アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜   作:池ポチャ

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第39話です。

長い眠りから目覚めたナギが最初に尋ねたのは、未来のことではありませんでした。

「カイお兄ちゃんは?」

彼女にとっては、ムーが沈んだ夜からほとんど時間が経っていません。

兄は「あとから行く」と約束した。

自分は東の海岸へ着いた。

なら、次は兄を待つだけ。

けれど萌亜とリオナは、その約束の結末を知っています。

今回は、守るためにつかれた嘘と、その嘘を何千年も信じて眠っていた少女の話。

そして、海底に残った兄へ、ようやく朝焼けを届けます。



朝焼けを、兄へ

 

船室には、波の音だけが残っていた。

 

 

「カイお兄ちゃんは?」

 

 ナギがもう一度尋ねた。

 

 細い身体を萌亜に支えられたまま、青い瞳で二人を見上げている。

 

 そこに疑いはない。

 

 兄は来る。

 

 そう信じている目だった。

 

 安藤萌亜の口が開く。

 

 けれど、声が出なかった。

 

 姫咲リオナも同じだった。

 

 知らない、と答えることはできる。

 

 今は説明できない、と逃げることもできる。

 

 でも。

 

 二人はもう、カイがどこにいるのか知っている。

 

 ムー第三門。

 

 配達されなかった手紙の山の中。

 

 妹を未来へ送り出し、自分は残った手紙を守るために海底へ戻った少年。

 

 記憶体となってもなお、ずっと配達の日を待ち続けていた。

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが小さく震えた。

 

『言えない』

 

「……うん」

 

 萌亜が小さく答える。

 

 ナギが首を傾げた。

 

「誰と話してるの?」

 

「あ……ごめん。ヨルっていう子」

 

「そこにいるの?」

 

「萌亜の中にいる」

 

 ナギは、萌亜の胸元をじっと見た。

 

 そして、黒紫色のウツボぬいぐるみへ視線を移す。

 

「これ?」

 

「これはヨルボ」

 

「違うの?」

 

「似てるけど違う」

 

 ナギはますます分からない顔をした。

 

 ほんの少しだけ。

 

 船室の空気が緩んだ。

 

 でも、問いは消えない。

 

「お兄ちゃんは?」

 

 萌亜は唇を噛んだ。

 

 リオナが、ナギの前へしゃがむ。

 

「ナギちゃん」

 

「うん」

 

「カイは、この船には乗ってない」

 

「知ってるよ」

 

 ナギは当然のように答えた。

 

「あとから来るって言ってたから」

 

 リオナの胸が痛んだ。

 

「うん」

 

「まだ

船室には、波の音だけが残っていた。

 

 

「カイお兄ちゃんは?」

 

 ナギがもう一度尋ねた。

 

 細い身体を萌亜に支えられたまま、青い瞳で二人を見上げている。

 

 そこに疑いはない。

 

 兄は来る。

 

 そう信じている目だった。

 

 安藤萌亜の口が開く。

 

 けれど、声が出なかった。

 

 姫咲リオナも同じだった。

 

 知らない、と答えることはできる。

 

 今は説明できない、と逃げることもできる。

 

 でも。

 

 二人はもう、カイがどこにいるのか知っている。

 

 ムー第三門。

 

 配達されなかった手紙の山の中。

 

 妹を未来へ送り出し、自分は残った手紙を守るために海底へ戻った少年。

 

 記憶体となってもなお、ずっと配達の日を待ち続けていた。

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが小さく震えた。

 

『言えない』

 

「……うん」

 

 萌亜が小さく答える。

 

 ナギが首を傾げた。

 

「誰と話してるの?」

 

「あ……ごめん。ヨルっていう子」

 

「そこにいるの?」

 

「萌亜の中にいる」

 

 ナギは、萌亜の胸元をじっと見た。

 

 そして、黒紫色のウツボぬいぐるみへ視線を移す。

 

「これ?」

 

「これはヨルボ」

 

「違うの?」

 

「似てるけど違う」

 

 ナギはますます分からない顔をした。

 

 ほんの少しだけ。

 

 船室の空気が緩んだ。

 

 でも、問いは消えない。

 

「お兄ちゃんは?」

 

 萌亜は唇を噛んだ。

 

 リオナが、ナギの前へしゃがむ。

 

「ナギちゃん」

 

「うん」

 

「カイは、この船には乗ってない」

 

「知ってるよ」

 

 ナギは当然のように答えた。

 

「あとから来るって言ってたから」

 

 リオナの胸が痛んだ。

 

「うん」

 

「まだ着いてないの?」

 

 答えなければならない。

 

 今ここで。

 

 けれど、リオナは自分に問う。

 

 真実を言うことと、全部を一度に突きつけることは同じではない。

 

 ムーで学んだ。

 

 記憶は、相手へ押しつければいいものではない。

 

 受け取る側にも、開くかどうかを選ぶ権利がある。

 

 リオナはゆっくりと言った。

 

「カイがどうしたか、私たちは少し知ってる」

 

 ナギの目が大きくなる。

 

「どこにいるの?」

 

「その話、今聞きたい?」

 

「聞きたい」

 

 即答だった。

 

「少し怖い話でも?」

 

 ナギの顔から、わずかに笑みが消えた。

 

 それでも頷く。

 

「聞く」

 

 萌亜がリオナを見る。

 

 リオナも頷いた。

 

 逃げない。

 

 でも、一気に沈めない。

 

 少しずつ。

 

 ナギが自分で歩ける速度で。

 

「カイはね」

 

 リオナが言う。

 

「ナギちゃんをこの船に乗せた後、ムーへ戻った」

 

「どうして?」

 

「残ってた手紙を守るため」

 

 ナギは瞬きをした。

 

「全部持ってくるって言ってた」

 

「うん」

 

 萌亜が震える声で続ける。

 

「ほんとに、全部守ろうとしてた」

 

「じゃあ、今も?」

 

 萌亜の指が、ヨルボを強く握る。

 

「カイ本人は……」

 

 そこで言葉が止まった。

 

 本人。

 

 肉体。

 

 死。

 

 記憶体。

 

 何から説明すればいい。

 

 ナギは子どもだ。

 

 でも、分からないものとして扱ってはいけない。

 

 萌亜は息を吸った。

 

「ナギちゃんが寝てから、すっごく長い時間が経ってる」

 

「どのくらい?」

 

「……ものすごく」

 

「百日?」

 

「もっと」

 

「二百日?」

 

「もっと」

 

 ナギの表情が変わっていく。

 

「一年?」

 

 リオナが静かに答える。

 

「一年より、ずっと長い」

 

 船内の青い光が、わずかに暗くなった。

 

 ナギは窓の外を見る。

 

 知らない海岸。

 

 知らない建物。

 

 知らない服を着た人たち。

 

 大きな船。

 

 見たことのない機械。

 

 今まで、それらを「東の海の文化」だと思っていたのかもしれない。

 

 でも。

 

「ムーは?」

 

 少女の声が小さくなる。

 

 萌亜は胸が締めつけられた。

 

「……沈んだ」

 

 ナギは動かなかった。

 

「全部?」

 

「街は、海の底にある」

 

「お母さんは?」

 

 答えられない。

 

「お父さんは?」

 

 誰も答えられない。

 

「先生は?」

 

 ナギの声が少しずつ震える。

 

「お隣のミアおばさんは?」

 

 リオナの目に涙が滲む。

 

 ナギは二人の顔を見た。

 

 そこで初めて理解した。

 

 質問の答えを。

 

「……いないの?」

 

 萌亜が手を伸ばす。

 

 でも、触れる前に止める。

 

「手、握ってもいい?」

 

 ナギはしばらく黙った。

 

 やがて、小さく頷く。

 

 萌亜が手を握る。

 

 冷たかった。

 

「カイお兄ちゃんも?」

 

 リオナが静かに言う。

 

「カイの身体は、たぶんもうない」

 

 ナギの手が強く震えた。

 

「嘘」

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが痛そうに揺れる。

 

「嘘じゃない」

 

「お兄ちゃん、あとから来るって言った」

 

「うん」

 

「本当って言った!」

 

「うん」

 

「じゃあ来るもん!」

 

 ナギは萌亜の手を振り払った。

 

「船、戻して!」

 

 立ち上がろうとして、足に力が入らない。

 

 床へ崩れそうになる身体を、リオナが受け止める。

 

「触らないで!」

 

 リオナはすぐに手を離した。

 

 ナギは床に座り込む。

 

