アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜   作:池ポチャ

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今回は外伝です。

本編でたびたび名前が出てくる、姫咲リオナの叔父――楠タクヤ。

リオナにおじさん構文を送りつけ、萌亜からはなぜか「師匠」と呼ばれ、ゼルヴァードを戦慄させ、選定機関を処理停止させる謎の男。

その彼が、まだ少年だった頃のお話です。

きっかけは、田舎町で起きた一件のキャトルミューティレーション。

牛を探していた少年タクヤは、うっかり宇宙船に乗せられてしまいます。

普通なら恐怖の宇宙拉致事件です。

ですが、相手は楠タクヤ。

牛の心配をし、宇宙人の疲労を心配し、なぜか船内でお茶会を始めます。

そしてその小さなお茶会が、後に外宇宙交流、選定個体引き抜き疑惑、超科学機関設立、さらには全宇宙戦争の遠因へと繋がっていきます。

本人は、たぶん何も悪いことをしているつもりはありません。

ただ、疲れている人に「休んでいい」と言っただけ。
ただ、お茶を出しただけ。
ただ、困っている相手を放っておけなかっただけ。

それが宇宙規模で一番危険だった。

そんな、全宇宙接触禁止個体のはじまりの物語です。

本編のタクヤ叔父さんを見る目が、少しだけ変わるかもしれません。

それでは、楠タクヤ少年の、ちょっと遠すぎる宇宙旅行をどうぞ。


外伝 楠タクヤの宇宙旅行記
楠タクヤと宇宙人


あるいは、全宇宙接触禁止個体のはじまり

 

 楠タクヤは、普通の少年だった。

 少なくとも、本人はそう思っていた。

 

 田舎町に住んでいて、学校帰りに駄菓子屋へ寄り、夏休みには虫取りをして、冬にはこたつから出たくなくなる。

 

 好きなものは、甘いお菓子と温かいお茶。

 苦手なものは、怒鳴る大人と、無理をしている人を見ること。

 

 少し変わっているところがあるとすれば、困っている人を見ると放っておけないことくらいだった。

 

 道に迷ったおばあさんがいれば家まで送る。

 いじめられている子がいれば間に入る。

 泣いている同級生がいれば、理由を聞く前にまず飴を渡す。

 

 大人たちは言った。

 

「タクヤくんは優しいねえ」

 

 タクヤは、よく分からない顔で笑った。

 

「困ってたら、助けた方がいいでしょ?」

 

 その程度の認識だった。

 

 それが後に、外宇宙規模の大問題になるとは、誰も知らない。

 

 本人でさえ、知らなかった。

 

     *

 

 その夜、楠タクヤは牛を探していた。

 近所の牧場で、一頭だけ牛がいなくなったのだ。

 

 大人たちは探していたが、夜も遅く、雨が降りそうだった。

 

 タクヤは懐中電灯を持ち、畑のあぜ道を歩いていた。

 

「モー子ー」

 

 牛の名前である。

 

「出ておいでー。怒られないから」

 

 返事はない。

 田んぼの向こうでは、蛙が鳴いている。

 

 空には星が多かった。

 都会では見えないほどの星空。

 

 タクヤは少しだけ立ち止まる。

 

「きれいだなあ」

 

 その時だった。

 

 空の星が、ひとつ動いた。

 いや、星ではなかった。

 

 光。

 白く、青く、妙に規則正しい光。

 

 それが音もなく降りてきた。

 

 タクヤは目を瞬いた。

 

「……流れ星?」

 

 次の瞬間、畑の向こうから牛の鳴き声がした。

 

「モー子?」

 

 タクヤが走る。

 すると、そこにいた。

 

 牛。

 正確には、空中に浮いている牛。

 

 モー子は、ふわふわと宙に浮かびながら、白い光に包まれていた。

 

 その上には、銀色の円盤。

 古典的なほど分かりやすい、未確認飛行物体だった。

 

 タクヤはしばらくそれを見上げた。

 

 そして言った。

 

「……あ、これ宇宙人だ」

 

 普通なら逃げる。

 叫ぶ。

 腰を抜かす。

 

 だが、楠タクヤは少し違った。

 彼は、宙に浮かんで不安そうに鳴く牛を見て、眉をひそめた。

 

「モー子、怖がってるじゃん」

 

