アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
第35話です。
ムー第一門で、リオナと萌亜は文明が沈んだ夜を見届けました。
ムーは、選定機関の観測から逃れるために自ら閉じました。
守るために。
見られないために。
選ばれないために。
しかし、閉じることは同時に、数えきれない人々の未来を海底へ封じる選択でもありました。
その失敗も、恐れも、罪も忘れないために、ムーは記憶を残しました。
そして二人は、第一封印を受け取ります。
記憶を捨てないこと。
閉じる時に出口を残すこと。
守る名を忘れないこと。
今回、第一封印の奥から新しい声が届きます。
それは警告でも、試練の宣告でもありません。
ただ、名前を呼び続ける声でした。
文明が沈んだ後。
暗い海底で、誰がムーの記憶を守り続けていたのか。
そして、選定機関はなぜ今になってムーを再び観測し始めたのか。
ムー編は、沈んだ文明の「その後」へ進みます。
忘れられたくない人は、役に立つ人だけではない
ムー第一封印を受け取った翌日。
国立国会図書館地下管理区域では、朝から複数の警告音が鳴り続けていた。
赤。
黄色。
青。
それぞれ別の異常を示す表示が、壁面モニターを埋め尽くしている。
その中央で、御門征十郎は眉間を押さえていた。
「状況を整理する」
低い声が、会議室に響く。
「昨日、安藤と姫咲がムー第一封印を取得した。それ以降、太平洋深海観測網の一部に大規模な空白領域が発生している」
萌亜が恐る恐る手を挙げた。
「空白って、見えなくなった感じですか」
「そうだ」
「成功?」
「政府の観測網からも消えている。全面的な成功とは言いづらい」
「チョベリバ副作用……」
「君はもう少し深刻そうな顔をしろ」
そう言われた萌亜は、両頬を手で押さえて真面目な顔を作った。
「こうですか」
「戻していい」
隣でリオナが吹き出す。
御門は深いため息をついたが、すぐにタブレットへ視線を戻した。
「現在、ムー遺跡の中枢部は通常観測から消えている。音響探査、重力測定、外宇宙式走査、すべて不成立だ」
エックスが補足する。
「選定機関の観測線も、第一封印の内側へ到達できていません。ムーの限定観測遮断は機能しています」
ゼルヴァードが腕を組んだ。
「ならば、むしろ好都合ではないか」
「問題は別にあります」
エックスがモニターを切り替える。
青い波形が映った。
昨日までとは違う。
一定の間隔で区切られた、小さな音の連なり。
短いもの。
長いもの。
同じ形を繰り返すもの。
御門が言う。
「封印成立から二時間後、空白領域の内側から新しい信号が出始めた」
「中から出てるの?」
リオナが尋ねる。
「ああ。こちらからは見えない。だが、向こうからは信号を出せるらしい」
萌亜は波形をじっと見た。
胸の奥でヨルが動く。
怖がってはいない。
耳を澄ませている。
萌亜は目を閉じた。
音としては聞こえない。
けれど、意味が少しずつ浮かび上がってくる。
『ラオ』
『セナ』
『ミュル』
『アナイ』
『トト』
『ユア』
知らない言葉。
知らない響き。
だが、それが何なのかは分かった。
「名前……」
萌亜が呟いた。
会議室の全員が萌亜を見る。
リオナが訊いた。
「名前?」
「うん。これ、誰かが名前を呼んでる」
エックスが解析速度を上げる。
「信号を固有名詞列として再解析します」
青い波形の下に、無数の区切りが表示された。
一つ。
十。
百。
千。
画面を埋めても終わらない。
御門の表情が険しくなる。
「数は」
「現時点で照合可能なものだけで、十二万四千七百三十一」
エックスが答えた。
萌亜の顔から、少しずつ表情が消えた。
「そんなに……」
「信号はまだ続いています。重複を除いても、増加中です」
リオナは青い波形を見つめた。
「ムーの人たちの名前?」
「可能性が高いです」
タクヤは静かにモニターを見ていた。
「誰かが、ずっと呼んでるんだね」
「文明が沈んでから?」
萌亜が問う。
「たぶん」
どれほど長い時間なのか。
現在の人類史よりも古い文明。
