アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜   作:池ポチャ

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第35話です。

ムー第一門で、リオナと萌亜は文明が沈んだ夜を見届けました。

ムーは、選定機関の観測から逃れるために自ら閉じました。

守るために。

見られないために。

選ばれないために。

しかし、閉じることは同時に、数えきれない人々の未来を海底へ封じる選択でもありました。

その失敗も、恐れも、罪も忘れないために、ムーは記憶を残しました。

そして二人は、第一封印を受け取ります。

記憶を捨てないこと。

閉じる時に出口を残すこと。

守る名を忘れないこと。

今回、第一封印の奥から新しい声が届きます。

それは警告でも、試練の宣告でもありません。

ただ、名前を呼び続ける声でした。

文明が沈んだ後。

暗い海底で、誰がムーの記憶を守り続けていたのか。

そして、選定機関はなぜ今になってムーを再び観測し始めたのか。

ムー編は、沈んだ文明の「その後」へ進みます。



海底で名前を呼ぶ者

 

忘れられたくない人は、役に立つ人だけではない

 

 

 ムー第一封印を受け取った翌日。

 

 国立国会図書館地下管理区域では、朝から複数の警告音が鳴り続けていた。

 

 赤。

 

 黄色。

 

 青。

 

 それぞれ別の異常を示す表示が、壁面モニターを埋め尽くしている。

 

 その中央で、御門征十郎は眉間を押さえていた。

 

「状況を整理する」

 

 低い声が、会議室に響く。

 

「昨日、安藤と姫咲がムー第一封印を取得した。それ以降、太平洋深海観測網の一部に大規模な空白領域が発生している」

 

 萌亜が恐る恐る手を挙げた。

 

「空白って、見えなくなった感じですか」

 

「そうだ」

 

「成功?」

 

「政府の観測網からも消えている。全面的な成功とは言いづらい」

 

「チョベリバ副作用……」

 

「君はもう少し深刻そうな顔をしろ」

 

 そう言われた萌亜は、両頬を手で押さえて真面目な顔を作った。

 

「こうですか」

 

「戻していい」

 

 隣でリオナが吹き出す。

 

 御門は深いため息をついたが、すぐにタブレットへ視線を戻した。

 

「現在、ムー遺跡の中枢部は通常観測から消えている。音響探査、重力測定、外宇宙式走査、すべて不成立だ」

 

 エックスが補足する。

 

「選定機関の観測線も、第一封印の内側へ到達できていません。ムーの限定観測遮断は機能しています」

 

 ゼルヴァードが腕を組んだ。

 

「ならば、むしろ好都合ではないか」

 

「問題は別にあります」

 

 エックスがモニターを切り替える。

 

 青い波形が映った。

 

 昨日までとは違う。

 

 一定の間隔で区切られた、小さな音の連なり。

 

 短いもの。

 

 長いもの。

 

 同じ形を繰り返すもの。

 

 御門が言う。

 

「封印成立から二時間後、空白領域の内側から新しい信号が出始めた」

 

「中から出てるの?」

 

 リオナが尋ねる。

 

「ああ。こちらからは見えない。だが、向こうからは信号を出せるらしい」

 

 萌亜は波形をじっと見た。

 

 胸の奥でヨルが動く。

 

 怖がってはいない。

 

 耳を澄ませている。

 

 萌亜は目を閉じた。

 

 音としては聞こえない。

 

 けれど、意味が少しずつ浮かび上がってくる。

 

『ラオ』

 

『セナ』

 

『ミュル』

 

『アナイ』

 

『トト』

 

『ユア』

 

 知らない言葉。

 

 知らない響き。

 

 だが、それが何なのかは分かった。

 

「名前……」

 

 萌亜が呟いた。

 

 会議室の全員が萌亜を見る。

 

 リオナが訊いた。

 

「名前?」

 

「うん。これ、誰かが名前を呼んでる」

 

 エックスが解析速度を上げる。

 

「信号を固有名詞列として再解析します」

 

 青い波形の下に、無数の区切りが表示された。

 

 一つ。

 

 十。

 

 百。

 

 千。

 

 画面を埋めても終わらない。

 

 御門の表情が険しくなる。

 

「数は」

 

「現時点で照合可能なものだけで、十二万四千七百三十一」

 

 エックスが答えた。

 

 萌亜の顔から、少しずつ表情が消えた。

 

「そんなに……」

 

「信号はまだ続いています。重複を除いても、増加中です」

 

 リオナは青い波形を見つめた。

 

「ムーの人たちの名前?」

 

「可能性が高いです」

 

 タクヤは静かにモニターを見ていた。

 

「誰かが、ずっと呼んでるんだね」

 

「文明が沈んでから?」

 

 萌亜が問う。

 

「たぶん」

 

 どれほど長い時間なのか。

 

 現在の人類史よりも古い文明。

 

 その大陸が沈んでから、誰かが海底で名前を呼び続けている。

 

 忘れないために。

 

 誰もいなくなっても。

 

 聞く者がいなくても。

 

 カナメが低く言った。

 

「目的は何だ」

 

 エックスは一つの波形を拡大した。

 

「単なる記録送信ではありません。それぞれの名前に、ごく小規模な記憶情報が付属しています」

 

