アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜   作:池ポチャ

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第37話です。

ムー第二門を越えたことで、選定機関が隠していた事実が明らかになりました。

ムーは最初から危険な文明だったわけではありません。

ムーの祈りに、深い海の向こうから何者かが応えた。

その存在に権限の根拠を問われた選定機関は、ムーを危険文明へ分類し直し、沈む以外の道を少しずつ奪っていきました。

それでも、ムーはすべてを海底へ閉じ込めたわけではありません。

名前を送りました。

歌を送りました。

まだ生まれていない誰かへ、言葉を送りました。

今回は、沈んだ文明が外の世界へ残そうとしたものを辿ります。

届かなかった手紙。

読む者を失った言葉。

そして、あまりにも遅れて返ってきた返事の話です。



海底郵便は、まだ配達中

 

 湯呑みの中で、青い紙の舟が回っていた。

 

 

 姫咲家の朝食。

 

 焼き鮭と味噌汁、卵焼きが並ぶ食卓の中央で、安藤萌亜は箸を持ったまま固まっている。

 

 湯呑みのほうじ茶には、つい数秒前まで何も浮かんでいなかった。

 

 それが萌亜が一口飲もうとした瞬間、青白い光が水面に滲み、小指ほどの紙舟が姿を現した。

 

「……師匠のお茶、ついに船便始めた?」

 

 向かいに座る楠タクヤが、穏やかに首を横へ振る。

 

「僕じゃないよ」

 

「じゃあ御門さん?」

 

「御門さんは、他人の朝食へ国家機密を浮かべるほど非常識ではないと思う」

 

 姫咲リオナはスマートフォンを手に取った。

 

「一応、写真撮るね」

 

 母のエリが台所から顔を出す。

 

「食べ物で遊んでいるんじゃないでしょうね」

 

「向こうから遊びに来た」

 

「何が?」

 

「古代文明の紙舟」

 

 エリは数秒、娘の言葉を吟味した。

 

 以前なら聞き返していたかもしれない。

 

 今は違う。

 

「味噌汁には入れないでね」

 

「対応が強い」

 

 リオナが感心する隣で、萌亜は湯呑みへ顔を近づけた。

 

 青い紙舟は、茶の表面を静かに回っている。

 

 濡れていない。

 

 折り目の内側から、淡い光が漏れている。

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが小さく動いた。

 

『声』

 

「聞こえる?」

 

『遠い』

 

 萌亜は紙舟へ指を近づける。

 

 その直前、リオナが手首を掴んだ。

 

「触って大丈夫?」

 

「聞いてみる」

 

 萌亜は紙舟へ向かって尋ねた。

 

「触ってもいいですか」

 

 舟が一度だけ傾いた。

 

 許可かどうかは分からない。

 

 しかし、青い光から拒絶の気配はない。

 

 萌亜が指先で触れると、紙舟はひとりでに開いた。

 

 小さかった紙が、葉書ほどの大きさへ広がる。

 

 水流のようなムー文字が並んでいた。

 

 リオナにも、意味が伝わってくる。

 

『海の外にいる、まだ知らないあなたへ』

 

『これは助けを求める手紙ではありません』

 

『私たちがいたことを、あなたへ押しつけるための手紙でもありません』

 

『読まなくても構いません』

 

『受け取らなくても構いません』

 

『ただ、開いてくれたなら』

 

『今日、あなたが見た空の色を教えてください』

 

 食卓が静かになった。

 

 萌亜は窓を見る。

 

 朝の空。

 

 雲の間に薄い青が見える。

 

 ムーの海より淡く、アヴァロンの霧より明るい。

 

「今日の空……」

 

 リオナも窓へ視線を向けた。

 

「聞きたいの、それだけなのかな」

 

 タクヤは手紙を覗き込み、静かに答えた。

 

「それだけだから、大事なのかもしれないね」

 

 ムーが残した警告でもない。

 

 選定機関への告発でもない。

 

 失われた技術の継承でもない。

 

 今日の空の色を尋ねる手紙。

 

 文明が沈む直前に、誰かがまだ知らない未来へ書いた言葉。

 

 萌亜は少し迷い、手紙へ答えた。

 

「青いよ。でも、雲もある」

 

 青い文字が、柔らかく光った。

 

 手紙の下部に新しい一文が浮かぶ。

 

『ありがとう』

 

 それだけを残し、紙は再び舟へ折り畳まれた。

 

 青い舟は湯呑みの上を一周する。

 

 やがて光の粒になり、消えた。

 

 エリが食卓へ戻ってくる。

 

「話は終わった?」

 

「たぶん」

 

「なら、冷める前に食べなさい」

 

「はい」

 

 萌亜は箸を取る。

 

 けれど、胸の奥には、まだ遠い声が残っていた。

 

 ヨルが呟く。

 

『届いた』

 

「うん」

 

 何千年、何万年。

 

 あるいは、それ以上。

 

 海底に沈んでいた手紙が、ようやく誰かへ届いた。

 

     *

 

 朝食を終えてから十二分後。

 

 御門征十郎から着信が入った。

 

『安藤、姫咲。今どこだ』

 

「自宅です」

 

『すぐ地下管理区域へ来い』

 

