アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
第41話です。
ムーは終わりました。
けれど、そこで受け取ったものは消えていません。
共憶環。
渡り潮。
潮境網。
そして、未来へ届いたナギ。
沈んだ文明に別れを告げたことで、これまでムー自身の閉鎖によって塞がれていた、さらに深い海への道が開きました。
その先に眠るのは、ルルイエ。
九頭龍瑠々がただ一人の使徒として仕える存在の眠る都市です。
ですが、今回はまだ「会いに行く」段階ではありません。
眠っているものへ近づく時、こちらが相手を見るとは限らない。
夢を見る者が、逆にこちらを夢へ取り込むこともある。
ムーまでが「過去の記憶」と向き合う章だったのなら、ここからは――人間の理解の外側にいるものと、どう向き合うかの話になります。
姫咲家のリビングで、ナギが教科書を睨んでいた。
「未来、おかしい」
第一声がそれだった。
安藤萌亜は隣でプリンを食べながら首を傾げる。
「どこが?」
「勉強が多い」
「分かる」
「昔より文明が進んでるのに」
「分かる」
「なのに覚えること増えてる」
「めっちゃ分かる」
姫咲リオナが二人の前に座った。
「そこ意気投合しないで」
ナギの前には、小学校高学年向けの算数と国語、それから現代日本の生活習慣を簡単にまとめた教材が並んでいる。
本格的な編入ではない。
まずは学校見学へ行くための準備だ。
言語についてはムー側の記憶補助と共憶環のおかげで日常会話には困らない。
問題は文化だ。
「学校では急に教室から出ない」
「うん」
「知らない機械を勝手に開けない」
「うん」
「給食に知らない食べ物が出ても、とりあえず先生に聞く」
「うん」
「あと牛は普通、校内警備をしてない」
ナギが窓の外を見る。
庭ではモー子が草を食べている。
「でも、あれはしてる」
「モー子は例外」
「未来、例外多い」
「それは本当にそう」
萌亜が頷いた。
リオナがため息をつく。
「萌亜が同意すると説得力が変な方向に増すんだよね」
ナギは鉛筆を置いた。
その隣には、青い紙舟。
今朝、カイから届いた返事だった。
『学校という場所へ行くなら、友達を作るといい』
『僕は郵便局ばかりで、あまり作れなかった』
『あと、未来の勉強が難しいなら諦めないこと』
その下に、ナギが書き加えている。
『お兄ちゃんに言われたくない』
まだ送っていない。
夕方にまとめて返事を書くつもりらしい。
萌亜はそれを見ながら笑った。
「めっちゃ兄妹っぽくなってきた」
「兄妹だよ」
「うん」
ナギは当たり前のように答える。
その言葉に、もう以前ほど痛みだけは混じっていなかった。
カイ本人が生き返ったわけではない。
それはナギも理解している。
でも、第三門に残ったカイの記憶体とは、今も手紙を交わせる。
新しいことを伝えれば、新しい返事が返ってくる。
過去をそのまま取り戻したわけではない。
けれど、過去との関係は少しずつ未来へ動いている。
リオナは、そんなナギを見て少し安心していた。
ムーを終わらせる。
あれだけ大きな決断をした直後だ。
もっと沈んでもおかしくなかった。
だからこそ。
今日のように勉強へ文句を言い、卵焼きの味についてカイへ報告し、モー子を未来標準の牛だと勘違いしかける日常が大切なのだと思う。
「萌亜ちゃん」
エリが台所から顔を出す。
「プリン食べ終わったら、お皿持ってきて」
「はーい」
「ナギちゃんも、休憩にする?」
「する」
「麦茶でいい?」
「うん」
普通の午後。
そのはずだった。
萌亜がプリンの最後の一口を食べようとした時。