 画面に短い映像が映る。

 

 青い石を握る小さな手。

 

 水路を走る子ども。

 

 焼かれた魚料理を笑いながら食べる家族。

 

 白い塔の階段を駆け上がる若者。

 

 眠る赤ん坊の額へ口づける母親。

 

 一瞬だけの記憶。

 

 だが、確かに誰かが生きていた記録。

 

 萌亜はヨルボを胸に抱きしめた。

 

「名前と、一番大事な記憶……」

 

 御門がタブレットを操作する。

 

「信号源は第一封印よりさらに深い。昨日開いた記憶階層の下だ」

 

 リオナが顔を上げる。

 

「また行くんですよね」

 

「調査は必要だ」

 

 御門は即答した。

 

 そして少し間を置く。

 

「ただし、昨日の今日だ。無理に行けとは言わない」

 

 萌亜は御門を見る。

 

 硬い表情。

 

 低い声。

 

 だが、その言葉には明確な気遣いがあった。

 

「御門さん」

 

「何だ」

 

「優しい」

 

「疲労状態の人間を即座に再投入しないのは、最低限の運用だ」

 

「照れてる?」

 

「安藤」

 

「はい」

 

「任務前に余計な消耗を増やすな」

 

 リオナが萌亜の袖を軽く引く。

 

「でも、どうする?」

 

 萌亜は青い波形を見る。

 

 誰かが、今も名前を呼んでいる。

 

 一人ずつ。

 

 一つずつ。

 

 自分なら。

 

 ヨルという名前を呼んでもらえなかったら。

 

 安藤萌亜という名前を忘れられたら。

 

 恐怖の王。

 

 文明選定個体。

 

 危険個体。

 

 そういう分類だけが残ったら。

 

 きっと嫌だ。

 

 萌亜は胸元に手を当てた。

 

「ヨル」

 

『聞いている』

 

「行きたい?」

 

 短い沈黙。

 

『呼んでいる』

 

「うん」

 

 萌亜はリオナを見る。

 

「行く」

 

 リオナも頷いた。

 

「私も」

 

 御門は二人を見た後、静かに言った。

 

「分かった。準備に入る」

 

     *

 

 今回の入口は、水族館ではなかった。

 

 ムー第一封印が形成されたことで、国立国会図書館地下管理区域の一室に、小さな青い扉が固定されていた。

 

 以前は古文書の一時保管庫だった場所。

 

 今は壁の中央に、水面のような楕円が浮かんでいる。

 

 その向こうに、沈んだ都市が見えた。

 

 青い光。

 

 崩れた白い塔。

 

 海底へ横たわる水路。

 

 魚影すらない、静かな海。

 

 御門は扉の前で最終確認を行う。

 

「接続時間は現実側で四十分を上限とする」

 

「記憶層だと?」

 

 リオナが尋ねる。

 

「不明だ。長く感じても、外部通信を基準にしろ」

 

「了解です」

 

「第一封印は観測を遮断する。こちらの通信も弱くなる。聞こえないからといって奥へ進み続けるな」

 

 萌亜が頷く。

 

「出口を残す」

 

「ああ。それを忘れるな」

 

 エックスが二人の接続補助紐を確認する。

 

 白金。

 

 銀。

 

 赤。

 

 金。

 

 そして深い青。

 

「第一封印は安定しています。ただし、内部で強い記憶損傷が発生した場合、閉鎖反応へ傾く可能性があります」

 

 タクヤが茶葉缶を差し出す。

 

「今回は持っていって」

 

 萌亜が受け取る。

 

「師匠のお茶缶」

 

「中に茶葉も少し入ってるよ」

 

「海底でお茶できます?」

 

「できるかもしれない」

 

 御門が即座に言う。

 

「記憶層内で不用意に飲食するな」

 

 タクヤが穏やかに笑う。

 

「香りだけだよ」

 

「あなたが言うと、本当に茶会を始めそうで困る」

 

「必要なら始めるよ」

 

「否定しないのか」

 

 モー子の鈴が、通信端末から小さく鳴った。

 

『牛倫理協定、忘れられた名前確認業務見守り条項、暫定発動』

 

『名誉終身守衛モー子、遠隔勤務中』

 

『個体名を有用性のみで選別する行為、倫理審査対象』

 

 御門が端末を見た。

 

「まだ何も起きていないぞ」

 

 エックスが答える。

 

「予防的条項です」

 

「牛の方が展開を読んでいるのはなぜだ」

 

 ゼルヴァードが真顔で言う。

 

「過去の実績からすれば、妥当な警戒だ」

 

 御門は何も言わず、ため息だけをついた。

 

 リオナと萌亜は顔を見合わせる。

 

「行こう」

 

「うん」

 

 二人は手を繋ぎ、青い扉をくぐった。

 

     *

 

 足元に、海底の石畳が現れた。

 

 水の中にいるはずなのに、息ができる。

 

 服も髪も濡れていない。

 

 ただ、身体全体へ深い水圧の記憶がのしかかってくる。

 

 都市は静かだった。

 

 昨日見た沈没の瞬間から、どれほどの時間が過ぎたのか。

 

