アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
第33話です。
ムー編、第二話。
前回、太平洋海底から発せられた青色信号により、失われた大陸ムーの存在が示されました。
ムーは、ただ沈んだ文明ではありません。
選定機関に観測され、恐れ、守るために自ら閉じ、そして海底へ沈んだ文明。
その記憶体は、萌亜とリオナに告げました。
「来るなら、記憶を持って来い」
そして次の入口として示されたのは、都内の水族館。
深海でも、海底神殿でもなく、家族連れや学生たちが訪れる日常の場所です。
しかし、その水槽の向こうには、ムーの浅い記憶層が重なっています。
綺麗な魚。
青い光。
子どもたちの笑い声。
その裏に沈んだ文明の声。
今回は、ムー第一門へ向かう前の「浅瀬」の話です。
綺麗な海だけ見て帰るな
都内某所。
平日の午後だというのに、水族館は思ったより混んでいた。
親子連れ。
制服姿の学生。
カップル。
外国人観光客。
そして、明らかに任務中なのに浮かれている金髪ギャル一名。
「リオナっち! 見て! チンアナゴ!」
「第一声それ?」
「だってチンアナゴ!」
安藤萌亜は、大きな水槽の前で目を輝かせていた。
砂から細長い身体を出すチンアナゴたちが、ゆらゆらと水流に揺れている。
その姿を見て、萌亜は真剣な顔で言った。
「チンアナゴ、アヴァロンなら絶対迷子にならなそう」
「砂から出ないから?」
「うん。共同撤退経路、不要」
「その比較いる?」
姫咲リオナは苦笑しながらも、少しだけ安心していた。
昨日までのムーの気配は重かった。
沈んだ文明。
忘れたふりをした罪。
恐怖で閉じた記憶。
そんなものをいきなり突きつけられた後で、水族館という場所はあまりに日常的だった。
青い照明。
水槽を泳ぐ魚。
楽しそうな子どもの声。
ポップな案内板。
売店のぬいぐるみ。
どれも平和に見える。
けれど、リオナの手首には接続補助紐がある。
萌亜の胸の奥にはヨルがいる。
そして、今日は遊びではない。
任務だ。
水族館の入口付近では、御門征十郎がスタッフ用通路の前で腕を組んでいた。
黒瀬カナメも一緒だ。
御門は周囲を確認し、低い声で言った。
「表向きは通常営業だ。騒ぎは起こすな」
萌亜がびしっと敬礼する。
「了解です、御門さん。国家機密とクリームは相性が悪い」
「覚えるところがそこか」
「ちゃんと資料室では食べません」
「ここは資料室ではない。だが、任務中にクレープをこぼすな」
「水族館クレープあります?」
「そこから離れろ」
リオナは笑いそうになるのをこらえた。
御門は今日も顔色が悪い。
だが、以前より萌亜たちの扱いには慣れてきている。
それが良いことなのかどうかは分からない。
カナメは水槽の奥を見ていた。
「反応は?」
御門はタブレットを見せる。
「青色信号は館内三か所で強い。大水槽、深海展示、イルカショー用プールだ」
「イルカショー!」
萌亜の声が跳ねる。
御門が即座に釘を刺す。
「遊びではない」
「任務後なら検討ってカナメさん言ってました」
カナメは淡々と答えた。
「状況次第だ」
「チョベリグ希望あり!」
「状況次第だ」
御門はこめかみを押さえた。
「君たち、国家規模の異常事態中だという自覚を持て」
リオナは水槽へ目を向ける。
「でも、日常っぽい場所だからこそ入口なんですよね」
御門の表情が少しだけ引き締まる。
「ああ。エックスの分析でもそう出ている。ムーの記憶層は、いきなり深海へ入らせる気はないらしい。まず浅瀬を見せるつもりだ」
「浅瀬……」
萌亜が胸に手を当てた。
「ヨルも、ここ嫌いじゃないって」
カナメが少し目を細める。
「恐怖の王が水族館を嫌がっていないのか」
「ヨルです」
「……そうだったな。ヨルが、嫌がっていないのか」
「はい。青い光、気にしてる」
リオナは萌亜の横顔を見る。
アヴァロンで名前を得たヨル。
まだ安定しきっていない。
でも、今日のヨルは暴れていない。
むしろ、何かを聞こうとしている。
水槽の向こう。
青い水の奥。
そこに沈んだ声を。
*
最初の反応点は、大水槽だった。