 涙が次々と頬を流れる。

 

「戻してよ!」

 

 小さな拳で床を叩く。

 

「お兄ちゃん待ってるもん!」

 

 何度も。

 

 何度も。

 

「手紙、全部持ってくるって言った!」

 

 青い床へ涙が落ちる。

 

「一緒に朝見るって言った!」

 

 萌亜は何も言えなかった。

 

 違う、と否定できない。

 

 カイは嘘をついた。

 

 妹を生き延びさせるために。

 

 でも、ナギにとっては、ただ破られた約束だ。

 

     *

 

『船内の生命反応が急上昇した。状況を報告しろ』

 

 御門の声が通信から届く。

 

 リオナが小さく答える。

 

「真実を伝えた。ナギちゃんが混乱してる」

 

『了解した』

 

 それ以上、御門は何も言わなかった。

 

「医療班を入れる?」

 

『本人が望むなら入れる。今は刺激を増やさない方がいい』

 

「分かった」

 

『通信はこちらから切る。必要になったら呼べ』

 

 回線が静かになる。

 

 御門は、聞き続けることもできた。

 

 記録として残すことも。

 

 でも、そうしなかった。

 

 ナギの泣き声まで国家の記録へ変える必要はない。

 

 船内には三人だけが残った。

 

 正確には。

 

 萌亜の中のヨルと、鞄に固定されたヨルボもいる。

 

 しばらく、誰も話さなかった。

 

 ナギが泣く。

 

 声が枯れても。

 

 涙が止まらなくても。

 

 萌亜もリオナも、「泣かないで」とは言わなかった。

 

 泣く理由がある。

 

 怒る理由も。

 

 兄を恨む理由すらある。

 

「嘘つき」

 

 ナギが呟いた。

 

「お兄ちゃんの嘘つき」

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが答える。

 

『嘘』

 

 萌亜は黙って聞く。

 

『怖かった』

 

「カイが?」

 

『妹が泣く』

 

 ヨルの声は途切れ途切れだ。

 

『自分も怖い』

 

『だから、言えなかった』

 

 萌亜はナギを見る。

 

 それを伝えるべきか迷った。

 

 兄を擁護するように聞こえるかもしれない。

 

 守るためだった、と言えば、ナギの怒りを間違いだと否定することになるかもしれない。

 

 だから、少し言い方を変えた。

 

「ナギちゃん」

 

「……何」

 

「カイが嘘をついた理由、知りたい?」

 

 ナギは鼻をすすった。

 

「言い訳?」

 

「かもしれない」

 

 萌亜は正直に言った。

 

「聞いても、許さなくていい」

 

 ナギは黙る。

 

「怒ったままでもいい」

 

 少しして。

 

「……聞く」

 

 萌亜は、船が残した記憶を話した。

 

 ムーが沈む夜。

 

 カイが妹を時間停止槽へ連れてきたこと。

 

 自分は乗れないと知っていたこと。

 

 船の座標すら定まっていなかったこと。

 

 それでも、ここに残せば妹も沈むこと。

 

 最後まで何も言えなかったこと。

 

「カイも、怖かったみたい」

 

「……お兄ちゃんが?」

 

「うん」

 

「お兄ちゃん、怖くないよ」

 

「怖かったと思う」

 

「だって、お兄ちゃんだよ」

 

 子どもの言葉だった。

 

 兄は強い。

 

 兄は何でも知っている。

 

 兄は約束を守る。

 

 だから、怖くない。

 

 萌亜は静かに答えた。

 

「お兄ちゃんでも、怖いよ」

 

 ヨルが胸の奥で小さく呟く。

 

『王も怖い』

 

 萌亜は少し笑った。

 

「萌亜の中に、すごく強い子がいるけど。その子も怖がる」

 

「ヨル?」

 

「うん」

 

 ナギは萌亜の胸を見る。

 

「強いのに?」

 

「強くても」

 

「……お兄ちゃんも?」

 

「たぶん」

 

 ナギは膝へ顔を埋めた。

 

「じゃあ、言えばよかったのに」

 

「うん」

 

 萌亜は否定しなかった。

 

「言ってほしかったよね」

 

「一緒に怖いって言えばよかった」

 

「うん」

 

「そしたら……」

 

 ナギの声が詰まる。

 

「そしたら、わたしも残ったのに」

 

 リオナが静かに答えた。

 

「だから、カイは言えなかったんだと思う」

 

 ナギが顔を上げる。

 

「ナギちゃんがそう言うって、分かってたから」

 

「勝手」

 

「うん」

 

 リオナは頷く。

 

「勝手だった」

 

 ナギの目が揺れた。

 

 守るためなら、何をしても正しい。

 

 そんなふうに片づけない。

 

 カイは妹を救った。

 

 同時に、妹から選ぶ権利を奪った。

 

 どちらも本当だ。

 

「カイのこと、怒っていいよ」

 

 リオナが言う。

 

「助けてもらったからって、全部ありがとうにしなくていい」

 

 ナギはまた泣いた。

 

 今度の涙は、さっきより静かだった。

 

     *

 

 一時間後。

 

 ナギは少し落ち着いた。

 

 医療班から許可された温かい飲み物を、両手で持っている。

 

 現代の薄い蜂蜜湯。

 

 タクヤがムーの記憶にあった飲み物へ味を近づけたものだ。

 

 ナギは恐る恐る一口飲んだ。

 

「……似てる」

 

 萌亜が目を輝かせる。

 

「師匠すご」

 

 リオナも一口分けてもらい、驚く。

 

「ちょっと塩っぽい?」

 

「海藻由来の風味を安全な材料で再現したらしい」

 

「タクヤさん、こういう時だけ料理研究家みたいになる」

 

『聞こえてるよ』

 

 通信越しにタクヤが笑った。

 

 ナギは紙コップを見る。

 

「この人、誰?」

 

「リオナっちの叔父さん」

 

「変な人です」

 

「萌亜」

 

 リオナが即座に突っ込む。

 

『否定はしないかな』

 

「本人も認めた」

 

 ナギの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 それを見てから、萌亜は尋ねる。

 

「カイに会う?」

 

 ナギの手が止まる。

 

「会えるの?」

 

「本人じゃない」

 

 そこは曖昧にしない。

 

「ムーの中に、カイの記憶からできた子がいる」

 

「記憶……」

 

「見た目も声も、たぶんお兄ちゃん。でも、本当のお兄ちゃんが生き返ったわけじゃない」

 

 ナギは長く考えた。

 

「その子、わたしのこと知ってる?」

 

「知ってる」

 

「ずっと待ってた?」

 

「うん」

 

「手紙も?」

 

「守ってる」

 

 ナギの目から、また涙が落ちる。

 

「会う」

 

 今度は迷わなかった。

 

「会って、怒る」

 

 萌亜は頷いた。

 

「それがいいと思う」

 

「あと、朝の色も…朝焼けも教える」

 

「うん」

 

「ちゃんと、約束だから」

 

     *

 

 問題は、ナギを第三門へ連れていけるかだった。

 

 船外。

 

 海岸に設けられた仮設作戦区画で、御門たちが緊急会議を行う。

 

 ナギは船内に残り、リオナと萌亜が外へ戻っている。

 

「肉体を持つ原ムー人を記憶層へ入れる」

 

 御門は腕を組む。

 

「前例はない」

 

 萌亜が小さく手を挙げる。

 

「そもそもムー人が前例ないです」

 

「分かっている」

 

 エックスが解析結果を表示する。

 

「技術的には可能です。ナギ自身がムーの記憶構造と高い親和性を持っています」

 

 カナメが尋ねる。

 

「危険は」

 

「記憶と現実の混同」

 

「程度は」

 

「不明」

 

「その言葉が一番困るな」

 

 ゼルヴァードが低く言った。

 

 エクスキューショナーの投影体が、別の問題を提示する。

 

『選定機関本流が、ナギの存在を継続観測している』

 

「また来る?」

 

 萌亜が問う。

 

『可能性は高い』

 

 御門はすぐに決めた。

 

「ならば長時間は使えない。第三門へ入るなら、渡り潮を使って船ごと一時的に観測圏外へ置く」

 

 リオナが訊く。

 

「ナギちゃんには?」

 

「危険性を説明する」

 

「子どもだけど?」

 

「だから簡単な言葉で説明する。子どもだから決定権を取り上げる理由にはならない」

 

 御門はタブレットを閉じた。

 

「ただし、救命上こちらが止める必要がある状態なら止める。それ以外は本人に選ばせる」

 

