アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
皆さま、ごきげんよう。
宗教法人『海の家』代表、九頭龍瑠々ですわ。
本日は少しだけ、昔のお話をいたしましょう。
まだ、わたくしが代表でもなく、信者の皆さまに囲まれてもおらず、青い法衣もまとっていなかった頃のお話です。
海辺の小さな家。
窓の外に広がる灰色の海。
一度も砂浜を歩いたことのない、病弱な少女。
そして、嵐の夜に海から現れた、恐ろしくも美しいお友達。
人は、知らないものを恐れます。
大きすぎるもの。
古すぎるもの。
人の形をしていないもの。
夢の底からこちらを見つめるもの。
けれど、わたくしには、それがとても綺麗に見えたのです。
とても強くて。
とても孤独で。
とても、かっこよくて。
これは、九頭龍瑠々がなぜ海を信じるようになったのか。
なぜ、世界を海で満たそうとしているのか。
なぜ、眠れるお友達のために祈りを集めているのか。
その始まりのお話です。
どうぞ、怖がらずにお読みくださいませ。
海は、すべてを包みます。
あなたの不安も、孤独も、疑いも。
そして、まだ名前のない愛さえも。
夢を見ていた。
青い夢だった。
波の音がする。
潮の匂いがする。
古い木造の家。
海辺に建つ、小さな家。
窓の外には、どこまでも続く灰色の海。
その部屋の中で、ひとりの少女が寝ていた。
九頭龍瑠々。
まだ、青い法衣も着ていない。
信者もいない。
海の家もない。
宗教弾圧はんたーい、と笑いながら叫ぶこともない。
ただの、痩せた少女だった。
白い寝間着。
細い腕。
色の薄い唇。
病室ではない。
けれど、部屋には薬の匂いがした。
枕元には本が積まれている。
海の図鑑。
神話の本。
怪物図鑑。
古い怪奇小説。
そして、誰かが作ってくれた折り紙の船。
瑠々は、一度も海へ入ったことがなかった。
一度も、自分の足で砂浜に立ったことがなかった。
一度も、波打ち際まで走ったことがなかった。
生まれつき身体が弱かった。
病名は難しかった。
大人たちは、瑠々の前では笑った。
けれど、廊下に出ると声を潜めた。
余命は、一年。
長くても、それくらい。
瑠々は、その言葉を知っていた。
知らないふりをしているだけだった。
「……海、今日も灰色ですわね」
少女は窓の外を見て呟いた。
誰も返事をしない。
返事をする相手などいなかった。
家族はいた。
看病してくれる人もいた。
けれど、瑠々の世界はほとんどこの部屋だけだった。
窓の外の海。
波の音。
薬の匂い。
ベッドの上。
それが、彼女の世界だった。
だから瑠々は、よく空想した。
もし自分が海に入れたら。
もし自分が海の底へ行けたら。
もし、海の奥に友達がいたら。
怖い怪物でもいい。
大きくて、強くて、誰にも負けないものでもいい。
自分のように、ただ終わりを待つだけではない存在。
そんな誰かに、会ってみたかった。
その夜、嵐が来た。
海が荒れた。
空は黒く、月は見えず、波は家のすぐ近くまで迫っていた。
窓ががたがたと震える。
風が悲鳴のように鳴る。
瑠々は眠れなかった。
息が苦しい。
身体が熱い。
けれど、目だけは妙に冴えていた。
その時。
海の向こうで、星が落ちた。
いや。
星ではなかった。
それは、空の外から落ちてきた何かだった。
雷よりも暗い光。
炎よりも冷たい輝き。
海が割れた。
波が砕けた。
巨大な影が、海から這い上がる。
瑠々は、それを見た。
窓の向こう。
嵐の夜。
浜辺に、怪物がいた。
緑がかった巨体。
山のような背。
翼のような影。
顔から垂れる無数の触手。
人間なら、正気を失う姿。
見ただけで心が折れ、夢に呑まれるはずの存在。
それは、地球を侵略するために、星の外から飛来したものだった。
名を、�����。
地球の言語にするなら、クトゥルフ。
本来なら、海を支配し、夢を通じて人の心を沈め、いずれ地上を自らのものにするはずだった古きもの。
だが、その夜のクトゥルフは、侵略者には見えなかった。
傷だらけだった。
片翼は裂け、身体には白い光の傷が刻まれている。
触手のいくつかは焼け落ち、巨体は今にも崩れそうだった。
