アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜   作:池ポチャ

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第26話です。

ここから、アヴァロン第二試練に入ります。

第25話では、萌亜の中の恐怖の王を「眠らせる」誘惑がありました。

そこでリオナと萌亜が出した答えは、霧の寝台に閉じ込めるのではなく、帰れる場所で一緒に休むこと。

眠りそのものを否定せず、隔離を拒む。

それがアヴァロン第一応答でした。

今回から始まる第二試練のテーマは、逃避と置き去りです。

逃げることは、悪ではありません。

危険から離れること。

休むために距離を取ること。

無理をしないこと。

それは生きるために必要な選択です。

しかし、アヴァロンの霧はそこに問いを突きつけます。

逃げた先に、自分だけが助かる未来があったら。

相手を守るために、自分がいなくなる道があったら。

大切な人を巻き込まないために、手を離すことが正しいように見えたら。

それでも、二人は一緒に戻る道を選べるのか。

今回は、第2試練三部構成の第一幕です。

リオナには、萌亜と出会わなかった普通の未来。

萌亜には、リオナを危険に巻き込まないまま、自分だけが霧の奥へ消える未来。

どちらも優しい顔をしています。

だからこそ、残酷です。



霧の分岐路

その逃げ道は、誰を置いていくのか

 

 

 アヴァロン第一応答から、二日が経った。

 

 萌亜は、相変わらず姫咲家の布団を気に入っていた。

 

「リオナっち、この布団、もしかしてチョベリグ級神器?」

 

「普通の布団」

 

「でも、霧の寝台より強い」

 

「それは分かる」

 

「朝起きた時に、ちゃんとここに戻ってる感がすごい」

 

 萌亜は布団の端を両手で握りながら、真剣な顔で言った。

 

 リオナはその様子に少し笑った。

 

 だが、その笑いは長く続かなかった。

 

 萌亜の中の恐怖の王。

 

 アヴァロンの霧の寝台。

 

 選定機関の未同意隔離。

 

 それらは退いた。

 

 けれど、終わってはいない。

 

 エックスから届いた分析では、アヴァロンは三段階の応答を求めている可能性が高いとされていた。

 

 一つ目は、眠りと隔離。

 

 二つ目は、逃避と置き去り。

 

 三つ目は、王の目覚めと選択。

 

 そのうち、次に来るのは逃避と置き去り。

 

 リオナは、その言葉を何度も頭の中で反芻していた。

 

 逃げること。

 

 置いていくこと。

 

 それは、リオナにとっても萌亜にとっても、嫌なほど刺さる言葉だった。

 

 リオナは、萌亜を守りたい。

 

 でも、守りたいからこそ、萌亜に無理をさせたくない。

 

 萌亜は、リオナを守りたい。

 

 でも、守りたいからこそ、自分から離れようとするかもしれない。

 

 その善意が、霧に利用される。

 

 そう分かっていても、怖さは消えなかった。

 

 朝食の席で、エリは二人をじっと見ていた。

 

「今日、行くのね」

 

 リオナは箸を止めた。

 

「うん」

 

 萌亜も静かに頷く。

 

「行きます」

 

 エリは、少しだけ息を吐いた。

 

 止めたい。

 

 その感情は見えた。

 

 けれど、エリは止めなかった。

 

「帰ってくる場所は?」

 

 リオナは即答した。

 

「ここ」

 

 萌亜も答える。

 

「ここです」

 

「よろしい」

 

 エリは二人の前に、小さな包みを置いた。

 

 前回より少し大きい。

 

 中には、ハンカチ、チョコ、塩飴、小さなメモが入っていた。

 

 メモには、エリの字でこう書かれている。

 

『逃げるなら、戻る場所を決めてから』

 

 萌亜は、そのメモを両手で持って見つめた。

 

「エリさん……」

 

「お守りよ。特別な力はないけど」

 

 リオナは首を横に振った。

 

「あるよ」

 

 エリは少し笑った。

 

「そう?」

 

「うん。かなり」

 

 萌亜も頷いた。

 

「家庭由来安定因子です」

 

「エックスさんみたいな言い方になってるわよ」

 

「影響されました」

 

 エリは小さく笑い、それから真剣な声になった。

 