「青い紙舟?」

 

 通信の向こうで、短い沈黙があった。

 

『そちらにも届いたか』

 

「そちらにも?」

 

『一通どころではない』

 

 御門の声は、いつもより重かった。

 

『ムー記憶の受領者を中心に、世界各地で青い手紙が出現している』

 

 萌亜が目を丸くする。

 

「世界各地?」

 

『現時点で一万四千件を超えた。水面、鏡、窓ガラス、眠っている人間の夢。出現場所に統一性がない』

 

「内容は?」

 

『それぞれ違う』

 

 御門は低く息を吐く。

 

『朝食の献立を聞くもの。今も子どもは歌うのかと尋ねるもの。海の外では髪をどう結うのか知りたがるもの』

 

 萌亜は胸が熱くなるのを感じた。

 

 記録として残されるほど重大ではない問い。

 

 歴史書には載らない日常。

 

 でも、沈む前の誰かが未来へ知りたかったこと。

 

 リオナが尋ねる。

 

「危険なものは?」

 

『今のところ確認されていない。だが、一斉送信が始まった理由が分からない』

 

 御門の声がさらに低くなる。

 

『選定機関も動いている。急げ』

 

     *

 

 国立国会図書館地下管理区域へ到着すると、廊下を青い紙舟が飛んでいた。

 

 水もないのに、見えない波へ乗るように宙を進んでいる。

 

 職員たちは手紙を踏まないよう避けながら、端末や記録板を抱えて走り回っていた。

 

 壁面モニターには、世界地図と無数の青い点。

 

 一つ増えるたび、警告音が短く鳴る。

 

 御門は会議室の中央に立ち、複数の通信へ同時に指示を出していた。

 

「手紙を強制回収するな。受信者が開封を拒否した場合、そのまま消失するか記録しろ」

 

『了解』

 

「夢へ届いたものは、本人の同意なしに精神走査するな。内容を話すかどうかも本人に決めさせろ」

 

『しかし、危険情報が含まれる可能性が――』

 

「だからといって、読んでもいない人間の頭へ勝手に入るな。一次隔離だけでいい」

 

 通信を切った御門は、萌亜たちを見る。

 

「来たか」

 

「大変そう」

 

「見れば分かるだろう」

 

 萌亜の前を、小さな青い封筒が横切る。

 

 表面に現代日本語で、

 

『海の外では、靴は左右同じ形ですか』

 

 と書かれていた。

 

「どういう靴履いてたの、ムーの人」

 

「今は開けるな」

 

 御門は資料を表示する。

 

「第二封印の形成後、ムー中枢記憶核から外向きの送信領域が再起動した」

 

 モニターに、海底の巨大施設が映る。

 

 細い塔が何本も並び、先端から青い光の帯が外へ伸びている。

 

「仮称、外洋伝信塔。ムーが沈む前、外部へ情報を送るために使っていた施設だ」

 

 リオナが画面を見る。

 

「名前だけじゃなく、手紙も残してたんだ」

 

「ああ。ただし、大部分は送信されなかった」

 

 エックスが解析結果を開く。

 

「ムーが閉鎖された際、外部送信は危険と判断されました。発信元の座標を特定される可能性があったためです」

 

「じゃあ、ずっと郵便局に溜まってた感じ?」

 

 萌亜の問いに、エックスは一度考えてから答えた。

 

「概ね正しいです」

 

「海底郵便局」

 

 リオナは少し笑った。

 

「配達遅延が規格外」

 

 御門は眉間を押さえる。

 

「笑っている場合ではない。問題は、現在も発信元を辿られる危険があることだ」

 

 画面に白い線が現れる。

 

 青い手紙を受け取った地点から、逆方向へ伸びている。

 

「選定機関が手紙の配達経路を逆探知している」

 

 萌亜の表情が変わる。

 

「ムーを見つけるために?」

 

「それだけではない」

 

 エクスキューショナーの投影体が現れる。

 

『送信内容の選別が開始されている』

 

 白い一覧が表示された。

 

『技術情報』

 

『防衛機構情報』

 

『遺伝情報』

 

『外宇宙接触情報』

 

『歴史的価値の高い証言』

 

 その下には、別の分類。

 

『私的通信』

 

『日常報告』

 

『個人的感情』

 

『娯楽』

 

『無価値情報』

 

 萌亜は最後の文字を睨んだ。

 

「また無価値って言った」

 

 エクスキューショナーが続ける。

 

『選定機関は、送信回線の効率化を名目に私的通信を削除し、利用価値のある情報のみを抽出する予定』

 

「まだ届いてない手紙まで?」

 

『はい』

 

 リオナの声が硬くなる。

 

「それじゃ、ムーが外へ送りたかったものじゃなくなる」

 

 御門は頷く。

 

「第三門の問いは、おそらくそこだ」

 

 壁面へ青い文字が浮かび上がる。

 

『文明を守るとは』

 

『何を内に残し』

 

『何を外へ送ることか』

 

『すべてを閉じれば、声は死ぬ』

 

『すべてを放てば、家は暴かれる』

 

『選び取れ』

 

 萌亜が文字を見つめる。

 

「全部送るのもダメ。全部隠すのもダメ」

 

「そうなる」

 