スプーンが止まった。
「……あれ」
リオナが顔を上げる。
「どうした?」
萌亜は自分の胸へ手を当てた。
ヨル。
いつもなら、そこにいる。
怖がったり。
眠ったり。
時々、妙なものに興味を示したり。
名前を呼べば、短い言葉が返ってくる。
だが今は。
静かすぎた。
「ヨル?」
返事がない。
萌亜の表情が変わった。
「ヨル」
もう一度。
反応がない。
リオナがすぐに立ち上がる。
「眠ってるだけじゃない?」
「違う」
「分かるの?」
「うん」
萌亜はゆっくり目を閉じた。
いつもの夜。
黒紫の暗闇。
霧の王冠。
そこへ意識を向ける。
ヨルはいた。
消えてはいない。
ただ。
何かを見ている。
萌亜ではなく。
もっと遠く。
もっと深く。
夜のさらに下。
暗い海の底。
「……ヨル?」
ようやく返事が来た。
『静かに』
萌亜は息を止めた。
ヨルがそんな言い方をするのは初めてだった。
『起こす』
「誰を?」
長い沈黙。
そして。
『大きい』
その瞬間。
リビングの照明が消えた。
*
真っ暗にはならなかった。
窓の外から、青緑色の光が差し込んでいる。
リオナが窓を見る。
「……何これ」
空がおかしい。
夕方前だったはずだ。
なのに。
空には星が出ている。
しかも、見慣れた星座ではない。
星々が異様な角度で並び、その隙間に巨大な黒い空間が開いている。
街灯も。
家も。
道路も。
すべて現実のまま。
ただ、空だけが別の場所へ繋がっている。
ナギの顔色が変わる。
「この空……」
「知ってる?」
「ムーが沈む前に、一回だけ見た」
萌亜がナギを見る。
「いつ?」
「みんなが夢を見た夜」
ナギは青い郵便札を握った。
「誰かが、海の向こうから返事をした後」
低い音がした。
ず……ん。
地震ではない。
家は揺れていない。
家具も。
窓も。
ただ胸の奥が振動する。
巨大な何かが、遠い場所で寝返りを打ったような感覚。
ナギが耳を塞ぐ。
「これ……音じゃない」
萌亜も分かっていた。
鼓膜ではなく。
夢へ直接響いている。
リオナのスマートフォンが震えた。
御門。
通話を開く。
『姫咲、状況は』
いつもの硬い声。
だが背後が騒がしい。
「空がおかしい。星が違う」
『こちらでも確認している』
「全国?」
『日本だけではない』
御門が短く息を吐いた。
『現在、地球上の観測地点の約四割で夜空が二重化している』
「四割!?」
『実際の天体位置は変わっていない。見えているのは物理現象ではない』
エックスの声が通信へ入る。
『夢です』
リオナが黙る。
『正確には、地球規模の夢投影』
「シャンバラ?」
『違います』
エックスは即答した。
『シャンバラは個々の精神を繋ぐ夢の道です。今回の現象では、夢そのものが現実側へ押し出されています』
萌亜が窓の外を見上げる。
「ルルイエ……?」
通信の向こうが一瞬静まる。
御門が答えた。
『その可能性が高い』
萌亜の胸の奥でヨルが低く囁く。
『見られている』
背中に冷たいものが走った。
「誰に?」
『知らない』
「ヨルでも?」
『知らない』
その答えが、何より怖かった。
*
十分後。
外は騒ぎになっていた。
眠っている人が、急に知らない言葉を喋り始めた。
犬や猫が海の方角を見て動かなくなる。
海岸では潮位とは無関係に波が一斉に沖へ引いた。
スマートフォンで撮影しても、異常な星空は映らない。
肉眼だけ。
正確には。
見ている本人の意識だけが、それを認識している。
御門から再び連絡が入る。
『地下管理区域へ集合しろ。ただしナギは残せ』
ナギが即座に反応する。
「なんで」
御門にも聞こえた。
