昼休みを告げるチャイムが校舎に響いた。
教師が教室を出ていく。
それを合図にしたように、静かだった教室が一気に騒がしくなった。
机を寄せる者。
購買へ走る者。
弁当を広げる者。
いつもの昼休みだった。
「久世」
そんな中、教卓の前まで来た担任が声を掛ける。
律はホットドッグの袋を開けながら顔を上げた。
「はいはい」
「ネクタイ」
律は自分の胸元を見る。
倉橋第四中学校指定のネクタイ。
確かに付いている。
「締めてますよー」
「締めてない」
「気持ち的には」
「意味が分からん」
教室から笑い声が上がった。
律も笑う。
担任は額を押さえた。
「お前な……」
「ちゃんと学校来てるじゃないですか」
「そういう問題じゃない」
「成績も良いですよ」
「そういう問題でもない」
「コンクールも出ます」
「それも違う」
また笑いが起こる。
律は肩を竦めた。
「厳しいなー」
「当たり前だ」
担任は呆れたように息を吐く。
それでも本気で怒っているわけではない。
毎度のことだからだ。
律は椅子の背に掛けていたヴァイオリンケースを肩へ担いだ。
白いブレザーのボタンは開けたまま。
第一ボタンも外れている。
ネクタイも緩い。
倉橋第四中学校の教師達にとって見慣れた姿だった。
「明日だったな」
「何がです?」
「藤和音楽コンクール」
「あー」
律は思い出したように頷く。
「それです」
「優勝してこい」
「善処しまーす」
「本当に分かってるのか」
「多分」
「不安になる返事をするな」
再び教室が笑いに包まれる。
律はひらひらと手を振った。
「じゃ、行ってきます」
「ネクタイ」
「善処します」
「締めろ」
「はいはい」
適当に返事をして教室を出る。
背中に「絶対締めないだろあいつ」というクラスメイトの声が聞こえた。
正解だった。
廊下を歩く。
昼休みの喧騒。
窓から差し込む春の日差し。
肩に掛かったヴァイオリンケースが少し揺れる。
ポケットの中で携帯が震えた。
取り出す。
黒い折り畳み式の携帯電話。
母さんからだった。
『晩御飯何がいい?』
律は歩きながら返信する。
『肉』
数秒後。
『雑』
思わず笑う。
『肉』
『分かった』
会話終了。
携帯を閉じる。
短い。
だが母さんとのやり取りは大体こんなものだった。
廊下を曲がる。
目的地は音楽室。
昼休みの間だけ使える、律のお気に入りの場所だった。
静かで。
誰にも邪魔されない。
少なくとも本来は。
音楽室の前へ着く。
扉へ手を掛ける。
開ける。
そして。
「チッ……」
思わず舌打ちが漏れた。
ピアノの前に先客がいた。
長い黒髪。
真っ直ぐな背筋。
譜面を見つめる横顔。
井川絵見だった。
絵見は振り返る。
そして眉をひそめた。
「何その顔」
「なんでお前がいるんだよ」
「早い者勝ち」
即答だった。
律はため息を吐く。
「俺の場所なんだが」
「知らない」
「冷たくない?」
「アンタ相手なら普通」
絵見はピアノへ向き直る。
譜面を整える。
完全に居座る気だった。
「屋上行け」
「はいはい」
「というかアンタは屋上でも弾けるんだから、毎回私に譲りなさいよ」
「そうしたいのは山々なんだが」
律は肩を竦める。
「音楽室で鍵掛けとかないとオーディエンスが大量発生するんだよ」
「知らない」
「特に屋上だとな」
「自慢?」
「事実」
「ムカつく」
即答だった。
律は笑う。
絵見は本気で不機嫌そうだった。
だが追い出そうとはしない。
本気で嫌っているわけでもない。
ただ。
何となく気に入らないだけだ。
律はそれを知っていた。
「じゃあ行くわ」
