「黒崎さん。まもなく1030です。電信、打てますか?」
「なんとか、やってみましょう」
私は冷え切った右手をなんとか揉み擦り、緩慢な動きで記録簿を取り出した。
交信記録を読んでいくと、白瀬が送ってきた「AEGIS」という単語が目についた。モールスで示すと、これはものすごく単純な組み合わせになる。語数が減れば、消耗も抑えられるだろう。
私は鉛筆を構えて、送信文を書こうとした。そして初めの「DE AEGIS」を書いたところで、手が止まった。
あだ名の文化は理解できるし、便利な面も多々あることは認めよう。しかし、他人が勝手に呼んだ名前を、自分から進んで名乗るというのは、どうにも乗せられている気がする。
いやいや。どうせ聞くのは白瀬なのだし、指が痛いよりはずっとマシではないか。
私はなんとかそう割り切って、送信出力を上げた。
「CLG ETF1 DE AEGIS QTE 040 NR ENE 10NM FRM TORINOO K」
そして低速な──よく言えば丁寧極まりない──電信が放たれた。そして、私たちが一時間半をかけてやってきた道のりを瞬き一つの間に駆け抜けて、すぐに返事を連れてきた。
『DE SEIREN UR CW SLW CHK XTMR QRQ? K』
「QRM XT NOR QRN MTA 1200 K」
返電を打つ度に、振動で冷えた指先が痛む。私は咄嗟に、空電による電波不良だと答えていた。略符号には「手が悴んで動かない」なんていう便利なものはない。なんとかも方便というやつだ。
『R QRN MTA 1200 UW SK』
ぶっきらぼうなトーンが鳴って、電信はそれきり黙ってしまった。
「セイレーンはどうやら、ご機嫌斜めのようですな」と菊岡が茶化す。
「帰ったらちゃんと話しますよ。今はあれで精一杯です」
不注意とはいえ低体温症になっていたなんて、誰が聞いているかわからない電信で言えるはずもない。帰りも択捉には降りるのだから、私はその時に謝ろうと決めた。
*
しばらく飛んで、十一時五十分ごろ。
羅処和島に差し掛かったあたりから、私の正面には大きな山影が見えていた。
次の寄港地である松輪島は中千島の北部にあり、火山の噴火によってできたと言われる。中央に聳える山の名は芙蓉山。島まではあと五十キロはあるはずだが、その威容はここからでも十分に見ることができた。
「そろそろ、着陸申請をお願いします」
菊岡に言われて、私は宜候と答え、択捉と同じように電信を組んだ。
「CLG MTA1 DE C6977 QAL K」
しばらく間があって、返電があった。
『DE MTA1 QRZ? K』
私は唇を尖らせた。
空は晴れているのに、松輪の無線士が聞き返してきたのだ。震える手で、再送を試みる。
「DE C6977 KIKUOKA AND 1st AR/GND OP KUROSAKI. QAL K」
『DE MTA1 OP THOR WLC ORCA/AEGIS. QAM CLR WD EE2 RWY08 SK』
今度は通じたのか、すぐに返事が来た。電信員は「トール」というあだ名らしい。なぜ私をイージスと呼ぶことが知れているのかは疑問だったが、それよりも着陸だ。
「東からの風、風力フタ。西から着陸せよと言っています」
「宜候。島の西側へ抜けます」
機首がめぐって、島陰が右へ流れる。風の当たる向きが変わって、私は急に暖かくなったような感覚を覚えた。
「ところで、無線士が鯱と言っていました。これは菊岡さんのことですよね?」
「この辺りは私の古巣でして。面白がってそう言う連中がいるんですわ」
私は首を傾げた。菊岡と鯱。その結びつきがどうにも想像できない。根室で小松整備員に飛ばしていた怒号が由来かとも思ったが、それはシャチというよりも狼のそれだ。
ふと思い立って、私は「この海にも、鯱がいるんですか?」と訊いた。
「いますよ。この機の胴よりも太いやつが」
