弓先に残る春   作:ニャンニャンコポン

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春のヴァイオリニスト

 

 

 昼休みを告げるチャイムが校舎に響いた。

 

 教師が教室を出ていく。

 

 それを合図にしたように、静かだった教室が一気に騒がしくなった。

 

 机を寄せる者。

 

 購買へ走る者。

 

 弁当を広げる者。

 

 いつもの昼休みだった。

 

「久世」

 

 そんな中、教卓の前まで来た担任が声を掛ける。

 

 律はホットドッグの袋を開けながら顔を上げた。

 

「はいはい」

 

「ネクタイ」

 

 律は自分の胸元を見る。

 

 倉橋第四中学校指定のネクタイ。

 

 確かに付いている。

 

「締めてますよー」

 

「締めてない」

 

「気持ち的には」

 

「意味が分からん」

 

 教室から笑い声が上がった。

 

 律も笑う。

 

 担任は額を押さえた。

 

「お前な……」

 

「ちゃんと学校来てるじゃないですか」

 

「そういう問題じゃない」

 

「成績も良いですよ」

 

「そういう問題でもない」

 

「コンクールも出ます」

 

「それも違う」

 

 また笑いが起こる。

 

 律は肩を竦めた。

 

「厳しいなー」

 

「当たり前だ」

 

 担任は呆れたように息を吐く。

 

 それでも本気で怒っているわけではない。

 

 毎度のことだからだ。

 

 律は椅子の背に掛けていたヴァイオリンケースを肩へ担いだ。

 

 白いブレザーのボタンは開けたまま。

 

 第一ボタンも外れている。

 

 ネクタイも緩い。

 

 倉橋第四中学校の教師達にとって見慣れた姿だった。

 

「明日だったな」

 

「何がです?」

 

「藤和音楽コンクール」

 

「あー」

 

 律は思い出したように頷く。

 

「それです」

 

「優勝してこい」

 

「善処しまーす」

 

「本当に分かってるのか」

 

「多分」

 

「不安になる返事をするな」

 

 再び教室が笑いに包まれる。

 

 律はひらひらと手を振った。

 

「じゃ、行ってきます」

 

「ネクタイ」

 

「善処します」

 

「締めろ」

 

「はいはい」

 

 適当に返事をして教室を出る。

 

 背中に「絶対締めないだろあいつ」というクラスメイトの声が聞こえた。

 

 正解だった。

 

 廊下を歩く。

 

 昼休みの喧騒。

 

 窓から差し込む春の日差し。

 

 肩に掛かったヴァイオリンケースが少し揺れる。

 

 ポケットの中で携帯が震えた。

 

 取り出す。

 

 黒い折り畳み式の携帯電話。

 

 母さんからだった。

 

『晩御飯何がいい?』

 

 律は歩きながら返信する。

 

『肉』

 

 数秒後。

 

『雑』

 

 思わず笑う。

 

『肉』

 

『分かった』

 

 会話終了。

 

 携帯を閉じる。

 

 短い。

 

 だが母さんとのやり取りは大体こんなものだった。

 

 廊下を曲がる。

 

 目的地は音楽室。

 

 昼休みの間だけ使える、律のお気に入りの場所だった。

 

 静かで。

 

 誰にも邪魔されない。

 

 少なくとも本来は。

 

 音楽室の前へ着く。

 

 扉へ手を掛ける。

 

 開ける。

 

 そして。

 

「チッ……」

 

 思わず舌打ちが漏れた。

 

 ピアノの前に先客がいた。

 

 長い黒髪。

 

 真っ直ぐな背筋。

 

 譜面を見つめる横顔。

 

 井川絵見だった。

 

 絵見は振り返る。

 

 そして眉をひそめた。

 

「何その顔」

 

「なんでお前がいるんだよ」

 

「早い者勝ち」

 

 即答だった。

 

 律はため息を吐く。

 

「俺の場所なんだが」

 

「知らない」

 

「冷たくない?」

 

