蹄音、高く外伝 北方航路のセイレーン   作:上條つかさ

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復旧

『おはようございます。本日は昭和十八年十月三日、日曜日です』

 朝の放送とともに、私は寝台から身体を起こした。

 窓の外、遠くに見える港には、別の船が着いていた。いくつかの建物からは蒸気が吹き出していて、もう荷下ろしが行われているようだ。

 私は顔を洗い、髭を剃り、作業着に袖を通した。

 そして五時三十分。

 時間通りに堤がやってきて、まっすぐ食堂に向かう。

 今朝は牛丼だということで、私はほんの少し期待していた。だが渡された丼を見て、私は肩を落とした。昨日の親子丼から、鶏肉だけ牛肉に置き換えたようにしか見えなかったからだ。

 一応食べてみたが、味の違いもよくわからない。堤に言わせれば、朝はこれでいいのだそうだ。

 

 そして迎えた午前七時。

 私と堤は、地下にあるという電気室に降りる階段の前にいた。

 私の手には大きな工具箱。堤が背負う木箱には、各種電線や部品が入っている。

 すぐに一人の男が、じゃらじゃらと鍵の音を立ててやってきた。彼は最上と名乗り、すぐに鍵を開けてくれるという。

 私たちは連れ立って、靴を鳴らしてコンクリートの階段を降りていった。降りきったところには木の扉があって、電源室の札が掛かっている。

 最上が鍵を開け、ゆっくりと扉が開いた。

 室内は、地下特有のじっとりとした空気で満たされていた。太い電線が繋げられた、本棚のような電源装置が並んでいて、時折継電器がカチカチと音を立てている。ブーンという低い音は、隅の変圧器が動いている音だろう。

「無線室の配電盤は、こちらです」

 最上は壁際の大きな配電盤を示した。高さは私より頭ひとつ大きいくらい。数百ワット級の無線機をいくつも動かすのだから、納得の大きさだ。扉には、入出力を示すメーターまで付いている。

「開けてください」

 最上が鍵を差し込み、ガチンという音を立てて鍵が外れた。

 堤と私は、ゆっくりと開いて行く扉を、じっと見つめた。

 

 そして配電盤は、拍子抜けするほど綺麗に整えられていた。私は思わず堤と顔を見合わせた。

 焼けた端子もない。

 腐食した配線もない。

 応急修理を繰り返したような跡もない。

 私が見ても、手順どおりの構成だ。少なくとも、ここに致命的な欠陥があるようには見えない。

 私は扉の裏に貼られている回路図と、中の配線を見比べた。

 一次側には、遮断器と保護継電器。その先には放熱機に覆われた大型の変圧器が据えられている。二次側では再び遮断器を経由して、整流器と平滑回路を経て直流へと変換されてゆく。