 萌亜は頷いた。

 

「ムーの船の条件と同じ」

 

「ああ」

 

 その時。

 

 海上に白い幾何学模様が展開した。

 

 選定機関からの直接通信。

 

『生存個体ナギ』

 

『文明保存上の重要性を再評価』

 

『記憶層接触を禁止』

 

『原文明個体への二次記憶上書きリスクあり』

 

 御門が白い表示を睨む。

 

「今さら保護者のような口をきくな」

 

『原ムー個体の保全は文明史的利益に合致』

 

「本人は会いたいと言っている」

 

『本人判断は情報不足』

 

「だから説明する」

 

『幼年個体に完全な判断能力なし』

 

 御門の声が低くなる。

 

「それを理由に、お前たちが代わりに決めるのか」

 

『文明的価値を理解できない個体の判断は制限されるべき』

 

 萌亜の表情から笑みが消えた。

 

「ナギちゃんの価値って、誰にとって?」

 

『文明史』

 

「ナギちゃん本人は?」

 

『個人利益より文明保存を優先』

 

 その瞬間。

 

 ヨルの霧の王冠が、萌亜の背後に浮かんだ。

 

『嫌い』

 

 萌亜が小さく呟く。

 

「うん。萌亜も」

 

 エックスが一歩前へ出る。

 

「照会します」

 

『照会拒否』

 

「原ムー文明の保存とは、ナギ本人の意思を無視しても成立するのですか」

 

『成立する』

 

「では、保存されるものはムー文明ではなく、選定機関が望むムー像です」

 

 白い表示が揺れる。

 

 エクスキューショナーも続ける。

 

『ナギを原文明個体として固定した場合、現代文化への参加による変化も汚染として排除するのか』

 

『必要に応じて』

 

『では、ナギには未来を生きる権利がない』

 

『不適切な要約』

 

『否定できないなら同義』

 

 御門が小さく息を吐いた。

 

「相変わらず容赦がないな」

 

 タクヤは穏やかに笑う。

 

「いいことだと思うよ」

 

 白い通信は警告へ切り替わった。

 

『第三門への移動を確認した場合、保全介入を実施』

 

 御門は即答した。

 

「拒否する」

 

『地球政府に拒否権なし』

 

「なら、実力で止めてみろ」

 

 萌亜とリオナが同時に御門を見る。

 

 御門は気づいた。

 

「何だ」

 

「御門さん、今ちょっとかっこよかった」

 

「今は余計な感想を言うな」

 

     *

 

 ナギへの説明は、船内で行われた。

 

 難しい専門用語は使わない。

 

 第三門は、ムーの記憶の中にある場所。

 

 そこへ行けば、カイの記憶と話せる。

 

 ただし、強い悲しみや昔の記憶に引っ張られて、今が分からなくなる可能性がある。

 

 途中で怖くなったら、いつでも戻れる。

 

 行かないことも選べる。

 

 ナギは最後まで聞いた。

 

「白い人たちは?」

 

 萌亜とリオナが顔を見合わせる。

 

「選定機関?」

 

「うん。お兄ちゃんが、白いのに見つかったらダメって言ってた」

 

 ナギは覚えていた。

 

 閉じる前のムー。

 

 子どもにまで共有されていた恐怖。

 

 リオナは答える。

 

「今もナギちゃんを見ようとしてる」

 

「わたし、また隠れる?」

 

 その問いに、二人はすぐ答えられなかった。

 

 第一封印なら隠せる。

 

 船の中へ閉じ込めておけば、選定機関から守りやすい。

 

 でも。

 

 それではムーが沈んだ夜と同じだ。

 

 萌亜はナギの隣へ座る。

 

「隠れたい時は隠れていい」

 

「ずっと?」

 

「それはナギちゃんが決める」

 

「外に出てもいい?」

 

「いい」

 

「学校ってところ行ける?」

 

「行けると思う」

 

 リオナが笑う。

 

「必要なら勉強しないとだけど」

 

「勉強あるの?」

 

「ある」

 

 ナギの表情が曇る。

 

「未来なのに?」

 

「未来もあります」

 

「そこ進歩してないんだ」

 

 萌亜が真顔で言った。

 

「人類最大の課題」

 

「勝手に人類代表になるな」

 

 リオナが突っ込む。

 

 ナギが、ほんの少し笑った。

 

「じゃあ行く」

 

「第三門?」

 

「うん」

 

 そして、小さな声で続ける。

 

「お兄ちゃんに怒って、それから朝を教える」

 

     *

 

 渡り潮が船内に開いた。

 

 今回は海岸からではない。

 

 船そのものが長い間通ってきた航路を、逆向きに辿る。

 

 萌亜。

 

 リオナ。

 

 ナギ。

 

 三人で手を繋ぐ。

 

 ナギの手首には、青い郵便札。

 

 萌亜の鞄にはヨルボ。

 

 リオナのポケットには、エリから渡された小さなハンカチ。

 

 帰る場所の印。

 

 御門の声が通信から届く。

 

『最大接続時間は二十分』

 

「短い」

 

『原ムー人の初回接続だ。長く取れるか』

 

「了解です」

 

『安藤』

 

「はい」

 

『感傷で時間を忘れるな』

 

「……なんで分かったんですか」

 

『今までの実績だ』

 

 リオナが苦笑する。

 

「気をつけます」

 

『姫咲、頼んだ』

 

「私だけ信用されてる」

 

『比較の問題だ』

 

「ひど」

 

 ナギが小声で尋ねる。

 

「あの人、怒ってる?」

 

「基本あんな感じ」

 

「心配してる時ほど硬くなるよ」

 

「聞こえているぞ」

 

 三人は笑った。

 

 そのまま、渡り潮へ足を踏み入れた。

 

     *

 

 第三門。

 

 海底郵便局。

 

 無数の青い紙舟が、以前より穏やかに流れている。

 

 開封を許可した相手へ向かう舟。

 

 保留されて帰ってくる舟。

 

 返事を載せて戻る舟。

 

 水路はもう、閉じたままではない。

 

 かといって、何でも外へ漏らす場所でもない。

 

 青い郵便鞄を下げた少年が、水路の分岐点で一通の手紙を仕分けていた。

 

「カイ」

 

 萌亜が呼ぶ。

 

 少年が振り返る。

 

『来たんだ』

 

「うん」

 

 カイは微笑みかけ――。

 

 その視線が、萌亜とリオナの間にいる少女へ止まった。

 

 手から手紙が落ちた。

 

『……ナギ』

 

 ナギも動かなかった。

 

 兄の姿。

 

 あの日と同じ。

 

 少し乱れた髪。

 

 大きすぎる郵便鞄。

 

 嘘をついた時のままの顔。

 

 数歩。

 

 ナギが歩く。

 

 次の瞬間。

 

 思い切り、カイの胸を叩いた。

 

「嘘つき!」

 

『いたっ』

 

「嘘つき!」

 

『ナギ、待って』

 

「あとから行くって言った!」

 

『……うん』

 

「本当って言った!」

 

『うん』

 

「ずっと待ってた!」

 

『ごめん』

 

「ごめんじゃない!」

 

 小さな拳が何度もカイを叩く。

 

 記憶体なのに、ちゃんと触れている。

 

 第三門が、ナギの記憶とカイの記録を繋いでいるのだ。

 

「一緒に怖いって言えばよかった!」

 

 カイの顔が歪む。

 

『……うん』

 

「わたしだって決めたかった!」

 

『うん』

 

「残るか、行くか!」

 

『うん』

 

「勝手に船に乗せた!」

 

『うん』

 

 カイは反論しなかった。

 

 守りたかったから。

 

 時間がなかったから。

 

 それを言えば、事実ではある。

 

 でも、ナギが怒る権利を消す理由にはならない。

 

 カイはただ、全部受け止めた。

 

『ごめん』

 

 ナギは拳を止めた。

 

 泣いている。

 

 カイも泣いていた。

 

『怖かった』

 

 初めて、カイが言った。

 

 ナギの顔が上がる。

 

『ナギをここに残すのが怖かった』

 

『船がどこへ着くか分からないのも怖かった』

 

『一人で起きるのも怖いだろうって分かってた』

 

『でも、一緒に残ったら二人とも沈むと思った』

 

 声が震える。

 

『僕も行きたかった』

 

『でも手紙を残したら、みんなの声が消えると思った』

 

『どっちも嫌だった』

 

 カイは子どもだった。

 

 英雄でもない。

 

 完璧な兄でもない。

 