「アンタ相手なら普通」

 

 絵見はピアノへ向き直る。

 

 譜面を整える。

 

 完全に居座る気だった。

 

「屋上行け」

 

「はいはい」

 

「というかアンタは屋上でも弾けるんだから、毎回私に譲りなさいよ」

 

「そうしたいのは山々なんだが」

 

 律は肩を竦める。

 

「音楽室で鍵掛けとかないとオーディエンスが大量発生するんだよ」

 

「知らない」

 

「特に屋上だとな」

 

「自慢?」

 

「事実」

 

「ムカつく」

 

 即答だった。

 

 律は笑う。

 

 絵見は本気で不機嫌そうだった。

 

 だが追い出そうとはしない。

 

 本気で嫌っているわけでもない。

 

 ただ。

 

 何となく気に入らないだけだ。

 

 律はそれを知っていた。

 

「じゃあ行くわ」

 

「早く行け。コンクール明日でしょ」

 

「頑張れよ」

 

「アンタに言われたくない」

 

「辛辣だなー」

 

「分かってるなら消えなさい」

 

「はいはい」

 

 律は音楽室を後にした。

 

 扉が閉まる。

 

 静寂。

 

 その向こうでピアノの音が鳴り始めた。

 

 律は少しだけ立ち止まる。

 

 綺麗な音だった。

 

 相変わらず。

 

 負けず嫌いで。

 

 真っ直ぐで。

 

 音まで本人そっくりだった。

 

 だから少しだけ笑う。

 

 そして階段へ向かった。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 屋上には春の風が吹いていた。

 

 フェンスの向こうには青空が広がっている。

 

 遠くに見える街並み。

 

 昼休みの穏やかな景色。

 

 律はフェンスへ背中を預けた。

 

 ホットドッグを食べる。

 

 野菜ジュースを飲む。

 

 昼食終了。

 

「さて」

 

 ケースを開く。

 

 黒いヴァイオリン。

 

 手に馴染んだ重さ。

 

 顎へ当てる。

 

 弓を構える。

 

 明日の課題曲。

 

 ベートーヴェン。

 

 ヴァイオリンソナタ第九番。

 

《クロイツェル》。

 

 音が空へ溶けていく。

 

 正確な音。

 

 澄んだ音。

 

 訓練された音。

 

 指は迷わない。

 

 弓も迷わない。

 

 何度も繰り返した。

 

 何百回。

 

 何千回。

 

 体が覚えている。

 

 だから弾ける。

 

 失敗しない。

 

 多分明日も。

 

 優勝候補。

 

 周囲はそう言う。

 

 先生も。

 

 審査員も。

 

 母さんも。

 

 多分父親も。

 

 ──優勝。

 

 その言葉を思い浮かべる。

 

 別に嫌ではない。

 

 勝ちたい。

 

 当然だ。

 

 負けるよりは勝ちたい。

 

 だが。

 

 優勝したその先に何があるのかと聞かれると、答えられなかった。

 

 音だけが風に乗って流れていく。

 

 春の空は高かった。

 

 どこまでも続いている。

 

 律は最後のフレーズを弾き終える。

 

 弓を下ろす。

 

 音が消える。

 

 残るのは風の音だけだった。

 

「……上手いな」

 

 誰もいない屋上で呟く。

 

 自画自賛。

 

 普通なら少し恥ずかしい言葉だ。

 

 だが律は本気だった。

 

 上手いと思う。

 

 少なくとも同世代では。

 

 努力してきた自信がある。

 

 だから結果も出る。

 

 前優勝したコンクールだってそうだ。

 

 今回の藤和音楽コンクールだってそうだろう。

 

 多分勝てる。

 

 そう思う。

 

 なのに。

 

 胸の奥は静かだった。

 

 高揚感もない。

 

 楽しみでもない。

 

 ただ明日が来る。

 

 それだけだった。

 

「……帰るか」

 

 ヴァイオリンをケースへしまう。

 

 昼休み終了まであと少し。

 