 その後、用途ごとに分岐され、それぞれの電圧に調整されて送られていた。

 配線は整然と束ねられ、端子にも一つ一つ番号札が付いている。少なくとも表面上は、手抜き工事の類には見えなかった。

 焼き付いた継電器、腐食した電線、溶け落ちた皮膜──そういったわかりやすい故障を期待していた私は、再び肩を落とした。

「……随分と綺麗ですね」私はぽつりとこぼした。

「しかし、考えられる原因はもう、ここしかありません」と堤。

 いつまでも最上に居てもらうわけにもいかないので、私は鍵を預かって彼を返した。

 堤は部屋の隅から、碍子のついた鉄の籠を引っ張り出していた。

「それは?」

「いわゆる負荷試験装置です。誰が作ったかは知りませんが、役に立ちますよ」

 私はしげしげと鉄籠を眺めた。

 入力側には遮断器とダイヤル付きの可変抵抗器、そして電流計。籠の内部には、赤茶けた抵抗線が何本も張られている。つまりこれは、任意の抵抗を作り出すだけの装置だ。

「なんとまあ、原始的ですね」

 私は感嘆とも呆れともつかない感想を漏らした。

「負荷をかけてやるだけなら、これでいいんですよ」

 堤は二次側の、平滑回路の出口に試験装置を繋いだ。検電器と電圧計も繋がれて、いよいよ準備完了だ。

 私は堤と鉄籠を信じることにした。革手袋をつけ、文書挟を出し、鉛筆を構える。

「では、試験を始めましょう」

「出力側遮断器開放よし。主電源、通電します」

 堤が本線の遮断器を上げると、配電盤の表示灯が灯る。すぐに出力側の表示灯も点いて、回路は正しく作動しているように見えた。

「出力上げてください」

「出力上げます。一割……二割……」

 試験器のダイヤルが、カリカリと音を立てて回って行く。

「三割。受信機相当です」

 私は電圧計を覗き込み、数値を記録した。

「異常は見られませんね。もっと上げてください」

「出力上げます。五割へ」

 電圧計の針が、わずかに震えた。

「六割」

 針が少し落ちる。同時に、表示灯がわずかにゆらめいた。

「どうですか」

 堤は電圧計を睨んだままだ。

「まだいけます」

「では、上げてください」

「はい。七割まで上げます」

 カチッ。

 継電器の音と共に、電圧計が大きく沈む。

「落ちました」と堤。

「何ボルトですか」とすかさず確認する。

「二二四ボルト。規定値が四百ですから、四割以上も落ちています」

 私は文書挟に数値を書き込んだ。かなり極端な落ち方だ。

「なら原因は上流ですね。もう少し上げてください」

「わかりました。八割まで上げます」

 堤がダイヤルに手をかけた途端、突然パチンという音がして、配電盤の遮断器が作動した。

「保護回路作動。遮断器が落ちました」

「どれですか」

「一次側上段です」と堤。

 すぐに回路図に目を走らせる。

「ということは、変圧器ですか」

 堤は頷いて、変圧器を覆う放熱機に手を当てた。

「手袋越しでもわかるほどに熱を持っています。見つけましたね」

 笑みを浮かべる堤に頷きを返し、私は書類挟に時刻と電圧を記録した。

「主電源の遮断器を開放してください。すぐに分解しましょう」

 堤はすぐに工具箱に手を突っ込み、長いドライバーを出した。手際よくネジが外されて行く。

 放熱機が外れると、下にはさらに赤黒く変色した鉄製の覆いがあった。

 最後のネジが外れる。

 覆いを持ち上げた瞬間、縁の一部がぱらりと崩れ落ちた。

 露わになった変圧器は、想像以上の有様だった。絶縁紙はところどころ黒く変色し、表面には白い粒が浮いている。

 推理するまでもない。これも塩だ。

「これは、随分やられてますね」

 私は堤の肩越しに、塩にやられた変圧器を覗き込んだ。

「巻線まで塩が回っています」堤は呆れたように息を吐いた。「これじゃあ、狙った電圧は出ませんよ」

「堤さんの読みが当たりましたね」

「まさか、本当に電源とは思いませんでした」

 私は、照れる堤の肩を叩いて労った。

「さあ、設備部を呼んできましょう。ここからは、彼らの仕事です」

 

 堤と設備部に後を任せて、私は電信室へ戻った。

 室内では、笹木と山内が無線機の組み立てを進めている最中だった。私が電源の故障箇所を突き止めたと伝えると、二人は目に見えて安堵した。

 山内が淹れてくれた濃いお茶で一息つきながら、私は例の中間増幅モジュールを机に載せた。だが二人とも、その改造については心当たりがないらしい。

「越冬隊の誰かでしょうか」

「かもしれませんね」と、二人は顔を見合わせた。

 結局その場では結論が出ず、次便でやって来る越冬隊の無線士に見てもらうことになった。

 そして昼食の後、私たちは組み立てを再開した。

 外板を閉める頃には、無線室はすっかり元の姿を取り戻していた。あとは電源の復旧を待つだけである。

 ところが夕方になって戻ってきた堤は、思わぬ追加報告を持ってきた。

「変圧器の据付基礎に亀裂がありました。そこから水が入り込んだようです」

 私は再び肩を落とした。基礎を打ち直さなければ、新しい変圧器は据え付けられない。当然、セメントが固まるまで工事は進まない。

 結局、復旧作業は翌日に持ち越されることになった。

 