そのあっさりとした答えに、私は冷えている背筋をさらに冷やした。あんなに愛くるしい見た目のくせに、奴らはアザラシを狩り、その肉を食らう。厳しい冬を乗り切るためのご馳走になるのは御免だ。
どちらにしても、獰猛さに由来があることには違いなさそうだ。
「……安全に、降ろしてくださいね?」
私の真剣な声に、菊岡は「わかってます」と笑い混じりに答えた。
「けど降りたら、すぐに暖房のある部屋に投げ込んでもらいますからね」
暖房ならばむしろ大歓迎だ。眼下に見えるのはわずかな建物だけ。
それでもストーブの熱気が恋しくなって、私はじわじわと迫る地表をじっと見つめていた。
*
松輪に降りた私を待っていたのは、二十人からの男たちだった。
操縦席から飛び出した菊岡が敬礼と共に声を上げる。
「申告します。後席は軽度の低体温症。収容願います」
途端に彼らが走り寄ってきて、私は後席から引き摺り出された。そのまま神輿のように担ぎ上げられ、第二医務室という札が掛けられた部屋に連れ込まれた。
部屋の中は、蒸気でいっぱいだった。やっと床に下ろされた私を囲み、彼らは次々と防寒具や飛行服を剥ぎ取っていく。
すっかり下着にされた私の前に現れたのは、大きな石の一枚板。私が鯉だとするならば、まな板にするにはちょうどいい大きさだ。
別の男が大きな綿布を出して、石の上へ丁寧に敷いた。ほんのりと湯気が立ち昇り、頭にも蒸した手拭いを巻かれた。いよいよシャチの餌かと覚悟を決める間も無く抱え上げられて、石の上にそっと寝かされた。
冷え切った皮膚が熱を受けて、全身がびくびくと震える。けれど、温かいのは背中ばかりで腹が寒い。私は石板の熱を全て吸い込もうと身体を押し付けた。すると男たちは私の体に蒸した綿布を被せて、その上から温い湯を降らせ始めた。
全身が熱に包まれて、身体中がジンジンと痛む。かつて経験したことのない痛みに、私は大混乱の極みにあった。いつのまに饅頭になってしまったのか。それとも上海の蒸し料理か。
やめろ。餡子を詰めるな。醤油をかけるな。
もぞもぞと動こうとする私に、嗄れた声が降ってきた。
「温めとるんじゃけえ、おとなしくしときや」
「ううっ。私は、饅頭じゃありません」
「うんうん。喋らんでいいぞ。食いやせんからな」
やっと絞り出した抗議を無視して、声の主は私の腕や足を揉んでまわり、一人で頷いていた。
そこへ「先生、持ってきました」と別の男の声がした。
「よおし、腹を温めるぞ。ちと重いが我慢せえ」
突然、腹の上にじゃらじゃらと温かい石が盛られ始めた。このままでは、私はいったいどんな料理になってしまうのか。まさか、秋田で食われるという石焼鍋か。ならば、いっそきちんと焼いてくれ。
「弥七、酸素くれや」と再び声がする。
すると、私は口を覆われた。息が止まるかと思ったが、不思議なことに冷たい空気が流れ込んできた。途端に頭がはっきりとして、視界のもやがすっと晴れた。
「ええ感じじゃな」と聞こえると同時に、口を覆っていたものがゴムのマスクだと分かった。
「お兄さん。お兄さんはもう死なんで。起きや」
目を開けた私を覗き込んでいたのは山賊ではなく、白衣を着た高年の男だった。たくわえた髭に焼けた顔。頭の白髪が、妙に不釣り合いだ。
「あの、どちら様ですか」
「ワシは榎島重成。医者じゃよ」
男は簡潔に名乗ると、再び私の足を揉みはじめた。
「こんな島に、医者がいるんですか」
「なんじゃ、医者は本土にしかおるわけでもあるまい。お互い宮仕えの身じゃろ、気遣いはいらんよ」
榎島は思い出したように、私の目をぐいと押し広げて覗き込んだ。
「お兄さん、名前と歳は?」
突然問われて、私は戸惑った。
「問診じゃ。はよう答えい」
「黒崎義雄。二八歳」
私の答えに、榎島医師は「ほう。若いのう」とだけ答えた。すぐに足は揉みはじめたところから、記録は取っていないようだ。
「それで、どこの役所じゃ」
「ええと、運輸省航空本局技術部の、基幹通信保守課です」
「本省かい。そりゃあまた豪儀だの」
