ですね」

「八戸……」

 北関東で育った私には、出稼ぎという概念はあっても、そのために海を渡るという発想はなかった。千島という名前も、地図の上や、試験問題の上にしかなかったものだ。

 この旅に出て以来、いろいろなものを自分の目で見て、感じた。この大自然からは、学ぶものが多すぎる。そして私はその全てを恐れている。寒さも、海も、空も。

 それでも、この土地で働いて、生きて、子を育てる人がいる。

 その事実が愛おしくなって、私は鉛筆をぎゅっと握りしめた。

 

 択捉を飛び立ってから約八十分後。午前九時五二分。

 得撫島の岩の転がった海岸を右手に、チト6977号は北北東に進路を取っていた。

 雲は晴れつつあった。私は防寒着の隙間から入り込む風の冷たさに、時折身体を震わせていた。

「黒崎さん、二時方向の灯台が見えますか?」

 菊岡に問われて、私は右斜め前方に双眼鏡を向けた。背の低い草原の真ん中に、煉瓦造りの灯台がぽつんと建っている。

「はい。あの赤い建物ですね」

「あれが見島湾灯台です。まもなくあれの真西を通りますから、東雲原管制を呼び出して、灯台からの距離と方位、それと時刻を伝えてください」

 私はあれ? と思った。確か、私たちは松輪飛行場まで直行するという予定で飛んでいるはずだ。天候も悪くはないし、東雲原に連絡を取る理由が無いように見える。

「ですが菊岡さん。私たちは東雲原には降りないのでは?」

「我々がここを通ったことを記録してもらうんです。そうすれば、何かあっても見つけやすくなりますから」

「なるほど。わかりました」

 私は電信の用意をするべく交信記録簿を出した。

「あ、そうだ」と菊岡。

「ここの管制は、無電が通じますよ」

「それは助かりますね」

 私は電信ではなく、無線電話の出力を上げた。択捉よりずっと北にやってきたというのに、声で話ができるというのは不思議な感覚だ。

「東雲原管制、応答願います。こちらチト6977。東雲原管制、応答願います」

 私の呼びかけに、くぐもった男の声が答えた。

『こちら東雲原管制。チト6977どうぞ』

「チト6977より東雲原管制。交信記録願います。現在位置、見島湾灯台西方三英里。機首方位040。速度102節。松輪へ向け飛行中」

『東雲原管制からチト6977。見島湾灯台西方三英里。方位040へ102節。現在時刻、0955』

「宜候、交信終わり」

『安航を祈ります。終わり』

 ザリっというノイズを残して、通信は切れた。

 記録簿を戻して、椅子の上で軽く身じろぎをした。椅子のせいか、少し足が痺れていた。

「それにしても、ずいぶん来ましたねえ」

 まっさらな航空地図をぼんやりと見つめて、私はふっと呟いた。

 見渡せば、人の気配は灯台とその向こうに見える飛行場のわずかな建物しかない。それなのに、なぜか心が落ち着いている。

 択捉までを俗世と呼ぶなら、そこからさらに百三十英里も離れたこの海を、私は何と呼べば良いのだろうか。

 切り立った崖、島を埋め尽くす草原。滝。雲。

 人の作った物なんて、ここでは数えるほどしかない。人間も本来は、こういう場所で生きるものではなかろうか。

「涅槃にしては殺風景ですが、地獄ほど無愛想でもなさそうですね」

 私は思わず、思った通りのことを口走った。

「感傷に浸っているところ悪いけど黒崎さん。あなた、すぐに湯を飲んでください」

 菊岡の鋭い声が耳を打った。でもなぜか、遠くに聞こえる。

「……なぜですか?」とだけ呟いた。

「この島を見て美しいと思う。素晴らしいと思う。それは結構! しかし、ここに居たいと思ってはいけません! それは、海が見せるまやかしです!」

「はぁ……」

 菊岡の怒号は、なぜか私に何の感動も呼び起こさなかった。ただ、この空は綺麗だと思った。

「いいですか、あなたは本省の役人です。こんなところで死んではだめです。さあ、早く湯をお飲みなさい」

 菊岡さんが言うなら仕方ないと、私は水筒を手に取った。

 手袋越しに、じんわりと熱が伝わってくる。

 蓋に手をかけたのに、私は自分が、どうしてここにいるのかがわからなくなった。

 私は何をしているんだ? 柏原、ですか。美しい島だ。栗毛が揺れている。帰ってくるって、きちんと言ったっけ。誰かが見ている。緑の島。海岸線。三人の影。綺麗な海だ。ああ、あの島に降りられたら……

「……黒崎さん!」

 ばしゃっ! 