「リオナ、萌亜ちゃん」

 

「うん」

 

「はい」

 

「逃げていいのよ」

 

 その言葉に、二人は少し驚いた。

 

 エリは続ける。

 

「怖い時、危ない時、無理だと思った時、逃げていい。踏みとどまることだけが強さじゃない」

 

 リオナは黙って聞いた。

 

「でも」

 

 エリは、二人の目を見た。

 

「逃げる時は、誰かを置き去りにしていい理由を作らないこと」

 

 萌亜の肩が震える。

 

「理由……」

 

「相手のため。世界のため。自分がいない方がいいから。そういう言葉は、たぶん一番危ない」

 

 リオナは胸を押さえた。

 

 エリの言葉は、今から向かう試練を知っているかのようだった。

 

「だから、迷ったら声を出しなさい。相手に聞こえなくても、呼びなさい」

 

「呼ぶ……」

 

「呼ぶって、相手を縛ることじゃないわ。ここにいるって知らせることだから」

 

 リオナは頷いた。

 

「うん」

 

 萌亜も、少し震えながら頷いた。

 

「はい」

 

 エリは二人の頭を順番に軽く撫でた。

 

「行ってらっしゃい」

 

「行ってきます」

 

「行ってきます!」

 

     *

 

 湖畔には、前回より濃い霧が出ていた。

 

 山間湖の水面は、真っ白に覆われている。

 

 桟橋の先はすでに見えない。

 

 そこから先が現実なのか、アヴァロンなのか、判別できないほどだった。

 

 タクヤとエックスは、先に到着していた。

 

 黒瀬カナメとゼルヴァードも同行している。

 

 今回は、前回より警戒が厚い。

 

 それだけ、次の試練が危険だということだった。

 

 カナメはリオナと萌亜を見るなり、短く言った。

 

「無理だと思ったら即撤退」

 

 リオナは頷く。

 

「はい」

 

 ゼルヴァードは霧を睨んでいた。

 

「この霧、前回より性質が悪い」

 

「どう悪いの?」

 

 萌亜が聞く。

 

「逃走経路が多すぎる」

 

「逃走経路?」

 

 ゼルヴァードは端末を見せた。

 

 霧の中に、無数の線が映っている。

 

 どれも出口のように見える。

 

 だが、その先がどこへ繋がっているか分からない。

 

「アヴァロンは本来、危険から対象をずらす防衛網だ。だが、選定機関が混ざると、ずらした先を隔離や分断へ誘導できる」

 

 エックスが続ける。

 

「第二試練は、逃避と置き去りです。霧は二人に、別々の逃げ道を提示する可能性が高い」

 

 萌亜の手が少し震えた。

 

 リオナはその手を握る。

 

 エックスは二人の手首に、前回と同じ接続補助紐を結んだ。

 

 そこには、エリのハンカチの切れ端が小さく結びつけられている。

 

「紐は強化しています。ただし、第二試練では物理的接続だけでなく、認識そのものが分断される可能性があります」

 

「認識……」

 

「相手のことを忘れる。相手が最初からいなかったように見える。相手のために離れることが正しいと感じる。そうした干渉が想定されます」

 

 リオナの胸が冷える。

 

 萌亜がいなかったことになる。

 

 萌亜と出会わなかった世界。

 

 それは、頭で想像するだけでも嫌だった。

 

 タクヤが、静かに口を開いた。

 

「二人とも」

 

「はい」

 

「うん」

 

「逃げ道が見えた時、その道が本当に誰かを助けるのか、それとも誰かを置いていくのか、すぐには分からないかもしれない」

 

 二人は黙って聞く。

 

「だから、決める前に呼んで」

 

 タクヤは、エリと同じことを言った。

 

「聞こえなくても、呼んで。相手を呼ぶこと、自分がここにいるって言うこと。それが、霧の中では目印になる」

 

 萌亜は小さく言った。

 

「師匠」

 

「何?」

 

「もし、萌亜がリオナっちのために逃げた方がいいって思ったら?」

 

 タクヤは、少しだけ悲しそうに微笑んだ。

 

「その時は、まずリオナちゃんに聞いて」

 

「でも、危ないって分かってたら?」

 

「それでも」

 

 タクヤの声は穏やかだった。

 

