アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
前回、九頭龍瑠々は説明会を開きました。
催眠なんてフィクション。
精神干渉なんて現実にはあるはずがない。
そう現実的に否定しながら、青い照明と波の音と穏やかな語りで、会場全体をゆるく海に沈めていく。
瑠々は問題を認めませんでした。
けれど、説明したように見せました。
そして、世論は割れました。
今回はその続きです。
新興宗教『海の家』は、いよいよ都内に正式施設を建てようと動き出します。
届け出あり。
許可あり。
地域支援あり。
炊き出しあり。
外から見れば、ただの宗教法人の施設建設。
しかし、その場所は偶然ではありません。
そこは、人の夢と精神領域に関わる次の防衛拠点――シャンバラへ繋がる可能性を持つ土地でした。
合法の顔をしたルルイエ侵食。
リオナの情報戦。
萌亜の我慢。
御門の胃痛。
そして、現場に現れる瑠々。
地上、また磯臭くなります。
九頭龍瑠々の説明会から、三日後。
宮内庁式外局・超常現象対策課の会議室には、重たい空気が漂っていた。
いつものことではある。
だが、今回はいつもより少し磯臭かった。
「まず、この資料を見てくれ」
御門征十郎は、机の上に分厚いファイルを置いた。
その表紙には、こう書かれている。
『宗教法人 海の家
東京湾岸祈祷施設 建設計画概要』
姫咲リオナは、表紙を見た瞬間に顔をしかめた。
「うわ、ちゃんとしてる」
安藤萌亜も隣で頷く。
「ちゃんとしてるの、チョベリバだね」
「分かる」
「マジで合法の皮をかぶった磯」
「その表現は嫌だけど、分かる」
黒瀬カナメは資料を開きながら淡々と言った。
「建設予定地は、東京湾岸の旧倉庫区画。土地取得は合法。用途変更申請も提出済み。近隣説明会も予定されている」
ゼルヴァード・ル=オルグレイは腕を組み、資料を睨んでいた。
「地球の侵食者は、まず書類を出すのか」
「地球では書類が強いんです」
リオナが疲れた声で答える。
「書類は魔術結界より面倒な時があります」
御門は胃のあたりを押さえた。
「やめてくれ。実感がありすぎる」
資料の次ページには、完成予想図が載っていた。
青と白を基調とした建物。
波をイメージした曲線的な屋根。
一般向けの食堂。
相談室。
瞑想室。
地域交流ホール。
物販スペース。
小さな水族展示。
名称は――。
『海の家 東京潮騒礼拝堂』
リオナは無言でページを閉じた。
「嫌な予感しかしない」
「開けろ。現実から目を逸らすな」
カナメに言われ、リオナは渋々ページを開き直す。
萌亜は完成予想図を見ながら言った。
「見た目はおしゃれだね」
「そこが厄介なんだよ」
リオナは指で資料を叩いた。
「これ、普通の人が見たら“ちょっと怪しいけど綺麗な宗教施設”くらいに見える。しかも食堂と相談室があるから、地域支援っぽい」
「炊き出しもやるらしい」
御門が別の資料を出す。
「地域高齢者向けの海藻粥配布。若者向けの悩み相談。子ども食堂。孤独対策プロジェクト。すべて名目は社会貢献だ」
「めちゃくちゃ現実的」
萌亜が嫌そうに言う。
「ルルイエなのに、行政に強いのムカつく」
「九頭龍瑠々は、超常を現実の制度で包むのがうまい」
御門は深くため息をついた。
「説明会もそうだった。彼女は超常を認めない。催眠なんてフィクション、精神干渉なんて現実にあるはずがない、と言い切る。その上で、場の空気だけはスピリチュアルに染める」
リオナは腕を組んだ。
「問題を“信じるか信じないか”にすり替えるんですよね」
「そうだ」
「こっちが精神汚染だって言うほど、一般人からは陰謀論っぽく見える」
「その通りだ」
「チョベリバ」
萌亜が呟く。
「チョベリバで済めばいいがな」
御門は資料の最後のページを開いた。
そこには、赤い丸がついた地図があった。
「そして、ここからが本題だ」
会議室の空気が変わる。
御門は地図を指した。
「建設予定地の地下に、古い精神領域干渉点がある可能性が出た」
「精神領域干渉点?」
