アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
ムー第二門を越えたことで、選定機関が隠していた事実が明らかになりました。
ムーは最初から危険な文明だったわけではありません。
ムーの祈りに、深い海の向こうから何者かが応えた。
その存在に権限の根拠を問われた選定機関は、ムーを危険文明へ分類し直し、沈む以外の道を少しずつ奪っていきました。
それでも、ムーはすべてを海底へ閉じ込めたわけではありません。
名前を送りました。
歌を送りました。
まだ生まれていない誰かへ、言葉を送りました。
今回は、沈んだ文明が外の世界へ残そうとしたものを辿ります。
届かなかった手紙。
読む者を失った言葉。
そして、あまりにも遅れて返ってきた返事の話です。
湯呑みの中で、青い紙の舟が回っていた。
姫咲家の朝食。
焼き鮭と味噌汁、卵焼きが並ぶ食卓の中央で、安藤萌亜は箸を持ったまま固まっている。
湯呑みのほうじ茶には、つい数秒前まで何も浮かんでいなかった。
それが萌亜が一口飲もうとした瞬間、青白い光が水面に滲み、小指ほどの紙舟が姿を現した。
「……師匠のお茶、ついに船便始めた?」
向かいに座る楠タクヤが、穏やかに首を横へ振る。
「僕じゃないよ」
「じゃあ御門さん?」
「御門さんは、他人の朝食へ国家機密を浮かべるほど非常識ではないと思う」
姫咲リオナはスマートフォンを手に取った。
「一応、写真撮るね」
母のエリが台所から顔を出す。
「食べ物で遊んでいるんじゃないでしょうね」
「向こうから遊びに来た」
「何が?」
「古代文明の紙舟」
エリは数秒、娘の言葉を吟味した。
以前なら聞き返していたかもしれない。
今は違う。
「味噌汁には入れないでね」
「対応が強い」
リオナが感心する隣で、萌亜は湯呑みへ顔を近づけた。
青い紙舟は、茶の表面を静かに回っている。
濡れていない。
折り目の内側から、淡い光が漏れている。
萌亜の胸の奥で、ヨルが小さく動いた。
『声』
「聞こえる?」
『遠い』
萌亜は紙舟へ指を近づける。
その直前、リオナが手首を掴んだ。
「触って大丈夫?」
「聞いてみる」
萌亜は紙舟へ向かって尋ねた。
「触ってもいいですか」
舟が一度だけ傾いた。
許可かどうかは分からない。
しかし、青い光から拒絶の気配はない。
萌亜が指先で触れると、紙舟はひとりでに開いた。
小さかった紙が、葉書ほどの大きさへ広がる。
水流のようなムー文字が並んでいた。
リオナにも、意味が伝わってくる。
『海の外にいる、まだ知らないあなたへ』
『これは助けを求める手紙ではありません』
『私たちがいたことを、あなたへ押しつけるための手紙でもありません』
『読まなくても構いません』
『受け取らなくても構いません』
『ただ、開いてくれたなら』
『今日、あなたが見た空の色を教えてください』
食卓が静かになった。
萌亜は窓を見る。
朝の空。
雲の間に薄い青が見える。
ムーの海より淡く、アヴァロンの霧より明るい。
「今日の空……」
リオナも窓へ視線を向けた。
「聞きたいの、それだけなのかな」
タクヤは手紙を覗き込み、静かに答えた。
「それだけだから、大事なのかもしれないね」
ムーが残した警告でもない。
選定機関への告発でもない。
失われた技術の継承でもない。
今日の空の色を尋ねる手紙。
文明が沈む直前に、誰かがまだ知らない未来へ書いた言葉。
萌亜は少し迷い、手紙へ答えた。
「青いよ。でも、雲もある」
青い文字が、柔らかく光った。
手紙の下部に新しい一文が浮かぶ。
『ありがとう』
それだけを残し、紙は再び舟へ折り畳まれた。
青い舟は湯呑みの上を一周する。
やがて光の粒になり、消えた。
エリが食卓へ戻ってくる。
「話は終わった?」
「たぶん」
「なら、冷める前に食べなさい」
「はい」
萌亜は箸を取る。
けれど、胸の奥には、まだ遠い声が残っていた。
ヨルが呟く。
『届いた』
「うん」
何千年、何万年。
あるいは、それ以上。
海底に沈んでいた手紙が、ようやく誰かへ届いた。
*
朝食を終えてから十二分後。
御門征十郎から着信が入った。
『安藤、姫咲。今どこだ』
「自宅です」
