アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
今回は、地上に残った側の話です。
北海道東部の山中。
海から離れた廃村で、かつて住民全員が同じ夢を見たまま目覚めなかった事件がありました。
そして現在、その場所には告潮者とカルト教団が集結しています。
狙われているのは九頭龍瑠々。
彼らにとって瑠々は、神にもっとも近い使徒ではありません。
むしろ、自分たちと神との間に立ち、覚醒を妨げ続ける邪魔者です。
一方で瑠々本人は、眠っている神を起こすつもりなどありません。
信仰しているからこそ、眠らせる。
救われたからこそ、相手の都合を無視しない。
その違いが、地上で真正面から衝突します。
海のない山で聞こえる潮騒。
そこには、まだ帰れずにいる人々の夢も残されていました。
海は見えない。それなのに、森の奥からは絶えず波の音が聞こえていた。
ざあ、ざざあ、と規則正しく押し寄せては引いていく潮騒は、北海道東部の山中を走る林道にはあまりにも似つかわしくない。
車窓の外にあるのは針葉樹と白樺、それに薄い霧ばかりで、舗装も途中から途切れている。
四輪駆動車が湿った土を踏みしめるたびに車体が小さく揺れ、その揺れとは無関係に、海の音だけが少しずつ近づいていた。
「窓、開けないで」
後部座席で目を閉じていた九頭龍瑠々が言った。
運転席の黒瀬カナメが、バックミラー越しに彼女を見る。
「理由は?」
「匂いまで海になってきたら、夢域がかなり近い」
助手席の御門征十郎は端末へ目を落としたまま答えた。
「現時点で外気から塩分は検出されていない」
「だから、まだ閉めておいて」
「分かった」
瑠々の隣に置かれた小型通信端末から、楠タクヤの声が聞こえてくる。
『眠気は?』
「ない」
『頭痛』
「少し」
『吐き気』
「ない」
『手の震え』
そこで瑠々は目を開き、通信端末を睨んだ。
「あなた、現地に来てないのに細かい」
『来るなって言われたからね』
「そのまま来ないで」
『分かってるよ』
続いてエックスの声が割り込む。
『九頭龍瑠々の精神接続値は通常時より十四パーセント上昇しています』
「数字にするな」
『必要な観測です』
「選定機関っぽくなってるわよ」
一瞬の沈黙の後、エックスが答える。
『……表現を変更します』
御門が横から口を挟んだ。
「計測自体は続けろ」
「御門」
「何だ」
「あなたも大概ね」
「仕事だ」
瑠々はもう一度窓の外を見る。山と木々と霧、そのどこにも海など存在しない。それでも潮騒だけは確実に近づき、今度はさっきよりはっきりと聞こえていた。
*
廃村へ入る手前で車列は止まった。
これより先は徒歩となる。参加するのは警察特殊部隊、GTG現地班、超常現象対策課を合わせて四十二名。上空ではゼルヴァードが周辺を監視し、別ルートからは夢波探知装置を背負ったモー子まで合流していた。
「もー」
御門は牛を見た。
「なぜいる」
『夢波探知装置を背負ってもらってる』
タクヤの声が返る。
「人に背負わせろ」
『人間より安定してるんだ』
エックスが補足した。
『モー子はルルイエ由来の低周波夢干渉に対し、現時点で顕著な認識変容を示していません』
「つまり?」
カナメが尋ねる。
『効きにくいです』
瑠々はモー子をしばらく見つめた。
「何なの、この牛」
「もー」
「返事しないで」
御門は歩き出しながら端末を確認する。
「先行班から報告。村内部に武装者を確認。推定七十前後」
「増えたな」
カナメは拳銃の状態を確かめる。
「民間人は」
「現住民はいない」
「なら楽だ」
「そうとも限らない」
御門が端末を差し出した。
村内で確認されている生体反応は七十一。そのほかに、赤でも青でもない曖昧な反応が八十六表示されている。