 律はフェンスの向こうの空を見上げた。

 

 春だった。

 

 暖かい風が吹いている。

 

 なのに。

 

 何かが足りない気がした。

 

 

 

 

 

「ただいまー」

 

 玄関の扉を開ける。

 

 すぐに出汁の匂いがした。

 

 律は少しだけ表情を緩める。

 

「おかえり」

 

 キッチンから母親の声。

 

 久世美紀。

 

 エプロン姿のまま顔を覗かせる。

 

「手洗いなさい」

 

「はいはい」

 

「返事が軽い」

 

「いつものこと」

 

「知ってる」

 

 律は笑う。

 

 洗面所へ向かう。

 

 鏡に映る自分。

 

 少し長めの髪。

 

 緩いネクタイ。

 

 第一ボタンは開いたまま。

 

 学校で何度注意されたか分からない。

 

 けれど直らない。

 

 直す気もない。

 

 手を洗う。

 

 リビングへ入る。

 

 テーブルには夕飯が並んでいた。

 

「肉だ」

 

「だから肉にした」

 

「最高」

 

「現金ね」

 

 律は席へ座る。

 

 いただきます。

 

 二人で手を合わせる。

 

 テレビではニュースが流れていた。

 

 他愛のない会話。

 

 学校の話。

 

 天気の話。

 

 そんな時間が流れる。

 

「そういえば」

 

 美紀が箸を置いた。

 

「明日だったわね」

 

「ん?」

 

「コンクール」

 

「あー」

 

 律は頷く。

 

「それ」

 

「頑張りなさい」

 

「頑張るよ」

 

「優勝?」

 

「多分」

 

「自信家」

 

「実力主義です」

 

 美紀が小さく笑う。

 

 律も笑った。

 

 少しだけ。

 

 その後。

 

 会話が途切れる。

 

 静かな時間。

 

 美紀は何か言いかけたようだった。

 

 けれど言わない。

 

 律も聞かない。

 

 聞く必要がないからだ。

 

 コンクール。

 

 演奏会。

 

 音楽ホール。

 

 昔から。

 

 美紀はあまり来ない。

 

 理由は知っている。

 

 だから誘わない。

 

 無理もさせない。

 

 それが当たり前だった。

 

「母さん」

 

「なに?」

 

「肉うまい」

 

「そう」

 

 美紀が笑う。

 

 それで終わりだった。

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 第二回藤和音楽コンクール。

 

 会場は朝から賑わっていた。

 

 全国から集まった中学生たち。

 

 保護者。

 

 音楽関係者。

 

 審査員。

 

 新設大会とは思えない熱気だった。

 

 理由は簡単だ。

 

 優勝者には特典がある。

 

 主催者所有のグァルネリ。

 

 その名器を使ったリサイタル。

 

 中学生にとっては破格だった。

 

 ホールのロビーを歩く。

 

 参加者たちの顔には緊張が浮かんでいる。

 

 律はガラケーを閉じた。

 

 時間を確認する。

 

 まだ余裕がある。

 

「久世くん」

 

 呼び止められた。

 

 振り返る。

 

 審査委員長。

 

 風間先生だった。

 

 年配の男性。

 

 眼鏡の奥の目が細くなる。

 

「お久しぶりです」

 

「元気そうだね」

 

「それなりに」

 

「君のお父さんも元気かな」

 

 律の笑顔が少しだけ固まる。

 

 だが一瞬だった。

 

「多分」

 

「そうか」

 

 風間先生は気付かなかった。

 

 あるいは気付いても触れなかった。

 

「楽しみにしているよ」

 

「ありがとうございます」

 

「君は譜面を大切にする」

 

 風間先生は言う。

 

「作曲家に敬意を払う演奏をする」

 

「……」

 

「最近はそれが出来る子が少ない」

 

 律は曖昧に笑った。

 

 何度も聞いた言葉だった。

 

 正確。

 

 誠実。

 

 模範的。

 

 優等生。

 