『ムーとの接続を終えた直後だ。現在の現象はルルイエ由来の可能性が高い。原ムー人である君を続けて未知領域へ接触させる必要はない』
「でも」
『ナギ』
御門の声は低い。
『君は今、行かなくていい』
ナギが黙る。
『これはムーの後始末ではない』
「……うん」
『今日は学校の準備をしていろ』
萌亜が思わず笑いそうになる。
「世界規模の怪異が起きてる横で?」
『だからといってナギまで連れていく理由にはならない』
エリがナギの肩へ手を置く。
「そういうこと」
ナギは不満そうだったが。
しばらくして、小さく頷いた。
「分かった」
萌亜がヨルボを鞄へ固定する。
「じゃあ、行ってくる」
「萌亜」
「ん?」
「帰ってきたら教えて」
「何を?」
「ルルイエってところ」
ナギは少し考える。
「怖いかどうか」
萌亜は笑った。
「たぶん怖い」
「じゃあ、それ以外も」
「了解」
リオナも靴を履く。
「写真はたぶん無理だけど、ちゃんと話す」
「うん」
ナギは青い紙舟を一つ萌亜へ渡した。
「カイお兄ちゃんが、昨日送ってきたやつ」
「いいの?」
「持ってって」
表には短い一文。
『知らない場所へ行く時は、帰り道を先に覚えること』
萌亜は少し目を細めた。
「カイ、アヴァロン履修してないのに分かってる」
「郵便配達は帰ってこないと次を届けられないから」
「なるほど」
萌亜は紙舟を大事に鞄へ入れた。
*
国立国会図書館地下管理区域。
到着した時点で、異常はさらに広がっていた。
職員の三分の一が仮眠室へ移されている。
眠気を訴えた者を無理に起こしておくことは危険と判断されたためだ。
廊下には白い灯り。
床にはシャンバラ由来の精神安定用花弁。
空調にはタクヤが用意した茶葉の香り。
その中央を、御門が歩いてくる。
「来たか」
顔色はいつも通り悪い。
つまり、かなり悪い。
萌亜が尋ねる。
「寝てます?」
「三時間は寝た」
「少ない」
「今は俺の睡眠時間を議題にするな」
会議室には、すでに全員が揃っている。
タクヤ。
エックス。
エクスキューショナー。
カナメ。
ゼルヴァード。
GTG主要メンバー。
そして。
一番奥の椅子に。
九頭龍瑠々が座っていた。
萌亜が止まる。
「瑠々ちゃん」
「遅い」
瑠々は頬杖をついている。
「五分前に来た」
「私は一時間待ったわ」
御門が低く言う。
「君が予定時刻を一時間早く設定しただけだ」
「待ったことに変わりはないでしょう」
「理屈が横暴だな」
リオナは瑠々を見る。
今まで。
ムーの記憶層。
渡り潮。
黒い水面。
そうした場所でしか会っていない。
現実の同じ部屋にいる瑠々は、奇妙なほど普通の少女に見えた。
黒髪。
白い肌。
静かな目。
だが。
周囲にいる者全員が、無意識に少し距離を取っている。
ゼルヴァードですら。
萌亜だけが普通に近づいた。
「お茶飲む?」
「もうもらった」
瑠々の前には湯呑みがある。
タクヤが淹れたものだ。
「師匠のお茶どう?」
「普通」
タクヤが少し傷ついた顔をした。
「かなり厳しい評価だね」
「お茶に宇宙を救う味は求めてないわ」
御門が机を指で二度叩いた。
「雑談は後だ。九頭龍、説明しろ」
瑠々が御門を見る。
「命令口調ね」
「協力を要請している」
「言葉と態度が一致してない」
「今さらだ」
瑠々は小さく肩をすくめた。
「いいわ」
会議室の中央モニターへ視線を向ける。
エックスが映像を表示する。
世界各地で撮影された夜空。
カメラには普通の空しか映らない。
だが、目撃者の証言を視覚化すると。
同じ星。
同じ黒い空。
同じ海。
そして。
遠くに石造りの都市。
瑠々が言った。
「ルルイエが夢を見始めた」
