アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
第32話です。
アヴァロン編が終わり、今回からムー編へ入ります。
竜宮城は、深層と記憶。
シャンバラは、夢と精神。
エルドラドは、物質と太陽炉。
アヴァロンは、因果と位相。
そして次に現れるのは、失われた大陸ムー。
それはただの海底遺跡ではありません。
地球そのものの古い記憶。
かつて選定機関の観測を受け、それでも滅びながら何かを残した文明。
萌亜たちは、ムーの呼び声を受け取ります。
ですが、アヴァロンで得た「ヨル」はまだ安定しきっていません。
怖い夜に名前を与えたばかりの萌亜。
その隣で支えるリオナ。
そして、地球側の古層に眠る防衛機構。
ムー編、開幕です。
失われた大陸の青い声
アヴァロンが閉じてから、三日が経った。
姫咲リオナは、その三日間で改めて理解したことがある。
日常とは、思ったより忙しい。
朝起きる。
学校へ行く。
授業を受ける。
友達に「最近ちょっと疲れてない?」と聞かれる。
母から「帰りに牛乳買ってきて」とメッセージが来る。
萌亜が購買で新作クリームパンを見つけて大騒ぎする。
タクヤからおじさん構文すぎる近況連絡が届く。
エックスから「ヨルの孤独反応に変化はありますか」と、朝の挨拶のような真面目な確認が届く。
全部が普通ではない。
でも、普通の中に戻ってきた感じはあった。
放課後。
リオナと萌亜は、学校近くのクレープ屋の前にいた。
アヴァロン以降、萌亜は以前より少しだけ静かになった。
ただ、甘いものを前にした時の反応は変わらない。
「リオナっち、期間限定いちごチョコバナナカスタード生クリーム増量スペシャルって、名前長すぎて逆に信頼できない?」
「信頼基準どうなってるの」
「強そう」
「クレープに強さ求める?」
「求める。アヴァロンを越えた女なので」
「越えた女、糖分で威厳を失ってるよ」
萌亜は胸を張った。
「ヨルも甘い匂いは悪くないって言ってます」
リオナは、少しだけ表情を柔らかくした。
「分かるの?」
「うん。言葉っていうより、なんとなく」
萌亜は自分の胸元に手を当てる。
アヴァロンで名前を得た恐怖の王。
ヨル。
黒紫の霧の王冠。
それは普段、萌亜の奥で静かにしている。
消えたわけではない。
眠らされてもいない。
ただ、話せる場所にいる。
萌亜はそれをまだ怖がっている。
けれど、怖いと口にできるようになった。
それだけで、前とは違う。
「今、ヨルは?」
「起きてるけど、暴れてない」
「そっか」
「たぶん、クレープ待ち」
「順応早いな、王様」
萌亜は少し笑った。
その笑顔を見て、リオナも安心しかけた。
その時だった。
萌亜のスマホが震えた。
同時に、リオナのスマホも震える。
画面には、同じ差出人。
御門征十郎。
宮内庁直轄・超常現象対策課。
件名は、妙に硬かった。
『緊急確認依頼:太平洋海底より発生した青色信号について』
リオナと萌亜は顔を見合わせた。
「……クレープ、買ってからでいい?」
「たぶんダメ」
「チョベリバ公務……」
リオナはメッセージを開いた。
本文には、簡潔にこう書かれていた。
『本日未明、太平洋沖の深海観測網において、既知の自然現象および外宇宙通信形式に該当しない青色信号を検出。信号内に、安藤萌亜氏および姫咲リオナ氏の同期反応を確認。至急、国立国会図書館地下管理区域へ来られたし』
続いて、追伸。
『甘味の持ち込みは可。ただし資料室内で食うな。国家機密とクリームは相性が悪い』
萌亜は目を輝かせた。
「御門さん、萌亜のこと分かってきた」
「胃痛担当なのに気遣いが上手くなってる」
リオナは、すぐにタクヤへ連絡した。
返事は早かった。
『僕も確認してるよ。たぶん、次はムーだね』
その一文を見た瞬間、リオナの背筋が少し冷えた。
ムー。
失われた大陸。
海に沈んだ文明。
古代から続く、地球の記憶。