「早く行け。コンクール明日でしょ」
「頑張れよ」
「アンタに言われたくない」
「辛辣だなー」
「分かってるなら消えなさい」
「はいはい」
律は音楽室を後にした。
扉が閉まる。
静寂。
その向こうでピアノの音が鳴り始めた。
律は少しだけ立ち止まる。
綺麗な音だった。
相変わらず。
負けず嫌いで。
真っ直ぐで。
音まで本人そっくりだった。
だから少しだけ笑う。
そして階段へ向かった。
☆☆☆
屋上には春の風が吹いていた。
フェンスの向こうには青空が広がっている。
遠くに見える街並み。
昼休みの穏やかな景色。
律はフェンスへ背中を預けた。
ホットドッグを食べる。
野菜ジュースを飲む。
昼食終了。
「さて」
ケースを開く。
黒いヴァイオリン。
手に馴染んだ重さ。
顎へ当てる。
弓を構える。
明日の課題曲。
ベートーヴェン。
ヴァイオリンソナタ第九番。
《クロイツェル》。
音が空へ溶けていく。
正確な音。
澄んだ音。
訓練された音。
指は迷わない。
弓も迷わない。
何度も繰り返した。
何百回。
何千回。
体が覚えている。
だから弾ける。
失敗しない。
多分明日も。
優勝候補。
周囲はそう言う。
先生も。
審査員も。
母さんも。
多分父親も。
──優勝。
その言葉を思い浮かべる。
別に嫌ではない。
勝ちたい。
当然だ。
負けるよりは勝ちたい。
だが。
優勝したその先に何があるのかと聞かれると、答えられなかった。
音だけが風に乗って流れていく。
春の空は高かった。
どこまでも続いている。
律は最後のフレーズを弾き終える。
弓を下ろす。
音が消える。
残るのは風の音だけだった。
「……上手いな」
誰もいない屋上で呟く。
自画自賛。
普通なら少し恥ずかしい言葉だ。
だが律は本気だった。
上手いと思う。
少なくとも同世代では。
努力してきた自信がある。
だから結果も出る。
前優勝したコンクールだってそうだ。
今回の藤和音楽コンクールだってそうだろう。
多分勝てる。
そう思う。
なのに。
胸の奥は静かだった。
高揚感もない。
楽しみでもない。
ただ明日が来る。
それだけだった。
「……帰るか」
ヴァイオリンをケースへしまう。
昼休み終了まであと少し。
律はフェンスの向こうの空を見上げた。
春だった。
暖かい風が吹いている。
なのに。
何かが足りない気がした。
「ただいまー」
玄関の扉を開ける。
すぐに出汁の匂いがした。
律は少しだけ表情を緩める。
「おかえり」
キッチンから母親の声。
久世美紀。
エプロン姿のまま顔を覗かせる。
「手洗いなさい」
「はいはい」
「返事が軽い」
「いつものこと」
「知ってる」
律は笑う。
洗面所へ向かう。
鏡に映る自分。
少し長めの髪。
緩いネクタイ。
第一ボタンは開いたまま。
学校で何度注意されたか分からない。
けれど直らない。
直す気もない。
手を洗う。
リビングへ入る。
テーブルには夕飯が並んでいた。
「肉だ」
「だから肉にした」
「最高」
「現金ね」
律は席へ座る。
いただきます。
二人で手を合わせる。
テレビではニュースが流れていた。
他愛のない会話。
学校の話。
天気の話。
そんな時間が流れる。
「そういえば」
美紀が箸を置いた。
「明日だったわね」
「ん?」
「コンクール」
「あー」
律は頷く。
「それ」
「頑張りなさい」
「頑張るよ」
「優勝?」
「多分」
「自信家」
「実力主義です」
美紀が小さく笑う。
律も笑った。
少しだけ。
その後。
会話が途切れる。
静かな時間。
美紀は何か言いかけたようだった。
