アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜   作:池ポチャ

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第14.5話です。

今回は、シャンバラ編の裏側で動いている九頭龍瑠々側のお話です。

瑠々はクトゥルフを信じているだけの信者ではありません。

クトゥルフ本人に救われ、力を分け与えられた、ただ一人の正式な使徒です。

そのため、世界各地に存在するクトゥルフ系カルト教団とは、むしろ敵対関係にあります。

彼らは恐怖で人を縛り、怪物の名を勝手に使い、眠れるお友達を邪神として消費している。

それは瑠々にとって、かなり許せないことです。

一方で、深きものやダゴンたち、クトゥルフ配下の怪物たちは瑠々に傅きます。

今回は、そんな瑠々と海の怪物たちの関係。

そして、ブラック企業で疲れ切った一人の女性OLが、『海の家』で少しだけ癒される話です。

怪しい。

磯臭い。

でも、確かに救われる人もいる。

海の家、やっぱり面倒です。



海の家、だいたい邪教よりホワイト

 

 その夜、東京は乾いていた。

 

 高層ビルの灯り。

 終電間際の駅。

 コンビニの白い光。

 無数のスマホ画面。

 

 どこにも海は見えない。

 

 それなのに、街の隙間には、かすかな潮の匂いが混じっていた。

 

 九頭龍瑠々は、建設予定地の仮設事務所で資料を眺めていた。

 

 新興宗教『海の家』。

 東京潮騒礼拝堂。

 

 地域食堂、相談室、瞑想室、夢日記ワークショップ。

 

 行政提出用の書類。

 近隣説明会の議事録。

 報道向けの想定問答。

 

 そして、信者数の推移表。

 

「順調ですわね」

 

 瑠々は、青い髪を指先で撫でながら微笑んだ。

 部屋の壁には、海の家のポスターが貼られている。

 

『心が乾いたら、海へ』

『あなたも海へ還りませんか?』

『初回瞑想会無料♡』

 

 隣の棚には、宗教法人関係の書類と、なぜか限定版フィギュアの箱がきれいに並んでいた。

 

 美は信仰。

 信仰は海。

 つまり経費。

 

 その理屈が通るかどうかは、会計担当に毎回渋い顔をされている。

 だが、今夜の瑠々の表情は、いつもより少し冷たかった。

 

 机の上には、別の資料が置かれている。

 

『黒潮黎明会』

 

 世界各地に点在するクトゥルフ系カルト教団の、日本支部のひとつ。

 

 古い魔導書を読み違え、夢の断片を勝手に解釈し、眠れるものを恐怖の神として崇めている者たち。

 

 彼らはここ数日、『海の家』の活動に干渉していた。

 

 匿名掲示板への書き込み。

 信者への接触。

 怪しい儀式動画の拡散。

 

 そして、海の家を「真なる深海信仰への冒涜」と呼ぶ声明。

 

 瑠々は、それを読んで静かに笑った。

 

「冒涜、ですか」

 

 声は甘い。

 だが、目は笑っていない。

 

「どちらが冒涜しているのか、教えて差し上げる必要がありそうですわね」

 

 その時、部屋の隅の水槽が揺れた。

 

 ただの観賞用水槽ではない。

 青く暗い水の奥に、影が浮かび上がる。

 大きな魚のような影。

 

 いや、魚ではない。

 

 鱗。

 ひれ。

 人に似た輪郭。

 

 そして、人ではない目。

 

 深きもの。

 海底に連なる古き種族の一体だった。

 

 それは、水槽の中から瑠々へ頭を垂れた。

 

『使徒さま』

 

 声は水泡のように響く。

 

『黒潮黎明会の動き、確認いたしました』

「ご苦労さまですわ」

 

 瑠々は優雅に頷く。

 

「彼らは今夜、どこに?」

『湾岸第七倉庫跡地にて、儀式を予定しております』

「目的は?」

『眠れる主の名を用い、深海の怪物を召喚し、海の家の信者を奪還すると』

 

 瑠々は一瞬、きょとんとした。

 それから、心底呆れたようにため息をついた。

 

「奪還?」

『はい』

「わたくしの信者を?」

『はい』

「わたくしから?」

『はい』

 