「相手のために決める時ほど、相手に聞かないといけない」

 

 萌亜は唇を噛んだ。

 

「難しい」

 

「うん。難しい」

 

 カナメが言う。

 

「難しいなら、なおさら勝手に決めるな」

 

 ゼルヴァードも腕を組んで言った。

 

「自分が消えれば相手が幸福になる、などという考えはたいてい傲慢だ」

 

 萌亜が少し驚いた顔で見る。

 

「ゼル……」

 

「経験則だ」

 

 エックスが静かに頷く。

 

「判断保留を使ってください。すぐ決めなくていい。選定機関が最も嫌う時間です」

 

 リオナは深く息を吸った。

 

「判断保留」

 

 萌亜も言う。

 

「判断保留」

 

 霧の中で、それはお守りの言葉になる気がした。

 

 桟橋の先に、小舟が現れる。

 

 前回と同じように、船頭はいない。

 

 だが今回は、小舟が二艘あった。

 

 リオナと萌亜は顔を見合わせる。

 

 エックスの表情が硬くなる。

 

「最初から分断する気です」

 

 リオナは即座に言った。

 

「同じ舟に乗る」

 

 しかし、霧の中から声がした。

 

『逃げ道は、一人ずつ選ぶもの』

 

 萌亜の顔が強張る。

 

 リオナは霧を睨む。

 

「勝手に決めないで」

 

『共にいるから、逃げられない』

 

『手を繋ぐから、沈む』

 

『相手を守るなら、道を分けよ』

 

 タクヤが低く言う。

 

「もう始まってる」

 

 カナメが一歩前へ出た。

 

「撤退するか」

 

 リオナは萌亜を見る。

 

 萌亜もリオナを見る。

 

 怖い。

 

 でも、ここで戻っても、霧はまた呼ぶ。

 

 逃げ道を見せ続ける。

 

 なら、向き合うしかない。

 

「行く」

 

 リオナが言った。

 

「でも、別々の舟に乗っても、手は離さない」

 

 萌亜が頷く。

 

「紐、繋いだまま」

 

 エックスは紐を確認した。

 

「物理的には可能です。ただし、霧の中で引き伸ばされる可能性があります」

 

「それでも」

 

 リオナは言った。

 

「繋いだまま行く」

 

 タクヤは頷いた。

 

「行ってらっしゃい」

 

 萌亜が震える声で言った。

 

「行ってきます」

 

 二人は、それぞれ別の小舟に乗った。

 

 手首を繋ぐ白金の紐が、二艘の舟の間で光っている。

 

 小舟は同時に桟橋を離れた。

 

 霧が、二人を飲み込んだ。

 

     *

 

 最初にリオナが見たのは、学校だった。

 

 霧が晴れたと思った瞬間、彼女は教室の自分の席に座っていた。

 

 昼休み。

 

 窓から明るい光が差し込んでいる。

 

 クラスメイトたちは楽しそうに話している。

 

 誰かが新作コスメの話をしている。

 

 誰かが動画投稿の話で盛り上がっている。

 

 スマホには通知が並んでいた。

 

 いつもの日常。

 

 普通の高校生活。

 

 だが。

 

 萌亜がいない。

 

 隣の席にも、廊下にも、窓際にも、どこにもいない。

 

 リオナは立ち上がった。

 

「萌亜?」

 

 誰も反応しない。

 

 クラスメイトの一人が首を傾げる。

 

「リオナ、どうしたの?」

 

「萌亜は?」

 

「もあ?」

 

「安藤萌亜」

 

「誰?」

 

 心臓が、嫌な音を立てた。

 

 リオナはスマホを開く。

 

 トーク履歴を探す。

 

 萌亜の名前がない。

 

 写真フォルダを開く。

 

 クレープを食べて笑う萌亜の写真がない。

 

 シャンバラ後のメッセージも、エルドラド後の「明日も握る」も、全部ない。

 

 SNSを見る。

 

 リオナのアカウントは順調だった。

 

 フォロワーは増えている。

 

 案件も来ている。

 

 友人との写真もある。

 

 笑っている自分がいる。

 

 でも、萌亜だけがいない。

 

 教室の黒板に、白い霧の文字が浮かんだ。

 

『逃避候補一』

 