けれど言わない。
律も聞かない。
聞く必要がないからだ。
コンクール。
演奏会。
音楽ホール。
昔から。
美紀はあまり来ない。
理由は知っている。
だから誘わない。
無理もさせない。
それが当たり前だった。
「母さん」
「なに?」
「肉うまい」
「そう」
美紀が笑う。
それで終わりだった。
☆☆☆
第二回藤和音楽コンクール。
会場は朝から賑わっていた。
全国から集まった中学生たち。
保護者。
音楽関係者。
審査員。
新設大会とは思えない熱気だった。
理由は簡単だ。
優勝者には特典がある。
主催者所有のグァルネリ。
その名器を使ったリサイタル。
中学生にとっては破格だった。
ホールのロビーを歩く。
参加者たちの顔には緊張が浮かんでいる。
律はガラケーを閉じた。
時間を確認する。
まだ余裕がある。
「久世くん」
呼び止められた。
振り返る。
審査委員長。
風間先生だった。
年配の男性。
眼鏡の奥の目が細くなる。
「お久しぶりです」
「元気そうだね」
「それなりに」
「君のお父さんも元気かな」
律の笑顔が少しだけ固まる。
だが一瞬だった。
「多分」
「そうか」
風間先生は気付かなかった。
あるいは気付いても触れなかった。
「楽しみにしているよ」
「ありがとうございます」
「君は譜面を大切にする」
風間先生は言う。
「作曲家に敬意を払う演奏をする」
「……」
「最近はそれが出来る子が少ない」
律は曖昧に笑った。
何度も聞いた言葉だった。
正確。
誠実。
模範的。
優等生。
褒め言葉だ。
分かっている。
なのに。
どこか居心地が悪かった。
「失礼します」
「ああ。頑張りなさい」
律は頭を下げた。
そして舞台袖へ向かう。
やがて名前が呼ばれる。
出番だった。
照明が眩しい。
客席は暗い。
無数の視線が律を見ている。
伴奏者が座る。
律は定位置へ立った。
床に貼られた目印。
その上で足を止める。
ルーティンだった。
ネクタイを少し緩める。
肩の力を抜く。
呼吸を整える。
そして。
ヴァイオリンを構えた。
静寂。
一音目。
ピアノが鳴る。
続いてヴァイオリン。
ベートーヴェン。
クロイツェル。
律の音は正確だった。
譜面に書かれた音。
そこにある意図。
作曲家が残したもの。
それらを丁寧に拾い上げる。
音が流れる。
美しい。
整っている。
完成されている。
客席が引き込まれる。
審査員が頷く。
伴奏との呼吸も完璧だった。
ミスはない。
迷いもない。
演奏は進む。
正しく。
美しく。
そして。
何事もなく終わった。
最後の音が消える。
拍手。
大きな拍手だった。
律は一礼する。
笑顔も作る。
だが。
胸の奥は静かだった。
いつも通りに。
完璧だった。
だから。
何も残らなかった。
拍手を背中で聞きながら舞台袖へ戻る。
スタッフが何か言った。
伴奏者が微笑んだ。
律も笑顔で返す。
内容は覚えていない。
いつものことだった。
演奏が終わると周囲は褒めてくれる。
上手かった。
素晴らしかった。
優勝候補だ。
そう言われる。
ありがたいと思う。
思うのだが。
胸のどこかが冷めている。
舞台袖の壁へ背中を預ける。
少しだけ息を吐く。
その時だった。
「次の方、お願いします」
スタッフの声。
律は何となく顔を上げる。
そこにいた。
金色の髪。
少し癖のある髪が肩の辺りで揺れている。
華奢な身体。
細い指。
手にはヴァイオリンケース。
少女は舞台へ向かおうとしていた。
すれ違う。
一瞬だけ。
目が合った気がした。
だが少女はそのまま歩いていく。
律は首を傾げた。
──誰だ?