「これは?」
カナメが尋ねると、瑠々が答えた。
「昔の村人」
御門が彼女を見る。
「生きているのか」
「身体はもうない。でも、夢が残ってる」
*
事件が起きたのは、ずっと以前だった。
ある夜、村人全員が眠りにつき、翌朝になっても一人として目を覚まさなかった。病気でも毒でも一酸化炭素中毒でもなく、家族は前夜まで普段通りに食卓を囲み、いつも通り布団へ入ったという。
それなのに朝になると、家の中にいる全員が目を閉じたまま静かに呼吸を続けていた。
数日が過ぎても、数週間が過ぎても意識は戻らず、医療機関へ搬送された後も状態は変わらなかった。やがて身体だけが少しずつ衰弱し、一人、また一人と亡くなっていった。
「夢だけが、戻らなかった」
瑠々が言った。
「ここに?」
カナメは霧の向こうに見える村を見た。
「ええ」
古い木造家屋、錆びた郵便受け、草に埋もれた軽トラック、崩れかけた学校。誰も住んでいないはずの窓の奥で、子どものような影が一瞬だけ動き、すぐに消える。
「当時のカルトがやったのか」
御門が聞いた。
「直接関与した証拠はない。でも、ルルイエ由来なのは間違いない」
「何が起きた」
「誰かが夢を深く潜らせすぎた。私は後からここを知ったけど、来た時にはもう身体へ戻せる状態じゃなかった」
瑠々の横顔に、ほんのわずかに悔しさが滲んだ。
御門はそれ以上追及せず、端末へ視線を戻す。
「今回、奴らはその八十六人を利用している」
「そうでしょうね」
「何に使う」
瑠々は村の奥にある旧分校へ視線を向けた。
「合唱」
*
村へ入って三分後、最初の銃声が響いた。
乾いた音とともに木の幹が弾ける。
「接触!」
カナメが即座に前へ出た。
「遮蔽!」
隊員たちが散開する。民家の二階窓から、黒い外套をまとった男が自動小銃を構えていた。
「武器を捨てろ!」
カナメの警告に対し、男は叫んだ。
「使徒の犬ども!」
再び銃口が動いた瞬間、上空から紫白色の光が落ち、男の手にあった銃だけを弾き飛ばした。
『一名無力化』
ゼルヴァードの声が通信へ入る。
「殺してないな」
御門が確認する。
『手首に軽い熱傷の可能性』
「十分だ。次も撃たれるまで攻撃するな」
『了解』
別方向の物置からは三人が猟銃を手に飛び出してきた。
警察特殊部隊が盾を展開する中、カナメは低い姿勢のまま濡れた土を蹴った。腐った落ち葉で足場が滑る。それでも射線を外しながら距離を詰め、一人目の銃身を逸らし、腹部へ膝を打ち込み、二人目の手首を取って地面へ投げる。
三人目が後退しながら叫んだ。
「近づくな!」
カナメはそこで止まった。
男の胸元に黒い装置が固定され、赤いランプが点滅している。
「爆発物!」
『下がれ!』
御門の声が飛ぶ。
男は笑いながら装置へ指をかけた。
「門は開く!」
指が押し込まれる。
だが何も起きなかった。
「……なぜ」
男が自分の胸元を見る。
『起爆信号を切断しました』
通信越しにエックスが答える。
『遠隔式でした』
カナメは男の腕を捻り上げ、そのまま地面へ押さえ込む。
「自分で死ぬ覚悟もないなら、他人を巻き込むな」
*
村の中央に建つ旧分校から、歌が聞こえていた。
子ども、大人、老人、女、男。八十六人分の声が重なり、同じ言葉を繰り返している。
『目覚めよ』
『目覚めよ』
『目覚めよ』
御門が足を止める。
「本人たちの声か」
「違う」
瑠々は即答した。
「声だけ借りてる。この人たちは、そんなこと言ってない」
旧分校の窓越しに、十数名の信徒が見える。
床には黒い装置が並べられ、その中央には白い石でできた円環が置かれていた。輪の内側から海水が溢れているが、その水は床を濡らすだけで校舎の外へ流れ出してこない。
現実の水ではない。