リオナが聞き返す。
ゼルヴァードが答える。
「人間の夢、記憶、集合的無意識のようなものが薄く重なる場所だ。地球の神話防衛網で言えば、おそらく――」
「シャンバラ」
萌亜が言った。
その声は、いつもの軽さを失っていた。
御門が頷く。
「アトランティスの星図殿で示された次の防衛拠点候補のひとつ。精神領域防衛拠点、シャンバラ。その外縁に繋がる可能性がある」
リオナは思わず資料を見下ろした。
海の家 東京潮騒礼拝堂。
相談室。
瞑想室。
波の音。
青い照明。
夢。
祈り。
信仰。
「まさか、この施設って」
「ルルイエ側の夢を、シャンバラへ流し込む中継点になるかもしれない」
御門が言った。
リオナの背筋が冷える。
「それ、まずくないですか?」
「非常にまずい」
カナメが即答する。
「ただし、現時点で建設を止める法的根拠はない」
「またそれ!」
リオナは頭を抱えた。
「世界終わりそうなのに、法的根拠がない!」
「現代社会では重要だ」
カナメは真顔で言う。
「それは分かってるんですけど!」
萌亜は静かに資料を見ていた。
それから、ぽつりと言う。
「瑠々、分かっててそこ選んでる」
「だろうな」
ゼルヴァードが低く言う。
「偶然ではない。彼女は海と夢を繋ぐ土地を選んだ」
「プチッとする?」
萌亜が御門を見る。
御門は即答した。
「ダメだ」
「まだ何も言ってないのに」
「言う前から分かる」
「めんご」
「軽い」
リオナは資料を閉じた。
「現地、見に行きましょう」
全員の視線が彼女に集まる。
リオナはスマホを取り出した。
「近隣説明会があるんですよね?」
「ああ」
御門が頷く。
「今日の午後だ」
「じゃあ、そこに行きます」
「配信する気か?」
「状況次第です。でも、記録はします」
リオナは真剣な顔で言った。
「瑠々さんは、言葉と空気で問題をぼかす人です。なら、こっちは記録して、文脈を残すしかない」
萌亜が嬉しそうに笑う。
「リオナっち、マブい」
「今は死語いらない」
「バッチグー」
「それもいらない」
御門は深く息を吐いた。
「黒瀬、同行しろ。ゼルヴァード、現地の精神領域反応を見ろ。安藤萌亜、出力制限。姫咲リオナは記録担当。ただし、危険があれば即時撤退だ」
「了解」
「はーい」
「承知した」
「分かった」
御門は最後に、胃薬を一錠飲んだ。
「頼むから、近隣説明会を宇宙戦争にしないでくれ」
萌亜は親指を立てた。
「余裕のよっちゃん」
「一番不安な返事だ」
*
東京湾岸の旧倉庫区画は、潮風が強かった。
古い倉庫。
空き地。
再開発中の道路。
遠くに見える高層マンション。
そして、建設予定地を囲む仮設フェンス。
フェンスには大きな看板が取り付けられている。
『海の家 東京潮騒礼拝堂 建設予定地』
その下には、小さな文字でこう書かれていた。
『地域と心をつなぐ、海辺の祈りの場』
リオナは看板を見上げて呟いた。
「コピーがうまい」
萌亜が隣で鼻を押さえる。
「でも磯臭い」
「海辺だからじゃなくて?」
「違う。これはルルイエ寄りの磯」
「嫌な分類」
建設予定地の前には、すでに人が集まっていた。
近隣住民。
報道陣。
反対派。
信者。
好奇心で来た配信者。
そして、青と白の法被を着た海の家スタッフ。
スタッフたちは、笑顔で資料を配っている。
「本日はご参加ありがとうございます」
「地域の皆さまと丁寧に対話してまいります」
「海藻茶もご用意しております」
「海藻茶……」
リオナは遠い目をした。
「御門さん向けじゃん」
カナメが周囲を警戒しながら言う。
「一般人が多い。目立つ行動は避ける」
「分かってます」
ゼルヴァードは地面を見ていた。
「地下に流れがある」
「流れ?」
「水ではない。夢の流れだ。人間が眠る時に落とす意識の残滓が、この土地の下で薄く渦を巻いている」
「説明が怖い」
リオナが顔をしかめる。
萌亜は地面を見下ろした。
「シャンバラの端っこ、ちょっと見えてるね」
「見えるの?」
「うん。夢の山みたいなのが遠くにある」
「夢の山」
「でも、その手前に黒い海が流れ込もうとしてる」