御門が眉を寄せる。
「今までは見ていなかったのか」
「見ていたわ。ただ、もっと深く眠っていた」
「原因は」
「ムー」
即答だった。
萌亜とリオナの表情が変わる。
「潮境網?」
「それもある」
瑠々は指先でテーブルをなぞる。
「ムーが完全閉鎖をやめたことで、昔ルルイエと繋がった夢の潮路が復活した」
「子どもたちの手紙が通った道」
「ええ」
「じゃあ、ムーを終わらせたせい?」
萌亜の声が少し沈む。
瑠々はすぐに首を横へ振った。
「その言い方はやめなさい」
萌亜が顔を上げる。
「ムーが閉じたままでも、いつか起きた」
「でも」
「むしろ今でよかったわ」
瑠々の声は平静だった。
「潮境網が完成した。アヴァロンもある。シャンバラも。前より地球側はずっと準備できている」
少しだけ間を置く。
「それに」
瑠々の目が萌亜へ向く。
「あなたの中の王にも、名前がある」
萌亜の胸の奥でヨルが動いた。
『知っている』
萌亜が驚く。
「ヨル、瑠々ちゃん知ってる?」
『海の匂い』
瑠々の目がわずかに細くなった。
「聞こえるの?」
「うん」
「何て?」
「瑠々ちゃん、海の匂いするって」
「……それ、褒めている?」
「たぶん」
「判断保留ね」
エックスが一瞬だけ反応した。
「その表現は悪くありません」
御門が咳払いする。
「話を戻せ」
*
瑠々がモニターを切り替える。
映ったのは、海底地形図。
太平洋。
日本から遠く離れた深海域。
だが、既知の海底地形の上に、別の構造が重なっている。
巨大な都市。
直線ではない。
曲線でもない。
見る角度によって形そのものが変わる。
リオナは数秒見ただけで目を逸らした。
「……気持ち悪い」
「正常な反応よ」
瑠々が言う。
「長く見ないで」
萌亜が画面を見ようとする。
瑠々が即座に手を伸ばし、萌亜の目を手で覆った。
「見るなって言ったでしょう」
「近い近い」
「あなたは特に駄目」
「なんで?」
「向こうも見るから」
会議室が静まった。
瑠々は萌亜から手を離す。
「ルルイエは場所じゃない」
御門が尋ねる。
「どういう意味だ」
「都市ではある。海底にもある。夢の中にもある。外宇宙側から見れば座標も持っている」
「なら場所だろう」
「全部正しいから、普通の場所じゃないの」
瑠々は少し苛立ったように説明する。
「人間は、場所を見る時に自分と場所を分けるでしょう」
「当然だ」
「ルルイエでは、その境目が薄い」
エックスが解析する。
「観測者と観測対象の相互浸透?」
「近いわね」
瑠々が頷く。
「あなたがルルイエを見る」
「ルルイエもあなたを見る」
「あなたが中へ入る」
「ルルイエの夢もあなたの中へ入る」
「じゃあ」
リオナが言う。
「今の世界中の人が見てる星空は」
「ルルイエが地球を夢に見始めた結果」
萌亜がぽつりと言った。
「寝てる神様の夢が漏れてる」
「大雑把にはそう」
「で、その神様が起きたら?」
瑠々が黙った。
御門が低く問う。
「九頭龍」
「地球が壊れる、みたいな単純な話ではない」
「もっと悪い?」
「場合による」
瑠々は湯呑みを置いた。
「まず、あの方に地球を壊す意図はない」
ゼルヴァードが尋ねる。
「意図がなくとも力が大きすぎる、という話か」
「ええ」
「寝返りだけで夢が世界へ漏れるなら、目覚めた際の影響は予測不能だな」
「だから起こさない」
瑠々の声が一段低くなる。
「これは絶対」
萌亜は、その表情を初めて見た。
怒りでもない。
尊敬だけでもない。
恐れを知った上で、それでも守ろうとする者の顔。
「瑠々ちゃんでも起こしたくないんだ」
「私だからよ」
瑠々は即答した。