「わっあちち! わっ!」

 何が起きたのかわからず、慌てて防寒面を脱ぎ捨てた。目を開けると、ものすごい形相の菊岡がこちらを睨んでいる。

 その手には水筒。私は、正面から湯を浴びせられたのだ。

「間に合いましたか」

 手拭いを出して顔を拭う。湯を浴びたはずなのに、頬を撫でる風は容赦なく冷たかった。

「私は、一体」

「あなたは低体温症です。とにかく湯を飲んで、深呼吸を」

 私は言われたとおりに、水筒の蓋を開けた。

 まだ湯気の立つ白湯を、ゆっくりと啜る。温かい滝が、喉をすっと通り抜けていく。

 途端に、息が通って視界が開けた。それなのに、足の指がどこにあるのかがわからない。私は恐怖を感じて、勢いよく水筒を傾けた。

 ぐいぐいと湯を飲むたびに、身体に力が戻ってくるのがわかった。

 半分以上を一息に飲んで、私は大きく息を吐いた。頭がはっきりして、論理的な思考が戻ってくる。

 僅かな時間で体温を奪われることが、こんなに恐ろしいとは思わなかった。私は襟口から新しい手拭いをねじ込み、防寒面を付け直した。

 自分の言葉を思い出して、私はぞっとした。私は今、あの島に降りたいと言ったのか? なんという馬鹿げた考えだ。私は、ここで終わるために来た訳じゃない。

 生きるためだ。生きて帰るために居るんだ。私は、生きて帰るんだ。

 私は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。

 そして私は飛行眼鏡を付け直し、ついに人心地を取り戻した。

「黒崎さん。大丈夫ですか?」と、菊岡の声がはっきりと聞こえた。

 まだ息は荒かったが、私はとにかく「はい、生きてます」と答えた。

「キャラメルとか飴とか、ちゃんと食べてましたか?」

 菊岡に言われて、私は足元の籠に入れておいた黄色い袋を持ち上げてみせた。

「いや。どれも」

「なんでもいいから口に入れてください。この際だ、酒でもいいですよ」

 私は袋を開けて、一粒のキャラメルを口に放り込んだ。溶けたキャラメルが、ねっとりと舌に絡みつく。流し込もうと水筒を手にして、気づいた。

「そうだ。菊岡さんの水筒、中身が」

 そこまで聞いて、菊岡は笑いを漏らした。

「もう大丈夫そうですね。私には相棒がありますから、ご心配なく」

 菊岡は私に見えるように、黒い瓶を掲げてみせた。それを見ても、私はもう、怒ったり貶したりなんてしなかった。

 この空には、一人で生きている者も生きていける者もいないのだ。

 だから人間は群れる。群れて助け合う。そうやって生きていくから、人間は人間なのだ。

 それを教えてくれたのは、紛れもない菊岡だ。

 私は袋をまさぐって、餡子玉を二つ掴んで口に運んだ。

 ジャリジャリと砂糖を噛み締めながら、今の出来事を振り返る。

 あれは本当に、幻だったのだろうか。確かに、誰かが私を見ていた。本当に、そこに居た気がするのだ。

 それとも、私に何かを伝えようとしていたのだろうか。

 まあいい。

 私はまだ生きている。自然の試練とやらを、おっかなびっくりと踏み越えている。

 だからきっと、答えはこの旅が教えてくれるだろう。

 時計は十時十五分。択捉と約束した、連絡の時間が迫っていた。




次回、漂泊者たち
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