「それはアウトでは?」
「アウト寄りのアウト」
その時、会場のざわめきが大きくなった。
仮設ステージの方へ視線が集まる。
九頭龍瑠々が現れた。
青い髪。
白と青の上品な法衣。
そして、頭には白い工事用ヘルメット。
ヘルメットの正面には、小さな貝殻のマーク。
リオナは一瞬、言葉を失った。
「ヘルメット似合ってるの腹立つ」
萌亜も頷く。
「マブいね」
「認めたくないけどマブい」
瑠々はマイクを手に、穏やかに一礼した。
「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます。宗教法人『海の家』代表、九頭龍瑠々でございます」
信者たちが控えめに拍手する。
以前のように叫ばない。
今回は、きちんとした近隣説明会の空気を演出している。
「本施設は、祈りの場であると同時に、地域の皆さまの居場所となることを目指しております」
スクリーンに完成予想図が映る。
「一階には地域食堂と相談窓口。二階には多目的ホール。三階には瞑想室と資料室。屋上には小さな海風庭園を設ける予定です」
住民の一人が手を挙げた。
「宗教施設ということで、勧誘が不安です」
瑠々は頷いた。
「当然のご不安ですわ。当団体では、強引な勧誘を禁止しております。地域食堂や相談窓口は、信仰の有無にかかわらず利用可能です」
「本当ですか?」
「はい。海は、信じる方も、信じない方も包みます」
言い方は怪しい。
だが、答えとしては丁寧だった。
別の住民が質問する。
「先日の炊き出しで、体調不良者が出たと聞きましたが」
瑠々は申し訳なさそうに頭を下げた。
「その件につきましては、改めてお詫び申し上げます。今後は会場換気、導線管理、食品管理、音響演出の見直しを徹底いたします」
「催眠だとか洗脳だとか、ネットで言われていますが」
瑠々は少し困ったように笑った。
「催眠なんて、フィクションですわ」
まただ。
リオナは眉をひそめる。
瑠々は続ける。
「もちろん、人は雰囲気に影響を受けます。だからこそ、私たちは安心できる空間作りを心がけています。ですが、漫画や映画のように、人の意思を奪うことなどできません」
現実的。
丁寧。
まともに聞こえる。
その後ろで、海の家スタッフが静かに青いパンフレットを配っている。
パンフレットの表紙には、こう書かれていた。
『心が乾いたら、海へ』
リオナは小声で言った。
「本当にうまい」
カナメが頷く。
「あくまで合法的な地域説明会だ」
ゼルヴァードは不快そうに言う。
「だが、彼女の声に微弱な波形がある。直接操るほどではない。話を聞いていたい、と思わせる程度だ」
「証明できます?」
「通常の録音では難しい」
「そこが最悪」
萌亜はステージ上の瑠々をじっと見ていた。
瑠々も、ふとこちらを見る。
目が合った。
瑠々は微笑んだ。
「本日は、以前お会いしたお客様もいらしているようですわね」
周囲の視線が動く。
リオナは内心で舌打ちした。
また巻き込む気だ。
瑠々は優雅に言った。
「姫咲リオナさん。安藤萌亜さん。よろしければ、若い世代のご意見も伺えますか?」
記者たちがざわめく。
スマホのカメラがこちらに向く。
萌亜が小声で言う。
「プチッとしない?」
「しない」
リオナが即答した。
「ここは私が行く」
「リオナっち」
「大丈夫」
リオナは一歩前に出た。
笑顔を作る。
配信用ではない。
でも、人前で話すための顔。
「ご指名ありがとうございます」
瑠々が微笑む。
「こちらこそ。率直なご意見を聞かせていただければ」
「では、質問です」
リオナは看板と完成予想図を指した。
「この施設の三階にある瞑想室について、具体的にどんなプログラムを行う予定ですか?」
瑠々はすぐに答える。
「呼吸法、静かな内省、波音を用いたリラクゼーション、心の整理を目的とした対話会などですわ」
「夢に関するプログラムは?」
瑠々の笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「夢日記のワークショップは予定しております」
