蹄音、高く外伝 北方航路のセイレーン   作:上條つかさ

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帰路

『……TAIYOU MARU ATD OCT 09 ARV SNH 10 MTA 13. TDY URUP STRT WX CLD/DZ……』

 白瀬からの電信が鳴っている。

 内容は、松輪島および得撫島の最終便に関するものだ。

 この二島の最終便が先発するのは、滞在中の人員だけでは閉鎖作業が間に合わないからだそうだ。さらにこの便では、春に最初に入る職員の手間を減らすため、かなりの量の燃料や資材も運び込む。港の小さい松輪や得撫では、事前の準備が特に重要なのだろう。

 電信はさらに三分も続いて、やっと終わった。

 間髪入れず、次の電信が鳴る。

『CQ NOR ACT DE THOR』

 今度は、松輪の岩原からだ。

 次から次へと、北方航路の全域へ情報が流れていく。船の名前が出たことで、いよいよ冬に向けた動きが加速している。そんな空気があった。

『MTA CTS ENRT CLR. RDY CL AP OCT13. WX FG QUH 995……』

 内容は、北方航路から飛行機がいなくなれば、滑走路を閉鎖するという予告だ。

 私は、記録紙も鉛筆も持たずに部屋の隅の椅子に掛けていた。正直なところ、私は暇を持て余していて、流れ着いたのがこの無線室だった。

 ところで、仕事は柏原飛行場管制部がきちんとこなしている。受信と記録は江口が、その隣では笹木が発信電報の整理をしていた。

 流れるトーンを聴きながら、私はなんともいえない寂しさを感じていた。

 今朝は、せっかく来たのだから町まで散歩をしてみようとも思った。しかし、拳銃かライフルを持たないと飛行場の敷地からは出せないというので、すぐに諦めた。

 私の射撃の腕前は、夏祭りに射的で遊ぶ子供以下だからだ。うっかり暴発でもさせようものなら、石炭と一緒に罐に放り込まれかねない。

 どちらにせよ、すでに缶詰工場の従業員は撤収を済ませている。商人もほとんどが同じ船で引き揚げたというので、見るところはないだろうが。

 そんなとりとめのないことを考えていると、不意にノックの音がした。

 振り返ると同時に扉が開く。

「失礼します」

 入ってきたのは、黒い作業服に身を包み、ライフルを背負った男だった。両袖に日の丸が付いているので、おそらく搭乗員だ。

「黒崎技官は、いらっしゃいますか」

「私ですが」

 手を挙げると、男は私の前までやってきて敬礼した。

「海事保安庁第一管区根室支部・飛行艇あきゆりを預かります、柳川二等海事保安士と申します」

 その名乗りに、私は慌てて立ち上がって答礼を返した。

「航空本局の黒崎です」

「突然お邪魔して申し訳ありません。実は先日の事故を受けて、黒崎さんにご提案がありまして」

 柳川はライフルを下ろすと、手近な椅子に掛けた。

「本艇の出航は、十月十三日を予定しています」

 そこまで聞いて、すぐに話が読めた。おそらく、菊岡を乗せて帰すことができる、という話だろう。

「ついては、黒崎さんと菊岡操縦士のための席が用意できます。いかがでしょうか」

 私は「なるほど」と頷いた。私まで乗せてもらえるとなれば、願ってもない話だった。

 船を待たずに根室へ戻れるし、菊岡も家に帰せる。機体は船に預けることになるが、彼らも運輸省に雇われているのだから、壊したりはしないだろう。

 ……いや、あれはもう壊れているのだったか。

 私は一人苦笑し、どうしても気になる質問をした。

「それで、航路はもう決まっているのですか?」

「はい。松輪と天寧で燃料補給を行います。搭乗員の上陸はありません」

 天寧と聞いて、私は柳川から目線を逸らした。飛行艇なら百二十節近く出る。補給だけということは、一日で根室へ帰るつもりなのだろう。

「それで、菊岡さんはなんと言っていましたか?」

 チト6977は、書類上はまだ任務中だ。その搭乗員の序列も菊岡の方が上である。何をするにしても──例え負傷していたとしても──その判断が優先されるというのは、パイロットの常識だ。しかし、柳川は困り顔を見せた。