その大陸が沈んでから、誰かが海底で名前を呼び続けている。
忘れないために。
誰もいなくなっても。
聞く者がいなくても。
カナメが低く言った。
「目的は何だ」
エックスは一つの波形を拡大した。
「単なる記録送信ではありません。それぞれの名前に、ごく小規模な記憶情報が付属しています」
画面に短い映像が映る。
青い石を握る小さな手。
水路を走る子ども。
焼かれた魚料理を笑いながら食べる家族。
白い塔の階段を駆け上がる若者。
眠る赤ん坊の額へ口づける母親。
一瞬だけの記憶。
だが、確かに誰かが生きていた記録。
萌亜はヨルボを胸に抱きしめた。
「名前と、一番大事な記憶……」
御門がタブレットを操作する。
「信号源は第一封印よりさらに深い。昨日開いた記憶階層の下だ」
リオナが顔を上げる。
「また行くんですよね」
「調査は必要だ」
御門は即答した。
そして少し間を置く。
「ただし、昨日の今日だ。無理に行けとは言わない」
萌亜は御門を見る。
硬い表情。
低い声。
だが、その言葉には明確な気遣いがあった。
「御門さん」
「何だ」
「優しい」
「疲労状態の人間を即座に再投入しないのは、最低限の運用だ」
「照れてる?」
「安藤」
「はい」
「任務前に余計な消耗を増やすな」
リオナが萌亜の袖を軽く引く。
「でも、どうする?」
萌亜は青い波形を見る。
誰かが、今も名前を呼んでいる。
一人ずつ。
一つずつ。
自分なら。
ヨルという名前を呼んでもらえなかったら。
安藤萌亜という名前を忘れられたら。
恐怖の王。
文明選定個体。
危険個体。
そういう分類だけが残ったら。
きっと嫌だ。
萌亜は胸元に手を当てた。
「ヨル」
『聞いている』
「行きたい?」
短い沈黙。
『呼んでいる』
「うん」
萌亜はリオナを見る。
「行く」
リオナも頷いた。
「私も」
御門は二人を見た後、静かに言った。
「分かった。準備に入る」
*
今回の入口は、水族館ではなかった。
ムー第一封印が形成されたことで、国立国会図書館地下管理区域の一室に、小さな青い扉が固定されていた。
以前は古文書の一時保管庫だった場所。
今は壁の中央に、水面のような楕円が浮かんでいる。
その向こうに、沈んだ都市が見えた。
青い光。
崩れた白い塔。
海底へ横たわる水路。
魚影すらない、静かな海。
御門は扉の前で最終確認を行う。
「接続時間は現実側で四十分を上限とする」
「記憶層だと?」
リオナが尋ねる。
「不明だ。長く感じても、外部通信を基準にしろ」
「了解です」
「第一封印は観測を遮断する。こちらの通信も弱くなる。聞こえないからといって奥へ進み続けるな」
萌亜が頷く。
「出口を残す」
「ああ。それを忘れるな」
エックスが二人の接続補助紐を確認する。
白金。
銀。
赤。
金。
そして深い青。
「第一封印は安定しています。ただし、内部で強い記憶損傷が発生した場合、閉鎖反応へ傾く可能性があります」
タクヤが茶葉缶を差し出す。
「今回は持っていって」
萌亜が受け取る。
「師匠のお茶缶」
「中に茶葉も少し入ってるよ」
「海底でお茶できます?」
「できるかもしれない」
御門が即座に言う。
「記憶層内で不用意に飲食するな」
タクヤが穏やかに笑う。
「香りだけだよ」
「あなたが言うと、本当に茶会を始めそうで困る」
「必要なら始めるよ」
「否定しないのか」
モー子の鈴が、通信端末から小さく鳴った。
『牛倫理協定、忘れられた名前確認業務見守り条項、暫定発動』
『名誉終身守衛モー子、遠隔勤務中』
『個体名を有用性のみで選別する行為、倫理審査対象』
御門が端末を見た。
「まだ何も起きていないぞ」
エックスが答える。
「予防的条項です」
「牛の方が展開を読んでいるのはなぜだ」
ゼルヴァードが真顔で言う。
「過去の実績からすれば、妥当な警戒だ」
御門は何も言わず、ため息だけをついた。
リオナと萌亜は顔を見合わせる。
「行こう」
「うん」
二人は手を繋ぎ、青い扉をくぐった。
*
足元に、海底の石畳が現れた。
水の中にいるはずなのに、息ができる。
服も髪も濡れていない。
ただ、身体全体へ深い水圧の記憶がのしかかってくる。