巨大なアクリルガラスの向こうを、無数の魚が泳いでいる。
エイがゆっくり羽ばたくように通り過ぎる。
銀色の群れが、一斉に向きを変える。
青い照明に照らされた水は、美しくて、どこか非現実的だった。
萌亜は水槽に顔を近づける。
「すごい……」
リオナも隣に立つ。
「綺麗だね」
「うん。綺麗」
その瞬間。
水槽の奥に、別の景色が重なった。
魚の群れの向こうに、白い塔が見える。
青い水路。
透明な橋。
水面に浮かぶ都市。
ムー。
失われる前のムー。
リオナは息を呑んだ。
萌亜も言葉を失う。
大水槽の前にいた人々は、誰も気づいていない。
子どもたちは魚を指差して笑っている。
親たちは写真を撮っている。
だが、リオナと萌亜には見えている。
美しい都市。
海と共に生きていた文明。
そこに暮らす人々の姿。
青い装束。
額の石。
水路を走る小舟。
空を飛ぶ光の帆。
そして、都市の中心にそびえる青い結晶塔。
萌亜は小さく呟いた。
「綺麗……」
すると、水槽の奥から声がした。
『綺麗なものだけ見るな』
萌亜の肩が跳ねる。
リオナはすぐに手を握った。
「聞こえた?」
「うん」
水槽の奥の景色が変わる。
白い塔の影が揺れる。
青い空に、細い白線が現れる。
選定機関の観測線。
ムーの人々が空を見上げる。
笑顔が消える。
水路を走る舟が止まる。
子どもが母親の服を掴む。
青い結晶塔が、警告のように光る。
『最初は、観測だけだった』
声が水中から響く。
『測られた』
『記録された』
『危険ではないとされた』
『有用とされた』
『保護候補とされた』
リオナは眉を寄せる。
「保護候補……?」
エックスの通信が入る。
『選定機関における保護候補は、必ずしも救済を意味しません。管理、凍結、隔離、利用を含む可能性があります』
萌亜が顔をしかめる。
「言葉がチョベリバ信用できない」
水槽の中で、白い線が増える。
ムーの上空を囲むように、無数の観測線が降りてくる。
人々はまだ攻撃されていない。
都市も壊れていない。
だが、全員が見られている。
逃げ場なく。
生活のすべてを。
祈りも。
泣き顔も。
子どもの名前も。
眠る場所も。
青い声が続いた。
『見られ続ける恐怖は、刃より遅く心を削る』
リオナは黙った。
それは、萌亜たちも少しだけ知っている感覚だった。
選定機関に分類されること。
測られること。
危険性や生存率や処理正当性で語られること。
存在の温度を、数字に変えられること。
ムーは、それを文明全体で受けたのだ。
萌亜の胸の奥で、ヨルが低く震えた。
「ヨル……」
萌亜は胸に手を当てる。
「怒ってる。でも、暴れてない」
リオナは頷く。
「覚えてるんだね」
萌亜も頷いた。
「うん」
水槽の景色が消えた。
再び、魚たちが泳ぐだけの大水槽になる。
けれど、リオナと萌亜の胸には、さっきのムーの空が残っていた。
美しかった。
そして、怖かった。
*
次の反応点へ向かう途中、萌亜は売店の前で立ち止まった。
青い魚のぬいぐるみ。
クラゲのキーホルダー。
サメの帽子。
イルカのマグカップ。
その中に、なぜか黒紫色の小さなウツボぬいぐるみがあった。
萌亜は、それを手に取る。
「リオナっち」
「何?」
「ヨルっぽい」
「恐怖の王、ウツボでいいの?」
「かわいい」
「ヨルの威厳がまた減る」
萌亜は真剣な顔で言った。
「威厳より親しみやすさ」
「大事かも」
御門が後ろから低い声を出す。
「任務中に買い物をするな」
萌亜はウツボぬいぐるみを抱えたまま振り返る。
「これはヨルの情緒安定に必要な家庭由来……水族館由来安定因子です」
「それらしい言葉をつけるな」
カナメがぬいぐるみを一瞥する。
「買っておけ。後でぐずられるよりいい」
御門が眉間を押さえた。
「黒瀬、お前まで何を言っている」
「士気維持だ」
「ぬいぐるみが国家案件になる日が来るとはな」
リオナは小さく笑った。
結局、ウツボぬいぐるみは購入された。
名前は即座に決まった。
「ヨルボ」
「混ぜたな」
「ヨルっぽいウツボなので」
「安直すぎる」
萌亜はヨルボを胸に抱えた。
その瞬間、胸の奥のヨルがわずかに困惑したような気配を返す。