「私はあの方に救われた」
会議室の空気が変わる。
「命も」
「力も」
「今ここにいる私も」
「あの方から分けてもらった」
萌亜は黙って聞く。
「だから」
瑠々は言う。
「眠ることを望んでいるなら、眠らせておく」
「勝手に起こして神託が欲しいだの、世界を変えてほしいだの言う連中とは違う」
リオナの眉が動く。
「カルト」
「ええ」
瑠々の声音に明確な嫌悪が混じる。
「地上のクトゥルフ信仰団体は、ほとんど私と無関係」
「むしろ邪魔」
「神を好き勝手に解釈して、起こせば自分たちだけ選ばれると思ってる」
エクスキューショナーが反応する。
『選定思想との類似を確認』
「皮肉でしょう」
瑠々が薄く笑う。
「神に選ばれたい人間と、勝手に他人を選ぶ連中」
「似たもの同士よ」
御門が資料を見る。
「今回の異常に、そのカルトが関与しているのか」
「もう動いてる」
「場所は」
「世界各地」
「具体的に」
「港湾都市、海岸、島、海底通信施設」
瑠々が一つずつ挙げる。
「同じ夢を見た連中が、それを“覚醒の兆し”と受け取ってる」
「本当に兆しではないのか」
「違う」
瑠々の返答は早かった。
「寝返り」
萌亜が吹き出しかける。
「神様スケールの寝返り……」
「笑うところじゃない」
「でも寝返りなんだ」
「寝返りよ」
御門が額を押さえる。
「世界規模の危機報告書へ“クトゥルフが寝返りを打った”と書けというのか」
「正確でしょう」
「正確でも書き方がある」
*
突然。
会議室の一人が机へ突っ伏した。
若い職員だった。
御門が振り返る。
「おい」
反応がない。
カナメがすぐに近づく。
「呼吸あり。脈拍正常」
次の瞬間。
別の職員。
さらに一人。
三人が同時に眠りへ落ちる。
エックスが声を上げた。
「夢圧上昇!」
照明が青緑へ変わる。
壁が。
床が。
ゆっくり濡れ始めた。
実際の水ではない。
ムーの時と似ている。
だが、今回はもっと生々しい。
海藻の匂い。
冷たい塩気。
深海の圧力。
リオナの耳元で。
知らない誰かの囁き。
『来い』
振り返る。
誰もいない。
『深く』
リオナの視界の端で、壁の角度がおかしくなる。
直角のはずなのに。
見ていると、内側へ倒れているようにも、外側へ広がっているようにも見える。
「見ないで!」
瑠々が叫んだ。
その声と同時に。
黒い波が会議室を走った。
瑠々の足元から広がる。
夢を押し返す。
水の幻影が一瞬薄くなる。
眠り込んだ職員たちの呼吸が安定した。
御門が即座に指示する。
「眠った者を無理に起こすな! シャンバラ経由で精神状態だけ確認しろ!」
職員たちが動く。
「画面を消せ! ルルイエ構造図もだ!」
モニターが暗転する。
それでも。
萌亜だけは動かなかった。
胸の奥。
ヨルが震えている。
『いる』
「誰が?」
『近い』
萌亜の背後に、霧の王冠が浮かぶ。
瑠々が振り返る。
「萌亜!」
「大丈夫」
「王冠を引っ込めて!」
「でもヨルが――」
「だから!」
瑠々が初めて声を荒らげた。
「その子は恐怖の王でしょう!」
「うん」
「恐怖に反応して起きる」
「うん」
「ルルイエの夢は、人間が理解できないものを恐怖に変換する!」
萌亜の顔色が変わる。
「じゃあ……」
「ヨルが受け取りすぎれば」
瑠々の目が黒紫の王冠を睨む。
「あの方の夢と、あなたの恐怖が共鳴する」
低い音。
ず……ん。
先ほどより近い。
萌亜の膝が震えた。
頭の中に。
知らない景色が流れ込む。
海底。
巨大な扉。
緑黒の石。
無数の影。
星。
星。
星。
星の間。
人間には遠すぎる何か。
ヨルが叫ぶ。
『分からない』
「ヨル!」
『分からない』