都市は静かだった。
昨日見た沈没の瞬間から、どれほどの時間が過ぎたのか。
白い塔は折れている。
青い水路には砂が積もっている。
光の舟は、海底へ倒れたまま動かない。
都市のあちこちに、小さな青い結晶が浮いていた。
萌亜が一つへ近づく。
手を伸ばす前に、結晶が光った。
『セナ』
女性の名前。
短い記憶が流れる。
焼きたてのパンを手に、笑う女性。
誰かへ渡すために、少し形の悪いものを選んで自分用にする。
それだけの記憶。
結晶の光が弱くなる。
リオナは息を詰めた。
「この人の一番大事な記憶?」
「分かんない。でも、すごく普通」
「うん」
英雄ではない。
王でもない。
特別な技術者でもない。
ただ、パンを焼いて、誰かのために綺麗な方を残した人。
二人が進むと、別の結晶が光る。
『トト』
水路へ落とした玩具を、父親に拾ってもらう少年。
『アナイ』
初めて歌の舞台へ立ち、緊張で歌詞を一つ忘れた少女。
『ミュル』
議場の清掃をしながら、偉い人たちが忘れた書類をそっと並べ直す老人。
『ラオ』
沈む直前まで、他人の飼っていた小さな水棲生物を逃がそうとした青年。
名前。
記憶。
名前。
記憶。
都市の中には、数えきれない人生が浮いていた。
萌亜は次第に歩く速度を落とした。
「多い……」
「うん」
「全部、聞けるかな」
リオナは答えられなかった。
十二万を超える名前。
今も増え続けている。
二人だけで全部を聞くには、あまりにも多い。
ヨルが胸の奥で呟く。
『忘れる』
萌亜の肩が震えた。
「ヨル?」
『多すぎる』
ヨルの言葉には恐怖があった。
覚えたい。
でも、覚えきれない。
忘れてしまう。
ムーが守った名前を、自分たちも取りこぼしてしまう。
萌亜は唇を噛んだ。
「覚えるって言ったのに」
リオナがすぐに言う。
「全部を一人で覚えるって意味じゃない」
「でも……」
「萌亜」
リオナは、萌亜の両肩へ手を置いた。
「また一人で背負おうとしてる」
萌亜は言葉を失う。
アヴァロンで何度も学んだ。
一人で王にならない。
一人で消えない。
一人で全部を守ろうとしない。
でも、数えきれない名前を前にすると、また同じ考えが出てくる。
自分が覚えなければ。
自分が守らなければ。
萌亜は目を伏せた。
「ごめん」
「謝らなくていい。気づけたから」
ヨルにも、リオナは呼びかける。
「ヨルも、一人で全部食べないで」
『食べない』
「全部抱え込まないで、って意味」
『……判断保留』
「よし」
萌亜は少しだけ笑った。
*
名前の光を辿った先に、円形の建物があった。
昨日、沈む直前に青い女性が立っていた結晶塔。
その地下部分。
扉は半分崩れている。
内部から、名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
『ラオ』
『セナ』
『ミュル』
『アナイ』
同じ調子。
途切れず。
疲れも見せず。
ただ、一人ずつ呼び続けている。
リオナと萌亜は建物へ入った。
中央に、巨大な青い結晶があった。
結晶の周囲には無数の小さな光が回っている。
その下に、少女が座っていた。
十歳ほどに見える。
青白い髪。
額には、小さく欠けた青い石。
古いムーの装束。
膝の上に、分厚い記録板を載せている。
少女は二人を見なかった。
記録板へ指を滑らせながら、名前を呼び続ける。
『トト』
『ユア』
『カラ』
『レオナ』
一つ呼ぶたび、周囲の青い光が一つだけ明るくなる。
萌亜は、ゆっくり近づいた。
「こんにちは」
少女は反応しない。
『セナ』
「聞こえる?」
『ラオ』
「萌亜っていいます」
少女の指が止まった。
ほんの一瞬。
だが、また動き始める。
『ミュル』
リオナも声をかけた。
「姫咲リオナです。あなたが、名前を呼んでるの?」
少女は答えない。
代わりに、巨大な結晶から声が響く。
『記録継続』
『忘却率、上昇』
『個体名再呼称により保持』
『停止不可』
エックスの通信が途切れながら届く。
『その少女は……人間ではありません。ムー中枢記憶核と、一人の記録係の人格が融合した存在です』
萌亜は少女を見る。