だが、嫌がってはいない。
リオナは思った。
こういうくだらない時間も、きっと必要だ。
沈んだ文明の記憶を見るなら、沈まないための軽さも必要なのだ。
*
深海展示エリアは、空気が変わった。
照明は暗く、青というより黒に近い。
水槽の中には、発光するクラゲ、深海魚、巨大なカニの模型、潜水艇の展示が並んでいる。
子どもたちの声も少なくなった。
足音が妙に響く。
萌亜はヨルボを抱きしめた。
「ここ、ちょっと怖い」
リオナが手を繋ぐ。
「うん。雰囲気ある」
御門はタブレットを確認する。
「反応が強い。この奥だ」
深海展示の最奥。
そこには、巨大な暗い水槽があった。
ほとんど何も見えない。
ただ、時折、発光生物の光が点滅する。
その奥に、青い紋章が浮かんだ。
リオナは息を呑む。
前回見たムーの門と同じ紋章。
水槽のガラスに、文字が浮かぶ。
『第二記憶』
『閉じる前の会議』
次の瞬間、水槽の中が広がった。
深海ではない。
巨大な円形議場。
青い石で作られた椅子。
中央に浮かぶ結晶。
ムーの人々が集まっている。
表情は険しい。
議論している。
声は水の中で歪んでいるが、意味だけが届く。
『観測は続いている』
『子どもたちの夢まで記録された』
『祈りの言葉が分類された』
『我々の防衛機構が有用資産と呼ばれた』
『閉じるしかない』
『いや、閉じれば外とのすべてを断つことになる』
『観測され続けるよりはいい』
『記憶を残せ』
『残せば見つかる』
『ならば消せ』
『消せば、我々は何を守ったことになる』
リオナは、息を止める。
これは、滅びの直前の会議だ。
ムーの人々は、ただ逃げたわけではない。
守ろうとしていた。
でも、意見は割れていた。
閉じるべきか。
記憶を残すべきか。
外へ助けを求めるべきか。
全部を沈めるべきか。
萌亜は震える声で言う。
「誰も、悪い人に見えない」
リオナは頷く。
「うん」
「でも、沈むんだよね」
「うん……」
議場の中心に、一人の女性が立った。
額に大きな青い石を持つ、長い髪の女性。
王族なのか、巫女なのか、指導者なのか。
彼女は静かに言った。
『閉じる』
議場が静まる。
『だが、すべては消さない』
『我々の恥も、恐れも、迷いも、罪も、残す』
『未来に誰かが来るなら、美しいムーではなく、沈んだ理由を見せる』
『宝ではなく、過ちを残す』
反対の声が上がる。
『そんなものを残してどうする』
『我々は責められる』
『ムーは愚かな文明として記録される』
女性は答えた。
『ならば、それでいい』
『忘れたふりをした文明は、同じ海へ落ちる』
萌亜が息を呑む。
前回の記憶体と同じ言葉。
この女性が、あの言葉を残したのだ。
青い女性は、中央の結晶に手を置いた。
『閉じることは罪ではない』
『恐れることも罪ではない』
『だが、恐れた事実を消すことは、次の誰かを同じ場所へ落とす』
リオナの胸が熱くなった。
ムーは、閉じた。
沈んだ。
でも、完全には忘れなかった。
この記憶を残した誰かがいた。
責められるかもしれない未来へ、それでも過ちを渡した人がいた。
水槽の景色が揺れる。
青い女性が、こちらを見た気がした。
『未来の記憶を持つ者よ』
『恐怖の夜を連れた者よ』
『我々を美化するな』
『我々を断罪するだけで終わるな』
『覚えよ』
『守るための閉鎖は、救いにも墓にもなる』
萌亜は、ヨルボを抱きしめたまま頷いた。
「覚える」
リオナも言った。
「綺麗なところだけ持って帰らない」
その瞬間、水槽の青い紋章が淡く光った。
萌亜の胸の奥で、ヨルが低く呟く。
『覚えている』
リオナには聞こえなかった。
でも、萌亜の表情で分かった。
ヨルも、この記憶を受け取ったのだ。
*
深海展示を出ると、御門が珍しく黙っていた。
リオナが声をかける。
「御門さん、大丈夫?」
御門は少しだけ間を置いて答えた。
「大丈夫ではない」
「ですよね」
「だが、記録は必要だ」
彼はタブレットに何かを打ち込む。
「滅びた文明の過ちを、報告書にどう残すか考えている」
萌亜が首を傾げる。
「そのまま書くんですか?」
「そのまま書けるわけがない。だが、隠しすぎれば意味がない」