 瑠々は扇子を開いた。

 

 ぱちん。

 

 部屋の空気が湿る。

 

「身の程知らずも、ここまで来ると芸術ですわね」

 

 水槽の影がわずかに震える。

 瑠々は続けた。

 

「クトゥルフ様の名を勝手に使い、恐怖で人を縛り、儀式ごっこで海を汚す。しかも、あの方に直接救われたわたくしから信者を奪うと?」

 

 瑠々は微笑んだ。

 

「面白すぎて、少し怒りを忘れそうですわ」

『怒っておいでですか』

「ええ」

 

 瑠々の青緑の瞳が、深い海の底のように暗くなる。

 

「かなり」

 

 その時、部屋の奥の影がさらに大きくなった。

 床に敷かれた青い絨毯が、波のように揺れる。

 

 水のない場所に、海の気配が満ちる。

 そして、巨大な影が現れた。

 

 人の形に近い。

 

 だが、人間ではない。

 

 古代の王のような威圧感。

 深海魚と神像を混ぜたような異形。

 年老いた海の怪物。

 

 ダゴン。

 クトゥルフに連なる深海の古き配下。

 

 その存在は、狭い仮設事務所には明らかに大きすぎた。

 

 にもかかわらず、彼は空間を歪めるようにして、静かにそこへ立っていた。

 

 そして。

 瑠々の前で、膝をついた。

 

『瑠々姫』

 

 低い声が、床を震わせる。

 瑠々は穏やかに微笑んだ。

 

「ダゴン。ごきげんよう」

『御身の命に従い、我ら深きものどもは控えております』

「まあ。頼もしいですわね」

 

 瑠々は紅茶のカップを持ち上げる。

 中身は紅茶ではなく、深海藻茶だった。

 

「でも、今夜は派手に壊してはいけませんわ。地上には、警察も消防も行政も報道もありますから」

『地上の制度は複雑ですな』

「ええ。古の魔導書より面倒ですわ」

『ならば、静かに沈めますか』

「沈めすぎてもいけません」

 

 瑠々は微笑みを深めた。

 

「彼らには、自分たちが何を勝手に名乗っていたのか、理解していただきます」

 

 ダゴンは深く頭を垂れた。

 

『御意』

 

     *

 

 同じ頃。

 

 湾岸第七倉庫跡地では、黒潮黎明会の信者たちが集まっていた。

 

 廃倉庫の中。

 

 床には白いチョークで魔法陣が描かれている。

 

 壁には、怪しげな海神の絵。

 黒いローブの信者たち。

 

 中央には、古びた本を持つ男。

 黒潮黎明会の日本支部長、尾黒征馬。

 

 細い顔。

 ぎらついた目。

 不自然に低い声。

 

 いかにも「自分は選ばれし者です」という空気を出している。

 

「諸君」

 

 尾黒は両手を広げた。

 

「近頃、偽りの海を広げる女がいる」

 

 信者たちがざわめく。

 

「九頭龍瑠々。海の家。あの女は、我らが信奉する深海の主の名を、安っぽい炊き出しとSNSに堕とした」

 

「許せない!」

「真なる信仰への冒涜だ!」

「宗教弾圧はんたーい!」

 

 ひとりが叫び、周囲が一瞬止まった。

 

 尾黒が睨む。

 

「それは向こうの掛け声だ」

「あ、すみません」

「気をつけたまえ」

 

 尾黒は咳払いした。

 

「今夜、我らは深きものを召喚する。そして、深海の真意が我らにあることを証明する」

 

 信者たちが興奮する。

 

「深海の主よ!」

「眠れる神よ!」

「我らに力を!」

 

 尾黒は本を開いた。

 

 古びた文字。

 読めないはずの言語。

 

 だが、彼はそれを読み上げる。

 いや、読み上げているつもりになっている。

 

 発音はかなり違っていた。

 意味もところどころ間違っていた。

 

 深海の言葉で「我らに加護を」を意味する部分が、なぜか「海藻をマシマシ、ナマコ抜きでお願いします」になっている。

 

 だが、本人たちは真剣だった。

 

 魔法陣が淡く光る。

 倉庫の空気が湿る。

 

 黒い水が、床からじわりと染み出した。

 