「それが、診療所には伺ったのですが……だいぶ、お酒を飲まれたようでして」

 それを聞いた私は時計を確かめ、唸りとも溜め息ともつかない声を漏らした。

「というわけで、同乗の黒崎さんに直接、と」

「それは、お手間を取らせました」

 一応の礼節として、私は代わりに頭を下げた。

「私は構わないのですが、ご存知の通り、チト6977号を持ち帰る責任があります」

 実際に責任があるのは運輸省そのものなのだが、私はハッタリをかました。保安庁相手に腹芸というのも滑稽だが、このくらいはいいだろう。

「こちらで菊岡さんに諮りますので、一日いただけないでしょうか」

「そういう事でしたら、お任せいたします」

 柳川はあっさりと明日の終業まで待つことを約束して、ライフルを手に部屋を出て行った。

 

 勤務時間の終わりを待って、私はまっすぐに診療所へと向かった。

 引き戸を開けて、中に入る。

 和室に顔を覗かせた途端、

(ふね)はごめんです」

 私はまだ何も言っていないのに、菊岡は怖い顔をして布団の上に胡座をかいていた。浴衣ははだけて、顔色も悪い。泥酔していることは明らかだ。

「……なぜですか?」

 問いながら、私はそっと畳へ上がった。見渡すと布団の周りには何本もの麦酒瓶が転がっている。卓の上の灰皿も一杯だ。

「船酔いを、するもんですから」

 あからさまな嘘に、私は黙って菊岡の目を見ていた。

 柳川とのやり取りが、何かを思い出させてしまったのだろうか。彼を責めるつもりは毛頭ないが、あの菊岡がここまで取り乱す理由が知りたかった。

「もう、飛行艇には乗らないと決めたんです。私は船で帰りますから、黒崎さんはどうぞ、艇に乗ってください」

「理由を聞かせてください」

 納得ができなくて、私も胡座をかいて腰を据えた。もしも事故のことを気にしているなら、導索のワイヤーで縛り上げて飛行艇に押し込んでやろうと思ったのだ。

「……私のあだ名、覚えていますか」

 静かな語り口に、話は言い表せない異変を感じた。菊岡は、ただ酔っているだけではなさそうだ。

「はい。シャチ、と」

「機会ですから、その由来をお話ししましょう」

 そう言うと、菊岡は背筋を伸ばして裾を直した。私も釣られて背を伸ばす。

「──延べ二百七十四回。死者、五十八名。行方不明、二十九名。これが、何の数字かわかりますか」

 私は、静かに首を振った。

「この北方航路が開拓されていた三年間に、私が出動した回数と、死人の数です。私は飛行艇のパイロットとして、救難信号が出るたびに飛びました」

 菊岡は懐から一冊の地図を私に投げて寄越した。それは、菊岡がいつも身につけていた航空地図だ。

「この地図に書いてあるバツ印は、私が今まで確認した墜落地点です」

 私は、その赤い印に釘付けになった。択捉で見た時は、落雷や乱気流の位置だとばかり思っていた。本当の意味を知った私は、恐ろしくて手を伸ばすことすらできなかった。

「それで、人死にを見るのが嫌になったのですか?」

 おずおずと問いかける私に、菊岡は鼻で笑ってみせた。

「まさか。あなたも訓練生だったなら、わかるでしょう」

 唾を吐くように言い捨てて、菊岡は灰皿に手を突っ込んた。手に取ったのは、一口吸えるかどうかというシケモクだ。火をつけるとほんのわずかに燻らせて、すぐに灰皿へと捩じ込んだ。