 選ぶには重すぎるものを、誰かに押しつけられた子ども。

 

『だから、ナギに選ばせるのが怖かった』

 

 ナギが泣きながら言う。

 

「わたし、残るって言うから?」

 

『うん』

 

「言ったよ」

 

『知ってる』

 

「じゃあ、やっぱり勝手」

 

『うん』

 

 少しだけ沈黙。

 

 ナギが袖で涙を拭った。

 

「まだ怒ってる」

 

『うん』

 

「ずっと怒るかも」

 

『うん』

 

「でも……」

 

 ナギは首に下げていた郵便札を外した。

 

「朝、見た」

 

 カイの表情が止まる。

 

 ナギは郵便札の裏へ、指で文字を書く。

 

 ムーの文字。

 

 久しぶりなのに、手は覚えていた。

 

『曇っていた』

 

『海は暗かった』

 

『でも、途中から橙色になった』

 

『青じゃなかった』

 

 最後に、一言。

 

『きれいだった』

 

 カイはそれを読む。

 

『そっか』

 

 笑った。

 

 泣きながら。

 

『青じゃなかったか』

 

「うん」

 

『外した』

 

「お兄ちゃん、何でも知ってるんじゃなかったの?」

 

『知らないこともあるよ』

 

「もっと早く言ってよ」

 

『ごめん』

 

 ナギはまた泣いた。

 

 今度は、カイへ抱きついた。

 

 カイも妹を抱きしめる。

 

 記憶と生者。

 

 本当なら交わらない時間。

 

 渡り潮と共憶環が、わずかな間だけ二人の間を繋いでいる。

 

 萌亜は鼻をすすった。

 

「リオナっち……」

 

「うん」

 

「泣いていい?」

 

「もう泣いてる」

 

「リオナっちも」

 

「うるさい」

 

 ヨルが胸の奥で静かに呟く。

 

『届いた』

 

「うん」

 

 約束そのものは守れなかった。

 

 カイは東の海岸へ行けなかった。

 

 でも。

 

 朝の色は、朝焼けは兄へ届いた。

 

     *

 

 白い光が、海底郵便局の空を裂いた。

 

 萌亜が顔を上げる。

 

「来た!」

 

 選定機関の観測線。

 

『原ムー個体を確認』

 

『記憶体との接触により情報汚染進行』

 

『生存個体ナギを回収』

 

 ナギの身体へ、白い輪が伸びる。

 

 カイが妹を庇った。

 

『触るな!』

 

『記憶人格に拒否権なし』

 

「ある!」

 

 萌亜が叫ぶ。

 

 霧の王冠が広がる。

 

 リオナがナギの手を掴む。

 

「帰るよ!」

 

「待って!」

 

 ナギはカイを見る。

 

「まだ話したい!」

 

『また来ればいい!』

 

 カイが叫んだ。

 

 ナギが目を見開く。

 

『今度は嘘じゃない!』

 

「本当に?」

 

『渡り潮がある』

 

 カイは青い水路を指す。

 

『手紙も送れる』

 

『だから、今は帰って』

 

 白い輪が近づく。

 

 アヴァロンの霧が到達経路を迷わせる。

 

 ムー第一封印がナギの正確な位置を隠す。

 

 第二封印・共憶環が、カイとの会話記録を一か所へ固定させない。

 

 第三封印・渡り潮が帰還路を開く。

 

 しかし。

 

 選定機関の光は、今までより強い。

 

『原文明個体の喪失は許容不能』

 

『強制保全を実施』

 

 エクスキューショナーの声が外から響く。

 

『拒否』

 

 白い輪が一瞬止まる。

 

 エックスも割り込む。

 

『本人は帰還を選択している』

 

『現代地球側へ帰属させる根拠なし』

 

 御門の低い声。

 

『帰属はまだ決めていない』

 

『ならば未所属個体として選定機関が管理する』

 

『勝手に空席へ座るな』

 

 萌亜が思わず叫ぶ。

 

「御門さん今日めっちゃ強い!」

 

『今は走れ!』

 

「はい!」

 

 三人は渡り潮へ駆ける。

 

 カイが背後から叫ぶ。

 

『ナギ!』

 

 ナギが振り返る。

 

『次の手紙、待ってる!』

 

「送る!」

 

『朝だけじゃなくていい!』

 

「何書けばいいの!」

 

 カイが笑う。

 

『未来のこと!』

 

 ナギも泣きながら笑った。

 

「いっぱいあるよ!」

 

 青い扉が閉じる。

 

 白い光が、その直後に海底郵便局へ降り注いだ。

 

 けれど、もう遅い。

 

 ナギは帰った。

 

 自分で。

 

     *

 

 三人が船内へ戻った瞬間、渡り潮が閉じた。

 

 ナギは息を切らして床へ座り込む。

 

 萌亜もその隣へ倒れた。

 

「疲れた……」

 

 リオナが壁へ寄りかかる。

 

「二十分短すぎ」

 

 通信が復帰する。

 

『十八分四十一秒だ』

 

 御門だった。

 

「セーフ」

 

『今回は認める』

 

「やった」

 

 ナギが不思議そうに尋ねる。

 

「あの人、時間に厳しいね」

 

「めっちゃ厳しい」

 

『聞こえている』

 

 船内に少しだけ笑いが生まれた。

 

 その後。

 

 ナギは初めて、自分の足で船外へ出た。

 

 桟橋を渡る。

 

 東の海岸。

 

 現代の日本。

 

 昇りきった朝日。

 

 遠くを走る車。

 

 防寒着を着た知らない大人たち。

 

 空を飛ぶ飛行機。

 

 すべてが初めてだった。

 

 ナギは怖そうに、萌亜とリオナの手を握る。

 

 御門が数歩手前で止まった。

 

 近づきすぎない。

 

「ナギ」

 

 少女が御門を見る。

 

「俺は御門征十郎だ。地球側の行政担当をしている」

 

「偉い人?」

 

「面倒な仕事をする人だ」

 

 萌亜が小声で言う。

 

「胃痛担当」

 

「安藤」

 

「はい」

 

 ナギの口元が少し笑う。

 

 御門は続けた。

 

「まず、医師に身体を診てもらいたい。嫌なことや怖いことがあれば言え。検査内容も説明させる」

 

「お兄ちゃんのところ、また行ける?」

 

「ああ。ただし、身体の状態を確認してからだ」

 

「手紙も送っていい?」

 

「いい」

 

「いっぱい?」

 

 御門は一瞬考える。

 

「カイが受け取れる範囲でな」

 

「分かった」

 

 タクヤが少し離れた場所から手を振る。

 

「おはよう、ナギちゃん」

 

「変な叔父さん?」

 

 タクヤが止まる。

 

 リオナが吹き出した。

 

「萌亜!」

 

「だって説明として早いかなって」

 

「僕、会う前から評価が決まってるね」

 

 エリの声が通信端末から聞こえる。

 

『タクヤは後で説教』

 

「エリ姉さん?」

 

『それとナギちゃん』

 

 ナギが端末を見る。

 

『体調が落ち着いたら、ご飯を食べにいらっしゃい。苦手なものはその時教えて』

 

「……誰?」

 

「私のお母さん」

 

 リオナが答える。

 

 ナギは少し戸惑う。

 

「行っていいの?」

 

『もちろん』

 

「ムーの人じゃないよ?」

 

『知ってるわ』

 

「何もしなくても?」

 

『ご飯を食べるのに仕事は要らないわよ』

 

 ナギは黙った。

 

 その目に、また涙が溜まる。

 

「……行く」

 

『待ってる』

 

 通信が切れる。

 

 御門が医療班へ合図する。

 

「急がせるな。本人へ説明してから進めろ」

 

 ナギは医療班へ向かう前、もう一度海を振り返った。

 

 船。

 

 渡り潮。

 

 そのずっと先にいる兄。

 

「今日のこと、手紙にする」

 

 萌亜が隣へ立つ。

 

「何書く?」

 

「いっぱい」

 

「学校のことも?」

 

「まだ行ってない」

 

「じゃあ行ったら」

 

「うん」

 

「エリさんのご飯も」

 

「食べてから」

 

「ヨルボも紹介する?」

 

 ナギは黒紫のウツボを見る。

 

「これ、何て書けばいい?」

 

 リオナが即答する。

 

「未来の意味不明な文化」

 

「ひど」

 

 久しぶりに、ナギが声を出して笑った。

 

     *

 

 同じ頃。

 

 ムー第三門。

 