 それが、彼の第一声だった。

 

 タクヤは懐中電灯を宇宙船へ向けて振った。

 

「すみませーん! その牛、うちの近所の子なんですけどー!」

 

 宇宙船は止まった。

 光も止まった。

 牛も宙で止まった。

 

 数秒後、光が広がる。

 

 タクヤの身体が、ふわりと浮いた。

 

「あ」

 

 落ちるのではなく、上へ引っ張られる。

 

 田んぼ。

 畑。

 あぜ道。

 懐中電灯。

 

 全部が遠ざかる。

 

 タクヤは空へ吸い上げられながら、少し困った顔で言った。

 

「これ、お母さんに怒られるやつだ」

 

     *

 

 宇宙船の中は、意外と寒かった。

 

 白い壁。

 銀色の床。

 見たことのない機械。

 

 透明な管。

 光る文字。

 

 そして、牛。

 

 モー子は近くの浮遊台の上で、ぷかぷか浮いていた。

 

 どうやら眠っているらしい。

 

 タクヤはほっとした。

 

「よかった。怪我はしてない」

 

 その時、壁が開いた。

 中から、三体の宇宙人が出てきた。

 

 一体目は、細長い。

 二体目は、丸い。

 三体目は、妙に疲れた顔をしている。

 

 全員、目が大きく、肌は青灰色で、頭には透明なヘルメットのようなものをつけていた。

 

 細長い宇宙人が、機械を通じて言った。

 

『地球原住個体。なぜ観測対象領域に侵入した』

 

 タクヤは首を傾げた。

 

「牛を探してました」

『牛』

「はい。モー子です」

『モー子』

 

 宇宙人たちは顔を見合わせた。

 丸い宇宙人が言う。

 

『本作戦の対象は、地球生体サンプル一体。人類個体の回収は予定外』

 

 疲れた顔の宇宙人が頭を抱えた。

 

『また報告書が増える……』

 

 タクヤは、その声に反応した。

 

「大変なんですか?」

 

 宇宙人たちは止まった。

 

『何?』

「いや、今、すごく疲れた声だったので」

 

 疲れた顔の宇宙人は、ぎょっとしたように身を引いた。

 

『地球個体が我々の疲労を認識した?』

「見れば分かりますよ。目の下、すごいですし」

『これは種族特徴だ』

「でも疲れてますよね?」

『……疲れている』

 

 なぜか正直に答えてしまった。

 

 タクヤは少し考えた。

 

 そして、宇宙船の中を見回す。

 

「お茶、あります?」

『茶』

「温かい飲み物です。落ち着くので」

『地球式嗜好液体は搭載していない』

「じゃあ、お湯は?」

『滅菌水ならある』

「それで大丈夫です。あと、葉っぱっぽいもの」

『葉っぱ?』

「飲めそうなやつ」

 

 宇宙人たちは困惑した。

 

 普通、拉致された地球人は叫ぶ。

 

 泣く。

 暴れる。

 記憶処理を受ける。

 

 だが、この少年は牛の心配をしたあと、宇宙人にお茶を出そうとしている。

 

 理解不能だった。

 

 しかし、数分後。

 宇宙船の一角には、簡易的な休憩スペースができていた。

 

 タクヤは滅菌水を温め、宇宙植物の乾燥葉を使い、妙な香りのするお茶を作った。

 

 味は、ほうじ茶と昆布茶と湿った金属を混ぜたようだった。

 

 おいしいかと言われると微妙だった。

 だが、温かかった。

 

 疲れた顔の宇宙人は、カップを両手で持ち、ぽつりと言った。

 

『……温度がある』

「温かいと、ちょっと安心しますよね」

『安心』

 

 宇宙人は、初めて聞く概念のように繰り返した。

 

 タクヤは彼の向かいに座った。

 

「お仕事、大変なんですか?」

 

 その一言で、宇宙船の空気が変わった。

 

     *

 

 宇宙人たちは、外宇宙観測局の下請け調査員だった。

 

 地球の牛を調べる仕事。

 地球の土を調べる仕事。

 地球人の睡眠時脳波を調べる仕事。

 地球の麦畑に謎の模様を描く仕事。

 

 実際には観測任務というより、雑務に近かった。

 

 上層部は無茶を言う。

 選定機関からはデータ提出を急かされる。

 星間企業からは予算を削られる。

 報告書の形式は毎月変わる。

 