「パイロットとは死ぬものです。それは飛行機という、どうしようもなく危険で、美しいものを愛してしまった私たちの、逃れようのない宿痾なのですよ」

 動けない私に代わって、よろよろと這い出した菊岡が地図を手に取る。懐に消えていくそれから、私は目が離せなかった。

「あなたは前に、この海に鯱は居るのか、と聞きましたね」

 私は首肯した。菊岡は焦点の合わない目で、どこか遠くを見ているようだった。

「いるんですよ、奴らは。夏が終われば数は減ります。でも、全部がいなくなるわけじゃない。だから、浜に打ち上げられた奴らはまだ幸せです。この海では、ホトケが上がるほうが稀なんです」

 仏という言葉に、私は寒気を感じた。それなのに、菊岡をまともではないと決めつけることは、どうしてもできなかった。

「鯱だけじゃありません」と、菊岡は続ける。

「波に飲まれれば引き摺りこまれちまうし、岩に打ち付けられたら遺体はバラバラになっちまう。首や胴が見つかれば御の字。腕一本でも、指一本でも、見つければ持ち帰って、きちんと荼毘に付してきた。択捉や国後の墓場には、空っぽの骨壷がいくつも埋まっています」

 私は顔を下げ、飛行機から見下ろした島々を思い出していた。

 一本の木も無く、飲み水すらない疎な草原。その先には、大小の岩が転がるだけの海岸。ここで人間が生きることは許さないと、声高に叫ぶような風の唸り。

 それに比べれば、三途の川だって脱衣婆がいるだけ賑やかなのかもしれない。

 そこで、菊岡の肩が小刻みに震えていることに気づいた。

「床丹丸もそうです。岩原さんが生き残ってくれたから、船は嵐にやられたと結論が出た。だから、私たちもそれで納得できました。けれどホトケが上がらなかった連中の家族は、今でも帰りを待っているんです」

 何と声をかけたらいいか分からず、私はただ黙っていた。

「自分はできると思った奴から死んでいく、と言いましたね。あれは警句でもなんでもなくて、ただの事実なんです。あの美しい島は心を惑わせ、最後は海の中へと連れて行ってしまう。そして、絶対に帰ってこない」

 重い沈黙が流れる。

 菊岡は、おもむろに手近な瓶を手に取った。

 何をするのかと思う間もなく、それは土間の壁へと叩きつけられた。派手な音を立てて、瓶はまるで氷のように砕け散った。

「だから俺は、シャチになると決めたんだ!」

 突然の怒号に、私は目を見開いた。

 その落ち窪んだ目に、涙が浮かんだ。一つ二つと頬を伝って、布団の上に染みを作っていく。

「俺がシャチになれば、この凍った海から! 雪と岩しかない、こんな場所から! あいつらを、ちゃんと見つけてやれる!」

 頭を抱えて吠えるその様は、まるで錯乱だ。それでも、私は彼の独白をじっと聞いた。

 地獄を見たように歪んだその顔は、昨日までの飄々とした姿からは想像もつかない。

 ましてや、あの海で何を見て、何を見つけられなかったのかなど、想像のしようがない。

 間違いのないことは、ただ一つ。今、目の前にいるのは、北の海を知り尽くした熟練のパイロットではない。

 一人の、傷ついた空の男だ。

「そうしたら! 家に、家に帰してやれると、ただ、そう思ったんだよ!」

 その慟哭に、私はついにかける言葉を見つけられなかった。同時に、恐怖と矜持を天秤に掛けて飛び続けたこの男の前では、慰めや励ましの言葉が意味を持たないこともわかっていた。

 この男に必要なことは、自分が連れてきた誰かを、ただ連れ帰ったという事実。それだけだ。

 私はポケットから一箱の煙草を出し、卓の上にそっと置いた。そして伏せたまま啜り泣く菊岡には目もくれず、土間へ降りた。

 靴を履いて、大きく息を吸う。

「方位二二八、転舵!」

 振り返らずに続ける。

「これで、私も艇には乗れません。あなたと一緒に、船で帰ります」

 答えを待たず、私は足早に外へ出た。

 戸を閉めた時、中から絞り出すような声が聞こえた。

 その夜、根室を発ってから初めての酒を飲んだ。

 

