アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
前回、萌亜たちは『海の家 東京潮騒礼拝堂』の建設予定地を調査し、そこが精神領域防衛拠点シャンバラの外縁へ繋がる場所だと知りました。
夢。
祈り。
信仰。
孤独な人々の心。
そして、海の底で眠る誰か。
九頭龍瑠々は、ただ世界を沈めたいだけではありません。
彼女には、起こしたい相手がいる。
そのために、人々の祈りと愛を集めようとしている。
危険だけれど、完全な悪意だけでもない。
そんな瑠々から、今回、意外な提案が届きます。
「シャンバラへの専用通路を用意いたしますわ」
「わたくしとぶつかる必要はありません」
「選定機関の妨害も、ある程度ならして差し上げます」
敵なのか、協力者なのか。
信用できないけれど、利用価値はある。
シャンバラへ向かう前に、かなり面倒な交渉回です。
海はしつこい。
でも、道案内もしてくる。
シャンバラ。
精神領域防衛拠点。
人の夢、祈り、記憶、無意識の深い場所に存在する、地球神話防衛網のひとつ。
その外縁へ繋がる可能性を持つ土地に、新興宗教『海の家』は施設を建てようとしている。
海の家 東京潮騒礼拝堂。
名前だけなら、少し怪しい宗教施設。
だが実際には、ルルイエの黒い海をシャンバラ側へ流し込むための中継点になりかねない場所だった。
だから、超対課は動いた。
資料を集めた。
建設計画を調べた。
夢日記ワークショップの運用予定を洗った。
信者の証言を確認した。
ゼルヴァードは精神領域の流れを解析し、黒瀬カナメは現場警備と監視計画を立て、御門征十郎は各所への根回しと胃薬の消費量を増やした。
そして、姫咲リオナは思った。
「めちゃくちゃ地味」
宮内庁式外局・超常現象対策課の会議室。
机の上には書類。
壁のモニターには地図。
端末にはSNS分析。
なのに、話している内容はシャンバラとかルルイエとかクトゥルフである。
現実と超常の温度差がすごい。
「地味だが必要だ」
カナメが淡々と言った。
「派手に戦えばいいというものではない」
「分かってますけど」
リオナは資料をめくる。
「宗教法人の施設建設、夢日記ワークショップ、精神領域干渉点、行政手続き……もうジャンルが渋滞してます」
安藤萌亜は隣で、紙コップのココアを飲みながら頷いた。
「令和ギャルには荷が重いね」
「萌亜は令和ギャルを名乗るなら、もう少し令和語を使って」
「めんご。ナウなヤングには難しい」
「そこが違う」
ゼルヴァード・ル=オルグレイは、モニター上の地図を睨んでいた。
「通常の手段でシャンバラ外縁へ入るには、夢の深度を三段階以上下げる必要がある。肉体を現実に置き、精神のみを接続させることになる」
「つまり、寝るってこと?」
リオナが聞く。
「雑に言えばそうだ」
「夢の中に入る作戦かあ……」
リオナはスマホを握った。
「配信できないんですよね」
御門が即答する。
「するな」
「分かってます」
「前科があるから念押ししている」
「前科って言い方」
萌亜が笑う。
「夢配信、ちょっとバズりそう」
「絶対だめ」
「もあち☆安全フィルターつける?」
「つけてもだめ」
御門は胃のあたりを押さえた。
「そもそもシャンバラは精神領域だ。そこで不用意に外部回線を開けば、ルルイエだけでなく選定機関にも座標を掴まれる可能性がある」
リオナは真面目な顔に戻る。
「選定機関も来るんですか?」
「来る」
ゼルヴァードが答えた。
「竜宮城との同期で、安藤萌亜の地上定着核は一段階進んだ。次にシャンバラと接続すれば、精神側の再調整も困難になる。選定機関としては妨害する理由しかない」