それは地球へ降りる前に、空の外で別の存在と戦っていた。
選定機関。
星を測り、文明を裁ち、不要と判断した可能性を切り捨てるもの。
クトゥルフは、それを知った。
地球を侵略するために来たはずの彼は、その途中で、地球を先に切り捨てようとする白い存在と遭遇した。
戦った。
理由は、正義ではない。
地球を自分のものにする前に、他の何かに消されるのが気に食わなかっただけだ。
だが、結果として。
クトゥルフは、選定機関の存在を撃退した。
そして、疲弊しきった。
瀕死のまま、海へ落ちた。
波に流され、たどり着いたのが、瑠々の家の前だった。
瑠々は窓に手をついた。
息が苦しい。
身体は動かない。
でも、目は離せなかった。
怪物が、こちらを見た。
海の底より深い瞳。
星の外より古い眼差し。
普通の人間なら、そこで泣き叫ぶ。
祈る。
気絶する。
正気を手放す。
だが、瑠々は違った。
彼女は、震える唇で言った。
「……すごい」
怪物が、動きを止める。
瑠々は、目を輝かせていた。
「すごく……かっこいいですわ」
嵐の音が止まったように感じた。
クトゥルフは、しばらく少女を見ていた。
人間。
小さな生き物。
脆く、短く、騒がしく、すぐに壊れるもの。
その中でも、さらに弱い個体。
死にかけた子供。
それが、己を見て怯えなかった。
祈りもしない。
逃げもしない。
狂いもしない。
ただ、かっこいいと言った。
『……お前』
声は、言葉ではなかった。
音でもなかった。
海の底で眠る夢のように、直接、瑠々の頭の中へ届いた。
『我を見て、恐れぬのか』
瑠々は少しだけ首を傾げた。
「怖いより、綺麗ですわ」
『綺麗』
「はい。すごく大きくて、強そうで、海そのものみたいで」
瑠々は咳き込んだ。
小さな身体が震える。
それでも、彼女は笑った。
「わたくし、ずっと海の底に友達がいたらいいのにって思っていましたの」
『友達』
「はい」
『我を、友と呼ぶか』
「嫌でした?」
クトゥルフは答えなかった。
嫌ではなかった。
だが、分からなかった。
侵略者として星を渡った。
夢に囁き、信仰を食らい、眠りの底から世界を染める存在だった。
友など、必要なかった。
まして、人間の少女の友など。
『お前は死にかけている』
クトゥルフは言った。
瑠々は少しだけ笑った。
「知っていますわ」
『怖くないのか』
「怖いです」
少女は素直に答えた。
「でも、もうずっと怖いので。少し飽きました」
『飽きた』
「はい。死ぬのを待つの、結構退屈ですの」
クトゥルフは、傷ついた巨体を動かし、窓の近くへ寄った。
家がきしむ。
普通なら押し潰されそうな距離。
それでも瑠々は、目をそらさなかった。
『ならば、取引をしよう』
「取引?」
『我は傷を負っている。力を取り戻すには、祈りがいる。信仰がいる。夢がいる。人の概念的な力は、我らにとって糧となる』
「祈りが、ごはん?」
『近い』
「すごいですわ。神様みたい」
『神ではない』
「でも、かっこいいですわ」
クトゥルフは沈黙した。
この少女は、どうも調子が狂う。
『お前は命が尽きるまで、我に祈れ。我に語れ。我を覚えていろ』
「それで?」
『その代わり、命尽きるまで話し相手になってやる』
瑠々は目を瞬いた。
「本当に?」
『本当だ』
「毎日?」
『必要なら』
「海の底の話もしてくださいます?」
『気が向けば』
「星の外の話も?」
『……気が向けば』
瑠々の顔が、ぱっと明るくなった。
病の少女とは思えないほど、嬉しそうな笑顔だった。
「では、了承いたしますわ」
『軽いな』
「だって、ずっと話し相手が欲しかったんですもの」
『命を差し出すと言っている』
「どうせ、もう長くありませんし」
瑠々は、少しだけ寂しそうに笑った。
「それなら、最後まで退屈しない方がいいですわ」
クトゥルフは、その言葉に何も返せなかった。
その夜から、瑠々とクトゥルフの奇妙な日々が始まった。
昼、瑠々は眠る。
夜、クトゥルフが夢に来る。
最初は、ただの取引だった。
クトゥルフは瑠々の祈りを糧にする。
瑠々はクトゥルフから話を聞く。
海の底の都市。
沈んだ神殿。
星の外の闇。
人間が見る悪夢の正体。
古いものたちの眠り。