 褒め言葉だ。

 

 分かっている。

 

 なのに。

 

 どこか居心地が悪かった。

 

「失礼します」

 

「ああ。頑張りなさい」

 

 律は頭を下げた。

 

 そして舞台袖へ向かう。

 

 やがて名前が呼ばれる。

 

 出番だった。

 

 

 

 

 

 

 

 照明が眩しい。

 

 客席は暗い。

 

 無数の視線が律を見ている。

 

 伴奏者が座る。

 

 律は定位置へ立った。

 

 床に貼られた目印。

 

 その上で足を止める。

 

 ルーティンだった。

 

 ネクタイを少し緩める。

 

 肩の力を抜く。

 

 呼吸を整える。

 

 そして。

 

 ヴァイオリンを構えた。

 

 静寂。

 

 一音目。

 

 ピアノが鳴る。

 

 続いてヴァイオリン。

 

 ベートーヴェン。

 

 クロイツェル。

 

 律の音は正確だった。

 

 譜面に書かれた音。

 

 そこにある意図。

 

 作曲家が残したもの。

 

 それらを丁寧に拾い上げる。

 

 音が流れる。

 

 美しい。

 

 整っている。

 

 完成されている。

 

 客席が引き込まれる。

 

 審査員が頷く。

 

 伴奏との呼吸も完璧だった。

 

 ミスはない。

 

 迷いもない。

 

 演奏は進む。

 

 正しく。

 

 美しく。

 

 そして。

 

 何事もなく終わった。

 

 最後の音が消える。

 

 拍手。

 

 大きな拍手だった。

 

 律は一礼する。

 

 笑顔も作る。

 

 だが。

 

 胸の奥は静かだった。

 

 いつも通りに。

 

 完璧だった。

 

 だから。

 

 何も残らなかった。

 

 拍手を背中で聞きながら舞台袖へ戻る。

 

 スタッフが何か言った。

 

 伴奏者が微笑んだ。

 

 律も笑顔で返す。

 

 内容は覚えていない。

 

 いつものことだった。

 

 演奏が終わると周囲は褒めてくれる。

 

 上手かった。

 

 素晴らしかった。

 

 優勝候補だ。

 

 そう言われる。

 

 ありがたいと思う。

 

 思うのだが。

 

 胸のどこかが冷めている。

 

 舞台袖の壁へ背中を預ける。

 

 少しだけ息を吐く。

 

 その時だった。

 

「次の方、お願いします」

 

 スタッフの声。

 

 律は何となく顔を上げる。

 

 そこにいた。

 

 金色の髪。

 

 少し癖のある髪が肩の辺りで揺れている。

 

 華奢な身体。

 

 細い指。

 

 手にはヴァイオリンケース。

 

 少女は舞台へ向かおうとしていた。

 

 すれ違う。

 

 一瞬だけ。

 

 目が合った気がした。

 

 だが少女はそのまま歩いていく。

 

 律は首を傾げた。

 

 ──誰だ? 

 

 見覚えがない。

 

 同世代の有名な奏者なら大体知っている。

 

 全国大会で名前を見る。

 

 コンクールで顔を見る。

 

 音楽雑誌に載る。

 

 そういう人間なら。

 

 だが。

 

 思い出せない。

 

 記憶に引っ掛からない。

 

 だからそのまま忘れようとした。

 

 その時。

 

 客席が静まる。

 

 伴奏者が座る。

 

 少女が定位置へ立つ。

 

 律は何となく足を止めた。

 

 それだけだった。

 

 本当に。

 

 それだけだった。

 

 後で考えれば。

 

 ここで帰っていれば良かったのかもしれない。

 

 そうすれば。

 

 こんなにも気になることはなかった。

 

 けれど。

 

 律は動かなかった。

 

 そして。

 

 演奏が始まる。

 

 ベートーヴェン。

 

 ヴァイオリンソナタ第九番《クロイツェル》。

 

 さっき自分が弾いた曲。

 

 同じ曲。

 