「分からなくていい!」
『怖い』
「うん!」
『形がない』
「見なくていい!」
萌亜は自分の胸を抱く。
アヴァロンで学んだ。
怖さをなくさなくていい。
でも。
今までとは違う。
ヨルは、理解できないから怖がっている。
それを無理に理解しようとしている。
意味をつけようとしている。
人の形へ。
敵へ。
怪物へ。
恐怖として分類できる何かへ。
「ヨル」
『怖い』
「名前つけなくていい」
ヨルが止まった。
萌亜自身も驚いた。
アヴァロンでは名前を与えた。
名づけることで、恐怖と話せるようになった。
でも。
何でも名前をつければいいわけではない。
「分かんないものは」
萌亜は目を閉じる。
「分かんないままでいい」
黒紫の王冠が少しだけ小さくなる。
『……いい?』
「いい」
『怖い』
「それもいい」
『見ない?』
「見なくていい」
ヨルの震えが、ゆっくり収まっていく。
会議室を侵食していた海の幻影も、少しずつ薄くなった。
瑠々が萌亜を見ていた。
驚いたように。
「……今の」
「何?」
「誰に教わったの?」
「誰にも」
萌亜は苦笑する。
「ヨルと今決めた」
瑠々は何も言わなかった。
ただ。
少しだけ。
目を細めた。
*
異常が収まった後。
眠った三人に重大な異常はなかった。
全員、同じ夢を見ている。
海底都市。
巨大な石の扉。
そして。
扉の前で、一人の黒髪の少女が、
『帰れ』
と怒鳴っていた。
萌亜が瑠々を見る。
「めっちゃ頑張ってる」
「当然でしょう」
「夢の中でも門番してるの?」
「使徒だから」
瑠々は苛立ったように答える。
だが、その顔には疲れが見える。
タクヤが新しいお茶を置いた。
「飲んで」
「いらない」
「手、震えてるよ」
瑠々が止まる。
自分の右手を見る。
確かに。
わずかに震えている。
「……これは」
「怖いんだよね」
タクヤはそれ以上言わない。
瑠々はしばらく湯呑みを見た。
やがて。
手に取った。
一口。
「普通」
「それならよかった」
萌亜がリオナへ囁く。
「師匠強い」
「うん」
御門は会議室へ戻り、資料を机へ置いた。
「今後の方針を決める」
瑠々が湯呑みを持ったまま御門を見る。
「ルルイエへ行く」
「まだ早い」
「なら世界中でこの夢が濃くなるのを待つ?」
御門は黙る。
瑠々が続ける。
「今のは夢の漏出」
「この程度なら私が押さえられる」
「でも、選定機関とカルトが動いている」
エックスが頷く。
「選定機関側でもルルイエ夢領域の解析を開始しています」
エクスキューショナーが続ける。
『目的は二つ』
『第一に、黒色上位存在の観測』
『第二に、地球防衛網への転用可能性評価』
瑠々の目が冷たくなる。
「やっぱり」
リオナが嫌な顔をする。
「眠ってる神様まで防衛装置扱い?」
『その可能性が高い』
「最悪」
瑠々が静かに言った。
「だから先に行く」
萌亜が尋ねる。
「何しに?」
「話す」
「神様と?」
「まずは夢と」
瑠々は机の上へ指を置いた。
そこに黒い水滴が落ちる。
水滴が広がり、ルルイエの簡略図になる。
「今、あの方本人は深いところで眠っている」
「表層には夢だけがある」
「夢なら話せる?」
「話す、という言い方が正しいかは分からない」
「でも、意志はある」
瑠々は萌亜を見る。
「最初にやることは一つ」
「何?」
「あなたたちを、敵ではないと夢に覚えさせる」
萌亜は少し考えた。
「面接?」
「違う」
「顔合わせ?」
「軽くするな」
「初対面の挨拶?」
瑠々はため息をついた。
「……それが一番近いのが腹立たしいわね」
リオナが腕を組む。
「誰が行くの?」
瑠々は即答した。
「私」