 カイは、一人で水路の前に座っていた。

 

 でも。

 

 以前とは違う。

 

 待っている手紙には、返事が来る。

 

 配達できなかったものにも、帰る場所がある。

 

 そして、自分にも待つ理由ができた。

 

 水路の上を、一艘の紙舟が流れてくる。

 

 まだナギが書いたものではない。

 

 もっと古い。

 

 ずっと奥。

 

 ムーの最深部から送られてきたもの。

 

 カイが受け取る。

 

 封には、ムー中枢の紋章。

 

 その下に、一行だけ。

 

『第四門を開く』

 

 カイの表情が変わる。

 

 紙舟の底から、青い光が広がった。

 

 ムーの海底全体が、ゆっくりと震え始める。

 

 これまで眠っていた巨大な構造物。

 

 文明を閉じるためでも。

 

 記憶を残すためでも。

 

 手紙を送るためでもない。

 

 ムーが最後に未来へ渡そうとしていた、防衛機構の中枢。

 

 深海の大地に刻まれた無数の青い線が、一斉に点灯する。

 

『第四門』

 

『最終継承領域』

 

『問い』

 

『滅びた文明を』

 

『蘇らせるか』

 

 青い光は、もう一つの選択肢を表示した。

 

『眠らせるか』

 

 さらに。

 

 最後の一行。

 

『それとも』

 

『終わったものとして見送るか』

 

 海底郵便局で、カイはその文字をじっと見つめていた。

 

 ムーが未来へ求めているものは、復興ではない。

 

 記憶することだけでもない。

 

 失われた文明を、未来の人間がどう扱うのか。

 

 その最後の問いが、ようやく開こうとしていた。

が大きくなる。

 

「どこにいるの?」

 

「その話、今聞きたい?」

 

「聞きたい」

 

 即答だった。

 

「少し怖い話でも?」

 

 ナギの顔から、わずかに笑みが消えた。

 

 それでも頷く。

 

「聞く」

 

 萌亜がリオナを見る。

 

 リオナも頷いた。

 

 逃げない。

 

 でも、一気に沈めない。

 

 少しずつ。

 

 ナギが自分で歩ける速度で。

 

「カイはね」

 

 リオナが言う。

 

「ナギちゃんをこの船に乗せた後、ムーへ戻った」

 

「どうして?」

 

「残ってた手紙を守るため」

 

 ナギは瞬きをした。

 

「全部持ってくるって言ってた」

 

「うん」

 

 萌亜が震える声で続ける。

 

「ほんとに、全部守ろうとしてた」

 

「じゃあ、今も?」

 

 萌亜の指が、ヨルボを強く握る。

 

「カイ本人は……」

 

 そこで言葉が止まった。

 

 本人。

 

 肉体。

 

 死。

 

 記憶体。

 

 何から説明すればいい。

 

 ナギは子どもだ。

 

 でも、分からないものとして扱ってはいけない。

 

 萌亜は息を吸った。

 

「ナギちゃんが寝てから、すっごく長い時間が経ってる」

 

「どのくらい?」

 

「……ものすごく」

 

「百日?」

 

「もっと」

 

「千日?」

 

「もっと」

 

 ナギの表情が変わっていく。

 

「一年?」

 

 リオナが静かに答える。

 

「一年より、ずっと長い」

 

 船内の青い光が、わずかに暗くなった。

 

 ナギは窓の外を見る。

 

 知らない海岸。

 

 知らない建物。

 

 知らない服を着た人たち。

 

 大きな船。

 

 見たことのない機械。

 

 今まで、それらを「東の海の文化」だと思っていたのかもしれない。

 

 でも。

 

「ムーは?」

 

 少女の声が小さくなる。

 

 萌亜は胸が締めつけられた。

 

「……沈んだ」

 

 ナギは動かなかった。

 

「全部?」

 

「街は、海の底にある」

 

「お母さんは?」

 

 答えられない。

 

「お父さんは?」

 

 誰も答えられない。

 

「先生は?」

 

 ナギの声が少しずつ震える。

 

「お隣のミアおばさんは?」

 

 リオナの目に涙が滲む。

 

 ナギは二人の顔を見た。

 

 そこで初めて理解した。

 

 質問の答えを。

 

「……いないの?」

 

 萌亜が手を伸ばす。

 

 でも、触れる前に止める。

 

「手、握ってもいい?」

 

 ナギはしばらく黙った。

 

 やがて、小さく頷く。

 

 萌亜が手を握る。

 

 冷たかった。

 

「カイお兄ちゃんも?」

 

 リオナが静かに言う。

 

「カイの身体は、たぶんもうない」

 

 ナギの手が強く震えた。

 

「嘘」

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが痛そうに揺れる。

 

「嘘じゃない」

 

「お兄ちゃん、あとから来るって言った」

 

「うん」

 

「本当って言った!」

 

「うん」

 

「じゃあ来るもん!」

 

 ナギは萌亜の手を振り払った。

 

「船、戻して!」

 

 立ち上がろうとして、足に力が入らない。

 

 床へ崩れそうになる身体を、リオナが受け止める。

 

「触らないで!」

 

 リオナはすぐに手を離した。

 

 ナギは床に座り込む。

 

 涙が次々と頬を流れる。

 

「戻してよ!」

 

 小さな拳で床を叩く。

 

「お兄ちゃん待ってるもん!」

 

 何度も。

 

 何度も。

 

「手紙、全部持ってくるって言った!」

 

 青い床へ涙が落ちる。

 

「一緒に朝見るって言った!」

 

 萌亜は何も言えなかった。

 

 違う、と否定できない。

 

 カイは嘘をついた。

 

 妹を生き延びさせるために。

 

 でも、ナギにとっては、ただ破られた約束だ。

 

     *

 

『船内の生命反応が急上昇した。状況を報告しろ』

 

 御門の声が通信から届く。

 

 リオナが小さく答える。

 

「真実を伝えた。ナギちゃんが混乱してる」

 

『了解した』

 

 それ以上、御門は何も言わなかった。

 

「医療班を入れる?」

 

『本人が望むなら入れる。今は刺激を増やさない方がいい』

 

「分かった」

 

『通信はこちらから切る。必要になったら呼べ』

 

 回線が静かになる。

 

 御門は、聞き続けることもできた。

 

 記録として残すことも。

 

 でも、そうしなかった。

 

 ナギの泣き声まで国家の記録へ変える必要はない。

 

 船内には三人だけが残った。

 

 正確には。

 

 萌亜の中のヨルと、鞄に固定されたヨルボもいる。

 

 しばらく、誰も話さなかった。

 

 ナギが泣く。

 

 声が枯れても。

 

 涙が止まらなくても。

 

 萌亜もリオナも、「泣かないで」とは言わなかった。

 

 泣く理由がある。

 

 怒る理由も。

 

 兄を恨む理由すらある。

 

「嘘つき」

 

 ナギが呟いた。

 

「お兄ちゃんの嘘つき」

 

 萌亜の胸の奥で、ヨルが答える。

 

『嘘』

 

 萌亜は黙って聞く。

 

『怖かった』

 

「カイが?」

 

『妹が泣く』

 

 ヨルの声は途切れ途切れだ。

 

『自分も怖い』

 

『だから、言えなかった』

 

 萌亜はナギを見る。

 

 それを伝えるべきか迷った。

 

 兄を擁護するように聞こえるかもしれない。

 

 守るためだった、と言えば、ナギの怒りを間違いだと否定することになるかもしれない。

 

 だから、少し言い方を変えた。

 

「ナギちゃん」

 

「……何」

 

「カイが嘘をついた理由、知りたい?」

 

 ナギは鼻をすすった。

 

「言い訳?」

 

「かもしれない」

 

 萌亜は正直に言った。

 

「聞いても、許さなくていい」

 

 ナギは黙る。

 

「怒ったままでもいい」

 

 少しして。

 

「……聞く」

 

 萌亜は、船が残した記憶を話した。

 

 ムーが沈む夜。

 

 カイが妹を時間停止槽へ連れてきたこと。

 

 自分は乗れないと知っていたこと。

 

 船の座標すら定まっていなかったこと。

 

 それでも、ここに残せば妹も沈むこと。

 

 最後まで何も言えなかったこと。

 

「カイも、怖かったみたい」

 

「……お兄ちゃんが?」

 

「うん」

 

「お兄ちゃん、怖くないよ」

 

「怖かったと思う」

 

「だって、お兄ちゃんだよ」

 

 子どもの言葉だった。

 

 兄は強い。

 