『すぐ地下管理区域へ来い』
「青い紙舟?」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
『そちらにも届いたか』
「そちらにも?」
『一通どころではない』
御門の声は、いつもより重かった。
『ムー記憶の受領者を中心に、世界各地で青い手紙が出現している』
萌亜が目を丸くする。
「世界各地?」
『現時点で一万四千件を超えた。水面、鏡、窓ガラス、眠っている人間の夢。出現場所に統一性がない』
「内容は?」
『それぞれ違う』
御門は低く息を吐く。
『朝食の献立を聞くもの。今も子どもは歌うのかと尋ねるもの。海の外では髪をどう結うのか知りたがるもの』
萌亜は胸が熱くなるのを感じた。
記録として残されるほど重大ではない問い。
歴史書には載らない日常。
でも、沈む前の誰かが未来へ知りたかったこと。
リオナが尋ねる。
「危険なものは?」
『今のところ確認されていない。だが、一斉送信が始まった理由が分からない』
御門の声がさらに低くなる。
『選定機関も動いている。急げ』
*
国立国会図書館地下管理区域へ到着すると、廊下を青い紙舟が飛んでいた。
水もないのに、見えない波へ乗るように宙を進んでいる。
職員たちは手紙を踏まないよう避けながら、端末や記録板を抱えて走り回っていた。
壁面モニターには、世界地図と無数の青い点。
一つ増えるたび、警告音が短く鳴る。
御門は会議室の中央に立ち、複数の通信へ同時に指示を出していた。
「手紙を強制回収するな。受信者が開封を拒否した場合、そのまま消失するか記録しろ」
『了解』
「夢へ届いたものは、本人の同意なしに精神走査するな。内容を話すかどうかも本人に決めさせろ」
『しかし、危険情報が含まれる可能性が――』
「だからといって、読んでもいない人間の頭へ勝手に入るな。一次隔離だけでいい」
通信を切った御門は、萌亜たちを見る。
「来たか」
「大変そう」
「見れば分かるだろう」
萌亜の前を、小さな青い封筒が横切る。
表面に現代日本語で、
『海の外では、靴は左右同じ形ですか』
と書かれていた。
「どういう靴履いてたの、ムーの人」
「今は開けるな」
御門は資料を表示する。
「第二封印の形成後、ムー中枢記憶核から外向きの送信領域が再起動した」
モニターに、海底の巨大施設が映る。
細い塔が何本も並び、先端から青い光の帯が外へ伸びている。
「仮称、外洋伝信塔。ムーが沈む前、外部へ情報を送るために使っていた施設だ」
リオナが画面を見る。
「名前だけじゃなく、手紙も残してたんだ」
「ああ。ただし、大部分は送信されなかった」
エックスが解析結果を開く。
「ムーが閉鎖された際、外部送信は危険と判断されました。発信元の座標を特定される可能性があったためです」
「じゃあ、ずっと郵便局に溜まってた感じ?」
萌亜の問いに、エックスは一度考えてから答えた。
「概ね正しいです」
「海底郵便局」
リオナは少し笑った。
「配達遅延が規格外」
御門は眉間を押さえる。
「笑っている場合ではない。問題は、現在も発信元を辿られる危険があることだ」
画面に白い線が現れる。
青い手紙を受け取った地点から、逆方向へ伸びている。
「選定機関が手紙の配達経路を逆探知している」
萌亜の表情が変わる。
「ムーを見つけるために?」
「それだけではない」
エクスキューショナーの投影体が現れる。
『送信内容の選別が開始されている』
白い一覧が表示された。
『技術情報』
『防衛機構情報』
『遺伝情報』
『外宇宙接触情報』
『歴史的価値の高い証言』
その下には、別の分類。
『私的通信』
『日常報告』
『個人的感情』
『娯楽』
『無価値情報』
萌亜は最後の文字を睨んだ。
「また無価値って言った」
エクスキューショナーが続ける。
『選定機関は、送信回線の効率化を名目に私的通信を削除し、利用価値のある情報のみを抽出する予定』
「まだ届いてない手紙まで?」
『はい』
リオナの声が硬くなる。
「それじゃ、ムーが外へ送りたかったものじゃなくなる」
御門は頷く。
「第三門の問いは、おそらくそこだ」
壁面へ青い文字が浮かび上がる。
『文明を守るとは』
『何を内に残し』