 翌朝。

 私は一人で、今朝も変わり映えのしない牛丼を抱えていた。

「おはようございます」

 聞き慣れた声に顔を上げると、目の下にくまを作った菊岡が立っていた。さすがに、今朝は素面のようだ。

「ここ、いいですか」

 匙が口に入っていたので、私は手で座るように示した。

「昨日は、お見苦しいところをお見せしました」

 席に着くなり、菊岡は丼に顔を突っ込む勢いで頭を下げた。

 顔を見た時から、何が起こるかは察していた。けれども、何もこんな人目のあるところでやらなくても良いだろう。

「顔を上げてください」

 とにかく私は菊岡を宥めた。

 それから、湯呑みに手を伸ばした。一口だけ茶を飲んでから、静かに口を開く。

「何のことだか知りませんが、あの後私は誘われて酒を飲んでしまって、昨日のことはよく覚えていないのです」

 そこまで言って匙を取り、たっぷりと掬った米を頬張った。

「それで、いいですね?」

 菊岡はしばらく黙っていた。

 それを横目に丼を食べ進めていると、やっと一言「宜候」と言った。

 見届けて、味噌汁に手を伸ばす。口をつけると、具は人参と牛蒡だった。確か昨日は、白菜とじゃがいもだった気がする。付け合わせも一昨日は小松菜だったのに、今日は沢庵だ。葉物が無いということは、そろそろ冷蔵庫が空いてきたということだろうか。

 やがて菊岡が丼に手をつけたのを見て、私は話を切り替えた。

「この後、格納庫でチト6977の梱包を行います」

 言いながら、丼の底に残った米をかき集める。毎朝これだけ食っているのに、夜には同じくらい食べたくなるのだから不思議だ。

「何から何までお世話になります。どうぞ、良いようにやってください」

「もちろん。任せてください」

 私は残りの米を味噌汁で流し込んで箸を置いた。

「では、私はこれで。ちゃんと帰って寝てくださいね」

「宜候」

 菊岡は力無く頬を緩めた。頷きを返して、私は格納庫へと急いだ。

 

 ──その作業は、なんとも筆舌に尽くし難いものだった。私はすっかり、ボルトを一本一本丁寧に外していくのかと思っていたのだ。

 しかし、現れた作業員が手にしていたのは斧だった。

 私は、嫌な予感と共に作業を見守った。

 そして予感は的中し、斧は翼へと突き立てられた。

 えい、やあ、という声が格納庫に響く。バキバキと音がして、あっという間に翼はもぎ取られてしまった。さらにプロペラと脚が取り外されて、クレーンで架台へと載せられた。

 数日前まで北の海を悠々と飛んでいたチト6977号は、もう、飛行機の形をしていなかった。

 最後に全体に防水布が掛けられて、固定ベルトが回される。あとは船に積むだけというところまでを見届けた私は、抱えていた機体来歴簿を開いた。

 記録した内容は「損傷により上下前翼、および主脚を廃棄」。書きながら、菊岡を連れてこなくて本当によかった、と思った。あの状態でこれを見たら、泡を吹いてひっくり返ってしまうだろう。

 それから、機内から降ろしてもらった荷物をまとめた。機体来歴簿の他に、発動機整備簿、交信記録簿、そして信号弾とライフルだ。

 ほとんどは梱包して、機体と一緒に運ばれることになる。しかしライフルはダメだというので、私が担いで根室まで持ち帰ることになった。

 諸々の手続きを終え、私は書類を手に小林の元へ向かった。こんな遠くまで来たというのに、私はいつまでも記録と報告書から逃げられない。

 その上このライフルだ。この島は、どこまで私に背負わせるのか。

 背中を撫でる風が、日に日に冷たさを増していた。

 そこで、ふと思った。

 内地へ帰ったら、いっそ転属でも構わないから──どこか、暖かい所へ行こう。

 