「チョベリバ」
萌亜が低く呟く。
「でも、やるしかないよね」
「ああ」
御門が頷く。
「問題は進入経路だ。正規のシャンバラ接続点は、現代ではほぼ閉じている。無理に開けば、選定機関にも察知される」
「じゃあ、どうするんですか?」
リオナが聞いた、その時だった。
会議室の照明が、ふっと青く揺れた。
空調の音に、波の音が混じる。
全員が即座に身構えた。
カナメは銃へ手を伸ばす。
ゼルヴァードは術式を展開する。
萌亜の瞳が紫に光る。
御門は胃薬の瓶を握りしめた。
「敵襲か」
カナメが言う。
リオナのスマホが震えた。
画面には、送り主不明の通知。
『ごきげんよう♡』
リオナは顔をしかめる。
「出た」
通知は勝手に開いた。
画面いっぱいに、青い海のような背景が広がる。
そこに、白い文字が浮かぶ。
『シャンバラへお越しの皆さまへ』
『専用通路のご案内ですわ』
会議室が静まり返る。
萌亜がぽつりと言った。
「瑠々だ」
次の瞬間、画面から青緑の光が立ち上がった。
立体映像。
そこに現れたのは、九頭龍瑠々だった。
青い髪。
白と青の法衣。
相変わらず蠱惑的な笑み。
ただし、今日はなぜか手に旅行代理店のパンフレットのようなものを持っている。
『皆さま、ごきげんよう。宗教法人『海の家』代表、九頭龍瑠々ですわ』
御門は低い声で言った。
「会議室の通信網に侵入したのか」
『侵入だなんて物騒ですわ。ご招待です』
「不正アクセスだ」
『まあ。現実的なお言葉』
リオナはスマホを持ったまま、半目で言う。
「勝手に画面出てこないでください」
『ごめんあそばせ。ですが、お急ぎかと思いまして』
瑠々は優雅に微笑んだ。
『シャンバラへ向かうのでしょう?』
空気が張り詰める。
カナメが一歩前に出た。
「なぜ知っている」
『海は、夢の流れに敏感ですの』
「答えになっていない」
『では、もう少し現実的に申し上げますわ。皆さまが我が施設建設予定地とシャンバラ外縁の関連に気づいた。ならば、次に向かう場所も決まっておりますでしょう?』
リオナは悔しいが、納得してしまった。
瑠々は読みがいい。
というより、最初から読ませるつもりだったのかもしれない。
瑠々はパンフレットを開いた。
そこには、金色の文字でこう書かれていた。
『海の家特別便
シャンバラ直通・潮夢廻廊』
リオナは沈黙した。
萌亜も沈黙した。
ゼルヴァードが眉をひそめる。
「潮夢廻廊」
カナメが言う。
「名称が怪しすぎる」
瑠々は不満そうに頬を膨らませる。
『素敵な名前でしょう? 潮の夢と書いて、しおゆめ。あるいは、ちょうむ。読みはお好きにどうぞ』
「そこ自由なんだ」
リオナが突っ込む。
『海は自由ですもの』
「便利な言葉ですね」
瑠々は微笑んだまま続けた。
『皆さまが通常経路からシャンバラへ入ろうとすれば、選定機関に察知されます。正規の門は白い観測線に近すぎる。無理に開けば、恐怖の王さまの精神座標も掴まれるでしょう』
萌亜の顔から軽さが消えた。
「瑠々、それ本当?」
『ええ』
ゼルヴァードも渋い顔で頷く。
「あり得る。正規門は清浄すぎる。選定機関の観測と相性がいい」
リオナは眉を寄せる。
「清浄すぎると、逆に見つかるんですか?」
「白い紙に黒点が落ちれば目立つのと同じだ」
「分かりやすいような、嫌な例え」
白紙に墨汁が一滴でも垂れれば、黒点がすぐに分かってしまう。
瑠々は楽しそうに続ける。
『ですが、わたくしの潮夢廻廊ならば、黒い海を少し混ぜます。観測は濁る。選定機関の白い目は、綺麗すぎるものを見るのは得意ですが、湿った夢の濁りは少々苦手ですわ』