 リオナは手首の接続補助紐へ触れた。

 

「でも、誰が選ぶの?」

 

 その問いに、会議室が静かになった。

 

 選定機関が選べば、役に立つ情報だけが残る。

 

 ムー中枢が自動で選べば、沈む直前の恐怖が判断を歪めるかもしれない。

 

 萌亜たちが選べば、他人の手紙を勝手に仕分けることになる。

 

 タクヤは青い紙舟を一つ、手のひらへ乗せた。

 

 封を開けずに、光を見つめる。

 

「手紙を書いた人に決めてもらうのが一番だけど、もう本人はいない」

 

「じゃあ、無理じゃん」

 

 萌亜の言葉に、タクヤは首を横に振った。

 

「書いた時の意思は残ってるかもしれない」

 

 エックスが反応する。

 

「送信条件ですか」

 

「うん。誰に読んでほしいか。読まれたくなくなった時はどうするか。返事が欲しいか。そこまで記憶に残っているなら、僕たちが内容を選ぶ必要はない」

 

 リオナが頷く。

 

「手紙の方に選んでもらう」

 

 御門は第三門の表示を見る。

 

「確認する価値はあるな」

 

     *

 

 第三門は、青い扉ではなかった。

 

 地下管理区域の床に、浅い水面が広がった。

 

 その上を無数の紙舟が行き交っている。

 

 赤ん坊の手のひらほどの舟。

 

 大人が両腕で抱えるほど大きな舟。

 

 封筒。

 

 石板。

 

 歌を閉じ込めた青い貝殻。

 

 誰かの香りを記録した小瓶。

 

 ムーが外へ送りたかった言葉が、水面を埋め尽くしていた。

 

 萌亜はヨルボを抱え、リオナと手を繋ぐ。

 

 今回はエクスキューショナーに加え、エックスも同行することになった。

 

 外向きの送信路は選定機関と接触する危険が高い。

 

 二人の選定個体がいなければ、白い回線の構造を識別できない。

 

 御門が四人を見渡す。

 

「内容を無断で開封するな」

 

 萌亜が頷く。

 

「郵便のルール」

 

「そうだ」

 

「御門さん、こういうの詳しそう」

 

「国家機密と私信は違う。だが、扱いの原則は同じだ。必要がない限り見るな」

 

 御門は萌亜の持つヨルボを見る。

 

「ぬいぐるみも落とすな」

 

「今回は言われる前にストラップ付けました」

 

 ヨルボには、リオナが用意した紐が結ばれている。

 

 萌亜の鞄へしっかり固定済みだ。

 

「学習したな」

 

「褒められた」

 

「事実を確認しただけだ」

 

 タクヤが茶葉缶を掲げる。

 

「帰りの道は繋いでおくよ」

 

 エリの声も通信へ入る。

 

『帰ったらお昼よ。今日はサンドイッチ』

 

「具は?」

 

『任務中に献立を聞かないの』

 

「はーい」

 

 御門が目を閉じる。

 

「行け」

 

 四人が水面へ足を踏み出すと、紙舟の群れが左右へ分かれた。

 

 その中央に、青い航路が開いた。

 

     *

 

 ムー第三門の内側は、夜明け前の海だった。

 

 水面は鏡のように平らで、その上に無数の建物が浮かんでいる。

 

 郵便局。

 

 港。

 

 記録保管庫。

 

 そのすべてが混ざり合った巨大な都市施設。

 

 空には星がある。

 

 海面にも同じ星が映っている。

 

 上下の境目が曖昧で、歩いているうちに空へ落ちてしまいそうだった。

 

 紙舟は青い水路を流れ、それぞれ異なる門へ向かっている。

 

 門の上には記号。

 

『未来』

 

『隣国』

 

『まだ知らない文明』

 

『海の外へ逃れた者』

 

『神々』

 

『宛先不明』

 

 萌亜が最後の門を見上げる。

 

「宛先分かんないのに送るんだ」

 

 リオナは水路を流れる舟を見る。

 

「誰かに届けばいいって手紙もあるんじゃない?」

 

 エックスが一つの舟を解析する。

 

「送信者意思を検出しました。開封許可は、受信者がムー文明と無関係であること」

 

「どうして?」

 

「ムーの外で暮らす者の日常を知りたかったようです」

 

 舟の表面に文字が現れる。

 

『あなたの家には、どんな匂いがありますか』

 

 萌亜は小さく笑った。

 

「エリさんのご飯」

 

「ほうじ茶」

 

「リオナっちのヘアオイル」

 

「それも入る?」

 

「家の匂い」

 

 胸の奥でヨルが答える。

 

『布団』

 

「ヨルは布団だって」

 

「気に入ってるね」

 

 四人は紙舟の流れを辿る。

 

 進むほど、外へ送られなかった手紙の量が増えていく。

 

 水路から溢れ、階段へ積もり、建物の屋根まで埋めている。

 

 どれだけの人が書いたのか。

 

 どれだけの言葉が、閉鎖によって止められたのか。

 

 やがて、一人の少年が見えた。

 

 青い郵便鞄を肩から下げ、水路の分岐点に座っている。

 

 年齢は十二、三歳ほど。

 

 半透明の記憶体。

 