リオナは目を細めた。
「夢日記?」
「はい。夢は心の声ですもの。自分の夢を書き留めることで、不安や願いに気づくことができます」
「その夢を、団体側が収集する予定は?」
周囲がざわつく。
瑠々は穏やかに首を振った。
「個人情報として厳重に扱います。無断で収集、公開することはございません」
「集計は?」
「匿名化した上で、心の傾向を分析することはあるかもしれません」
リオナは即座に踏み込む。
「それは、信者や利用者の精神状態を団体が把握するということですか?」
記者のペンが走る。
瑠々は、ほんの少しだけ笑った。
「カウンセリングや心理支援でも、利用者の状態を把握することはございますわ」
「海の家には、医療資格や心理職の専門家はいますか?」
瑠々の目が細くなる。
「提携予定です」
「予定?」
「はい。現在調整中です」
「では、現時点では未定ですね」
一瞬、場が止まった。
リオナはさらに続けた。
「地域の居場所を作ること自体は良いと思います。でも、夢日記や瞑想を扱うなら、利用者の心にかなり近い場所へ入ることになります。そこに専門性と透明性がないなら、不安に思う人がいて当然です」
周囲の住民たちがざわめく。
「たしかに」
「夢日記を集めるのは少し怖い」
「相談室って誰が担当するんだ?」
瑠々は、静かにリオナを見ていた。
そして、笑った。
「ごもっともですわ」
まただ。
リオナは警戒する。
瑠々は丁寧に頭を下げた。
「姫咲さんのご指摘を受け、夢日記ワークショップおよび相談室の運用体制については、専門家の監修を明記する方向で再検討いたします」
拍手が少し起きた。
柔軟な対応。
誠実な代表。
また、その形に持っていく。
リオナは悔しさを飲み込んだ。
「ありがとうございます。必ず公開してください」
「ええ。海は隠し事を好みませんもの」
「深海はだいぶ隠してると思いますけど」
周囲で少し笑いが起きた。
瑠々も笑った。
「ふふ。深いところには、まだ知らない美しさがございますわ」
萌亜が小声で言う。
「うわ、意味深」
「黙って」
リオナは後ろへ下がる。
萌亜が小さく親指を立てた。
「リオナっち、バッチグー」
「まだ勝ってない」
「でも押した」
「押した分、受け流された」
「瑠々、ぬるぬるしてるね」
「言い方」
説明会はその後も続いた。
交通量。
騒音。
信者の出入り。
寄付金。
地域食堂。
宗教勧誘。
瑠々はすべてに答えた。
答えたように見せた。
そして、説明会の最後にこう言った。
「なお、本日は施設の雰囲気を知っていただくため、仮設の体験ブースをご用意しております」
リオナの背筋が冷える。
「体験ブース?」
瑠々は微笑む。
「静かな海の瞑想室。もちろん、催眠などではございません。ただのリラクゼーション体験ですわ」
萌亜が露骨に嫌な顔をした。
「行きたくない」
「でも、行かないと分からない」
リオナが言う。
「リオナっち」
「大丈夫。危なかったら萌亜が止めて」
「秒で止める」
「プチッとはなし」
「めんご」
*
仮設の体験ブースは、建設予定地の隣に設置された大型テントの中にあった。
中は薄暗い。
青い布。
小さな照明。
貝殻の飾り。
海藻のように揺れるリボン。
そして、静かな波の音。
リオナは入った瞬間に呟いた。
「めちゃくちゃ雰囲気作ってる」
ゼルヴァードが眉をひそめる。
「精神領域への接続が濃い」
カナメは即座に周囲を確認する。
「一般参加者がいる。慎重に動け」
ブースの中央には、浅い水盤が置かれていた。
水面には青い光が揺れている。
スタッフが説明する。
「こちらの水面を見ながら、ゆっくり呼吸を整えてください。浮かんだ言葉や景色があれば、お手元のカードに書いていただきます」
リオナはカードを見る。
『あなたの心の海には、何が浮かびますか?』
「やっぱり夢日記系」
萌亜は水盤を見て、少しだけ目を細めた。
「これ、普通の水じゃない」
「何?」
「夢の水」
「嫌すぎる」
瑠々がいつの間にか近くに立っていた。
「ただの演出ですわ」
リオナは振り返る。
「いつの間に」