 兄は何でも知っている。

 

 兄は約束を守る。

 

 だから、怖くない。

 

 萌亜は静かに答えた。

 

「お兄ちゃんでも、怖いよ」

 

 ヨルが胸の奥で小さく呟く。

 

『王も怖い』

 

 萌亜は少し笑った。

 

「萌亜の中に、すごく強い子がいるけど。その子も怖がる」

 

「ヨル?」

 

「うん」

 

 ナギは萌亜の胸を見る。

 

「強いのに?」

 

「強くても」

 

「……お兄ちゃんも?」

 

「たぶん」

 

 ナギは膝へ顔を埋めた。

 

「じゃあ、言えばよかったのに」

 

「うん」

 

 萌亜は否定しなかった。

 

「言ってほしかったよね」

 

「一緒に怖いって言えばよかった」

 

「うん」

 

「そしたら……」

 

 ナギの声が詰まる。

 

「そしたら、わたしも残ったのに」

 

 リオナが静かに答えた。

 

「だから、カイは言えなかったんだと思う」

 

 ナギが顔を上げる。

 

「ナギちゃんがそう言うって、分かってたから」

 

「勝手」

 

「うん」

 

 リオナは頷く。

 

「勝手だった」

 

 ナギの目が揺れた。

 

 守るためなら、何をしても正しい。

 

 そんなふうに片づけない。

 

 カイは妹を救った。

 

 同時に、妹から選ぶ権利を奪った。

 

 どちらも本当だ。

 

「カイのこと、怒っていいよ」

 

 リオナが言う。

 

「助けてもらったからって、全部ありがとうにしなくていい」

 

 ナギはまた泣いた。

 

 今度の涙は、さっきより静かだった。

 

     *

 

 一時間後。

 

 ナギは少し落ち着いた。

 

 医療班から許可された温かい飲み物を、両手で持っている。

 

 現代の薄い蜂蜜湯。

 

 タクヤがムーの記憶にあった飲み物へ味を近づけたものだ。

 

 ナギは恐る恐る一口飲んだ。

 

「……似てる」

 

 萌亜が目を輝かせる。

 

「師匠すご」

 

 リオナも一口分けてもらい、驚く。

 

「ちょっと塩っぽい?」

 

「海藻由来の風味を安全な材料で再現したらしい」

 

「タクヤさん、こういう時だけ料理研究家みたいになる」

 

『聞こえてるよ』

 

 通信越しにタクヤが笑った。

 

 ナギは紙コップを見る。

 

「この人、誰?」

 

「リオナっちの叔父さん」

 

「変な人です」

 

「萌亜」

 

 リオナが即座に突っ込む。

 

『否定はしないかな』

 

「本人も認めた」

 

 ナギの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 それを見てから、萌亜は尋ねる。

 

「カイに会う?」

 

 ナギの手が止まる。

 

「会えるの?」

 

「本人じゃない」

 

 そこは曖昧にしない。

 

「ムーの中に、カイの記憶からできた子がいる」

 

「記憶……」

 

「見た目も声も、たぶんお兄ちゃん。でも、本当のお兄ちゃんが生き返ったわけじゃない」

 

 ナギは長く考えた。

 

「その子、わたしのこと知ってる?」

 

「知ってる」

 

「ずっと待ってた?」

 

「うん」

 

「手紙も?」

 

「守ってる」

 

 ナギの目から、また涙が落ちる。

 

「会う」

 

 今度は迷わなかった。

 

「会って、怒る」

 

 萌亜は頷いた。

 

「それがいいと思う」

 

「あと、朝の色も…朝焼けも教える」

 

「うん」

 

「ちゃんと、約束だから」

 

     *

 

 問題は、ナギを第三門へ連れていけるかだった。

 

 船外。

 

 海岸に設けられた仮設作戦区画で、御門たちが緊急会議を行う。

 

 ナギは船内に残り、リオナと萌亜が外へ戻っている。

 

「肉体を持つ原ムー人を記憶層へ入れる」

 

 御門は腕を組む。

 

「前例はない」

 

 萌亜が小さく手を挙げる。

 

「そもそもムー人が前例ないです」

 

「分かっている」

 

 エックスが解析結果を表示する。

 

「技術的には可能です。ナギ自身がムーの記憶構造と高い親和性を持っています」

 

 カナメが尋ねる。

 

「危険は」

 

「記憶と現実の混同」

 

「程度は」

 

「不明」

 

「その言葉が一番困るな」

 

 ゼルヴァードが低く言った。

 

 エクスキューショナーの投影体が、別の問題を提示する。

 

『選定機関本流が、ナギの存在を継続観測している』

 

「また来る?」

 

 萌亜が問う。

 

『可能性は高い』

 

 御門はすぐに決めた。

 

「ならば長時間は使えない。第三門へ入るなら、渡り潮を使って船ごと一時的に観測圏外へ置く」

 

 リオナが訊く。

 

「ナギちゃんには?」

 

「危険性を説明する」

 

「子どもだけど?」

 

「だから簡単な言葉で説明する。子どもだから決定権を取り上げる理由にはならない」

 

 御門はタブレットを閉じた。

 

「ただし、救命上こちらが止める必要がある状態なら止める。それ以外は本人に選ばせる」

 

 萌亜は頷いた。

 

「ムーの船の条件と同じ」

 

「ああ」

 

 その時。

 

 海上に白い幾何学模様が展開した。

 

 選定機関からの直接通信。

 

『生存個体ナギ』

 

『文明保存上の重要性を再評価』

 

『記憶層接触を禁止』

 

『原文明個体への二次記憶上書きリスクあり』

 

 御門が白い表示を睨む。

 

「今さら保護者のような口をきくな」

 

『原ムー個体の保全は文明史的利益に合致』

 

「本人は会いたいと言っている」

 

『本人判断は情報不足』

 

「だから説明する」

 

『幼年個体に完全な判断能力なし』

 

 御門の声が低くなる。

 

「それを理由に、お前たちが代わりに決めるのか」

 

『文明的価値を理解できない個体の判断は制限されるべき』

 

 萌亜の表情から笑みが消えた。

 

「ナギちゃんの価値って、誰にとって?」

 

『文明史』

 

「ナギちゃん本人は?」

 

『個人利益より文明保存を優先』

 

 その瞬間。

 

 ヨルの霧の王冠が、萌亜の背後に浮かんだ。

 

『嫌い』

 

 萌亜が小さく呟く。

 

「うん。萌亜も」

 

 エックスが一歩前へ出る。

 

「照会します」

 

『照会拒否』

 

「原ムー文明の保存とは、ナギ本人の意思を無視しても成立するのですか」

 

『成立する』

 

「では、保存されるものはムー文明ではなく、選定機関が望むムー像です」

 

 白い表示が揺れる。

 

 エクスキューショナーも続ける。

 

『ナギを原文明個体として固定した場合、現代文化への参加による変化も汚染として排除するのか』

 

『必要に応じて』

 

『では、ナギには未来を生きる権利がない』

 

『不適切な要約』

 

『否定できないなら同義』

 

 御門が小さく息を吐いた。

 

「相変わらず容赦がないな」

 

 タクヤは穏やかに笑う。

 

「いいことだと思うよ」

 

 白い通信は警告へ切り替わった。

 

『第三門への移動を確認した場合、保全介入を実施』

 

 御門は即答した。

 

「拒否する」

 

『地球政府に拒否権なし』

 

「なら、実力で止めてみろ」

 

 萌亜とリオナが同時に御門を見る。

 

 御門は気づいた。

 

「何だ」

 

「御門さん、今ちょっとかっこよかった」

 

「今は余計な感想を言うな」

 

     *

 

 ナギへの説明は、船内で行われた。

 

 難しい専門用語は使わない。

 

 第三門は、ムーの記憶の中にある場所。

 

 そこへ行けば、カイの記憶と話せる。

 

 ただし、強い悲しみや昔の記憶に引っ張られて、今が分からなくなる可能性がある。

 

 途中で怖くなったら、いつでも戻れる。

 

 行かないことも選べる。

 

 ナギは最後まで聞いた。

 

「白い人たちは?」

 

 萌亜とリオナが顔を見合わせる。

 

「選定機関?」

 

「うん。お兄ちゃんが、白いのに見つかったらダメって言ってた」

 

 ナギは覚えていた。

 

 閉じる前のムー。

 

 子どもにまで共有されていた恐怖。

 

 リオナは答える。

 

「今もナギちゃんを見ようとしてる」

 