「ずっと、一人で?」
『文明沈降後、記録保持を継続』
『経過時間、算出不能』
少女は名前を呼ぶ。
『アナイ』
『トト』
『ユア』
リオナは胸が痛くなった。
「休んでないの?」
『休止により記憶劣化が進行』
『休止不可』
萌亜は膝をつき、少女と同じ高さへ顔を下ろした。
「あなたの名前は?」
少女の指が止まる。
今度は長く。
記録板の文字が乱れた。
『記録係識別名』
『……』
『検索』
『検索』
『該当なし』
少女が、初めて萌亜を見た。
瞳は深い青。
でも、その奥は空っぽに近かった。
『私の名は、保持対象外』
萌亜は息を呑んだ。
「どうして?」
『記録容量確保のため削除』
『市民名を優先』
『記録係自身の情報は不要』
リオナの表情が硬くなる。
「不要じゃない」
『記録係の目的は他者記憶の保持』
「だからって、自分の名前を消していい理由にはならない」
『容量不足』
少女は淡々と答えた。
『指導者記録』
『技術者記録』
『医療記録』
『児童記録』
『一般市民記録』
『優先順位を設定』
『記録係自身は最下位』
萌亜の胸の奥で、ヨルが低く唸った。
『消すな』
少女が、萌亜の背後に浮かぶ霧の王冠を見る。
『夜性存在を確認』
『危険』
萌亜は首を横に振った。
「ヨル。怖いけど、萌亜と一緒にいる」
『名がある』
「うん」
『私にはない』
その一言は、初めて機械的ではなかった。
寂しさ。
ほんのわずかな悲しさ。
長い時間の中で、自分の名前だけを削り、他人の名前を呼び続けた少女。
萌亜は手を伸ばしかける。
だが、触れる前に止めた。
「触っていい?」
少女は萌亜を見る。
『確認行為』
「うん。勝手に触らない」
長い沈黙。
『許可』
萌亜は少女の手を握った。
冷たい。
石のようで。
でも、微かに震えている。
「名前、探そう」
『存在しない』
「忘れただけかもしれない」
『削除済』
「それでも、誰かが覚えてるかもしれない」
少女は周囲の十二万を超える光を見た。
『全記録検索済』
「その記録の中に、あなたがいないから見つからないんじゃない?」
リオナの言葉に、少女がゆっくり振り返る。
「あなたがみんなを見てた記録はある。でも、誰かがあなたを見てた記憶を探した?」
『……』
「あなたの名前を呼んだ人の記憶」
少女の瞳が大きく揺れた。
*
その瞬間、巨大な青い結晶に白い亀裂が走った。
選定機関の観測線。
第一封印を避け、名前の送信経路を逆流してきたのだ。
『ムー中枢記憶核を確認』
『記録総数、膨大』
『保存効率、低』
『重要度による再編成を推奨』
少女が立ち上がる。
『外部観測』
『記録防衛を開始』
青い光が一斉に閉じようとする。
萌亜は少女の手を強く握った。
「待って! 全部沈めない!」
『観測された』
「分かってる!」
『記録を奪われる』
「守る! でも、一緒に考える!」
選定機関の白い文字が、巨大結晶の周囲へ広がる。
『記録最適化案』
『優先保存対象』
『指導者』
『技術者』
『医療従事者』
『防衛機構開発者』
『遺伝的希少個体』
『その他一般市民記録、削除可能』
萌亜の顔が怒りに染まる。
「その他って言うな」
選定機関は構わず続ける。
『記録容量の七十八パーセントを削減可能』
『有用情報を効率的に保持』
『無価値な日常記憶を除去』
パンを焼いた女性。
玩具を拾ってもらった少年。
歌詞を忘れた少女。
清掃を続けた老人。
誰かの小さな水棲生物を逃がそうとした青年。
それらが「無価値な日常記憶」と分類されていく。
少女の記録板へ、削除候補の白い印が浮かんだ。
少女は震えた。
『容量不足』
『記録劣化』
『優先順位設定が必要』
選定機関が囁く。
『最適化せよ』
『有用な者を残せ』
『文明とは価値ある者の記録である』
リオナは、白い文字を睨んだ。
「違う」
『接続因子の判断は情動的』
「文明は、役に立った人だけでできてない」
白い線が増える。
『記録容量は有限』
「だからって、勝手に誰かをその他にするな!」
少女が苦しそうに記録板を抱える。
『保持不能』
『忘却率、上昇』
『選別が必要』
萌亜の胸の奥で、ヨルが吼えた。