「海は、いつでも近くにありますもの」
「怖い言い方しないでください」
瑠々は微笑んだ。
「怖がる必要はございません。催眠なんてフィクションですわ。ただ、水面を見て、自分の心と向き合うだけ」
その時、参加者の一人がふらりと揺れた。
若い女性だった。
疲れた顔をした会社員らしき人。
彼女は水面を見つめながら、小さく呟いた。
「……海へ」
リオナの表情が変わる。
萌亜が動こうとする。
カナメも一歩踏み出す。
女性は続けた。
「海へ、帰れば……」
瑠々は穏やかに言った。
「無理に言葉にしなくてよろしいのですよ」
だが、女性の瞳はぼんやりしている。
水面が青緑に揺れた。
そこに、何かが映る。
黒い海。
遠い星。
深い眠り。
そして、巨大な影。
萌亜が指を鳴らした。
ぱちん。
水面が一瞬で透明に戻る。
女性ははっとして、周囲を見た。
「あれ……?」
カナメがすぐに近づく。
「大丈夫ですか。気分が悪いなら外へ」
「すみません、ちょっとぼーっとして……」
スタッフが慌てて対応する。
リオナは瑠々を睨んだ。
「今のは?」
瑠々は少し困ったように首を傾げる。
「疲れていらしたのでしょう。水面や音を見聞きして、少しリラックスしすぎたのかもしれません」
「リラックスで“海へ帰る”って言います?」
「比喩表現ですわ」
「便利ですね、比喩」
「言葉とは便利なものです」
瑠々は穏やかに笑う。
リオナの中で、怒りがじわりと熱を持った。
証拠になりにくい。
今の女性も、少しぼんやりしただけ。
外から見れば、それだけだ。
でも違う。
確かに水面の奥に、何かがいた。
萌亜が低く言う。
「瑠々」
「はい」
「ここ、閉じた方がいいよ」
「なぜです?」
「夢の穴、開きかけてる」
瑠々の目が、ほんの少しだけ冷たくなる。
「素敵な表現ですわね」
「褒めてない」
「ですが、穴ではありませんわ」
瑠々は水盤を見た。
その横顔には、奇妙な優しさがあった。
「扉です」
リオナは息を呑む。
「扉?」
「乾いた心が、海へ触れるための」
萌亜の瞳が紫に光る。
「ルルイエへ?」
瑠々は答えない。
代わりに、微笑んだ。
「あるいは、眠れる誰かのもとへ」
その瞬間、水盤が大きく揺れた。
青緑の光が広がる。
テントの布が、海の底のように暗くなる。
参加者たちの姿が遠ざかる。
音が消える。
リオナは、萌亜の手を掴んだ。
「萌亜!」
「離さないで!」
視界が沈む。
地面が消える。
水ではない。
夢だ。
夢の海に落ちる感覚。
一瞬だけ、リオナは見た。
暗い海の底。
眠る巨大な影。
山のような体。
触手のような輪郭。
だが、そこには恐怖だけではない何かがあった。
寂しさ。
祈り。
誰かを待つ気配。
そして、遠くで少女の声が聞こえた。
『おはようって、言いたいですわ』
リオナの胸が締めつけられる。
「今の……」
次の瞬間、萌亜が強く手を握った。
「戻るよ!」
紫の光が弾ける。
夢の海が裂けた。
リオナは息を呑んで現実へ戻る。
テントの中。
水盤。
青い照明。
周囲のざわめき。
カナメがすでに銃へ手を伸ばしている。
ゼルヴァードが結界を展開している。
参加者たちは、ほとんど何も気づいていない。
ほんの数秒。
外から見れば、ただ水盤の光が揺れただけだった。
瑠々は、水盤の向こうで静かに立っていた。
その顔から、いつもの笑みが少しだけ消えていた。
リオナは彼女を見た。
「今の、何ですか」
瑠々は答えない。
萌亜も黙って瑠々を見る。
しばらくして、瑠々はいつもの笑顔に戻った。
「ただの夢ですわ」
「ただの夢じゃない」
リオナが言う。
「誰か、いました」
瑠々の瞳が揺れた。
本当に、一瞬だけ。
だが、リオナは見逃さなかった。
「あなた、誰かを起こそうとしてるんですか?」
空気が凍る。
カナメが瑠々を見る。
ゼルヴァードも息を潜める。
萌亜は、何かを理解したように眉をひそめた。
瑠々は、ゆっくりと扇のように手を胸元へ置いた。
「姫咲リオナさん」
「はい」
「人は、会いたい人のためなら、少しだけ無茶をするものですわ」
それは、答えではなかった。