そう言って、榎島医師はかっかと笑った。この人はこうやって、初対面の相手の肩書きを聞くのが好きらしい。
「ところで、これはなんですか」
私は首を巡らせて、部屋の設備を見渡した。部屋の内側は全てタイル張りだ。背中越しには低い振動も伝わってくる。私に湯を降らせ続けているパイプは、どうやら壁から外へと伸びているようだ。
「ワシの考案した、凍傷処置器よ。お前さんが寝とる石の下には、発電機の冷却水を通しておる。浴びとる湯も、二次冷却水を沸かしたものじゃ」
私は心から感心した。おそらく、この建物には石炭ボイラーや大型のヂーゼル発動機があるのだろう。その燃焼による熱を無駄にせず、身体を温めることに利用するとは。上から見たところ、人が暮らせるように作られた建物はここくらいだった。医務室というより、風呂の延長のようなものなのだろう。
「そろそろええじゃろ」と、榎島は私の口を覆っていたマスクを外した。
「弥助! 風呂!」
へいと声がして、ひょろりとした背の高い男がやってきた。腹に乗せられた石がじゃらじゃらと退けられて、綿布が外される。
私はすっかり温まっていて、額には汗までかいていた。ゆっくり身体を起こすと、手足からはもくもくと湯気が立っている。
「風呂は隣じゃ。鞄は持ってきてやったから、よく浸かるんじゃぞ」
まるで子供に言いつけるような口ぶりに、私は素直にはいと答えた。
一時間後、私は宿舎の雑魚寝部屋で布団に収まっていた。畳の下にも温水が通されているのか、背中がじんわりと暖かい。敷布団、毛布、私、毛布、布団と重ねられて、まるで銀座で人気だという焼きサンドウヰッチの具にされた気分だ。
腹に抱いているのは、湯たんぽよりもずっと温かい、布を巻かれた扁平な石だった。気付に飲まされた、やたらと酸っぱい生姜湯の味がまだ口に残っている。
「黒崎さん、起きてますか?」
私を呼ぶ声がしたので、私はのっそりと身体を起こした。ドアから顔を覗かせていたのは菊岡だった。
「菊岡さん」
「ああ、まだ寝ててください」
菊岡は框までやってくると、どすんと腰を下ろした。
「機体の点検が終わるまで、もう少しかかりますから」
「今日中に飛ぶんですか?」
「それがですねえ」
菊岡は煙草を咥えた。カリッという音がして、マッチの火が揺れる。
「先生は撤収前の検診で松輪に立ち寄っただけで、飛行機を待って本土へ戻るらしいんです」
言いながら空になった箱をくしゃりと握りつぶして、屑籠へぽいと投げ入れた。
「体調がすぐれなければ、後のことは柏原に居る弟子に聞いてくれ、とまで言っていました」
菊岡は煙の中で苦笑した。
「ああもちろん、弟子さんの顔は知っていますから、ご心配なく」
「弟子までいらっしゃるとは。榎島先生は、すごい方ですね」
「北方航路の生き字引ですよ。なんせ、大正十二年に国後へ渡って以来、毎年のように北へ北へと診療所を移してきた方ですから」
私は感嘆の息を漏らした。
大正十二年といえば、私はまだ尋常小学校で掛け算に難儀していた。榎島は、その頃からこの土地に挑んできたというのか。
「しかし、択捉より北は無人島ばかりだと」
「今はそうです。ですが過去には得撫島にも入植計画がありました。先生は調査団に同行し、撤退するその日まで島に残られたのです」
私は先ほどの榎島との会話を思い出していた。洗練というにはあまりにも大雑把で、それでいて的確な診断と、徹底した温熱への執念。
なんなのだあの人は。食いやしないなんて言っておいて、しっかりとこの土地を食っているではないか。
助けてもらっておいて、このような感想を抱くのはどうかとも思う。しかしそれで幾人もの命を救ってきたのだろうから、一番食えないのは榎島自身ではなかろうか。
「その後、この松輪、そして柏原が開拓されて人が住むようになると、先生は毎年一番の船に乗って来られるようになりました」
つまり榎島は、この土地で二十数年を過ごしていることになる。何があったかは想像もつかないが、凄まじい執着心だ。それほどの胆力は持てないなと思った私は、腹に抱えた石をぐっと抱き寄せた。