見覚えがない。
同世代の有名な奏者なら大体知っている。
全国大会で名前を見る。
コンクールで顔を見る。
音楽雑誌に載る。
そういう人間なら。
だが。
思い出せない。
記憶に引っ掛からない。
だからそのまま忘れようとした。
その時。
客席が静まる。
伴奏者が座る。
少女が定位置へ立つ。
律は何となく足を止めた。
それだけだった。
本当に。
それだけだった。
後で考えれば。
ここで帰っていれば良かったのかもしれない。
そうすれば。
こんなにも気になることはなかった。
けれど。
律は動かなかった。
そして。
演奏が始まる。
ベートーヴェン。
ヴァイオリンソナタ第九番《クロイツェル》。
さっき自分が弾いた曲。
同じ曲。
同じ譜面。
同じ音符。
同じはずだった。
一音目。
律の眉が僅かに動く。
違う。
そう思った。
違う。
何かが。
音が。
呼吸が。
空気が。
伴奏のピアノが進む。
ヴァイオリンが追いかける。
いや。
追いかけていない。
好き勝手に走っている。
テンポが揺れる。
伸ばす。
止まる。
飛ぶ。
自由過ぎる。
コンクールの演奏じゃない。
律は思う。
減点だ。
今のも。
その前も。
さっきのフレーズも。
全部。
審査員受けは最悪だろう。
なのに。
目が離せなかった。
少女は笑っていた。
弾きながら。
楽しそうに。
自由に。
まるで。
このステージの全てが自分のものだと言わんばかりに。
ヴァイオリンを歌わせている。
客席が静かだった。
誰も動かない。
咳払いすら聞こえない。
全員が見ている。
少女を。
その音を。
律は理解できなかった。
こんなの間違っている。
譜面通りじゃない。
作曲家の指示通りじゃない。
コンクールの弾き方じゃない。
それなのに。
それなのに。
どうして。
こんなにも。
──楽しそうなんだ。
胸の奥がざわつく。
嫌な感覚だった。
悔しいような。
羨ましいような。
言葉にならない感情。
少女の音は暴れていた。
ベートーヴェンが怒るかもしれない。
風間先生なら顔をしかめるかもしれない。
審査員達も減点するだろう。
それくらい好き勝手だった。
なのに。
律の目には。
この曲が。
ベートーヴェンの曲には見えなかった。
少女の曲だった。
宮園かをりという人間のために作られた曲みたいだった。
そんな馬鹿なことを思う。
演奏が終盤へ向かう。
熱量が増す。
音が踊る。
笑う。
泣く。
叫ぶ。
そんな風に聞こえた。
最後の音。
消える。
静寂。
そして。
拍手。
爆発するような拍手だった。
客席が総立ちになる。
歓声が上がる。
律は呆然と立っていた。
審査員席を見る。
案の定だった。
表情は微妙。
困惑。
苦笑。
呆れ。
そんな顔。
当然だ。
コンクールとして見れば。
あれは失格だ。
なのに。
律の胸は少しだけ高鳴っていた。
自分でも理由は分からなかった。
☆☆☆
予選結果は壁へ張り出された。
人だかりが出来ている。
律はその中を進む。
別に緊張はしていない。
落ちるとは思っていなかった。
事実。
自分の名前はあった。
久世律。
予選通過。
当然だった。
だからそのまま視線を下へ移す。
探す。
あの少女の名前を。
そして。
なかった。
「……だよな」
思わず呟く。
当然だった。
あんな演奏が通るはずがない。
どれだけ観客を魅了しても。
コンクールにはルールがある。
譜面がある。
審査基準がある。
だから。
当然だった。
なのに。
少しだけ残念だと思った。
その時。
視線がもう少し下へ移る。
別枠。
聴衆推薦。
そこに。
一つの名前があった。
宮園かをり。
律はしばらくその名前を見つめる。
そして。
小さく息を吐いた。
「そりゃそうか」
客席の反応を思い出す。
あれだけの演奏だった。
落としたところで。
観客は納得しないだろう。
律は壁から離れる。
不思議だった。
決して技術では自分より上手いとは思わない。
少なくとも自分の知っている正しさからは外れている。
なのに。
次も聴きたい。
そう思っている自分がいた。
宮園かをり。
覚えてしまった。
名前も。
音も。
その演奏も。
全部。