元々濁っている、色のついている紙ならそれも目立たない。
「要するに、ルルイエの海で目隠しするってこと?」
リオナが言う。
『おおむね正解です』
「危なすぎる」
『もちろん、完全に安全とは申しません』
「普通に言った」
『でも、便利ですわ』
リオナは頭を抱えた。
「怪しい上に便利なのが一番困る」
御門が険しい顔で瑠々を見た。
「君の目的は何だ」
『皆さまとぶつかる必要はない、というお話をしに来ましたの』
「ぶつかる必要がない?」
『ええ』
瑠々はゆっくりと視線を萌亜へ向けた。
『わたくしは、恐怖の王さまを壊したいわけではありません。人の娘さまを傷つけたいわけでもありません。シャンバラを完全に沈めることが目的でもない』
「でも、夢の海を流し込もうとしてる」
リオナが言う。
『少し潤したいだけですわ』
「その“少し”が信用できない」
『ふふ。でしょうね』
瑠々は否定しない。
その態度がまた厄介だった。
『ですが、選定機関は違います。あれは切除する。測り、分類し、不要と見れば消す。わたくしの大切な眠りも、恐怖の王さまの地上での暮らしも、リオナさんとの絆も、すべて邪魔と判断すれば切り捨てるでしょう』
会議室の空気が静かになる。
瑠々の声は甘い。
けれど、その中に混じる怒りは本物だった。
『ですから、選定機関の妨害も、ある程度ならして差し上げます』
御門が目を細める。
「ある程度、とは」
『彼らの観測線を濁す。精神領域内の追跡を遅らせる。白い仮面の小型個体程度なら、夢の海へ沈める。大規模な切除干渉までは保証できませんが』
ゼルヴァードが低く言った。
「理論上は可能だ。ルルイエ系の夢質は、選定機関の観測式と相性が悪い」
「つまり、本当に妨害できる?」
リオナが聞く。
「できる。だからこそ危険でもある」
瑠々は満足そうに笑った。
『外宇宙の殿方は理解が早くて助かりますわ』
「褒めるな。不愉快だ」
『まあ、つれない』
萌亜はじっと瑠々を見ていた。
「条件は?」
その声は、いつものギャル口調ではなかった。
瑠々も、少しだけ表情を整える。
『ひとつ。潮夢廻廊を破壊しないこと』
「それだけ?」
『もうひとつ。シャンバラで、わたくしの海をすべて焼き払わないこと』
「それは無理」
萌亜は即答した。
瑠々の目が細くなる。
萌亜は続ける。
「危なかったら消す。リオナっちやみんなに手を出したら、絶対消す」
『でしょうね』
瑠々は静かに笑った。
『では、条件を言い換えましょう。必要以上に壊さないこと』
萌亜は少し考える。
「必要なら壊す」
『必要なら、ですわね』
「うん」
『結構です』
リオナは思わず口を挟んだ。
「結構なんですか?」
『ええ。恐怖の王さまに“絶対壊すな”などと言っても無意味でしょう?』
「それはそう」
萌亜が不満そうに言う。
「リオナっち、そこ納得しないで」
「ごめん。でもそう」
御門は険しい顔のまま言った。
「こちらからも条件がある」
『伺いますわ』
「一般人を巻き込むな。通路利用中、姫咲リオナおよび安藤萌亜への精神干渉を行わない。同行者の記憶や夢を勝手に採取しない。シャンバラ内部の情報を、海の家の布教に利用しない」
瑠々は微笑む。
『欲張りですわね』
「最低条件だ」
『では、こちらも現実的に』
瑠々は指を一本立てた。
『一般人は巻き込みません。通路は限定開通。関係者以外は通しません』
二本目。
『恐怖の王さまと人の娘さまへの直接干渉は行いません。ただし、夢の領域に入る以上、ご本人の無意識に浮かぶものまでは保証できません』
三本目。
『記憶の採取はしません。覗き見もしません。……努力いたします』