だが、否定でもなかった。
リオナは言葉を失う。
瑠々は微笑む。
「本日の体験は、ここまでにいたしましょう。少し照明が強すぎたようです」
「またそうやって」
「ええ」
瑠々は静かに言った。
「なあなあにいたしますわ」
その言い方に、リオナの背筋が寒くなる。
瑠々は、今度は隠さなかった。
自分が問題をぼかしていることを。
それを、分かった上でやっていることを。
「ですが、姫咲さん」
瑠々は続ける。
「あなたの問いは、とても良い。海に線を引こうとするその姿勢、嫌いではありません」
「私は、あなたのやり方嫌いです」
「ふふ。相思相愛ではありませんのね」
「違います」
萌亜が間に入る。
「瑠々、ここは閉じて」
「できませんわ」
「どうして」
「必要だからです」
「誰に?」
瑠々は、水盤を見た。
その目は、どこか遠い海の底を見ていた。
「わたくしに」
そして、小さく付け足す。
「それから、眠っているあの方に」
リオナは、さっき聞こえた少女の声を思い出す。
おはようって、言いたいですわ。
あれは誰の声だったのか。
幼い瑠々の声なのか。
それとも、夢の中に残った祈りなのか。
分からない。
ただ、ひとつ分かったことがある。
瑠々は、ただ世界を沈めたいだけではない。
彼女には、誰かがいる。
眠っている誰か。
起こしたい誰か。
そのために、海を広げようとしている。
それは、たぶん愛だ。
だが、だからといって許されるわけではない。
「瑠々さん」
リオナは言った。
「誰かを大事に思ってるんだとしても、他の人の夢を勝手に巻き込むのは違います」
瑠々は、しばらくリオナを見ていた。
それから、少しだけ嬉しそうに笑った。
「あなたは本当に、人の娘ですわね」
「それ、どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
瑠々は踵を返す。
「また、お話ししましょう。今度は、もっと深い海で」
「行きません」
萌亜が即答する。
「マンモス行きません」
「そこ死語なのに強い」
リオナが思わず突っ込む。
瑠々は笑った。
「では、招待状をお送りしますわ」
「送らないで」
「海はしつこいのです」
その言葉を残して、瑠々はテントを出ていった。
*
その日の夜。
超対課の会議室で、現地調査の報告が行われた。
御門は資料を読みながら、明らかに胃が痛そうだった。
「つまり、建設予定地はシャンバラ外縁へ繋がる夢の干渉点であり、海の家はそこに施設を建てようとしている」
「はい」
カナメが答える。
「仮設体験ブース内で、微弱ながら精神領域への接続が発生しました。一般人への影響も確認しています」
「証拠は?」
「通常機器では不十分です。ただし、姫咲の記録映像と、ゼルヴァードの解析ログ、安藤萌亜の証言があります」
御門は胃薬を手に取った。
「法的には弱いな」
「ですよね」
リオナが疲れた顔で言う。
「でも、放置したら危ないです」
「分かっている」
ゼルヴァードが前に出る。
「シャンバラは精神領域の防衛拠点だ。そこにルルイエの夢が流れ込めば、地球側の夢の防壁が内側から侵食される」
「具体的には?」
御門が聞く。
「人々の夢に共通の海が現れる。次に、海の中で声を聞く。やがて、眠りと信仰が繋がり、海の家を通じて祈りが集約される」
萌亜が言った。
「それ、眠ってるやつのごはんになる」
会議室が静まり返った。
リオナは、あの夢の海を思い出す。
眠る巨大な影。
恐ろしくて、寂しくて、どこか優しい気配。
「瑠々さんは、それを集めてるんだ」
「おそらく」
ゼルヴァードが頷く。
「彼女はルルイエに操られているわけではない。自ら意図して祈りを集めている」
御門は深いため息をついた。
「目的は、眠っている存在の覚醒か」
萌亜は小さく頷く。
「たぶん」
「止める必要があるな」
「うん」
リオナは静かに手を上げた。
「でも、止め方を間違えたらまずいと思います」
御門が彼女を見る。
「どういう意味だ」
「瑠々さんは、完全な悪意だけで動いてるわけじゃない気がします」