 白い塔は折れている。

 

 青い水路には砂が積もっている。

 

 光の舟は、海底へ倒れたまま動かない。

 

 都市のあちこちに、小さな青い結晶が浮いていた。

 

 萌亜が一つへ近づく。

 

 手を伸ばす前に、結晶が光った。

 

『セナ』

 

 女性の名前。

 

 短い記憶が流れる。

 

 焼きたてのパンを手に、笑う女性。

 

 誰かへ渡すために、少し形の悪いものを選んで自分用にする。

 

 それだけの記憶。

 

 結晶の光が弱くなる。

 

 リオナは息を詰めた。

 

「この人の一番大事な記憶?」

 

「分かんない。でも、すごく普通」

 

「うん」

 

 英雄ではない。

 

 王でもない。

 

 特別な技術者でもない。

 

 ただ、パンを焼いて、誰かのために綺麗な方を残した人。

 

 二人が進むと、別の結晶が光る。

 

『トト』

 

 水路へ落とした玩具を、父親に拾ってもらう少年。

 

『アナイ』

 

 初めて歌の舞台へ立ち、緊張で歌詞を一つ忘れた少女。

 

『ミュル』

 

 議場の清掃をしながら、偉い人たちが忘れた書類をそっと並べ直す老人。

 

『ラオ』

 

 沈む直前まで、他人の飼っていた小さな水棲生物を逃がそうとした青年。

 

 名前。

 

 記憶。

 

 名前。

 

 記憶。

 

 都市の中には、数えきれない人生が浮いていた。

 

 萌亜は次第に歩く速度を落とした。

 

「多い……」

 

「うん」

 

「全部、聞けるかな」

 

 リオナは答えられなかった。

 

 十二万を超える名前。

 

 今も増え続けている。

 

 二人だけで全部を聞くには、あまりにも多い。

 

 ヨルが胸の奥で呟く。

 

『忘れる』

 

 萌亜の肩が震えた。

 

「ヨル?」

 

『多すぎる』

 

 ヨルの言葉には恐怖があった。

 

 覚えたい。

 

 でも、覚えきれない。

 

 忘れてしまう。

 

 ムーが守った名前を、自分たちも取りこぼしてしまう。

 

 萌亜は唇を噛んだ。

 

「覚えるって言ったのに」

 

 リオナがすぐに言う。

 

「全部を一人で覚えるって意味じゃない」

 

「でも……」

 

「萌亜」

 

 リオナは、萌亜の両肩へ手を置いた。

 

「また一人で背負おうとしてる」

 

 萌亜は言葉を失う。

 

 アヴァロンで何度も学んだ。

 

 一人で王にならない。

 

 一人で消えない。

 

 一人で全部を守ろうとしない。

 

 でも、数えきれない名前を前にすると、また同じ考えが出てくる。

 

 自分が覚えなければ。

 

 自分が守らなければ。

 

 萌亜は目を伏せた。

 

「ごめん」

 

「謝らなくていい。気づけたから」

 

 ヨルにも、リオナは呼びかける。

 

「ヨルも、一人で全部食べないで」

 

『食べない』

 

「全部抱え込まないで、って意味」

 

『……判断保留』

 

「よし」

 

 萌亜は少しだけ笑った。

 

     *

 

 名前の光を辿った先に、円形の建物があった。

 

 昨日、沈む直前に青い女性が立っていた結晶塔。

 

 その地下部分。

 

 扉は半分崩れている。

 

 内部から、名前を呼ぶ声が聞こえてくる。

 

『ラオ』

 

『セナ』

 

『ミュル』

 

『アナイ』

 

 同じ調子。

 

 途切れず。

 

 疲れも見せず。

 

 ただ、一人ずつ呼び続けている。

 

 リオナと萌亜は建物へ入った。

 

 中央に、巨大な青い結晶があった。

 

 結晶の周囲には無数の小さな光が回っている。

 

 その下に、少女が座っていた。

 

 十歳ほどに見える。

 

 青白い髪。

 

 額には、小さく欠けた青い石。

 

 古いムーの装束。

 

 膝の上に、分厚い記録板を載せている。

 

 少女は二人を見なかった。

 

 記録板へ指を滑らせながら、名前を呼び続ける。

 

『トト』

 

『ユア』

 

『カラ』

 

『レオナ』

 

 一つ呼ぶたび、周囲の青い光が一つだけ明るくなる。

 

 萌亜は、ゆっくり近づいた。

 

「こんにちは」

 

 少女は反応しない。

 

『セナ』

 

「聞こえる?」

 

『ラオ』

 

「萌亜っていいます」

 

 少女の指が止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 だが、また動き始める。

 

『ミュル』

 

 リオナも声をかけた。

 

「姫咲リオナです。あなたが、名前を呼んでるの?」

 

 少女は答えない。

 

 代わりに、巨大な結晶から声が響く。

 

『記録継続』

 

『忘却率、上昇』

 

『個体名再呼称により保持』

 

『停止不可』

 

 エックスの通信が途切れながら届く。

 

『その少女は……人間ではありません。ムー中枢記憶核と、一人の記録係の人格が融合した存在です』

 

 萌亜は少女を見る。

 