 同じ譜面。

 

 同じ音符。

 

 同じはずだった。

 

 一音目。

 

 律の眉が僅かに動く。

 

 違う。

 

 そう思った。

 

 違う。

 

 何かが。

 

 音が。

 

 呼吸が。

 

 空気が。

 

 伴奏のピアノが進む。

 

 ヴァイオリンが追いかける。

 

 いや。

 

 追いかけていない。

 

 好き勝手に走っている。

 

 テンポが揺れる。

 

 伸ばす。

 

 止まる。

 

 飛ぶ。

 

 自由過ぎる。

 

 コンクールの演奏じゃない。

 

 律は思う。

 

 減点だ。

 

 今のも。

 

 その前も。

 

 さっきのフレーズも。

 

 全部。

 

 審査員受けは最悪だろう。

 

 なのに。

 

 目が離せなかった。

 

 少女は笑っていた。

 

 弾きながら。

 

 楽しそうに。

 

 自由に。

 

 まるで。

 

 このステージの全てが自分のものだと言わんばかりに。

 

 ヴァイオリンを歌わせている。

 

 客席が静かだった。

 

 誰も動かない。

 

 咳払いすら聞こえない。

 

 全員が見ている。

 

 少女を。

 

 その音を。

 

 律は理解できなかった。

 

 こんなの間違っている。

 

 譜面通りじゃない。

 

 作曲家の指示通りじゃない。

 

 コンクールの弾き方じゃない。

 

 それなのに。

 

 それなのに。

 

 どうして。

 

 こんなにも。

 

 ──楽しそうなんだ。

 

 胸の奥がざわつく。

 

 嫌な感覚だった。

 

 悔しいような。

 

 羨ましいような。

 

 言葉にならない感情。

 

 少女の音は暴れていた。

 

 ベートーヴェンが怒るかもしれない。

 

 風間先生なら顔をしかめるかもしれない。

 

 審査員達も減点するだろう。

 

 それくらい好き勝手だった。

 

 なのに。

 

 律の目には。

 

 この曲が。

 

 ベートーヴェンの曲には見えなかった。

 

 少女の曲だった。

 

 宮園かをりという人間のために作られた曲みたいだった。

 

 そんな馬鹿なことを思う。

 

 演奏が終盤へ向かう。

 

 熱量が増す。

 

 音が踊る。

 

 笑う。

 

 泣く。

 

 叫ぶ。

 

 そんな風に聞こえた。

 

 最後の音。

 

 消える。

 

 静寂。

 

 そして。

 

 拍手。

 

 爆発するような拍手だった。

 

 客席が総立ちになる。

 

 歓声が上がる。

 

 律は呆然と立っていた。

 

 審査員席を見る。

 

 案の定だった。

 

 表情は微妙。

 

 困惑。

 

 苦笑。

 

 呆れ。

 

 そんな顔。

 

 当然だ。

 

 コンクールとして見れば。

 

 あれは失格だ。

 

 なのに。

 

 律の胸は少しだけ高鳴っていた。

 

 自分でも理由は分からなかった。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 予選結果は壁へ張り出された。

 

 人だかりが出来ている。

 

 律はその中を進む。

 

 別に緊張はしていない。

 

 落ちるとは思っていなかった。

 

 事実。

 

 自分の名前はあった。

 

 久世律。

 

 予選通過。

 

 当然だった。

 

 だからそのまま視線を下へ移す。

 

 探す。

 

 あの少女の名前を。

 

 そして。

 

 なかった。

 

「……だよな」

 

 思わず呟く。

 

 当然だった。

 

 あんな演奏が通るはずがない。

 

 どれだけ観客を魅了しても。

 

 コンクールにはルールがある。

 

 譜面がある。

 

 審査基準がある。

 

 だから。

 

 当然だった。

 

 なのに。

 

 少しだけ残念だと思った。

 

 その時。

 

 視線がもう少し下へ移る。

 

 別枠。

 

 聴衆推薦。

 