 休暇は三周期前から申請しているのに、まだ承認されていない。

 

『我々は地球の牛を三百七十二体観測した』

 

 細長い宇宙人が、疲れた声で言う。

 

『しかし上層部は、サンプル数が足りないと言う』

 

 丸い宇宙人も続ける。

 

『麦畑図形も、もっと芸術性を高めろと言われた』

「麦畑に模様を作ってるの、あなたたちなんですか?」

『一部は我々だ』

「上手いですよね」

『そうか?』

「はい。あれ、けっこう綺麗です」

 

 丸い宇宙人は、少しだけ嬉しそうにした。

 

『評価されたのは初めてだ』

 

 疲れた顔の宇宙人が、カップを見つめる。

 

『私は、もう帰りたい』

「帰れないんですか?」

『任務が終わらない』

「休めないんですか?」

『休暇申請が通らない』

「それ、ひどくないですか?」

 

 宇宙人たちは一斉に黙った。

 誰も言わなかったことを、地球の少年が言った。

 

 ひどくないですか。

 

 その一言が、宇宙船の中に落ちた。

 

 タクヤは続ける。

 

「だって、みんな疲れてるし。牛も怖がってるし。お仕事なら、ちゃんと休まないと」

『しかし、我々は下位観測員だ』

「下位でも、休んでいいと思います」

『任務が』

「任務より先に、寝た方がいいです」

『寝る』

「はい」

 

 タクヤは当たり前のように言った。

 

「眠い時は寝た方がいいです」

 

 それは、宇宙を揺るがす思想だった。

 少なくとも、外宇宙観測局の末端職員にとっては。

 

 その夜、三体の宇宙人は交代で眠った。

 

 タクヤはその間、モー子のそばにいた。

 牛は目を覚まし、タクヤを見ると安心したように鼻を鳴らした。

 

「大丈夫。帰してもらおうね」

 

 モー子は、もぐもぐと何かを噛んでいた。

 宇宙船の観測用植物だった。

 

 タクヤは少し焦った。

 

「それ食べて大丈夫かな」

 

 だが、モー子は元気そうだった。

 

     *

 

 翌朝、という概念が宇宙船にあるのかは分からないが、とにかく数時間後。

 

 宇宙船の状況は変わっていた。

 観測員たちは明らかにすっきりした顔をしている。

 

 そして、会議を始めた。

 

『我々は休暇を要求すべきではないか』

『その前に、未払い概念残業の記録を整理するべきだ』

『麦畑図形部門にも声をかけよう』

『牛観測班だけでは弱い。睡眠時脳波班も巻き込むべきだ』

 

 タクヤは横でお茶を淹れていた。

 

「みんな、ちゃんと話し合っててえらいですね」

 

 疲れた顔だった宇宙人が、真剣な顔で言う。

 

『タクヤ。君はどう思う』

「僕?」

『我々は、上層部へ改善要求を出すべきか』

「出した方がいいと思います」

『拒否されたら?』

「その時は、もっと偉い人に言うとか」

『もっと偉い者も同じだったら?』

「じゃあ、別の場所で働くとか」

 

 宇宙人たちが衝撃を受けた。

 

『別の場所』

『転属ではなく』

『離脱』

 

 タクヤは少し困った顔をした。

 

「でも、いきなり辞めるのは大変ですよね。休める場所があった方がいいと思います」

『休める場所』

「はい。疲れた人が、とりあえずお茶を飲める場所」

 

 その言葉は、宇宙船の記録に残された。

 

 後に外宇宙側では、こう呼ばれる。

 

『第一次茶会思想』

 

 もちろん、タクヤはそんなこと知らない。

 

     *

 

 宇宙船は地球へ戻るはずだった。

 タクヤとモー子を元の場所へ返し、記憶処理をして終わり。

 

 その予定だった。

 しかし、船内通信に割り込みが入った。

 

『観測艇G-772、予定航路逸脱を確認』

『任務継続を命令』

『地球生体サンプルを提出せよ』

『人類個体の記憶処理を実行せよ』

 

 宇宙人たちの表情が強張る。

 

 上層部だ。

 

 タクヤは通信の声を聞き、眉をひそめた。

 