「そこは断言しろ」
カナメが低く言う。
瑠々は笑う。
『では、断言しますわ。勝手には見ません』
「勝手には?」
リオナが突っ込む。
『ご本人が見せてくださるなら別です』
「見せません」
『残念』
四本目。
『シャンバラ情報の布教利用については、保留です』
「保留?」
御門の声がさらに低くなる。
『ええ。シャンバラが本当に人々の救いになり得るなら、完全に秘匿することが善とは限りませんもの』
「君の団体に利用させるつもりはない」
『ふふ。交渉とは、最初からすべてが決まるものではありませんわ』
リオナは呟いた。
「本当に面倒」
萌亜が頷く。
「マンモス面倒」
「そこは合ってる」
瑠々は、すっと笑みを深くした。
『ですが、ひとつだけはっきり申し上げます』
彼女の声が、少しだけ低くなる。
『選定機関は、わたくしにとっても敵です』
会議室が静まる。
『あれは、あの方の眠りを測ろうとした。切り捨てようとした。わたくしの海を、不要な夢として処理しようとした』
瑠々の青緑の瞳に、冷たい光が宿る。
『許す理由がありませんわ』
その怒りだけは、疑いようがなかった。
リオナは、少しだけ息を呑む。
瑠々は敵だ。
危険だ。
やっていることは許せない。
でも、彼女の怒りと祈りは本物だ。
「瑠々さん」
リオナは言った。
「あなたの大切な人を、選定機関から守りたいのは分かりました」
瑠々がリオナを見る。
「でも、そのために他の人の夢を勝手に使うのは違います」
『ええ』
「ええ、って」
『あなたはそう言うでしょうね』
瑠々は微笑んだ。
『だから、わたくしはあなたが嫌いではないのです』
「私は、あなたのやり方嫌いです」
『存じております』
「でも」
リオナは一度、萌亜を見る。
萌亜は黙って頷いた。
リオナは続ける。
「選定機関を妨害するという点では、利害が一致します」
瑠々は満足そうに笑った。
『交渉成立、ということで?』
御門が割って入る。
「成立ではない。条件付きの一時利用だ」
『まあ、お堅い』
「超対課としては、君を信用していない」
『当然ですわ』
「だが、利用価値は認める」
『それで十分です』
瑠々はパンフレットを閉じた。
『では、本日二十三時。海の家 東京潮騒礼拝堂建設予定地、仮設体験ブースへお越しくださいませ。潮夢廻廊を開きます』
リオナが嫌そうに言う。
「夜の仮設体験ブース、字面がもう嫌」
『深夜便ですもの』
「旅行気分で言わないでください」
『持ち物は、強い意志、夢に沈まない心、それから替えの靴下』
「靴下?」
『湿りますので』
「最悪」
萌亜は小さく笑った。
「リオナっち、タオル持ってこ」
「本当に濡れるの?」
「夢的に?」
「嫌すぎる」
瑠々の映像が少しずつ薄くなる。
『それでは皆さま、また夜に』
最後に、彼女はリオナへ視線を向けた。
『人の娘さま。どうか、線を引く準備を』
「え?」
『シャンバラは、優しい夢だけではありません。人の心の奥には、見たくないものもございますから』
瑠々は微笑む。
『あなたが握る手を、離しませんように』
光が消えた。
波の音も止まる。
会議室には、重い沈黙が残った。
リオナはスマホを見下ろす。
通知履歴には、なぜか予約確認のような文面が残っていた。
『潮夢廻廊 深夜便
ご予約人数:五名
備考:迷惑客対策あり♡』
「予約されてる……」
萌亜が覗き込む。
「ハートついてる」
カナメは真顔で言った。
「罠の可能性が高い」
ゼルヴァードも頷く。
「だが、通路自体は有用だ」
御門は胃薬を取り出した。
「罠だと分かっていて乗らざるを得ないタイプか」
「チョベリバですね」