 そこに。

 

 一つの名前があった。

 

 宮園かをり。

 

 律はしばらくその名前を見つめる。

 

 そして。

 

 小さく息を吐いた。

 

「そりゃそうか」

 

 客席の反応を思い出す。

 

 あれだけの演奏だった。

 

 落としたところで。

 

 観客は納得しないだろう。

 

 律は壁から離れる。

 

 不思議だった。

 

 決して技術では自分より上手いとは思わない。

 

 少なくとも自分の知っている正しさからは外れている。

 

 なのに。

 

 次も聴きたい。

 

 そう思っている自分がいた。

 

 宮園かをり。

 

 覚えてしまった。

 

 名前も。

 

 音も。

 

 その演奏も。

 

 全部。

 

 

 

 

 

 

 ホールを出る。

 

 夕方だった。

 

 春の陽射しは少しだけ傾いている。

 

 予選を終えた参加者達が、それぞれの帰路へ散っていく。

 

 保護者と話している者。

 

 友人と笑い合っている者。

 

 悔しそうな顔をしている者。

 

 色々いた。

 

 律は一人だった。

 

 昔からそうだった。

 

 別に寂しいとも思わない。

 

 肩にヴァイオリンケースを掛ける。

 

 ポケットの中で携帯が震えた。

 

 取り出す。

 

 黒い折り畳み式の携帯電話。

 

 母さんだった。

 

『どうだった?』

 

 短いメール。

 

 律は歩きながら返信する。

 

『通過』

 

 すぐに返事が来る。

 

『おめでとう』

 

 律は少しだけ笑った。

 

『どうもー』

 

 送信。

 

 携帯を閉じる。

 

 会話は終わりだった。

 

 母さんらしい。

 

 春風が吹く。

 

 律は空を見上げる。

 

 頭の中には、まだあの演奏が残っていた。

 

 宮園かをり。

 

 自由だった。

 

 好き勝手だった。

 

 滅茶苦茶だった。

 

 なのに。

 

 耳から離れない。

 

「なんなんだよ」

 

 小さく呟く。

 

 答えは出ない。

 

 その時だった。

 

「あっ!」

 

 声が飛んできた。

 

 律は顔を上げる。

 

 数メートル先。

 

 見覚えのある金色の髪。

 

「いた!」

 

 少女がこちらを指差している。

 

 隣には短髪の少女。

 

 そして。

 

「久世律くんだ!」

 

 満面の笑み。

 

 律は少しだけ目を瞬かせた。

 

 昼間。

 

 舞台の上にいた少女。

 

 宮園かをりだった。

 

「あー」

 

 律は頷く。

 

「昼間の」

 

「昼間の!」

 

「どうもー」

 

「どうもーじゃないよ!」

 

 何故か怒られた。

 

 律は笑う。

 

 隣の少女が困った顔をする。

 

「かをちゃん。知り合い?」

 

「ううん!」

 

「違うの?」

 

「初対面!」

 

「初対面なの?」

 

「でも知ってる!」

 

「えぇ?」

 

 短髪の少女が呆れた顔をする。

 

 律も同意だった。

 

「ごめんね」

 

 少女が頭を下げた。

 

「この子時々変だから」

 

「ひどい!」

 

「事実」

 

「ひどい!」

 

「まぁまぁ」

 

 律は肩を竦める。

 

「別に気にしてないから」

 

 かをりの表情が明るくなる。

 

「そうだ! 私、宮園かをり!」

 

「知ってる」

 

「え?」

 

「さっき覚えた」

 

 かをりが目を丸くする。

 

 律は少しだけ笑った。

 

「宮園かをり」

 

「うん」

 

「予選落ちした人」

 

「うぐっ!」

 

 胸を押さえるかをり。

 

「それ言う?」

 

「事実だろ」

 

「言わなくていいじゃん!」

 

「でも上がった」

 

 律は続ける。

 

「聴衆推薦」

 

 一瞬。

 

 かをりが照れたように笑った。

 