アヴァロンの最後に見えた青い光。
あれは、気のせいではなかった。
萌亜も画面を見て、静かに呟いた。
「ムー……」
その声に、胸の奥のヨルが小さく反応した。
怖がっているのではない。
警戒している。
夜の奥で、遠い海鳴りを聞いたような反応だった。
*
国立国会図書館地下管理区域。
そこは相変わらず、普通の図書館とはまるで違っていた。
長い地下通路。
外宇宙文字を遮断する白い防壁。
古文書保管用の結界。
政府職員たちの足音。
そして、明らかに胃が痛そうな御門征十郎。
「来たか。助かる」
御門は短く言った。
その顔色は悪い。
通常運転だった。
萌亜は心配そうに言う。
「御門さん、顔色チョベリバですけど大丈夫ですか」
「大丈夫ではない。だが、慣れた」
「慣れちゃダメなやつ」
リオナは周囲を見る。
今回は、タクヤ、エックス、カナメ、ゼルヴァードも来ていた。
エクスキューショナーは通信参加。
モー子は牧場から遠隔勤務。
瑠々はまだ来ていない。
けれど、どこかでこの流れを見ているような気配があった。
御門は会議室の中央に置かれた大型モニターを指す。
「これを見てくれ」
画面に映ったのは、深海の映像だった。
真っ暗な海。
光の届かない場所。
その底に、青く光る何かがある。
最初は岩かと思った。
だが、違う。
規則的な線。
石柱のような影。
円形の構造物。
半分砂に埋もれた巨大な門。
そして、その門の中央に、青い紋章が浮かんでいた。
リオナは息を呑んだ。
「遺跡……?」
ゼルヴァードが腕を組む。
「ただの遺跡ではない。外宇宙系の構造材ではないな」
エックスが端末を操作する。
「地球由来。ですが、現文明の既知技術ではありません」
タクヤは静かに映像を見ていた。
「古いね」
御門が頷く。
「推定年代が異常だ。調査班は最初、計測機器の故障を疑った」
「どのくらい古いんですか」
リオナが尋ねる。
御門は少し迷ってから答えた。
「少なくとも、現在の人類史の範囲外だ」
萌亜が小声で言う。
「人類史の範囲外……」
画面の青い紋章が、脈打つように光った。
その瞬間、萌亜の胸の奥でヨルが反応した。
黒紫の夜ではなく、深い青。
海の底から呼ばれているような感覚。
萌亜は胸を押さえた。
「これ、萌亜を呼んでる」
リオナがすぐに肩へ手を置く。
「大丈夫?」
「うん。怖いっていうより、懐かしい……?」
「懐かしい?」
萌亜自身も戸惑っていた。
知らないはずなのに。
行ったこともないはずなのに。
その青い光を見ていると、胸の奥が静かに震える。
ヨルも黙っている。
暴れない。
ただ、耳を澄ませている。
御門が別の資料を表示した。
「さらに問題がある。この信号には複数の層がある」
画面に解析波形が出る。
ひとつは青い波。
深く、ゆっくりとした波形。
もうひとつは白い波。
細く、鋭い線。
エックスの顔が険しくなる。
「選定機関の観測痕です」
会議室の空気が冷えた。
御門は頷く。
「ああ。今回の信号は、ムーと思われる海底遺跡から出ている。だが、その表面に選定機関由来と思われる白い観測痕が付着している」
カナメが低く言う。
「また連中か」
ゼルヴァードが映像を睨む。
「だが、これは最近のものだけではない」
エックスも頷いた。
「古い観測痕が混じっています。現在の選定機関本流の形式とは微妙に異なる」
リオナは眉を寄せた。
「つまり、昔にも選定機関がムーを見てたってこと?」
タクヤが静かに言う。
「たぶん、見ていた。もしかすると、ムーが沈んだ理由にも関わっている」
萌亜の表情が強張った。
「選定機関のせいで、ムーが滅んだ?」
タクヤはすぐには答えなかった。
「まだ分からない。でも、ムーは何かを知ってる」
青い紋章が、また光った。
その瞬間、会議室全体にノイズが走った。
モニターの音声が乱れ、低い音が響く。
それは言葉ではなかった。
だが、リオナと萌亜には意味が分かった。
『来るな』