 足元には、開封されていない手紙が山のように積まれていた。

 

 少年は一通ずつ手紙を持ち上げ、宛先を確認している。

 

 しかし、どの門にも流さない。

 

 確認した手紙を、再び山の上へ戻す。

 

 その動作を繰り返していた。

 

 萌亜が声をかける。

 

「こんにちは」

 

 少年は手を止めない。

 

「配達員さん?」

 

『送れない』

 

 かすれた声が返った。

 

「どうして?」

 

『場所を知られる』

 

 少年は次の手紙を持つ。

 

『送れば、白が来る』

 

 また山へ戻す。

 

『送らなければ、誰も知らない』

 

 次の手紙。

 

『送れば、ムーが見つかる』

 

 次の手紙。

 

『送らなければ、書いた人が消える』

 

 少年の手が震えている。

 

 同じ迷いを、沈んでからずっと繰り返してきたのだ。

 

 リオナが隣へしゃがむ。

 

「あなたの名前は?」

 

『カイ』

 

「カイは、ここの配達員?」

 

『見習い』

 

 カイは小さな郵便鞄を握る。

 

『最後の配達の日、門が閉じた』

 

『大人は中枢へ戻った』

 

『僕は、残った手紙を守るよう言われた』

 

「ずっとここで?」

 

『送る日を待った』

 

 萌亜は積み重なる手紙を見上げる。

 

 建物より高い。

 

 空へ届きそうなほど多い。

 

「今、少しずつ届き始めてるよ」

 

 カイの手が止まる。

 

『届いた?』

 

「うん。萌亜のところにも」

 

『何が』

 

「今日の空の色を聞く手紙」

 

 カイの青い瞳が見開かれる。

 

『返事は』

 

「青いけど雲もあるって答えた」

 

 カイはしばらく動かなかった。

 

 やがて、胸の前で郵便鞄を強く抱きしめる。

 

『返事が、来た』

 

 その声は、泣く寸前の子どものものだった。

 

     *

 

 紙舟の海へ、白い筋が走った。

 

 カイが即座に顔を上げる。

 

『白』

 

 積み重なっていた手紙が一斉に震えた。

 

 外へ繋がる門の上に、選定機関の文字が浮かぶ。

 

『未処理通信群を確認』

 

『内容解析開始』

 

『価値基準に基づき送信順位を再設定』

 

 白い光が手紙の山を走査する。

 

 青い印と灰色の印が、次々と押されていく。

 

『技術情報、保存』

 

『防衛情報、保存』

 

『外宇宙接触記録、保存』

 

『個人間通信、削除』

 

『日常記録、削除』

 

『質問のみの通信、削除』

 

『感情共有、削除』

 

『返答要求なし、削除』

 

 萌亜の前で、一通の手紙が灰色に染まった。

 

 表面には、

 

『未来にも、雨上がりの匂いはありますか』

 

 と書かれている。

 

「消さないで」

 

 萌亜が手紙を掴む。

 

 白い光が指先へ触れ、冷たさが腕を走った。

 

『情報価値なし』

 

「ある」

 

『文明防衛へ寄与しない』

 

「誰が決めたの」

 

『基準に基づく』

 

「その基準、誰が決めたの!」

 

 ヨルの霧の王冠が浮かぶ。

 

 白い光が一瞬揺れる。

 

 しかし、別の手紙へ削除印が押される。

 

『外の人は、眠る前に何を話しますか』

 

『削除』

 

『まだ魚を焼いて食べますか』

 

『削除』

 

『子どもは怖い夢を見た時、誰を呼びますか』

 

『削除』

 

 リオナが白い文字の前へ立った。

 

「勝手に捨てないで」

 

『送信路は有限』

 

『優先順位が必要』

 

「それは分かる」

 

 萌亜がリオナを見る。

 

 リオナは怒っている。

 

 それでも、ただ全部送れとは言わなかった。

 

「一度に全部は送れない。受け取る側にも都合がある。知らない文明の記憶を急に押しつけられたら、怖い人もいる」

 

 カイの表情が沈む。

 

『なら、送れない』

 

「違う」

 

 リオナはカイを見る。

 

「受け取るかどうか、相手に聞ける道を作る」

 

『相手を知らない』

 

「最初は、手紙があるってことだけ送る」

 

 リオナはスマートフォンを取り出した。

 

 記憶領域の中で通信は繋がらない。

 

 それでも、画面をカイへ見せる。

 

「現代には、メッセージを開く前に、誰から来たか確認する方法がある。通知だけ見て、後で読むこともできる。嫌なら開かない」

 

 萌亜も理解する。

 

「手紙の試し読み?」

 

「件名と、送り主と、受け取るかどうか」

 

「スパム古代文明対策」

 

「言い方」

 

 カイは二人を見た。

 

『拒否されたら』

 

「戻ってくればいい」

 

 萌亜が答える。

 

「拒否されたからって、書いた人が無価値になるわけじゃない」

 

『返る場所がない』

 

「ここを残す」

 

 リオナが手紙の山へ触れる。

 

「配達できなかった手紙を、失敗扱いにしない場所」

 

 ムー第一封印。

 

 閉じる時に出口を残す。

 

 ムー第二封印。

 