リオナが言う。
「本当にチョベリバだ」
*
その夜。
東京湾岸の旧倉庫区画は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
人気のない道路。
遠くに光る高層ビル。
潮風。
仮設フェンス。
そして、建設予定地の奥に立つ大型テント。
そこだけが、青白く光っていた。
『海の家 東京潮騒礼拝堂
特別内覧会』
看板にはそう書かれている。
どう見ても普通の内覧会ではない。
萌亜は看板を見て言った。
「深夜の宗教施設内覧、ナウいね」
「ナウくない。怪しい」
リオナが即答する。
カナメは周囲を確認している。
「外周に一般人なし。信者もいない。内部反応は九頭龍瑠々のみ」
「本当に一人で待ってるのか」
ゼルヴァードが言う。
「自信の表れか、罠か、両方だろう」
御門は本部待機だ。
同行するのは、萌亜、リオナ、カナメ、ゼルヴァード。
そして、遠隔でネレイアと乙姫が通信支援に入っている。
通信機から、乙姫の声が聞こえた。
『妾としては、その女の海は好かぬがのう』
「乙姫さん、瑠々さん嫌いですよね」
リオナが言う。
『海を商売に使う者はよい。海を言い訳にする者も、まあ許す。じゃが、海を勝手に寝床扱いする者は気に食わぬ』
『記録します。乙姫、海の寝床扱いに不満』
ネレイアの声が続く。
『記録せんでよい』
少しだけ緊張が緩む。
萌亜がリオナを見る。
「大丈夫?」
「怖いけど、大丈夫」
「手、繋ぐ?」
「まだ現実だけど」
「今からでも」
リオナは少し笑って、萌亜の手を握った。
「じゃあ、繋ぐ」
萌亜は嬉しそうに笑った。
「バッチグー」
「死語だけど、今は許す」
テントの中に入る。
そこには、以前見た水盤があった。
青い布。
貝殻の飾り。
海藻のようなリボン。
ただし、今夜の水盤は前回とは違っていた。
水面が、黒と金に揺れている。
黒い海。
金色の夢。
その境界が、ゆっくり渦を巻いていた。
水盤の向こうに、九頭龍瑠々が立っている。
「ようこそ、皆さま」
瑠々は優雅に一礼した。
「潮夢廻廊、深夜便へ」
リオナは周囲を見回す。
「本当に旅行会社みたいな言い方ですね」
「案内とは、優雅であるべきですわ」
「目的地が夢の防衛拠点じゃなければ良かったです」
瑠々は微笑む。
「シャンバラは美しい場所です。少なくとも、入口は」
「奥は?」
「人の心次第ですわ」
カナメが鋭く言う。
「通路の安全性を確認する」
「どうぞ」
瑠々は止めない。
ゼルヴァードが水盤へ近づき、術式を走らせる。
「精神領域への接続あり。ルルイエ由来の夢質あり。ただし、流量は制限されている。選定機関の観測を濁す程度に抑えられているな」
「本当に?」
リオナが聞く。
「ああ。少なくとも今は」
「今は、が怖い」
瑠々は笑った。
「信用されていませんのね」
「されると思ってるんですか?」
「いいえ」
「じゃあ言わないでください」
萌亜は水盤をじっと見ていた。
「シャンバラ、遠いね」
「ええ。ですが、通常よりは近道ですわ」
「瑠々の海、混ざってる」
「少しだけ」
「少しじゃないと怒るよ」
「心得ております」
瑠々は、水盤の前に立つ。
そして、静かに両手を広げた。
「では、開きますわ」
水盤の水が盛り上がる。
波が立つ。
小さな水面だったはずの場所が、いつの間にか床一面へ広がっていた。
テントの布が消える。
夜の東京の音が遠ざかる。
足元に、黒く澄んだ海。
頭上には、見知らぬ星。
遠くに、金色の山の影。
その山は、空に浮かんでいるようにも、夢の奥に沈んでいるようにも見えた。
「シャンバラ……」
リオナが呟く。