 *

 

 その後は三日ほど、穏やかな日が続いていた。

 一応、一日はきちんと日勤に入ってみたのだが、定時連絡と天候の連絡、そしていくつかの電報以外は大した通信もなく終わってしまった。

 つまり、暇の一言でしかなかったのだ。

 宿舎に帰れば丼飯を無心で食らい、昨日などは手持ち無沙汰を拗らせて、夜中の無線室にも顔を出してみた。

 そして私は今日も相変わらず無線室に入り浸り、運輸省職員の特権を濫用していた。

 あけて十月の十一日。

 電信は俄かに慌ただしくなり、いよいよ柏原へやってくる船の運航計画や目録が送られはじめていた。

 白瀬の軽やかなトーンが、部屋に満ちていく。

 午後の落ち着いた空気に瞼が落ちてくるのを堪えながら、私はそのリズミカルなトーンを読み解いていた。

 白瀬によれば、傭船された船は祥栄丸というらしい。今は根室に着岸して、荷を載せている最中ということだ。

 サイダーを手にぼんやりと聞いていたが、電信はもう何分も続いていた。

 白瀬の無線室には、自動電信機は無かった。あれは便利だが整備が面倒な上、専用の記録紙を食うものだから、この柏原にも置かれていない。

 したがって、膨大な目録も、その返電も、全て人の手でやらなければならない。熟練の無線士でも、何分も連続して叩き続けるのは、なかなかに骨が折れる仕事だ。まして択捉では、その役目を白瀬が一人で担っている。

 今日も頃合いをみて、検証電の送信を代わった。ここの電鍵は打感がとても良いので、私はかなり気に入っていた。イージスのコールサインを打つのも、もう慣れたものだ。

 しかも私が打っているとわかると、白瀬は返電の速度を上げてくる。わずか一時間で五枚の記録紙を真っ黒に染め上げた私は、交代に来た江口に記録をタイプライターに起こしておくように頼んで、夕食へと向かった。

 空き時間の使い方にしては、かなり贅沢だと自分でも思う。僻地出張は全日勤務扱になると言ったと思うが、その勤務記録も「修理後の実地運用における随時整備のため待機」の一文で、大抵は通ってしまう。

 本省のオフィスで書類に埋もれている同期たちよ、地方出張は良いぞ。特に暖かいところに行くと良い。間違えても北は選ばないことだ。

 そんなことを考えながら、今夜も丼飯をかき込むのであった。

 

 さらに翌日の夜。

 私を叩き起こしたのは、大音量のブザーだった。何が起きたのか分からずにいると、赤い電球が灯った。非常灯だ。

 これは大事だ、と寝台から飛び起きて電灯をつけた。同時にスピーカーが鳴る。

『全場へ非常呼集。全場へ非常呼集。各員持ち場へ集合してください。繰り返します……』

 放送に応えるように、あちこちからドタバタと音がする。時計を見ると、時刻は午前三時を少し回ったところだ。私も大急ぎで作業着を羽織って部屋を出た。

 

