夜、枕元に置いた羊のぬいぐるみが、やけにこちらを見ている気がした。白い毛は少し黄ばんで、左耳だけが折れている。小さいころから一緒に寝てきた相棒だ。電気を消し、目を閉じると、ふっと体が浮いた。
気づけば、世界は柔らかな光で満ちていた。空は青でも黒でもなく、思い浮かべた色にすぐ変わる。
試しに手を伸ばすと、空が水面のように揺れ、指先から波紋が広がった。
心臓が高鳴る。
「何でもできる」
そう確信した瞬間、重力は意味を失い、僕は空を歩いた。
山を思えば山が現れ、海を望めば海がひらけた。
空を飛び、時間を巻き戻し、壊れたものを元に戻した。
言葉を発すれば物語が生まれ、黙れば静寂が降りる。
誰かに会いたいと思うと、懐かしい顔が現れ、笑い、消えた。
悲しみを思い出す前に、世界はそれを消してくれる。
万能感は甘く、温かかった。
気づくと足元に、あの羊のぬいぐるみがいた。現実と同じ、左耳の折れた羊だ。だが夢の中の羊は歩き、こちらを見上げて瞬きをした。
「楽しい?」
羊は口を動かさずに言った。声は頭の中に直接響いた。
「もちろん。ここでは何でもできる。」
そう答えると、羊は首をかしげた。
「じゃあ、できないことは?」
僕は考えた。できないことなどない。失敗も、別れも、痛みも、選ばなかった道の後悔も。すべて消せる。
「……何もない。」
そう言うと、羊は少しだけ悲しそうに笑った。
「それが、できないことだよ」
羊は歩き出し、草原の向こうを示した。
そこには、何度やっても完成しない未完成の家があった。
柱は傾き、屋根は途中で止まっている。
近づくと、釘が足りず、木は割れ、手は震えていた。
僕は直そうとした。
だが触れた瞬間、家は霧のように消えた。
「失敗は、ここでは残らない」
羊は言う。
「だから、積み上がらない」
次に現れたのは、誰かの背中だった。
追いかけても追いつけない。
呼び止めようと声を出すと、声は風に溶けた。
「別れも、ここでは味わえない」
羊は続ける。
「だから、選ぶ重さもない」
僕は反論した。
「苦しい現実より、ここにいた方がいい。完璧で、自由だ。」
羊は立ち止まり、こちらを見た。
「完璧だから、触れない。自由だから、責任がない」
そして、そっと言った。
「君が大事にしてきたものは、重かった?」
胸の奥がちくりとした。
過去の失敗、言えなかった本音、守れなかった約束。
重い。
でも、その重さの中に、確かに手触りがあった。
世界が揺れ始めた。
赤いカーテンが笑っている。
壁は溶けて、液体の時計が足元を泳ぎ回る。
誰かが拍手している――いや、拍手の音が空から降ってくる。
私の声は風船になって膨らみ、破裂するたびに世界が裏返る。
足が地面を蹴ると、地面が笑い返す。
笑い声が増殖し、街路樹が踊り、信号機が歌い出す。
もう境界なんてない。
夢が現実を食べ、現実が夢を吐き出す。
羊は近づき、僕の膝の上に座った。
昔、よく膝の上に乗せていたことを思い出した。
「帰ろう」
羊は言う。
「できないことが、君を作る場所へ」
「また来られる?」
そう尋ねると、羊は曖昧に笑った。
「眠るたび、選び直せる。でも、ここに長くいれば、現実が夢になる」
光が消え、闇が戻る。
重さが戻る。
目を開けると、天井があった。
枕元には、左耳の折れた羊のぬいぐるみ。
動かない。
ただ、いつもより少し温かい気がした。
起き上がると、未完成の一日が待っている。
失敗も、別れも、選択もある。
できないことは山ほどある。
それでも、床に足をつけた瞬間、確かな感触があった。
僕は羊を撫で、深呼吸をした。
夢は遠ざかり、現実が戻る。
重たいけれど、触れられる世界で、今日を作り直すために。
窓の外では朝の光がたたき起こすかのように広がっていた。
昨日と同じ景色なのに、どこか違って見える。
できないことを抱えたまま、それでも一歩踏み出せる気がして、僕は羊に小さく「行ってくるよ。」とつぶやいた。