『消すな』
霧の王冠が大きく広がる。
だが、そのままではすべてを閉じてしまう。
萌亜はヨルへ呼びかける。
「ヨル、全部抱えない!」
『消える』
「分ける!」
『誰に』
萌亜は言葉に詰まった。
十二万を超える名前。
一つの中枢記憶核。
一人の少女が支え続けている。
このままでは持たない。
選定機関の提案を拒むだけでは、いずれ本当に記憶は消える。
リオナが周囲の光を見た。
「一か所に全部あるから、壊れそうになる」
萌亜がリオナを見る。
「分けるって、そういうこと?」
「うん。みんなで覚える」
「みんなって?」
リオナは、自分たちが越えてきた場所を思い出す。
「竜宮城の深層記憶」
青い海が足元へ広がる。
「シャンバラの夢」
白い花びらが舞う。
「エルドラドの物質化」
金と赤の火が灯る。
「アヴァロンの霧の道」
銀色の霧が広がる。
「茶会の休息網」
タクヤの茶葉缶が温かくなる。
「ムーの第一封印」
深い青の膜が、記憶を包む。
リオナは萌亜の手を握る。
「一つの場所で、一人が全部呼び続けなくていい形にする」
萌亜は目を見開いた。
「記憶を、みんなに分ける」
『記憶汚染の危険』
選定機関が即座に警告する。
『無関係な個体への記憶配布は非効率』
「効率の話してない!」
萌亜が叫んだ。
「誰か一人が、みんなを忘れないために自分の名前を消す方が間違ってる!」
少女の青い瞳が揺れる。
『私の名は不要』
「必要!」
萌亜は少女の手を両手で握った。
「だって、萌亜はあなたの名前を呼びたい!」
少女の瞳から、青い光の粒がこぼれた。
涙に見えた。
*
外側。
国立国会図書館地下管理区域では、警報が最大音量で鳴っていた。
御門がモニターを睨む。
「選定機関が内部へ侵入した。経路は」
ギギの電子音が響く。
『個体名送信波を逆探知された』
エックスが白い幾何学紋を展開する。
「第一封印は空間観測を遮断しました。しかし、ムー側から名前を送信したことで、細い出口が生じています」
御門は低く吐き捨てる。
「出口を残せという条件を逆手に取ったか」
ゼルヴァードが術式を構える。
「出口を塞げばいい」
「塞ぐな」
御門が即座に制止する。
「二人の帰還路でもある」
タクヤが青い扉へ手を当てる。
「名前を呼ぶ道だからね。閉じたら、記憶の少女もまた一人になる」
カナメが問う。
「なら、どうする」
エックスは内部の反応を解析する。
「リオナと萌亜が記憶分散を試みています」
「成功率は」
「現状、算出不能です」
御門が眉を寄せる。
「必要なものは」
「記憶を受け取る先です」
会議室が静まる。
タクヤは、すぐに茶葉缶の通信回路を開いた。
「茶会へ繋いで」
エックスがタクヤを見る。
「十二万を超える個体記憶です。GTGの記録設備だけでは不足します」
「設備だけじゃなくていい」
「では、何に」
「夢に少しずつ。歌に少しずつ。物に少しずつ。誰かの心に、無理のない範囲で少しずつ」
グラウが通信越しに慌てる。
『全参加者への同意確認が必要です!』
「もちろん」
タクヤは穏やかに答える。
「受け取りたい人だけ。無理なら受け取らなくていい。記憶を押しつけない」
エックスの目が、わずかに柔らかくなる。
「茶会式記憶分散」
「うん」
ポムの声が聞こえる。
『私、一つなら覚えられます!』
ケルも続く。
『個体名一件と短期記憶一件、受信を希望』
ギギの電子音。
『機械記憶領域の一部を任意提供』
グラウ。
『法務記録ではなく、個人記憶として一件受領希望!』
法務統括官。
『任意同意型記憶継承規約を暫定作成する』
カナメが短く言う。
「私も一件受け取る」
ゼルヴァードも頷く。
「ならば、私もだ」
御門は黙っていた。
タクヤが見る。
「御門さんは?」
御門は険しい顔のまま答える。
「国家機関の職員が、出所不明の古代文明記憶を私的に受け取るのは問題が多い」
「うん」
「だが」
御門はタブレットを置いた。
「報告書に残せない一人くらい、俺が覚えていてもいい」
萌亜には聞こえていないはずだった。
それでも、青い扉が一瞬だけ温かく光った。
モー子の鈴が鳴る。