「ずっと、一人で?」

 

『文明沈降後、記録保持を継続』

 

『経過時間、算出不能』

 

 少女は名前を呼ぶ。

 

『アナイ』

 

『トト』

 

『ユア』

 

 リオナは胸が痛くなった。

 

「休んでないの?」

 

『休止により記憶劣化が進行』

 

『休止不可』

 

 萌亜は膝をつき、少女と同じ高さへ顔を下ろした。

 

「あなたの名前は?」

 

 少女の指が止まる。

 

 今度は長く。

 

 記録板の文字が乱れた。

 

『記録係識別名』

 

『……』

 

『検索』

 

『検索』

 

『該当なし』

 

 少女が、初めて萌亜を見た。

 

 瞳は深い青。

 

 でも、その奥は空っぽに近かった。

 

『私の名は、保持対象外』

 

 萌亜は息を呑んだ。

 

「どうして?」

 

『記録容量確保のため削除』

 

『市民名を優先』

 

『記録係自身の情報は不要』

 

 リオナの表情が硬くなる。

 

「不要じゃない」

 

『記録係の目的は他者記憶の保持』

 

「だからって、自分の名前を消していい理由にはならない」

 

『容量不足』

 

 少女は淡々と答えた。

 

『指導者記録』

 

『技術者記録』

 

『医療記録』

 

『児童記録』

 

『一般市民記録』

 

『優先順位を設定』

 

『記録係自身は最下位』

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが低く唸った。

 

『消すな』

 

 少女が、萌亜の背後に浮かぶ霧の王冠を見る。

 

『夜性存在を確認』

 

『危険』

 

 萌亜は首を横に振った。

 

「ヨル。怖いけど、萌亜と一緒にいる」

 

『名がある』

 

「うん」

 

『私にはない』

 

 その一言は、初めて機械的ではなかった。

 

 寂しさ。

 

 ほんのわずかな悲しさ。

 

 長い時間の中で、自分の名前だけを削り、他人の名前を呼び続けた少女。

 

 萌亜は手を伸ばしかける。

 

 だが、触れる前に止めた。

 

「触っていい?」

 

 少女は萌亜を見る。

 

『確認行為』

 

「うん。勝手に触らない」

 

 長い沈黙。

 

『許可』

 

 萌亜は少女の手を握った。

 

 冷たい。

 

 石のようで。

 

 でも、微かに震えている。

 

「名前、探そう」

 

『存在しない』

 

「忘れただけかもしれない」

 

『削除済』

 

「それでも、誰かが覚えてるかもしれない」

 

 少女は周囲の十二万を超える光を見た。

 

『全記録検索済』

 

「その記録の中に、あなたがいないから見つからないんじゃない?」

 

 リオナの言葉に、少女がゆっくり振り返る。

 

「あなたがみんなを見てた記録はある。でも、誰かがあなたを見てた記憶を探した?」

 

『……』

 

「あなたの名前を呼んだ人の記憶」

 

 少女の瞳が大きく揺れた。

 

     *

 

 その瞬間、巨大な青い結晶に白い亀裂が走った。

 

 選定機関の観測線。

 

 第一封印を避け、名前の送信経路を逆流してきたのだ。

 

『ムー中枢記憶核を確認』

 

『記録総数、膨大』

 

『保存効率、低』

 

『重要度による再編成を推奨』

 

 少女が立ち上がる。

 

『外部観測』

 

『記録防衛を開始』

 

 青い光が一斉に閉じようとする。

 

 萌亜は少女の手を強く握った。

 

「待って! 全部沈めない!」

 

『観測された』

 

「分かってる!」

 

『記録を奪われる』

 

「守る! でも、一緒に考える!」

 

 選定機関の白い文字が、巨大結晶の周囲へ広がる。

 

『記録最適化案』

 

『優先保存対象』

 

『指導者』

 

『技術者』

 

『医療従事者』

 

『防衛機構開発者』

 

『遺伝的希少個体』

 

『その他一般市民記録、削除可能』

 

 萌亜の顔が怒りに染まる。

 

「その他って言うな」

 

 選定機関は構わず続ける。

 

『記録容量の七十八パーセントを削減可能』

 

『有用情報を効率的に保持』

 

『無価値な日常記憶を除去』

 

 パンを焼いた女性。

 

 玩具を拾ってもらった少年。

 

 歌詞を忘れた少女。

 

 清掃を続けた老人。

 

 誰かの小さな水棲生物を逃がそうとした青年。

 

 それらが「無価値な日常記憶」と分類されていく。

 

 少女の記録板へ、削除候補の白い印が浮かんだ。

 

 少女は震えた。

 

『容量不足』

 

『記録劣化』

 

『優先順位設定が必要』

 

 選定機関が囁く。

 

『最適化せよ』

 

『有用な者を残せ』

 

『文明とは価値ある者の記録である』

 

 リオナは、白い文字を睨んだ。

 

「違う」

 

『接続因子の判断は情動的』

 

「文明は、役に立った人だけでできてない」

 

 白い線が増える。

 

『記録容量は有限』

 

「だからって、勝手に誰かをその他にするな!」

 

 少女が苦しそうに記録板を抱える。

 