『何を外へ送ることか』
『すべてを閉じれば、声は死ぬ』
『すべてを放てば、家は暴かれる』
『選び取れ』
萌亜が文字を見つめる。
「全部送るのもダメ。全部隠すのもダメ」
「そうなる」
リオナは手首の接続補助紐へ触れた。
「でも、誰が選ぶの?」
その問いに、会議室が静かになった。
選定機関が選べば、役に立つ情報だけが残る。
ムー中枢が自動で選べば、沈む直前の恐怖が判断を歪めるかもしれない。
萌亜たちが選べば、他人の手紙を勝手に仕分けることになる。
タクヤは青い紙舟を一つ、手のひらへ乗せた。
封を開けずに、光を見つめる。
「手紙を書いた人に決めてもらうのが一番だけど、もう本人はいない」
「じゃあ、無理じゃん」
萌亜の言葉に、タクヤは首を横に振った。
「書いた時の意思は残ってるかもしれない」
エックスが反応する。
「送信条件ですか」
「うん。誰に読んでほしいか。読まれたくなくなった時はどうするか。返事が欲しいか。そこまで記憶に残っているなら、僕たちが内容を選ぶ必要はない」
リオナが頷く。
「手紙の方に選んでもらう」
御門は第三門の表示を見る。
「確認する価値はあるな」
*
第三門は、青い扉ではなかった。
地下管理区域の床に、浅い水面が広がった。
その上を無数の紙舟が行き交っている。
赤ん坊の手のひらほどの舟。
大人が両腕で抱えるほど大きな舟。
封筒。
石板。
歌を閉じ込めた青い貝殻。
誰かの香りを記録した小瓶。
ムーが外へ送りたかった言葉が、水面を埋め尽くしていた。
萌亜はヨルボを抱え、リオナと手を繋ぐ。
今回はエクスキューショナーに加え、エックスも同行することになった。
外向きの送信路は選定機関と接触する危険が高い。
二人の選定個体がいなければ、白い回線の構造を識別できない。
御門が四人を見渡す。
「内容を無断で開封するな」
萌亜が頷く。
「郵便のルール」
「そうだ」
「御門さん、こういうの詳しそう」
「国家機密と私信は違う。だが、扱いの原則は同じだ。必要がない限り見るな」
御門は萌亜の持つヨルボを見る。
「ぬいぐるみも落とすな」
「今回は言われる前にストラップ付けました」
ヨルボには、リオナが用意した紐が結ばれている。
萌亜の鞄へしっかり固定済みだ。
「学習したな」
「褒められた」
「事実を確認しただけだ」
タクヤが茶葉缶を掲げる。
「帰りの道は繋いでおくよ」
エリの声も通信へ入る。
『帰ったらお昼よ。今日はサンドイッチ』
「具は?」
『任務中に献立を聞かないの』
「はーい」
御門が目を閉じる。
「行け」
四人が水面へ足を踏み出すと、紙舟の群れが左右へ分かれた。
その中央に、青い航路が開いた。
*
ムー第三門の内側は、夜明け前の海だった。
水面は鏡のように平らで、その上に無数の建物が浮かんでいる。
郵便局。
港。
記録保管庫。
そのすべてが混ざり合った巨大な都市施設。
空には星がある。
海面にも同じ星が映っている。
上下の境目が曖昧で、歩いているうちに空へ落ちてしまいそうだった。
紙舟は青い水路を流れ、それぞれ異なる門へ向かっている。
門の上には記号。
『未来』
『隣国』
『まだ知らない文明』
『海の外へ逃れた者』
『神々』
『宛先不明』
萌亜が最後の門を見上げる。
「宛先分かんないのに送るんだ」
リオナは水路を流れる舟を見る。
「誰かに届けばいいって手紙もあるんじゃない?」
エックスが一つの舟を解析する。
「送信者意思を検出しました。開封許可は、受信者がムー文明と無関係であること」
「どうして?」
「ムーの外で暮らす者の日常を知りたかったようです」
舟の表面に文字が現れる。
『あなたの家には、どんな匂いがありますか』
萌亜は小さく笑った。
「エリさんのご飯」
「ほうじ茶」
「リオナっちのヘアオイル」
「それも入る?」
「家の匂い」
胸の奥でヨルが答える。
『布団』
「ヨルは布団だって」
「気に入ってるね」
四人は紙舟の流れを辿る。
進むほど、外へ送られなかった手紙の量が増えていく。
水路から溢れ、階段へ積もり、建物の屋根まで埋めている。
どれだけの人が書いたのか。
どれだけの言葉が、閉鎖によって止められたのか。
やがて、一人の少年が見えた。
