ヒカ碁の世界で緒方精次となったからには、打倒saiを掲げたい。 作:くま子
囲碁ゼミナール2日目。
午前中の講義を終わらせた俺は、感情労働に疲れ果て、弁当を手に部屋へと戻っていた。
人気のない空間に一息つくと、置きっぱなしにしていた携帯を手に取り、いつもの習慣で開き見る。
そこにずらりと並ぶ着信履歴に、息を呑んだ。
全て、進藤家の固定電話からだった。
進藤は昨晩、朝イチの新幹線で帰ると言っていた。
ならば本人からだろうと、慌てて折り返す。だが電話に出たのは母親で、肝心の進藤は帰宅後すぐにまた出かけてしまったという。
嫌な予感が背筋を這った。
必死に、擦り切れた記憶を辿る。
(……そうだ。進藤は碁盤を見にいっていた)
急ぎ祖父宅へと電話をかける。
案の定、進藤はそこを訪ねていた。だが、一度蔵に入った後、幽霊がどうのと口にしながら、すぐにどこかへ飛び出していったらしい。
「──あんの、クソ幽霊がっ!」
思わず拳を机に叩き下ろす。
こんなことなら、芦原なんぞ気にせず叩き起こしておけばよかったと後悔する。
慌てて立ち上がり、脱いでいたジャケットに手をかける。だがそこで、今が仕事中だと思い出した。
メインである三冠の俺が、抜けることなどできるはずもない。
ジャケットをハンガーに戻すと、苛立ちのまま乱暴に腰を下ろす。
気を紛らわせるように、弁当へ手を伸ばした。
仕事を終わらせ、車を飛ばして進藤家に到着したのは、夕飯時をとうに過ぎてからだった。
だが、進藤は家に帰っていなかった。
表情は取り繕っているつもりだったが、よほど余裕がなかったのだろう。気がつけばご両親の表情にも、不安が浮かんでいた。
だから誤解を承知で、理由だけは簡潔に伝えた。
親しい碁打ち仲間が、突然いなくなったのだ──と。
しかし、進藤を待っていつまでも居座るわけにもいかない。
戻ったら連絡を欲しいと頼み、帰ろうとしたその時だった。
進藤家の固定電話が鳴った。
「広島⁉︎広島って、何でアンタそんなところにいるの⁉︎」
受話器を取った母親の声が、玄関まで届く。
すぐに父親と共にリビングへ引き返した。
「そんな遠くまでひとりでウロウロと!……誰?ひとりじゃないの?」
困惑した母親が父親へ視線を向ける。助けを求められた父親は受話器を受け取ると、しばらく相手と言葉を交わした後、俺へと受話器を差し出してきた。
「囲碁関係の、知り合いのようなので……」
受け取った受話器から流れた声に、胸を撫で下ろした。
『──だから、オレは付き合ってるだけで、言い出したのはオレじゃねーんだって』
「河合さんか」
『っ、緒方本因坊⁉︎なんでっ……ておいコラ!』
バタバタとした物音が続いた後、
『先生!』
受話器の向こうから、進藤の声が響いた。
『先生!佐為が、佐為がいないんだ‼︎』
「落ち着け」
『アイツ、さよならなんて変なこと言ってさ。そんなわけないのに。なのに、いなくって。どこ探してもいなくって!』
「進藤」
『嘘だよね、先生。アイツが消えるなんて。だって、昨日もいつも通りだったじゃん!先生と打って、いい碁だったって、笑ってて‼︎』
「進藤っ!」
『──っ』
怒鳴りつけ、無理やり言葉を止めさせる。
何を話すべきか一瞬考え──何も話すべきではないと考えを打ち切る。
「アイツのことは、電話で話すようなことじゃない。わかるな」
『う、うん。……でも』
「話は東京に戻ってきてから聞く。河合さんに代わってくれ」
『先生……』
「進藤、東京で待っている」
『……河合さんに、代わるね』
らしくない進藤の声に、眉間に皺がよる。
『……あ〜、本因坊?』
「悪いな河合さん。迷惑をかける」
『いや、オレが勝手についてきたようなもんなんで』
「様子がおかしかったんだろう。助かる」
『……まぁ、な』
「事情はいずれ説明させてもらう。……もうしばらく保護者の代行、よろしくお願いします」
『おう。任せとけ。明日にはきっちり東京に連れ帰ってやるよ』
通話を終えると、相手が信用できる人物であることを両親に説明し、落ち着いたところで帰宅した。
照明を落としたままの自室で、ソファに身を預け、久々のタバコをくゆらせる。
静寂に響くのは、エアーポンプが刻む規則正しい呼吸のような音だけだ。天井には、テープライトに照らされた水槽の水紋が、青白く揺れている。