『保持不能』

 

『忘却率、上昇』

 

『選別が必要』

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが吼えた。

 

『消すな』

 

 霧の王冠が大きく広がる。

 

 だが、そのままではすべてを閉じてしまう。

 

 萌亜はヨルへ呼びかける。

 

「ヨル、全部抱えない!」

 

『消える』

 

「分ける!」

 

『誰に』

 

 萌亜は言葉に詰まった。

 

 十二万を超える名前。

 

 一つの中枢記憶核。

 

 一人の少女が支え続けている。

 

 このままでは持たない。

 

 選定機関の提案を拒むだけでは、いずれ本当に記憶は消える。

 

 リオナが周囲の光を見た。

 

「一か所に全部あるから、壊れそうになる」

 

 萌亜がリオナを見る。

 

「分けるって、そういうこと?」

 

「うん。みんなで覚える」

 

「みんなって?」

 

 リオナは、自分たちが越えてきた場所を思い出す。

 

「竜宮城の深層記憶」

 

 青い海が足元へ広がる。

 

「シャンバラの夢」

 

 白い花びらが舞う。

 

「エルドラドの物質化」

 

 金と赤の火が灯る。

 

「アヴァロンの霧の道」

 

 銀色の霧が広がる。

 

「茶会の休息網」

 

 タクヤの茶葉缶が温かくなる。

 

「ムーの第一封印」

 

 深い青の膜が、記憶を包む。

 

 リオナは萌亜の手を握る。

 

「一つの場所で、一人が全部呼び続けなくていい形にする」

 

 萌亜は目を見開いた。

 

「記憶を、みんなに分ける」

 

『記憶汚染の危険』

 

 選定機関が即座に警告する。

 

『無関係な個体への記憶配布は非効率』

 

「効率の話してない!」

 

 萌亜が叫んだ。

 

「誰か一人が、みんなを忘れないために自分の名前を消す方が間違ってる!」

 

 少女の青い瞳が揺れる。

 

『私の名は不要』

 

「必要!」

 

 萌亜は少女の手を両手で握った。

 

「だって、萌亜はあなたの名前を呼びたい!」

 

 少女の瞳から、青い光の粒がこぼれた。

 

 涙に見えた。

 

     *

 

 外側。

 

 国立国会図書館地下管理区域では、警報が最大音量で鳴っていた。

 

 御門がモニターを睨む。

 

「選定機関が内部へ侵入した。経路は」

 

 ギギの電子音が響く。

 

『個体名送信波を逆探知された』

 

 エックスが白い幾何学紋を展開する。

 

「第一封印は空間観測を遮断しました。しかし、ムー側から名前を送信したことで、細い出口が生じています」

 

 御門は低く吐き捨てる。

 

「出口を残せという条件を逆手に取ったか」

 

 ゼルヴァードが術式を構える。

 

「出口を塞げばいい」

 

「塞ぐな」

 

 御門が即座に制止する。

 

「二人の帰還路でもある」

 

 タクヤが青い扉へ手を当てる。

 

「名前を呼ぶ道だからね。閉じたら、記憶の少女もまた一人になる」

 

 カナメが問う。

 

「なら、どうする」

 

 エックスは内部の反応を解析する。

 

「リオナと萌亜が記憶分散を試みています」

 

「成功率は」

 

「現状、算出不能です」

 

 御門が眉を寄せる。

 

「必要なものは」

 

「記憶を受け取る先です」

 

 会議室が静まる。

 

 タクヤは、すぐに茶葉缶の通信回路を開いた。

 

「茶会へ繋いで」

 

 エックスがタクヤを見る。

 

「十二万を超える個体記憶です。GTGの記録設備だけでは不足します」

 

「設備だけじゃなくていい」

 

「では、何に」

 

「夢に少しずつ。歌に少しずつ。物に少しずつ。誰かの心に、無理のない範囲で少しずつ」

 

 グラウが通信越しに慌てる。

 

『全参加者への同意確認が必要です!』

 

「もちろん」

 

 タクヤは穏やかに答える。

 

「受け取りたい人だけ。無理なら受け取らなくていい。記憶を押しつけない」

 

 エックスの目が、わずかに柔らかくなる。

 

「茶会式記憶分散」

 

「うん」

 

 ポムの声が聞こえる。

 

『私、一つなら覚えられます!』

 

 ケルも続く。

 

『個体名一件と短期記憶一件、受信を希望』

 

 ギギの電子音。

 

『機械記憶領域の一部を任意提供』

 

 グラウ。

 

『法務記録ではなく、個人記憶として一件受領希望!』

 

 法務統括官。

 

『任意同意型記憶継承規約を暫定作成する』

 

 カナメが短く言う。

 

「私も一件受け取る」

 

 ゼルヴァードも頷く。

 

「ならば、私もだ」

 

 御門は黙っていた。

 

 タクヤが見る。

 

「御門さんは?」

 

 御門は険しい顔のまま答える。

 

「国家機関の職員が、出所不明の古代文明記憶を私的に受け取るのは問題が多い」

 

「うん」

 

「だが」

 

 御門はタブレットを置いた。

 

「報告書に残せない一人くらい、俺が覚えていてもいい」

 