「見てくれてたんだ」

 

「見てた」

 

「どうだった?」

 

 律は少し考える。

 

 そして。

 

「めちゃくちゃだったな」

 

 かをりが吹き出した。

 

「でしょ!」

 

「褒めてないぞ」

 

「でも見てくれてた!」

 

「まぁ」

 

「ありがと!」

 

 本当に嬉しそうだった。

 

「……ただ、凄かったよ」

 

「……ありがとう」

 

 かをりは少し驚いたようにそう答えた。

 

 律は思い出したように目を細める。

 

「伴奏者、あれ大丈夫か?」

 

「あー」

 

 かをりが遠い目をする。

 

「いつも怒られる。今日で愛想つかされちゃった」

 

「だろうな」

 

「だから次は別の人に頼もうかなーって」

 

「別の人?」

 

「うん」

 

 かをりが笑う。

 

「すっごいピアニスト知ってるんだ」

 

「へぇ」

 

「きっと、久世くんも知ってるよ。昔ピアノのコンクール荒らしてた人」

 

 律は少しだけ眉を上げた。

 

「有馬か?」

 

 かをりの目が丸くなる。

 

「知ってるの!?」

 

「そりゃな」

 

 知らない方が珍しい。

 

 コンクールに出ている人間なら、一度は名前を聞く。

 

 有馬公生。

 

 ヒューマンメトロノーム。

 

 絶対王者。

 

 神童。

 

 色々な呼ばれ方をしていた。

 

「最近見ないけど」

 

 律は言う。

 

「ピアノ辞めたんじゃなかったか」

 

「そうなの?」

 

「知らないのかよ」

 

「うん!」

 

 即答だった。

 

 律は思わず吹き出す。

 

「誘う気満々だったろ」

 

「だって公生くん凄いんだもん」

 

「会ったことあるのか?」

 

「あるよ!」

 

 かをりは胸を張る。

 

「絶対またピアノ弾かせるんだ」

 

「迷惑な奴だな」

 

「ひどい!」

 

 けれど。

 

 かをりは楽しそうだった。

 

 律はそんな様子を見ながら思う。

 

 もし本当に有馬公生が伴奏するなら。

 

 苦労するのは間違いなく有馬の方だろう。

 

 そんな気がした。

 

 けれど。

 

 かをりはそんなことなど全く気にしていないらしかった。

 

「絶対弾いてくれるよ」

 

「その自信はどこから来るんだ」

 

「私だから?」

 

「キツいな」

 

「ひどい!」

 

 かをりが頬を膨らませる。

 

 隣で椿が深々とため息を吐いた。

 

 律は肩を竦める。

 

 だが不思議と嫌ではなかった。

 

 初対面のはずなのに。

 

 会話のテンポがおかしい。

 

 距離感もおかしい。

 

 普通ならもっと警戒する。

 

 なのに。

 

 かをりは当たり前のように話しかけてくる。

 

 まるで前から知り合いだったみたいに。

 

「そういえば」

 

 椿がふと思い出したように口を開く。

 

「久世君ってさ」

 

「ん?」

 

「全国のコンクールとかよく出てるの?」

 

「まぁなー」

 

「優勝とかもしてる?」

 

「まぁ結構」

 

「なんか腹立つな」

 

「よく言われる」

 

 律は笑う。

 

 椿も少し笑った。

 

 かをりが横から口を挟む。

 

「でも本当に凄いよね」

 

「何が」

 

「演奏。聞いてたんだよ」

 

 律は少しだけ目を瞬かせた。

 

 かをりは真っ直ぐだった。

 

 冗談でもなく。

 

 からかっているわけでもなく。

 

 本当にそう思っている顔。

 

「今日も凄かった」

 

 そう言った。

 

「音、綺麗だったし」

 

「どうも」

 

「でも」

 

 かをりが首を傾げる。

 

「なんか苦しそうだった」

 

 律の笑顔が止まる。

 

 一瞬だけ。

 