選定機関という、白い迷惑な存在。
クトゥルフは、ぶっきらぼうに語った。
瑠々は、目を輝かせて聞いた。
「それで、その白い方々を追い払ったんですの?」
『一時的にな』
「すごいですわ」
『奴らが気に食わなかっただけだ』
「それでも、地球を助けたのでしょう?」
『結果としては』
「では、やっぱりかっこいいですわ」
『……お前は何でもそう言う』
「だって、本当にそう思っていますもの」
瑠々は、日に日に弱っていった。
身体は細くなり、食事もあまり取れなくなった。
起き上がることもできない。
それでも、夜になると彼女は楽しそうに話した。
今日は窓の外に鳥が来た。
薬が苦かった。
看病の人が花を置いてくれた。
夢で海を歩いた気がした。
いつか、本当に海へ行ってみたい。
どうでもいいような、小さな話。
クトゥルフは、最初それを無意味だと思った。
だが、いつの間にか聞くようになった。
瑠々が咳き込めば、黙って待った。
瑠々が眠り落ちれば、夢の端で波を静かにした。
瑠々が痛みに泣いた夜には、彼女が怖い夢を見ないよう、古い怪物たちを遠ざけた。
取引だった。
ただの取引だったはずだ。
けれど、クトゥルフは気づき始めていた。
この小さな少女の声を、待っている自分がいることに。
「ねえ、お友達さん」
『その呼び方はやめろ』
「では、海のお友達」
『変わっていない』
「お名前を呼んだ方がいいですか?」
『人間の喉では、正しく発音できん』
「では、クトゥルフさん」
『……勝手にしろ』
瑠々は嬉しそうに笑った。
「クトゥルフさん」
『何だ』
「もし、わたくしがいなくなったら、寂しいですか?」
クトゥルフは答えなかった。
瑠々は続ける。
「わたくしは、少し寂しいです」
『少しなのか』
「たくさん、というと未練がましいでしょう?」
『人間は未練がましいものだ』
「では、たくさん寂しいです」
少女は、天井を見つめる。
「もっとお話ししたかったですわ。もっと海のことを知りたかった。もっと星の外のことも。あと、一度くらい、自分の足で砂浜を歩きたかった」
クトゥルフは、沈黙していた。
「でも、クトゥルフさんと会えてよかったです」
『……なぜだ』
「最後の一年が、退屈ではなくなりましたもの」
瑠々は微笑んだ。
「わたくし、ひとりじゃありませんでした」
その言葉は、クトゥルフの中に落ちた。
深い海の底へ沈む石のように。
小さく。
けれど、確かに。
時間は過ぎた。
約束された一年は、半分を過ぎた。
瑠々の身体はさらに弱った。
医者は首を振った。
大人たちは泣いた。
瑠々は、泣かなかった。
ただ、夜になると夢の中でクトゥルフを待った。
「今日は少し、息が苦しいですわ」
『眠れ』
「でも、お話ししたいんです」
『明日話せばいい』
「明日、あります?」
クトゥルフは答えられなかった。
その夜、彼は初めて怒りを覚えた。
選定機関への怒りではない。
地球への怒りでもない。
この小さな命を奪う、病というものへの怒り。
あまりに脆い人間という生き物への怒り。
そして、それをどうにもできない自分への怒り。
『瑠々』
クトゥルフは言った。
「はい」
『お前は、生きたいか』
瑠々は少し黙った。
それから、静かに答えた。
「生きたいです」
初めてだった。
彼女が、はっきりそう言ったのは。
「わたくし、生きたいですわ」
声が震えていた。
「海に行きたい。歩きたい。ごはんを食べたい。おしゃれもしてみたい。誰かとお話しして、笑って、怒って、好きなものを集めて、部屋じゃない場所で眠ってみたい」
瑠々の目から涙がこぼれた。
「それから」
少女は、夢の中でクトゥルフを見上げる。
「あなたに、おはようって言いたいです」
クトゥルフは、長く沈黙した。
彼は瀕死だった。
選定機関との戦いで力を失い、瑠々の祈りでようやく形を保っているだけだった。
彼女を救うには、残った力を使い果たす必要がある。
そうすれば、自分は眠る。
深い海の底へ。
ほぼ起きる見込みのない眠りへ。
それは死ではない。
だが、死に近い。
クトゥルフは侵略者だった。
地球を自らの夢で満たすために来た。
人間など、餌であり、信仰を生む器であり、夢に沈める対象だった。