夢の海。
御門が尋ねる。
「突入できるか」
「待って」
「理由」
「撃てば夢の人たちまで壊れる。この儀式装置と繋がってる」
御門は即座に通信を開く。
「射撃停止。建物を封鎖しろ」
戻ってきたカナメが問う。
「どうする」
「中へ入る」
「誰が」
「私」
「一人で?」
瑠々は答えずに学校を見る。
御門が言った。
「夢側は君がやれ。地上側は俺たちがつく」
瑠々が彼を見る。
「足手まといになるわよ」
「なら外までだ」
「……頑固ね」
「今さらだ」
*
同じ頃、GTG支援室では、ナギの前に八十六艘の青い紙舟が浮かんでいた。
「いっぱい……」
水面にカイの姿が映る。
『これ、手紙じゃない』
「じゃあ何?」
『夢』
一艘の舟が開き、文字ではなく映像が現れる。
古い村の朝。
母親が味噌汁を作り、子どもが靴下を探し、父親が新聞を畳んでいる。どこにでもある普通の日常だった。
しかし、その途中から映像が黒く染まる。
『目覚めよ』
ナギは顔をしかめた。
「これ、途中から変」
『うん。誰かが夢の最後に同じ言葉をくっつけてる』
エリがナギの肩へ手を置いた。
「無理に全部見なくていいわよ」
「でも」
「見るなら、一人で全部見ない」
ナギはそこでラナを思い出した。
一人で全員の名前を背負い、自分自身の名まで消しかけた少女。
「うん」
ナギは通信を開く。
「エックス」
『聞こえています』
「一人ずつ分けて」
『共憶環を使用しますか』
「うん。みんなに全部覚えてもらうんじゃなくて、この人が本当は何を見てたか、少しずつ」
『了解しました』
タクヤの声も別回線から入る。
『いいと思うよ』
「変な叔父さん」
『呼び方が完全に定着したね』
エリが即座に言う。
「タクヤ、今は仕事」
『はい』
共憶環が開く。
GTG内の任意受領者、シャンバラの夢路、ムーの記憶保持者へ、八十六人の夢が少しずつ分散されていく。
ナギが一艘を開く。
そこには小さな少女がいた。
『明日、雪だるま作る』
ナギが呟いた。
「この子、神様起こしたいなんて言ってない」
『うん』
次の舟。
老人。
『明日は屋根の雪を下ろさないとな』
次は女性。
『娘へ電話する』
その次。
『犬の散歩』
『牛乳を買う』
『仕事へ行く』
『学校へ行きたくない』
ナギはそこで止まった。
「これ、ちょっと分かる」
エリが横を見る。
「算数」
「今その話しない」
それでも少しだけ笑い、ナギは真剣な表情へ戻った。
「この人たちの声、返そう」
*
旧分校の扉へ瑠々が手をかけると、冷たい木材の感触ではなく、海底の石に触れているような冷たさが掌へ伝わった。
「開けるわよ」
「待て」
御門が彼女を止める。
「何」
「これを持て」
差し出されたのは小さな茶葉袋だった。
瑠々が見る。
「……タクヤ?」
「帰還目印だ」
「あなたが渡すの」
「現場にいるのは俺だ」
瑠々は袋を受け取り、少しだけ眉を寄せた。
「似合わない」
「知るか」
扉が開く。
潮と腐った藻の匂いに、古びた木造校舎の湿気が混じっていた。
廊下の途中には垂直に立つ海面があり、その向こう側に教室が見える。黒い外套の信徒たち。その中央に、白い仮面をつけた男が立っていた。
告潮者。
「来たか」
瑠々の目が冷たくなる。
「あなた」
告潮者は五つ星を刻んだ杖を立てた。
「九頭龍瑠々」
「その名前を呼ばないで」
「なぜ」
「嫌いだから」
「私が?」
「声が」
瑠々の後ろで御門が小さく言う。
「そこなのか」
「御門、黙って」
告潮者は仮面の奥で笑ったようだった。
「神の唯一の使徒。多くの者が、その座を羨んだ」
「知らない」
「神に選ばれた人間」
「違う」
瑠々は垂直の水面へ一歩踏み込む。身体は濡れない。
「私は助けられただけ」