ホールを出る。
夕方だった。
春の陽射しは少しだけ傾いている。
予選を終えた参加者達が、それぞれの帰路へ散っていく。
保護者と話している者。
友人と笑い合っている者。
悔しそうな顔をしている者。
色々いた。
律は一人だった。
昔からそうだった。
別に寂しいとも思わない。
肩にヴァイオリンケースを掛ける。
ポケットの中で携帯が震えた。
取り出す。
黒い折り畳み式の携帯電話。
母さんだった。
『どうだった?』
短いメール。
律は歩きながら返信する。
『通過』
すぐに返事が来る。
『おめでとう』
律は少しだけ笑った。
『どうもー』
送信。
携帯を閉じる。
会話は終わりだった。
母さんらしい。
春風が吹く。
律は空を見上げる。
頭の中には、まだあの演奏が残っていた。
宮園かをり。
自由だった。
好き勝手だった。
滅茶苦茶だった。
なのに。
耳から離れない。
「なんなんだよ」
小さく呟く。
答えは出ない。
その時だった。
「あっ!」
声が飛んできた。
律は顔を上げる。
数メートル先。
見覚えのある金色の髪。
「いた!」
少女がこちらを指差している。
隣には短髪の少女。
そして。
「久世律くんだ!」
満面の笑み。
律は少しだけ目を瞬かせた。
昼間。
舞台の上にいた少女。
宮園かをりだった。
「あー」
律は頷く。
「昼間の」
「昼間の!」
「どうもー」
「どうもーじゃないよ!」
何故か怒られた。
律は笑う。
隣の少女が困った顔をする。
「かをちゃん。知り合い?」
「ううん!」
「違うの?」
「初対面!」
「初対面なの?」
「でも知ってる!」
「えぇ?」
短髪の少女が呆れた顔をする。
律も同意だった。
「ごめんね」
少女が頭を下げた。
「この子時々変だから」
「ひどい!」
「事実」
「ひどい!」
「まぁまぁ」
律は肩を竦める。
「別に気にしてないから」
かをりの表情が明るくなる。
「そうだ! 私、宮園かをり!」
「知ってる」
「え?」
「さっき覚えた」
かをりが目を丸くする。
律は少しだけ笑った。
「宮園かをり」
「うん」
「予選落ちした人」
「うぐっ!」
胸を押さえるかをり。
「それ言う?」
「事実だろ」
「言わなくていいじゃん!」
「でも上がった」
律は続ける。
「聴衆推薦」
一瞬。
かをりが照れたように笑った。
「見てくれてたんだ」
「見てた」
「どうだった?」
律は少し考える。
そして。
「めちゃくちゃだったな」
かをりが吹き出した。
「でしょ!」
「褒めてないぞ」
「でも見てくれてた!」
「まぁ」
「ありがと!」
本当に嬉しそうだった。
「……ただ、凄かったよ」
「……ありがとう」
かをりは少し驚いたようにそう答えた。
律は思い出したように目を細める。
「伴奏者、あれ大丈夫か?」
「あー」
かをりが遠い目をする。
「いつも怒られる。今日で愛想つかされちゃった」
「だろうな」
「だから次は別の人に頼もうかなーって」
「別の人?」
「うん」
かをりが笑う。
「すっごいピアニスト知ってるんだ」
「へぇ」
「きっと、久世くんも知ってるよ。昔ピアノのコンクール荒らしてた人」
律は少しだけ眉を上げた。
「有馬か?」
かをりの目が丸くなる。
「知ってるの!?」
「そりゃな」
知らない方が珍しい。
コンクールに出ている人間なら、一度は名前を聞く。
有馬公生。
ヒューマンメトロノーム。
絶対王者。
神童。
色々な呼ばれ方をしていた。
「最近見ないけど」
律は言う。
「ピアノ辞めたんじゃなかったか」
「そうなの?」
「知らないのかよ」
「うん!」
即答だった。
律は思わず吹き出す。
「誘う気満々だったろ」
「だって公生くん凄いんだもん」
「会ったことあるのか?」
「あるよ!」
かをりは胸を張る。
「絶対またピアノ弾かせるんだ」
「迷惑な奴だな」
「ひどい!」
けれど。
かをりは楽しそうだった。
律はそんな様子を見ながら思う。
もし本当に有馬公生が伴奏するなら。
苦労するのは間違いなく有馬の方だろう。
そんな気がした。
けれど。
かをりはそんなことなど全く気にしていないらしかった。
「絶対弾いてくれるよ」