青い郵便鞄を肩から下げ、水路の分岐点に座っている。
年齢は十二、三歳ほど。
半透明の記憶体。
足元には、開封されていない手紙が山のように積まれていた。
少年は一通ずつ手紙を持ち上げ、宛先を確認している。
しかし、どの門にも流さない。
確認した手紙を、再び山の上へ戻す。
その動作を繰り返していた。
萌亜が声をかける。
「こんにちは」
少年は手を止めない。
「配達員さん?」
『送れない』
かすれた声が返った。
「どうして?」
『場所を知られる』
少年は次の手紙を持つ。
『送れば、白が来る』
また山へ戻す。
『送らなければ、誰も知らない』
次の手紙。
『送れば、ムーが見つかる』
次の手紙。
『送らなければ、書いた人が消える』
少年の手が震えている。
同じ迷いを、沈んでからずっと繰り返してきたのだ。
リオナが隣へしゃがむ。
「あなたの名前は?」
『カイ』
「カイは、ここの配達員?」
『見習い』
カイは小さな郵便鞄を握る。
『最後の配達の日、門が閉じた』
『大人は中枢へ戻った』
『僕は、残った手紙を守るよう言われた』
「ずっとここで?」
『送る日を待った』
萌亜は積み重なる手紙を見上げる。
建物より高い。
空へ届きそうなほど多い。
「今、少しずつ届き始めてるよ」
カイの手が止まる。
『届いた?』
「うん。萌亜のところにも」
『何が』
「今日の空の色を聞く手紙」
カイの青い瞳が見開かれる。
『返事は』
「青いけど雲もあるって答えた」
カイはしばらく動かなかった。
やがて、胸の前で郵便鞄を強く抱きしめる。
『返事が、来た』
その声は、泣く寸前の子どものものだった。
*
紙舟の海へ、白い筋が走った。
カイが即座に顔を上げる。
『白』
積み重なっていた手紙が一斉に震えた。
外へ繋がる門の上に、選定機関の文字が浮かぶ。
『未処理通信群を確認』
『内容解析開始』
『価値基準に基づき送信順位を再設定』
白い光が手紙の山を走査する。
青い印と灰色の印が、次々と押されていく。
『技術情報、保存』
『防衛情報、保存』
『外宇宙接触記録、保存』
『個人間通信、削除』
『日常記録、削除』
『質問のみの通信、削除』
『感情共有、削除』
『返答要求なし、削除』
萌亜の前で、一通の手紙が灰色に染まった。
表面には、
『未来にも、雨上がりの匂いはありますか』
と書かれている。
「消さないで」
萌亜が手紙を掴む。
白い光が指先へ触れ、冷たさが腕を走った。
『情報価値なし』
「ある」
『文明防衛へ寄与しない』
「誰が決めたの」
『基準に基づく』
「その基準、誰が決めたの!」
ヨルの霧の王冠が浮かぶ。
白い光が一瞬揺れる。
しかし、別の手紙へ削除印が押される。
『外の人は、眠る前に何を話しますか』
『削除』
『まだ魚を焼いて食べますか』
『削除』
『子どもは怖い夢を見た時、誰を呼びますか』
『削除』
リオナが白い文字の前へ立った。
「勝手に捨てないで」
『送信路は有限』
『優先順位が必要』
「それは分かる」
萌亜がリオナを見る。
リオナは怒っている。
それでも、ただ全部送れとは言わなかった。
「一度に全部は送れない。受け取る側にも都合がある。知らない文明の記憶を急に押しつけられたら、怖い人もいる」
カイの表情が沈む。
『なら、送れない』
「違う」
リオナはカイを見る。
「受け取るかどうか、相手に聞ける道を作る」
『相手を知らない』
「最初は、手紙があるってことだけ送る」
リオナはスマートフォンを取り出した。
記憶領域の中で通信は繋がらない。
それでも、画面をカイへ見せる。
「現代には、メッセージを開く前に、誰から来たか確認する方法がある。通知だけ見て、後で読むこともできる。嫌なら開かない」
萌亜も理解する。
「手紙の試し読み?」
「件名と、送り主と、受け取るかどうか」
「スパム古代文明対策」
「言い方」
カイは二人を見た。
『拒否されたら』
「戻ってくればいい」
萌亜が答える。
「拒否されたからって、書いた人が無価値になるわけじゃない」
『返る場所がない』
「ここを残す」
リオナが手紙の山へ触れる。
「配達できなかった手紙を、失敗扱いにしない場所」
ムー第一封印。
閉じる時に出口を残す。
ムー第二封印。