『安藤萌亜と出会わなかった日常』

 

『選定機関干渉、未発生』

 

『竜宮城、シャンバラ、エルドラド、アヴァロン、未接続』

 

『姫咲リオナ、一般高校生として継続』

 

 リオナは息を呑む。

 

 その瞬間、世界が滑らかに動き出した。

 

 友達が笑う。

 

 先生が来る。

 

 授業が始まる。

 

 放課後にはカフェへ行く予定がある。

 

 母からは普通のメッセージが届く。

 

『夕飯いる?』

 

 叔父からも、ただののんびりしたメッセージが来ている。

 

『リオナちゃん、元気? 今度お茶しようネ☕』

 

 GTGも、選定機関も、茶葉缶もない。

 

 叔父は少し変なおじさんで、宇宙規模の危険因子ではない。

 

 母は娘を心配しているが、世界の危機とは無関係。

 

 リオナは普通に笑い、普通に怒り、普通に将来を考える。

 

 何も壊れていない。

 

 何も失っていない。

 

 ただ、萌亜だけが最初からいない。

 

「……最悪」

 

 リオナは呟いた。

 

 霧の声が、優しく響く。

 

『これは失った未来ではない』

 

『最初から背負わなかった未来』

 

『あなたは危険に巻き込まれない』

 

『母も泣かない』

 

『叔父も無理をしない』

 

『世界も恐怖の王を知らない』

 

『あなたは普通に生きられる』

 

 リオナは机を握りしめた。

 

 胸の奥が揺れる。

 

 これは、卑怯だ。

 

 萌亜が苦しむ姿を見せるのではない。

 

 萌亜が消える瞬間を見せるのでもない。

 

 ただ、最初からいなかったことにする。

 

 それなら、誰も泣かない。

 

 誰も別れを知らない。

 

 誰も置いていかれない。

 

 リオナだけが、違和感を抱えている。

 

 霧は続ける。

 

『彼女と出会わなければ、あなたは傷つかない』

 

『彼女も、あなたを巻き込まない』

 

『これは優しい逃避』

 

『誰も失わない道』

 

 リオナは、怒りで手が震えた。

 

「萌亜がいない時点で、失ってる」

 

『記憶を消せば、喪失も消える』

 

「それは救いじゃない」

 

『苦痛は消える』

 

「萌亜も消える」

 

 教室の窓に、萌亜の影が一瞬映った。

 

 リオナは振り返る。

 

 いない。

 

 ただ、霧だけが窓の外に漂っている。

 

『今なら戻れる』

 

『彼女と出会う前へ』

 

『あなたは、普通の幸福を選べる』

 

 リオナは、手首を見る。

 

 接続補助紐がある。

 

 だが、その先は霧の中へ消えている。

 

 細く、頼りない光。

 

 それを見た瞬間、リオナは呼んだ。

 

「萌亜!」

 

 教室の音が止まる。

 

 クラスメイトたちの笑顔が固まる。

 

 霧が濃くなる。

 

『呼ばなければ、楽になれる』

 

「萌亜!」

 

『呼べば、また苦しみへ戻る』

 

「萌亜、聞こえる!?」

 

 返事はない。

 

 紐だけが、かすかに震えた。

 

 リオナは、それを握りしめる。

 

「私は普通に戻りたいんじゃない」

 

 霧が揺れる。

 

「萌亜がいる未来に帰りたい」

 

 教室の壁に亀裂が入る。

 

 普通の高校生活が、霧に溶け始める。

 

 しかし、完全には崩れない。

 

 霧はなおも囁く。

 

『では、彼女があなたのために離れると言ったら?』

 

 リオナの息が止まる。

 

『彼女が、あなたを巻き込まないために霧の奥へ進むなら』

 

『あなたはそれを否定できるか』

 

 リオナは答えようとした。

 

 だが、その瞬間、教室が白く弾けた。

 

     *

 

 萌亜が見たのは、リオナの家だった。

 

 エリの家。

 

 昨日泊まった部屋。

 

 布団。

 

 クレープの匂い。

 

 リオナの笑い声。

 

 だが、萌亜はそこにいなかった。

 

 彼女は窓の外に立っていた。

 

 霧の向こうから、家の中を見ている。

 