「秋になると、あとは帰るだけになった柏原を先に発ち、最後の船で本土へ帰られます。本当に、どっちが家なのかわからない人ですよ」
尊敬の色を滲ませながら、菊岡は短くなった煙草を水を張ったオイル缶へ落とした。次の煙草を探しているのか、あちこちのポケットに手を突っ込んでいる。
私は枕元に置いてあった鞄に手を突っ込み、煙草の箱を二つばかり掴んだ。
「菊岡さん。これをどうぞ」
そう言って、私はそれを畳の目に沿って滑らせた。箱はするりと駆け抜けて、菊岡の手に収まった。
「あれ黒崎さん。あなたやらないんじゃ」
「根室で掴まされたんですよ。どうぞやってください」
「こいつはありがたい。いただきます」
菊岡はいそいそと一本を取り出して火をつけた。
そこへ、ノックの音が響く。
「失礼します」
入ってきたのは、厚手の作業着を着た、私と同じくらいの歳の男だった。手には、私のものらしい飛行服を抱えている。
「おや、菊岡さんもこちらでしたか」
「やあ岩原さん。しばらく」
菊岡は軽く手を挙げて答えた。どうやら馴染みらしい。男はそのまま框までやってきて、飛行服をそっと畳に置いた。
「飛行服と下着です。乾燥室でよく乾かしておきましたから、すぐ着られますよ」
「これは、ありがとう存じます。ところで……」
「ああ、これは申し遅れました」
男は居住まいを正し、随分と脇を締めた敬礼をした。
「私、貨客船床丹丸先任無線士兼・松輪飛行場管制無線士の岩原公二郎と申します。どうぞお見知り置きを」
「航空無線士の、黒崎です」
私は型通りの会釈を返したが、その名乗りの不自然さに首を傾げた。
船舶無線士なら乗組みの船があるはずだし、管制官とは扱う機材は似ていても役割がまるで異なる。私はそっと、岩原の目を覗き込んだ。
「貨客船……ということは、船舶無線士でいらっしゃる?」
「はい。松輪への赴任は、四年前からになります」
岩原はハキハキと答えた。目の焦点はしっかりと合っているし、おかしいところは見当たらない。ということは、地方にありがちな持ち回りや兼任の無線士ということだろうか。
「その、床丹丸という船は、今はどこに?」
「春牟古丹島・西十八浬の、海の底です」
「……はい?」
あれほど誇らしげに船名を口にしたのに、その船がもう存在していない? 私はますます混乱した。
「五年前の秋に、嵐にやられて沈みました」
それなのに、岩原の口ぶりは淡々と航海日誌を読み上げるようだった。
「しかし本日現在、船長はまだ下船しておりません」
岩原は静かに言った。
「よって、当職の任も解かれてはおりません」
私は困惑から菊岡を見やった。彼もただ、静かに首を振るだけだった。
「それで、トールというのは岩原さんのことですか?」
「そうです」岩原は笑顔で頷いた。
「セイレーンからの定時連絡で、黒崎さんのことは伺っています。彼女と渡り合えるとは、素晴らしい腕をお持ちですね」
「私はさっきまで蒸し饅頭になっていたんですよ。醜態を晒してしまって、恥ずかしいばかりです」
「そんなことはありません」と、岩原はきっぱりと否定した。
「生きていなければ電信は打てません。電信が止まれば、船は港に帰れなくなります。だから、私たちはあなたを助けます。私たちが命を繋ぐためには、無線士が必要です」
随分と突飛なことを言うものだと思ったが、筋は通っているように聞こえる。この島は、船が来なければ成り立たない。夏の間ここに派遣される何十人かを食わせる為には、何隻もの船が要る。そして、その何十人かがいなければ、北方航路は維持できない。中央からやってきた私でも、役に立つから生かされている。いや、そもそも職能のない者は、客となることすらできないのかもしれない。
「──しかし、なぜ雷神の名を?」
この話はあまり続けたくないだろうと思って、私は無理に話題を変えた。とはいえ気になっていたことではあるのだが。