萌亜が息を止める。
青い光は続ける。
『それでも』
『来るなら』
『記憶を持って来い』
リオナは、ゆっくりと画面を見つめた。
「記憶……」
御門が目を細める。
「今のは翻訳不能だった。君たちには意味が分かったのか」
萌亜が頷く。
「来るな。でも来るなら記憶を持って来い、って」
会議室が静かになる。
エックスが呟く。
「ムーは拒絶と招待を同時に行っています」
「ツンデレ古代文明?」
萌亜が言うと、御門がこめかみを押さえた。
「君はもう少し、国家機密というものを理解してくれ」
「でも、ちょっとそんな感じが」
タクヤが少し笑う。
「萌亜ちゃんらしいね」
リオナは考える。
来るな。
それでも来るなら、記憶を持って来い。
それはアヴァロンとは違う。
眠りでも、逃げ道でも、恐怖の王でもない。
次に試されるのは、記憶。
自分たちが何を覚えているのか。
何を忘れないのか。
そして、失われた文明の記憶をどう受け取るのか。
*
解析会議の途中、部屋の照明が一瞬落ちた。
非常灯が青く点く。
御門が即座に警備へ連絡する。
「地下管理区域で異常発生。確認しろ」
返答はノイズ混じりだった。
『……青い……水が……廊下に……』
「水だと?」
リオナが扉を見る。
扉の隙間から、青い光が漏れている。
水はない。
けれど、水音が聞こえる。
ざあ、と。
深海の底から波が押し寄せるような音。
エックスが険しい顔で言う。
「ムー信号が施設内へ投影されています。現実の水ではありません。記憶層の侵入です」
萌亜が立ち上がる。
「来るなって言ったのに、向こうから来た」
リオナは苦笑する余裕もなかった。
扉の向こうで、青い影が動く。
人影のようだった。
だが、人ではない。
水でできた輪郭。
古い装束。
額に青い石。
その影が、扉をすり抜けて会議室へ入ってきた。
御門が硬直する。
「防壁を抜けたか……」
青い人影は、誰も見ていなかった。
ただ、萌亜とリオナを見ていた。
そして、口を開く。
声は、水の底から聞こえた。
『記憶を持つ者』
『火を持つ者』
『霧を持つ者』
『夜に名を与えた者』
萌亜の背後に、淡く霧の王冠が浮かぶ。
ヨルが反応している。
青い人影は、少しだけその王冠を見た。
『恐怖を連れて来るな』
萌亜の顔が強張った。
リオナが一歩前へ出る。
「ヨルは萌亜の中にいます」
『ならば沈む』
「どういう意味?」
『ムーは恐怖で沈んだ』
会議室の空気が止まった。
青い人影は続ける。
『観測された』
『測られた』
『選ばれた』
『恐れられた』
『守ろうとして、閉じた』
『閉じて、沈んだ』
リオナの胸がざわついた。
ムーは選定機関に滅ぼされたのか。
それとも、自分たちで閉じたのか。
青い人影の言葉は曖昧だった。
だが、ひとつ分かる。
ムーは恐怖を知っている。
恐れた結果、沈んだ文明なのだ。
青い人影は、萌亜を指差した。
『夜を持つ者』
『沈むな』
萌亜は息を呑む。
「沈むな……」
『恐れて閉じるな』
『守るために記憶を捨てるな』
『痛みを忘れたものは、同じ海へ落ちる』
ヨルが、胸の奥で低く震えた。
その声を聞いている。
萌亜は自分の胸に手を当てた。
「ムーは、忘れたの?」
青い人影は答えない。
かわりに、会議室の床に青い円が広がった。
水面のような円。
その中に、映像が浮かぶ。
巨大な都市。
海の上に浮かぶ白い塔。
青い水路。
空を飛ぶ光の舟。
歌うように動く機械。
そして、空の上から降りてくる白い線。
選定機関の観測。
ムーの人々は空を見上げていた。
恐れていた。
怒っていた。
祈っていた。
そして、都市の中心に巨大な青い結晶が輝いた。
その結晶が、文明全体を包み込む。
外からの観測を遮断するために。
だが、その遮断は強すぎた。
白い塔も、水路も、人々の声も、全部が海の底へ沈んでいく。
リオナは呟いた。
「自分たちで沈めた……?」
青い人影は静かに言う。
『守るために』