 本当に一瞬だけだった。

 

「は?」

 

「んー」

 

 かをりは空を見上げる。

 

 言葉を探すように。

 

「上手いんだけど」

 

「うん」

 

「上手すぎるっていうか」

 

「褒めてる?」

 

「褒めてる!」

 

「ならいい」

 

「でも」

 

 かをりは続けた。

 

「もっと楽しく弾いてもいいのになーって思った」

 

 春風が吹いた。

 

 金色の髪が揺れる。

 

 律は何も言わなかった。

 

 言えなかった。

 

 初対面だ。

 

 会って一時間も経っていない。

 

 なのに。

 

 少しだけ。

 

 核心を突かれた気がした。

 

 だから誤魔化す。

 

 いつもみたいに。

 

「楽しんでるぞー」

 

「嘘」

 

「即答だな」

 

「だって違うもん」

 

「そうか?」

 

「そう」

 

 かをりは迷わない。

 

 まるで当然のことを言うみたいに。

 

 律は苦笑した。

 

 変な奴だ。

 

 本当に。

 

 変な奴。

 

 けれど。

 

 その言葉はなぜか耳に残った。

 

 もっと楽しく弾いてもいいのに。

 

 そんなこと。

 

 今まで誰にも言われたことがなかった。

 

 先生にも。

 

 審査員にも。

 

 母親にも。

 

 父親にも。

 

 誰にも。

 

「そろそろ行くよ」

 

 椿が時計を見る。

 

「あ」

 

 かをりも時間を確認した。

 

「じゃあね!」

 

 相変わらず元気だった。

 

「次も頑張って!」

 

「おう」

 

「絶対見に行く!」

 

「暇なのか」

 

「暇じゃない!」

 

「どっちだよ」

 

 かをりが笑う。

 

 椿も呆れながら笑う。

 

 二人は並んで歩き出した。

 

 数歩進んで。

 

 かをりが振り返る。

 

「久世くん!」

 

「ん?」

 

「次はもっと楽しそうに弾いてね!」

 

 そう言って。

 

 返事を待たずに走っていった。

 

「おい」

 

 呼び止めても遅い。

 

 もう聞こえていない。

 

 椿が申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「じゃあね」

 

「おう」

 

 二人の背中が遠ざかる。

 

 やがて人混みの向こうへ消えた。

 

 律はしばらくその場に立っていた。

 

 春風が吹く。

 

 夕陽が街を赤く染めている。

 

 そして。

 

 気付く。

 

 さっきまで頭の中を占めていたのは。

 

 宮園かをりの演奏だった。

 

 今は。

 

 宮園かをり本人だった。

 

「変な奴」

 

 小さく呟く。

 

 けれど。

 

 少しだけ笑っていた。

 

 そのことに本人は気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰宅した後も。

 

 律の頭から宮園かをりは離れなかった。

 

 譜面を開く。

 

 クロイツェル。

 

 見慣れた音符。

 

 見慣れた指示。

 

 見慣れた旋律。

 

 なのに。

 

 弓を持つ手が止まる。

 

 思い出すのは。

 

 あの演奏。

 

 あの笑顔。

 

 あの言葉。

 

 ──もっと楽しく弾いてもいいのにな。

 

「簡単に言うなよ」

 

 誰もいない部屋で呟く。

 

 窓の外では春の夜風が揺れていた。

 

 楽しく弾く。

 

 そんなこと。

 

 いつから考えなくなったんだろう。

 

 分からない。

 

 ただ一つだけ。

 

 確かなことがあった。

 

 次の審査。

 

 そして。

 

 もし宮園かをりが残るなら。

 

 もう一度。

 

 あの演奏を聴いてみたい。

 

 そう思っている自分がいた。

 

 律は静かにヴァイオリンを構える。

 

 そして弓を置く。

 

 音が鳴る。

 

 いつもと同じ音だった。

 

 けれど。

 

 ほんの少しだけ。

 

 何かが変わり始めていた。

 

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