「怒ってるんですか?」

『上層部は常に怒っている』

「大変ですね」

『我々がだ』

「じゃあ、僕が話しましょうか?」

 

 宇宙人たちは固まった。

 

『君が?』

「はい。たぶん、言い方がきついだけかもしれないし」

『違うと思う』

「でも、話してみないと」

『タクヤ、相手は外宇宙観測局上級管理官だ』

「偉い人?」

『とても偉い』

「じゃあ、お茶も必要ですね」

 

 通信画面に、上級管理官が映った。

 

 巨大な頭部。

 鋭い目。

 威圧的な触角。

 

 明らかに怖い。

 彼は低い声で言った。

 

『下位観測員。任務を継続せよ。地球個体は記憶処理後、返却。牛は解剖――』

「すみません」

 

 タクヤが割り込んだ。

 

 上級管理官が止まる。

 

『何だ、この小型地球人は』

「楠タクヤです」

『なぜ通信に出ている』

「お茶、飲みますか?」

『……何?』

「怒ってる時って、喉が乾くので」

 

 宇宙船内は静まり返った。

 

 上級管理官も、画面の向こうで固まった。

 

『我は怒ってなどいない』

「でも、声が怖いです」

『これは威厳だ』

「威厳がある人も、お茶は飲んだ方がいいと思います」

『不要だ』

「甘いものもありますよ」

『不要――』

 

 上級管理官の背後から、別の声がした。

 

『管理官、糖分摂取は推奨されています』

『黙れ』

『しかし、ここ五周期、休憩を取っておられません』

 

 タクヤは心配そうに画面を見た。

 

「五周期って、長いんですか?」

 

 観測員が小声で答える。

 

『地球換算で、およそ三週間』

「寝てください」

 

 タクヤは即答した。

 

 上級管理官は目を見開いた。

 

『小型地球人。貴様、我に命令するのか』

「命令じゃないです。お願いです」

『お願い』

「はい。寝ないと倒れます」

 

 上級管理官は、なぜか黙った。

 

 画面の向こうで、彼の部下たちがざわめいている。

 

『管理官が心配されています』

『地球人に』

『管理官、顔色が悪いのは事実です』

『黙れと言っている』

 

 だが、その声には先ほどほどの力がなかった。

 

 タクヤは画面越しに言った。

 

「お仕事、ちゃんとするのはえらいと思います。でも、みんな疲れてるなら、少し休んだ方がいいです」

『宇宙は休んでいる間にも動く』

「でも、動いてる宇宙を見てる人が倒れたら困ります」

 

 その言葉は、外宇宙観測局上級管理官の記録にも残された。

 後に、管理官はこの時のことをこう述懐している。

 

『あの小型地球人は、我々の任務価値を否定しなかった。ただ、我々自身も任務と同じくらい大事だと言った。それが最も危険だった』

 

     *

 

 タクヤとモー子は、その日のうちに地球へ返される予定だった。

 

 しかし、宇宙船はなぜか別の航路へ入った。

 

「帰らないんですか?」

 

 タクヤが聞くと、細長い観測員は気まずそうに答えた。

 

『少しだけ、寄り道をする』

「寄り道」

『休暇申請が通らないなら、先に休暇を取る』

「いいと思います」

『ついでに、君を地球外休憩施設へ案内する』

「僕、帰らなくて大丈夫かな」

『地球時間では、ほとんど経過しないよう調整する』

「すごい」

『すごい技術だ』

 

 丸い観測員が誇らしげに言う。

 

『ただし予算不足で、時々誤差が出る』

「どれくらい?」

 

『数分から数年』

「大きいですね」

 

『努力する』

「お願いします」

 

 こうして楠タクヤ少年の宇宙旅行が始まった。

 

 最初の目的地は、外宇宙労働者用休憩ステーションだった。

 

 そこには、さまざまな星の生き物がいた。

 

 水槽の中で寝ているクラゲ状生命体。

 金属の身体で肩こりに悩む機械知性体。

 重力が合わずに天井に張り付いている爬虫類型外交官。

 ひたすら書類を書いている三つ目の事務官。

 

 全員、疲れていた。

 タクヤは、その光景を見て言った。

 

「みんな、お茶飲んだ方がいいですね」

 

 その日、休憩ステーションに臨時茶会が開かれた。

 