美しかった。
怖いほどに。
金色の雪。
白い雲。
祈りの旗のような光。
巨大な寺院の影。
けれど、その手前には黒い海の通路が伸びている。
瑠々の潮夢廻廊。
綺麗な場所へ向かうための、怪しい近道。
「足元、濡れてる」
リオナが言った。
実際、靴の底に水の感触があった。
瑠々は満足そうに頷く。
「替えの靴下が必要と申し上げたでしょう?」
「本当に湿るとは思わなかった」
「夢でも、濡れる時は濡れますわ」
「名言っぽく言わないでください」
カナメは警戒を解かない。
「隊列を組む。安藤と姫咲を中央に」
ゼルヴァードが前方を見る。
「選定機関の反応は薄い。今のところ、瑠々の通路が観測を散らしている」
「今のところ」
リオナがまた言う。
「今日はそればっかりですね」
萌亜は手を握ったまま、リオナを見た。
「離さないでね」
「うん」
瑠々は少し離れた場所を歩いている。
案内人のように。
敵のように。
味方のように。
どれでもあり、どれでもない。
「瑠々さん」
リオナが声をかけた。
「はい」
「どうして、ここまでしてくれるんですか?」
瑠々は歩きながら答えた。
「申し上げたでしょう。選定機関は、わたくしにとっても迷惑客です」
「それだけですか?」
「それだけではありませんわ」
瑠々は、遠くの金色の山を見る。
「シャンバラは、人の祈りと夢の防衛拠点。あそこが選定機関に切除されれば、人の祈りそのものが痩せます」
「祈りが痩せる?」
「ええ。人々が夢を見にくくなる。誰かを信じにくくなる。救いを求めにくくなる」
瑠々の声が少しだけ低くなる。
「それは、わたくしにとっても困りますの」
「眠っているひとのために?」
リオナが言うと、瑠々の足が一瞬だけ止まった。
空気が冷える。
カナメが反応する。
萌亜も目を細める。
瑠々は、ゆっくり振り返った。
「どこまでご覧に?」
「少しだけです」
リオナは正直に答えた。
「夢の海で、誰かが眠ってるのを見ました。あと、少女の声も」
瑠々はしばらく黙っていた。
そして、微笑んだ。
「人の娘さまは、本当に余計なところまで見てしまいますのね」
「ごめんなさい」
「謝るのですか?」
「勝手に見たなら、謝ります。でも、止めるのはやめません」
瑠々は目を細める。
「優しいのか、頑固なのか」
「たぶん両方です」
萌亜が横から言った。
「リオナっちはマブだから」
「そこで死語を挟まないで」
瑠々は小さく笑った。
その笑いは、ほんの少しだけ柔らかかった。
「ええ。そうですわね」
その時。
遠くの黒い海に、白い線が走った。
ゼルヴァードが叫ぶ。
「来たぞ」
カナメが構える。
「選定機関か」
白い線は、海の上に幾何学模様を描き始める。
その中央から、白い仮面が浮かび上がった。
小型ではない。
竜宮城で見たものよりも、ずっと大きい。
人型に近い輪郭。
細い腕。
長い足。
顔には、何もない白い仮面。
背中には、観測器のような輪。
『精神領域非正規経路を確認』
『ルルイエ夢質混入』
『文明選定個体、追跡』
『接続因子、確認』
リオナの頭が痛む。
言葉が脳に刺さる。
萌亜がすぐに手を強く握った。
「リオナっち、聞かなくていい」
「うん」
白い仮面の腕が、こちらへ伸びる。
その瞬間。
瑠々が前に出た。
青い髪が、夢の海の風に揺れる。
「申し上げたでしょう」
彼女の声は、甘くない。
冷たかった。
「この通路では、わたくしが案内人ですわ」
足元の黒い海が盛り上がる。
海藻のような影。
触手のような波。
それらが、白い仮面の腕に絡みついた。
白い光が軋む。
『障害物』
『夢質汚染』
『排除』
瑠々はにっこり笑った。