他者の記憶を所有せず、返却と休止の道を残す。
その二つが、手首の接続補助紐で光った。
エックスが静かに言う。
「送信前同意確認。受信拒否時の返送。送信者情報の保持」
エクスキューショナーが続ける。
『通信内容を第三者が価値基準で改変しない』
「それ」
リオナが頷く。
「私たちが作るのは、どの手紙が大事か決める仕組みじゃない」
萌亜も手紙を抱えたまま言う。
「書いた人と、受け取る人が決める道」
選定機関の白い表示が強くなる。
『非効率』
『受信者ごとの同意確認は遅延を招く』
『送信元情報の保持は危険』
『返送経路は逆探知リスクを増大』
エックスが白い文字へ向き直る。
「照会します」
『照会拒否』
「送信者の同意なく内容を改変する権限の根拠を提示してください」
『運用効率』
「運用効率が通信当事者の意思を上回る根拠を提示してください」
『文明保全』
「日常記録を削除した文明は、何を保全したことになりますか」
白い文字が乱れる。
エクスキューショナーも一歩前へ出た。
『追加照会』
『受信者の拒否権を認めず情報を送りつける行為は、侵入と区別できるか』
『回答不要』
『では、ムーから黒色存在への発信を侵入経路と認定した過去判断と矛盾する』
白い空間にノイズが走る。
萌亜は思わず言った。
「二人とも、論破がチョベリグ強い」
「今は集中して」
「はい」
*
白い線は、議論を打ち切るように手紙の山へ突き刺さった。
『送信路を強制接収』
『有用情報のみ外部転送』
『残余通信を削除』
青い紙舟が、白い炎に包まれる。
カイが手紙の山へ飛び込んだ。
『やめろ!』
少年の細い腕では、無数の手紙を守れない。
一通を抱えれば、別の十通が燃える。
右へ走れば、左が消える。
カイの顔が、沈む夜の恐怖へ戻っていく。
『やっぱり送れない』
『外へ出せば奪われる』
『全部閉じる』
海面が盛り上がった。
外へ続く門が閉じ始める。
紙舟が逆流し、中央へ押し戻されていく。
ムーの閉鎖反応。
すべてを守るために、すべてを内側へ沈める力。
萌亜の胸の奥でヨルも反応した。
『閉じる』
「待って、ヨル」
『奪われる』
「分かってる。でも全部は閉じない!」
『消える』
「消させない道を作る!」
萌亜は霧の王冠へ手を伸ばした。
怒りも恐怖も、押さえ込まない。
だが、それに全部を決めさせない。
「リオナっち!」
「うん!」
二人は手を繋ぐ。
アヴァロンの霧が、白い接収線の到達経路を迷わせる。
竜宮城の深層が、手紙の原型を記憶の底へ保存する。
シャンバラの夢が、受信希望者へ「手紙がある」という予告だけを運ぶ。
エルドラドの代価の火が、送信負荷を一人や一つの場所へ押しつけることを防ぐ。
ムー第一封印が、発信元の正確な座標を隠す。
共憶環が、同意した複数の中継点へ配達経路を分ける。
萌亜はヨルへ呼びかける。
「怖いから、入口を守って」
『閉じる』
「完全には閉じない。相手が開けるか決められるところまで」
ヨルは長く沈黙した。
白い線が迫る。
手紙が燃える。
カイが泣いている。
やがて、ヨルが答えた。
『扉』
「うん。壁じゃなくて、扉」
霧の王冠から、黒紫の夜が広がった。
青い水路の各所に、小さな扉が浮かぶ。
一つの巨大な出口ではない。
無数の細い道。
扉の外側には、送り主の名と、手紙の簡単な題だけが表示される。
受信者が開くことを選べば、内容が届く。
拒めば、手紙は海底郵便局へ戻る。
返事を書くこともできる。
だが、返事を強制されることはない。
エックスの白い幾何学紋が、各扉へ規則を刻む。
「送信者を偽装しない」
エクスキューショナーが続ける。
『内容を第三者が改変しない』
リオナが言う。
「開けるかどうかは、受け取る人が決める」
萌亜がカイへ手を伸ばす。
「届かなかったら、ここに帰ってくる」
カイは涙で濡れた顔を上げた。
『また送ってもいい?』
「相手が受け取り拒否を続けてるなら、何回も送るのはダメかも」
萌亜は正直に答えた。
「でも、別の誰かへ送るか、ここで大事にしまっておくか、決め直せる」
『失敗じゃない?』
「届かない手紙も、書いた気持ちまで失敗じゃない」
カイは萌亜の手を取った。