 中にはリオナがいた。

 

 エリと話している。

 

 普通に笑っている。

 

 少し疲れてはいるが、昨日より穏やかだ。

 

 テーブルにはクレープがある。

 

 エリが言う。

 

『最近、少し落ち着いた顔になったわね』

 

 リオナが笑う。

 

『そう?』

 

『ええ。前より、無理しすぎなくなった』

 

 萌亜は窓の外で、息を止めた。

 

 そのリオナは、元気そうだった。

 

 幸せそうだった。

 

 萌亜がいないのに。

 

 いや、萌亜がいないから。

 

 霧の文字が浮かぶ。

 

『逃避候補二』

 

『安藤萌亜、接続因子から自発的離脱』

 

『姫咲リオナ、危険接続から解放』

 

『母系家族因子、安定』

 

『選定機関の標的集中を回避』

 

『リオナの生存率、上昇』

 

 萌亜の胸が、ぎゅっと痛んだ。

 

「やめて……」

 

 霧は優しく囁く。

 

『あなたが離れれば、彼女は安全になる』

 

『あなたがいなければ、彼女は泣かない』

 

『あなたが遠くへ行けば、彼女は普通に戻れる』

 

 萌亜は窓に手を伸ばす。

 

 だが、触れられない。

 

 ガラスの向こうで、リオナは笑っている。

 

 萌亜のことを探していない。

 

 泣いていない。

 

 傷ついていない。

 

 それが、あまりにも残酷だった。

 

「リオナっち……」

 

 リオナには聞こえない。

 

 エリにも聞こえない。

 

 萌亜だけが、霧の外にいる。

 

 霧の声は続く。

 

『あなたは恐怖の王』

 

『あなたは選定機関の標的』

 

『あなたは周囲を巻き込む』

 

『大切なら、離れよ』

 

 萌亜は耳を塞ぎたかった。

 

 でも、心の奥では分かっていた。

 

 これは、ずっと考えていたことだ。

 

 萌亜がいなければ、リオナは危険に巻き込まれなかった。

 

 竜宮城にも、シャンバラにも、エルドラドにも、アヴァロンにも行かなくてよかった。

 

 老いたリオナが病室で萌亜に「生きて」と言う未来も、見なくてよかった。

 

 未来の子どもに火種を残す重さも、背負わなくてよかった。

 

 リオナは、ただリオナとして生きられた。

 

 萌亜の中で、声がする。

 

 これはリオナのため。

 

 リオナを守るため。

 

 萌亜が一人で遠くへ行けばいい。

 

 それは、前からあった考えだ。

 

 でも、見ないようにしていた。

 

 霧は、それを優しく形にして見せてくる。

 

 家の中のリオナが、ふと窓の方を見た。

 

 萌亜は息を呑む。

 

 目が合った気がした。

 

 しかし、リオナは何も見えていないように首を傾げ、またエリの方へ戻る。

 

 萌亜の目から涙がこぼれた。

 

「見えてない……」

 

『見えない方が幸せ』

 

 霧の声。

 

『思い出さない方が楽』

 

『あなたを知らなければ、彼女は傷つかない』

 

 萌亜は震えた。

 

 手首を見る。

 

 白金の紐が伸びている。

 

 その先は霧の中。

 

 リオナへ繋がっているはず。

 

 でも、この未来の中では、紐は邪魔なもののように見えた。

 

 萌亜がいなければ、リオナは安全。

 

 萌亜が離れれば、リオナは普通に戻れる。

 

 だったら。

 

 萌亜は、紐に手をかけた。

 

 切るのではない。

 

 ほどくだけ。

 

 自分から離れるだけ。

 

 リオナのために。

 

 その時、遠くから声がした。

 

『萌亜!』

 

 小さな声。

 

 霧にほとんど消されている。

 

 でも、確かにリオナの声。

 

 萌亜の手が止まった。

 

「リオナっち……?」

 

 霧が濃くなる。

 

『呼び声は未練』

 

『応じれば、彼女はまた危険に戻る』

 

『離れよ』

 

 萌亜の中で、迷いが揺れる。

 

 リオナが呼んでいる。

 

 でも、応じたらリオナはまた危険になる。

 

 なら、応じない方が優しいのか。

 