「わたし、また隠れる?」

 

 その問いに、二人はすぐ答えられなかった。

 

 第一封印なら隠せる。

 

 船の中へ閉じ込めておけば、選定機関から守りやすい。

 

 でも。

 

 それではムーが沈んだ夜と同じだ。

 

 萌亜はナギの隣へ座る。

 

「隠れたい時は隠れていい」

 

「ずっと?」

 

「それはナギちゃんが決める」

 

「外に出てもいい?」

 

「いい」

 

「学校ってところ行ける?」

 

「行けると思う」

 

 リオナが笑う。

 

「必要なら勉強しないとだけど」

 

「勉強あるの?」

 

「ある」

 

 ナギの表情が曇る。

 

「未来なのに?」

 

「未来もあります」

 

「そこ進歩してないんだ」

 

 萌亜が真顔で言った。

 

「人類最大の課題」

 

「勝手に人類代表になるな」

 

 リオナが突っ込む。

 

 ナギが、ほんの少し笑った。

 

「じゃあ行く」

 

「第三門?」

 

「うん」

 

 そして、小さな声で続ける。

 

「お兄ちゃんに怒って、それから朝を教える」

 

     *

 

 渡り潮が船内に開いた。

 

 今回は海岸からではない。

 

 船そのものが長い間通ってきた航路を、逆向きに辿る。

 

 萌亜。

 

 リオナ。

 

 ナギ。

 

 三人で手を繋ぐ。

 

 ナギの手首には、青い郵便札。

 

 萌亜の鞄にはヨルボ。

 

 リオナのポケットには、エリから渡された小さなハンカチ。

 

 帰る場所の印。

 

 御門の声が通信から届く。

 

『最大接続時間は二十分』

 

「短い」

 

『原ムー人の初回接続だ。長く取れるか』

 

「了解です」

 

『安藤』

 

「はい」

 

『感傷で時間を忘れるな』

 

「……なんで分かったんですか」

 

『今までの実績だ』

 

 リオナが苦笑する。

 

「気をつけます」

 

『姫咲、頼んだ』

 

「私だけ信用されてる」

 

『比較の問題だ』

 

「ひど」

 

 ナギが小声で尋ねる。

 

「あの人、怒ってる?」

 

「基本あんな感じ」

 

「心配してる時ほど硬くなるよ」

 

「聞こえているぞ」

 

 三人は笑った。

 

 そのまま、渡り潮へ足を踏み入れた。

 

     *

 

 第三門。

 

 海底郵便局。

 

 無数の青い紙舟が、以前より穏やかに流れている。

 

 開封を許可した相手へ向かう舟。

 

 保留されて帰ってくる舟。

 

 返事を載せて戻る舟。

 

 水路はもう、閉じたままではない。

 

 かといって、何でも外へ漏らす場所でもない。

 

 青い郵便鞄を下げた少年が、水路の分岐点で一通の手紙を仕分けていた。

 

「カイ」

 

 萌亜が呼ぶ。

 

 少年が振り返る。

 

『来たんだ』

 

「うん」

 

 カイは微笑みかけ――。

 

 その視線が、萌亜とリオナの間にいる少女へ止まった。

 

 手から手紙が落ちた。

 

『……ナギ』

 

 ナギも動かなかった。

 

 兄の姿。

 

 あの日と同じ。

 

 少し乱れた髪。

 

 大きすぎる郵便鞄。

 

 嘘をついた時のままの顔。

 

 数歩。

 

 ナギが歩く。

 

 次の瞬間。

 

 思い切り、カイの胸を叩いた。

 

「嘘つき!」

 

『いたっ』

 

「嘘つき!」

 

『ナギ、待って』

 

「あとから行くって言った!」

 

『……うん』

 

「本当って言った!」

 

『うん』

 

「ずっと待ってた!」

 

『ごめん』

 

「ごめんじゃない!」

 

 小さな拳が何度もカイを叩く。

 

 記憶体なのに、ちゃんと触れている。

 

 第三門が、ナギの記憶とカイの記録を繋いでいるのだ。

 

「一緒に怖いって言えばよかった!」

 

 カイの顔が歪む。

 

『……うん』

 

「わたしだって決めたかった!」

 

『うん』

 

「残るか、行くか!」

 

『うん』

 

「勝手に船に乗せた!」

 

『うん』

 

 カイは反論しなかった。

 

 守りたかったから。

 

 時間がなかったから。

 

 それを言えば、事実ではある。

 

 でも、ナギが怒る権利を消す理由にはならない。

 

 カイはただ、全部受け止めた。

 

『ごめん』

 

 ナギは拳を止めた。

 

 泣いている。

 

 カイも泣いていた。

 

『怖かった』

 

 初めて、カイが言った。

 

 ナギの顔が上がる。

 

『ナギをここに残すのが怖かった』

 

『船がどこへ着くか分からないのも怖かった』

 

『一人で起きるのも怖いだろうって分かってた』

 

『でも、一緒に残ったら二人とも沈むと思った』

 

 声が震える。

 

『僕も行きたかった』

 

『でも手紙を残したら、みんなの声が消えると思った』

 

『どっちも嫌だった』

 

 カイは子どもだった。

 

 英雄でもない。

 

 完璧な兄でもない。

 

 選ぶには重すぎるものを、誰かに押しつけられた子ども。

 

『だから、ナギに選ばせるのが怖かった』

 

 ナギが泣きながら言う。

 

「わたし、残るって言うから?」

 

『うん』

 

「言ったよ」

 

『知ってる』

 

「じゃあ、やっぱり勝手」

 

『うん』

 

 少しだけ沈黙。

 

 ナギが袖で涙を拭った。

 

「まだ怒ってる」

 

『うん』

 

「ずっと怒るかも」

 

『うん』

 

「でも……」

 

 ナギは首に下げていた郵便札を外した。

 

「朝、見た」

 

 カイの表情が止まる。

 

 ナギは郵便札の裏へ、指で文字を書く。

 

 ムーの文字。

 

 久しぶりなのに、手は覚えていた。

 

『曇っていた』

 

『海は暗かった』

 

『でも、途中から橙色になった』

 

『青じゃなかった』

 

 最後に、一言。

 

『きれいだった』

 

 カイはそれを読む。

 

『そっか』

 

 笑った。

 

 泣きながら。

 

『青じゃなかったか』

 

「うん」

 

『外した』

 

「お兄ちゃん、何でも知ってるんじゃなかったの?」

 

『知らないこともあるよ』

 

「もっと早く言ってよ」

 

『ごめん』

 

 ナギはまた泣いた。

 

 今度は、カイへ抱きついた。

 

 カイも妹を抱きしめる。

 

 記憶と生者。

 

 本当なら交わらない時間。

 

 渡り潮と共憶環が、わずかな間だけ二人の間を繋いでいる。

 

 萌亜は鼻をすすった。

 

「リオナっち……」

 

「うん」

 

「泣いていい?」

 

「もう泣いてる」

 

「リオナっちも」

 

「うるさい」

 

 ヨルが胸の奥で静かに呟く。

 

『届いた』

 

「うん」

 

 約束そのものは守れなかった。

 

 カイは東の海岸へ行けなかった。

 

 でも。

 

 朝の色は、朝焼けは兄へ届いた。

 

     *

 

 白い光が、海底郵便局の空を裂いた。

 

 萌亜が顔を上げる。

 

「来た!」

 

 選定機関の観測線。

 

『原ムー個体を確認』

 

『記憶体との接触により情報汚染進行』

 

『生存個体ナギを回収』

 

 ナギの身体へ、白い輪が伸びる。

 

 カイが妹を庇った。

 

『触るな!』

 

『記憶人格に拒否権なし』

 

「ある!」

 

 萌亜が叫ぶ。

 

 霧の王冠が広がる。

 

 リオナがナギの手を掴む。

 

「帰るよ!」

 

「待って!」

 

 ナギはカイを見る。

 

「まだ話したい!」

 

『また来ればいい!』

 

 カイが叫んだ。

 

 ナギが目を見開く。

 

『今度は嘘じゃない!』

 

「本当に?」

 

『渡り潮がある』

 

 カイは青い水路を指す。

 

『手紙も送れる』

 

『だから、今は帰って』

 

 白い輪が近づく。

 

 アヴァロンの霧が到達経路を迷わせる。

 

 ムー第一封印がナギの正確な位置を隠す。

 

 第二封印・共憶環が、カイとの会話記録を一か所へ固定させない。

 

 第三封印・渡り潮が帰還路を開く。

 