 無線室に飛び込むと、すでに全員が揃っていた。

 すっかり上がった息を整えながら、無線機へ向かう。

「一体、何事ですか」

「松輪からの警報です。これを聞いてください」

 笹木が摘みを捻ると、音量がぐっと上がった。

『XXX XXX DE THOR FZFG FZFG FZFG XXX XXX……』

 FZFG──着氷性の霧──私は血の気が引いた。天気が荒れれば、飛行艇が飛べなくなる。霧の高度が低ければ、船にも影響が出るだろう。

 そうだ、船はどこだ。

 慌てて運行計画を引っ掴んで、今日の予定を開く。レ点が並ぶそれによれば、計画は概ね予定通り進んでいるらしい。

 しかし、松輪行きの大洋丸はまだ東雲原に着いたばかり。ここ柏原へ向かう予定の祥栄丸に至っては、出航の予定日は今日だ。

 柏原から南南東へ三百キロ以上離れた松輪でこの天気ということは、ここもすぐに雪が降るかもしれない。

 そこで、スピーカーから流れるトーンが変わった。

『DE ETF1 FR MTA QSP NEM』

 無線機は、択捉からの電信を受信していた。松輪側の通信状態が芳しくないのか、根室への中継を試みている。白瀬ではない夜勤の誰かが打っているせいか、ひどく遅く感じた。

「黒崎さん、どうぞ」

 顔を上げると、江口が湯呑みを差し出していた。白湯のようだが、しっかりと湯気が立っている。江口は全員に湯呑みを配ると、そっと隅の椅子に収まった。

「まいりましたね。氷とは」と、湯を啜った山内がぼやく。

 天気に疎い私は、「いつもは、もう少し遅いのですか?」と訊ねた。

「例年よりだいぶ早いです」と笹木。

「すぐに、部長から無人施設の点検が指示されるはずです。今年の柏原は、これで終わりですね」

 そう語る笹木の顔には、どこか安堵の色が浮かんでいる。山内たちも、どこか期待に満ちた目をしていた。

 その理由に、私はすぐに気がついた。

 彼らは、この仕事が終わることで家に帰れるのだ。しかも繰り上がるというのだから、頬が緩むのも納得できる。

 しかし私だけは、その笑顔を素直に受け止められなかった。

 私の頭をよぎったのは、岩原と床丹丸のことだ。

 もしも祥栄丸に同じような事が起これば、私も海の藻屑となってしまう。それとも、皆そんなことは織り込み済みなのだろうか。

 黙々と仕事をする笹木たちを横目に、私は心細さを顔に出さないよう、一人努力をしていた。

『CNG OP SEIREN』

 急に明瞭になったトーンが、部屋に響いた。白瀬が無線室に着いたらしい。

『TTT TTT CQ NEM EMG ICE ICE ICE ALR RDY RB AND SHOUEI MARU QTO? LAT N43 ARMET WD4 WX GR……』

 猛烈な勢いでトーンが流れる。それは普段よりもずっと速く、記録紙がなければ、私でも聞き取ることが難しいほどだ。

「くそっ、速い」

 机に向かう山内が舌打ちを放ち、私はすぐに交代を申し出た。

「代わります」

「お願いします」

 山内はすぐに席を開けた。すかさず椅子に収まって、鉛筆を走らせる。まるでヒトの技とは思えない速度で──ああ、彼女はウマ娘であったか。

「井上は管理棟へ行って小林部長に状況を聞いてこい。江口は設備部へ行って点検リストの確認。山内は携帯無線機の用意だ」

 背中では、笹木が次々と指示を出している。さすがの連携に、私は舌を巻いた。

「そおら急げ急げ! 点検隊が出る前に済ませるぞ!」

 三人がバタバタと部屋を出ていく。そこへ電話が鳴って、笹木が取った。相手は小林のようで、各所の混乱は徐々に収まりつつあるようだ。

 電話が終わる頃には、各地の無線は少しずつ落ち着き始めていた。私も受信完了を示す電信を打って、白瀬を落ち着かせる。

 続いて東雲原が現状を送信し始めたので、私は一度鉛筆を置いて呼吸を整えた。

「黒崎さん」

 笹木に呼ばれて、私は顔を上げた。

「少しの間、ここをお願いできますか」

「ええ。任せてください」と、私は請け負った。

「山内が戻ったら、電池を出せと言ってください。それでわかります」

 そう残して、笹木は走って行った。

 時刻は間も無く五時。外からは自動車の音がして、ヘッドライトが闇を切り裂いている。窓を覗くと、薄暗い中で空のリヤカーを引いて出ていく一団が見えた。

 私は地図を開いた。

 幌筵島と隣接する占守島には、合わせて三つの灯台がある。そして幌筵島の南端にある通信設備。さらに発電所や港に滑走路など、冬仕舞いをしなければならない施設は多い。夜勤の者もそのまま駆り出されているだろうから、今夜の食堂は大変な混雑になるだろう。