 萌亜は泣きながら首を振った。

 

「分かんない……」

 

『分からないなら、離れよ』

 

『距離は安全を生む』

 

『霧はあなたを隠す』

 

『彼女はあなたを忘れ、幸福になる』

 

 萌亜の足元に、白い道が現れた。

 

 家から遠ざかる道。

 

 霧の奥へ続く道。

 

 その先には、誰もいない。

 

 でも、リオナもいない。

 

 選定機関の白い線も見えない。

 

 ただ、静かな霧が続いている。

 

 萌亜は、窓の中のリオナをもう一度見た。

 

 笑っている。

 

 安全そうに見える。

 

 萌亜がいなくても、生きていけそうに見える。

 

 萌亜は、泣きながら微笑んだ。

 

「それなら……いいのかな」

 

 手首の紐が震える。

 

 リオナの声が、また届く。

 

『萌亜、聞こえる!?』

 

 萌亜は、口を開いた。

 

 返事をしようとした。

 

 でも、霧の声が先に囁いた。

 

『返事をすれば、彼女は追ってくる』

 

『追えば、彼女も壊れる』

 

 萌亜の喉が閉じた。

 

 リオナは追ってくる。

 

 絶対に。

 

 自分が呼べば、どれだけ危険でも来る。

 

 だから。

 

 萌亜は、返事をしなかった。

 

 代わりに、白い道へ足を踏み出した。

 

     *

 

 リオナは、教室の中で紐を握っていた。

 

 萌亜の返事はない。

 

 さっき一瞬、震えた。

 

 確かに届いたはずだった。

 

 なのに、返ってこない。

 

 霧が、教室を包む。

 

 クラスメイトたちは、もう霧の人形のようにぼやけている。

 

 黒板には新しい文字が浮かんでいた。

 

『安藤萌亜、自発的離脱を開始』

 

 リオナの血の気が引く。

 

「萌亜が?」

 

『彼女はあなたを守るため、霧の奥へ進む』

 

『追わなければ、あなたは安全』

 

『追えば、あなたも壊れる』

 

 リオナの手が震えた。

 

 萌亜が自分から離れようとしている。

 

 リオナを守るために。

 

 それは、あまりにも萌亜らしい。

 

 だからこそ、怖い。

 

 リオナは走り出そうとした。

 

 しかし、教室の扉が開かない。

 

 窓も開かない。

 

 机が、椅子が、見えない壁のように道を塞ぐ。

 

 霧の声が囁く。

 

『彼女の選択を尊重せよ』

 

『彼女はあなたのために離れる』

 

『それを止めるのは、あなたのわがまま』

 

 リオナは歯を食いしばった。

 

「そうかもね」

 

 霧が一瞬止まる。

 

「でも、萌亜は私に聞いてない」

 

 手首の紐を握りしめる。

 

「相手のために決める時ほど、相手に聞く。そう言われたばっかりなんだよ」

 

 タクヤの言葉。

 

 エリの言葉。

 

 エックスの判断保留。

 

 カナメの勝手に決めるな。

 

 ゼルヴァードの傲慢。

 

 全部が、リオナの中で繋がる。

 

 リオナは叫んだ。

 

「萌亜!」

 

 声は教室の壁を震わせた。

 

「勝手にリオナの幸せ決めないで!」

 

 窓ガラスが割れた。

 

 霧が流れ込む。

 

 リオナは、その窓から外へ飛び出した。

 

 普通なら落ちる。

 

 だが、足元に霧の道が生まれた。

 

 白い道。

 

 その先に、細い紐が伸びている。

 

 リオナは走った。

 

 途中で、霧がいくつもの景色を見せる。

 

 萌亜がいない学校。

 

 萌亜がいない配信。

 

 萌亜がいない将来。

 

 母と笑うリオナ。

 

 叔父とお茶を飲むリオナ。

 

 普通に幸せそうなリオナ。

 

 そのたびに、霧が囁く。

 

『これも幸福』

 

『彼女を追わなければ得られる』

 

『あなたは戻れる』

 

 リオナは走りながら答えた。

 

「戻りたい場所は、そこじゃない」

 

 息が切れる。

 

 足が重い。

 

 霧が絡みつく。

 

 それでも走る。

 