俺はどこか、進藤ヒカルにとっての藤原佐為という存在の重さを、甘く見ていたのだろう。
きちんと別れを告げられさえすれば、喪失に胸を痛めたとしても、取り乱すことはないと思っていた。
だがどうだ。実際は別れの言葉を告げられたのに、それを受け入れられず、佐為を探して広島まで飛び出している。
アイデンティティが固まる時期に、常に隣にあり、同じ物を見て、同じ夢を追う。
肉親より近く、友人より親しい。
そんな存在の重さなど、他人が推し量れるものではなかったのだ。
それでも、相手は幽霊だ。
逝くというなら、祝って送り出してやるのが生者の役目。
それを、どう伝える。
(ガラじゃないんだがな……)
だが、これは前任者の不始末だ。
最後の対局の後、『頼みます』と言われ、「わかった」と返した以上、俺が片をつけなきゃならない。
初仕事にしては面倒がすぎると、ゆっくりと煙を吐き出した。
翌日の連絡は、日が暮れた後に進藤の母親からもたらされた。
一度帰宅したが、棋院に行くと言い、引き止める間も無く出ていったと。
すぐに車を飛ばして棋院へ向かった。
到着すると、静まり返った館内を抜け、迷うことなく目的の部屋へ向かう。
いくら月日が経とうとも、『ヒカルの碁』のファンなら、あの慟哭の場面を忘れる者などいないだろう。
キャビネットが並んだ狭い通路を抜け、奥まった扉のノブに手をかける。
案の定、鍵はかかっていない。
扉を開けると、中から明かりが漏れ出した。
「先生……」
机に棋譜を広げていた進藤が、ゆっくりと顔を上げる。
後ろ手に扉を閉め、何処か虚な瞳と向かい合った。
「佐為が、いなくなった。……ううん。消えちまった」
席を立った進藤が、ふらりと歩み寄る。
「アイツ急にさ、もう一緒にいられない、お別れだからさようならをしましょうなんて言い出して」
そばに来ても目が合わない。
常に見上げてきた視線は床に落ち、震える声は妙に明るく、まるで笑い話でもするかのようだった。
「オレ、仕事から帰ったばっかで疲れてたし眠かったから、はいはいって聞き流して……」
……なるほど、これは懺悔か。
「なのに佐為のヤツ、笑ってて。だから消えるなんて、思ってなくて。だって、虎次郎がそうだったんだ。オレも、死ぬまで一緒だって。さようならなんて、ありえないはずで」
しゃくりあげるような嗚咽と共に、パタパタと涙の滴が床に落ちる。
「なのに、オレが間違ったから」
「……間違い?」
「そう。間違ったんだ」
懺悔ならば吐き出させるかと黙っていると、進藤の話は思わぬ方向へ転がり始めた。
「佐為がすごいヤツだってのは、知ってた。先生も、塔矢名人もそう言うから。でも、オレってバカだからさ、理解できてなかった」
進藤は肩越しに、机の上の棋譜を見やった。
「虎次郎みたいに、初めから佐為に打たせてやればよかったんだ」
「何を言ってる」
「だって佐為が……アイツが、神の一手を極めずに成仏するわけない!オレが、オレが消しちゃったんだ!虎次郎みたいにアイツに打たせなかったから‼︎オレがっ‼︎」
進藤の両手が、俺のジャケットをすがるように握りしめる。
こぼれんばかりに見開かれた瞳から、とめどなく涙が流れ落ちていた。
「もっと佐為に打たせてやればよかったんだ!誰だってそう言う。オレなんかが打つより、佐為が打った方がよかったって‼︎」
その叫びに、一瞬頭突きでも食らわせてやろうかと思ったが、なんとか思いとどまり、ため息をつく。
「お前、死んだ後、幽霊になりたいか?」
「…………えっ?」
進藤は、呆けたように固まった。
「俺は何があっても、幽霊だけはごめんだな」
キッパリと言い切る。
瞬きを繰り返す進藤に、俺はゆっくりと尋ねた。
「碁打ちにとっての不幸は、なんだと思う?」
「……碁が、打てないこと?」
「わかってるじゃないか」
「だから俺が打たせていれば──」
「代わりに打って?その後はどうする」
「……その後?」
「またアイツを何百年も、ひとり碁盤の前に座らせるのか?」
進藤の瞳が、再び大きく見開かれた。
おそらく、考えたことがなかったのだろう。自分が死んだ後のことを。
「佐為の声が聞けたのは、お前と、秀策だけだ。仮にお前と最後まで共にいたとして、次の相手が現れるまで、どれだけアイツは盤を眺めて過ごしたろうな」
「それ…は……」