「同じことだ。力を与えられ、命を分けられ、怪物どもがお前へ傅く。それを選ばれたと呼ばず、何と呼ぶ」
瑠々の目に、はっきりとした苛立ちが浮かんだ。
「だから、あなたたちは嫌いなの」
告潮者は黙る。
「相手がしてくれたことを、全部自分の価値へ変える。助けてもらったから偉い。力をもらったから特別。違う」
瑠々は静かに続ける。
「借りてるの。私が勝手に使っていい力じゃない」
*
告潮者が杖を床へ打ちつけた。
白い輪が光る。
『目覚めよ』
八十六人の声が重なった。
『使徒を捨てよ』
『新たなる声を聞け』
瑠々の身体が大きく揺れる。
「っ……」
御門が一歩進んだ。
「九頭龍」
「来ないで!」
瑠々の周囲を漂っていた黒い水が崩れ始め、遠い海底都市や深きものたちとの接続が一瞬だけ薄くなった。
告潮者が淡々と言う。
「神と使徒の間にあるものは、結局認識だ。神がお前を使徒と認め、配下がお前を使徒と認め、お前自身がお前を使徒と認める。ならば、それを上書きすればいい」
『偽り』
『瑠々ではない』
『使徒ではない』
『偽り』
八十六人分の声が、瑠々から名前と役割を剥がそうとする。
本人たちが望んでもいない言葉を使い、神との関係を別の形へ塗り替えようとしている。
「エックス!」
御門が叫ぶ。
『解析中です!』
エクスキューショナーの声も重なる。
『旧式選定符号を確認』
「止められるか」
『符号単体なら可能です。しかし八十六人の夢が媒体になっています』
「夢を壊せない」
『はい』
告潮者は杖を持ち上げた。
「使徒など必要ない。神はすべての者へ開かれるべきだ」
瑠々は苦しそうに顔を上げた。
「……あの方を」
「何だ」
「公共施設みたいに言わないで」
御門が一瞬、何とも言えない顔になる。
告潮者は構わず続けた。
「神は人類すべてのものだ」
「違う。誰のものでもない」
「ならばお前も退け」
「私は所有してない。そばにいるだけ」
白い輪の光がさらに強くなり、黒い水が薄れていく。
*
その頃、GTG支援室でナギが突然顔を上げた。
「分かった!」
『何がですか』
エックスが問う。
「この人たち、同じ夢じゃない」
『はい』
「なのに最後だけ同じにされた」
カイも気づく。
『住所を書き換えられた手紙みたい』
「うん。じゃあ元に戻せる」
『どうやって?』
タクヤが聞く。
「宛先じゃなくて、送り主を見る」
エックスが一瞬黙った。
『……なるほど』
選定機関も、カルトも、違う人間を同じ分類へまとめる。
八十六人は最初から一つの合唱ではない。
一人ずつ名前があり、一人ずつ違う明日を持っていた。
「名前」
ナギが言う。
カイは郵便局の記録棚を開いた。
『ある!』
住民名簿、手紙、年賀状、日記、夢に残った呼称。完全ではないが、一人ずつを区別できるだけの記録は残っていた。
『個別呼称へ復元します』
エックスが共憶環を開く。
『合唱処理を解除』
エクスキューショナー。
『シャンバラへ接続するよ』
タクヤ。
八十六枚の白い花弁が、一斉に開いた。
*
『目覚めよ』
重なっていた声が崩れる。
『目覚――』
そこへ、別の声が戻ってくる。
『明日、雪だるま作る』
告潮者が止まる。
「何」
『娘へ電話する』
『犬の散歩』
『屋根の雪下ろし』
『学校行きたくない』
『朝ごはん』
『牛乳』
八十六人が、それぞれ別の声を取り戻していく。
同じ命令を唱える合唱ではない。
御門の通信が入る。
『地上組だ』
続いてナギ。
『勝手にみんな同じにしないで!』
瑠々が顔を上げる。
足元へ黒い水が戻ってきた。
告潮者が杖を振る。
「まだ――」
その瞬間。
教室の奥、海より深い場所から、眠そうな声が聞こえた。
『るる』
告潮者が固まる。
瑠々の目が大きく開いた。
「……起きないでって」
『るる』