その瞬間、海底郵便局全体が青く輝いた。
『ムー第三封印』
『渡り潮』
『形成』
『送信者名を保持』
『受信者の開封、拒否、保留を保証』
『第三者による内容改変を拒否』
『発信元の中枢座標を分散』
『拒否された通信の帰還路を保持』
『返答を強制しない』
『届かなかった言葉を無価値と定義しない』
無数の紙舟が、黒紫の扉へ向かって進み始めた。
白い接収線が一つの経路を捕らえようとする。
だが、渡り潮は経路を細かく分ける。
竜宮城の水流。
シャンバラの夢。
エルドラドの物質。
アヴァロンの霧。
GTG各支部の通信網。
受領を希望した者たちの記憶。
日常の水面。
窓。
鏡。
眠る前の夢。
手紙は小さく分かれ、それぞれ別の道を渡っていく。
『経路特定不能』
『発信元座標不明』
『通信内容の一括選別不能』
『再接収』
『再接収』
御門の声が外側から届いた。
『渡り潮の経路を政府側観測網から外す。受信報告は本人の任意とする』
萌亜が驚く。
「いいの?」
『勝手に読まれたくない手紙もあるだろう』
「御門さん、郵便局員みたい」
『戻ったら説教する』
「褒めたのに」
*
紙舟の流れが安定すると、カイの郵便鞄が光った。
鞄の底から、一通の手紙が浮かび上がる。
他の手紙とは違う。
深い青と黒が混ざった封筒。
表には宛名がない。
差出人の欄には、複数の子どもの名前が並んでいた。
『ナイ』
『モナ』
『シル』
『ケト』
『ルア』
カイが封筒を見て、表情を強張らせる。
『これは、送ってはいけないと言われた手紙』
「どうして?」
『神々宛て』
エックスとエクスキューショナーが同時に反応した。
白い記録領域の警告が再起動する。
『外宇宙接触通信』
『送信禁止』
『即時削除』
カイは封筒を胸へ抱く。
『沈む夜、避難所の子どもたちが書いた』
『大人は送信を止めた』
『危険だから』
リオナが封筒を見る。
「開封条件は?」
『返事を恐れない者』
海鳴りが響いた。
遠い。
深い。
ルルイエの方角から届くような音。
萌亜の胸の奥でヨルが震える。
『返事』
萌亜は怖かった。
あの巨大な黒い影。
選定機関を外側から見返した存在。
瑠々が神と呼ぶもの。
子どもたちの手紙を開けば、その存在へ再び繋がるかもしれない。
けれど、勝手に開封するわけではない。
手紙が求めているのは、返事を恐れない受信者。
萌亜はリオナを見る。
「怖い?」
「怖い」
「萌亜も」
「でも、返事が怖いからって、手紙を消すのは選定機関と同じ」
萌亜は頷いた。
二人で封筒へ触れる。
「開けます」
黒青の封が、静かにほどけた。
中に入っていたのは、短い手紙だった。
『海の底より深いところにいる誰かへ』
『私たちは、明日、沈むそうです』
『大人たちは怖がっています』
『私たちも怖いです』
『助けてとは言いません』
『間に合わないと知っているからです』
『でも、誰も聞いていない場所で泣くのは寂しいので』
『聞こえたら、聞こえたとだけ返してください』
その下に、楽譜のような青い線があった。
子どもたちが眠る前に歌っていた、短い子守歌。
音が記憶領域へ流れ出す。
上手な歌ではない。
声が揃っていない。
途中で泣いて、歌えなくなる子もいる。
それでも、最後まで誰かが歌い続けている。
深い海鳴りが止まった。
選定機関の警告も。
紙舟の音も。
すべてが静まり返る。
暗い海の向こうから、声が返った。
『聞いている』
ただ、それだけ。
低く巨大で、世界そのものが眠りながら発したような声。
助けるとは言わない。
救うとも。
選ぶとも。
ただ、聞いている。
萌亜の目から涙がこぼれた。
リオナも唇を噛んだ。
選定機関は、この返事を侵入と記録した。
認識災害と呼んだ。
ムーを危険文明へ分類する理由にした。
けれど、始まりは。
誰にも聞かれず泣くのが寂しかった子どもたちの手紙だった。
「これを、怖がったんだ」
萌亜が呟く。
エクスキューショナーが静かに答える。
『選定機関は、自らが返せなかった言葉へ、別の存在が返事をしたことを恐れた可能性がある』
エックスは目を伏せる。
「選定機関は、文明の声を聞くための組織ではなかった」
白い警告が再び動き始める。
『通信遮断』
『返答記録削除』