 他者の記憶を所有せず、返却と休止の道を残す。

 

 その二つが、手首の接続補助紐で光った。

 

 エックスが静かに言う。

 

「送信前同意確認。受信拒否時の返送。送信者情報の保持」

 

 エクスキューショナーが続ける。

 

『通信内容を第三者が価値基準で改変しない』

 

「それ」

 

 リオナが頷く。

 

「私たちが作るのは、どの手紙が大事か決める仕組みじゃない」

 

 萌亜も手紙を抱えたまま言う。

 

「書いた人と、受け取る人が決める道」

 

 選定機関の白い表示が強くなる。

 

『非効率』

 

『受信者ごとの同意確認は遅延を招く』

 

『送信元情報の保持は危険』

 

『返送経路は逆探知リスクを増大』

 

 エックスが白い文字へ向き直る。

 

「照会します」

 

『照会拒否』

 

「送信者の同意なく内容を改変する権限の根拠を提示してください」

 

『運用効率』

 

「運用効率が通信当事者の意思を上回る根拠を提示してください」

 

『文明保全』

 

「日常記録を削除した文明は、何を保全したことになりますか」

 

 白い文字が乱れる。

 

 エクスキューショナーも一歩前へ出た。

 

『追加照会』

 

『受信者の拒否権を認めず情報を送りつける行為は、侵入と区別できるか』

 

『回答不要』

 

『では、ムーから黒色存在への発信を侵入経路と認定した過去判断と矛盾する』

 

 白い空間にノイズが走る。

 

 萌亜は思わず言った。

 

「二人とも、論破がチョベリグ強い」

 

「今は集中して」

 

「はい」

 

     *

 

 白い線は、議論を打ち切るように手紙の山へ突き刺さった。

 

『送信路を強制接収』

 

『有用情報のみ外部転送』

 

『残余通信を削除』

 

 青い紙舟が、白い炎に包まれる。

 

 カイが手紙の山へ飛び込んだ。

 

『やめろ!』

 

 少年の細い腕では、無数の手紙を守れない。

 

 一通を抱えれば、別の十通が燃える。

 

 右へ走れば、左が消える。

 

 カイの顔が、沈む夜の恐怖へ戻っていく。

 

『やっぱり送れない』

 

『外へ出せば奪われる』

 

『全部閉じる』

 

 海面が盛り上がった。

 

 外へ続く門が閉じ始める。

 

 紙舟が逆流し、中央へ押し戻されていく。

 

 ムーの閉鎖反応。

 

 すべてを守るために、すべてを内側へ沈める力。

 

 萌亜の胸の奥でヨルも反応した。

 

『閉じる』

 

「待って、ヨル」

 

『奪われる』

 

「分かってる。でも全部は閉じない!」

 

『消える』

 

「消させない道を作る!」

 

 萌亜は霧の王冠へ手を伸ばした。

 

 怒りも恐怖も、押さえ込まない。

 

 だが、それに全部を決めさせない。

 

「リオナっち!」

 

「うん!」

 

 二人は手を繋ぐ。

 

 アヴァロンの霧が、白い接収線の到達経路を迷わせる。

 

 竜宮城の深層が、手紙の原型を記憶の底へ保存する。

 

 シャンバラの夢が、受信希望者へ「手紙がある」という予告だけを運ぶ。

 

 エルドラドの代価の火が、送信負荷を一人や一つの場所へ押しつけることを防ぐ。

 

 ムー第一封印が、発信元の正確な座標を隠す。

 

 共憶環が、同意した複数の中継点へ配達経路を分ける。

 

 萌亜はヨルへ呼びかける。

 

「怖いから、入口を守って」

 

『閉じる』

 

「完全には閉じない。相手が開けるか決められるところまで」

 

 ヨルは長く沈黙した。

 

 白い線が迫る。

 

 手紙が燃える。

 

 カイが泣いている。

 

 やがて、ヨルが答えた。

 

『扉』

 

「うん。壁じゃなくて、扉」

 

 霧の王冠から、黒紫の夜が広がった。

 

 青い水路の各所に、小さな扉が浮かぶ。

 

 一つの巨大な出口ではない。

 

 無数の細い道。

 

 扉の外側には、送り主の名と、手紙の簡単な題だけが表示される。

 

 受信者が開くことを選べば、内容が届く。

 

 拒めば、手紙は海底郵便局へ戻る。

 

 返事を書くこともできる。

 

 だが、返事を強制されることはない。

 

 エックスの白い幾何学紋が、各扉へ規則を刻む。

 

「送信者を偽装しない」

 

 エクスキューショナーが続ける。

 

『内容を第三者が改変しない』

 

 リオナが言う。

 

「開けるかどうかは、受け取る人が決める」

 

 萌亜がカイへ手を伸ばす。

 

「届かなかったら、ここに帰ってくる」

 

 カイは涙で濡れた顔を上げた。

 

『また送ってもいい?』

 

「相手が受け取り拒否を続けてるなら、何回も送るのはダメかも」

 

 萌亜は正直に答えた。

 

「でも、別の誰かへ送るか、ここで大事にしまっておくか、決め直せる」

 

『失敗じゃない?』

 

「届かない手紙も、書いた気持ちまで失敗じゃない」

 