白い輪が震える。
『いる』
瑠々の唇が、ほんの少し揺れた。
「いるわよ」
『ねむい』
「寝て」
『うるさい』
「今片づける」
告潮者が声を荒らげた。
「なぜだ! 認識を切った! 使徒という定義を壊したはずだ!」
瑠々はゆっくり立ち上がる。足元はまだ不安定だったが、もう目は揺れていない。
「定義?」
黒い潮が床へ広がる。
遠い海の向こうで、一つ、十、百と無数の気配が膝をつく。
『使徒』
瑠々は告潮者を見る。
「あの方が私を覚えてる。私も、あの方を覚えてる。それだけよ」
告潮者が杖を振り上げる。
「なら、その記憶を――」
「触るな」
瑠々の声とともに黒い潮が一気に男へ迫る。
しかし飲み込みはしない。殺しもしない。影は告潮者の四肢へ絡みつき、動きだけを奪った。
「っ!」
「九頭龍!」
御門が声を上げる。
「殺してない」
「確認しただけだ」
「ほんと?」
「今はな」
瑠々が指を鳴らす。
教室の窓、廊下、天井に広がった黒い影から、深きものたちが次々と姿を現した。
それを見た信徒たちは歓喜する。
「御使い!」
「神の眷属!」
「我らを――」
その声が途中で止まる。
深きものたちは誰一人として信徒を見ず、一斉に瑠々へ頭を垂れた。
『使徒』
信徒たちの顔が固まった。
「……え」
『命を』
瑠々は冷たく命じる。
「人間を殺すな」
『仰せのままに』
「武器を取り上げて」
『承知』
一人の信徒が叫ぶ。
「待て! 我々は神の信徒だ!」
深きものはまったく反応しない。
瑠々が疲れた顔で言った。
「知らない。本人たちに聞けば?」
一体の深きものが男の自動小銃を爪で摘まみ上げ、そのままぐにゃりと曲げた。
男は言葉を失う。
瑠々が少し眉を寄せた。
「壊す必要あった?」
『危険』
「まあいいわ」
*
影に拘束されていた告潮者の仮面の奥から、笑い声が漏れた。
「確認できた」
瑠々の顔が変わる。
「何を」
「名前では切れない」
御門が低く聞き返す。
「何だと」
「神と使徒の接続だ」
告潮者の身体が白い粒子へ変わり始める。
カナメが叫ぶ。
「投影体!」
告潮者は静かに続ける。
「ここにいる私は、渡り潮から借りた形にすぎない」
瑠々が黒い影を締める。
「逃がさない」
「逃げる必要はない。目的は済んだ」
仮面の奥に、あの疲れた人間の目が見えた。
「お前が名だけで使徒なのか、それとも神自身に覚えられているのか。試した」
瑠々の瞳が冷え切る。
「八十六人を使って?」
「必要な検証だった」
その瞬間、御門が呼ぶ。
「九頭龍」
「分かってる!」
瑠々は拳を握った。
怒りに任せて殺さない。
告潮者はその様子を見ながら言った。
「次は名ではない」
身体の半分が消えていく。
「夢そのものを分ける」
「神が見る夢と、使徒が見る夢を」
「それでも、お前たちが繋がっていられるか」
「待て!」
瑠々が手を伸ばす。
だが告潮者は白い粒子となって消えた。
*
その後、残った信徒たちの制圧には十分ほどしかかからなかった。
死者なし。
重傷者二名はいずれもカルト側。警察官とGTG職員にも軽傷者が出たが、生命に関わる状態ではない。
そして最後に残ったのが、八十六人の夢だった。
「どうなる」
御門が聞く。
旧分校の床へ座り、壁へ背を預けた瑠々が答える。
「もう合唱には戻らない」
「本人たちは」
「身体はもうない」
「分かっている」
「でも」
瑠々は教室を見た。
そこには、薄く透けた八十六人が立っていた。
老人、子ども、夫婦、学生。
もう誰一人として「目覚めよ」とは言っていない。
一人の少女が窓の外へ手を伸ばす。
『雪……』
外には雪など降っていない。
彼女が見たかった、あの日の次の朝。
『シャンバラ側から出口を作れる』
タクヤの声が聞こえる。
瑠々が端末を見る。