 私が思索を巡らす間にも、電信は相変わらず飛び交っていた。内容は松輪の撤収に関することのようで、ひとまずこちらが呼び出されることはなさそうだ。

 少し落ち着ける、と湯呑みに手を伸ばした時──。

『飛行艇あきたかより柏原管制、応答願います』

 無線電話が、私の手を止めた。

 柏原に残っている最後の飛行艇、海事保安庁のあきたかからだ。

『飛行艇あきたかより柏原管制。海事保安法第十一条・第三項の適用による本艇の緊急出航を要請します。出航事由は細則六のフタ。申請時刻マルヨンゴーフタ。どうぞ』

 ノイズを残して切れた無電を前に、私は鼻を鳴らした。叩き起こされた上に休む暇もない。

 しかも夜間出航は危険が多いので、関連する規定がかなりややこしい。どうして日の出を待てないのか。

 ため息を吐く間も無く書類棚へ向かった私は、『航空保安関係法令集』という分厚い本を引っ張り出した。索引を調べてから緊急出航の項目を開く。滅多に使わないだけに、見つけるのには時間がかかった。やっと開いた頁を指でなぞりながら、発信スイッチを押す。

「柏原管制よりあきたか。海事保安法第十一条、第三項の適用申請を受理しました。受理時刻マルヨンゴーロク」

 待ち構えていたように返電が入る。

『あきたかより柏原管制。その声は黒崎さんですか? 柳川です。笹木さんは居りませんか』

「おや、柳川さんですか。黒崎です」

 知った顔とわかって、私は安堵した。声の抑揚で気付けないということは、私はかなり緊張していたようだ。訓練でも散々やらされたはずなのだが、管制というものは、なかなかに気を使う仕事だ。

「柏原管制は現在、航空保安法第二十四条五項に基づいて、私が管制業務を代行しています」

『そうですか』柳川は残念そうに答え、『せっかく暖機をしましたが、笹木さんが戻らないと飛べませんね』

 海の警官らしく、柳川は無茶な出航を要求しなかった。しかし私とてパイロットの端くれ。氷の恐ろしさもわかるし、物分かりの悪い管制官に肘鉄の一つも食らわせてやりたくなったこともある。

 つまり、問題は法規に引っ掛かるかどうかだけだ。飛ばしてしまえば、あとは書類でなんとでもなる。

「ご心配なく。手はあります」

 そう答えて、私は再び法規集を開いた。

 航空関連の法律は、事故の歴史そのものだ。だから、非常時の規定もこれでもかというほど定められている。頁を繰ると、この状況に使える特例も、すぐに見つかった。

「柳川さん」

 私はつい、弾んだ声を出してしまった。向こうは、飛びたくて苛ついているというのに。

 返事を待たず、咳払いをして続ける。

「本件は、航空保安法二十五条一項の特例四に該当します。私の代行権限において出航を許可しますから、根室に着いたら、所定の書類を提出してください」

『それは助かります』

 そう返ってきた声には、細かな手続きより飛べることへの安堵が滲んでいた。

『本艇は松輪にて補給しますので、到着次第連絡します。周囲に船舶なし、出航宜候』

「受領しました。ご安航を、交信終わり」

 私がスイッチを切ると同時に、港の方からエンジンの轟音が聞こえた。

 音はすぐに高度を上げ、やがて南の闇へ溶けていった。

 そこへ電信が鳴る。

『DE JCG AKITAKA FER AEGIS CUL SK』

 記録簿に記された文を見下ろして、私はため息を吐いた。

 ああ、またイージスと呼ばれてしまった。

 海事保安庁のパイロットにまで知れてしまったら、北海道中にこのコールサインが聞こえるのも時間の問題だ。

 それなのに、不思議と悪い気はしなかった。

 私は自分を過大評価することはあまりしない。けれど──。

 そろそろ、北方航路の下っ端を名乗るくらいなら許されるかな、と思った。




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