「これはセイレーンにもらった名でしてね。流浪人とかそんな意味らしいですが、打ちやすいので気に入ってます」
流浪人という言葉は、彼によく似合っていた。昔読んだ北欧神話集の中で、雷神トールには「広くさすらう者」という呼び名があった気がする。しかし、モールスにすればPLANYSよりTHORの方が短い。無線士なら、やはりTHORを選ぶだろう。
岩原の好意に甘えて、私はもう一つの疑問を解決することにした。
「この辺りでは、みんな愛称で呼び合うんですか?」
「誰が呼び出したのか覚えていませんが、セイレーンが板についてからですかねえ。もっとも、自分から名乗る人もいますけど。ねえ菊岡さん?」
岩原の振りに照れたのか、菊岡は「私のことはいいですよ」と手を振った。
「それより、黒崎さんがイージスという強そうな名前をもらったことのほうが大事です」
「またまたご謙遜。私は鯱も好きですよ。力強くて」
「言われるとこそばゆいんで、やめてください」
頬を染める菊岡が面白くて、私は笑いを堪えきれなかった。この岩原という男は、なかなかイジリが上手いようだ。
そこへ、ノックの音が響いた。ドアが開くと、ひょろりとした男が立っている。確か、弥七と呼ばれていた男だ。
「黒崎さん。出発前に先生が検診をするそうです。医務室までお願いします」
「おっ、ならそろそろ暖機に行きますか」と、菊岡がさっと腰を上げる。
「では、私も管制所へ戻ります。黒崎さん、ご安航を」
岩原がそれに続いて、綺麗な敬礼を見せて出ていった。
私はのそのそと服を着込み、後ろ髪をひかれながら、暖かい部屋を後にした。
その後すぐ、医務室。
「それで、あの偏屈小僧には会ったか?」
下着を脱ぐ私の背中に、榎島が問いかける。
「偏屈、というと?」
「なんじゃ察しが悪いの。岩原じゃよ」
「ああ、会いました」
やっと合点がいってから、私は小さな丸椅子に腰を下ろした。
「なんとも、気の毒な話でした」
「ふむ。お前さん、見るべきものは見てきたようじゃの」
榎島は私の手を取り、脈を測り始めた。
「ああいう者は、内地では疎まれる。頭がおかしくなったと思う者もおろう。北方が生かしてくれるのは、ああいう者を受け入れる心の余裕のある者だけじゃ」
そう言って手を離すと、すぐに診療録に鉛筆を走らせ始めた。
「海が人を選ぶ、ということですか」
私がその横顔に問いかけると、榎島は聴診器をつけて私の胸に押し当てた。
「近いものはある。人間は山を切り、谷を埋め、鉄を沸かして今の繁栄を手に入れた。しかしどうじゃ。東京からたった一千浬しか離れておらんというのに、この島にはただの人間を生かしてくれるような土地は無いじゃろう」
肩を叩かれて、私は背中を向けた。ひやりとする聴診器が、ぺたぺたと背中を歩いていく。
「海も空も、ワシらが気を抜くのを待ちかまえておる。油断した奴は食われる。あの船のようにな。よし、前向きな」
「沈没について、何かご存知なのですか」
「それは知らん」
榎島は簡潔に答えると、両手を使って私の胸を叩き、再び診療録に目を向けた。
「船長は優秀な男で、航海士も南海航路で鳴らした逸材じゃった」
鉛筆の走るカリカリという音が、板張りの床にこだまする。
「それでも、沈んだのですか」
私は再び、その横顔に問うた。
「乗員の良し悪しではない。この海は、東京の成金も田舎の百姓も関係なく飲み込む。奴らの前では、人間は何もできん」
今度は血圧計が出てきた。榎島は私の腕に手早く腕帯を巻き、ポンプを押していく。
「ならばどう共に生きるか。お前さんもそろそろ考え始めた頃じゃと思うが、どうかの」
シュッと音がして、腕帯が解かれた。診療録には、次々と数字が書かれていく。
私は、すぐに答えられなかった。ただ、その姿を見て、後席に差しっぱなしにした交信記録簿を思い出していた。
「ふむ。血圧も大丈夫じゃの」
「……それで、榎島さんは答えを見つけましたか」