 萌亜には聞こえていないはずだった。

 

 それでも、青い扉が一瞬だけ温かく光った。

 

 モー子の鈴が鳴る。

 

『牛倫理協定、任意記憶分担条項、暫定発動』

 

『牛個体モー子、一件受領を希望』

 

『ただし牧草関連記憶を優先希望』

 

 御門が目を閉じる。

 

「選べるのか、それは」

 

 タクヤは少し笑った。

 

「希望は伝えていいと思う」

 

     *

 

 ムー中枢記憶核。

 

 リオナと萌亜の周囲に、光の道が開いた。

 

 茶葉の香り。

 

 GTG。

 

 エリの家。

 

 御門たちのいる地下管理区域。

 

 竜宮城、シャンバラ、エルドラド、アヴァロン。

 

 これまで築いてきた場所へ、細い記憶の道が伸びていく。

 

 エックスの声が届く。

 

『受領希望者を確認しました』

 

『現時点で四千七百二十一個体』

 

 萌亜が驚く。

 

「もうそんなに?」

 

『GTG全支部へ任意確認中です。強制受領は行いません』

 

 リオナは頷く。

 

「一人一つでいい」

 

「覚えられる分だけ」

 

 萌亜も続ける。

 

「忘れちゃったら、また誰かに話していい」

 

「記憶を閉じ込めない」

 

 少女が二人を見る。

 

『分散すれば、変質する』

 

 リオナは答える。

 

「うん。全部そのままじゃないかもしれない」

 

『誤って覚える可能性』

 

「ある」

 

『忘れる可能性』

 

「ある」

 

 萌亜は少女の手を握ったまま言う。

 

「でも、一人で完璧に覚えようとして、自分を消すよりいい」

 

 少女の瞳が揺れる。

 

『私が止まれば、失われる』

 

「止まってもいい」

 

『記録係は止まれない』

 

「あなたは記録係だけじゃない」

 

 少女は理解できないように、萌亜を見る。

 

 リオナが言った。

 

「まず、あなたの名前を探そう」

 

 周囲の記憶光が、少しずつ外へ流れ始める。

 

 無理やりではない。

 

 一つずつ。

 

 受け取る者へ。

 

 ポムへ、一人の少女が初めて甘い果実を食べた記憶。

 

 ケルへ、星を観測しながら居眠りした若い研究者の記憶。

 

 ギギへ、壊れた光の舟を何度も修理した整備士の記憶。

 

 カナメへ、沈む夜にも警備地点から離れなかった無名の兵士の記憶。

 

 ゼルヴァードへ、敵対していた隣人へ最後の水を渡した老人の記憶。

 

 御門へ。

 

 不格好な文字で、初めて公的記録を書き上げた若い書記官の記憶。

 

 御門の通信が一瞬途切れた。

 

 その後、低い声が返る。

 

『受け取った』

 

 タクヤへは、休憩中の人々へ温かい飲み物を配っていた食堂係の記憶が渡った。

 

 タクヤは静かに笑う。

 

『悪くないね』

 

 モー子へは、本当に青い牧草のような海草を育てていた農夫の記憶が渡った。

 

『もー』

 

 鈴が満足そうに鳴った。

 

 青い記憶核の負荷が、少しずつ下がる。

 

 少女の記録板に余白が生まれる。

 

 その余白の奥から、一つの小さな記憶が浮かび上がった。

 

 少女自身が削除したはずの記憶ではない。

 

 別の誰かが持っていた記憶。

 

 青い女性。

 

 ムーが沈む夜、最後の記録を残した指導者。

 

 彼女が、まだ幼い少女の頭を撫でている。

 

『ラナ』

 

 少女の瞳が見開かれる。

 

 記憶の中の女性は言う。

 

『すべてを一人で覚えなくていい』

 

『誰かに渡しなさい』

 

『あなた自身の名まで消してはいけない』

 

 少女の手から、記録板が落ちた。

 

『ラナ』

 

 萌亜は、その名を繰り返す。

 

「ラナ」

 

 リオナも呼ぶ。

 

「ラナ」

 

 少女の唇が震えた。

 

「……ラナ」

 

 初めて、少女自身の声が出た。

 

 記録装置の音ではない。

 

 一人の少女の声。

 

「わたしは、ラナ」

 

 青い涙が頬を流れる。

 

 萌亜は笑った。

 

「うん」

 

 リオナも頷く。

 

「忘れない」

 

 ラナは泣きながら、二人へ尋ねた。

 

「休んでも、いいの?」

 

 萌亜の胸が詰まる。

 

 タクヤの言葉。

 

 エックスが初めて教えられたこと。

 

 分かるまで休んでいい。

 

 萌亜はラナの手を握った。

 

「いいよ」

 

 リオナも反対側の手を握る。

 

「休んでる間は、みんなで呼ぶから」

 

 ラナは周囲を見る。

 

 十二万を超える光。

 

 その一部が、今は外の誰かへ渡っている。

 

 一人ではない。

 

 完璧ではない。

 

 忘れることもある。

 

 でも、呼び直せる。

 

 話し直せる。

 

 ラナは、ゆっくり目を閉じた。

 

「おやすみなさい」

 