 尾黒は歓喜した。

 

「来た……! 来たぞ! 深きものだ!」

 

 水の中から、影が立ち上がる。

 

 鱗。

 ひれ。

 人に似た姿。

 

 深きもの。

 

 信者たちは歓声を上げた。

 

「おお!」

「成功だ!」

「我らは選ばれた!」

 

 尾黒は勝ち誇ったように叫ぶ。

 

「深きものよ! 我が命に従え!」

 

 深きものは、じっと尾黒を見た。

 

 沈黙。

 長い沈黙。

 

 そして、深きものは言った。

 

『どちら様ですか』

 

 倉庫内が静まり返った。

 

 尾黒の顔が引きつる。

 

「……何?」

『失礼。存じ上げません』

「我は黒潮黎明会、日本支部長、尾黒征馬である!」

『はい』

「はい、ではない! 我は深海の主に選ばれし者!」

『確認いたします』

 

 深きものは、どこからともなく防水タブレットのようなものを取り出した。

 

 信者たちは困惑する。

 尾黒も困惑する。

 

 深きものは画面を操作した。

 

『登録なし』

「登録?」

『クトゥルフ直系使徒名簿、眷属承認一覧、夢信号認証、いずれにも登録がありません』

「そんな名簿があるのか!?」

『あります』

 

 深きものは淡々と言った。

 

『現在、地上において正式に主より力を分け与えられた使徒は、九頭龍瑠々さまお一人です』

 

 尾黒の顔が赤くなる。

 

「馬鹿な! あの女は邪道だ! 深海の主を愛だの救いだのと軟弱に語る偽物!」

 

 その瞬間、倉庫の空気が凍った。

 

 深きものの目が、ゆっくり細くなる。

 

『瑠々さまを侮辱しましたか』

 

 尾黒は一瞬ひるんだ。

 だが、すぐに叫ぶ。

 

「侮辱ではない! 真実だ! 我らこそ真なる――」

 

 そこで、倉庫の扉が開いた。

 

 潮風が吹き込む。

 

 青い髪が揺れる。

 白と青の法衣。

 蠱惑的な笑み。

 

 九頭龍瑠々が、ゆっくりと歩いて入ってきた。

 

「ごきげんよう」

 

 その声だけで、魔法陣の光が揺らいだ。

 深きものは即座に片膝をつき、頭を垂れる。

 

『瑠々さま』

 

 信者たちがざわめく。

 尾黒は顔を引きつらせた。

 

「九頭龍瑠々……!」

「まあ。今夜はずいぶんと賑やかですこと」

 

 瑠々は倉庫内を見回した。

 

「魔法陣に、黒ローブに、誤読だらけの詠唱。なんとも古典的ですわね」

「黙れ! 偽りの海の女!」

 

 尾黒が叫ぶ。

 

「貴様は深海の主の名を汚している! 炊き出しだの相談室だのSNSだの、信仰を商売に――」

「尾黒さま」

 

 瑠々は静かに言った。

 

「あなた方は、あの方の何を知っていらっしゃるの?」

「何?」

「恐怖ですか?」

 

 瑠々は一歩近づく。

 

「破滅ですか?」

 

 さらに一歩。

 

「狂気ですか?」

 

 さらに一歩。

 

「夢で聞こえた断片を勝手に解釈し、古文書の誤訳を崇め、眠れるあの方を恐怖の看板にして、人を怖がらせることが信仰だと?」

 

 尾黒の声が詰まる。

 瑠々の笑みは美しい。

 

 だが、怖かった。

 

「わたくしは、あの方に救われました」

 

 倉庫の空気が静まる。

 

「病の床で死を待つだけだったわたくしを、あの方は救ってくださった。ご自身が深い眠りに落ちることになっても、わたくしに命を分けてくださった」

 

 瑠々の青緑の瞳が、深く光る。

 

「あなた方は、あの方の優しさを知らない」

 

 尾黒は震えながらも叫んだ。

 

「邪神に優しさなどあるものか!」

「ええ。そう思うなら、あなた方はあの方を何も見ていない」

 

 瑠々は扇子を開いた。

 

 ぱちん。

 

 床の黒い水が一斉に揺れた。

 その水の奥から、さらに巨大な影が現れる。

 