『忘れるために』
『見られないために』
『選ばれないために』
萌亜の顔が青ざめる。
それは、アヴァロンで見た誘惑に似ていた。
危険から逃げる。
誰かを守る。
でも、閉じすぎて戻れなくなる。
忘れすぎて、何を守りたかったのかも分からなくなる。
ムーは、その結末なのだ。
青い人影は言った。
『問いは一つ』
『お前たちは、覚えていられるか』
リオナは聞き返す。
「何を?」
『滅びの理由を』
『守ろうとした名を』
『恐れて沈んだ心を』
『忘れたふりをした罪を』
青い人影の輪郭が揺れる。
『ムーに来るなら、記憶を捨てるな』
『綺麗な遺跡を見に来るな』
『宝を探しに来るな』
『沈んだ声を聞きに来い』
萌亜は、ゆっくり頷いた。
「聞く」
リオナも言った。
「忘れない」
青い人影は二人を見た。
『ならば、第一門を開く』
床の青い水面が広がる。
会議室の下に、深い海が見えた。
そこに、巨大な門がある。
ムーの門。
画面の中にあったものと同じ。
だが、今は目の前にあるように見える。
青い人影が最後に言った。
『ただし』
『夜を連れて来るなら』
『夜にも記憶を持たせよ』
萌亜は胸元に手を当てる。
「ヨルにも?」
『恐怖は記憶を食う』
『だが、記憶を守る恐怖もある』
その言葉に、ヨルが静かに反応した。
怖いから忘れたい。
でも、怖いから忘れてはいけない。
ムー編の問いが、そこにあった。
*
青い人影が消えると、会議室の照明が戻った。
床も乾いている。
水音も消えた。
しかし、全員がしばらく黙っていた。
御門が深く息を吐く。
「……報告書に何と書けというんだ」
ゼルヴァードが真顔で言う。
「青い古代文明の記憶体が現れ、第一門を開くと言った、と書けばいい」
「それを上に出す俺の身にもなれ」
カナメが淡々と言う。
「いつも通りだろう」
「いつも通りになっているのが問題だ」
萌亜は、まだ胸元に手を当てていた。
リオナが隣に立つ。
「ヨル、大丈夫?」
「うん。黙ってる。でも、聞いてた」
「怖がってる?」
「少し。でも、逃げてない」
「そっか」
タクヤが静かに言う。
「ムーは、アヴァロンの後に来るにはかなり意味があるね」
エックスが頷く。
「はい。アヴァロンは、逃げても戻ることを学ばせました。ムーは、守るために閉じた文明の記憶を見せています」
「閉じすぎた結果、沈んだ文明」
リオナが言うと、タクヤは頷いた。
「だから、次の防衛網は“閉じる力”をどう扱うかになる」
萌亜が顔を上げる。
「閉じる力……」
「外からの観測を遮る。文明を隠す。記憶を保存する。でも、閉じすぎれば孤立して沈む」
リオナは胸が重くなった。
選定機関に見られないために、ムーは自ら沈んだ。
それは間違いだったのか。
それとも、その時はそうするしかなかったのか。
今の自分たちに、簡単に断じることはできない。
ただ、その記憶を見なければならない。
萌亜は小さく言った。
「ムーに行くんだよね」
タクヤは頷く。
「うん。ただ、すぐ深海へ行くわけじゃない。まずは入口を探す」
御門が資料を切り替えた。
「青色信号は、現実の太平洋海底と、複数の記憶地点に接続している。日本国内にも反応点がある」
「国内?」
「ああ。ひとつは沖縄近海。もうひとつは、古い海神信仰が残る離島。そしてもうひとつが――」
御門は一瞬、妙な顔をした。
「なぜか、都内の水族館だ」
萌亜が目を輝かせた。
「水族館!」
リオナは思わず言う。
「急にデートっぽくなった」
御門は咳払いする。
「正式には調査だ」
「水族館調査」
「調査だ。浮かれるな」
タクヤが笑う。
「最初の入口としては悪くないね」
エックスが真面目に頷く。
「深海圧への直接接続より安全です。記憶層の浅瀬として機能している可能性があります」
萌亜は少しほっとした顔をした。
「いきなり海底じゃなくてよかった」
リオナも頷く。
「まず水族館なら、まだ行けそう」
だが、カナメは油断していなかった。