「排除されるのは、あなた方です」
黒い海が、白い仮面を包む。
選定機関の観測輪が回転し、白い光を放つ。
だが、その光は海の中で濁った。
直線だったはずの観測線が曲がる。
数式のような白い文字が、泡になって崩れる。
ゼルヴァードが目を見開いた。
「本当に観測を潰している」
カナメが低く言う。
「だが、敵の敵というだけだ」
「分かってる」
リオナは瑠々を見る。
瑠々は白い仮面に向かって、静かに言った。
「あなた方は、あの方の眠りを測ろうとした」
黒い海がさらに深くなる。
「いらない夢だと、処理しようとした」
瑠々の瞳が青緑に光る。
「だから、嫌いですわ」
次の瞬間、黒い海が白い仮面を飲み込んだ。
泡。
ノイズ。
白い悲鳴のようなもの。
そして、沈黙。
選定機関の反応が消える。
リオナは息を呑んだ。
本当に妨害した。
本当に助けた。
でも、その力は怖かった。
瑠々は振り返る。
「これで、ある程度の妨害は証明できたでしょう?」
リオナは頷くしかなかった。
「はい」
萌亜は瑠々をじっと見ている。
「瑠々」
「はい」
「ありがとう」
瑠々が一瞬、意外そうな顔をした。
萌亜は続ける。
「でも、危ないことしたら止める」
瑠々は微笑んだ。
「ええ。それで構いませんわ」
「構うと思ってた」
「止められる覚悟もなく海を広げるほど、わたくしは無責任ではありません」
リオナは思わず言った。
「いや、結構無責任ですけど」
「手厳しいですわね」
「人の夢を巻き込んでる時点で、そこは譲りません」
瑠々は少しだけ楽しそうだった。
「本当に、あなたは線を引くのが好きですわね」
「必要だからです」
「ならば、見てくださいませ」
瑠々は前方を指した。
黒い海の先。
金色の山が、近づいていた。
シャンバラ。
夢の奥にそびえる、精神領域防衛拠点。
山のふもとには、巨大な門が見える。
門は金と白で作られ、無数の祈りの文字が浮かんでいる。
だが、その門の一部に、白い亀裂が走っていた。
選定機関の干渉だ。
さらに、別の場所からは、黒い海のしずくが染み込み始めている。
リオナは呟いた。
「両方からやられてる……」
「ええ」
瑠々は静かに言う。
「シャンバラは今、白い切除と黒い海のあいだで揺れています」
「黒い海はあなたでしょ」
「一部は」
「一部?」
「わたくしの海だけではありません。人の夢には、もともと闇がございます。孤独、不安、怒り、諦め。ルルイエは、それらに触れやすいだけ」
瑠々はリオナを見る。
「あなたは、それに線を引けますか?」
リオナは門を見た。
怖い。
夢の中なのに、心臓が速い。
選定機関もいる。
ルルイエもいる。
瑠々も信用できない。
それでも、ここまで来た。
萌亜の手がある。
隣に、恐怖の王がいる。
「引きます」
リオナは言った。
「全部沈めさせない。全部切り捨てさせない。その間に線を引く」
萌亜が笑う。
「リオナっち、かっこいい」
「今は普通に受け取る」
「うん」
瑠々は満足そうに頷いた。
「では、ここから先が本番ですわ」
黒い海の通路が、門の前で止まる。
瑠々は一歩下がった。
「わたくしは、門の内側までは同行いたしません」
「え?」
リオナが振り返る。
「来ないんですか?」
「シャンバラの中心は、まだわたくしを歓迎しませんもの。入れば、あなた方より先に防衛機構に殴られますわ」
「ちょっと見たい」
萌亜が言う。
「恐怖の王さま、ひどいですわ」
「めんご」
カナメが瑠々を見る。
「ここで裏切る可能性は?」
「ありますわね」
「認めるな」
「ですが、今はしません」
瑠々は門の前に立つ一行を見た。