 後を二人に任せた私は、次に診療所を訪ねた。事故から一日が経ったので、そろそろ菊岡の様子を見ておこうと思ったのだ。

「失礼します」

「王手!」と奥の方から声がした。

「あっ、ま、待った!」

 覗き込むと、奥は和室になっていた。小さな卓の上で、中垣と菊岡が将棋を指している。そしてどうやら、菊岡の勝ちらしい。

「待ったなし。ご馳走様です」

 菊岡は脇に置かれていた瓶を取り上げると、ぐびぐびと呷った。

「もう麦酒ですか」

「やあ、黒崎さん」

 突然現れた私に、菊岡は片手をあげて答えた。

「どうですか、仕事の具合は」

 まるで小休止の合間のような挨拶に、私は辟易した。

「色々と、駆けずり回りましたよ」

 私は畳に上がり、どっと腰を下ろした。

「結局、原因は電源でした。明日には復旧の予定です」

「そうですか。では柏原の無線機復旧に乾杯ということで」

 再び天を仰ぐ瓶を横目に、私は呆れていた。

「いいんですか。怪我人に麦酒なんか飲ませて」

 中垣は煙草を吹かし「骨折と酒は関係ありませんから」と菊岡に味方した。

「一日一本程度なら、気付けということでいいでしょう」

 目の前でどんどんと空になっていくのは中瓶なのだが、それは一本として良いのだろうか。私はなんとも納得できなかったが、医者である中垣が良いというなら仕方ない。

 とはいえ、添木で二の腕を固定されて、包帯で巻かれている姿はそれなりに痛ましく見えた。

「まあ、元気そうで何よりです」

 私はポケットをまさぐって、二箱の煙草を出した。

「ささやかですが、お見舞いです」

「あれ。わざわざ買ってきてくれたんですか」

「まさか。根室から私と一緒に遥々旅をしてきた煙草ですよ」

「こいつはありがたい。では遠慮なく」

 菊岡は器用に片手で箱を開け、軽く振って一本を取り出した。

「中垣さん。一応聞きますが、煙草は」

「一日に五、六本なら、私は何も言いませんよ」

「そうですか」

 思い出してみれば、内地でも気胸でなければ煙草くらい好きに吸わせている。布団に寝かされている鬱憤が晴れるなら、煙草くらいはいいだろう。

「それで、飛行機はどうなりました」

「まだあのままです。原因が天窓の腐食だったので、整備部はそっちを直していますから」

「なんとか連れて帰ってやりたいですが、ともかく」

 菊岡は煙草を灰皿へ預けると、私へと向き直って深々と頭を下げた。

「帰りのお送りができませんで、本当に、申し訳ないことです」

「そんな。菊岡さんのせいじゃありませんよ」

 私は慌てて手を振った。あちこちに立ち寄る輸送船なら一週間はかかる航路を、たった二日で飛び越えたのだ。事故に遭ったことを気の毒に思いこそすれ、責める理由はかけらもない。

「それに、船で帰れるなら、私はそれで結構ですよ」

「そう言ってもらえると、気が楽です」

「無線機が直れば、細かな指示も得られます。手筈は整えますから、今は養生してください」

 私はそう言い残して、診療所を後にした。

 外の空気は、少しひんやりとしていた。港に揺れる蒸気は少なくなって、漁船も減ったように見える。

 私は出発前、細萱から言われた言葉を思い出していた。

 本当に、煙草の一つでもなければ、この海は広すぎるのかもしれない。

 