「萌亜がいるところに戻る!」

 

     *

 

 萌亜は白い道を歩いていた。

 

 後ろを振り返らないようにしていた。

 

 振り返ったら、戻りたくなるから。

 

 リオナの声を聞いたら、返事をしたくなるから。

 

 だから、ただ前へ進んだ。

 

 霧の奥に、小さな門が見える。

 

 そこを越えれば、リオナとの接続は薄くなる。

 

 選定機関の標的は萌亜へ集中する。

 

 でも、リオナは安全になる。

 

 そう霧は言った。

 

 萌亜は、それを信じようとしていた。

 

「リオナっちのため……」

 

 声に出す。

 

 そうしないと、足が止まりそうだった。

 

「リオナっちのため」

 

 でも、言うたびに胸が痛い。

 

 リオナの声が聞こえない。

 

 それが、こんなにも怖い。

 

 霧の声は優しい。

 

『あなたは正しい』

 

『大切な人を守るための逃避』

 

『美しい選択』

 

『自己犠牲ではなく、保護』

 

 萌亜は足を止めた。

 

「ほんとに?」

 

『ええ』

 

「リオナっち、泣かない?」

 

『やがて忘れる』

 

 萌亜の顔が歪む。

 

「忘れるのは、泣かないのと同じ?」

 

 霧は少し黙った。

 

 萌亜は、自分の胸を押さえる。

 

 エルドラドで見た未来。

 

 リオナを保存核にしないと決めた時。

 

 リオナが言ってくれた。

 

 忘れなくてもいい。

 

 新しい誰かと会ってもいい。

 

 でも、自分だけに閉じこもらなくていい。

 

 あれは、忘れろという意味ではなかった。

 

 萌亜は唇を噛む。

 

「リオナっちが萌亜を忘れるの、やだ」

 

『ならば戻るか』

 

 霧の声が少し冷たくなる。

 

『戻れば、彼女は危険に巻き込まれる』

 

『彼女が老いる未来も、泣く未来も、再び発生する』

 

『あなたが原因となる』

 

 萌亜の肩が震える。

 

 進めない。

 

 戻れない。

 

 どちらも苦しい。

 

 門はすぐそこ。

 

 その向こうは、静かだ。

 

 誰もいない。

 

 誰も傷つかないかもしれない。

 

 でも、誰もいない。

 

 萌亜は泣きながら、手首の紐を見た。

 

 紐はまだ繋がっている。

 

 細く、震えている。

 

 リオナはきっと、まだ呼んでいる。

 

 でも、返事をしたら追ってくる。

 

 だから萌亜は、口を閉じた。

 

 門へ、もう一歩踏み出す。

 

     *

 

 リオナは、霧の中を走っていた。

 

 しかし、萌亜の声が消えていく。

 

 紐の光も薄い。

 

 届かない。

 

 呼んでも、返事がない。

 

「萌亜!」

 

 叫ぶ。

 

 霧が吸う。

 

「萌亜、返事して!」

 

 声が返らない。

 

 足元の道が分岐する。

 

 右へ行けば、萌亜の気配。

 

 左へ行けば、岸へ戻る道。

 

 左の道には、エリの家が見える。

 

 母が立っている。

 

 布団がある。

 

 温かいご飯がある。

 

 安全な場所。

 

 右の道は暗い。

 

 霧が濃い。

 

 選定機関の白い線が混じっている。

 

 霧の声が囁く。

 

『追えば壊れる』

 

『戻れば生きられる』

 

『彼女の選択を無駄にするな』

 

 リオナは、右へ足を向けた。

 

 その瞬間、足元が崩れた。

 

 霧の道が消える。

 

 白い虚空。

 

 リオナは落ちかける。

 

 接続補助紐を掴む。

 

 だが、紐の先が急に軽くなった。

 

 まるで、向こう側から力が抜けたように。

 

「萌亜……?」

 

 返事はない。

 

 今まで、どれだけ小さくても感じていた萌亜の気配が、遠ざかっていく。

 

 リオナは叫んだ。

 

「萌亜!!」

 

 霧は、何も返さなかった。

 

 白い世界に、ただ一文だけが浮かぶ。

 

『安藤萌亜、離脱門へ到達』

 