 飲み物は種族ごとに違った。

 水分が毒になる種族には、温かい光。

 光合成型には、柔らかい赤外線。

 金属生命体には、潤滑油に近い香りのする飲料。

 地球人のタクヤには、相変わらず微妙な味の宇宙茶。

 

 けれど、みんな少しだけ落ち着いた。

 

 そして、話し始めた。

 

『私は、戦争に行きたくない』

『私は、選定機関の補助業務を辞めたい』

『私は、未来を計算するのに疲れた』

『私は、自分の星へ帰れない』

『私は、誰かに大丈夫と言ってほしかった』

 

 タクヤは、全部聞いた。

 解決できるわけではない。

 

 宇宙の制度も、戦争も、選定機関も、星間企業も、少年一人でどうにかできるはずがない。

 

 それでも、タクヤは聞いた。

 

「大変だったんですね」

「休んでいいと思います」

「逃げる場所、あった方がいいですよね」

「じゃあ、みんなで作ります?」

 

 それは、ほんの思いつきだった。

 だが、外宇宙の疲れた者たちにとっては違った。

 

 逃げる場所。

 休める場所。

 追われた時に匿ってくれる場所。

 肩書きや種族や時間軸に関係なく、お茶を出してくれる場所。

 

 その構想は、瞬く間に広がった。

 

 観測員が技術を出した。

 亡命希望の技官が設計した。

 未来から来た研究者がリスクを計算した。

 過去から逃げてきた記録者が歴史を整理した。

 

 誰かが資金を用意した。

 誰かが隠れ家を作った。

 誰かが星間通信網を開いた。

 

 タクヤは、その中心で何をしていたか。

 

 お茶を淹れていた。

 

     *

 

 数日後。

 地球時間では、たぶん数分後。

 

 楠タクヤは、元の畑に戻ってきた。

 モー子も一緒だった。

 

 宇宙船の光が消える。

 

 夜の田んぼ。

 蛙の声。

 懐中電灯。

 

 すべてが、何事もなかったかのように戻っていた。

 

 タクヤは畑のあぜ道に立ち、空を見上げた。

 

「宇宙って、大変なんだなあ」

 

 モー子が、もー、と鳴いた。

 その首には、なぜか小さな銀色の鈴がついていた。

 

 宇宙土産である。

 

 タクヤはそれを見て笑った。

 

「似合ってる」

 

 家へ帰ると、母に叱られた。

 

「どこ行ってたの!心配したんだから!」

 

 タクヤは少し考えた。

 

 宇宙船。

 牛。

 観測員。

 お茶会。

 外宇宙労働問題。

 休憩ステーション。

 未来の研究者。

 選定機関。

 

 全宇宙規模の保護ネットワークの芽。

 

 いろいろありすぎた。

 

 でも、母を心配させたのは事実だった。

 

「ごめんなさい。牛を探してたら、ちょっと遠くまで」

「どこまで行ってたの?」

 

 タクヤは空を見た。

 星が瞬いている。

 

「けっこう遠く」

 

 母は呆れたようにため息をついた。

 

「もう、早くご飯食べなさい」

「うん」

 

 その日の夕飯は、普通の味噌汁だった。

 

 宇宙茶より、ずっとおいしかった。

 

     *

 

 その後、宇宙では大変なことになった。

 

 外宇宙観測局では、末端職員による休暇要求が相次いだ。

 麦畑図形部門は芸術性の正当評価を求めた。

 牛観測班は動物への配慮を求めた。

 睡眠時脳波班は、観測対象の夢を勝手に覗くことへの倫理審査を求めた。

 

 上級管理官は、一度だけ睡眠を取った。

 

 その結果、判断力が回復し、上層部に改善案を提出した。

 

 上層部は激怒した。

 

 すると、外宇宙のあちこちから、同様の改善要求が噴き出した。

 

 星間企業が揺れた。

 軍事勢力が動いた。

 逃げ出す人材が増えた。

 選定機関は異常を検知した。

 保護ネットワークは拡大した。

 

 やがて、それは非公式な宇宙規模の混乱へ繋がる。

 

 後の一部記録における、全宇宙茶会戦争の遠因である。

 

 だが、地球の少年タクヤは、そんなことを知らない。

 

 彼はただ、学校へ行き、駄菓子屋へ寄り、家でお茶を飲み、時々空を見上げるだけだった。

 

