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目を覚ましても、しばらく頬に柔らかな水流の感触を感じたままでいた。
ゆっくりと目を開ける。よほど長く眠っていたのか視界はぼんやりと霞んでいて、明瞭にするには何度も瞬きをしなければいけなかった。
「……」
こぽり、と口から気泡が出ていく。揺れる水が頬をくすぐっていく。
どうやらここは大きな湯船か何かの中のようだった。水槽と表現しないのは壁面が玻璃ではないからだ。
水の中で胎児のように丸まったまま、渓月は揺れる水面を見上げた。控えめな灯りがちらちらと揺れている。室内のようだ。
やがて仙は身を伸ばした。頭頂で静かに水面を割って、顎の先までを水上に出す。濡れた髪が顔に張り付いて少し鬱陶しい。ぶるぶる頭を振った。
湯船のそばには薄い帳がかかっている。渓月は湯船の縁に骨盤を乗せてうんと手を伸ばした。帳に指先がかかる。ちらりとめくってみたが室内には誰もいないようだった。代わりにきっちり畳まれた着替えが見える。
「……」
よし、起きることにしよう。
仙は腕で身体を支えてざばりと湯船の縁を跨いだ。今度は髪だけでなく薄い夜衣まで肌に張り付く。指を振って水元素を取り去った。
滑らかな石張りの床をぺたぺた踏んで服を手に取る。それは渓月の記憶にない様式の服だったが、手は半自動的に動いて自らに着付けをした。丈と身頃はぴったりだ。ただし履物がない。見渡しても置いていないようなのでひとまず諦めた。
最後に卓上の宝飾品を引き寄せる。大きな耳飾り。足環。それから神の目。ひとつずつ身につけて、神の目だけは掌にぎゅっと握った。とろりとした金色の宝石は手から少しはみ出すほどの大きさがある。
逆の腕を伸ばして、半ばぶら下がるようにして扉を開けた。覗いた廊下にはやはり誰もいない。仕方がないので元素を探った。
──わずかな岩の気配。
渓月は歩き出した。裸の足が冷たい。
頭の中は真っ白だ。ここがどこかも、ここにいる理由も、何も覚えてはいなかった。ただ彼を探すべきだということだけがわかっている。
標のように残された元素を辿る。やがて行き着いた扉を身体全体を使って押し開けた。
中にいた男が振り返る。動作と一緒に後ろでくくった濃茶の髪が揺れて、それがまるで尾のようだ。
「──渓月。起きたか」
「うん。おはよう」
知らない顔だ、と思った。少なくとも渓月の頭の中にはその美丈夫の顔は──顔も──ない。しかし長い年月の跡を宿した黄金の双眸に、深く穏やかな声に覚えがあった。
仙は少し首を傾げて、記憶にある中で唯一自分のものでない名前を探り当てた。
「モラクス?」
「ああ」
柔らかな肯定。彼は静かな所作で歩み寄ってから膝を折り、小さな子供ほどの背丈しかない渓月に目線を合わせた。
「今は違う名を名乗っているから、外ではその名で呼ばないよう頼む」
「……そうなのか。わかった」
仙人はこっくり頷いた。白くて透明な頭の中ではその情報もすぐに溶けてなくなってしまいそうだったが。
「渓月」
「うん」
呼ばれたから答えた。跪いてやっと渓月より下になった友の瞳が、じっとこちらを見つめている。
「このまま寝直してもう起きてこないというのはどうだ?」
「何を言ってるんだ君は」
べちっ。
渓月は小さな掌で男の頬を引っぱたいた。
「ほ、ん、き、で、言ってるなら怒るぞ。璃月を去る最後の仙はこの私だ」
あまり効いていなそうなので岩元素で武装してからもう一度頬をぐりぐり弄り倒す。
そんなこと知っているに違いないのに、なぜか彼は目を思い切り丸くした。
それからゆるりと笑み崩れるまで、だいたい三呼吸ほどの間があっただろうか。
「ああ──許せ。一応尋ねるのが習慣になっているんだ。もちろん無理強いはしない」
「なんて習慣なんだ……」
「覚えていないだろうが、少なくとも尋ねることに関しては過去に同意を得たぞ」
もちろん覚えていない。ふうん、と仙人は呼気を鼻から逃がしながら言った。
友の手がそっと手首を掴んだ。外周をすっぽり包んでなお余りあるほど大きさの違う手だ。そのままやんわりと手をどけられる。
それで渓月は彼の頬をもみくちゃにするのを止めてやることにした。結集させていた岩元素を解放する。
なめらかに戻った肌を友の親指が撫でた。
「さて、身体に不自由はないか? 違和感は? 不快感は?」
「ない。……けど」
男は軽く眉をあげて先を促した。
渓月は裸足のままの足先をもぞもぞ開いたり閉じたりする。
「……足が冷たい。履物はないのか?」
友はきちんと靴を履いている。渓月の知らないうちに裸足で過ごすのが作法になったわけではないのだろう。服を用意してくれるなら靴も忘れないでほしいところだ。
彼はさっきよりさらに目を丸くした。上等な石珀に似た色合いの瞳が上から下まで渓月を眺める。
小さな仙人はさすがにむっとした。
「……どうか」
「いや……いや。なんでもない」
本気で驚いたままの声音で彼は言って、それからごく自然な動作でこちらの脇の下に手を差し入れた。
立ち上がる動作と一緒に軽々と持ち上げられて渓月は悲鳴をあげる。
「ちょっ……下ろしてくれ歩けるから!」
「そういうことなら裸足で歩かせるわけにいかないだろう。用意をしなかった詫びだ」
子孫など作ったことのないはずの男はやけに手慣れた手つきで渓月を腕の中に収めた。力を抜け、と苦笑交じりに言われるが、そんなことできるわけがない。背筋をかちこちにしたままうんと返事をした。
彼が歩き出すとゆらりと身体が揺れた。
耳元で彼の声がする。
「すぐに誂えよう。他に欲しいものはあるか? 髪留めも必要か?」
「えっと……確かに、ちょっと長いな。君みたいにするのがいいかな」
「編んでも映えるだろう。試してみればいい」
「あとこれを持ち運ぶ装具も欲しい」
「神の目か? 昔は足環につけていたが」
「え? 歩きにくいじゃないか」
「そうか。どこにつけたい?」
「帯?」
「なるほど、合理的だ」
それは神仙の些細な会話。人の国として栄える璃月の片隅で、ひっそりと流れる余暇の時間。
──たとえ河が帯のように細くなり、岩が
友が目を閉じるそのときまで。
かざん-たいれい【河山帯礪】(「史記」より)
永久に変わらない堅い誓約のたとえ。国が永遠に栄え安泰であることのたとえ。
特に、天子から家臣への誓い。帯礪之誓。
この小説においては、河岩帯礪。