御門はため息をついた。
「ムーが残した記憶を、現代の都合でまた沈めるわけにはいかない」
リオナは少し驚いた。
御門は冷静な人だ。
国家機密と現実対応を常に優先する。
けれど、ちゃんと受け取っている。
ムーの記憶を。
萌亜は小さく笑った。
「御門さん、チョベリグ真面目」
「褒めているのか、それは」
「褒めてます」
「なら、言葉を選べ」
カナメがふっと息を吐く。
「次はイルカショー用プールか」
萌亜の目が一瞬輝いたが、すぐに真面目な顔に戻った。
「任務です」
御門がじろりと見る。
「本当だな」
「ちょっとだけ期待してます」
「正直でよろしい」
リオナは苦笑した。
*
イルカショー用プールは、閉演後の点検時間という形で貸し切りになっていた。
観客席には誰もいない。
水面は静かで、照明だけが淡く青い。
ショーで使われるボールや輪が片付けられている。
しかし、プールの中央には、青い光が浮かんでいた。
水面に広がる円。
第一門。
萌亜は息を吸う。
「ここが入口?」
エックスの通信が入る。
『はい。記憶層の浅瀬として安定しています。深海へ直接入る前の試験領域です』
タクヤの声も続く。
『無理はしないで。今日は門を開くだけでもいい』
御門が低く言う。
「危険反応が出たら即撤退だ。いいな」
リオナと萌亜は頷いた。
「はい」
「了解です」
プールの水面に、青い人影が現れた。
前回と同じ記憶体。
水でできた古い装束の影。
『浅瀬に来たか』
萌亜が少し緊張しながら言う。
「来ました」
『美しいものを見たか』
「見た」
『恐ろしいものを見たか』
「見た」
『どちらを持って帰る』
萌亜は迷わなかった。
「両方」
リオナも頷く。
「綺麗だったことも、怖かったことも、忘れない」
青い人影は、静かに二人を見た。
『ならば、門は開く』
水面が揺れる。
イルカショー用プールの底が、あり得ないほど深く見えた。
青い階段。
海底へ続くような、光の階段。
萌亜の背後に、霧の王冠が淡く浮かぶ。
ヨルが見ている。
その瞬間、プールの水面に白い線が走った。
選定機関。
御門が舌打ちする。
「来たか」
カナメが前へ出る。
「結局こうなる」
白い線は、青い門へ絡みつこうとしていた。
『ムー記憶層への接続を確認』
『観測再開』
『失われた文明の防衛機構を解析』
『安藤萌亜の王性反応との相関を記録』
萌亜の顔が強張る。
青い人影が震えた。
『また見るのか』
その声には、怒りよりも深い疲れがあった。
『また測るのか』
水面が暗くなる。
ムーの記憶が、恐怖で閉じようとしている。
このままでは、第一門が閉じる。
いや、閉じるだけならまだいい。
恐怖で閉じれば、また沈む。
リオナは一歩前へ出た。
「萌亜」
「うん」
「閉じさせない。でも、無理やり開けない」
「どうする?」
リオナは、青い人影へ言った。
「見られるのが怖いなら、隠していい」
青い人影が揺れる。
「でも、全部沈めないで。私たちに、覚えさせて」
萌亜も続ける。
「選定機関に見せるためじゃない。宝探しでもない。ちゃんと、沈んだ声を聞きに来た」
ヨルが、萌亜の胸の奥で低く響く。
『怖い』
萌亜は頷く。
「うん。怖いね」
ヨルの声が、今度は少し強くなる。
『だから、覚えている』
萌亜の背後の霧の王冠が、青い光を帯びた。
恐怖で記憶を食うのではなく。
恐怖で記憶を守る。
ムーの青い記憶と、ヨルの夜が重なる。
水面に浮かぶ第一門が、完全に閉じるのをやめた。
白い線はなおも絡みつこうとする。
だが、アヴァロンの霧がそれを迷わせる。
エルドラドの代価の火が、他者への転嫁を封じる。
シャンバラの花が、記憶層の奥へ優しく根を伸ばす。
竜宮城の深層が、青い門を支える。
リオナと萌亜は手を繋いだ。
水面の青い階段が、はっきりと形になる。
青い人影が告げる。
『第一門、開門』
『ただし、次に見るのは浅瀬ではない』
『ムーが沈む夜だ』
萌亜の喉が鳴る。
「沈む夜……」
ヨルが静かに反応する。
リオナは手を握る力を強めた。
「一緒に見る」
萌亜も頷く。
「一緒に覚える」
青い階段が、深海へ続いている。
今日はまだ降りない。