「どこへ」
『目覚める場所じゃない。身体はもうないから。ただ、同じ夢を延々繰り返す状態からは離れられる』
御門が尋ねる。
「死者を送るということか」
『近いけど、断定はしないよ。僕たちには、その先が何かまでは分からないから』
瑠々は少し考えた後、静かに頷く。
「……それでいい」
白い花弁が教室へ入ってくる。
一枚、また一枚。
八十六人それぞれに、一つずつ違う道が開いた。
少女が花弁を見る。
『朝?』
瑠々は答えようとして、やめた。
分からない。
だから、分かったふりはしない。
「分からない。でも、ここじゃないところへは行ける」
少女は少し考えた。
『雪ある?』
「あるかもしれない」
『ないかも?』
「うん」
少女は笑った。
『じゃあ見に行く』
花弁の向こうへ歩いていく。
その後を、屋根の雪を心配していた老人、娘へ電話する予定だった女性、学校へ行きたくなかった子ども、犬の散歩や朝食や牛乳のことを考えていた人々が、それぞれ違う日常を持ったまま進んでいく。
最後の一人になった老人が、瑠々の前で止まった。
『あんた』
「何」
『前にも来たか』
瑠々の目が少し大きくなる。
「……来た」
『遅かったな』
「うん」
『今回も』
瑠々の指が震える。
「うん」
老人は少しだけ笑った。
『でも、来たな』
瑠々は答えられなかった。
老人は白い花弁の向こうへ歩き、その姿も静かに消えていった。
教室から人影がなくなると、山の底で鳴り続けていた海の音も、ようやく少しずつ遠ざかっていった。
*
夜明け前。
村の外に停められた救急車両の後部へ瑠々が座っていた。
身体に怪我はないが、精神負荷は大きい。
御門が紙コップを差し出す。
「飲め」
瑠々がそれを見る。
「あなたが淹れた?」
「タクヤだ」
「なら飲む」
「俺だったら?」
「考える」
「失礼だな」
瑠々は一口飲む。
「普通」
『よかった』
通信越しにタクヤが喜ぶ。
御門が呆れた。
「毎回その評価で喜ぶな」
そこへカナメが戻ってくる。
「確保完了」
「人数」
「六十八。逃走二名はモー子が見つけた」
御門が顔を上げる。
「またか」
「林道で立ち往生していた」
遠くの林道では、倒木とモー子の間に挟まれた逃走者二人が両手を上げている。
「もー」
瑠々がぼそりと呟く。
「ほんと何なの、あの牛」
「俺に聞くな」
そこへゼルヴァードから通信が入る。
『海外拠点の儀式反応が減少している』
「数は」
『二十九から十七』
「かなり減ったな」
エックスも続ける。
『深きものたちが夢域側から強制通信を遮断した影響です』
瑠々は紙コップを持ったまま言った。
「ちゃんと仕事してる」
御門が彼女を見る。
「君の命令だろう」
「そうだけど」
「なら信用しろ」
瑠々は少し意外そうに御門を見た。
「あなた、たまに良いこと言うわね」
「たまには余計だ」
*
国立国会図書館地下管理区域。
午前五時十八分。
安藤萌亜が目を覚ました。
「……カレー」
隣のリオナも目を開ける。
「寝言?」
「夢で食べてた」
「食べられた?」
「直前で起きた」
「かわいそう」
休憩室の扉が開き、タクヤが顔を出した。
「おはよう」
「今何時?」
「五時十八分」
「寝すぎた!?」
「ちゃんと寝たんだよ」
萌亜が飛び起きる。
「北海道!」
「終わった」
リオナも身体を起こした。
「瑠々は?」
「無事」
「御門さんは?」
「無事」
「カナメさんは?」
「無事」
「ゼルヴァード」
「無事」
「モー子」
「一番元気」
萌亜はようやく安心し、もう一度枕へ身体を沈めた。
「よかった……」
タクヤが少し笑う。
「ちゃんと任せられたね」
「うん」
萌亜は天井を見ながら呟く。
「自分が何もしなくても、みんな戦ってるんだね」
「そうだよ」