「幽霊なんて、ろくなもんじゃないのさ。なにせ、碁石も持てやしない」
軽く肩をすくめてやる。
俺の胸元を掴んでいた進藤の手から、ゆっくりと力が抜けていく。
「だから成仏したなら、喜んでやればいいんだよ。やっと解放されたか、よかったなってな」
両手は力なく落ち、涙はいつの間にか止まっていた。
戸惑いの方が大きいようだが、こちらの話は聞けているようなので続ける。
「それで結局、別れの挨拶はできたのか?」
「……オレ、寝て、起きたらどうせいるんだし、おやすみがダメなら、またな、でいいじゃんって……」
「悪くないじゃないか」
幽霊は最低限仕事をしたようだな。
「アイツのことだ、浄土でのんびりしていられるとも思えん。碁石が持ちたくなって、さっさと生まれ変わってくるだろうさ」
数年後、棋院の入り口で「ヒカル〜」と駆け寄ってくる子供が現れても、俺は驚かない。
なにせ、俺という前例がある。
「生まれ、変わる?」
「成仏したなら、次は生まれ変わりだろ」
自殺の禊なら、この千年で十分済ませただろう。
「そうなると、ちょうど俺とお前ぐらいの歳の差になるのか」
もし本当に生まれ変わってきたら、盛大に文句を言ってやろう。アイツ自身がさっさと成仏を受け入れて、ヒカルと別れのための日々を過ごせていれば、こんな面倒なことにはならなかったんだ。
「それで、『またな』にアイツは何か返したか?」
大きな瞳が記憶を探るように揺れ、くしゃりと顔を歪ませた。
「……またねって。……楽しかった、またねってっ!」
進藤は、再び堰を切ったように涙を溢れさせた。
わぁわぁと声を上げて泣く様は、まるで幼子のようで……。
どうしたものかと思っていると、事務員が顔を覗かせたため、部屋の後片付けを任せる。
泣き続ける進藤を半ば引きずるように車へ押し込み、携帯を取り出し母親への報告を済ませた。
駐車場のポールに寄りかかると、自販機で買った缶コーヒーを開け、夜空を見上げた。
(……俺も楽しかったよ)
星のない東京の空を見つめる。
5月のまだ肌寒い夜風に撫でられながら、俺自身の感傷に片をつけた。
翌日、塔矢先生に顛末を報告し、ブログにsaiの訃報を載せた。
これで、saiと打った一柳先生や一部の高段者から、しばらく絡まれるだろう。あの幽霊は、最後まで本当に手間がかかる。
進藤は手合いに出られそうになかったため、棋院へ「親族ではないが、身内に等しい人物が亡くなった」と伝えた。
saiとの関係を察する者はいるだろうが、fiveの正体が進藤だということなど、見る者が見ればわかる。今さらというやつだ。
それからさらに数日が経ち、若獅子戦の会場を覗けば、二回戦にして進藤とアキラ君が盤を挟んでいた。
結果は、アキラ君の力碁に押し切られ、進藤の中押し負け。内容は悪くないが、実力があと半歩足りない、といったところだった。
それを進藤に求められるまま伝えたところ、アキラ君に睨まれた。
勝者を差し置いて敗者に講評したのがまずかったかと思い、「半歩を許さず勝ち切ったアキラ君も大したものだ」と付け加えたのだが、睨みはさらに鋭くなった。
なぜだ。
兎にも角にも、原作では長い不戦敗が続いた進藤だが、この世界では手合いに出続けている。
たまに俺との感想戦の最中、無意識に後ろを振り返り、言葉を失うこともある。
それでも碁石を手に取り、盤へと向かっていた。
そして、その年の秋。
俺と塔矢先生連名で、『藤原佐為打碁集』が出版された。
俺と先生が佐為と打った棋譜。そして、進藤──fiveとの指導碁を収めた一冊だ。
進藤がfiveであることは、ネットに詳しい者の間で広まりつつある。それでも、はっきりさせない方が都合のいいこともある。
そのため、本人が固辞したこともあり、進藤の名は載せていない。
当初、進藤は自分の棋譜は指導碁ばかりで格が違いすぎると、収録に難色を示した。
しかし、俺が持ち込んだ棋譜を見た先生は、「これほど見事な指導碁はない」と譲らなかった。
結果、九路を卒業した直後のものから最後の一局まで、その成長を追えるよう選ばれている。
そうして先生が凝りに凝って作ったその一冊は、おそらく、墓標のつもりなのだろう。
上品な白布張りの表紙。
遠目には題字すら見えない、無垢な一冊だ。
しかし少し角度を変えると、空押しされた溝が影を作り、その題字──佐為の名が浮かび上がる。