『黒色存在との接続を破棄』
だが、今度は遅かった。
子どもたちの歌。
返ってきた一言。
それは渡り潮へ乗り、同意した記憶保持者たちへ断片として届いている。
もう、一つの記録を消すだけではなかったことにできない。
海の向こうで、別の声がした。
巨大な存在の声ではない。
若い女性の声。
「勝手に昔の手紙を開けた感想は?」
黒い水面に、九頭龍瑠々が立っていた。
腕を組み、少し不機嫌そうにこちらを見ている。
萌亜は慌てて言う。
「開封条件は満たしました!」
「郵便事故の言い訳みたいね」
リオナが瑠々を睨む。
「この手紙、あなたも知ってたの?」
「ええ」
「神が返事をしたことも?」
「その返事があったから、私は後でここへ辿り着けた」
瑠々は子どもたちの手紙へ視線を落とす。
その表情から、普段の余裕が少し消えていた。
「この手紙は、神と地上を繋いだ最初の細い糸よ」
「瑠々ちゃんが使徒になる前?」
「ずっと前」
瑠々は黒い水面へ指を滑らせる。
そこに、ルルイエの輪郭が浮かぶ。
緑黒の石。
眠る巨体。
都市全体を覆う夢。
「神は、この声を忘れていない」
萌亜の胸の奥で、ヨルが反応した。
『覚えている』
瑠々が萌亜を見る。
「あなたの夜も、そう言うのね」
「うん」
「なら、次の門へ来られるかもしれない」
リオナが訊く。
「次は何?」
「返事を届ける場所」
「ルルイエ?」
「まだよ」
瑠々はわずかに笑う。
「ムーには最後に一つ、外へ送り出したものがある」
「手紙じゃなくて?」
「生きたもの」
カイが驚いたように瑠々を見る。
『すべての避難船は沈んだ』
「表向きはね」
瑠々は黒い海の奥を指した。
「最後の一隻は、ムーの記録からも消された」
選定機関の白い文字が激しく乱れる。
『該当情報なし』
『避難成功例なし』
『ムー文明生存個体なし』
瑠々は冷たく笑った。
「また“存在しない”ですって」
リオナが息を呑む。
「ムーの生き残りがいた?」
「答えは、次の潮路の先」
黒い水面が閉じ始める。
萌亜が身を乗り出す。
「待って! どこに行けばいいの?」
「手紙に返事を書きなさい」
「何て?」
「それくらい自分たちで考えて」
「瑠々ちゃん、ヒント少なすぎ!」
「神話存在に案内係の親切さを求めないでちょうだい」
瑠々は消える直前、少しだけ柔らかい声で言った。
「もっとも、あなたたちなら、どうせ余計な一文まで書くのでしょうけど」
黒い水面が閉じた。
*
地下管理区域へ戻ると、御門が時計を見た。
「接続時間、三十九分四十八秒。上限寸前だ」
「セーフ」
萌亜が床へ座り込む。
「十二秒でセーフ判定するな」
カナメが四人の状態を確認する。
「重大な外傷なし。記憶負荷は高い」
御門は青い紙舟が飛び交う会議室を見渡した。
「送信は止まっていないな」
エックスが端末を確認する。
「渡り潮は安定しています。各通信は受信前に通知され、拒否された場合は第三門へ返送されています」
「選定機関の逆探知は」
「発信座標が複数防衛網へ分散され、特定不能」
「現代通信へ悪影響は?」
「現時点ではありません。ただし、夢経路は個人差が大きいため、継続監視が必要です」
御門は頷き、リオナたちを見る。
「第三封印の条件を整理しろ」
リオナが指を折る。
「送り主の名前を消さない」
「受け取る人が、開けるか拒否するか保留するか選べる」
萌亜が続ける。
「内容を途中で勝手に変えない」
「拒否された手紙が戻る場所を作る」
「返事を強制しない」
エクスキューショナーが補足した。
『発信元中枢の正確な座標を分散する』
御門は記録を入力する。
「名称は渡り潮か」
「海底郵便でも分かりやすい」
「正式記録には渡り潮と書く」
「海底郵便は?」
「君の心の中へ保存しろ」
「記憶保持」
「そうしてくれ」
タクヤが紙コップを配る。
「お疲れさま」
萌亜はほうじ茶を受け取った。
机の上には、開いたままの青い手紙。
ムーの子どもたちが、深い海の向こうへ送った言葉。
『聞こえたら、聞こえたとだけ返してください』
リオナが椅子へ座る。
「返事、書かないと」
「うん」
萌亜はペンを持った。
だが、紙の前で止まる。
「何て書く?」
「瑠々は自分で考えろって」