だが、門は開いた。
ムーは、二人を拒みながらも待っている。
*
任務終了後。
なぜかイルカショーは、五分だけ実施された。
御門は最後まで渋い顔をしていたが、館側の協力者が「せっかくなので」と言ったため、断りきれなかったらしい。
萌亜は観客席で目を輝かせていた。
「イルカ、チョベリグ飛んだ!」
「任務後だからセーフ」
リオナも少し笑っていた。
カナメは腕を組んでいたが、目はちゃんとイルカを追っている。
御門はため息をついた。
「なぜ俺は、失われた大陸の門を確認した直後にイルカショーを見ているんだ」
萌亜が即答する。
「情緒安定です」
「その言葉で何でも通そうとするな」
だが、御門は席を立たなかった。
青い水面を跳ねるイルカ。
観客のいないショー。
静かな拍手。
その光景は、さっき見たムーの滅びとはまるで違っていた。
でも、だからこそ必要だった。
綺麗な海だけ見て帰るな。
そう言われた。
けれど、綺麗な海を見ることもまた、忘れてはいけないのだ。
沈んだ声を聞くためには、沈む前の美しさも覚えていなければならない。
*
その夜。
姫咲家で、萌亜は買ってきたヨルボを枕元に置いた。
黒紫色の小さなウツボぬいぐるみ。
恐怖の王の威厳は、だいぶ親しみやすくなっていた。
リオナはそれを見て笑う。
「ヨル、怒ってない?」
「困惑してる」
「怒ってはないんだ」
「たぶん」
萌亜は布団に入り、胸に手を当てた。
「リオナっち」
「何?」
「ムー、怖いね」
「うん」
「でも、綺麗だったね」
「うん」
「両方、覚えてないとダメなんだね」
リオナは頷いた。
「綺麗だったことだけ覚えたら、観光になる。怖かったことだけ覚えたら、断罪になる」
「両方覚える」
「うん」
萌亜は目を閉じた。
胸の奥で、ヨルが静かにいる。
夜。
怖いもの。
でも、記憶を守ろうとしているもの。
その奥に、青い光が混じっている。
ムーの第一門は開いた。
次に見るのは、沈む夜。
失われた大陸が、自ら海へ沈んだその時。
萌亜は小さく呟いた。
「ヨル、一緒に覚えようね」
胸の奥から、低い声が返る。
『覚えている』
リオナは、萌亜の手を握った。
「私も」
窓の外。
夜空の向こうではなく、もっと深い場所。
海の底で、青い門が静かに開いている。
ムーは待っている。
綺麗な海だけでは終わらない記憶を、二人に見せるために。
第33話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、ムー編の入口として水族館回でした。
深海遺跡へ直行するのではなく、まず日常の中にある「浅瀬」からムーの記憶に触れる形です。
大水槽では、美しいムーが映りました。
白い塔。
青い水路。
空を飛ぶ光の舟。
しかし、ムーの記憶体は言います。
「綺麗なものだけ見るな」
ムーは美しい文明でした。
けれど、その美しさだけを見れば、沈んだ理由を忘れてしまいます。
深海展示では、ムーが閉じる前の会議を見ました。
見られ続ける恐怖。
測られ続ける苦しみ。
選定機関に観測され、保護候補や有用資産として分類される恐怖。
ムーの人々は、それに耐えきれず閉じることを選びました。
けれど、すべてを消すことはしなかった。
自分たちの恐れも、迷いも、罪も、未来へ残そうとした人物がいました。
今回のムー編のテーマは、
閉じること。
守ること。
記憶を残すこと。
そして、綺麗な記憶だけでも、怖い記憶だけでもなく、両方を受け取ることです。
萌亜の中のヨルも、ここで少し変化しました。
恐怖は記憶を食うこともある。
でも、記憶を守る恐怖もある。
ヨルは、ムーの青い記憶に触れ、「怖いから覚えている」という方向へ進み始めています。
水族館由来安定因子として、ヨルボも誕生しました。
恐怖の王の威厳は少し減りましたが、情緒安定にはたぶん有効です。
御門の口調も、今回から硬い常体・業務口調で統一しています。
次回は、いよいよムー第一門の先へ。
そこで見るのは、ムーが沈んだ夜。
失われた大陸が、自ら閉じ、自ら沈んだ瞬間です。
それではまた次回。
綺麗な海だけ見て帰らないなら、水族館も悪くない。