 信者たちが悲鳴を上げた。

 

 ダゴン。

 古き深海の王。

 

 彼は倉庫の天井に届くほどの威容をまといながら、瑠々の背後に現れた。

 

 そして、深く頭を垂れた。

 

『瑠々姫』

 

 尾黒の顔から血の気が引いた。

 

「ダ、ダゴン……?」

 

 ダゴンは尾黒を見る。

 

 その目に、慈悲はなかった。

 

『我らが傅くは、眠れる主より直接力を分け与えられし唯一の使徒。九頭龍瑠々姫である』

 

 信者たちが震える。

 

『汝らは、主の夢の残響を拾い、己の欲で歪めたにすぎぬ』

 

 尾黒は後ずさる。

 

「ち、違う……我らは選ばれし……」

『選ばれてはいない』

 

 深きものがタブレットを見ながら言った。

 

『登録もありません、アポなしですし』

「だから登録とは何なのだ!」

 

 瑠々はくすりと笑った。

 

「尾黒さま。信仰とは、名乗れば成立するものではありませんわ」

 

 彼女は、魔法陣の中央へ歩く。

 足元のチョークが、水に溶けて消えていく。

 

「あなた方が集めた恐怖は、あの方の糧にはなりません」

「なぜだ!」

「まずいからです」

 

 尾黒が固まる。

 

「まずい?」

「ええ」

 

 瑠々は真顔で言った。

 

「恐怖だけで煮詰めた祈りは、味が濁りますわ。眠っている方の朝食には向きません」

 

 信者たちは何を言われているのか分からない顔をした。

 

 ダゴンだけは、重々しく頷いた。

 

『朝餉は大切です』

 

 深きものも頷く。

 

『愛と祈りの配合が重要です』

 

 瑠々は満足そうに微笑んだ。

 

「ですから、わたくしは海の家を広げています。孤独な方、疲れた方、居場所のない方。その心を、恐怖ではなく愛で満たすために」

「詭弁だ!」

 

 尾黒は叫ぶ。

 

「貴様も信者を集めているではないか!」

「ええ」

 

 瑠々は否定しなかった。

 

「集めていますわ」

 

 その潔さに、尾黒は一瞬言葉を失う。

 

「ですが、少なくともわたくしは、人を怖がらせて縛る気はありません。海へ来るかどうかは、その方が選ぶこと」

「洗脳しているくせに!」

「催眠なんてフィクションですわ」

 

 瑠々はにっこり笑った。

 

「もっとも、あなた方のように、怖い言葉で人の弱さを縛る行為は、現実に存在しますけれど」

 

 尾黒は怒りに震えた。

 

「ふざけるな!」

 

 彼は懐から黒い短剣を取り出した。

 魔導書の装飾品らしき、禍々しい刃。

 

 その瞬間、ダゴンの影が動いた。

 

 尾黒が反応するより早く、短剣は床に落ちていた。

 

 尾黒本人も、黒い水に足を取られ、その場に膝をつく。

 

 信者たちは一斉に逃げ出そうとする。

 

 だが、倉庫の出口には深きものたちが立っていた。

 

 彼らは誰も傷つけない。

 ただ、逃げ道を塞いでいる。

 

 瑠々は尾黒の前にしゃがんだ。

 

「尾黒さま」

「ひっ……」

「今夜のことは、なかったことにして差し上げます」

「え?」

「その代わり、黒潮黎明会日本支部は解散。信者の方々には、心理相談窓口と法律相談窓口をご案内します。怪しい儀式道具はすべて回収。魔導書は海の家で保管いたします」

「そ、そんなことが許されると――」

「許すのは、わたくしです」

 

 瑠々の声が、深く沈んだ。

 

「あなた方ではありません」

 

 尾黒は震えた。

 

 ダゴンが静かに頭を垂れる。

 深きものたちも、同じように瑠々へ傅く。

 

 その光景を見た信者たちは、ようやく理解した。

 

 自分たちが崇めていたつもりの深海は、最初から自分たちの側にはいなかったのだと。

 

     *

 

 その少し前。

 

 東京の別の場所で、一人の女性が泣いていた。

 

 名前は、佐伯真帆。

 二十九歳。

 都内の広告代理店に勤める会社員。

 