「その自信はどこから来るんだ」
「私だから?」
「キツいな」
「ひどい!」
かをりが頬を膨らませる。
隣で椿が深々とため息を吐いた。
律は肩を竦める。
だが不思議と嫌ではなかった。
初対面のはずなのに。
会話のテンポがおかしい。
距離感もおかしい。
普通ならもっと警戒する。
なのに。
かをりは当たり前のように話しかけてくる。
まるで前から知り合いだったみたいに。
「そういえば」
椿がふと思い出したように口を開く。
「久世君ってさ」
「ん?」
「全国のコンクールとかよく出てるの?」
「まぁなー」
「優勝とかもしてる?」
「まぁ結構」
「なんか腹立つな」
「よく言われる」
律は笑う。
椿も少し笑った。
かをりが横から口を挟む。
「でも本当に凄いよね」
「何が」
「演奏。聞いてたんだよ」
律は少しだけ目を瞬かせた。
かをりは真っ直ぐだった。
冗談でもなく。
からかっているわけでもなく。
本当にそう思っている顔。
「今日も凄かった」
そう言った。
「音、綺麗だったし」
「どうも」
「でも」
かをりが首を傾げる。
「なんか苦しそうだった」
律の笑顔が止まる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
「は?」
「んー」
かをりは空を見上げる。
言葉を探すように。
「上手いんだけど」
「うん」
「上手すぎるっていうか」
「褒めてる?」
「褒めてる!」
「ならいい」
「でも」
かをりは続けた。
「もっと楽しく弾いてもいいのになーって思った」
春風が吹いた。
金色の髪が揺れる。
律は何も言わなかった。
言えなかった。
初対面だ。
会って一時間も経っていない。
なのに。
少しだけ。
核心を突かれた気がした。
だから誤魔化す。
いつもみたいに。
「楽しんでるぞー」
「嘘」
「即答だな」
「だって違うもん」
「そうか?」
「そう」
かをりは迷わない。
まるで当然のことを言うみたいに。
律は苦笑した。
変な奴だ。
本当に。
変な奴。
けれど。
その言葉はなぜか耳に残った。
もっと楽しく弾いてもいいのに。
そんなこと。
今まで誰にも言われたことがなかった。
先生にも。
審査員にも。
母親にも。
父親にも。
誰にも。
「そろそろ行くよ」
椿が時計を見る。
「あ」
かをりも時間を確認した。
「じゃあね!」
相変わらず元気だった。
「次も頑張って!」
「おう」
「絶対見に行く!」
「暇なのか」
「暇じゃない!」
「どっちだよ」
かをりが笑う。
椿も呆れながら笑う。
二人は並んで歩き出した。
数歩進んで。
かをりが振り返る。
「久世くん!」
「ん?」
「次はもっと楽しそうに弾いてね!」
そう言って。
返事を待たずに走っていった。
「おい」
呼び止めても遅い。
もう聞こえていない。
椿が申し訳なさそうに頭を下げる。
「じゃあね」
「おう」
二人の背中が遠ざかる。
やがて人混みの向こうへ消えた。
律はしばらくその場に立っていた。
春風が吹く。
夕陽が街を赤く染めている。
そして。
気付く。
さっきまで頭の中を占めていたのは。
宮園かをりの演奏だった。
今は。
宮園かをり本人だった。
「変な奴」
小さく呟く。
けれど。
少しだけ笑っていた。
そのことに本人は気付いていなかった。
帰宅した後も。
律の頭から宮園かをりは離れなかった。
譜面を開く。
クロイツェル。
見慣れた音符。
見慣れた指示。
見慣れた旋律。
なのに。
弓を持つ手が止まる。
思い出すのは。
あの演奏。
あの笑顔。
あの言葉。
──もっと楽しく弾いてもいいのにな。
「簡単に言うなよ」
誰もいない部屋で呟く。
窓の外では春の夜風が揺れていた。
楽しく弾く。
そんなこと。
いつから考えなくなったんだろう。
分からない。
ただ一つだけ。
確かなことがあった。
次の審査。
そして。
もし宮園かをりが残るなら。
もう一度。
あの演奏を聴いてみたい。
そう思っている自分がいた。
律は静かにヴァイオリンを構える。
そして弓を置く。
音が鳴る。
いつもと同じ音だった。
けれど。
ほんの少しだけ。
何かが変わり始めていた。