「相手は失われた文明の記憶だ。観光気分で行くな」
「はい」
「でも、イルカショーは?」
萌亜が小声で言う。
カナメは一瞬黙った。
「任務後なら検討する」
「チョベリグ上司!」
「上司ではない」
少しだけ空気が緩んだ。
しかし、リオナは画面の青い門から目を離せなかった。
美しい。
でも、悲しい。
その門の向こうには、滅びた文明の記憶がある。
そして、選定機関がかつてそこを観測していた痕跡がある。
次の戦いは、単純な敵との戦闘ではない。
失われたものを、どう受け取るか。
恐怖で閉じた文明の記憶を、自分たちはどう開くのか。
*
その夜。
姫咲家に戻ったリオナと萌亜は、いつものように布団を並べていた。
アヴァロンが終わったばかりなのに、もう次が始まっている。
疲れていないと言えば嘘になる。
だが、今回は前ほど逃げたいだけではなかった。
ムーの声が、心に残っている。
『記憶を持って来い』
萌亜は布団の中で、胸に手を当てていた。
「リオナっち」
「何?」
「ヨル、ムーのこと気にしてる」
「怖い?」
「怖い。でも、たぶん……忘れたくないって感じ」
リオナは少し考えた。
「怖いから忘れるんじゃなくて、怖いから覚えておく」
「うん」
「ムーが言ってたやつだ」
萌亜は頷く。
「恐怖って、忘れさせることもあるけど、覚えとくためにもあるのかな」
リオナは、萌亜の手を握った。
「たぶん」
「ムー、沈んだんだよね」
「うん」
「守るために閉じて、忘れるために沈んだ」
「そう言ってた」
「萌亜、そうならないようにしないと」
リオナは首を横に振った。
「萌亜だけじゃない」
萌亜が目を向ける。
「一緒に、でしょ」
萌亜は、少し笑った。
「うん。一緒に」
窓の外。
夜空の向こうで、青い光がかすかに揺れた気がした。
海の底。
失われた大陸。
忘れたふりをした文明。
ムーは、まだ遠い。
けれど、その声はもう届いている。
萌亜は目を閉じた。
胸の奥で、ヨルが静かに呟いた気がした。
『覚えている』
萌亜は小さく息を吐く。
「うん」
リオナが尋ねる。
「ヨル?」
「うん。覚えてるって」
「そっか」
リオナは、少しだけ安心した。
怖い夜が、記憶を守ろうとしている。
それなら、ムーへ行けるかもしれない。
怖くても。
悲しくても。
沈んだ声を聞くために。
次の入口は、水族館。
あまりにも日常的で。
あまりにも不穏な場所だった。
第32話を読んでいただき、ありがとうございました。
ここから、ムー編が始まりました。
アヴァロンでは、眠り、逃避、恐怖の王と向き合いました。
そこで萌亜は、恐怖の王に「ヨル」という名前を与えました。
怖い夜。
でも、朝へ帰ることのできる夜。
ムー編では、そのヨルも含めて、新しい問いに向き合います。
今回のテーマは、記憶です。
ムーは、ただの失われた大陸ではありません。
かつて選定機関に観測され、恐れ、守ろうとして閉じ、そして沈んだ文明です。
外から見られないために。
選ばれないために。
守るために。
しかし、閉じすぎた結果、ムーは海の底へ沈みました。
ここで問われるのは、
恐怖から閉じること。
守るために記憶を封じること。
痛みを忘れたふりをすること。
それらが本当に救いなのか、ということです。
アヴァロンが「逃げてもいい。でも戻る場所を持つ」話だったなら、ムーは「閉じてもいい。でも記憶まで捨ててはいけない」話になります。
今回、ムーの記憶体は萌亜に言いました。
「夜を連れて来るなら、夜にも記憶を持たせよ」
これは、ヨルにとっても重要な言葉です。
恐怖は記憶を食う。
でも、記憶を守る恐怖もある。
萌亜とヨルの関係は、ここからさらに変わっていきます。
次回は、都内の水族館がムーへの浅い入口になります。
日常的な場所に、失われた大陸の記憶が重なる回です。
イルカショーでは終わりません。
それではまた次回。
沈んだ声を聞きに行くのも、たぶん悪くない。