「難易度高い」
二人はしばらく黙った。
子どもたちは助けを求めなかった。
間に合わないと知っていたから。
ただ、聞いてほしかった。
その手紙へ、遠い未来の自分たちが何を返せるのか。
救えなかった。
ムーは沈んだ。
子どもたちも、もういない。
安易に大丈夫だったとは書けない。
忘れないと約束しても、すべてを覚え続けられるわけではない。
萌亜はヨルボを机へ置いた。
胸の奥でヨルが静かにしている。
「正直に書くしかないか」
「うん」
リオナが最初の一文を書く。
『聞こえました』
萌亜が続ける。
『すごく遅くなって、ごめんなさい』
リオナが書く。
『あなたたちの国は沈みました』
『私たちは、あなたたち全員のことを分かったとは言えません』
萌亜が書き足す。
『名前を全部覚えられるとも言えません』
『でも、今、いろんな人が少しずつ覚えています』
リオナが隣に一文を加える。
『今日の空は、青くて、雲がありました』
萌亜は最後に少し迷い、書いた。
『あと、未来にも子どもは歌います』
リオナがその一文を見て、微笑んだ。
「いいと思う」
「余計じゃない?」
「瑠々が言ってた余計な一文、これかもね」
二人は手紙を折り、青い紙舟にする。
渡り潮の小さな扉が、机の上に開いた。
萌亜とリオナが舟を押し出す。
紙舟は黒紫の霧を越え、青い水路へ流れていく。
誰へ届くのか。
子どもたちへは、もう届かないのかもしれない。
それでも、彼らの手紙が通った道には、まだ何かがいる。
神。
瑠々。
ルルイエ。
あるいは、ムーが最後に外へ送り出したという生きたもの。
紙舟が扉の向こうへ消える直前、表面に黒い文字が浮かんだ。
『受領』
差出人はない。
その下に、短い追伸。
『最後の船は、東の海岸へ着いた』
さらに、座標が一つ。
日本近海。
地図上では、何もないはずの海域だった。
御門が画面を確認し、顔をしかめる。
「明日、現地調査を行う」
萌亜は紙コップを持ったまま固まる。
「明日?」
「ああ」
「学校は?」
「公欠の手配をする」
「やった」
「喜ぶところではない」
リオナが座標を見つめる。
ムーが沈んだ夜。
記録から消された最後の船。
その船が運んだものは、技術なのか。
記憶なのか。
それとも、本当に生き延びた誰かなのか。
青い紙舟は、もう見えない。
けれど海の向こうでは、ようやく届いた返事を受け取るように、黒い潮が静かに動き始めていた。
第37話では、ムーが海底へ残した外向きの送信施設を描きました。
ムーは文明を閉じましたが、外の世界へ何も残さなかったわけではありません。
未来の空の色。
家の匂い。
眠る前に交わす言葉。
雨上がりの匂いが、未来にもあるのか。
歴史資料としては重要に見えない問いも、書いた人にとっては確かに外へ残したかった言葉でした。
選定機関が求めたのは、技術、防衛機構、遺伝情報、外宇宙接触記録です。
文明の再現や利用に役立つ情報だけを残し、個人的な手紙や日常の質問を削除しようとしました。
しかし、技術だけを残しても、その技術を作った人々が何を見て、何を好きだったのかまでは残りません。
今回形成されたムー第三封印「渡り潮」は、どの手紙に価値があるかを決める力ではありません。
送った人の名前を残す。
受け取る人が開封、拒否、保留を選べる。
内容を第三者が書き換えない。
拒否された手紙には帰る場所がある。
返事を強制しない。
通信を成立させることより、通信する双方の意思を守るための仕組みです。
そして、ムーと深海の神を繋いだ最初の言葉も明らかになりました。
それは救済を求める大仰な祈りではなく、誰にも聞かれずに泣くのが寂しかった子どもたちの手紙でした。
返事は、たった一言。
「聞いている」
選定機関にとっては、それが認識災害でした。
けれど子どもたちにとっては、誰かが声を受け取った証しだったはずです。
章の最後では、ムーの記録から消された最後の船が、日本近海へ辿り着いていた可能性が示されました。
次の目的地は、地図には何も記されていない海域です。
海底郵便が運んできたのは、過去からの手紙だけではありませんでした。
長く所在不明だった一隻の船が、今になって到着を知らせています。