 青い結晶が、柔らかく光った。

 

     *

 

 だが、その瞬間。

 

 中枢記憶核の最深部が開いた。

 

 ラナの負荷が下がったことで、今まで隠れていた記録領域が露出したのだ。

 

 そこには、ムー市民の記憶とは違うものが保存されていた。

 

 白い線。

 

 無数の観測記録。

 

 選定機関の古い命令。

 

 そして。

 

 さらに奥に、白い観測線を外側から見つめる、巨大な黒い影。

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが強く震えた。

 

『違う』

 

「何が?」

 

『白ではない』

 

 リオナも、その黒い影を見た。

 

 海の底より深い場所。

 

 星空より遠い場所。

 

 選定機関ですら、何かに観測されている。

 

 ラナが眠りへ落ちる直前、かすかな声で言った。

 

「選定機関が、ムーを見つけたのではない」

 

 萌亜とリオナが振り返る。

 

「どういうこと?」

 

 ラナの声は弱い。

 

「ムーを見ていた白を……別の何かが見ていた」

 

 黒い影が、記録の中で動く。

 

 海ではない。

 

 宇宙でもない。

 

 そのどちらよりも深い暗闇。

 

 巨大な何か。

 

 輪郭は分からない。

 

 ただ、こちらを向いたような気配だけがある。

 

 記憶領域全体が軋んだ。

 

 選定機関の白い線が、一斉に黒い影を隠そうとする。

 

『記録禁止』

 

『閲覧禁止』

 

『旧ムー観測記録、即時削除』

 

『対象情報は存在しない』

 

 リオナの表情が変わる。

 

「存在しないって言う時は、存在するやつ」

 

 萌亜も頷く。

 

「しかも、めっちゃ見られたくないやつ」

 

 ヨルが低く唸る。

 

『深い』

 

 黒い影の奥から、一瞬だけ音がした。

 

 歌。

 

 いや、歌ではない。

 

 海鳴り。

 

 祈り。

 

 眠る巨大な何かの呼吸。

 

 萌亜の脳裏に、石造りの海底都市が浮かんだ。

 

 緑色の石。

 

 歪んだ建物。

 

 深い海。

 

 無数の星が正しい位置へ戻る時を待つもの。

 

 そして。

 

 黒髪の少女が、一人、海岸に立っていた。

 

 九頭龍瑠々。

 

 彼女の瞳が、こちらを見た気がした。

 

 映像は一瞬で消える。

 

 リオナが息を呑む。

 

「今の……」

 

 萌亜の背中に冷たいものが走る。

 

「瑠々ちゃん?」

 

 選定機関の白い線が、記録領域を強制的に閉じ始める。

 

『閲覧者を排除』

 

『ムー中枢記録を再封印』

 

『黒色観測対象との接続を遮断』

 

 エックスの通信が激しく乱れる。

 

『二人とも、帰還してください! 記憶層が崩れます!』

 

 御門の声も響く。

 

『安藤、姫咲! 即時撤退しろ!』

 

 リオナは眠ったラナを見る。

 

「ラナは?」

 

『中枢核ごと第一封印へ退避させます!』

 

 萌亜はヨルボを抱え、ラナの手を一度だけ握った。

 

「また来るから」

 

 眠るラナの唇が、わずかに動く。

 

「……忘れないで」

 

「忘れない」

 

 リオナと萌亜は手を繋ぐ。

 

 アヴァロンの共同撤退経路。

 

 ムー第一封印の出口。

 

 茶葉の香り。

 

 エリの家。

 

 御門たちの待つ地下管理区域。

 

 帰る場所を思い浮かべる。

 

「一緒に逃げる!」

 

「一緒に戻る!」

 

 青い霧が二人を包んだ。

 

 その背後で、巨大な黒い影が、記憶の底から静かにこちらを見ていた。

 

     *

 

 青い扉から、リオナと萌亜が転がり出る。

 

 御門が二人を支えるように腕を伸ばした。

 

「戻ったか」

 

「戻りました……!」

 

 リオナが息を切らしながら答える。

 

 萌亜はヨルボを抱えたまま床へ座り込んだ。

 

「ラナは?」

 

 エックスが青い扉を確認する。

 

「第一封印内へ退避しています。中枢記憶核も維持。記憶分散は継続中です」

 

 萌亜は安心したように息を吐いた。

 

 御門がタブレットを確認する。

 

「新しい信号が増えている」

 

 モニターには、これまでの名前の列とは別に、一つの名前が表示されていた。

 

『ラナ』

 

 御門は、その名を見つめた。

 

「記録する」

 

 萌亜が顔を上げる。

 

「ちゃんと?」

 

「ああ。中枢記憶核管理人格ではなく、ラナとして残す」

 

 リオナは少し笑った。

 

「お願いします」

 

 タクヤが二人へ温かい飲み物を差し出す。

 

「おかえり」

 

「ただいま……」

 

「ただいま」

 

 二人は紙コップを受け取る。

 

 ほうじ茶の香り。

 

 帰ってきた場所の匂い。

 

 だが、まだ終わっていない。

 

 ゼルヴァードが、先ほど取得された映像を見ていた。

 

 巨大な黒い影。

 