 ──翌日、午前八時。

 私が電気室を訪れた時には、すでに修理は終わっていた。堤の手で遮断器が上げられて、表示灯が灯る。

 私は報告を設備部に任せ、堤と共に無線室へと戻った。

 室内には、笹木、井上、江口、山内の全員が待機していた。

「直りましたか!」と笹木が開口一番に問う。

「はい。ここからは、私たちの仕事です」

 私の頷きとともに、笹木が号令をかける。

「無線機始動手順、始め!」

 三人が無線機に飛びついて、主電源の遮断機が上がった。

 すぐに、継電器がカチカチと音を立て始める。

 パツンという音がして、スピーカーが接続された。

「電源入りました。受信回路表示灯、よし」

「周波数、ATC一般呼出へ設定します」

「送信出力二百ワット。定格出力、出てます」

 三人が、それぞれに報告を上げる。最後に、笹木が受信機の前に置かれた椅子を引いた。

「さあ黒崎さん。修理完了の発信を」

「私ですか?」

 順当に笹木が打つものだと思っていた私は、思わず頓狂な声を上げた。

「当然でしょう。あなたが直されたんですから」

 困惑して振り返ると、堤もうんと頷いた。ここにいる全員と設備部、そして小林の手助けがなければ直せなかったはずなのだが、どうやら周りはそう思ってはくれないらしい。

「では、僭越ながら」

 私は椅子に腰を下ろし、記録紙を出した。鉛筆を構え、送信する文言を書き記す。

 送信先はもちろん、この海で最も耳の良い無線士だ。彼女に届けば、この北方航路のどこへでも届く。

 電鍵を構えて、息を吸った。

 わずかな緊張とともに、最初の信号が発信された。

「VVV VVV CLG SEIREN DE AEGIS KWA XTMR RPR CPL K」

 打ち終えて、私はじっと待った。スピーカーからはザーっというノイズだけが響く。

 息を呑むような数秒の後。

 ノイズの中から、トーンが歌い出した。

『DE SEIREN』

「やった」と笹木が小さく漏らした。私たちは息を詰めたまま、続く符号を待つ。

『WCB AEGIS QOF3 QOF3 QOF3 SK』

 受信良好。私は達成感から、左の拳を腿に打ちつけた。

 他局を呼び出そうと電鍵を構えると、それよりも早く白瀬の電信がスピーカーを震わせた。

『CQ CQ NOR ATC CBK AEGIS K』

 白瀬は、まるで自分のことのように北方航路へ呼びかけていた。

 イージスが帰ってきた──。

 その文面に、私は照れながら鉛筆を走らせた。

『DE THOR WCB AEGIS SK』

 最初に反応したのは松輪の岩原だ。簡潔で厚みのある音が部屋に満ちる。

『DE SNH1 R FB RTW UW SK』

 続いて東雲原が応えた。道中、無電で話した無線士と同じ人だろうか。硬質で跳ねるような、聞いていて心地良いトーンだ。

『DE NEM RCD CUL AEGIS SK』

 最後に根室。これを聞いた無線士は、すぐに細萱のところへ駆け込むだろう。

 私はようやく息をついた。

 これで私の仕事の、その半分が終わった。あとはどうやって帰るかだが、今は少し余韻に浸りたい。

 そこへ電信が鳴る。

『DE THOR CQホレ』

 岩原だ。ここからはカナで送る、という符号を送っている。私は頭を和文モールスに切り替えて、受信を待った。

『ナイチデ アオウ エジマ ラタ』

「ふっ、ははは」

 緊張の糸が切れた私は、ついに笑い声を出してしまった。私はどう帰るかも目処が立っていないのだ。それなのに、何も知らない榎島はもう、内地の酒場で私に人生訓でも説くつもりでいるらしい。