ロマンチストな先生らしい出来だった。
季節はめぐり、再びの5月5日。
俺と進藤はいつものように、進藤の部屋で盤を挟んでいた。
「18…19…20……よし!一目残った‼︎」
「変わらんか……。負けました」
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました」
白一目負けの盤面を見下ろす。
アゲハマが多かったため終局まで打ち整地したが、結果は変わらなかった。
「先生!次は互先、互先でいいでしょ⁉︎」
「定先で1回勝った程度で何言ってる」
「えー、いいじゃん。どうせ公式戦で当たれば互先なんだしさ」
「……いいだろう。後悔させてやる」
進藤自身、結果など分かり切っているだろうに、それでも嬉しそうに碁石を片付けている。
仕方なく握らせる。結果、俺が黒を持つことになった。
「オレさ、記録とかどうでもいいと思ってたけど」
「ん?」
「本因坊の最年少記録、狙おうと思う」
唐突な宣言に、盤上から視線を上げる。
そこには、真っ直ぐにこちらを見つめる進藤がいた。
「そうか。諦めろ」
「────えっ?」
パチリと、白のカカリに対してコスミを打つ。
俺も最近、コスミの味がわかってきた。
「どうした?続けないのか?」
手を止めたままの進藤に促すと、口をへの字に曲げながら、白を大場へ回した。
「そこはさぁ、普通『かかってこい』とか『待ってるぞ』じゃないの⁉︎」
「
俺は形より動きを取り、迷わず一間に飛ぶ。
「10期防衛するまで待ってろ」
「遅いよ!」
次いで左辺に打たれた一手に、手が止まる。
動きを取った代償を、進藤は見逃さなかった。
白が打ってきたのは、厚みの継ぎ目をぎりぎりで突くノゾキ。
安全に1本ツいで繋がっておくか、それともあえて反発して逆方向に突き抜け、空中戦へ引きずり込むべきか。
(以前なら迷わず繋いでいたんだがな)
思わずフッと笑ってしまう。
それをどう受け取ったのか、進藤に睨まれた。
「なら、その防衛記録。オレが止めてみせるから」
「ぬかせ」
塔矢先生は現役を続けており、桑原のジジイも引退していない。勢いに乗る倉田も厄介だし、アキラ君もリーグ入りを果たすほど伸びてきた。
だが、誰が相手であろうとも譲る気はない。
そう、誰が相手でもだ。
遠くない未来の挑戦を受けて立ちながら、今日も叩きのめしておいた。
拙作を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これにて完結となります。
この物語は、緒方とヒカルの師弟モノです。
そのため、緒方が仮でない師になるためにも、佐為との別れは必須でした。
佐為との未来に期待していた方には申し訳ないですが、この世界での彼は成仏です。
ただし、原作佐為の成仏は許しません。もっかい誰かに憑いて、さっさと名人と打つんだ。いつまでも碁盤の前で待たせるんじゃない。
北斗杯って5月開催だと思うんですけど、この世界では5月5日以降ということで。北斗杯終われば、ヒカルも緒方を互先でヒヤッとさせられるはず。勝てないけど。
この世界の緒方は佐為により棋力が強化された上、人生2週目ゆえにメンタルつよつよなので。
強化入った名人も現役続行してますし、ヒカル世代の新時代の扉は相当重たいと思います。
クソガキなヒカル、トンチキな佐為、そしてロマンチストな名人が書けて大満足です。
そう、名人はロマンチスト。たとえ原作でそれらしい描写がミリもなかろうと、あの奥方を迎えている時点で、私の中では確定事項です。
ヒカ碁に脳を焼かれているため、5月5日になるとたまに原作を読み返しているのですが、今年なぜか脳内に偽緒方が降臨したため、パッションで書き殴ったのが本作です。
少々勢い余って、「対局をバトルシーンみたいに書いてみたい!」と無理を承知で無茶してしまい……監修が…監修が欲しかった……。
もう何年も対局していないので、用語を検索するところから始めました。頑張ってみたのですが、どうでしょう?現役で打ってる人が読める出来になっていればいいのですが。
そんな不安がありつつも、書いている間は最高に楽しかったです。
ハーメルンに置けるような次作の構想はないのですが、またの機会がありましたら、一読いただけると幸いです。