 ただひとつ変わったことがある。

 彼の机の引き出しに、奇妙な端末が入っていた。

 

 宇宙船の観測員たちからもらったものだ。

 画面には、たまに連絡が来る。

 

『今日は休暇申請が通りました』

『麦畑図形が評価されました』

『追われている研究者を匿ってほしい』

『未来から来た者です。助けてください』

『選定機関に戻りたくありません』

『茶会は、まだ開いていますか』

 

 タクヤは、そのたびに返信した。

 

『大丈夫だよ』

『まず休もう』

『お茶、用意しておくね』

 

 それが、楠タクヤ少年の宇宙旅行記の始まりだった。

 

 ただの少年が、牛を探して宇宙船に乗った夜。

 ただ、お茶を出しただけの夜。

 ただ、疲れている人に「休んでいい」と言っただけの夜。

 

 その夜から、宇宙のどこかで、少しずつ何かがズレ始めた。

 

 選定機関は、後にこの個体をこう分類する。

 

『全宇宙接触禁止個体』

 

 理由。

 

『接触した者が、分類から外れ始めるため』

 

 だが、その頃のタクヤはまだ知らない。

 

 自分が宇宙規模で危険視されることも。

 いつか姪におじさん構文を送って困らせることも。

 その姪の友達が、文明選定個体アンゴルモアになることも。

 

 全部、まだ知らなかった。

 少年はただ、星空を見上げて呟いた。

 

「また会えるかな」

 

 空の向こうで、小さな光が瞬いた。

 

 それは星だったのか。

 宇宙船だったのか。

 それとも、助けを求める誰かの合図だったのか。

 

 タクヤには分からなかった。

 でも、もしまた誰かが来たら。

 

 お茶くらいは出そう。

 

 そう思って、少年は家の中へ戻った。

 





外伝「楠タクヤ少年の宇宙旅行記」を読んでいただき、ありがとうございました。

今回は、楠タクヤという人物の原点を描く話でした。

本編では、リオナにおじさん構文を送り、萌亜に師匠認定され、選定機関から全宇宙接触禁止個体として扱われているタクヤ。

彼は強大な戦闘力を持っているわけではありません。
神でも、外宇宙存在でも、終末兵器でもありません。

少なくとも本人の認識では、ただの人間です。
ですが、彼の恐ろしさはそこではありません。

タクヤは、相手を攻撃しません。

脅しません。
支配しません。

ただ、困っている相手にお茶を出し、話を聞き、「休んでいい」と言います。

それだけで、外宇宙の末端観測員たちは自分たちの労働環境に疑問を持ち始め、上級管理官まで休息の必要性を認識し、やがて外宇宙全体に小さな変化が広がっていきます。

選定機関にとって、これは非常に危険です。
なぜなら、選定機関は分類し、測定し、管理する存在だからです。

しかしタクヤと接触した者たちは、分類から少しずつ外れていきます。

任務より自分の疲れに気づく。
組織より誰かとの茶会を大事にする。
命令より、自分の意思で休む場所を選ぶ。

それは、選定機関から見れば一種の汚染です。
けれど、人間側から見れば、それは救いでもあります。

この外伝で起きた宇宙船の小さなお茶会は、後にさまざまな出来事の遠因になります。

外宇宙交流。
過去・現在・未来の人材保護。
超科学機関の設立。
選定個体の引き抜き疑惑。

そして、全宇宙茶会戦争。

とんでもないことが並んでいますが、始まりは本当に小さなものでした。

牛を探していた少年が、宇宙船に乗せられ、疲れた宇宙人にお茶を出した。

それだけです。

でも、この作品では、そういう小さな行動が宇宙を変えていきます。

萌亜とリオナの「最初のいいね」がそうだったように。
瑠々にとっての「おはよう」がそうだったように。

タクヤにとっては、「まず休もう」が宇宙を動かす言葉だったのかもしれません。

今後、本編でエルドラド編が進む中で、タクヤはさらに重要な存在になっていきます。

彼が何を知っているのか。
どこまで準備していたのか。
なぜリオナと萌亜を見守っているのか。

そして、上位選定個体エクスキューショナーとの関係は何なのか。

そのあたりも、少しずつ明かされていく予定です。

それではまた本編で。

全宇宙接触禁止個体の原点は、だいたいお茶と牛でした。
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