 肩書きだけなら、聞こえは良い。

 

 だが、実態はひどかった。

 

 終電帰り。

 休日出勤。

 未払い残業。

 

 上司の怒鳴り声。

 クライアントの無茶な修正依頼。

 深夜三時に届く「明日の朝までにお願い」のメッセージ。

 

 そして、誰も「大丈夫?」とは言わない職場。

 

 真帆は、駅前のベンチに座っていた。

 スマホの画面には、上司からのメッセージが並んでいる。

 

『今どこ?』

『この資料、朝までに直して』

『社会人としての責任分かってる?』

『みんな頑張ってるんだから』

『休むなら代わりを用意して』

 

 真帆は、画面を見ているだけで息が苦しくなった。

 

 涙がこぼれる。

 でも、泣いている時間すらない。

 

 帰らなければ。

 資料を直さなければ。

 明日も出社しなければ。

 

 そう思うのに、足が動かなかった。

 

「……もう無理」

 

 小さな声だった。

 誰にも届かないはずの声。

 

 でも、その時。

 

「では、少し休みましょうか」

 

 柔らかい声がした。

 

 真帆は顔を上げる。

 

 そこに、青い髪の女性が立っていた。

 

 白と青の法衣。

 蠱惑的な美貌。

 

 だが、その笑みは不思議と怖くなかった。

 

 九頭龍瑠々だった。

 

「こんばんは。ずいぶん乾いていらっしゃいますわね」

 

 真帆は警戒した。

 

「……宗教の人ですか」

「ええ」

 

 瑠々はあっさり頷いた。

 

「宗教法人『海の家』代表、九頭龍瑠々ですわ」

「怪しい」

「正直でよろしいですわ」

 

 瑠々は隣に座った。

 真帆は少し身を引く。

 

 瑠々はそれ以上近づかない。

 

「勧誘ですか」

「今は違います」

「今は?」

「お腹が空いている方に、いきなり教義を語るのは無粋ですもの」

 

 瑠々が手を軽く振ると、どこからともなく海の家スタッフが現れた。

 

 青と白の法被を着たスタッフ。

 彼は紙袋を差し出し、静かに一礼して去っていく。

 

 真帆は困惑する。

 

「何ですか、これ」

「深海風あら汁と、磯香る海藻おにぎりですわ」

「名前が怪しい」

「味は保証いたします」

 

 真帆はしばらく迷った。

 

 だが、胃が鳴った。

 今日は昼から何も食べていない。

 

 恥ずかしくなって俯くと、瑠々は何も言わずに紙袋を差し出した。

 

「食べるだけで結構です。入信届は入っておりません」

「本当に?」

「本当に」

 

 真帆は、恐る恐るあら汁を受け取った。

 

 温かい。

 湯気から、磯の香りがする。

 

 少し強い。

 でも、不思議と嫌ではなかった。

 

 一口飲む。

 出汁が、身体に染みた。

 

「……おいしい」

「でしょう?」

 

 瑠々は嬉しそうに笑った。

 

「海は、疲れた身体に優しいのです」

 

 真帆は、もう一口飲んだ。

 

 温かい。

 喉を通る。

 胃に落ちる。

 

 ずっと固まっていた身体が、少しだけほどける。

 

 そうしたら、また涙が出てきた。

 

「すみません」

「謝ることではありませんわ」

「私、何してるんだろうって」

「はい」

「頑張らなきゃって思って、でも全然できなくて、怒られて、寝られなくて、食べられなくて」

「はい」

「みんなやってるって言われるんです。これくらい普通だって。私が弱いだけだって」

 

 瑠々は静かに聞いていた。

 

 否定もしない。

 遮りもしない。

 

 ただ、真帆の言葉が尽きるのを待っていた。

 

 真帆は泣きながら言った。

 

「もう、会社行きたくないです」

 

 瑠々は、優しく答えた。

 

「では、行かなくてもよろしいのでは?」

 

 真帆は顔を上げる。

 

「でも、仕事が」

「あなたの命より大切な資料ですか?」

「……」

「あなたが壊れなければ回らない会社なら、先に壊れているのは会社の方ですわ」

 