私の問いに鉛筆が止まる。ゆっくりと私の方を向いたその目には、まだ迷いの色が濃く残っていた。
「答えなんて、人それぞれじゃろ」
榎島はすぐに机に向き直り、引き出しから鍵のついた細長い箱を取り出した。
開けると、中身は注射器であった。棚に手を伸ばし、黒いガラスで作られたアンプルを取る。榎島がそれを捻ると、パキンと小気味良い音を立てて首が割れた。
「ワシやお前さんのようにお国の命令で渋々やってくる者も居れば、岩原のように帰る道を見失った者もおる」
針先がアンプルの中へ差し込まれ、黄褐色の液体がゆっくりと吸い上げられていく。
「あるいは、食い詰めて缶詰工場の船に乗る奴もな。ほれ、肩を出せ」
私は大人しく右を向いた。左の肩に、びたびたと消毒液が塗られて、独特の臭いが鼻をつく。しかし私は子供ではないので、泣きも喚きもしない。ただ、右手の爪が手のひらに食い込む痛みに耐える実験をしているだけだ。
それなりの勢いをつけて針が刺さった。ぐっと薬が流し込まれて、それはすぐに抜けた。厚いガーゼを当てて、軽く包帯が巻かれた。
「よし。突貫工事じゃがよかろう。着ていいぞ」
私は無言でツナギに袖を通し、何事もなかったような顔をして椅子に戻った。
「そら、持ってきな」
差し出された紙を手に取る。訓練生時代にもよく見た、薄黄色の飛行診断書だ。
書かれていたのは一文のみ。
『黒崎義雄。柏原ヘノ飛行ニ差シ支へ無シ。但、保温厳ナルコト』
私はそれを、丁寧にポケットへと滑り込ませた。
「ありがとう存じます」
「なに、これも仕事よ」
榎島は湯呑みに手を伸ばし、まだ湯気の立つ白湯を啜った。
「お前さんなりでいい。もしも答えが見つかったら、帰りに教えとくれ」
学校へ行く子供に頼むような口ぶりに、私は素直にはいと答えた。
二十分後。松輪飛行場・エプロン。
「チト6977号、柏原へ向けて出航します」
菊岡の敬礼が天をつく。整備員の一人が敬礼を返し、書類挟が交わされた。
柏原までの飛行は私が使い物にならないので、操縦士による──古典的な──直接申告による飛行となった。
チト6977はもう発動機を回して、準備万端だ。
その後席に、私はこれでもかと毛布を巻かれて積み込まれた。色が暗い橙色なので、遠目に見れば巨大なエビフライと言ったところだろうか。
電鍵が叩けるよう、右手だけは出してもらった。注射を打ったばかりの左腕は、なかなか思うように動かない。
わずか二時間超の滞在だというのに、職員たちは私のためにあれこれと世話を焼いてくれた。すぐ手の届くところには、満タンの水筒と弁当が入った袋が吊るされている。
菊岡が操縦席へ乗り込み、機体がギシギシと揺れる。地上では整備員たちが慌ただしく動き回り、出発前の点検が次々と進んでいく。
不意に無電が鳴った。
『あー、こちら榎島。若いの、聞こえるか。ちゃんと帰ってくるんじゃぞ。ワシは暇が嫌いじゃからな』
私はなんとか手を伸ばして、無電の送信スイッチを押した。
「黒崎です。早ければ数日で戻りますから、我慢してください」
『岩原です。択捉から、黒崎さん宛の伝言です。柏原からの電信を待つ。以上です』
「受領しました。ありがとう存じます」
通信が切れると、管制所の回光信号が出航許可を伝えてきた。菊岡はそれを待っていたかのようにスロットを開き、機体がゆっくりと誘導路を滑っていく。
「柏原までは、二時間の予定です」と菊岡。
「私は荷物で結構ですよ」
私は自嘲した。実際、私にできることはせいぜい電鍵を叩くくらいしかない。
「ここからは、菊岡さんのほうが詳しいでしょう」
「そうかもしれませんね」
菊岡の乾いた笑いが耳を打つ。
「でも、帰投方位指示器の監視は頼みます」
「宜候。後席よし」
「前席よし。行きましょう」
滑走路に出たチト6977は、エンジンを全開にしてぐんぐんと加速した。完璧に梱包された私は、もう寒さを感じなかった。
飛び立った機体は機首を北東に向け、すぐに海上へ出た。
千二百キロの旅の終着点。
柏原まで、あと百九十四浬。
次回、柏原