次に。
「萌亜」
「はい」
「リオナ」
「うん」
そして。
少し考えた後。
「エクスキューショナー」
白い投影体が反応する。
『理由を要求』
「白い連中が何を考えているか、現場で説明できるから」
『了承』
「あと」
瑠々がタクヤを見る。
「あなたは来ないで」
タクヤが微笑んだ。
「僕?」
「ええ」
「どうして?」
「分からない」
瑠々は真顔だった。
「でも、あの方の夢へあなたを入れるのは嫌な予感がする」
エックスが小さく頷いた。
「私も賛成します」
「どうして僕だけ」
「過去実績です」
御門が言う。
「俺も賛成だ」
「御門さんまで?」
「全宇宙接触禁止個体を、眠っている上位存在の夢へ投入する理由がない」
萌亜が頷く。
「師匠、お留守番」
「納得しづらいけど、仕方ないね」
「モー子も残す」
瑠々が続けた。
通信端末から鈴が鳴る。
『もー』
「何で不満そうなのよ」
萌亜が真面目に言う。
「名誉終身守衛だから」
「牛をルルイエへ連れていく気はないわ」
*
方針が決まった。
出発は翌日。
ただし。
眠ることで入るのではない。
シャンバラの夢路。
ムーの潮境網。
瑠々自身の使徒としての接続。
三つを重ね、意識だけをルルイエ夢域の最外周へ送る。
物理的な海底都市へは、まだ入らない。
瑠々が念を押す。
「明日は、本当に見るだけ」
「触らない」
「近づかない」
「呼ばれても、勝手に奥へ行かない」
「名前を聞いても、軽く呼ばない」
萌亜が手を挙げる。
「ヨルは?」
「連れていくしかない」
「置いてけないしね」
「だから」
瑠々は萌亜をまっすぐ見る。
「今日やったことを忘れないで」
「分からないものを?」
「分からないままにする」
萌亜は頷いた。
瑠々の表情が少しだけ和らぐ。
「名前をつければ近くなる」
「意味をつければ理解した気になれる」
「でも、あの方の夢では、それが一番危ない」
「理解できないものを、無理に自分の世界へ押し込めないこと」
リオナが静かに言う。
「相手を、自分に分かる形へ変えない」
瑠々が頷いた。
「そう」
それは。
これまでとは違う試練だった。
竜宮城では深く潜った。
シャンバラでは心を繋いだ。
エルドラドでは代価を考えた。
アヴァロンでは恐怖へ名前を与えた。
ムーでは記憶を残し、閉じることと渡すことを学んだ。
そして。
ルルイエ。
ここでは。
分からないものを。
分からないまま隣に置く。
それが必要になる。
*
その夜。
姫咲家。
萌亜は布団に入っていた。
隣にはリオナ。
少し離れてナギ。
エリが念のため同じ部屋の近くで休んでいる。
ヨルボは枕元。
ナギが暗闇の中で言った。
「萌亜」
「ん?」
「ルルイエ、怖い?」
「めっちゃ怖い」
「まだ行ってないのに?」
「今日ちょっと夢漏れてきた」
「そうなんだ」
「ナギちゃんは?」
「行かないから分かんない」
萌亜は少し笑った。
「それでいいよ」
「でも」
ナギは布団から顔だけ出す。
「帰ってきたら教えて」
「うん」
「分からなかったことも」
萌亜が瞬きをする。
「分からなかったこと?」
「うん」
「ムーの話、みんな分かったことを教えてくれた」
「でも、分かんなかったこともいっぱいあったでしょ」
萌亜は少し考える。
確かに。
歴史を見た。
理由を知った。
けれど、当時の人々すべての気持ちを分かったわけではない。
萌亜は頷いた。
「分かった」
「分かんなかったことも手紙にする」
「カイお兄ちゃんにも?」
「送る」
ナギは満足そうに布団へ戻った。
リオナが小声で言う。
「ナギちゃん、もうムー編の答え持ってるじゃん」
「強い」
「子どもって、たまにすごいよね」