 その言葉に、真帆は固まった。

 そんな言い方をされたのは、初めてだった。

 

 瑠々は続ける。

 

「海は、沈むものをすべて包みます。けれど、沈まなくていい方まで沈めたいわけではありません」

「宗教っぽいですね」

「宗教ですもの」

 

 瑠々は微笑む。

 

「ですが、現実的な話もいたしましょう。労働相談窓口、心療内科、退職代行、法テラス、証拠の残し方。必要でしたら、海の家の相談員が一緒に整理いたします」

 

 真帆は目を丸くした。

 

「スピリチュアルじゃないんですか?」

「スピリチュアルだけでは、未払い残業代は戻りませんわ」

 

 真帆は、思わず笑ってしまった。

 泣きながら、少し笑った。

 

 瑠々も笑う。

 

「信仰は心を支えます。ですが、書類は現実を動かします。どちらも大切ですわ」

「変な宗教ですね」

「よく言われます」

 

 真帆は、あら汁を飲み干した。

 身体が少し温まった。

 

 スマホがまた震える。

 上司からの通知。

 

 真帆の肩が跳ねる。

 

 瑠々はそっと言った。

 

「今は見なくてもよろしいですわ」

「でも」

「今夜だけ、海に預けてみませんか」

 

 真帆はスマホを握りしめる。

 

 返信しなければ。

 謝らなければ。

 資料を直さなければ。

 

 そう思うのに、瑠々の声は静かに染みた。

 

「あなたは機械ではありません。祈りを捧げるための道具でも、会社を回す部品でもありません。疲れたなら、休んでいいのです」

 

 真帆は、また泣いた。

 

「休んで、いいんですか」

「ええ」

 

 瑠々は、はっきりと言った。

 

「よろしいですわ」

 

 その一言で、真帆の中の何かが崩れた。

 彼女はベンチの上で泣いた。

 

 子どものように。

 長い間、我慢していた分だけ。

 

 瑠々は、ただ隣にいた。

 海のように。

 

 少し湿っていて。

 少し怪しくて。

 

 でも、その夜の真帆には、確かに必要な優しさだった。

 

     *

 

 黒潮黎明会の件が片付いたのは、深夜一時を過ぎた頃だった。

 

 信者たちは解散させられ、危険物は回収され、尾黒は深きものたちに囲まれて「今後一切、深海の主の名を勝手に用いません」という誓約書を書かされた。

 

 誓約書は地上の法的効力を持つものと、夢の中で破ると悪夢に追われるものの二種類が用意された。

 

 尾黒は両方に署名した。

 ダゴンは感心していた。

 

『地上の書類は便利ですな』

「でしょう?」

 

 瑠々は満足そうに頷いた。

 

「契約は強いのですわ」

『古き誓約にも通じます』

「ええ。行政と呪術は、案外似ていますの」

 

 深きものたちは、回収した儀式道具を水の中へ運んでいく。

 

 その中には、誤訳だらけの魔導書もあった。

 瑠々はそれを見て、少しだけ眉をひそめる。

 

「あの方の名前を、恐怖の道具にする方々は後を絶ちませんわね」

 

 ダゴンは静かに言った。

 

『主は長く眠っておられます。その夢の残響を、人は好きに解釈する』

「だから、わたくしが正します」

『御身の望むままに』

「違いますわ」

 

 瑠々は、夜の海を見る。

 

「わたくしの望むままではありません」

 

 波が寄せる。

 遠い海の底で、眠る気配がある。

 

 瑠々は、静かに微笑んだ。

 

「あの方が目覚めた時、寂しくないように」

 

 ダゴンは深く頭を垂れた。

 

『瑠々姫の祈りは、深海に届いております』

「届いているだけでは足りません」

 

 瑠々は空を見上げる。

 

 東京の空は明るい。

 星はあまり見えない。

 

「いつか、おはようと返していただかなくては」

 

 その時、海の家スタッフから連絡が入った。

 

『瑠々さま。先ほどの女性ですが、相談員と合流しました。今夜は安全な場所で休んでいただきます』

「そう。よかったですわ」

『入信案内は?』

「しなくて結構です」

『よろしいのですか?』

「ええ」

 

 瑠々は、少しだけ優しく笑った。

 