「変な感じ」
「でも、その方がいい」
タクヤは穏やかに言った。
「萌亜ちゃん一人がいないと何もできない防衛網なら、それは防衛網じゃないから」
萌亜はしばらく黙った。
「チョベリグ」
「それでいいの?」
「最高評価」
布団の中からリオナが言う。
「タクヤさん、受け取らなくていいよ」
「判断保留にしておくね」
*
午前六時。
全員が通信会議へ揃った。
北海道組は現地。
萌亜たちは地下管理区域。
ナギは姫咲家から参加しており、まだ少し眠そうだが、机の上には新しい紙舟が置かれている。
御門が報告を始めた。
「北海道拠点は制圧した。告潮者は投影体で、逃走している。カルト側の目的は、九頭龍とルルイエ側存在との接続試験だった」
萌亜が顔をしかめる。
「瑠々ちゃん、実験されたの?」
『言い方が腹立つけど、そう』
「大丈夫?」
『大丈夫』
「手」
瑠々が一瞬止まる。
『……震えてない』
「よし」
『何であなたまで確認するの』
リオナが笑う。
御門は続けた。
「もう一つある。奴は、次は名前ではなく夢そのものを分けると言った」
瑠々の表情が硬くなる。
エックスが言う。
『意味は現在解析中です』
エクスキューショナーも続ける。
『しかし、ルルイエ内部へ進まなければ確認できない可能性が高い』
萌亜が尋ねる。
「じゃあ」
瑠々は指先に黒い水面を浮かべた。
「次は門の内側へ行く」
萌亜とリオナの顔が変わる。
これまでは夢域最外周。
次はいよいよ、門の向こう。
ルルイエそのものの夢へ入る。
「昨日までは客だった」
瑠々は二人を見た。
「次からは夢の中へ入る」
萌亜が聞く。
「違いは?」
瑠々は少しだけ間を置いて答えた。
「帰る場所を忘れた時、向こうでは誰も教えてくれない」
萌亜の胸の奥でヨルが目を覚ます。
『怖い』
「うん」
リオナが萌亜の手を握った。
その時、机の上にナギから一艘の紙舟が届く。
萌亜が開いた。
『地上は大丈夫』
その下に、もう一文。
『帰ってきたら、分からなかったことも教えて』
萌亜は紙を大切に折り直す。
「了解」
ムーから渡された潮は、今度こそ眠る都市の門へ向かおうとしていた。
第44話は、地上側を中心に進みました。
北海道の廃村に残されていたのは、八十六人の住民の夢です。
彼らは全員が同じ夢を見ていたわけではありません。
雪だるまを作りたかった子ども。
娘へ電話するつもりだった人。
屋根の雪を気にしていた老人。
学校へ行きたくなかった子ども。
犬の散歩や朝食、牛乳のことを考えていた人。
一人ずつに別の日常がありました。
告潮者たちは、その夢の最後だけを書き換え、八十六人を「神を起こせと願う一つの合唱」へ変えていました。
それを崩したのがナギとカイ、共憶環、そして地上に残った仲間たちです。
一つにされた声へ、もう一度それぞれの名前を返す。
これは告潮者が掲げる「すべてを一つの夢へ戻す」という思想に対する、地上側からの明確な反証にもなっています。
また、瑠々とクトゥルフの関係も少し明らかになりました。
告潮者は「使徒」という肩書きや認識を崩せば、瑠々と神を引き離せると考えました。
しかし、向こう側から返ってきたのは、眠そうな「るる」の一言でした。
肩書きより先に、相手そのものを覚えている。
告潮者が次に狙うのは、その関係を成立させている「夢」そのものです。
一方で、萌亜とリオナが眠っている間にも地上の仲間たちは戦い、事件を解決しました。
誰か一人がいなければ何もできない防衛網にはしない。
ムーで得た考え方が、地上側の行動にも少しずつ根づいています。
そして次はいよいよ、石門の内側。
今度はルルイエの外から夢を見るのではなく、その夢の中へ入ります。
帰る場所を覚えていられるうちは、まだこちら側です。