「榎島先生らしいですね」

 笹木はそう言って、湯気の立つ湯呑みを差し出した。

「酒という訳にはいきませんので、これで」

「いいですね」

 私が腰を上げると、全員が姿勢を正した。笹木に頷きかける。

「それでは、柏原飛行場管制部、無線機の修理完了を祝して! 乾杯!」

「乾杯!」

 全員が唱和して、湯呑みが一斉に傾く。

「よおし、整列!」

 空になった湯呑みがさっと盆に集まり、三人が無線機の前に整列した。

「黒崎技官に、敬礼!」

 笹木の号令に合わせて手が上がる。私は面映い気持ちで答礼を返した。

「皆さんのご協力の賜物です」

 私は簡潔に締めると、ポケットから二箱の煙草を出した。

「これは、皆さんでどうぞ」

 一歩前に出た笹木が受け取る。

「ありがとう存じます」

 そのまま丁寧に盆へ置くと、笹木は三人へ向き直った。

 意図を察した私は、堤と共に入口へとそっと退いた。

「只今より、昭和十八年十月四日、日勤業務を開始する!」

 笹木の敬礼と、ざっという答礼の衣擦れの音が響く。

「まずは溜まった電報から捌いて行こう。山内は受信待機、江口は一般電報の整理!」

「はいっ!」

 途端に、スピーカーが一斉に鳴き始めた。復旧を待っていた各局は、やり取りしなければならない大量の情報がある。彼らは今からそれを全て送り、聞き、纏め上げなければならないのだ。

「井上は管理棟行って、行政電報貰ってこい!」

「おっす!」

 振り返った井上のためにドアを開けてやると、あっという間に廊下へと消えていった。

 そこへ電話が鳴り、笹木が飛びついた。

 声をかける時期を失くした気もするが、彼らならもう大丈夫だろう。私は堤に目配せして、無線室を後にした。

 

 一日休みを取って英気を養った私は、無線室で電信を打っていた。

 機体と菊岡の処遇について、細萱に直接の確認を取るためだ。立場上、全て笹木らに任せることもできるのだが、せっかくの機会なので直接電信を打たせてもらうことにした。

 もちろん、根室はまだ通常運用中なので、直接長文を送ると混乱を起こしてしまう。そこで択捉に一度書き留めてもらい、転送してもらう方法をとった。他局との隙間を縫っての通信となるので、そのやり取りには非常に時間がかかった。ああ、電話が恋しい。

 最終的には「破損した部品は現地にて廃棄し、胴体のみ梱包して最終便に積載すること。菊岡および私も便乗せよ」ということで決着がついた。

 修理してから戻ってこいと言われなかったことで、私は胸を撫で下ろした。あの丼が半年も続くのは御免被りたい。

 さて、最終便が根室を出発する予定日は十月の十二日。柏原まで直行するというので、到着にはさらに三日見ておけばいいだろう。

 今日が十月の六日なので、私には九日もの待ち時間ができたことになる。今回の件の報告書を作るために一日か二日使うとしても、それでも一週間の休暇だ。規定によれば、僻地出張は期間中全日全額支給となっているので、実質的には有給になる。

 さらに、チト6977号の分解と梱包にも半日見なければならない。とはいえ、作業自体は整備部がやってくれる。監督といってもその場にいれば良いだけなので、やる事がないことに変わりはない。

 そこで私は笹木と話し合い、一日は日勤に入れてもらうことにした。AEGISの名が北方航路の全域に知れ渡ってしまった今、私が日勤に加わることを咎める者もいないだろう。

 そして私は再び菊岡を訪ね、飛行機は翼を外して持ち帰ることを伝えた。

「そうですか。お手間を取らせました」

 菊岡は、私が見舞いにと渡した煙草を吹かして言った。

 そして「あの翼は、なかなかの傑作だったんですがねぇ」と、一本目だと言い張る麦酒を呷った。

 その通りで、木造機の翼というものは、桁の材質や保護剤の塗り方で一枚一枚の性能が微妙に異なる。大抵はエンジンやプロペラの調整で帳尻を合わせられるのだが、僅かなたわみや翼端の補修による変化でも、操縦士ならすぐに違和感を覚える。急激な機動を取るというのは非常時に限られるが、その時にどんな挙動をするかを予め知っておくのは操縦士の大切な技術だ。

「機体来歴簿はきちんと持ち帰りますから、できるだけ同じ物を拵えてもらえるよう頼みましょう」

「頼みます」

 菊岡は力無く笑った。

「あれも六年モノですから、どこまで直してもらえるやら」

 その寂しげな言葉に、ならば根室で彼の帰りを待つ愛機とは、どれほど使い込まれた機体なのだろうか。

 私はそれを聞けないまま、診療所を出た。

 




次回、帰路
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