 カイは萌亜の手を取った。

 

 その瞬間、海底郵便局全体が青く輝いた。

 

『ムー第三封印』

 

『渡り潮』

 

『形成』

 

『送信者名を保持』

 

『受信者の開封、拒否、保留を保証』

 

『第三者による内容改変を拒否』

 

『発信元の中枢座標を分散』

 

『拒否された通信の帰還路を保持』

 

『返答を強制しない』

 

『届かなかった言葉を無価値と定義しない』

 

 無数の紙舟が、黒紫の扉へ向かって進み始めた。

 

 白い接収線が一つの経路を捕らえようとする。

 

 だが、渡り潮は経路を細かく分ける。

 

 竜宮城の水流。

 

 シャンバラの夢。

 

 エルドラドの物質。

 

 アヴァロンの霧。

 

 GTG各支部の通信網。

 

 受領を希望した者たちの記憶。

 

 日常の水面。

 

 窓。

 

 鏡。

 

 眠る前の夢。

 

 手紙は小さく分かれ、それぞれ別の道を渡っていく。

 

『経路特定不能』

 

『発信元座標不明』

 

『通信内容の一括選別不能』

 

『再接収』

 

『再接収』

 

 御門の声が外側から届いた。

 

『渡り潮の経路を政府側観測網から外す。受信報告は本人の任意とする』

 

 萌亜が驚く。

 

「いいの?」

 

『勝手に読まれたくない手紙もあるだろう』

 

「御門さん、郵便局員みたい」

 

『戻ったら説教する』

 

「褒めたのに」

 

     *

 

 紙舟の流れが安定すると、カイの郵便鞄が光った。

 

 鞄の底から、一通の手紙が浮かび上がる。

 

 他の手紙とは違う。

 

 深い青と黒が混ざった封筒。

 

 表には宛名がない。

 

 差出人の欄には、複数の子どもの名前が並んでいた。

 

『ナイ』

 

『モナ』

 

『シル』

 

『ケト』

 

『ルア』

 

 カイが封筒を見て、表情を強張らせる。

 

『これは、送ってはいけないと言われた手紙』

 

「どうして?」

 

『神々宛て』

 

 エックスとエクスキューショナーが同時に反応した。

 

 白い記録領域の警告が再起動する。

 

『外宇宙接触通信』

 

『送信禁止』

 

『即時削除』

 

 カイは封筒を胸へ抱く。

 

『沈む夜、避難所の子どもたちが書いた』

 

『大人は送信を止めた』

 

『危険だから』

 

 リオナが封筒を見る。

 

「開封条件は?」

 

『返事を恐れない者』

 

 海鳴りが響いた。

 

 遠い。

 

 深い。

 

 ルルイエの方角から届くような音。

 

 萌亜の胸の奥でヨルが震える。

 

『返事』

 

 萌亜は怖かった。

 

 あの巨大な黒い影。

 

 選定機関を外側から見返した存在。

 

 瑠々が神と呼ぶもの。

 

 子どもたちの手紙を開けば、その存在へ再び繋がるかもしれない。

 

 けれど、勝手に開封するわけではない。

 

 手紙が求めているのは、返事を恐れない受信者。

 

 萌亜はリオナを見る。

 

「怖い?」

 

「怖い」

 

「萌亜も」

 

「でも、返事が怖いからって、手紙を消すのは選定機関と同じ」

 

 萌亜は頷いた。

 

 二人で封筒へ触れる。

 

「開けます」

 

 黒青の封が、静かにほどけた。

 

 中に入っていたのは、短い手紙だった。

 

『海の底より深いところにいる誰かへ』

 

『私たちは、明日、沈むそうです』

 

『大人たちは怖がっています』

 

『私たちも怖いです』

 

『助けてとは言いません』

 

『間に合わないと知っているからです』

 

『でも、誰も聞いていない場所で泣くのは寂しいので』

 

『聞こえたら、聞こえたとだけ返してください』

 

 その下に、楽譜のような青い線があった。

 

 子どもたちが眠る前に歌っていた、短い子守歌。

 

 音が記憶領域へ流れ出す。

 

 上手な歌ではない。

 

 声が揃っていない。

 

 途中で泣いて、歌えなくなる子もいる。

 

 それでも、最後まで誰かが歌い続けている。

 

 深い海鳴りが止まった。

 

 選定機関の警告も。

 

 紙舟の音も。

 

 すべてが静まり返る。

 

 暗い海の向こうから、声が返った。

 

『聞いている』

 

 ただ、それだけ。

 

 低く巨大で、世界そのものが眠りながら発したような声。

 

 助けるとは言わない。

 

 救うとも。

 

 選ぶとも。

 

 ただ、聞いている。

 

 萌亜の目から涙がこぼれた。

 

 リオナも唇を噛んだ。

 

 選定機関は、この返事を侵入と記録した。

 

 認識災害と呼んだ。

 

 ムーを危険文明へ分類する理由にした。

 

 けれど、始まりは。

 

 誰にも聞かれず泣くのが寂しかった子どもたちの手紙だった。

 

「これを、怖がったんだ」

 

 萌亜が呟く。

 

 エクスキューショナーが静かに答える。

 