そのはずだった。
なのに。
この少女が、笑った。
かっこいいと言った。
友達と呼んだ。
寂しいと言った。
生きたいと言った。
おはようと言いたいと言った。
『……愚かな』
クトゥルフは呟いた。
それは瑠々に向けた言葉ではなかった。
自分自身に向けた言葉だった。
『我は、侵略者だぞ』
「はい」
『神ではない』
「はい」
『人間を救うものではない』
「でも、わたくしを救ってくれました」
『まだ救っていない』
「では、これから救ってくれます?」
瑠々は泣きながら笑った。
クトゥルフは、深く息を吐くように、海を揺らした。
『……一度だけだ』
「はい」
『我は眠る。深く。長く。お前が生きている間に目覚めることはないかもしれん』
「はい」
『それでもよいのか』
「いいえ」
瑠々は首を横に振った。
「寂しいです」
『ならば』
「でも」
少女は、細い手を伸ばした。
夢の中で、その手はクトゥルフの触手に触れた。
「いつか起きてくれるなら、待ちます」
『いつかなど、ないかもしれない』
「それでも、待ちます」
瑠々は言った。
「あなたが起きた時、世界があなたを怖がるだけの場所だったら、寂しいでしょう?」
『……』
「だから、わたくしが作ります」
『何を』
「あなたを愛してくれる世界を」
クトゥルフは、その言葉の意味を理解できなかった。
愛。
人間の、曖昧で、脆く、熱く、時に狂う概念。
だが、それが祈りになり、信仰になり、糧になることは知っていた。
瑠々は、彼から聞いていた。
人の祈りが、概念的な力になることを。
信仰が、夢を育てることを。
想いが、眠るものの糧になることを。
だから、彼女は決めたのだ。
「この愛で、世界を埋めつくしますわ」
少女の声は弱い。
けれど、その目だけは強かった。
「そうしたら、あなたはいつか起きられるでしょう?」
『瑠々』
「そして、あなたが目を覚ましたら」
瑠々は笑った。
まるで、本当にその日が来ると信じているように。
「わたくしが、一番に言います」
海が静まる。
嵐が遠ざかる。
夢の中で、少女は怪物に手を伸ばす。
「おはよう、って」
その夜。
クトゥルフは、残された力を使った。
海が歌った。
星が沈んだ。
古い夢が、少女の身体に流れ込んだ。
病は消えなかった。
正確には、別の形に置き換えられた。
死へ向かう人間の身体は、海の夢に包まれた。
壊れた命の器は、クトゥルフの概念で補われた。
瑠々の髪は、少しずつ青く染まっていった。
瞳は、海の底の色になった。
心臓は、もう一度強く鳴った。
どくん。
どくん。
どくん。
瑠々は、目を開けた。
朝だった。
嵐は去っていた。
窓の外には、静かな海。
そして。
彼はいなかった。
「クトゥルフさん?」
返事はない。
夢にも、声はない。
ただ、遠い海の底から、眠りの気配だけが届いていた。
深い。
あまりにも深い眠り。
ほぼ、目覚める見込みのない眠り。
瑠々は、ベッドの上で身体を起こした。
初めてだった。
自分の力で、起き上がった。
足を床に下ろす。
立ち上がる。
少しふらつく。
でも、立てた。
歩けた。
窓辺へ行けた。
海が見えた。
瑠々は、窓を開けた。
潮風が入ってくる。
生きている匂いがした。
瑠々は、泣いた。
声を上げずに泣いた。
嬉しくて。
寂しくて。
悲しくて。
救われたことが、あまりにも重くて。
「……おはよう」
彼はいない。
届かない。
それでも、瑠々は言った。
「おはようございます、海のお友達さん」
返事はなかった。
だから、瑠々は決めた。
いつか返事をもらうために。
いつか本当に、彼におはようと言うために。
彼がもう一度目覚められるように。
人の祈りを集めよう。
人の夢を集めよう。
人の愛を集めよう。
怖がられるのではなく、祈られるように。
忌まれるのではなく、求められるように。
クトゥルフが救ってくれたように、自分も誰かを包もう。
孤独な人。
乾いた人。
居場所のない人。
心が病に沈みかけた人。
みんな、海へ招こう。
海はすべてを包む。
そう言えば、きっと人は集まる。
祈りは力になる。
愛は糧になる。
そして、いつか。
いつか、あの人が目覚める。