 しかし。

 

 選定機関の光は、今までより強い。

 

『原文明個体の喪失は許容不能』

 

『強制保全を実施』

 

 エクスキューショナーの声が外から響く。

 

『拒否』

 

 白い輪が一瞬止まる。

 

 エックスも割り込む。

 

『本人は帰還を選択している』

 

『現代地球側へ帰属させる根拠なし』

 

 御門の低い声。

 

『帰属はまだ決めていない』

 

『ならば未所属個体として選定機関が管理する』

 

『勝手に空席へ座るな』

 

 萌亜が思わず叫ぶ。

 

「御門さん今日めっちゃ強い!」

 

『今は走れ!』

 

「はい!」

 

 三人は渡り潮へ駆ける。

 

 カイが背後から叫ぶ。

 

『ナギ!』

 

 ナギが振り返る。

 

『次の手紙、待ってる!』

 

「送る!」

 

『朝だけじゃなくていい!』

 

「何書けばいいの!」

 

 カイが笑う。

 

『未来のこと!』

 

 ナギも泣きながら笑った。

 

「いっぱいあるよ!」

 

 青い扉が閉じる。

 

 白い光が、その直後に海底郵便局へ降り注いだ。

 

 けれど、もう遅い。

 

 ナギは帰った。

 

 自分で。

 

     *

 

 三人が船内へ戻った瞬間、渡り潮が閉じた。

 

 ナギは息を切らして床へ座り込む。

 

 萌亜もその隣へ倒れた。

 

「疲れた……」

 

 リオナが壁へ寄りかかる。

 

「二十分短すぎ」

 

 通信が復帰する。

 

『十八分四十一秒だ』

 

 御門だった。

 

「セーフ」

 

『今回は認める』

 

「やった」

 

 ナギが不思議そうに尋ねる。

 

「あの人、時間に厳しいね」

 

「めっちゃ厳しい」

 

『聞こえている』

 

 船内に少しだけ笑いが生まれた。

 

 その後。

 

 ナギは初めて、自分の足で船外へ出た。

 

 桟橋を渡る。

 

 東の海岸。

 

 現代の日本。

 

 昇りきった朝日。

 

 遠くを走る車。

 

 防寒着を着た知らない大人たち。

 

 空を飛ぶ飛行機。

 

 すべてが初めてだった。

 

 ナギは怖そうに、萌亜とリオナの手を握る。

 

 御門が数歩手前で止まった。

 

 近づきすぎない。

 

「ナギ」

 

 少女が御門を見る。

 

「俺は御門征十郎だ。地球側の行政担当をしている」

 

「偉い人?」

 

「面倒な仕事をする人だ」

 

 萌亜が小声で言う。

 

「胃痛担当」

 

「安藤」

 

「はい」

 

 ナギの口元が少し笑う。

 

 御門は続けた。

 

「まず、医師に身体を診てもらいたい。嫌なことや怖いことがあれば言え。検査内容も説明させる」

 

「お兄ちゃんのところ、また行ける?」

 

「ああ。ただし、身体の状態を確認してからだ」

 

「手紙も送っていい?」

 

「いい」

 

「いっぱい?」

 

 御門は一瞬考える。

 

「カイが受け取れる範囲でな」

 

「分かった」

 

 タクヤが少し離れた場所から手を振る。

 

「おはよう、ナギちゃん」

 

「変な叔父さん?」

 

 タクヤが止まる。

 

 リオナが吹き出した。

 

「萌亜!」

 

「だって説明として早いかなって」

 

「僕、会う前から評価が決まってるね」

 

 エリの声が通信端末から聞こえる。

 

『タクヤは後で説教』

 

「エリ姉さん?」

 

『それとナギちゃん』

 

 ナギが端末を見る。

 

『体調が落ち着いたら、ご飯を食べにいらっしゃい。苦手なものはその時教えて』

 

「……誰?」

 

「私のお母さん」

 

 リオナが答える。

 

 ナギは少し戸惑う。

 

「行っていいの?」

 

『もちろん』

 

「ムーの人じゃないよ?」

 

『知ってるわ』

 

「何もしなくても?」

 

『ご飯を食べるのに仕事は要らないわよ』

 

 ナギは黙った。

 

 その目に、また涙が溜まる。

 

「……行く」

 

『待ってる』

 

 通信が切れる。

 

 御門が医療班へ合図する。

 

「急がせるな。本人へ説明してから進めろ」

 

 ナギは医療班へ向かう前、もう一度海を振り返った。

 

 船。

 

 渡り潮。

 

 そのずっと先にいる兄。

 

「今日のこと、手紙にする」

 

 萌亜が隣へ立つ。

 

「何書く?」

 

「いっぱい」

 

「学校のことも?」

 

「まだ行ってない」

 

「じゃあ行ったら」

 

「うん」

 

「エリさんのご飯も」

 

「食べてから」

 

「ヨルボも紹介する?」

 

 ナギは黒紫のウツボを見る。

 

「これ、何て書けばいい?」

 

 リオナが即答する。

 

「未来の意味不明な文化」

 

「ひど」

 

 久しぶりに、ナギが声を出して笑った。

 

     *

 

 同じ頃。

 

 ムー第三門。

 

 カイは、一人で水路の前に座っていた。

 

 でも。

 

 以前とは違う。

 

 待っている手紙には、返事が来る。

 

 配達できなかったものにも、帰る場所がある。

 

 そして、自分にも待つ理由ができた。

 

 水路の上を、一艘の紙舟が流れてくる。

 

 まだナギが書いたものではない。

 

 もっと古い。

 

 ずっと奥。

 

 ムーの最深部から送られてきたもの。

 

 カイが受け取る。

 

 封には、ムー中枢の紋章。

 

 その下に、一行だけ。

 

『第四門を開く』

 

 カイの表情が変わる。

 

 紙舟の底から、青い光が広がった。

 

 ムーの海底全体が、ゆっくりと震え始める。

 

 これまで眠っていた巨大な構造物。

 

 文明を閉じるためでも。

 

 記憶を残すためでも。

 

 手紙を送るためでもない。

 

 ムーが最後に未来へ渡そうとしていた、防衛機構の中枢。

 

 深海の大地に刻まれた無数の青い線が、一斉に点灯する。

 

『第四門』

 

『最終継承領域』

 

『問い』

 

『滅びた文明を』

 

『蘇らせるか』

 

 青い光は、もう一つの選択肢を表示した。

 

『眠らせるか』

 

 さらに。

 

 最後の一行。

 

『それとも』

 

『終わったものとして見送るか』

 

 海底郵便局で、カイはその文字をじっと見つめていた。

 

 ムーが未来へ求めているものは、復興ではない。

 

 記憶することだけでもない。

 

 失われた文明を、未来の人間がどう扱うのか。

 

 その最後の問いが、ようやく開こうとしていた。

 




第39話ではナギは、ようやくカイと再会しました。

ただし、それは「兄が生きていた」という救済ではありません。

カイ本人の時間は、ムーが沈んだ夜に終わっています。

第三門にいるのは、彼が残した記憶と役割から生まれた存在です。

だからこそ、今回はそこを曖昧にせず、ナギ自身にも伝える形にしました。

そしてカイの行動も、単純な美談にはしていません。

彼は妹を救いました。

同時に、妹へ相談せず未来へ送り出しました。

ナギが怒ったように、それは確かに「勝手」な選択でもあります。

カイ自身も、そのことを言い訳せず受け止めました。

アヴァロンから続いている「相手を守るためなら、相手の選択を奪っていいのか」というテーマが、ここでも別の形で重なっています。

一方で、二人の約束もすべて失われたわけではありませんでした。

カイは東の海岸へ行けなかった。

けれど、ナギが見た朝焼けは兄へ届いた。

これからは、ナギの側から未来の日常を手紙にして送ることができます。

ムーの最後の生存者である前に、ナギは未来を初めて見る一人の子どもです。

学校へ行くのか。

どこで暮らすのか。

ムーのことをどこまで語るのか。

それらはこれから彼女自身が決めていきます。

そして海底では、第四門が起動しました。

そこに示されたのは、これまでとは少し違う問いです。

滅びた文明を蘇らせるのか。

眠らせるのか。

それとも、終わったものとして見送るのか。

ムーの名前を残すことと、ムーをそのまま復活させることは同じではありません。

次に萌亜たちが向き合うのは、その違いです。

その頃にはきっと、ナギからカイへの最初の手紙も一通くらい増えているでしょう。
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