「あの方は、無理やり集めた祈りを好みませんもの」

 

 通信の向こうで、スタッフが一礼する気配がした。

 

 ダゴンが問う。

 

『人を救うのですか』

「救えるなら」

『すべてを?』

「いいえ」

 

 瑠々は首を振った。

 

「すべては救えませんわ。わたくしは神ではありませんもの」

 

 ダゴンは静かに言った。

 

『されど、使徒であられる』

「ええ」

 

 瑠々は扇子を閉じる。

 

「だから、届く手は伸ばします。祈りを集めるためだけではなく、あの方に恥じないように」

 

 彼女は、ふと笑った。

 

「もっとも、萌亜さんやリオナさんには、また怪しまれるでしょうけれど」

『恐怖の王と人の娘』

「ええ。あの二人は、わたくしに線を引きに来る」

『敵ですか』

「いいえ」

 

 瑠々は少し考えてから答えた。

 

「邪魔者ですわ」

 

 ダゴンが首を傾げる。

 

『敵とは違うのですか』

「違います」

 

 瑠々は、青い髪を風に揺らしながら微笑む。

 

「敵なら沈めます。邪魔者なら、押し問答を楽しめます」

『なるほど』

「リオナさんは、よい線を引きます。萌亜さんは、よい手を握ります。あの二人がいるから、海が全部を包む前に、陸の形も見える」

 

 瑠々は、少しだけ遠い目をした。

 

「だからこそ、面白いのですわ」

 

     *

 

 翌朝。

 

 佐伯真帆は、知らない天井を見て目を覚ました。

 

 清潔な小さな部屋。

 

 ベッド。

 カーテン。

 

 机の上には、水と、簡単な朝食と、相談窓口の案内。

 

 海の家が用意した一時休憩スペースだった。

 

 スマホを見る。

 上司からの通知は大量に来ていた。

 

 だが、その横に、海の家相談員からのメッセージもあった。

 

『おはようございます。急がなくて大丈夫です。必要なら一緒に整理しましょう』

 

 真帆は、しばらくその文面を見ていた。

 

 おはようございます。

 急がなくて大丈夫です。

 

 それだけの言葉が、やけに胸に染みた。

 

 彼女は、深く息を吸った。

 まだ何も解決していない。

 

 会社の問題も。

 体調も。

 これからどうするかも。

 

 でも、昨日より少しだけ呼吸ができた。

 机の上には、小さな貝殻のカードが置かれている。

 

『海は、あなたを急かしません』

 

 裏面には、こう書かれていた。

 

『入信しなくても、相談できます』

 

 真帆は、少し笑った。

 

「変な宗教……」

 

 でも、悪くない。

 

 少なくとも、昨日の夜、自分を会社へ戻さず、温かい汁物をくれて、泣いていいと言ってくれた。

 

 それは確かだった。

 

 真帆は、スマホを握る。

 上司への返信画面を開く。

 

 指が震えた。

 でも、今度は一人ではない。

 

 相談員のメッセージをもう一度見る。

 そして、真帆は初めて、短く返信した。

 

『体調不良のため、本日は休みます。以後の連絡はメールでお願いします』

 

 送信。

 

 たったそれだけで、心臓が大きく鳴った。

 

 怖い。

 でも、少しだけ自由だった。

 

 窓の外には、乾いた東京の朝が広がっている。

 

 海は見えない。

 けれど、ほんの少しだけ潮の匂いがした気がした。

 

     *

 

 その頃、海の家の仮設事務所では、瑠々が朝の報告を受けていた。

 

「黒潮黎明会日本支部は?」

『実質解散状態です』

「尾黒さまは?」

『悪夢誓約書の効果で、深海の名を口にしようとするとイカ墨の味がするそうです』

「よろしいですわ」

「佐伯真帆さまは?」

『本日、会社を休む連絡を入れられました。午後に労働相談の予約を入れる予定です』

「そう」

 

 瑠々は嬉しそうに微笑んだ。

 

「よかったですわ」

 

 深きものが問う。

 

『信者登録は行いませんか』

「本人が望むなら」

『望まなければ?』

「ただの利用者ですわ」

『祈りには?』

「なります」

 

 瑠々は、静かに言った。

 