その時、世界中の祈りが海に満ちていれば。
きっと、彼は寂しくない。
きっと、怖がられない。
きっと、笑ってくれる。
瑠々は海を見つめた。
青く染まり始めた髪が、朝日に揺れる。
少女は、もう儚いだけの少女ではなかった。
救われた者。
待つ者。
祈りを集める者。
眠れる海のお友達の、最初の使徒。
「待っていてくださいませ」
瑠々は、静かに微笑んだ。
「わたくしが、あなたのための海を作ります」
波が寄せる。
波が返す。
遠い海の底で、何かが眠っている。
ほぼ目覚めることのない、優しい怪物。
その眠りに、少女は祈った。
「いつか、あなたが起きた時」
瑠々は、窓辺で小さく手を振った。
「世界中で、おはようを言いましょう」
*
夢が終わる。
九頭龍瑠々は、暗い部屋で目を開けた。
大人になった彼女は、青い髪を指で梳いた。
都内の高級ホテル。
説明会を終えた夜。
窓の外には、乾いた街の明かりが広がっている。
海は見えない。
けれど、波の音は聞こえていた。
「……懐かしい夢ですわね」
瑠々はベッドから起き上がる。
机の上には、説明会の資料。
信者数の推移。
施設建設計画。
寄付金の報告書。
限定版フィギュアの箱。
そして、海の家の新しいチラシ。
『あなたも海へ還りませんか?』
瑠々はそれを見て、静かに微笑んだ。
「まだ足りませんわ」
祈りが。
夢が。
愛が。
海を満たすには、まだ足りない。
彼を起こすには、まだ足りない。
世界は乾いている。
人々は孤独で、怒っていて、疲れていて、居場所を求めている。
ならば、包もう。
すべてを。
批判も。
炎上も。
疑念も。
信仰も。
愛も。
海はすべてを包む。
そして、そのすべてが、眠る彼の糧になる。
「待っていてくださいませ」
瑠々は窓の外へ向かって呟いた。
「もう少しですわ」
彼女の影が、青緑に揺れる。
海藻のように。
龍のように。
触手のように。
だが、その顔には、狂気だけではないものがあった。
遠い昔、海辺の家で友達を見つけた少女の、祈りの名残。
「あなたが目覚めた時」
九頭龍瑠々は、優しく笑った。
「世界中で、おはようと言いましょう」
窓の外の東京は、まだ乾いている。
だから瑠々は、海を広げる。
愛という名の、祈りという名の、深くて湿った海を。
いつか、眠れる友達が目を覚ますその日まで。
九頭龍瑠々より
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ふふ。
少し、意外でしたか?
わたくしにも、ただの少女だった頃がございました。
今のわたくしを見れば、怪しい宗教家だとか、胡散臭い代表だとか、磯臭い女だとか、そう思われる方もいらっしゃるでしょう。
ええ、否定はいたしませんわ。
実際、少しばかり磯の香りはするかもしれませんもの。
けれど、わたくしが海を広げようとしているのは、ただ世界を沈めたいからではありません。
あの方が、わたくしを救ってくださったからです。
誰もが怯える姿で。
誰もが怪物と呼ぶ姿で。
それでも、わたくしには、あの方が一番優しく見えました。
不治の病で終わるはずだった命を、あの方は繋いでくださいました。
その代わりに、あの方は深い深い眠りについた。
ほとんど、目覚めることのない眠りへ。
ならば、今度はわたくしの番です。
人の祈りが力になるのなら。
愛が糧になるのなら。
信仰が夢を育てるのなら。
わたくしは集めます。
孤独な人の祈りを。
乾いた心の声を。
行き場のない愛を。
世界中を海のように包み、あの方が目を覚ました時、怖がられず、拒まれず、ただ迎えられるように。
おはよう、と。
世界中で言えるように。
……ですから、皆さま。
どうか覚えておいてくださいませ。
海は、恐怖だけではありません。
海は、愛です。
少し深くて、少し重くて、少し湿っていて、時々とても迷惑かもしれませんけれど。
それでも、わたくしにとって海は、救いそのものなのです。
いつか、あの方が目を覚ますその日まで。
わたくしは、海を広げ続けます。
たとえ恐怖の王さまや、人の娘さまに邪魔をされても。
ふふ。
それでは、また次の波間でお会いしましょう。
海は、いつでもあなたをお待ちしておりますわ。