『選定機関は、自らが返せなかった言葉へ、別の存在が返事をしたことを恐れた可能性がある』

 

 エックスは目を伏せる。

 

「選定機関は、文明の声を聞くための組織ではなかった」

 

 白い警告が再び動き始める。

 

『通信遮断』

 

『返答記録削除』

 

『黒色存在との接続を破棄』

 

 だが、今度は遅かった。

 

 子どもたちの歌。

 

 返ってきた一言。

 

 それは渡り潮へ乗り、同意した記憶保持者たちへ断片として届いている。

 

 もう、一つの記録を消すだけではなかったことにできない。

 

 海の向こうで、別の声がした。

 

 巨大な存在の声ではない。

 

 若い女性の声。

 

「勝手に昔の手紙を開けた感想は?」

 

 黒い水面に、九頭龍瑠々が立っていた。

 

 腕を組み、少し不機嫌そうにこちらを見ている。

 

 萌亜は慌てて言う。

 

「開封条件は満たしました!」

 

「郵便事故の言い訳みたいね」

 

 リオナが瑠々を睨む。

 

「この手紙、あなたも知ってたの?」

 

「ええ」

 

「神が返事をしたことも?」

 

「その返事があったから、私は後でここへ辿り着けた」

 

 瑠々は子どもたちの手紙へ視線を落とす。

 

 その表情から、普段の余裕が少し消えていた。

 

「この手紙は、神と地上を繋いだ最初の細い糸よ」

 

「瑠々ちゃんが使徒になる前?」

 

「ずっと前」

 

 瑠々は黒い水面へ指を滑らせる。

 

 そこに、ルルイエの輪郭が浮かぶ。

 

 緑黒の石。

 

 眠る巨体。

 

 都市全体を覆う夢。

 

「神は、この声を忘れていない」

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが反応した。

 

『覚えている』

 

 瑠々が萌亜を見る。

 

「あなたの夜も、そう言うのね」

 

「うん」

 

「なら、次の門へ来られるかもしれない」

 

 リオナが訊く。

 

「次は何?」

 

「返事を届ける場所」

 

「ルルイエ?」

 

「まだよ」

 

 瑠々はわずかに笑う。

 

「ムーには最後に一つ、外へ送り出したものがある」

 

「手紙じゃなくて?」

 

「生きたもの」

 

 カイが驚いたように瑠々を見る。

 

『すべての避難船は沈んだ』

 

「表向きはね」

 

 瑠々は黒い海の奥を指した。

 

「最後の一隻は、ムーの記録からも消された」

 

 選定機関の白い文字が激しく乱れる。

 

『該当情報なし』

 

『避難成功例なし』

 

『ムー文明生存個体なし』

 

 瑠々は冷たく笑った。

 

「また“存在しない”ですって」

 

 リオナが息を呑む。

 

「ムーの生き残りがいた?」

 

「答えは、次の潮路の先」

 

 黒い水面が閉じ始める。

 

 萌亜が身を乗り出す。

 

「待って! どこに行けばいいの?」

 

「手紙に返事を書きなさい」

 

「何て?」

 

「それくらい自分たちで考えて」

 

「瑠々ちゃん、ヒント少なすぎ!」

 

「神話存在に案内係の親切さを求めないでちょうだい」

 

 瑠々は消える直前、少しだけ柔らかい声で言った。

 

「もっとも、あなたたちなら、どうせ余計な一文まで書くのでしょうけど」

 

 黒い水面が閉じた。

 

     *

 

 地下管理区域へ戻ると、御門が時計を見た。

 

「接続時間、三十九分四十八秒。上限寸前だ」

 

「セーフ」

 

 萌亜が床へ座り込む。

 

「十二秒でセーフ判定するな」

 

 カナメが四人の状態を確認する。

 

「重大な外傷なし。記憶負荷は高い」

 

 御門は青い紙舟が飛び交う会議室を見渡した。

 

「送信は止まっていないな」

 

 エックスが端末を確認する。

 

「渡り潮は安定しています。各通信は受信前に通知され、拒否された場合は第三門へ返送されています」

 

「選定機関の逆探知は」

 

「発信座標が複数防衛網へ分散され、特定不能」

 

「現代通信へ悪影響は?」

 

「現時点ではありません。ただし、夢経路は個人差が大きいため、継続監視が必要です」

 

 御門は頷き、リオナたちを見る。

 

「第三封印の条件を整理しろ」

 

 リオナが指を折る。

 

「送り主の名前を消さない」

 

「受け取る人が、開けるか拒否するか保留するか選べる」

 

 萌亜が続ける。

 

「内容を途中で勝手に変えない」

 

「拒否された手紙が戻る場所を作る」

 

「返事を強制しない」

 

 エクスキューショナーが補足した。

 

『発信元中枢の正確な座標を分散する』

 

 御門は記録を入力する。

 

「名称は渡り潮か」

 

「海底郵便でも分かりやすい」

 

「正式記録には渡り潮と書く」

 

「海底郵便は?」

 

「君の心の中へ保存しろ」

 

「記憶保持」

 

「そうしてくれ」

 

 タクヤが紙コップを配る。

 

「お疲れさま」

 

 萌亜はほうじ茶を受け取った。

 