『牛倫理協定、任意記憶分担条項、暫定発動』
『牛個体モー子、一件受領を希望』
『ただし牧草関連記憶を優先希望』
御門が目を閉じる。
「選べるのか、それは」
タクヤは少し笑った。
「希望は伝えていいと思う」
*
ムー中枢記憶核。
リオナと萌亜の周囲に、光の道が開いた。
茶葉の香り。
GTG。
エリの家。
御門たちのいる地下管理区域。
竜宮城、シャンバラ、エルドラド、アヴァロン。
これまで築いてきた場所へ、細い記憶の道が伸びていく。
エックスの声が届く。
『受領希望者を確認しました』
『現時点で四千七百二十一個体』
萌亜が驚く。
「もうそんなに?」
『GTG全支部へ任意確認中です。強制受領は行いません』
リオナは頷く。
「一人一つでいい」
「覚えられる分だけ」
萌亜も続ける。
「忘れちゃったら、また誰かに話していい」
「記憶を閉じ込めない」
少女が二人を見る。
『分散すれば、変質する』
リオナは答える。
「うん。全部そのままじゃないかもしれない」
『誤って覚える可能性』
「ある」
『忘れる可能性』
「ある」
萌亜は少女の手を握ったまま言う。
「でも、一人で完璧に覚えようとして、自分を消すよりいい」
少女の瞳が揺れる。
『私が止まれば、失われる』
「止まってもいい」
『記録係は止まれない』
「あなたは記録係だけじゃない」
少女は理解できないように、萌亜を見る。
リオナが言った。
「まず、あなたの名前を探そう」
周囲の記憶光が、少しずつ外へ流れ始める。
無理やりではない。
一つずつ。
受け取る者へ。
ポムへ、一人の少女が初めて甘い果実を食べた記憶。
ケルへ、星を観測しながら居眠りした若い研究者の記憶。
ギギへ、壊れた光の舟を何度も修理した整備士の記憶。
カナメへ、沈む夜にも警備地点から離れなかった無名の兵士の記憶。
ゼルヴァードへ、敵対していた隣人へ最後の水を渡した老人の記憶。
御門へ。
不格好な文字で、初めて公的記録を書き上げた若い書記官の記憶。
御門の通信が一瞬途切れた。
その後、低い声が返る。
『受け取った』
タクヤへは、休憩中の人々へ温かい飲み物を配っていた食堂係の記憶が渡った。
タクヤは静かに笑う。
『悪くないね』
モー子へは、本当に青い牧草のような海草を育てていた農夫の記憶が渡った。
『もー』
鈴が満足そうに鳴った。
青い記憶核の負荷が、少しずつ下がる。
少女の記録板に余白が生まれる。
その余白の奥から、一つの小さな記憶が浮かび上がった。
少女自身が削除したはずの記憶ではない。
別の誰かが持っていた記憶。
青い女性。
ムーが沈む夜、最後の記録を残した指導者。
彼女が、まだ幼い少女の頭を撫でている。
『ラナ』
少女の瞳が見開かれる。
記憶の中の女性は言う。
『すべてを一人で覚えなくていい』
『誰かに渡しなさい』
『あなた自身の名まで消してはいけない』
少女の手から、記録板が落ちた。
『ラナ』
萌亜は、その名を繰り返す。
「ラナ」
リオナも呼ぶ。
「ラナ」
少女の唇が震えた。
「……ラナ」
初めて、少女自身の声が出た。
記録装置の音ではない。
一人の少女の声。
「わたしは、ラナ」
青い涙が頬を流れる。
萌亜は笑った。
「うん」
リオナも頷く。
「忘れない」
ラナは泣きながら、二人へ尋ねた。
「休んでも、いいの?」
萌亜の胸が詰まる。
タクヤの言葉。
エックスが初めて教えられたこと。
分かるまで休んでいい。
萌亜はラナの手を握った。
「いいよ」
リオナも反対側の手を握る。
「休んでる間は、みんなで呼ぶから」
ラナは周囲を見る。
十二万を超える光。
その一部が、今は外の誰かへ渡っている。
一人ではない。
完璧ではない。
忘れることもある。
でも、呼び直せる。
話し直せる。
ラナは、ゆっくり目を閉じた。
「おやすみなさい」
青い結晶が、柔らかく光った。
*
だが、その瞬間。
中枢記憶核の最深部が開いた。
ラナの負荷が下がったことで、今まで隠れていた記録領域が露出したのだ。
そこには、ムー市民の記憶とは違うものが保存されていた。
白い線。
無数の観測記録。
選定機関の古い命令。
そして。