萌亜は目を閉じた。
ヨルへ呼びかける。
「ヨル」
『いる』
「明日、怖い?」
『怖い』
「萌亜も」
『分からない』
「うん」
『分からないままでいい?』
「いい」
ヨルは静かになった。
眠りへ落ちる直前。
萌亜は遠くで波の音を聞いた。
現実ではない。
海でもない。
夢。
遥か深い場所で。
巨大な何かが眠っている。
そして。
今夜は。
こちらへ近づいてこなかった。
*
同じ頃。
太平洋深海。
ルルイエ。
巨大な石造都市の門前に、九頭龍瑠々が立っていた。
肉体ではない。
夢の中の姿。
彼女の前には、深きものたちが無数に跪いている。
誰一人として顔を上げない。
瑠々は彼らを見下ろす。
「地上の連中を近づけないで」
低い声。
『使徒よ』
『夢は開いた』
「知ってる」
『星はまだ揃わぬ』
「だから寝かせるの」
『地上より呼ぶ者あり』
瑠々の目が冷たくなる。
「カルト?」
『多数』
「全部追い返して」
『殺すか』
「駄目」
瑠々は即答した。
「人間はすぐ死ぬんだから、雑に壊さない」
『では』
「迷わせて」
少し考える。
「あと、できれば無人島に流して」
深きものたちが一斉に頭を垂れる。
『仰せのままに』
瑠々は巨大な石扉を見る。
向こう側。
夢より深い場所。
眠る存在。
「明日」
小さく呟く。
「変なのを三人連れてくるから」
背後の深きものが、わずかに反応した。
『変……』
「説明しづらいのよ」
一人は恐怖の王。
一人は、その王の手を離さない人間。
一人は、自分の組織へ反抗し始めた上位選定個体。
「少なくとも」
瑠々は石扉へ手を当てる。
「退屈はしないと思うわ」
扉の向こうで。
とても、とても遠く。
何かが夢を見た。
瑠々は一瞬だけ目を閉じる。
そして。
「……だからまだ起きるなって言ってるでしょう」
誰にも聞かせるつもりのなかった声が。
眠る都市へ、静かに吸い込まれていった。
第41話から、ルルイエ編へ入ります。
ムーでは、記憶を残すこと、閉じること、誰かへ渡すことを扱いました。
ルルイエで扱うものは少し異なります。
今回、萌亜が最初にぶつかったのは「理解できない」という恐怖でした。
アヴァロンでは、恐怖の王にヨルという名前を与えました。
名前を持つことで、恐怖はただ暴れるものではなく、話し合える相手になった。
しかし今回は、その成功体験をそのまま使うことが危険になります。
何でも名前をつければいいわけではない。
何でも人間に理解できる形へ直せばいいわけではない。
分からないものを、分からないまま認める。
怖いままでも、無理に分類しない。
ルルイエ編では、この感覚が重要になります。
また、瑠々についても少し踏み込みました。
彼女はクトゥルフを目覚めさせようとする信者ではありません。
本人に救われ、命と力を分け与えられたただ一人の使徒だからこそ、眠りを乱す者を嫌っています。
「神を崇めること」と「神の都合を無視して自分の願いを叶えてもらおうとすること」は、瑠々にとってまったく別物です。
そのため、地上のカルト教団とはむしろ敵対しています。
そして最後に出てきた深きものたちは、瑠々へ傅いていました。
カルト側から見れば、神に最も近いところへいるのは自分たちではなく、瑠々です。
この立場の違いも、ルルイエ編で徐々に表へ出てきます。
次はいよいよ、夢の外周からルルイエへ。
ただし萌亜たちが最初に会うのは、クトゥルフ本人とは限りません。
眠るものが見る夢には、その主だけでなく、長い間そこへ溜まり続けたものもいます。
明日のルルイエは、まず「こちらが何者なのか」を夢の側から確かめに来るでしょう。