 そして、海岸に立つ瑠々。

 

「この映像は何だ」

 

 エックスが解析を試みる。

 

「大部分が選定機関によって削除されています。しかし、ムーは選定機関を観測する別の存在を記録していたようです」

 

 カナメが言う。

 

「選定機関より上位の観測者か」

 

「断定できません」

 

 萌亜は胸に手を当てる。

 

 ヨルが、今も警戒している。

 

 アヴァロンで選定機関へ向けた時とは違う。

 

 もっと深い恐怖。

 

 でも、ただ敵を恐れる反応でもない。

 

 懐かしさに似たものが混じっている。

 

 リオナが萌亜を見る。

 

「瑠々だったよね」

 

「うん」

 

「たぶん、ルルイエに繋がってる」

 

 タクヤは静かに頷いた。

 

「でも、その前にムーで確認することがある」

 

「黒い影?」

 

「それもある。でも、もっと近いもの」

 

 タクヤは青い扉を見る。

 

「ラナが守っていた記録の中に、選定機関がムーを観測し始めた本当の理由があるはずだ」

 

 御門が低く言う。

 

「次の調査目標は決まったな」

 

 モニターに、新しい青い文字が浮かぶ。

 

『ムー第二門』

 

『名を残す者のみ、進入を許可』

 

『問い』

 

『文明を残すとは、誰を残すことか』

 

 萌亜は、表示された十二万を超える名前を見る。

 

 英雄だけではない。

 

 特別な者だけでもない。

 

 パンを焼いた人。

 

 玩具を拾ってもらった子ども。

 

 掃除をした老人。

 

 誰かへ最後の水を渡した人。

 

 そして、記録係だった少女。

 

 ラナ。

 

 萌亜は静かに言った。

 

「みんな」

 

 御門が萌亜を見る。

 

「何だ」

 

「文明を残すって、みんなを一人ずつ覚えることなのかも」

 

 御門はしばらく黙った。

 

「難しいな」

 

「うん」

 

「だが、役に立つ者だけを残すよりはましだ」

 

 萌亜は笑った。

 

「御門さん、チョベリグ正解」

 

「採点するな」

 

 会議室に、ほんの少しだけ笑いが戻った。

 

 だが、モニターの隅では、黒い影の断片が残っている。

 

 選定機関が存在しないことにしようとした記録。

 

 ムーが命懸けで守った、さらに深い秘密。

 

 その向こうで。

 

 まだ姿の見えないルルイエが、ゆっくりと眠りから呼吸を始めていた。

 





第35話を読んでいただき、ありがとうございました。

今回は、ムーが沈んだ後も、その記憶を守り続けていた存在が登場しました。

名前を呼び続ける少女。

ラナ。

彼女はムー中枢記憶核と、当時の記録係の人格が融合した存在です。

文明が沈んでから長い時間、ラナは一人でムー市民の名前を呼び続けていました。

名前を呼ばなければ、記憶が薄れる。

休めば、誰かが消える。

そう信じたラナは、自分自身の名前を記録容量から削除し、他者の名前を優先しました。

今回の問いは、

文明の記憶として、誰を残すのか。

というものです。

選定機関が提示したのは、非常に効率的な案でした。

指導者。

技術者。

医療従事者。

防衛機構開発者。

遺伝的に希少な者。

そうした「価値のある人間」を優先して残し、一般市民の日常記憶を削除する。

容量だけを考えれば、合理的です。

しかし、文明は役に立った人だけで作られているわけではありません。

パンを焼いた人。

玩具を拾ってもらった子ども。

歌詞を忘れた少女。

議場を掃除した老人。

誰かの飼っていた生き物を逃がそうとした人。

そうした人々も、確かにムーで生きていました。

リオナと萌亜は、記憶を一つの中枢核へ閉じ込めるのではなく、受け取りを望む人々へ少しずつ分ける方法を選びました。

強制ではありません。

受け取りたい人が、覚えられる分だけ受け取る。

忘れることがあっても、誰かへ話し直せる。

一人が完璧に記憶し続けるのではなく、みんなで不完全に覚えていく。

これが今回の答えです。

その結果、ラナ自身の名前も見つかりました。

ラナの名前は、ラナ自身の記録ではなく、彼女を大切に思っていた誰かの記憶に残っていました。

自分が自分を忘れても、誰かが名前を覚えていることがある。

これも、今回の大きなテーマです。

後半では、ムー中枢記憶核の最深部に、選定機関が隠したがっている記録が存在することが分かりました。

選定機関がムーを見ていた。

しかし、その選定機関をさらに別の何かが見ていた。

巨大な黒い影。

そして、海岸に立つ九頭龍瑠々。

この記録は、今後のルルイエ編へ繋がっていきます。

ただし、まだムー編は終わりません。

次に開くのは、ムー第二門。

問いは、

「文明を残すとは、誰を残すことか」

ムーが選定機関に観測された本当の理由。

選定機関が消そうとした記録。

そして、ムーの閉鎖機構が持つもう一つの用途。

ここから、ムーのさらに深い秘密へ進みます。

それではまた次回。

誰かが名前を呼んでくれるなら、少しくらい休んでもいい。
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