さらに奥に、白い観測線を外側から見つめる、巨大な黒い影。
萌亜の胸の奥で、ヨルが強く震えた。
『違う』
「何が?」
『白ではない』
リオナも、その黒い影を見た。
海の底より深い場所。
星空より遠い場所。
選定機関ですら、何かに観測されている。
ラナが眠りへ落ちる直前、かすかな声で言った。
「選定機関が、ムーを見つけたのではない」
萌亜とリオナが振り返る。
「どういうこと?」
ラナの声は弱い。
「ムーを見ていた白を……別の何かが見ていた」
黒い影が、記録の中で動く。
海ではない。
宇宙でもない。
そのどちらよりも深い暗闇。
巨大な何か。
輪郭は分からない。
ただ、こちらを向いたような気配だけがある。
記憶領域全体が軋んだ。
選定機関の白い線が、一斉に黒い影を隠そうとする。
『記録禁止』
『閲覧禁止』
『旧ムー観測記録、即時削除』
『対象情報は存在しない』
リオナの表情が変わる。
「存在しないって言う時は、存在するやつ」
萌亜も頷く。
「しかも、めっちゃ見られたくないやつ」
ヨルが低く唸る。
『深い』
黒い影の奥から、一瞬だけ音がした。
歌。
いや、歌ではない。
海鳴り。
祈り。
眠る巨大な何かの呼吸。
萌亜の脳裏に、石造りの海底都市が浮かんだ。
緑色の石。
歪んだ建物。
深い海。
無数の星が正しい位置へ戻る時を待つもの。
そして。
黒髪の少女が、一人、海岸に立っていた。
九頭龍瑠々。
彼女の瞳が、こちらを見た気がした。
映像は一瞬で消える。
リオナが息を呑む。
「今の……」
萌亜の背中に冷たいものが走る。
「瑠々ちゃん?」
選定機関の白い線が、記録領域を強制的に閉じ始める。
『閲覧者を排除』
『ムー中枢記録を再封印』
『黒色観測対象との接続を遮断』
エックスの通信が激しく乱れる。
『二人とも、帰還してください! 記憶層が崩れます!』
御門の声も響く。
『安藤、姫咲! 即時撤退しろ!』
リオナは眠ったラナを見る。
「ラナは?」
『中枢核ごと第一封印へ退避させます!』
萌亜はヨルボを抱え、ラナの手を一度だけ握った。
「また来るから」
眠るラナの唇が、わずかに動く。
「……忘れないで」
「忘れない」
リオナと萌亜は手を繋ぐ。
アヴァロンの共同撤退経路。
ムー第一封印の出口。
茶葉の香り。
エリの家。
御門たちの待つ地下管理区域。
帰る場所を思い浮かべる。
「一緒に逃げる!」
「一緒に戻る!」
青い霧が二人を包んだ。
その背後で、巨大な黒い影が、記憶の底から静かにこちらを見ていた。
*
青い扉から、リオナと萌亜が転がり出る。
御門が二人を支えるように腕を伸ばした。
「戻ったか」
「戻りました……!」
リオナが息を切らしながら答える。
萌亜はヨルボを抱えたまま床へ座り込んだ。
「ラナは?」
エックスが青い扉を確認する。
「第一封印内へ退避しています。中枢記憶核も維持。記憶分散は継続中です」
萌亜は安心したように息を吐いた。
御門がタブレットを確認する。
「新しい信号が増えている」
モニターには、これまでの名前の列とは別に、一つの名前が表示されていた。
『ラナ』
御門は、その名を見つめた。
「記録する」
萌亜が顔を上げる。
「ちゃんと?」
「ああ。中枢記憶核管理人格ではなく、ラナとして残す」
リオナは少し笑った。
「お願いします」
タクヤが二人へ温かい飲み物を差し出す。
「おかえり」
「ただいま……」
「ただいま」
二人は紙コップを受け取る。
ほうじ茶の香り。
帰ってきた場所の匂い。
だが、まだ終わっていない。
ゼルヴァードが、先ほど取得された映像を見ていた。
巨大な黒い影。
そして、海岸に立つ瑠々。
「この映像は何だ」
エックスが解析を試みる。
「大部分が選定機関によって削除されています。しかし、ムーは選定機関を観測する別の存在を記録していたようです」
カナメが言う。
「選定機関より上位の観測者か」
「断定できません」
萌亜は胸に手を当てる。
ヨルが、今も警戒している。
アヴァロンで選定機関へ向けた時とは違う。
もっと深い恐怖。
でも、ただ敵を恐れる反応でもない。
懐かしさに似たものが混じっている。