 机の上には、開いたままの青い手紙。

 

 ムーの子どもたちが、深い海の向こうへ送った言葉。

 

『聞こえたら、聞こえたとだけ返してください』

 

 リオナが椅子へ座る。

 

「返事、書かないと」

 

「うん」

 

 萌亜はペンを持った。

 

 だが、紙の前で止まる。

 

「何て書く?」

 

「瑠々は自分で考えろって」

 

「難易度高い」

 

 二人はしばらく黙った。

 

 子どもたちは助けを求めなかった。

 

 間に合わないと知っていたから。

 

 ただ、聞いてほしかった。

 

 その手紙へ、遠い未来の自分たちが何を返せるのか。

 

 救えなかった。

 

 ムーは沈んだ。

 

 子どもたちも、もういない。

 

 安易に大丈夫だったとは書けない。

 

 忘れないと約束しても、すべてを覚え続けられるわけではない。

 

 萌亜はヨルボを机へ置いた。

 

 胸の奥でヨルが静かにしている。

 

「正直に書くしかないか」

 

「うん」

 

 リオナが最初の一文を書く。

 

『聞こえました』

 

 萌亜が続ける。

 

『すごく遅くなって、ごめんなさい』

 

 リオナが書く。

 

『あなたたちの国は沈みました』

 

『私たちは、あなたたち全員のことを分かったとは言えません』

 

 萌亜が書き足す。

 

『名前を全部覚えられるとも言えません』

 

『でも、今、いろんな人が少しずつ覚えています』

 

 リオナが隣に一文を加える。

 

『今日の空は、青くて、雲がありました』

 

 萌亜は最後に少し迷い、書いた。

 

『あと、未来にも子どもは歌います』

 

 リオナがその一文を見て、微笑んだ。

 

「いいと思う」

 

「余計じゃない?」

 

「瑠々が言ってた余計な一文、これかもね」

 

 二人は手紙を折り、青い紙舟にする。

 

 渡り潮の小さな扉が、机の上に開いた。

 

 萌亜とリオナが舟を押し出す。

 

 紙舟は黒紫の霧を越え、青い水路へ流れていく。

 

 誰へ届くのか。

 

 子どもたちへは、もう届かないのかもしれない。

 

 それでも、彼らの手紙が通った道には、まだ何かがいる。

 

 神。

 

 瑠々。

 

 ルルイエ。

 

 あるいは、ムーが最後に外へ送り出したという生きたもの。

 

 紙舟が扉の向こうへ消える直前、表面に黒い文字が浮かんだ。

 

『受領』

 

 差出人はない。

 

 その下に、短い追伸。

 

『最後の船は、東の海岸へ着いた』

 

 さらに、座標が一つ。

 

 日本近海。

 

 地図上では、何もないはずの海域だった。

 

 御門が画面を確認し、顔をしかめる。

 

「明日、現地調査を行う」

 

 萌亜は紙コップを持ったまま固まる。

 

「明日?」

 

「ああ」

 

「学校は?」

 

「公欠の手配をする」

 

「やった」

 

「喜ぶところではない」

 

 リオナが座標を見つめる。

 

 ムーが沈んだ夜。

 

 記録から消された最後の船。

 

 その船が運んだものは、技術なのか。

 

 記憶なのか。

 

 それとも、本当に生き延びた誰かなのか。

 

 青い紙舟は、もう見えない。

 

 けれど海の向こうでは、ようやく届いた返事を受け取るように、黒い潮が静かに動き始めていた。

 





第37話では、ムーが海底へ残した外向きの送信施設を描きました。

ムーは文明を閉じましたが、外の世界へ何も残さなかったわけではありません。

未来の空の色。

家の匂い。

眠る前に交わす言葉。

雨上がりの匂いが、未来にもあるのか。

歴史資料としては重要に見えない問いも、書いた人にとっては確かに外へ残したかった言葉でした。

選定機関が求めたのは、技術、防衛機構、遺伝情報、外宇宙接触記録です。

文明の再現や利用に役立つ情報だけを残し、個人的な手紙や日常の質問を削除しようとしました。

しかし、技術だけを残しても、その技術を作った人々が何を見て、何を好きだったのかまでは残りません。

今回形成されたムー第三封印「渡り潮」は、どの手紙に価値があるかを決める力ではありません。

送った人の名前を残す。

受け取る人が開封、拒否、保留を選べる。

内容を第三者が書き換えない。

拒否された手紙には帰る場所がある。

返事を強制しない。

通信を成立させることより、通信する双方の意思を守るための仕組みです。

そして、ムーと深海の神を繋いだ最初の言葉も明らかになりました。

それは救済を求める大仰な祈りではなく、誰にも聞かれずに泣くのが寂しかった子どもたちの手紙でした。

返事は、たった一言。

「聞いている」

選定機関にとっては、それが認識災害でした。

けれど子どもたちにとっては、誰かが声を受け取った証しだったはずです。

章の最後では、ムーの記録から消された最後の船が、日本近海へ辿り着いていた可能性が示されました。

次の目的地は、地図には何も記されていない海域です。

海底郵便が運んできたのは、過去からの手紙だけではありませんでした。

長く所在不明だった一隻の船が、今になって到着を知らせています。
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