「人が少し楽になった時の息。泣いたあとに飲む温かい汁物。今日だけ休もうと思えた心。それも祈りです」

 

 深きものは、少し考えるように沈黙した。

 

『恐怖より、淡い』

「ええ」

『だが、澄んでいる』

「でしょう?」

 

 瑠々は窓の外を見る。

 

 まだ建っていない礼拝堂予定地。

 そこに、いつか地域食堂ができる。

 

 相談室ができる。

 瞑想室ができる。

 

 夢日記ワークショップも、きっと問題になる。

 

 リオナには怒られるだろう。

 萌亜には止められるだろう。

 御門は胃薬を飲むだろう。

 

 それでも、瑠々は止まらない。

 

 救われる人がいる。

 祈りは集まる。

 海は広がる。

 

 そして、いつか眠れるお友達が目を覚ました時。

 

 世界は、ただ恐怖で叫ぶのではなく。

 もしかしたら、誰かが温かい汁物を差し出してくれるかもしれない。

 

「おはようございます、と」

 

 瑠々は、小さく呟く。

 

「世界中で、言えるように」

 

 机の上の資料に、朝日が差し込む。

 

 黒潮黎明会のファイル。

 佐伯真帆の相談受付票。

 東京潮騒礼拝堂の建設計画。

 

 そのすべてを、瑠々は同じ机の上に並べていた。

 

 邪教を潰すこと。

 疲れた人を休ませること。

 祈りを集めること。

 眠れる友達を待つこと。

 

 全部が、彼女にとっては同じ海へ繋がっている。

 

 怪しい。

 危険。

 優しい。

 しつこい。

 

 九頭龍瑠々という女は、そのすべてを抱えたまま、今日も微笑む。

 

「さて」

 

 彼女は扇子を開いた。

 

「本日も、海を広げましょうか」

 

 部屋の隅で、深きものたちが傅く。

 遠い海の底で、眠るものの夢がわずかに揺れる。

 

 東京は乾いている。

 

 だから、瑠々は歩き出す。

 

 誰かの心に、ほんの少しの潤いを届けるために。

 

 そして、いつか来る朝のために。

 




第14.5話を読んでいただき、ありがとうございました。

今回は、九頭龍瑠々側の幕間回でした。

ポイントは二つあります。

ひとつ目は、瑠々とクトゥルフ系カルト教団の関係です。
瑠々はクトゥルフを信仰しているだけの一信者ではありません。

クトゥルフ本人に救われ、力を分け与えられた、正真正銘ただ一人の使徒です。
そのため、世界各地にいるクトゥルフ系カルト教団とはむしろ敵対しています。

彼らはクトゥルフの名を恐怖や支配の道具として使っている。
でも瑠々にとって、クトゥルフは自分を救ってくれた「海のお友達」です。

だから、彼を恐怖の看板として消費する者たちを許しません。

また、深きものやダゴンといったクトゥルフ配下の存在たちは、瑠々に傅きます。

地上では怪しい宗教家に見える瑠々ですが、深海側から見れば、眠れる主の力を宿した正式な代理人です。

つまり、カルト教団より瑠々の方が圧倒的に格上です。

ふたつ目は、海の家が本当に人を救ってしまうところです。

今回登場したブラック企業勤めの女性OL、佐伯真帆は、限界まで追い詰められていました。
そこに瑠々が現れ、あら汁を渡し、話を聞き、現実的な相談窓口へ繋げます。

スピリチュアルだけではなく、労働相談や法的手続きも案内する。

海の家は怪しいですが、こういう現実的な救済も行っています。

だからこそ厄介です。

完全な悪なら殴ればいい。
完全な詐欺なら暴けばいい。

でも、海の家は確かに危険でありながら、確かに誰かを休ませてもいる。

瑠々の信仰は危うい。
けれど、その優しさも本物です。

今後、萌亜やリオナが瑠々と向き合う時、この「危険なのに救ってしまう」という部分が大きな壁になります。

次回はシャンバラ本編へ戻ります。

カーラチャクラ四相による試練。
選定機関の干渉。
ルルイエの黒い海。

そして、リオナがどこに線を引くのか。

それではまた次回。

邪教処理でも海の家はチョベリバ。
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