会議室の空気が少し変わる。
リオナは続けた。
「もちろん、やってることは危ないです。許しちゃダメです。でも、あの人は誰かを起こしたい。誰かに“おはよう”って言いたい。その気持ちだけは、たぶん本物です」
萌亜はリオナを見る。
カナメは黙っていた。
ゼルヴァードは少しだけ目を細める。
御門は、重い声で言った。
「本物の感情ほど、厄介なものはない」
「はい」
「そして、危険なものもない」
リオナは頷いた。
「だから、ちゃんと見ないといけないと思います」
御門はしばらく黙った。
そして、資料を閉じる。
「次の作戦目標を設定する」
全員が彼を見る。
「海の家施設建設の監視強化。夢日記ワークショップの情報収集。建設予定地地下の精神領域調査。そして――」
御門は、赤い丸のついた地図を指した。
「シャンバラへの接続確認」
萌亜が静かに言った。
「次は、夢の中?」
ゼルヴァードが答える。
「そうなる」
カナメが表情を引き締める。
「精神領域任務か」
リオナは少し不安になった。
「夢の中って、配信できます?」
御門は即座に言った。
「するな」
「ですよね」
萌亜がにこっと笑う。
「リオナっち、夢でも一緒に行こ」
「行くしかない流れだよね」
「うん」
「怖いな」
「萌亜がいる」
「知ってる」
リオナは、萌亜の手を見る。
竜宮城で繋いだ手。
地上定着核を起動した手。
情報戦でも、夢の中でも、たぶんこの手が必要になる。
「じゃあ、行く」
リオナは言った。
「夢の海に線を引きに」
萌亜が嬉しそうに笑う。
「リオナっち、チョベリグ」
「そこは普通に褒めて」
「かっこいい」
「……ありがと」
御門は胃薬を飲み込んだ。
「次から次へと、現実の行政問題から夢の防衛戦に飛ぶな」
カナメが真顔で言う。
「超対課の日常です」
「嫌な日常だ」
会議室の窓の外には、夜の東京が広がっている。
乾いた街。
明るい看板。
眠りに向かう人々。
その夢の下へ、海が染み込もうとしている。
瑠々はきっと、また笑うだろう。
催眠なんてフィクションですわ。
ただの瞑想ですわ。
ただの夢ですわ。
そう言いながら、少しずつ人々を海へ招く。
だが、リオナはもう知っている。
あの海の底には、誰かが眠っている。
そして、瑠々はその誰かのために世界を濡らそうとしている。
「萌亜」
「何?」
「クレープ食べに行く時間あるかな」
「ある」
「作戦前だけど」
「だから食べる」
「余裕のよっちゃん?」
「マンモス余裕」
「不安しかない」
萌亜が笑った。
リオナも、少しだけ笑った。
夜の街は、まだ乾いている。
でも、遠くで波の音がした気がした。
第12話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、『海の家』の施設建設問題と、次の防衛拠点シャンバラへの導入回でした。
九頭龍瑠々は、またしても正面から怪しいことを認めません。
土地取得も合法。
建設計画も合法。
近隣説明会も実施。
地域食堂や相談室も用意。
外から見ると、ちゃんとした宗教法人の社会貢献施設に見える。
けれど、その建設予定地は、精神領域防衛拠点シャンバラの外縁に繋がる場所でした。
瑠々はそこに『海の家 東京潮騒礼拝堂』を建て、夢や祈りを集めようとしています。
今回のポイントは、瑠々が「嘘だけで動いているわけではない」ところです。
地域支援もする。
相談も受ける。
傷ついた人や孤独な人を包もうとする。
でも、その祈りや愛は、眠れる誰かを起こすための力にもなっている。
善意と危険が混ざっているからこそ、単純に殴って終わりにできない相手です。
リオナも、そこに気づき始めました。
瑠々は危険。
でも、彼女の奥には本物の感情がある。
だからこそ、ちゃんと見なければならない。
次回からは、シャンバラ方面の話へ進みます。
夢。
精神領域。
ルルイエの黒い海。
眠るクトゥルフ。
そして、そこへ線を引こうとするリオナ。
現実の書類と行政の話から、一気に夢の防衛戦へ向かっていきます。
それではまた次回。
合法建設でもチョベリバ。