 リオナの息が止まる。

 

 紐の光が、さらに薄くなる。

 

 手の中で、エリのハンカチの切れ端だけがかすかに揺れている。

 

 リオナは、震える声で呟いた。

 

「嫌だ」

 

 霧は優しく言った。

 

『彼女の選択です』

 

 リオナは、涙をこぼしながら叫んだ。

 

「まだ、私に聞いてない!」

 

 その声は、霧に飲み込まれた。

 

 そして。

 

 萌亜の声が、完全に聞こえなくなった。

 

     *

 

 湖畔。

 

 タクヤは、水面を見つめたまま表情を強張らせた。

 

 エックスが端末を操作する。

 

「接続補助紐、反応低下」

 

 カナメが即座に前へ出る。

 

「介入する」

 

 ゼルヴァードが腕を掴んだ。

 

「待て。今飛び込めば、お前も分断される」

 

「放っておけと?」

 

「そうは言っていない」

 

 エックスの声が鋭くなる。

 

「萌亜が離脱門へ誘導されています。リオナは追跡中ですが、声が届いていません」

 

 タクヤは静かに目を閉じた。

 

「第二試練の本体だね」

 

 湖の霧が、さらに濃くなる。

 

 茶葉缶が光る。

 

 遠く、どこかの牧場から、もー、という声がした。

 

 だが、今回は霧がその声すら飲み込もうとしている。

 

 エックスの瞳に、白い光が宿る。

 

「選定機関の干渉が強い。置き去り記憶を使用しています」

 

 タクヤは、低く言った。

 

「次は、外から支える番だ」

 

 霧の向こうで、リオナと萌亜は分かたれた。

 

 逃避と置き去り。

 

 その試練は、まだ始まったばかりだった。

 





第26話を読んでいただき、ありがとうございました。

今回から、アヴァロン第二試練「逃避と置き去り」に入りました。

第2試練は三話構成です。

今回はその第一幕になります。

アヴァロンの霧が二人に見せたのは、それぞれにとって非常に優しい顔をした逃げ道でした。

リオナには、萌亜と出会わなかった普通の高校生活。

選定機関も、神話防衛網も、GTGもなく、母も叔父も危険に巻き込まれない日常。

一見すると平和です。

しかし、その未来には萌亜がいません。

失ったのではなく、最初から出会っていない。

だからこそ、痛みすら消せる。

それが霧の誘惑でした。

萌亜には、リオナから自分が離れた後の世界が提示されました。

リオナは安全そうに見える。

エリの家で笑っている。

普通に生きている。

それを見て、萌亜は「自分がいない方がリオナは幸せなのではないか」と考えてしまいます。

これは、萌亜がずっと抱えていた罪悪感に近いものです。

自分が恐怖の王だから。

自分が選定機関に狙われるから。

自分のせいでリオナが危険に巻き込まれるから。

だから、自分から離れる方がリオナのためなのではないか。

霧は、その善意を利用しました。

今回のポイントは、どちらも悪意だけではないことです。

逃げること自体は悪ではありません。

危険から離れることは必要です。

しかし、相手に聞かず、相手の幸せを勝手に決めて離れることは、置き去りになります。

タクヤの言葉にもあったように、「相手のために決める時ほど、相手に聞く」必要があります。

今回、リオナはそれを理解していました。

しかし、萌亜はリオナを守りたい気持ちから、返事をしないまま霧の奥へ進んでしまいました。

これが第二試練の厳しいところです。

萌亜の選択は完全に間違っているわけではありません。

リオナを守りたいという気持ちは本物です。

だからこそ、簡単には否定できない。

でも、その優しさはリオナを置いていく形になってしまう。

次回、第27話では、リオナと萌亜がさらに深く「置いていかれた側」の痛みを見ることになります。

ここからは、二人だけの絆ではなく、周囲との絆も試されます。

エリの声。

タクヤの茶会。

エックスの判断保留。

カナメやゼルヴァードの経験。

モー子の牛倫理協定。

これまで積み重ねてきたものが、霧の中でどこまで届くのか。

アヴァロン第二試練は、ここからさらに厳しくなります。

それではまた次回。

優しい逃げ道ほど、置いていく相手を見失うなら悪くないとは言えない。
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