リオナが萌亜を見る。
「瑠々だったよね」
「うん」
「たぶん、ルルイエに繋がってる」
タクヤは静かに頷いた。
「でも、その前にムーで確認することがある」
「黒い影?」
「それもある。でも、もっと近いもの」
タクヤは青い扉を見る。
「ラナが守っていた記録の中に、選定機関がムーを観測し始めた本当の理由があるはずだ」
御門が低く言う。
「次の調査目標は決まったな」
モニターに、新しい青い文字が浮かぶ。
『ムー第二門』
『名を残す者のみ、進入を許可』
『問い』
『文明を残すとは、誰を残すことか』
萌亜は、表示された十二万を超える名前を見る。
英雄だけではない。
特別な者だけでもない。
パンを焼いた人。
玩具を拾ってもらった子ども。
掃除をした老人。
誰かへ最後の水を渡した人。
そして、記録係だった少女。
ラナ。
萌亜は静かに言った。
「みんな」
御門が萌亜を見る。
「何だ」
「文明を残すって、みんなを一人ずつ覚えることなのかも」
御門はしばらく黙った。
「難しいな」
「うん」
「だが、役に立つ者だけを残すよりはましだ」
萌亜は笑った。
「御門さん、チョベリグ正解」
「採点するな」
会議室に、ほんの少しだけ笑いが戻った。
だが、モニターの隅では、黒い影の断片が残っている。
選定機関が存在しないことにしようとした記録。
ムーが命懸けで守った、さらに深い秘密。
その向こうで。
まだ姿の見えないルルイエが、ゆっくりと眠りから呼吸を始めていた。
第35話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、ムーが沈んだ後も、その記憶を守り続けていた存在が登場しました。
名前を呼び続ける少女。
ラナ。
彼女はムー中枢記憶核と、当時の記録係の人格が融合した存在です。
文明が沈んでから長い時間、ラナは一人でムー市民の名前を呼び続けていました。
名前を呼ばなければ、記憶が薄れる。
休めば、誰かが消える。
そう信じたラナは、自分自身の名前を記録容量から削除し、他者の名前を優先しました。
今回の問いは、
文明の記憶として、誰を残すのか。
というものです。
選定機関が提示したのは、非常に効率的な案でした。
指導者。
技術者。
医療従事者。
防衛機構開発者。
遺伝的に希少な者。
そうした「価値のある人間」を優先して残し、一般市民の日常記憶を削除する。
容量だけを考えれば、合理的です。
しかし、文明は役に立った人だけで作られているわけではありません。
パンを焼いた人。
玩具を拾ってもらった子ども。
歌詞を忘れた少女。
議場を掃除した老人。
誰かの飼っていた生き物を逃がそうとした人。
そうした人々も、確かにムーで生きていました。
リオナと萌亜は、記憶を一つの中枢核へ閉じ込めるのではなく、受け取りを望む人々へ少しずつ分ける方法を選びました。
強制ではありません。
受け取りたい人が、覚えられる分だけ受け取る。
忘れることがあっても、誰かへ話し直せる。
一人が完璧に記憶し続けるのではなく、みんなで不完全に覚えていく。
これが今回の答えです。
その結果、ラナ自身の名前も見つかりました。
ラナの名前は、ラナ自身の記録ではなく、彼女を大切に思っていた誰かの記憶に残っていました。
自分が自分を忘れても、誰かが名前を覚えていることがある。
これも、今回の大きなテーマです。
後半では、ムー中枢記憶核の最深部に、選定機関が隠したがっている記録が存在することが分かりました。
選定機関がムーを見ていた。
しかし、その選定機関をさらに別の何かが見ていた。
巨大な黒い影。
そして、海岸に立つ九頭龍瑠々。
この記録は、今後のルルイエ編へ繋がっていきます。
ただし、まだムー編は終わりません。
次に開くのは、ムー第二門。
問いは、
「文明を残すとは、誰を残すことか」
ムーが選定機関に観測された本当の理由。
選定機関が消そうとした記録。
そして、ムーの閉鎖機構が持つもう一つの用途。
ここから、ムーのさらに深い秘密へ進みます。
それではまた次回。
誰かが名前を呼んでくれるなら、少しくらい休んでもいい。