「選定機関の追跡は、しばらく濁しておきます。長くは持ちません。中で迷わないことです」
ゼルヴァードが言う。
「どれくらい持つ」
「体感で一時間ほど。夢の深度によっては、もっと短いかもしれません」
「十分とは言えないな」
「贅沢ですわ」
リオナは瑠々を見た。
「瑠々さん」
「はい」
「あなたが本当に選定機関を止めたいなら、こっちを裏切らないでください」
瑠々は、少しだけ目を丸くした。
それから、笑う。
「信じてくださるの?」
「信じません」
「まあ」
「でも、今の利害は信じます」
瑠々は声を出して笑った。
今までで一番、自然な笑いだった。
「本当に面白い方ですわ」
リオナは真剣なまま言う。
「私は面白くなくていいです」
「いいえ。あなたは面白い。だから、恐怖の王さまは地上に残ったのでしょうね」
萌亜がリオナの手を強く握る。
リオナは少し照れた。
「今そういう話しないでください」
「ふふ。では、続きはまた」
瑠々は黒い海の上で一礼する。
「シャンバラへようこそ。どうか、よい夢を」
「それ、絶対よくない前振り」
リオナが言う。
瑠々は笑った。
「正解ですわ」
金色の門が開く。
眩しい光が溢れる。
風が吹く。
祈りの声が、遠くから聞こえる。
萌亜、リオナ、カナメ、ゼルヴァードは、門の内側へ進んだ。
背後で、瑠々の通路がゆっくりと揺れている。
黒い海。
敵の道。
けれど、今だけは選定機関の白い目を遮る盾でもある。
リオナは振り返らずに、萌亜の手を握った。
「行こう」
「うん」
夢の防衛拠点シャンバラ。
その奥で、何が待っているのかは分からない。
ただ、ひとつだけ分かっている。
ここから先は、人の心の奥へ進む戦いだ。
切り捨てる白。
沈める黒。
その間に、線を引くために。
リオナは、金色の夢の中へ足を踏み入れた。
第13話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、九頭龍瑠々からの提案回でした。
シャンバラへ向かう萌亜たちに対して、瑠々は専用通路「潮夢廻廊」を用意します。
もちろん怪しいです。
ものすごく怪しいです。
でも、便利です。
通常のシャンバラ経路は選定機関に察知されやすい。
一方、瑠々の用意したルルイエ混じりの夢の通路は、観測を濁らせることができます。
つまり、危険だけれど役に立つ近道です。
瑠々は今回、自分と萌亜たちが正面からぶつかる必要はないと言います。
彼女の目的は、眠れるクトゥルフを起こすこと。
そのためには人の祈りや夢が必要です。
一方、選定機関は夢や祈りすら不要と判断すれば切除する存在。
瑠々にとっても、選定機関は明確な敵です。
そのため、彼女は「ある程度なら妨害してあげる」と持ちかけます。
敵なのに助けてくる。
助けてくるのに信用できない。
信用できないのに、実際に役に立つ。
瑠々はそういう面倒な立ち位置になってきました。
今回のポイントは、リオナの姿勢です。
瑠々の過去や想いに少し触れたことで、ただの悪役として見られなくなっています。
でも、だからといって許すわけではありません。
誰かを起こしたい気持ちは本物でも、他人の夢を勝手に巻き込んでいい理由にはならない。
選定機関のように全部切り捨てるのも違う。
ルルイエのように全部沈めるのも違う。
その間に線を引く。
リオナの役割が、かなりはっきりしてきた回です。
次回からは、いよいよシャンバラ内部へ入ります。
人の夢。
祈り。
心の奥。
白い切除と黒い海。
そして、萌亜を地球側へさらに定着させるための試練。
夢の防衛戦が始まります。
それではまた次回。
専用通路でもチョベリバ。